「―ああ、そうそう。ねえ、永琳」
「はい、姫」
ふと主の輝夜が言うのに、永琳は答えて言った。
「おおどしまって知っている?」
ぴくり、と永琳の穏やかな表情が動いたが、おそらく気のせいだろうと思わせるぐらいには、それは微弱なものだった。笑顔を保ったまま、主に笑い返す。
「…おおどしま、ですか?」
「ええ。大戸島(おおどしま)。
日本の近海にある島でね。とても自然が豊かなところなの。島の領民は、近海で取れる魚や貝などを主な特産として、貴重な収入源にしているそうよ。戦前までは医者も碌にいなくてねえ。長い嵐の時には冗談にもならないほど苦労するようだったそうよ。つい最近、島の古い連絡船が廃止されて、新しい船体がやってきたというのだけど、その模様が偶然テレビで紹介されて、観光客が増えたらしいわ。収入が増えたのはいいけれど、騒がしくなったって、島の古い人たちは複雑なのだそうよ」
「そうなんですか」
永琳は柔らかな笑顔で答え、ふと思いつくように続けて言った。
「―ああ、そうそう。姫」
「なあに、永琳?」
「いきおくれ、というのをご存じですか?」
ぴくり、と硬直したように、輝夜の笑顔に不自然な陰が走ったが、それは一瞬だけですぐに消えた。かろやかな笑顔のまま言う。
「…いきおくれ? さあ?」
「ええ、小咄のひとつにですが、そういう題のものがあるのですよ。イキをくれ、という話なのですけど。
こういう話でございまして。あるところに、ひと組の母子がいたので御座います。母は年老いて、病の床に伏した身に、親思いのその息子。ある日のこと苦しげにうめきだした母親が、この息子を枕元に呼ばわってこういうのです。イキが。イキが食べたい。え。なんだっておっかさん。ああ、イキが食べたい。イキをくれ。イキをくれ。
このイキ、というのは俗称でして、一説にはなにやら、ちょっと食べ頃を過ぎた、シャモかなにかのことだと言われております。この小咄のある地方では、昔からこのイキがそこはかとなく有名でございまして。ともかく母親の必死の願いを聞いた息子は、あわてて家から飛び出し、近所の魚屋に向かうのでございます。おう、おやっさん。イキだ。イキをくれ。イキをくれ。なんだいハチじゃないかい。いったいどうしたい、イキをくれ、イキをくれ、だなんて血相変えて。 なんだもなにもないよ。うちのおっかさんが言ってんだよ。イキをくれ、イキをくれって苦しげにさ。ああ、いまにもぽっくりまいそうなんだ。なにそいつは大変だ。ああ、だがすまねえ。
イキはついさっき売り切れちまったところなんだよ。なんだって。ああ、お前さんとはちょうど入れ違いでさ。ついさっきでてった、クマんとこのおかみさんが買ってった。間が悪かったなっておい、どこいくんだよ。おい、ハチ。
慌てて魚屋を飛び出しましたハチは、知り合いのクマの女房の顔を追いかけ、なんとか三つばかり角を曲がったところで追いついてこう言います。おおい、クマとこの女房やい。イキをくれ、イキをくれ。ちょいと、誰がいきおくれだい。こちとらあんなのとでも、いちおうさんさんくどと決めこんじまった仲だよ、こんちくしょうめい。ああ、すまん。口がすべっちまった。イキをくれ。イキだよ。イキ」
「ねえ、永琳」
「なんでございましょうか、姫」
「話の途中でなんだけど、わかづくりって知ってる?」
「わかづくり、でございますか?」
「ええ」
「ええと、ちょっと存じませんわ」
「あらあら。永琳はなんでも知っているから、てっきり知っているのかと思っていたわ」
「そうですねえ。私もあんまり無駄な知識を肥やそうとは思わない方ですから…ところで、そのわかづくりというのはなんなのでしょう?」
「やあねえ。わかづくりとはわかづくりにきまっているじゃないの。わかづくりというのはね、言葉のとおり、ワカを作ることよ。だから、ワカ作り」
「はあ。ワカですか?」
「ええ。ワカ。イヌイットのあいだでは、アザラシの毛皮から作った帽子のことをこう、ワカ、と言うらしいわ。イヌイットの女性たちは、これをうまく作れるようになって初めて一人前の女として認められるのだそうよ。とくにすこし年齢のいった女性たちのなかには、ワカ作りの名人と呼ばれる人が何人かいてね。ワカ作りがとてもうまいのよ。ワカ作りがね」
「そうなのですか。ところで姫」
「なあに永琳?」
「いかずごけ、というのをご存じですか?」
「…さあ。よく存じないわねえ。なんなの? その、ええと。…それは?」
「いかずごけ、でございますよ。姫」
「ええ。分かっているわ。それはわざわざ繰り返して言う必要があるの? 永琳」
「いいえ。ちなみに、いかずごけというのはですね。苔の一種です。
正式名称はまたすこし違うのですが、苔だけに、暗くて湿気があって、ほどよくじめじめとしたところによく生えるのですね。それそのものにはこれといった薬用効果はないのですが、薬のつなぎのための材料としては、まれに使われます。おもに睡眠導入剤のひとつなどですかね。くわしい説明ははぶきますが、まあそれ以外には、光を吸って微弱な毒素を表面に浮き上がらせますので、食用にもできないということぐらいでしょうか。さしたる価値もみいだせないので、あまり着目されることも少ないのですが、知っているものには、それなりに重宝されていますね」
「なるほどねえ。ところで、永琳?」
「はい、姫」
「なんで、さっきから、喋る言葉が妙にばか丁寧な敬語ばかりなの?」
「これは異な事を。いつもどおりではありませんか?」
「そう? その割には、その顔に張りついた仮面のような笑顔が妙にさっきから不自然に映るのだけれど。」
「そうでございましたか? 気づきませんでした」
「ええ。もっと気安く話しましょう? 私たち、それはそれは長い付き合いじゃない。なにせ私の生まれたころから知っているんですものね? 永琳は」
「ええ。姫が寝小便を垂れていたころからよく知っておりますとも」
ばぢり、と不吉な音を立て、なにもない空間に火花が散った。その余波を受けるように、茶の間のものががちゃん! どたん、がしゃん! と、つぎつぎとひとりでにひっくり返った。ちゃぶ台についた二人の女がニコニコと笑い合うのを、かるい調子で横目に見つつ、黒髪フリルのウサミミ頭が、台所の方へと入っていく。
台所の方では、腕まくりしたワイシャツ姿の娘が、黙々と食材を刻んでいる。
「とあーす。鈴仙ちゃん。きょうの晩飯なーにと。うほっ鍋じゃん。私ときたら、超ー好物!!」
「なによ、またたかりにきたの? 食材たりないんだけど」
「こまいこと気にすんなよ。ところで優曇華ちゃんや」
「ちゃんてつけんな。なによ」
「茶の間のあれ、なにしてんの? 喧嘩?」
「みたいね。よく知らないけど。さっきからずっとやってるみたいよ。―ねえ、あなたちょっと仲裁とかしてくれない? このままだとご飯にもできないんだけど。主に場所的な意味で」
「嫌よ。あの二人、割ってはいると根深そうだし。ほっとけばそのうち止めるって。だいたい、喰わないんだったら私らだけで喰っちゃえばいいことじゃない。どうせあの二人組腹減っても死なないんだし。カップ麺でも喰っときゃいいのよ」
「それであんただけ師匠と姫に二重で怒られるんなら賛成したげるけど」
「優曇華ちゃん、それ私ちゃう。あんたや」
「殴っていいの?」
台所でほほえましいやり取りをかわす兎たちを尻目に、優雅な微笑みを浮かべた月の姫は、静かに拳をにぎりこんだ。
「ねえ、永琳?」
「はい、姫」
「おおどしま」
感情のこもらない輝夜の声に、永琳ははっきりと反論した。
「いきおくれ」
「―わかづくり」
「いかずごけ」
「誰が行かず後家よ!!!」
ばん!! とおもいきりちゃぶ台を叩いて輝夜が先にきれた。
「さっきからなに理不尽に怒っているのよ!! 怒られて当然でしょうが、人のもの勝手に捨てておいて!! それともなに、あなたったらそういう道理というものも、ろくに知らない女なわけ!?」
輝夜が怒鳴るのと同時に、永琳もとたんにちゃぶ台を叩いて怒鳴り返した。
「ものには言い方というものがあるでしょう!? こっちだって心から謝っているっていうのに、なに!? 冷血女だの、ドンにぶ女だのと、貴女はあんな押し花ひとつで、なに人に向かって好き勝手言ってるのよ!!」
「本当のことを言ったまででしょ!? いいこと永琳、そんなだからあなたには雅の心が足りないというのよ! この世のささやかな楽しみとは、趣なのよ、わびなのよさびなのよ、そういうの分かる!?」
「わかるわけないでしょ! あんな枯れっ葉見せられて、なにが『みやび』よ! 掃除の最中に見たら、勘違いして捨てたって仕様がないでしょう!?」
「つらっと本音を見せたわね、このどんにぶ女! あれはね、おおよそ二百年前に私が採集した、それはそれは貴重でたおやかな―」
「あなたが死んだらどうせただの塵よ!」
「死なないわよ!! ついに言ったわね、永琳! 言ってはならないことを!」
怒りに眉を跳ね上げた輝夜は、畳に立ち上がって従者に指を突きつけた。
「いいでしょう。今日という今日はちょっとはっきりさせましょう。前々から思っていたのよね。ちょっと貴女、主を主と思っていないところがあるんじゃないかってね!」
「あらあら。私のお心が伝わらないなど哀しいことですわ、姫。私はこんなにも深く貴女を思っているというのに…」
「怒りに眉を跳ね上げたような笑顔で言う台詞ではないわね、それは。まあいいでしょう。この際ちょうどいいから、はっきりとさせておきましょう。どちらが下でどちらが上かということをね。お互いの今後のためにもね」
「そうですねえ。姫のためを思いますと、少々心苦しくはありますけれど…」
ばちっばちばち、と無言で双方火花を散らしてから、輝夜が半眼で言った。
「表へ出なさい、永琳」
「上等でございますわ、姫」
すたすたと静かに茶の間を出ていく人外二人を見送って、やがて台所からワイシャツ姿の兎耳がひょこりと顔を出した。茶の間の様子を見渡して、準備を進めるなら、今のうちのようである。そう判断して黙々と簡易コンロに、鍋を用意して置く。
「うーし、どれどれ」
ちゃぶ台の回りにあぐらをかく白兎を「ほらあんたも手伝うの」とうながして、かちゃかちゃと食器類を運ぶ。
しばらくしてずずずずうずん!! と、轟音と共に永遠亭が揺れた。白兎は音と振動に反応はして見せたが、あとはそれだけでくあ、と手伝いもせずにあくびをもらした。
「んあー。平和ねー」
呑気な白兎の声と共に、いっそうはげしくなった振動と轟音が、室内を揺るがす。今日も竹林の永遠亭は、はげしく平和であった。
www激しく平和www
おおどしま?いきおくれだと?ちょっと表へ出ろw