霧雨魔理沙は実に聡明だった。
彼女は自身を蝕む非才というものを完全に、細部に至るまで理解していた。
平凡たる自身の能力が周囲との絶望的な距離をおそろしく正確に算出するのだ。
生来、普通であることに耐えられなかった彼女が二十余年もの歳月をすべて人間として使ったことは、本人にとって驚愕すべき事実である。だが、第三者の認識ではそうはならない。
真実はこうである。
八百万に加え百鬼、数多の種で構成されたこの郷の中で、彼女は最も人間らしい。
十の頃である。
気の向くままに森に入ってしまい、道もわからず極度の疲労から足を引き摺り、浮かぶこともできない身を嘆いた魔理沙はそこで妖精に出会ったのだ。彼女の目前では、自身とさほど姿形の変わらぬ華奢な肉体を持つ羽持ちどもが宙を自在に飛び交っていた。
楽しそうに。心底愉快そうに。この世の苦悩とは無縁であるように。自分はこんなにも地に這っているというのに!
木々で塗りつぶされた空からうっすらと夕日が射しこみ、舞い踊る妖精の羽がより透き通る。ガラスのように脆そうで、しかし幻想的だとも思えるその光景を、魔理沙の瞳孔は丸々飲み込もうとした。
そのとき、妖精の羽ばたきが微風となって魔理沙の眼球をそっと撫でた。とっさに、きゅっと目蓋を落とす。目蓋の裏は漆黒にまとわれ、わずかな痛みが熱のように広がっていくのを感じた。
そうして、不快な疼きが消え失せた頃、彼女の眼前にはすでに妖精の姿はどこにもなかった。
「どこ……?」
魔理沙は首を振り、次に身体をぐるりと回し、最後に足元を見た。目尻からは大粒のしずくが頬を伝い、あごの先で止まり、それから土に吸い込まれていった。
「うう、ううぅ……どこぉ? ねえ、ねえったら」
声は届かない。生来、特別に頑丈な肺の持ち主というわけではなかったとしても、正常な肉体くらいは彼女も持ち合わせていた。
だが、このとき彼女の周りを闇が隙間なく囲んでいた。何層にも積み重なったような暗闇が自分を腹の中に押し込めようとしているのだと彼女は感じた。
慌てて腕を何度も振るう。すると、次第に辺りの輪郭がぼうと浮かび上がった。だが、それだけだ。ぼんやりと見える程度で、夜は彼女を手放さなかった。
だから、魔理沙は音に意識を向けるしかなかった。木々の喚く声がすると思ったとき、冷たい風が彼女の肉体を無遠慮に突き抜けた。
葉が手を叩き、枝同士がはじけあう。吹きすさぶ風に真っ向から対抗しているかのようだった。自然は雄大だ。幹は折れず、枝はしなる。葉だけが死ぬが、大本は傷つかずに残り続ける。生き続けるのだ。
比べて魔理沙は、震えていた。身体の一番奥の深いところに穴をあけられたような、自分の中で血液以外のなにかが勢いよく噴出していくような感覚がすさまじい速度で広がり、彼女は皮膚を粟立てた。
そのとき、確かに彼女は実感した! 知識ではなく経験として、体内を這い回る血の由来を思い知ったのだ!
少なくともそれまで、魔理沙は自分こそが主人公であると頑なに信じていた。
凡愚は泥のように塗りつぶされた髪色をしているもので、輝かしい陽光の色合いと心地のよい触感を持つ自慢の髪を自覚した彼女は、雑多な周囲とは比較にならない特別であるべき存在こそ自分なのだと当然のように考えたのだ。
だが、どうだ。自身と同じ頃合でありながらその美しさを凌駕するものがいる。お粗末な自分とは比較にならない特別であるべき存在こそ彼女らなのだ!
結局、魔理沙は家のものに無事保護され、多少の説教と湯浴みの後、早々に寝床についたのだった。
そして、いつものように目覚める。昨日と変わらぬ一日をこなす。だが、魔理沙の心境は長い年月をかけたかのような変化を遂げていた。
価値を尊重するようになった。空を眺めることが多くなった。一般的な教養を嫌うようになった。同年代との関わりを持たなくなった。母親に普通でないものの教えを請うた。
挫折が彼女の精神を熟させた。実はあまりに早くなってしまったのだ。
胸のうちに澱のように積み重なる鬱々たる感情が彼女のちっぽけな体を突き出んと肥大を続け、好き勝手に、大いに、存分に、掻き乱した。
胸部に、あるいは頭の中で起こる鈍痛の波は、彼女が魔法を学び始めるまで続いた。
魅魔という外道の師を持ったことで、魔理沙のいわゆる凡人に対する嫌悪は日に日に増大していった。
魔理沙は聡明であり、また努力家でもあった。ただの脆弱な人間から魔法使いにまで自身の存在を昇華させたのだ。
しかし、学べば学ぶほどに師との溝を意識するようになった。持てる時間を費やしたとしても、否、仮に無限であろうと自分の時間であればどれほどすり減らしたところで埋められない溝であると、理解した。
どのような魔法であれ、人並みに覚えられる。使いこなせる。だが、上手いという程度が限界で、飛びぬけて優秀だと師から評されることはなかった。
ときどき、魔理沙は発作のように考える。
魔法使いにさせたのはただの時間と努力であり、師の教えであり、天の気まぐれであり、つまり私でなくともできてしまえたのではないか、と。
途端に戦慄が襲う。そして、身体の中心にある一番やわらかい部分がぎりぎりと捻られるような気分になるのだ。
その他大勢。
これに属していることが魔理沙にとって骨をも砕く重荷となっていた。魔法を学んだところで彼女の劣等意識は少しも浮かばなかったのである。
凡庸でいられない。逸脱したい。外れたい。
そう、魔理沙は願わずにはいられなかった。
「あこがれの魔法使いになれてよかった?」
「ええ、魅魔様。私は幸せです」
「そうかい。だけど、あんたは絶対魔女にはなれないよ」
師と言葉を交わした翌日、魔理沙は普通の魔法使いと名乗りだした。
魅魔はそれを聞いて、つまらなそうに頷いた。
弾幕という表現の場が用意されたことで、魔理沙の中で昔の自分が息を吹き返した。
異変があれば顔を突っ込み、膨大な熱と光を必殺とし、そして最速を自称した。幻想郷の仕組みの範疇の外でありながら、彼女は異変の解決をし出したのだ。
見える妖怪を打ち倒し、黒幕をあぶり出し、異変を解決する。巫女でもなんでもないただの人間が幻想郷をかき回した。
しかし、これはなにも不思議なことではない。
妖怪が妖怪たらしめるものは動機であり、信条であり、生き様であり、暴力である。特に身体能力は弱小な人間とは比べるまでもない。その妖怪を制する魔理沙がこのルールの恩恵を最も受けている一人であったというだけなのだ。
そして、彼女にはその自覚がある。
「おっと、そこまで。お預けだ」
あるとき、魔理沙は妖怪の食事の機会を弾幕ごっこの勝利によって潰した。
理由はない。気晴らしであったのかもしれないし、ご馳走であった少女を救いたかったのかもしれない。とにかく彼女は邪魔をした。妖怪の精神を削り取った。
名もなき哀れな妖怪は魔理沙をただ睨みつけた。
敗北者にはなんの余地もなく、負け犬は口を閉ざすのが礼儀である。睨みつけることしかできなかった妖怪はせめて、眼球がやわらかさを失ったとしても視線でわからせようとした。
魔理沙はその性質から他人の気配に敏感であった。特にそれが自分に向けられるものであれば、どんな状態であれ即座に理解する。
このときもまた、彼女は鋭かった。
歴然たる恐怖! 己が心中を犯す熱烈な視線! 存在をかけたおぞましい思念! 矜持のための妖怪の行いが彼女に与えた影響は、考えるまでもなく甚大であった。
「……はん。ただ見てるだけしかできないのか」
その通りだった。ただ見ているだけ! だがそれだけで十分なのだ、妖怪には!
彼女はまたしても明確な違いというものを理解させられた。その弱さを悟られないように、けして悟られないようにゆっくりと息を止め、その場を去った。
妖怪の顔はもう見えない。もう覚えていない。だが、気配はいつまでも感じられ、また忘れられなかった。
そして、あの日の妖精のことさえ思い出すのだ。
魔理沙はついに答えを得た。やはり非才であったのだと自らを断じたのだ。
彼女のその苦痛がわかるだろうか。否、誰もわかるはずがない!
彼女は裏切られた!
普通を嫌う自分から裏切られ、主人公である自分から裏切られ、魔法使いである自分から裏切られ、信頼する自分から裏切られた!
信頼とはこの世で最も心地のよい重荷であり、裏切りとはこの世で最も不愉快な救済である。彼女は七日七晩を費やし、自らの才覚をようやく見つけ出したが、これが裏切りとなるとは夢にも思わなかったであろう。
彼女には人間である才覚があった。
欲しいものがあれば奪わずに借りる。浮かぶことなく箒でもって空を飛ぶ。道具を使うことで戦力の差を埋める。努力でもって才能を潰す。建前はどうあれ、彼女は人間であることに知らず努めていた。
人間の視座に立つことをやめ、また普通の、ただの人間のらしさから距離をとるだけで、えもいわれぬ充足感が身体に漲るはずだった。 だが、魔理沙の幸福はただ生きることを楽しむことだった。
人間らしく、朝は陽光と鳥のさえずりに喜び、夜は星をちらりと眺めてから眠る。惨めであろうとも、死ぬまで生きる。生きることを盛大に楽しみ、それから終わる。
それが人の幸福というものだ。そして魔理沙の幸福なのだ。
至った結論を満遍なく見通し、それから魔理沙は山に向かった。
山は自然がよく表された造形である。自然は生物に牙をむく。それに期待してのことだった。
手ごろな高さの滝を見つけ、魔理沙は微笑んだ。
上の水流に足を浸す。力を抜けば、それだけで瀑布に吸い寄せられる。だが、それでは駄目なのだと魔理沙は考えた。自分の力で向かうことが必要なのだと。
そうして、足で水を力強く掬い上げる。
その足が地を踏みしめることなく、断末魔をあげながら白く塗りつぶされる滝水に倣うことを知った上で。
「せめて、最期は人間らしく」
魔理沙は実際に口に出してみて、その中身のなさに反吐が出そうになった。
実に胡散臭い。賢者すらも凌駕する。
彼女はそのまま夢中で足を下ろした。
「わっ」
空を飛ぶ術を得てからというものの浮遊感には慣れていた。だから、自身を撫でる風圧や布の落ち着きのなさなど驚くに値しない。しかし、落下する感覚はまったく初めてのものだった。
堕落する無力感。どうすることもできない身体の冷たさ。どこまでも落ちていける無限の時間に襲われ、彼女は思わず声をあげた。
命のともしびがじっとりと水気を孕むのを感じた。自分の存在が時間をかけて薄らいでゆくおそるべき感覚。だが、それも彼女の今までの苦痛を考えれば取るに足りない問題であったのだろうか。
のんびりと近づく滝壺をじっと見つめながら彼女は考える。
水面に叩きつけられ、そのまま沈み、死体は見付からず形式上の行方不明となるのだろうか。それはなんと人間らしいことか。私は終わるまで人間でしかなかったということか!
そのとき、一陣の風が舞った。
撫でたものを叩き落す気概の感じられるような強風であった。魔理沙の硬直していた肉体が崩れ、彼女は大きくバランスを崩した。
するりと。
彼女の身体が何者かの手で運ばれたかのように落下の中を突き進んだ。
そうして、その眼前にあるものがなにか認識する前に魔理沙は終わった。
『せめて、最期は人間らしく』
魔理沙の言葉は叶わなかった。
あるいはこの結果に彼女は喜んだのかもしれない。
硬く鋭い岩によって頭蓋を割られ原型などわからぬほどに肉片が飛び散ったその死に様は、彼女の才覚をもってしても、とても人間とは思えぬものだった。
彼女は自身を蝕む非才というものを完全に、細部に至るまで理解していた。
平凡たる自身の能力が周囲との絶望的な距離をおそろしく正確に算出するのだ。
生来、普通であることに耐えられなかった彼女が二十余年もの歳月をすべて人間として使ったことは、本人にとって驚愕すべき事実である。だが、第三者の認識ではそうはならない。
真実はこうである。
八百万に加え百鬼、数多の種で構成されたこの郷の中で、彼女は最も人間らしい。
十の頃である。
気の向くままに森に入ってしまい、道もわからず極度の疲労から足を引き摺り、浮かぶこともできない身を嘆いた魔理沙はそこで妖精に出会ったのだ。彼女の目前では、自身とさほど姿形の変わらぬ華奢な肉体を持つ羽持ちどもが宙を自在に飛び交っていた。
楽しそうに。心底愉快そうに。この世の苦悩とは無縁であるように。自分はこんなにも地に這っているというのに!
木々で塗りつぶされた空からうっすらと夕日が射しこみ、舞い踊る妖精の羽がより透き通る。ガラスのように脆そうで、しかし幻想的だとも思えるその光景を、魔理沙の瞳孔は丸々飲み込もうとした。
そのとき、妖精の羽ばたきが微風となって魔理沙の眼球をそっと撫でた。とっさに、きゅっと目蓋を落とす。目蓋の裏は漆黒にまとわれ、わずかな痛みが熱のように広がっていくのを感じた。
そうして、不快な疼きが消え失せた頃、彼女の眼前にはすでに妖精の姿はどこにもなかった。
「どこ……?」
魔理沙は首を振り、次に身体をぐるりと回し、最後に足元を見た。目尻からは大粒のしずくが頬を伝い、あごの先で止まり、それから土に吸い込まれていった。
「うう、ううぅ……どこぉ? ねえ、ねえったら」
声は届かない。生来、特別に頑丈な肺の持ち主というわけではなかったとしても、正常な肉体くらいは彼女も持ち合わせていた。
だが、このとき彼女の周りを闇が隙間なく囲んでいた。何層にも積み重なったような暗闇が自分を腹の中に押し込めようとしているのだと彼女は感じた。
慌てて腕を何度も振るう。すると、次第に辺りの輪郭がぼうと浮かび上がった。だが、それだけだ。ぼんやりと見える程度で、夜は彼女を手放さなかった。
だから、魔理沙は音に意識を向けるしかなかった。木々の喚く声がすると思ったとき、冷たい風が彼女の肉体を無遠慮に突き抜けた。
葉が手を叩き、枝同士がはじけあう。吹きすさぶ風に真っ向から対抗しているかのようだった。自然は雄大だ。幹は折れず、枝はしなる。葉だけが死ぬが、大本は傷つかずに残り続ける。生き続けるのだ。
比べて魔理沙は、震えていた。身体の一番奥の深いところに穴をあけられたような、自分の中で血液以外のなにかが勢いよく噴出していくような感覚がすさまじい速度で広がり、彼女は皮膚を粟立てた。
そのとき、確かに彼女は実感した! 知識ではなく経験として、体内を這い回る血の由来を思い知ったのだ!
少なくともそれまで、魔理沙は自分こそが主人公であると頑なに信じていた。
凡愚は泥のように塗りつぶされた髪色をしているもので、輝かしい陽光の色合いと心地のよい触感を持つ自慢の髪を自覚した彼女は、雑多な周囲とは比較にならない特別であるべき存在こそ自分なのだと当然のように考えたのだ。
だが、どうだ。自身と同じ頃合でありながらその美しさを凌駕するものがいる。お粗末な自分とは比較にならない特別であるべき存在こそ彼女らなのだ!
結局、魔理沙は家のものに無事保護され、多少の説教と湯浴みの後、早々に寝床についたのだった。
そして、いつものように目覚める。昨日と変わらぬ一日をこなす。だが、魔理沙の心境は長い年月をかけたかのような変化を遂げていた。
価値を尊重するようになった。空を眺めることが多くなった。一般的な教養を嫌うようになった。同年代との関わりを持たなくなった。母親に普通でないものの教えを請うた。
挫折が彼女の精神を熟させた。実はあまりに早くなってしまったのだ。
胸のうちに澱のように積み重なる鬱々たる感情が彼女のちっぽけな体を突き出んと肥大を続け、好き勝手に、大いに、存分に、掻き乱した。
胸部に、あるいは頭の中で起こる鈍痛の波は、彼女が魔法を学び始めるまで続いた。
魅魔という外道の師を持ったことで、魔理沙のいわゆる凡人に対する嫌悪は日に日に増大していった。
魔理沙は聡明であり、また努力家でもあった。ただの脆弱な人間から魔法使いにまで自身の存在を昇華させたのだ。
しかし、学べば学ぶほどに師との溝を意識するようになった。持てる時間を費やしたとしても、否、仮に無限であろうと自分の時間であればどれほどすり減らしたところで埋められない溝であると、理解した。
どのような魔法であれ、人並みに覚えられる。使いこなせる。だが、上手いという程度が限界で、飛びぬけて優秀だと師から評されることはなかった。
ときどき、魔理沙は発作のように考える。
魔法使いにさせたのはただの時間と努力であり、師の教えであり、天の気まぐれであり、つまり私でなくともできてしまえたのではないか、と。
途端に戦慄が襲う。そして、身体の中心にある一番やわらかい部分がぎりぎりと捻られるような気分になるのだ。
その他大勢。
これに属していることが魔理沙にとって骨をも砕く重荷となっていた。魔法を学んだところで彼女の劣等意識は少しも浮かばなかったのである。
凡庸でいられない。逸脱したい。外れたい。
そう、魔理沙は願わずにはいられなかった。
「あこがれの魔法使いになれてよかった?」
「ええ、魅魔様。私は幸せです」
「そうかい。だけど、あんたは絶対魔女にはなれないよ」
師と言葉を交わした翌日、魔理沙は普通の魔法使いと名乗りだした。
魅魔はそれを聞いて、つまらなそうに頷いた。
弾幕という表現の場が用意されたことで、魔理沙の中で昔の自分が息を吹き返した。
異変があれば顔を突っ込み、膨大な熱と光を必殺とし、そして最速を自称した。幻想郷の仕組みの範疇の外でありながら、彼女は異変の解決をし出したのだ。
見える妖怪を打ち倒し、黒幕をあぶり出し、異変を解決する。巫女でもなんでもないただの人間が幻想郷をかき回した。
しかし、これはなにも不思議なことではない。
妖怪が妖怪たらしめるものは動機であり、信条であり、生き様であり、暴力である。特に身体能力は弱小な人間とは比べるまでもない。その妖怪を制する魔理沙がこのルールの恩恵を最も受けている一人であったというだけなのだ。
そして、彼女にはその自覚がある。
「おっと、そこまで。お預けだ」
あるとき、魔理沙は妖怪の食事の機会を弾幕ごっこの勝利によって潰した。
理由はない。気晴らしであったのかもしれないし、ご馳走であった少女を救いたかったのかもしれない。とにかく彼女は邪魔をした。妖怪の精神を削り取った。
名もなき哀れな妖怪は魔理沙をただ睨みつけた。
敗北者にはなんの余地もなく、負け犬は口を閉ざすのが礼儀である。睨みつけることしかできなかった妖怪はせめて、眼球がやわらかさを失ったとしても視線でわからせようとした。
魔理沙はその性質から他人の気配に敏感であった。特にそれが自分に向けられるものであれば、どんな状態であれ即座に理解する。
このときもまた、彼女は鋭かった。
歴然たる恐怖! 己が心中を犯す熱烈な視線! 存在をかけたおぞましい思念! 矜持のための妖怪の行いが彼女に与えた影響は、考えるまでもなく甚大であった。
「……はん。ただ見てるだけしかできないのか」
その通りだった。ただ見ているだけ! だがそれだけで十分なのだ、妖怪には!
彼女はまたしても明確な違いというものを理解させられた。その弱さを悟られないように、けして悟られないようにゆっくりと息を止め、その場を去った。
妖怪の顔はもう見えない。もう覚えていない。だが、気配はいつまでも感じられ、また忘れられなかった。
そして、あの日の妖精のことさえ思い出すのだ。
魔理沙はついに答えを得た。やはり非才であったのだと自らを断じたのだ。
彼女のその苦痛がわかるだろうか。否、誰もわかるはずがない!
彼女は裏切られた!
普通を嫌う自分から裏切られ、主人公である自分から裏切られ、魔法使いである自分から裏切られ、信頼する自分から裏切られた!
信頼とはこの世で最も心地のよい重荷であり、裏切りとはこの世で最も不愉快な救済である。彼女は七日七晩を費やし、自らの才覚をようやく見つけ出したが、これが裏切りとなるとは夢にも思わなかったであろう。
彼女には人間である才覚があった。
欲しいものがあれば奪わずに借りる。浮かぶことなく箒でもって空を飛ぶ。道具を使うことで戦力の差を埋める。努力でもって才能を潰す。建前はどうあれ、彼女は人間であることに知らず努めていた。
人間の視座に立つことをやめ、また普通の、ただの人間のらしさから距離をとるだけで、えもいわれぬ充足感が身体に漲るはずだった。 だが、魔理沙の幸福はただ生きることを楽しむことだった。
人間らしく、朝は陽光と鳥のさえずりに喜び、夜は星をちらりと眺めてから眠る。惨めであろうとも、死ぬまで生きる。生きることを盛大に楽しみ、それから終わる。
それが人の幸福というものだ。そして魔理沙の幸福なのだ。
至った結論を満遍なく見通し、それから魔理沙は山に向かった。
山は自然がよく表された造形である。自然は生物に牙をむく。それに期待してのことだった。
手ごろな高さの滝を見つけ、魔理沙は微笑んだ。
上の水流に足を浸す。力を抜けば、それだけで瀑布に吸い寄せられる。だが、それでは駄目なのだと魔理沙は考えた。自分の力で向かうことが必要なのだと。
そうして、足で水を力強く掬い上げる。
その足が地を踏みしめることなく、断末魔をあげながら白く塗りつぶされる滝水に倣うことを知った上で。
「せめて、最期は人間らしく」
魔理沙は実際に口に出してみて、その中身のなさに反吐が出そうになった。
実に胡散臭い。賢者すらも凌駕する。
彼女はそのまま夢中で足を下ろした。
「わっ」
空を飛ぶ術を得てからというものの浮遊感には慣れていた。だから、自身を撫でる風圧や布の落ち着きのなさなど驚くに値しない。しかし、落下する感覚はまったく初めてのものだった。
堕落する無力感。どうすることもできない身体の冷たさ。どこまでも落ちていける無限の時間に襲われ、彼女は思わず声をあげた。
命のともしびがじっとりと水気を孕むのを感じた。自分の存在が時間をかけて薄らいでゆくおそるべき感覚。だが、それも彼女の今までの苦痛を考えれば取るに足りない問題であったのだろうか。
のんびりと近づく滝壺をじっと見つめながら彼女は考える。
水面に叩きつけられ、そのまま沈み、死体は見付からず形式上の行方不明となるのだろうか。それはなんと人間らしいことか。私は終わるまで人間でしかなかったということか!
そのとき、一陣の風が舞った。
撫でたものを叩き落す気概の感じられるような強風であった。魔理沙の硬直していた肉体が崩れ、彼女は大きくバランスを崩した。
するりと。
彼女の身体が何者かの手で運ばれたかのように落下の中を突き進んだ。
そうして、その眼前にあるものがなにか認識する前に魔理沙は終わった。
『せめて、最期は人間らしく』
魔理沙の言葉は叶わなかった。
あるいはこの結果に彼女は喜んだのかもしれない。
硬く鋭い岩によって頭蓋を割られ原型などわからぬほどに肉片が飛び散ったその死に様は、彼女の才覚をもってしても、とても人間とは思えぬものだった。
どこまでも人間だったんだろうなぁ・・・
心に突き刺さる文章ですね
逸脱した死は彼女にとって救いとなったのか?
それとも、終わってしまった彼女にはもはや関係の無いことなのか
そりゃ誰だって非凡な存在になりたいですよ。
でもどうしようもない。非凡ってなろうと思ってなれるもんでもない。
こんな勝ち目のない戦いを描くなんて汚いなさすが天人きたない。
でも魔理沙がまったく救われないのが…。
つまり、この話は非凡な者による平凡な者に向けた嘲笑かもしれない
そうじゃなかったら脱帽モノ。
「そして誰もいなくなった」を読んでるところだからか、英書を日本語訳したものに似てるように感じた。
だからなんなの、って聞かれるとなにもないんですが。
素晴らしい文才だ……
そして解消できずに終わったァー!
いや、解消できないから矛盾なのか?
ま、自分の価値を無と断じるのも、慣れれば
心地好いものだけれど。
才能の無さからへの死は確かに人の生き方の一つではあるかもしれないが
魔理沙はそれだけで生きてる人間だったとは思えない
人間だからこそのつながりが魔理沙をつなぎとめる要因としてすっぽ抜けている気がして腑に落ちなかったかなぁ
人間から離れるには死ぬしかないとか
魔理沙は人間だよ
自惚れを極めた人間
謙虚でもなんでもない