りゅうりゅうと、眠る咲夜の体に音が満ちる。
咲夜はまだ浅い眠りの中にいる。
夢の中で咲夜は給仕の格好をして、空を飛び、大きな屋敷で家事に勤しんでいた。
とりとめのない、長い夢だった。
何かを探していたような気がする。
それは目が覚めるすこし前のこと。
記憶はすぐにもやに覆われた領域の向こうへ消えてしまう。
咲夜は半分まだ人間の気分のまま、キリキリと手足を伸ばした。
……おや、私の手はこんなだったろうか、暗くてよく見えない……、
深く深く茂った葉陰で、咲夜は天に突き出した八本の脚をしげしげと眺める。
真白と見えたそれらは歳月の汚れにうっすらと黄ばんでいる。
(ああ、そうだった)
咲夜は人間ではなかったのだった。そういえば。
思い出すと同時にひどい空腹を覚え、うんざりする。
最後に食事にありついてからもう何日も経っていた。
咲夜はひたすら眠かった。
餌を探して動き回る気もあまり起きない。
りゅうりゅう、とまたあの振動がやわらかい殻の内側に響いて、咲夜の小さな脳を揺らす。
人間流に言うならば、それは音だった。
耳のない咲夜は楽器のように体を響かせて、振動する外界を聞いていた。
音は足の先に巻きつけておいた一本の糸から始まって、起きろ起きろ働け働けとしきりに咲夜を呼んでいる。
この響きに集中しているとそわそわして、やたらに腹が減った。
りゅう、りゅうりゅう。
糸は数日前に死に物狂いで張った、ささやかな仕掛けへ繋がっている。
罠は単純きわまりないもので、枝の間を二、三往復もした後は、葉の茂る奥に潜んだ咲夜の元まで伸びている。
獲物をからめとる粘り気もない、ただ移動のためだけに使われる糸だった。
音は行きつ戻りつ、確実にこちらへ近付いていた。
何者かが仕掛けの上を歩いている。
(りゅうりゅう、りゅう)
それは狩りのはじまりを告げる音だった。
さきほどは、獲物がかかるのを待っている間に寝てしまったのだろう。
夢で探していたのは、さてはこの音であった、と咲夜はひとり得心して、気を抜いた途端つと音もなく一寸ほど下降した。
りゅうりゅう。獲物が近付いている。
飢えに疲れた体は咲夜の意思に関わらず勝手に眠りかけている。
狩りのために残された時間は、そう長くなかった。
す、す、とぶら下がっていた糸を逆さにたぐって、咲夜は枝の裏側に張り付く。
移動用という点がこの仕掛けのミソだった。
横着な同業者は他人の張った糸でもお構いなしに歩行路に選ぶ事がある。
今がその幸運な一瞬で、これを逃せば、次は目が覚める前に干からびているかもしれなかった。
身動きひとつせず、死んだように獲物を待つ。
やがて咲夜の鼻が花粉の匂いを嗅ぎつける。
りゅうりゅう、りゅうりゅう。
嗅ぎ慣れない花の匂いに知らず咲夜は浮き足立った。
どこか遠くにねぐらを持っていたのだろう、運のない獲物はすぐそばまで来ている。
(八歩、七歩、……)
体臭に気を遣わない連中は、たいてい動かない餌しか相手にしたことがないのだ。
楽な獲物だった。
きっとすぐ甘い肉にありつける。
(……六歩。あと六歩。)
(……ためらうな。怖くないよ。こっちへおいで、……)
警戒心というもののない、茂みにはそんな腑抜けが、少し前までたくさんたくさん網を張っていた。
罠にかかったふりをして、ご自慢の網を揺らしてやれば、餌はのこのこと向こうからやってきた。
咲夜は飢えることを知らなかった。
(五歩、四歩、そう、いい子だ。ここまでおいで……)
(もしかしたら、こいつが体臭に気が回っていないのは、病気か何かのせいなのかもしれなかった)
(飢えで唾液が干上がって、消毒もろくにできていないのかもしれなかった)
(病んだ同類を食べたところで、あとどれほど生き延びられるかもわからない)
(三歩。……)
それでも、どの道これを逃がせば、ぱさぱさに乾いて死ぬのだろう。
待つだけの体が、重くて、ひどく眠かった。
りゅうりゅう、りゅうりゅう。
鳴り響く、音が近すぎて、獲物がどこにいるのかわからない。
(……二歩、)
……知らない花の匂いがする……あと、一歩、……
「ああ、お前だったの」
脚をつまみあげられて、くしゃくしゃと咲夜の顎から獲物の体が抜け落ちた。
生きていれば咲夜より二回りほど大きかっただろう。
風に巻かれてひらひらと飛んでいく。
中身をあらかた吸い尽くされたそれは紙のように軽かった。
久々の食事に満足して、咲夜はうっかり眠りこけていたらしい。
確かにあったはずの殺戮の記憶はなかった。
この簡単なつくりの生き物は、一度獲物に食らいついてしまえば、ねむることやまぐわうことのように、あとは本能が仕事をするのだった。
織り上げられた一連の反射が収まるまで動き続けることしかできない。
頭がもげても。呼吸が止まっても。
咲夜をつまんでいる女は、からからに乾いた亡骸に目を細め、物証がどうとか呟いていた。
体を曲げて指に噛みつこうとしたが、半身が溶けてしまったように力が入らない。
キリキリともがくうちにぽそりと脚が根元からもげた。
痛くはなかった。
もとより咲夜は痛むということを知らない。
近眼と、全身にある鼻で知りうることの他には、振動だけが咲夜にわかる全てだった。
それも、もはやぼんやりとしている。
最後の食事は相討ちだった。
噛み傷から入った消化液が内臓をどろどろに溶かして、殻の中の繊細な体組織が消化されていく。
音を聞くための構造は精緻さを失い、もう、何も聞こえない。
咲夜はとろとろと遮断されていく感覚器の中、これでいいのだという気分に浸っていた。
とにかく今は眠い。ひどく眠い……。
手のひらに痙攣する小さな白い生き物を乗せて、女は神妙に食前の祈りを唱えた。
いただきますと呟く声が、咲夜を通過していった数多くの振動の、最後のひとつになった。
寝ても覚めても同じ顔。
「おはようございます」
「おぇ」
ここは夢の続きか。
ひどいなあと笑いながら、赤毛を結った娘が咲夜を覗き込んでいる。
溺れる蟻を見守る類の目つき。
柔和な顔だちから、館に入る際の、おかえりなさいという声が再生されて、ああ門番のと思い出す。
日差しがまぶしい。芝生の濃い匂い。
汗でシャツの内側が蒸れていた。
どうやら外で寝ていたらしい。
横でくちゃくちゃものを噛む音がして、さらにげんなりさせられる。
「何、食べてるの、それ……」
「何って、ただのカニシューマイです、メイド長さん。お水いります?」
「いる」
水筒を受け取ってのろのろ身を起こすと、生垣の陰で寝ていたらしかった。
ぱたぱたと肩から草をはらう。払いきれない。
喉がかわいていた。
日が高いから、まだ昼前だろう。
昼寝には早い。かもしれない。
「どうしてそんなところで寝てたんですか」
門番娘は少し離れたところにしゃがんで、軍手の泥をこそぎ落としていた。
長身を丸めてちまちまと作業をする姿は意外に愛嬌がある。
何とかの花の盛りやら、肥やしがどうとかで、いまの時期は園丁姿を見かける機会の方が多い。
下ばかり見ているのは、目を合わせないようにしているのだろうか。
無愛想にならない程度のあいまいな頬笑みを口元に漂わせている。人慣れしている。人ではない、人の形をした。
門を守る妖怪。
咲夜が館に勤めてから数年経つけれど、あまり話したことはない。
水は冷たくて甘かった。
「お嬢様が寝てから、」
言いかけて、語るべきことの少なさに、咲夜は心もとなく生垣の花を引き寄せる。
咎めるように門番の眉が上がるのを、視界の端で無視する。
赤褐色の花弁に頬を寄せると、かすかに蠱惑的な香りが残っていた。まもなく薔薇の季節も終わる。
「そのあと、自分の部屋で寝たと思うのだけれど」
「はあ」
「覚えてないの。不思議ね」
むりに頬を歪める。錆びたような色合いの緑眼がこちらを見てぱちくりとまたたいた。
返事があったことにおどろいていたのかもしれない。何もかも推測ばかり。
先ほどまで見ていた夢の話はしなかった。
夢遊病の気があるのかも、と肩をすくめると、うなされてましたよ、とさして関心もなさそうに告げられる。
妖怪の視線はすぐまた手元に戻されている。
たぶん、親切な性質なのだろう。咲夜の周囲には珍しい。
不定形の名残惜しさをたち切って、すっと咲夜は立ちあがった。
館の中では山のような家事が彼女を待っていた。
時間などは、彼女の手にかかればどうとでもなったが、勤勉さがその空費を許さない。
「水、ありがとう」
肩に日差しをあびて、垣の陰の涼しかったことを思い知る。
水筒を返して歩き出す。
立ちあがったところでは、やはり向こうの方が頭ひとつぶんほど高かった。
「いえ、別に」
ついとすれ違いざま腕を伸ばされる。
水が流れるのにも似た、隙のない動作だった。違和感を感じる前に、咲夜はこどものように突っ立って髪を梳かれていた。
二度、三度。
「……なに」
怒るにはひどくタイミングを逸したように思われた。
理由を聞いてからでも遅くない。
門番が咲夜の鼻先にひょいとなにかをぶらさげる。
「髪にゴミが」
かさかさに乾いた、ちいさな蜘蛛の死骸。
薔薇の葉擦れのざわめきの中、りゅう、と澄んだ音のまぼろしが響く。
「そう、」
ありがとう、もう行くわときびきびした足取りで咲夜はふたたび歩き出した。
後ろは一度も振り返らなかった。
「お気をつけて」
門番はにやにや笑いながらその背中を見送って、蜘蛛を口に放り込むとまたクチャクチャやり始めた。
あと、蜘蛛こわい
ほのぼのなのにグロテスクというか、雰囲気が絶妙。
いくらでも読みたくなる部類のSSだと思う。