地底の往来はいつもひっきりなしに、脇目も振らずに歩いてく。橋に佇む人物など視界にも入れず、いや、むしろ意図的に無視して歩いてく。あれは魔性の目だ。緑のばけものだ。目が合ったら、御仕舞い。
地底の橋には姫がいる。
燃えるような赤でなく、澄んだ青でなく、どろりとした深淵の緑。橋姫の眼光はぎらりと鋭く、どんなカットを施した宝石よりも輝いてものを見つめていた。彼女の目にはほとんどのものが妬ましく見えた。
今日も今日とて橋に立ち、道行く人々を眺めるだけの簡単なお仕事。橋から遠く離れることは叶わず地上へと繋がる穴を羨望のまなざしで見つめるだけ。ああ、私だって地上に行ってみたい。人に紛れて、人並みに楽しんでみたい。危害を加えるわけでもないのに忌み嫌われるこの眼がうらめしい。普通が妬ましい。他人が妬ましい。世の中全てが妬ましい。
「あなたは毎日ここで なにをしているの?」
「橋の番人として意味もなく突っ立ってるだけよ、ああ妬ましい妬ましい」
「大変ね」
「そうね。あなたは誰?」
「ねぇ、おはなし、してもいい?」
黒い帽子をかぶり、スカートをふんわり膨らませた少女がひょっこり現れ、にこり尋ねた。
「……ヒマだし、どうぞ?」
「わたしね、お家は大きなお屋敷なの」
「恵まれてるのね、妬ましい。お名前は?」
「う~ん……ないしょ。お家はね、ペットがね、たくさんいるの」
「素敵な家じゃないの。妬ましいわ」
互いに目を合わせず、往来を見つめて話す。会話は要領を得ず脱線しつつも一応、成立していた。橋姫は子どもに付き合ってあげる感覚で適当に聞き流し、適度なタイミングで相槌を打つ。もちろん「妬ましい」というのを忘れずに。少女との会話は思いのほか長引き、気付けばあたりは夕暮れだった。
「ほら、お家に帰らなくていいの? さっき言ってたお姉さんが心配するんじゃない?」
「わたし帰っても気づかないもん」
「?」
「ねぇまた来てもいい?」
「許可なんて取らなくても私は毎日ここにいるわよ」
「じゃあまた来るね」
そこで初めて橋姫は少女と目を合わせた。自分と同じ緑の目とかち合う。
「わたしとあなた、お揃いなのね」
にこり微笑む少女の顔をまじまじと見つめて立ち尽くす。ハッと気付くと少女はもういなかった。
宣言通り、少女は翌日もやってきた。橋姫は立ち、少女はしゃがんで互いに目を合わせることなく、そして往来を見るでもなしに見つめて会話する。たまに少女が家のことを話すくらいであんまり互いの素性は語らず、当たり障りのない天気の話や食べ物の話をしていた。
「昨日、どうしてここへ来たのかしら」
「わかんない。気付いたらいたの」
「そう、それは困ったわね」
「こまったね」
また夕暮れがやってきて、橋姫は少女に帰宅を促す。
「さぁ帰りなさい。子どもは帰る時間よ」
「え~もうちょっといたいなぁ」
「駄々捏ねる子どもは帰らないとね。さぁ、とっととお帰りなさい」
少女は橋姫の裾を掴んで抗議したが聞き入れられることはなかった。仕方なくふわり浮かんでひらひら手を振ってどこかへと飛んでいった。その際に体に巻きつくコードのようなものと青い目玉に初めて気が付いたが、あまり友好関係が広くない橋姫はそれが何か分からなかった。
「あの子は私の眼を見ても何も言わないのね……妬ましいわ」
あくる日も、そのまた次の日も少女はやってきた。おしゃべりをして帰る。その繰り返し。たまーに少女が家から持ってきたというお菓子を食べるくらいで、これといって楽しいことをしていたわけではなかった。なのに帰るのをいつも渋った。
地底にもわずかな季節の変化はある。橋姫と少女のおしゃべりはついに季節を一巡した。
「いつも思うのだけれど。あなた、お家、帰りたくないの?」
「そうかもしれない」
「……家くる?」
「いいの!?」
ほんの気の迷いで少女を招くことにした。夕飯を食べさせてそこそこの時間に帰せばよいだろう。っていうか、なんで私はこんなに保護者じみたことしてるのかしら。
少女は飛び跳ねるように橋姫のあとに付き従い、橋姫はいつも一人の帰路と違う感覚に慣れず落ち着かない。やけに少女がひっついてくるから、頭を一度ぽりぽり掻いて、いい加減に聞こうと思い、質問してみた。
「あなた、お名前は?」
「……こいしっていうの」
「そう。私はパルスィよ、よろしくね」
「手ぇつないでもいい?」
「べ、別にいいけ、ど……?」
繋がれた少女の手は小さく、柔らかく、妙にどぎまぎとする。何らしくないことを考えているんだ! と己を叱咤し歩みを進めた。橋姫の家は橋からほど近く、粗末でも豪華でも何でもない普通のつくりだった。普通に生活臭があふれていて、普通に暮らしが想像できるような家。
「パルスィの家って普通なのね」
「こいしの家はお屋敷だから庶民の暮らしは分からないでしょうけど」
「普通って素敵じゃない」
何気ないこのひとことが、橋姫にはいたく嬉しかったのを少女は理解できないだろう。普通であることの嬉しさ。ばけもの呼ばわりされてきた橋姫が妬み、憧れた『普通』。どうやらこいしには私が普通に見えるらしい。嬉しかった。
「ご飯は何がいい?」
「ハンバーグ! あとスパゲッティとケチャップライスもあったら満点よ!」
「少しは遠慮しなさいよ! えー材料あったかしら……」
「お姉ちゃんのハンバーグおいしいんだよ、噛むとじゅわって肉汁が出てきてね、」
「こいしって家帰るのは嫌いなのに、お姉さんのことは好きなのね」
「お姉ちゃんの大好きだもん!」
じくりと何か感じたのを、橋姫は無視することにした。嗚呼、妬ましい。
「……どうして要望通りのものが作れてしまうだけの材料があるのかしら。妬ましいわ」
「おお、やるね、パルスィ!」
「じゃあ満点もらえるように頑張って作りますか」
「楽しみにしてるね!」
「適当に座ってていいから」
たまねぎは飴色になるまで炒めて水分を飛ばす。固くなってしまうので、捏ねる回数はほどほどに。フライパンで表面だけ焼いたら、あとは水を入れて蒸し焼きで煮込む。その水をトマトソースで代用すれば、ついでにスパゲッティも同時にできる。煮込む間にもうひとつフライパンを用意してケチャップライスを作れば効率よく作業は進む。
橋姫は一人暮らしで身に付いたスキルを如何なく発揮して手早く作っていく。せっかくだからコーンスープとサラダも作るか、と燃えてきてしまってさぁ大変。食卓には見事なディナーが並ぶこととなった。
「こいしー出来たわよー?」
「………」
「こいし?」
返事はない。怪訝に思い、居間で待っている少女を覗き込んでみる。
「寝てる……」
天使の寝顔だった。無防備なそのほっぺたをぷにぷに、つっつんしてみる。反応はない。顔を近付け、ぐいぐい距離を縮める。あと少しでくっついてしまう、という所で我に返った橋姫は動きを止めた。何やってるの自分、ああ、でもこいしが可愛すぎて妬ましいからね。仕方ないわ。その時少女は目覚め、はたと目が合う。
「ん~~にゃむにゃむ。わたし寝ちゃってた?」
「そ、そうよ、っ ほら夕飯出来たんだからあったかいうちに食べるわよ!」
「んー……。やっぱりパルスィの目ってきれいだね。いつまでも見てたくなっちゃうや」
しばし沈黙があった。固まる橋姫と、微笑む少女。
「ほっ、褒めてもデザートにゼリー追加くらいしか無いからね!!」
「え、ゼリー好き好き!!」
夕飯を食べ終えた。デザートのゼリーも食べた。少女の食べ方が思った以上に綺麗だったので驚いてしまったほどだ。さて、どうやってこの家出少女を帰したものか。
「ねぇ泊まってったらだめ?」
「駄目。お姉さんが心配するでしょ」
「えーだってー!」
「えーも、だっても無いわよ」
「むぅー!」
「むくれても駄目なモンはだぁめ!」
「逆に考えて。こんな時間に帰ったらあぶないよ?」
それは考えてなかったぁあ!!! 頭を抱える橋姫をよそに少女ははしゃぐ。着替えをどうするかとか、家へどうやって連絡するかとか。考えることはたくさんあったが眠そうな少女を見てまずするべきことが決まった。お風呂に入ってもらわなければ。
「よぉし、じゃあ仕方なく泊まるのを許可するわ。だからお風呂入ってきなさい。あっちだから」
「パルスィも一緒に入ろうよ」
「絶対に、い・や!」
「えーー。ん~じゃあ後で一緒に寝てよ」
「ちゃんとお風呂入ってくるならいいわよ」
「きゃー!」
もぎゅ。
「ねぇこいし、ひっつきすぎよ」
「だって布団ちっさいんだもの」
「悪かったわねぇ……!」
風呂上りの少女はたいそう可愛らしく、橋姫はまた妙な感覚になってしまった。銀色っぽい髪は自分の髪にはない美しさがあったし、同じシャンプーを使ったはずなのに、すごくいい匂いがしていた。
「こいし。聞きたいことあるんだけど、いいかしら?」
「うん。どうぞー」
「あなたの名字、もしかしなくとも『古明地』だったりするの?」
「……なんだ、知ってたんだ」
「あなたがお風呂に入ってるときにずっと考えてたのよ。地底の管理者とその妹くらい、さすがの私でも知ってるわ」
少女はコードをたぐりよせ、青い目玉を指さした。橋姫は何も言わずにそれを見つめる。合わせて4つの緑目が青い目玉を見つめた。
「わたしね、覚なの。まぁ心は読めないんだけどね。パルスィは何にも聞いてこなかったから助かったなあ」
「そう。私は橋姫なの。あなた嫉妬は怖くない?」
「心読めちゃうのに比べたらてんで可愛いモンだと思うよ?」
「心読めない覚なんて怖くもなんともないわよ?」
少女は橋姫のおでこに自らのおでこをくっつける。
「みんな心ではどんなことを思ってるか分からないの。でもってそれを隠して生きていくから嘘と建前ばかりの世の中なのよ。でも、あなたは包み隠さずに言ってくれるからラクちんよ。だってね。どこが悪いか、とか言ってくれないと直しようがないのに、勝手に嫌っていったりするの。もう疲れちゃった」
「私、妬ましいばっかりぶつぶつ言ってると思うけど?」
「えーだって、不必要に傷つけることは何一つ言ってないでしょう?」
「そう、かしら……」
「うん。それにこうやって私が『古明地こいし』って知っても変わらず接してくれるし。ふへへ」
「別に、あなたが誰でも、何でも、あなたはあなたでしょうが」
「パルスィは優しいね。う~ん……なんかね、わたし、あなたのこと好きになっちゃったかもしれないの」
どうしてこの少女はこうも自分の欲しい言葉をくれるのか。妬ましい、妬ましい。布団が小さいのは事実。せっかくだからもう少し近づいておこうか。
「そう。じゃあ……。また明日来れば?」
「いいの!?」
「お姉さんにちゃんと断り入れること。いいかしら?」
「うん!」
「よしよし。いいこね」
少女こいしは、橋姫パルスィに渾身の抱擁をした。むぎゅうとしがみついて頭をぐりぐりこすりつける。それは二人の金銀の髪が交差して見事な情景だった。
地底の往来はいつもひっきりなしに、脇目も振らずに歩いてく。橋に佇む人物など視界にも入れない。
だけれど極まれに、緑目が4つあることに気が付く人がいたりするのである。
そう、地底の橋には姫と少女がいる。
ふたりとも無邪気で可愛いですね! むにむに
もう、そういうことでいいんじゃないでしょうか。
私も地底に行きたい。ふへへ
何だか大変な事に誰も突っ込んでいないような気がするんだが
>「お姉ちゃんのハンバーグおいしいんだよ」
>「お姉ちゃんの大好きだもん!」
そのての物を読みすぎたせいか、ここを無駄に邪推してしまった…
こいぱるちゅっちゅ。