キノコブームだった。至る所に見つけることができる、キノコ、キノコ、キノコ。
味も、色合いも、他の食材との相性も、すべてが抜群に良いキノコだった。
今、幻想郷の住人達は、食卓事情に関して強い味方を手に入れたのだ。
しかしこのキノコが幻想郷に広がるまでに、色々と失ったものもまた、多かった。
* * * * * * * * * * * *
最初にそれを見つけたのは狂った魔法使いだった。
「うまい! なんて旨いキノコなんだ!」
キノコを見つけたらすぐ食べるのが俺流。幻覚幻聴神経麻痺、何でもかかってこい。
然しもの魔法の森の毒キノコと言えども、これ以上どうやってこの狂った魔法使いを狂わすことができようか。正気を失った回数は億千万、その果てに、霧雨魔理沙は魔法の森の食物連鎖の頂点に君臨していた。
あらゆる抗体を身体の中で生成している、歩くワクチン。恐れるモノは何もない。
「これはアリスにも食べさせてやろう!」
群生していた新種のキノコを掻き集め、魔理沙は地獄からの宅急便となってアリス邸へと飛んでいく。
* * * * * * * * * * * *
「ちわーッス、新しいキノコ入荷しましたー」
「帰って、速やかに帰って」
「おっとそこのお姉さん、こいつどうやって食します? 焼いて良し! 煮て良し! 混ぜて良し!」
「上海、塩撒いて塩」
「塩焼きッスね! うっす、了解ッス!」
「やめて、お願いだからやめて……」
アリスの家へと勝手に上がり込んだ魔理沙は、勝手に注文を受け付け、勝手にキノコの調理を始めた。
その後ろではアリスが床に崩れ落ちてよよよと泣いている。賭け事にのめり込んだ駄目亭主を必死に説得しようとするも、今日も亭主は博打を打ちに出かけていく、そんな後ろ姿を見送る幸薄い奥さんのような雰囲気を醸していた。
魔理沙は塩焼きと言ったのになぜかキノコの炒め物を作っていた。ジュージューという音とシクシクと鼻を啜る音の絶妙なハーモニー。隠し味は間違いなく悲劇である。
「これ本当に旨いんだぜ」
「いらないわよ……どうせ私は実験台なんでしょう」
テーブルに置かれたキノコの炒め物は、確かに美味しそうな匂いだった。
「おいおい馬鹿を言うな、とっくに私が食べてるって」
そう言って魔理沙はキノコを食べる。
「うん、やっぱり旨い! アリスも食べてみろって」
「いらない。絶対ろくでもないわ」
アリスの頑なな態度に魔理沙は悄然と肩を落とした。
「やっぱ……迷惑だったか?」
「そう言ってるじゃない」
「そっか、悪い……ただ一番最初にアリスに食べて貰いたかっただけだったんだ……なんか一人ではしゃいじゃって、ごめん。あはは、馬鹿みたいだな私」
らしくもなく萎れる魔理沙を見て、アリスは動揺した。それこそが魔理沙の手の内だとは気付かない。
アリスは孤高に生きてはいるが、根っこはお人好しである。
「わかったわよ、食べるわよ」
「おう、食べてくれ食べてくれ、たくさん持ってきたからまだまだあ――る……ぜ」
魔理沙の持っていた箸がテーブルに転がった。見ると、ぶるぶると手を震わせて痙攣する魔理沙がいた。
「ちょっと! どうしたの!」
毒。
その言葉がアリスの脳裏を過ぎる。胸を掻きむしる魔理沙の様子は尋常ではない。
既にキノコを食べた、と言った魔理沙の言葉を信じるならば、遅効性の毒だろうか。それとも魔理沙の毒の耐性が強すぎて症状が遅れただけなのか。
いずれにせよ、今食べた分のキノコは吐き出させた方が良いはずだ。
「魔理沙、吐き出しなさい! 上海、蓬莱ッ!」
すっ飛んできた二体の人形に魔理沙の両腕を掴ませ、そのまま宙吊りにする。
空中で磔にされたような格好になった魔理沙の無防備な腹部へ、アリスは、これまで自分がやられてきた理不尽と不条理の数々――不法侵入や窃盗、他色々――を思い出し、それを怨嗟の力へと変換して、ありったけの力を篭めて「シッ!」ボディブローを叩き込んだ。
あくまで、魔理沙を救うためである。
「……ぐ、え」
しかし吐き出さない。
ならばもう一発。いや、もう十発くらいは憎しみの実弾は装填できる。
「上海! 蓬莱! しっかり抑えているのよッ!」
先程以上の力を篭め、右腕を魔理沙の腹部へ「死ッ!」捻り込む。今度は貫通力を高めるためにコークスクリューブローへと変更した。
あくまで、魔理沙を救うためである。
しかし魔理沙が吐き出したのは肺の中の空気だけだった。
「くっ……もう一発よ! 上海、蓬莱ッ!」
アリスは肉体派ではなかった。
手では埒があかない。足だ。足は手の三倍の力が加わるという話だ。アリスは作戦を切り替える。
もはや手段を選んでいる猶予はないだろう。魔理沙のあの青白い顔はどうだ、まるで酸素欠乏症のようではないか。キノコの毒が全身に回っているのかもしれない。だらしなく垂れている涎が、キノコによってもたらされる苦悶を如実に表しているではないか。
「魔理沙……貴方を救うためにドロップキックをする私を許して」
距離を取る。助走として十分なほどの、むしろ十分すぎる程の距離を。
かつて魔理沙から受け取った痛哭の数々を推進剤へと変えて、アリスは音の壁をも突き破らんと疾駆する。その運動エネルギーが蹴り上げたつま先の一点へ集約され、殺人的な破壊力を伴って魔理沙の腹部を目掛けて牙を剥く。地面に対して平行に身体が泳ぐ、それはそれは美しいドロップキックであった。
しかし、
「――ッ!?」
魔理沙の腹部を突き破らんとするその刹那、磔刑に処されていた魔理沙が覚醒する。二体の人形をはね除けて、間一髪のところで身体を捻り、アリスの殺意の塊を避ける。そして流れていくアリスの身体を横から抱き留めた。所謂、お姫様抱っこという形になった。
「はわわわ……ま、魔理沙……きき気付いたのね? よ、良かった、本当に良かったわ。私、心配で心配で、思わずドロップキックしてしまった程に心配だったのよ? ホントよ?」
「……」
静かにアリスを見下ろす魔理沙の目に迫力が籠もる。
「アリス……」
「た、確かに、ちょっとは日頃の鬱憤も込もっちゃったかもしれないわ、でもそれはしょうがないじゃない? 別に貴方が憎いだとか嫌いだとかじゃなく、これは生物としての本能のようなモノで――」
「キスして良いか?」
「――は?」
その言葉にアリスが固まる。目を見開き、魔理沙の真意を確かめようと凝視するも、見つめた魔理沙の顔がどんどんと自分に近付いてきた。予測できる落下地点は一ミリの誤差もなく、アリスの唇だった。
ひぃと小さな悲鳴を洩らしながら思い切り顔を背ける。がっちりと抱えられていた身体を、強引に回転させて床へと逃れる。
「はは……アリス可愛いなぁ、キスしても良いだろ? いや、断っても絶対にするぜ?」
「何を言ってるのよ、馬鹿じゃないの! 貴方正気を失ってるんじゃ――」
気付く。
キノコだ。それ以外には考えられない。
アリスの背中に戦慄が走る。
「うふふ、私は正気だぜ。私とアリスで愛の架け橋を作ろうじゃないか、成分は主に唾液で」
「やめて……こっち来ないで……」
薄ら笑いを浮かべ近付いてくる魔理沙から、尻餅をつきながら後退る。何度も何度も腕と足を掻き回す様は、床の上で溺れているようであった。
背中にドアがぶつかった。ドアノブに縋り付くように立ち上がり、全力で引いた。しかし、ドアは縫いつけられたように動かない。
「なんで!」
「うふふ……逃げなくても良いじゃない、キスの一つや二つ。もしかしてアリス初めて? 大丈夫だぜ、優しくしてやるから。もちろん痛くしないよ」
ようやくアリスは魔力を感じ取る。空間位相への干渉だと気付いたときにはもう遅かった。
すでに魔理沙によって、ドアを挟んでこちらの空間とあちらの空間は断絶されていた。
(――そんな高等魔術を無詠唱で? 魔法陣もマジックアイテムもなく? どうなってるのよ!)
冷や汗をだらだらと流しながらも、この危機的状況にアリスの頭が回り出す。そもそも無防備のお腹に殺人ブローをかましたのに、なぜあんなにも平気なのか。
(――魔力が桁違いに跳ね上がってる……!)
だが、今必要なのは状況の分析などではなかった。この場を凌ぐ瞬発力が必要なのだ。
ガシッ! とアリスは肩を掴まれた。
無意識のうちに洩れた声は、どこか他人のように聞こえた。
魔理沙の両手がアリスの頬を挟み込む。柔らかく、優しく、しかし身動きの取れないように。
それでもアリスの思考は回る。身動きの取れない状態だからこそ、冷静に頭を回し続ける。
(――悪の魔法によって人格の歪められた主人公を助ける、そんな光の魔法は……ある!)
打開の光が煌めいた。数々の悪を打ち破った、約束された勝利の詠唱。
「魔理沙、貴方はそんな毒キノコなんかに負けるような弱い人間じゃないわ! 私は信じている、貴方は絶対に勝つって! だから目を覚まして、魔理沙ッ!」
だがそれは詠唱でも何でもない。ただの勝利フラグと言われる台詞だ。
「お願い魔理――むぐッ」
壮大な前振りも功を奏さず、アリスは呆気なく魔理沙によって唇を奪われるのであった。
そのまま床へと押し倒される。魔理沙の腕がアリスの首を絡め取り、すでに逃げることは叶わない。ぶつけるように押し当てられていた唇は、いまや咀嚼するようにもにゅもにゅと動いていた。
「んーッ! んーッ!」
ばしばしと魔理沙の胸を叩くが、魔理沙を動かすことはできない。
正気を失った魔法使いに、何の抵抗もできずに食べられているこの状況は、ファンタジーなどではなくホラーの領域だとアリスは思った。何が幻想郷だ。こんな幻想はあってはならない。
だが、いい。キスの一つや二つなんだというのだ。くれてやる。長い人生こういうこともあるだろう。
虚勢のような決意。しかし、それも呆気なく瓦解する。
息苦しくなり、酸欠で目の前が暗くなりそうだった。
(――もし、息を吸ったら……)
遠のきそうな意識を繋ぎ止めて、アリスはその先を必死に想像した。
舌をねじ込まれる。間違いなくチップインバーディーだ。
恐怖と酸欠でアリスの視界が揺らいだ。恍惚とした表情でアリスの唇を貪っていた魔理沙の顔も一緒に揺れる。その間にも魔理沙は執拗にアリスの唇を蹂躙している。熱い吐息がアリスの首筋まで流れてくる。
鼻での呼吸を試みるも、なぜかできない。やり方を忘れたかのように。
(――もう……だめ……)
ぷはぁっ! と酸素を求めた瞬間、予想通り、魔理沙の舌がねじ込んできた。
「んーーーーーーーーーーッ!!」
ねっとりとした感触がアリ――――
* * * * * * * * * * * *
――――ちゅぽん!
という水音を立てて魔理沙はアリスの唇から離陸した。飛行機雲のような糸を引いていた。
「おお? なんで私はアリスと濃厚なキスをしてるんだ?」
お互いの口元から伸びた粘液の架け橋は自重に負けてゆっくりと崩落していく。その残骸が、羞恥と酸欠で顔を真っ赤にして、肩で息をしているアリスの衣服の上に落ちていった。
「なんかアリス……エロティカルだな。いやエロティックって言うのかな」
魔理沙は力無く横たわるアリスを見下ろして、扇情的な光景だな……と思った。口の中に溜まっていた唾を飲み込んだら微かに紅茶の味がした。
今の自分の抑えがたい欲求は何だったのだろうかと考える。急に身体が火照り、腹の底から渦を巻いて溢れ出る魔力。その圧倒的な力を行使してでもキスをしたいという原始的な衝動。原因はわかる。キノコだ。それ以外にあり得ない。
きっと"そういう効果"のあるキノコなのだろう。
「まるでレミリアになってしまうようなキノコだな、これ」
一人で納得するように魔理沙は呟く。
それを聞いたアリスは幽鬼の如く、むくりと起き上がった。
「うわわわ……ア、アリス……きき気付いたのか? よ、良かった、本当に良かったぜ。私、心配で心配で、思わず人工呼吸をしてしまいたくなる程に心配だったんだぜ? ホントだよ?」
「……」
「た、確かに、ちょっとは日頃の劣情も込もっちゃったかもしれない、でもそれはしょうがないだろ? 別にアリスを手籠めにしたいだとか妾にしたいだとかじゃなく、これは生物としての求愛のようなモノで――」
「レミ、リア……」
「は?」
アリスの口調は陶酔しているそれだった。
何事かと目を瞠る魔理沙をよそに、アリスは「そぉい!」と裂帛の気合いで窓から飛び出し、凄まじい速さで飛んでいった。その初速から推測するに、恐らくは魔理沙が全力で箒を操ったとしても、その三倍は速いだろう。驚異的な魔力の奔流が、部屋の中に残滓となって散らばっていった。
嫌な予感が魔理沙を襲う。
魔理沙もキノコを持って後を追った。方角は紅魔館。
* * * * * * * * * * * *
果たして、アリスは紅魔館にいた。
「どきなさい門番、貴方には興味がないわ……"バッド・カンパニー"」
数十体にも及ぶ、一糸乱れぬ人形達の殺戮の行進に、紅魔館の門番である紅美鈴は蝶を追いかける振りをして逃げていった。「紋白蝶だー、待て待てぇー」
存在しないはずの蝶々を追いかける姿は実に幻想的だとアリスは微笑む。
紅魔館の中へ入る。アリスの目当てはレミリア……正確にはレミリアの唇である。
「ふふ、この時間はもう寝てるかしら、それとも寝る前にお茶をしてるかどっちかね」
何の障害もなくレミリアの寝室へ辿り着いた。
寝室のドアを開けると、予想に反して室内は明るかった。開け放たれた窓からは、近くの湖を通り過ぎた清涼な風が入り込み、レースのカーテンをゆらゆらと揺らしている。日光は直接入ってこないものの、室内灯と相まって自然な明かりを上品に演出していた。
レミリア=スカーレットはベッドに寝間着姿で座っていた。
「見つけたわレミリア」
「あら、森の魔法使いがどうしてここへ?」
「ふふ、貴方にキスをするためよ」
「面白い冗談ね。でも生憎だけど私はそろそろ寝るの。戯れたいのなら他の誰か見つけなさい」
だがレミリアの言葉を意に介さず、泰然たる態度でアリスはベッドへ近付いていく。それを見たレミリアの眉がぴくりと動いた。
「わからなかったかしら? 私は出て行けと言ったのよ」
「貴方こそわからなかったの? 私は貴方にキスをすると言ったの」
「……冗談も二回続けば笑えないわ。噛み殺すわよ」
「私ずっと思っていたの、レミリアって可愛いわよね……貴方をお人形みたく踊らせてみたかった」
一緒に遊びましょ、とアリスは薄ら笑いを浮かべてレミリアの方へ手を伸ばした。
「痴れ言を」
レミリアの手から紅い力が迸る。
* * * * * * * * * * * *
魔理沙は紅魔館の揺れる音を聞いた。
「まあ、間に合うとは思ってなかったけど」
「魔理沙さん!」
「おっと悪いが美鈴、お前に構っている暇はないんだ」
「待ってください! なんですかあのアリスさんの"気"は! あんなの見たことが――って行かないでーッ!」
館の入り口で膝を抱えて座っている美鈴を一顧だにせず通り過ぎ、妖精メイド達がうろうろしている紅い廊下を突っ切って、大図書館や食堂などの中を窺い、最後にレミリアの寝室へと顔を出した。そこには大きな破壊音を聞いて、紅魔館のメイド長である十六夜咲夜と、大図書館の主であるパチュリー・ノーレッジがすでに馳せ参じていた。
面倒なことになっているんだろうと思い、魔理沙は苦い顔で入っていく。それを見たパチュリーが眉をひそめて声を掛けた。
「魔理沙、あなたアリスに何かした? いえ、あなたが何かした程度じゃあんな風にはならないわね。なによ、あれ」
パチュリーが顎で指した方に目をやると、鬼のような形相をしたレミリアが、ベッドの上でアリスに抱かれて暴れていた。
四方八方へ手足を振り回す様子は、駄々を捏ねる子供のようにも、網にかかった魚のようにも見える。レミリアが暴れるたびに、きらりと光を照り返す糸のようなものが見えた。
「とんだ人形使いがいたものだわ。生物をそのまま傀儡にするなんてことをやってのけてる。レミィだからああやって抵抗できているようなもの、私たちなんて動けもしない。紛れもない化け物よ」
パチュリーと咲夜がレミリアの危機を前にしてもただ突っ立っているだけなのは、動けないからであった。魔理沙が目を凝らすと、魔力の糸が二人の身体を束縛していた。
なんとかできない? とパチュリーの目は語っている。魔理沙は一つ頷いてアリスへ叫ぶ。
「アリスーッ! もうこんなことはやめるんだ! 私と一緒に森へ帰――ん?」
魔理沙が固まる。
「おお、悪いパチュリー、私も身体が動かなくなった」
呆気なく捕縛されたのだった。
「……アリスってあんなに力あったかしら?」
「いや、恐らく得体の知れないキノコのせいだろう」
「キノコ?」
「これだ」
ポケットから取り出したキノコを見て、パチュリーは目を大きくした。
「こ、これはぁ……ッ」
「良いリアクションだな、知ってるのか」
「ええ。これは世にも珍しいキノコ。その名も『首っタケ』。生物から生物へと菌が移って繁殖先を探すキノコよ」
「寄生キノコ?」
「に近いわね。高温多湿なところでしか菌は生きられないらしく、人の口内の環境がとても良いらしい。人に寄生すると、新しい繁殖地を探すために他の人の口内へと移住と分裂を繰り返し、自分の住みやすい森へと足を伸ばすのよ。その特性ゆえにとても美味しく、人や動物がついつい食べてしまいたくなるような味らしいわ」
「旨かったぜ」
「……やっぱりあなたが原因なのね」
パチュリーは呆れた顔をした。
「やたら魔力が跳ね上がって、むっちゅーってしたくなるのはキノコの作用か?」
「むっちゅー……まあ、そうね。宿主が弱くて勢力を広げられないのはキノコも困るからでしょう。ちなみにドーピング剤として使われないのは、一度キノコに寄生されると抗体ができて二度と狂わないから。だからこそ珍しいキノコなのよ。狙われるのは抗体の持っていない人間や妖怪に限る。感染した人が最初に見た人、あるいは思い浮かべた人の口の中へ移動していく」
「ほー、それじゃあ私はもう狙われないのか。それは気が楽だ」
「いい気なものね」
「悪かったよ。その代わりに良いこと教えてやろう。知ってるか? アリスの舌って紅茶の味がするんだぜ」
パチュリーの頬にほんのりと紅が差す。
「……聞きたく、ない」
「じゃあ言わない」
「ッ……、…………、…………ッ、……か、感触は? それくらいは聞いてあげるわ」
「ところでなんで咲夜は泣いてるんだ」
パチュリーの歯が軋んだ。しかしここで食い付いては魔理沙からむっちゅーの感想を聞けないと思い、罵りの言葉を噛み砕く。
怒りを殺しパチュリーが振り向くと、咲夜はおいおいと泣いていた。
「咲夜?」
「嗚呼、パチュリー様……見てくださいお嬢様を、あんな子供みたいに暴れるお嬢様を見たことがありません」
「そうね、興奮するわ」
「可愛すぎて胸が痛いです」
「変態的ね、でも私もよ。きゅんとくるわね」
よくよく見れば、アリスの胸の中で暴れるレミリアの顔は鬼の形相などではなく、鬼から逃げるために必死になってる形相だ。歯を食いしばる口元からは鋭い犬歯が零れている。アリスはそのレミリアの歯を愛おしげに指の腹で撫でた。頭を振って口の中へ差し入れられる指から逃れる。
レミリアの姿は、執拗なまさぐりから逃れようと有らん限りの力で抵抗するうちに、寝間着が乱れてきて、今や肩の露出が大きくなっていた。
アリスは艶然と綻ぶ。
「綺麗な肩ね。氷みたいに透き通ってる」
「……くッ、離しなさい! 絶対に殺すわ!」
「ねえレミリア。冬の朝、外に出ると水溜まりに薄氷が張ってあった……なんて経験はないかしら?」
「生憎、朝に外へ出ようなんて思わないわッ。さあ離しなさい! 今なら八つ裂きで許してあげる!」
「そう、私はあるわ。その度にパリパリと踏み砕いてるんだけど、それがね、凄く快感なのよ、レミリア。貴方の白い肩はまさに朝日を受けてきらきら光る氷みたい」
ゾクリと、レミリアの体温が急激に下がる。氷の塊を肺腑の底へ押し込まれるような感覚。
アリスはレミリアの両手をベッドに押さえつけて仰向けにし、その上に覆い被さるような体勢になった。レミリアの耳元へ息を吹きかけられるように囁く。「いただきます」
それは恐怖だった。
瞳に涙が溜まっていく。心が挫かれるような経験などレミリアにはない。未知の感情。それが今レミリアへ襲いかかっていた。
「やめなさいアリス……やめなさい……やめて、お願いよ」
気丈だった抵抗も、徐々に懇願へとなってきた。
アリスの舌先が、レミリアの首筋を滑る。雪山の稜線を思わせる白くなめらかな曲線。真っ白な新雪に足跡をつけて汚すような、背徳的な愉絶がアリスを満たす。
「吸血鬼の血ってどんな味がするのかしら」
そう言ってアリスはレミリアの首筋に歯を立てて甘く噛んだ。「ひっ」という小さな呻きがアリスの耳を心地よく刺激する。
いつだってレミリアは捕食する側であった。それが今、完璧なまでに捕食される側になっている。屈辱なんて感情は僅かもない。純然たる恐怖、御しがたい震え、狂濤してくる怖気。それだけがすべてだ。
小さな身体を覆っているのは、吸血鬼をも食料とする、捕食の権化。
「さくやー! ヤダ、ヤダよ、さくや助けてよぉーッ!」
威厳というメッキが剥がれたわけでなければ、おかしくなったわけでもない。万物を悉く圧倒する絶対的な力を前にすると、人も妖も時として、何かに縋り付かなければ自己を保てななくなるのだ。幼児退行などは己を守る術の一つである。
「お、お嬢様……ッ! あはぁ、なんて可愛らしい声で私の名前を呼ぶのですか。もう一度私の名前を! もう一度!」
「あれは絶対にアリスの趣味だな。鬼畜すぎるぜ。私なんてただ普通にむっちゅーとしただけなのにな、むっちゅーって。こんなことならもっとシチュエーションを考えておくべきだったぜ」
「レミィ、食べられるものの気持ちを理解することで貴方はまた一つ強くなれるわ。大丈夫よ、私は見届ける。どうせ動けないし」
ぽろぽろと大粒の涙を流しながら助けを求めるレミリアをよそに、動くことのできない三人は完全に諦め、普段は鳴りを潜めている仄かな嗜虐性に舌鼓を打っていた。
虐められるレミリアも、アリだなぁ――と。
「ぱちぇ……ぱちぇ、助けてよぉ……ひっく」
「はぁッ、お嬢様が泣いておられるぅッ」
咲夜は感極まって、立ったまま気を失った。
「レミィ……私に助けを求めるのが遅いわ。もっと早く助けを求めれば怖い目にあわなかったのに」
「ぱぢぇぇ……うえぇぇん」
白磁の肌にうっすらとついた歯形に満足したアリスは、今度はレミリアの涙を舐め取る作業へと移行していた。猫のようにペロリと、怯えた表情のレミリアの頬に舌を走らせる。
「アリスの奴ほんとにヤバイぜ。あいつ真性マゾヒストかと思っていたが実は違うんだな。ところでパチュリー、何か打開策があるのか?」
「心当たりが一つだけね」
「おいおい、それならさっさと助けてやれよ」
「任せなさい。ただ大声を出すのって喘息には辛いのよね」
大きく深呼吸し、パチュリーは魔法の言葉を朗唱する。
「アリス、貴方はそんな毒キノコなんかに負けるような弱い人じゃない! 私は信じている、アリスは絶対に勝つって! だから目を覚まして、アリスッ!」
それは闇の魔法にかかってしまった主人公を正気に戻させる、光の魔法の言葉だった。
「アリ――あッ」
しかしアリスは寸毫の躊躇もなくレミリアの口に吸い付いた。むっちゅーと。
レミリアの右手が助けを求めるように虚空を掴む。
「んーーーーーーーーーーーッ!」
「ごめんレミィ、失敗しちゃったわ」
「そもそも成功する要因がどこにあったんだよ。それ私も言われたが、何の効果もなかったぜ」
ぴちゃりぴちゃりと湿った音がレミリアの寝室に反響する。アリスの舌が糖蜜を舐め取るようにレミリアの口内を掻き回し、自分の唾液を送り入れる。
それを見ていた二人は思わず顔を赤らめた。「ちょっと……エロティカルだな」「そ、そうね」と言うものの、目は二人の艶事に釘付けだ。咲夜は気を失ったままである。
「うおぉッ、アリスが体位を入れ替えたぜ……」
「レミィが上になったってことは、今度は搾り取る気ね……」
「かなり……エロティックだな……」
「そ、そうね……」
レミリアはばたばたともがくように背中の羽を動かすも、アリスの腕がきっちりとその小さな胴回りに食らいついて離さない。やがて羽は力無く萎れていき、ついには動きを止めた。もはや抵抗の気配は微塵もない。とろん、とした目が恍惚感を如実に物語っていた。
「思ったんだが、粘液感染するってことは、次はレミリアが誰かをむっちゅーってするんだろ?」
「……そうよ!」
「パチュリー様お下がりを、紅魔館のメイド長として貴方を危険な目に合わせられません」
不死鳥のように、咲夜が瀟洒に復活した。
「さすが咲夜、絶妙なタイミングで復活を遂げるわね。今ほどあなたの完璧っぷりを憎らしく思ったことはないわ。でも駄目よ、レミィがああなってしまったのは私の力足らずが原因。だから私が身体を張ってでもレミィを止めるわ」
「なりませんッ! パチュリー様をそんな危険な目に!」
「良いのよ咲夜……貴方は引っ込んでて頂戴ッ。私が犠牲になれば済む話よ!」
「いいえ私が――ッ!」
「いいや私よ――ッ!」
私がキスをする。いいや私がお嬢様と。咲夜のくせに生意気よ。パチュリー様なんてお籠もりの癖に。咲夜なんて鼻血メイドの癖に。ムキー。ムキー。ムキー。
肉欲の争いとは斯くも醜いものなのか、と魔理沙はどこか遠くで思った。しかし、そんなことよりも目の前の展開がいよいよクライマックスに突入したようで、二人の喧嘩など途端にどうでもよくなる。
「ふふ、レミリア、気持ち良いんでしょ? ほら、舌出して」
「ぁ……ふッ――ん」
そこまでやるのかアリス。アリスお前はそこまでやってしまうのか。流石にそれはアウトだろアリス。これ以上は見ていられないぞ。いや、でも見ていたい。
理性と好奇心の葛藤に苛まれながら魔理沙は両手で目を覆い、しかし指の隙間からしっかりと見る。「後学のため、後学のために」そう呟きながら。
レミリアの桃色の口唇から、熟れて真っ赤になった舌がちょこんと顔を出す。魔理沙はごくりと生唾を嚥下した。
「――あ、れ? 私……レミリアと……」
しかし、ここでアリスは正気に戻ってしまった。
魔力が切れて動けるようになったことが原因か、それとも灼熱の期待を裏切られてのことか、魔理沙はがっくりと膝を着いて項垂れた。「なんでこのタイミングで、ちくしょう……」という言葉は誰の耳にも届かずに消えていった。
ベッドの上、身体は脱力し目も虚ろになったレミリアを抱いてアリスは叫んだ。
「ご、ごごごごめんレミリア! 違うの、これは違うのよ!」
「ハッ! アリスが正気になってるわ!」
「おおおおお嬢様、私を! 私を見てください!」
パチュリーと咲夜が、ぐったりとしているレミリアの元へ怒濤の勢いで押し寄せる。
だが、
「本当にごめんレミリア、きっと私に悪魔が乗り移ってたのよ! そう、そうよ、霊夢にお祓いしてもらいましょう!」
「れ、いむ――」
押し寄せる二人の顔が、世界の終末を迎えるような顔になった。
魔理沙といえば、世界の終末を迎えている最中の顔であった。
「ええ、そうよ! 私が悪い訳じゃないのよレミリア、だから一緒に霊夢のところへ行きましょう、きっと祓ってくれるわ!」
アリスの言葉を受け、レミリアはゆらりと起き上がり、太陽光がぎらぎらと降り注ぐ空へ「そぉい!」と飛んでいった。チリチリと燃え上がるように輝く光の尾は、空気摩擦による発光だろう。種族の限界など容易く突き破り、摂理をも曲げる驚異的な変身。巫女を待ち受ける運命など手に取るようにわかるというものだ。
「それにしても――」
我に返った魔理沙が言う。
「――アリスってエロいんだな」
* * * * * * * * * * * *
魔理沙とアリスが博麗神社へ着いたとき、現場は、そこで何が起きたのかを雄弁に語っていた。
破壊の爪痕。ぼろぼろに切り裂かれた紅白の巫女服。茂みの奥へと伸びた真っ白なさらし。鳥たちの静寂。固唾を飲む木々たち。風すらも呼吸を止めている。血痕が無いのが唯一の救いといったところか。
顔を見合わせて二人が頷き合う。茂みの奥へ続くさらしを辿ろうと足を持ち上げたとき、眩い閃光が茂みの奥から照射された。直後に嬉しそうな声。
「あややや、特ダネ頂きッ!」
それに続くのは、禍々しい声。
「そぉい!」
「え? うわあああぁぁぁッ――」
かくして、キノコはあらゆるものを浸食し、幻想郷全土へと広がっていったのだった。
<了>
…真面目に脳が溶けそうになりましたぜ
。しかし描写と作品全体で受ける印象が違うんですが―、描写のみでいうと限りなく黒に近いんじゃないんでしょうか。
個人的にはほのぼのとした感じで収まってるんで、OKですがw
ご馳走でした。お腹いっぱいですwww
後書き読むまで、そんなこと思いもしなかったわ。
じゃあ何かというと……ライトホラー?
これは100点上げたいくらい素晴らしいですね。続き所望します!
セーフッ!セーフだよセーフ!
さて、アウトが出るまで続けてもらおうかッ!
アリレミとはなんと斬新な・・・ッッ!!
正直な感想、作品自体もおもしろかった。 でもわざとこの路線を狙うとしたら完全アウトだとも思う。
そぉい!でピュ―っと吹くジャガーを思い出して笑ってしまうw
これは反則モノだぜ・・・
だからこの続きを書くんだ!!
だからここは俺に任せて早く続きを書く作業に戻るんだぁ!
褒められないし、本来控えるべき物。
だから作者さんは、こう誤解のないようはっきりと言うべき「私はここまでなら作品になると思ったッ、反省は後でするが後悔はしていないッ」
ぶっちゃけ、最初から探りながらよりは、自分で引いたラインの内側であると思えば
堂々と出して後で多くの人からダメ出し喰らったら猛反省するぐらいでいいと思うのデスヨ。
あ、俺はセーフアウトより芸術の域だと思います
早々に職務放棄する門番長とメイド長に大笑い。次も楽しみにしてます
是非作者には本質のプラトニックさをドス黒く汚す濃厚なエロティカル百合を描いていただきたい。
その後の紅魔館面子を見て、この館もう駄目だ……と思った。
でも面白かったのでどっちでもいいです(笑)
ちょっとこれまってください
こんなことをされたお嬢様は、これからはティータイムの時間を迎えて紅茶を口に運ぶたびに
この出来事を思い出して赤面してしまうのではないでしょうか?
部下と友人に晒してしまった失態を思い出して不愉快になり、お茶の種類を変えるようにメイドに命じるも、新たに差し出されたローズヒップから舌に与えられる刺激に、あの時の感触を想起してしまい・・・
これはハクタクの出番なのでしょうか!けーねさん!お嬢様の心安らかな午後を返して!!
だがそれがいい。
貧乏巫女といい、これといい氏のクオリティの高さには脱帽ですわ。
……紅魔館がダメすぎて泣けた(嘘
アリスの唾液がしっかりカバーしてくれました
>キノコを見つけたらすぐ食べるのが俺流。
ちょっと詳しく聞こうか
その後は魔理沙の一人称が「私」だったので個人的には気になりませんでした。
ところで永琳にはこのキノコは効くのでしょうか?
けーねが言ってた!!
>私と一緒に森へ帰
の下りはなんかナウシカを思い出した。
>蝶を追いかける振りをして逃げていった。
なんて華麗な職場放棄w
>百合ものは肉体的な繋がりよりも、心の繋がりが大事だと思うのです
分かる! 分かるぜ!
だから早く続きを書く作業に戻るんだ!
さて百点を……あれ?
咲夜さんが感染するまで書くんだ!!
さてそろそろ100点を……ありゃ?