*「こうよう」と「もみじ」をうまく読み分けていただけると嬉しいです。
「やっぱりもみじは綺麗よねえ」
「――ッ!?」
思わず声をあげそうになって、犬走椛は慌てて口を塞いだ。そのつぶやきから数里離れたところに彼女はいるのだが、『のぞき見ている』という後ろめたさが彼女をより臆病にさせていた。
「また姉さんは…。いまは紅葉の話じゃないの、収穫祭に出て、って話!」
「わかっているわよ。ただあんまり綺麗な紅葉だから、口に出ちゃっただけ」
「もー。真面目に聞いてなかったんでしょ。面倒くさいと思うとすぐ紅葉なんだから」
つぶやきの主である、紅葉の神・秋静葉は、憤慨する妹、豊穣の神・穣子を気にもとめず、飄々と秋の山を歩む。穣子はそんな姉の後ろに続きながら、姉の悪癖を咎めている。椛は、そんな姉妹を、いや、正確には静葉だけを、そっと見つめていた。
山頂付近に暮らす犬走椛と、麓に暮らす秋の姉妹神とが出会ったのはつい最近のこと。山頂に造られた新たな神社に挨拶に向かう姉妹を、椛が引きとめたのが始まりだった。
「申し訳ありませんでした!!!」
天狗の領域に踏み込んだ姉妹に即座に攻撃、威嚇した椛は、数刻後、土に埋まってしまいそうな勢いで、頭を下げていた。
敵かと思えば、反撃してこない。気配をよく探れば、それは神のもの。椛は血の気が引くのを感じた。自分は下っ端とはいえ、許されがたい失敗をしてしまった、もう終わりだ。椛は涙ぐみながら、土下座した。それ以外に何をすればいいのか見当がつかなかった。神の裁断を待つのみと、すっかり諦めて、怯えていた。
「…姉さん、どうしよう」
「そうねえ…」
姉妹は姉妹で、困っていた。山中に響くような声量で謝罪され、構わないと言ったのに目の前の天狗は聞く耳を持たない。
いきなりやってきた自分たちも悪いのだから、気にすることないのに。穣子は実直な天狗に好感をもちつつ、厄介に思っていた。真面目すぎる相手は好きだが、苦手だった。「あなた、ひねくれ者だものね」雛は人のこと言えないでしょ。
「姉さんがなんとかしてよ。お説教、得意でしょ」
「そうね、誰かさんがいつもお説教されるようなことしてくれたから、たくさん練習できたもの」
「わ、私だけじゃないでしょ! 雛もけっこう…」
「天狗さん」
穣子をおちょくりながら、静葉は椛の背中に手を添えた。椛はびくっと可哀そうになるくらい震え、返事をしたが、顔をあげることはしない。
「顔あげて。…お名前、教えてくれる?」
「い、犬走椛と申します」
椛は顔をあげて、あらためてその神を見つめた。神は驚いた顔からみるみるうちに満面の笑顔に変わる。
「もみじちゃん? とっても素敵な名前だわ!」
椛をにこにこと見つめて、顔や頭を嬉しそうに撫でてくる静葉。司るものと同じ名前の椛をいたく気に入ったようだ。穣子はやれやれと呆れた様子を露わに、離れたところに座り込んでいたが、椛の視界には入らなかった。穣子だけでなく、他の-静葉以外の何物も、椛は認識できなくなっていた。畏れも、いつのまにか失せていた。
つまりこの瞬間、椛は静葉に、心を奪われてしまったのだった。
以来、椛の休暇には将棋のほかに麓の散策が加わった。
千里を見通す能力をいかして、静葉を見つけては逃げ帰る、そんなことを何度か繰り返し、今日こそは挨拶をしようと意気込んでやって来たのだが、やはり本人を目にすると、それ以上近づけない。そうしているうちに、先刻の科白を聞いてしまったものだから、椛はますます動けなくなっていた。
一方の姉妹は、相変わらず、お互いに譲らない。穣子は姉を喜ばせたい一心で祭りに誘うのだが、有難がられるのが不得手な静葉は、なんとか出なくて済むように、と守りの姿勢である。
「とにかく、今年こそは姉さんも収穫祭に出てよね」
「出ているじゃない、たまに。去年も出たわ」
「最初から! 最後まで! いっつもちょっと顔出したらすぐいなくなっちゃうんだから。ちょっとは『営業』ってものをねえ」
「山ではちゃんと『営業』しているわよ」
「人間にするの! 一番信仰してくれるのは人間なんだからね!」
「うーん…。それはそうだけれど」
豊作を約束する穣子と違い、自分の力は美しい紅葉以外に目に見える恩恵を与えていない。循環の一部を司ることに変わりはないが、収穫祭という場に、自分は不似合いだ…とかなんとかいろいろ並びたてているが、一番の理由は山から出たくないなあ、というものなのは、口が裂けても言えない。むしろ、人間へのサービスは広く見れば職務に含まれるわけだから、静葉の態度は怠慢ととられても仕方がない。穣子は祭りを職務などとは考えずに、ただ楽しいものとして捉えているので、そういう方面の叱責はしない。静葉は扱いやす……素直に育った妹に感動しつつ、屁理屈を続ける。
「ひっそりとでも愛でてくれているのは伝わってくるもの。それが私にとっての信仰だわ」
「ひっそりじゃ…やっぱり祭りのひとつでもないと」
「いいの」
ふっ、と、笑って、紅と黄に染まる木々を仰ぎ見るように振り返って、
「私は…そんな風に、愛されていたいから」
目が、合った。
「………へ?」
椛は間抜けな声を洩らした。追いうちのように、静葉の笑みが深くなる。「ありがとう」くちびるが、そう動く。
「――!!」
(気付いてた!!)
「あ、あああ、愛って…! 馬鹿! そういう話じゃない!」
椛の、悲鳴とも似た吐息をかき消したのは、穣子の叫び声だった。穣子は顔を真っ赤に染めて、慣れない言葉に慌てふためいている。対する静葉は、いつのまにか妹に向き直り、その様子を楽しそうに見つめていた。
穣子はしどろもどろになりつつも信仰と祭りの大切さを精一杯説いたが、
「いい、姉さん、形で示してもらうってのはすっごく大事なことなの。だから……あ、愛とか、それも大事だけど、お祭りも同じくらいね、大事だから…」
「ええ、ええ。わかっているわ。でも私にとっての信仰は、人間が『綺麗』と感じてくれることなのよ」
「だ、だから。それだけじゃなくって」
「穣子。人間は紅葉を見るためだけに山に入ることがあるでしょう。私のお祭りはあれなの。充分すぎるくらいよ。だから収穫祭は、挨拶くらいでいいのよ」
「挨拶って言っても帰るのが早」
「穣子。収穫祭はあなたのお祭りよ? 神さまが二人もいては人間がやりにくいでしょう?」
「………そういうものなの?」
「そういうものよ」
こんな具合に言いくるめられ、結局今年の収穫祭も、静葉は冒頭だけで退散したらしい。椛がそれを知ったのは、「まったく、よくわからない神さまですよねえ。祭りを喜ばないなんて。…あやや、どうしました椛。顔が紅いですよ……ははあ、最近麓をウロウロしてたのはそういう」と、収穫祭を取材したという先輩天狗に聞いたときだった。椛はあの直後-静葉と目が合った直後、天狗の集落まで逃げ帰ってしまったから、姉妹の論争の顛末を知らなかった。「そんなんだから貴女は駄目なんですよ」文様うるさいです。
椛は静葉の視線が外れた途端、石になっていた身体がもとに戻ったような錯覚を覚えた。止まっていた心拍はどんどん加速し、剣を握る手には汗が滲んでくる。関節は鈍い動きからだんだんとなめらかになり、顔の熱さを感じることもできた。ただ思考だけが真っ白のまま、気付けば椛は、とにかくその場から離れようと必死になって走っていた。飛ぶことも忘れ、地に落ちた紅葉に足をすくわれ転ぶまで、無心で走り続けた。
「あうううう…」
紅葉に埋もれながら、椛は呻いた。感情が綯い交ぜになって、よくわからない。静葉がいつから気付いていたのかわからないし、あの笑顔はもしかしたら偶然だったかもしれないし、自分ではない誰かに向けてだったかもしれない。
(それにしても、綺麗だった、なあ…)
はあ、と一息ついて、頭に乗っていた一枚の紅葉を取り払う。ひらひらと舞い落ちる。
椛はぐるぐるになった思考をなんとか抑え込んで立ち上がった。今度こそ話しかけるんだ、そう決意して。
椛が飛び立つと、それに起こされた風が紅葉をふわりと舞わせ、椛の視界を彩った。
「――綺麗な紅葉」
今度会えたら、言いたいな。
「……やっぱり椛は可愛いわ」
「また姉さん………って、え? 可愛い?」
「ええ。可愛いもみじ」
「??」
「やっぱりもみじは綺麗よねえ」
「――ッ!?」
思わず声をあげそうになって、犬走椛は慌てて口を塞いだ。そのつぶやきから数里離れたところに彼女はいるのだが、『のぞき見ている』という後ろめたさが彼女をより臆病にさせていた。
「また姉さんは…。いまは紅葉の話じゃないの、収穫祭に出て、って話!」
「わかっているわよ。ただあんまり綺麗な紅葉だから、口に出ちゃっただけ」
「もー。真面目に聞いてなかったんでしょ。面倒くさいと思うとすぐ紅葉なんだから」
つぶやきの主である、紅葉の神・秋静葉は、憤慨する妹、豊穣の神・穣子を気にもとめず、飄々と秋の山を歩む。穣子はそんな姉の後ろに続きながら、姉の悪癖を咎めている。椛は、そんな姉妹を、いや、正確には静葉だけを、そっと見つめていた。
山頂付近に暮らす犬走椛と、麓に暮らす秋の姉妹神とが出会ったのはつい最近のこと。山頂に造られた新たな神社に挨拶に向かう姉妹を、椛が引きとめたのが始まりだった。
「申し訳ありませんでした!!!」
天狗の領域に踏み込んだ姉妹に即座に攻撃、威嚇した椛は、数刻後、土に埋まってしまいそうな勢いで、頭を下げていた。
敵かと思えば、反撃してこない。気配をよく探れば、それは神のもの。椛は血の気が引くのを感じた。自分は下っ端とはいえ、許されがたい失敗をしてしまった、もう終わりだ。椛は涙ぐみながら、土下座した。それ以外に何をすればいいのか見当がつかなかった。神の裁断を待つのみと、すっかり諦めて、怯えていた。
「…姉さん、どうしよう」
「そうねえ…」
姉妹は姉妹で、困っていた。山中に響くような声量で謝罪され、構わないと言ったのに目の前の天狗は聞く耳を持たない。
いきなりやってきた自分たちも悪いのだから、気にすることないのに。穣子は実直な天狗に好感をもちつつ、厄介に思っていた。真面目すぎる相手は好きだが、苦手だった。「あなた、ひねくれ者だものね」雛は人のこと言えないでしょ。
「姉さんがなんとかしてよ。お説教、得意でしょ」
「そうね、誰かさんがいつもお説教されるようなことしてくれたから、たくさん練習できたもの」
「わ、私だけじゃないでしょ! 雛もけっこう…」
「天狗さん」
穣子をおちょくりながら、静葉は椛の背中に手を添えた。椛はびくっと可哀そうになるくらい震え、返事をしたが、顔をあげることはしない。
「顔あげて。…お名前、教えてくれる?」
「い、犬走椛と申します」
椛は顔をあげて、あらためてその神を見つめた。神は驚いた顔からみるみるうちに満面の笑顔に変わる。
「もみじちゃん? とっても素敵な名前だわ!」
椛をにこにこと見つめて、顔や頭を嬉しそうに撫でてくる静葉。司るものと同じ名前の椛をいたく気に入ったようだ。穣子はやれやれと呆れた様子を露わに、離れたところに座り込んでいたが、椛の視界には入らなかった。穣子だけでなく、他の-静葉以外の何物も、椛は認識できなくなっていた。畏れも、いつのまにか失せていた。
つまりこの瞬間、椛は静葉に、心を奪われてしまったのだった。
以来、椛の休暇には将棋のほかに麓の散策が加わった。
千里を見通す能力をいかして、静葉を見つけては逃げ帰る、そんなことを何度か繰り返し、今日こそは挨拶をしようと意気込んでやって来たのだが、やはり本人を目にすると、それ以上近づけない。そうしているうちに、先刻の科白を聞いてしまったものだから、椛はますます動けなくなっていた。
一方の姉妹は、相変わらず、お互いに譲らない。穣子は姉を喜ばせたい一心で祭りに誘うのだが、有難がられるのが不得手な静葉は、なんとか出なくて済むように、と守りの姿勢である。
「とにかく、今年こそは姉さんも収穫祭に出てよね」
「出ているじゃない、たまに。去年も出たわ」
「最初から! 最後まで! いっつもちょっと顔出したらすぐいなくなっちゃうんだから。ちょっとは『営業』ってものをねえ」
「山ではちゃんと『営業』しているわよ」
「人間にするの! 一番信仰してくれるのは人間なんだからね!」
「うーん…。それはそうだけれど」
豊作を約束する穣子と違い、自分の力は美しい紅葉以外に目に見える恩恵を与えていない。循環の一部を司ることに変わりはないが、収穫祭という場に、自分は不似合いだ…とかなんとかいろいろ並びたてているが、一番の理由は山から出たくないなあ、というものなのは、口が裂けても言えない。むしろ、人間へのサービスは広く見れば職務に含まれるわけだから、静葉の態度は怠慢ととられても仕方がない。穣子は祭りを職務などとは考えずに、ただ楽しいものとして捉えているので、そういう方面の叱責はしない。静葉は扱いやす……素直に育った妹に感動しつつ、屁理屈を続ける。
「ひっそりとでも愛でてくれているのは伝わってくるもの。それが私にとっての信仰だわ」
「ひっそりじゃ…やっぱり祭りのひとつでもないと」
「いいの」
ふっ、と、笑って、紅と黄に染まる木々を仰ぎ見るように振り返って、
「私は…そんな風に、愛されていたいから」
目が、合った。
「………へ?」
椛は間抜けな声を洩らした。追いうちのように、静葉の笑みが深くなる。「ありがとう」くちびるが、そう動く。
「――!!」
(気付いてた!!)
「あ、あああ、愛って…! 馬鹿! そういう話じゃない!」
椛の、悲鳴とも似た吐息をかき消したのは、穣子の叫び声だった。穣子は顔を真っ赤に染めて、慣れない言葉に慌てふためいている。対する静葉は、いつのまにか妹に向き直り、その様子を楽しそうに見つめていた。
穣子はしどろもどろになりつつも信仰と祭りの大切さを精一杯説いたが、
「いい、姉さん、形で示してもらうってのはすっごく大事なことなの。だから……あ、愛とか、それも大事だけど、お祭りも同じくらいね、大事だから…」
「ええ、ええ。わかっているわ。でも私にとっての信仰は、人間が『綺麗』と感じてくれることなのよ」
「だ、だから。それだけじゃなくって」
「穣子。人間は紅葉を見るためだけに山に入ることがあるでしょう。私のお祭りはあれなの。充分すぎるくらいよ。だから収穫祭は、挨拶くらいでいいのよ」
「挨拶って言っても帰るのが早」
「穣子。収穫祭はあなたのお祭りよ? 神さまが二人もいては人間がやりにくいでしょう?」
「………そういうものなの?」
「そういうものよ」
こんな具合に言いくるめられ、結局今年の収穫祭も、静葉は冒頭だけで退散したらしい。椛がそれを知ったのは、「まったく、よくわからない神さまですよねえ。祭りを喜ばないなんて。…あやや、どうしました椛。顔が紅いですよ……ははあ、最近麓をウロウロしてたのはそういう」と、収穫祭を取材したという先輩天狗に聞いたときだった。椛はあの直後-静葉と目が合った直後、天狗の集落まで逃げ帰ってしまったから、姉妹の論争の顛末を知らなかった。「そんなんだから貴女は駄目なんですよ」文様うるさいです。
椛は静葉の視線が外れた途端、石になっていた身体がもとに戻ったような錯覚を覚えた。止まっていた心拍はどんどん加速し、剣を握る手には汗が滲んでくる。関節は鈍い動きからだんだんとなめらかになり、顔の熱さを感じることもできた。ただ思考だけが真っ白のまま、気付けば椛は、とにかくその場から離れようと必死になって走っていた。飛ぶことも忘れ、地に落ちた紅葉に足をすくわれ転ぶまで、無心で走り続けた。
「あうううう…」
紅葉に埋もれながら、椛は呻いた。感情が綯い交ぜになって、よくわからない。静葉がいつから気付いていたのかわからないし、あの笑顔はもしかしたら偶然だったかもしれないし、自分ではない誰かに向けてだったかもしれない。
(それにしても、綺麗だった、なあ…)
はあ、と一息ついて、頭に乗っていた一枚の紅葉を取り払う。ひらひらと舞い落ちる。
椛はぐるぐるになった思考をなんとか抑え込んで立ち上がった。今度こそ話しかけるんだ、そう決意して。
椛が飛び立つと、それに起こされた風が紅葉をふわりと舞わせ、椛の視界を彩った。
「――綺麗な紅葉」
今度会えたら、言いたいな。
「……やっぱり椛は可愛いわ」
「また姉さん………って、え? 可愛い?」
「ええ。可愛いもみじ」
「??」
もじもじもじもじ
目が…目がああ