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こと、と音をたてて筆を置いた。
硯の海と呼ばれる窪んだ部分に落ちた墨は、使われる事のないまま静かな水面をたたえている。
当然、記すつもりで広げた巻物には何も書かれていない。
いつもであれば、備忘録というよりは日記だろうか。誰某の畑から良い野菜が採れておすそわけをもらったとか、今年の例大祭の準備も滞りなく進んでいるだとか、そういったたわいもない事を書き綴るのだが。
ふぅ、と溜息が出る。
別に疲れている訳ではない。筆が進まないのは、他に理由があった。
珈琲でも淹れようか。目が冴えてしまいそうだが、明日は寺子屋も休みだ。多少の夜更かしも許されるだろう。
そう思い席を立ち、焦げ茶の銅器に水を入れ、火にかけた。
沸くまでの間に雑貨屋で買ってきた豆をミルに入れ、挽く。
ざりざりとも、じゃりじゃりとも違う、焙煎豆を挽く特有の音。
ただ無心でその音を耳にしていると、何で悩んでいたのかも分からなくなる。
夢中。そう、夢の中にいるような感覚。現実の中にいても尚浮遊感を得るこの時間が、私は嫌いではない。
ピーッ、という甲高い音がして、夢から覚めた。目を遣ると銅器の小さな蓋がかたかたと音をたてている。お湯も準備が出来たようだ。
粉になった豆を濾紙に入れ、上からお湯を注ぐ。所謂ペーパードリップと呼ばれる方式で、そこまで珈琲への造詣が深くない私でも、ある程度の味は出せる方法だ。
飲むのは私一人だし、拘る程うるさいわけではない。というより、珈琲を粉ではなく、豆を挽く所から飲み出したのは最近なのである。
だから、どちらかと言えば珈琲よりも紅茶の方が知識もあるし、多少ならば味もわかるつもりだ。
だが、最近は専ら珈琲になってしまった。「ある事」に気づいてからは、紅茶よりも珈琲の方が良いという事を知ってしまったのだ。
濾紙の縁までお湯を注ぐと、ぽたぽたと硝子の容器に黒い液体が落ち始めた。一人分といえど、数分はかかりそうだ。
さて、お湯も注いだ事だし、前置はここまでとしよう。情景描写は得意ではない。筆を置いたのは私だが、そろそろ読者ならば本を置く頃合だ。
それでは本題である。珈琲が抽出されるまでの間だけ、不肖私、上白沢慧音の独り言にお付き合い頂きたい。
この静かな夜に私を悩ませているのは何か。
今まで飲んでこなかった珈琲を良しとしてしまう要因は何か。
これらは、同じものだ。
そして、声を大にして言うには些か気恥ずかしい。
だが、結論だけ先に言ってしまおう。
雫になって硝子の容器に溜まり出した珈琲が落ち切るのは、もう幾許もないのだから。
あの迷いの竹林に暮らす奇特な人間。
老いる事も死ぬ事もない白髪の少女。
先刻交わした、その少女とのキスが私の頭を埋めており。
その少女の吸う煙草の残り香と、珈琲の相性がとても良いから。
笑うだろうか。
だが、思い出す度に心の臓を掴まれたような得も言われる感覚に襲われ。
苦い珈琲と合わさると、その感覚にずっと浸っていたくなる私が、確かにいるのだ。
先刻、と言ったがもちろん初めてな訳ではない。
むしろ、初めの頃は口の中に広がる煙草の刺々しい香りに顔を顰めた位だ。
初めては檸檬の味、だなんて言葉があるが、私にとっては煙草の味である。
だから、吸殻の不始末や副流煙を取り上げて禁煙を促したりもした。妹紅は全く以って聞かなかったが。
それもあって、キスというものは特別好きなものではなかったのである。
だが、少し口をつけただけの珈琲が、それを変えてしまった。いや、変わってしまったのは私か。
その日も今日と同じように雑記の途中、一息入れようとした所だった。たまたま村の者が差し入れてくれた粉の珈琲があったのを思い出し、たまにはと淹れてみたのである。
そう、正直忘れていたわけではないが、その日妹紅とキスを交わしたのもあまり気にしていなかった。
だが、琥珀よりも黒い液体を口に含んだ途端。
それは鮮明に。
思い出した。いや、襲ってきたと言うべきか。
消えたと思っていた煙草の残り香は、咥内でまた香りはじめた。
苦い珈琲の味がそれと絡みあって、いつまでも消えてくれない。
気にしていなかったキスの筈なのに、リプレイされているような感覚。苦いけれど少し甘く湿った妹紅の舌。その裏のひだまで思い出した。
この感覚は、経験した者にしかわかるまい。経験してもそれを好みとするかも分からない。
だが、私は溺れてしまった。
その証左に、その次の逢瀬で、初めて自分から妹紅の唇を求めてしまったのだから。
妹紅は少し驚いたようだが、直ぐに応じてくれた。
何分続いたかもわからない口づけのあと、またどこからともなく取り出した煙草を咥えた妹紅は言ったのだ。
「慧音とキスしたあとは、煙草が美味しいのよね」
と。
あぁ。
愛おしいだけの存在だったのに。
吐き出すその煙は嫌いだったのに。
最高に、格好いいと思ってしまった。
今日なんかもっと狡かった。
いつもの様に殺し合いをして。
いつもの様に殺し、殺されて。
いつもの様に自力では動けなくなった妹紅を迎えに行ったのだ。
竹の木に上半身だけ寄りかからせて、妹紅は待っていた。右足は膝下から千切れる様に無くなっている。
身を削る事を無視した殺し合いについて辞めさせる事は諦めているが、それでも小言の一つでも言ってやろうと口を開いた時だった。
手も添えずに煙草をくゆらせた口から煙が漏れて。
「やっと来た。口さみしくて」
煙草を咥えてるのに?
愚問だった。
だから、その口から煙草を外させて地面に落とした。
きちんと火が消えたのを確認したらすぐ。
漏れていた煙が逃げない様に、塞いでやったんだ。
と、済まない。長くなってしまった。はっきり言ってただの惚気だ。面白い筈もないだろう。
見れば、とうに黒い液体は落ち切ってしまっている。少し、冷めてしまっただろうか。
硝子に溜まった珈琲を、カップに移した。香ばしい匂いが鼻腔をくすぐる。
この感覚について言葉を連ねて来たが、伝わってはいないだろう。
あの苦くて蕩ける感覚は、私だけが知っている。
お付き合いありがとう。
夜が深くなる前に、もう休むといい。
私?私の夜は、これからだ。
では、今宵もこの黒い苦みに溺れるとしよう。
一人の夜更かしも、たまには悪くない。
こと、と音をたてて筆を置いた。
硯の海と呼ばれる窪んだ部分に落ちた墨は、使われる事のないまま静かな水面をたたえている。
当然、記すつもりで広げた巻物には何も書かれていない。
いつもであれば、備忘録というよりは日記だろうか。誰某の畑から良い野菜が採れておすそわけをもらったとか、今年の例大祭の準備も滞りなく進んでいるだとか、そういったたわいもない事を書き綴るのだが。
ふぅ、と溜息が出る。
別に疲れている訳ではない。筆が進まないのは、他に理由があった。
珈琲でも淹れようか。目が冴えてしまいそうだが、明日は寺子屋も休みだ。多少の夜更かしも許されるだろう。
そう思い席を立ち、焦げ茶の銅器に水を入れ、火にかけた。
沸くまでの間に雑貨屋で買ってきた豆をミルに入れ、挽く。
ざりざりとも、じゃりじゃりとも違う、焙煎豆を挽く特有の音。
ただ無心でその音を耳にしていると、何で悩んでいたのかも分からなくなる。
夢中。そう、夢の中にいるような感覚。現実の中にいても尚浮遊感を得るこの時間が、私は嫌いではない。
ピーッ、という甲高い音がして、夢から覚めた。目を遣ると銅器の小さな蓋がかたかたと音をたてている。お湯も準備が出来たようだ。
粉になった豆を濾紙に入れ、上からお湯を注ぐ。所謂ペーパードリップと呼ばれる方式で、そこまで珈琲への造詣が深くない私でも、ある程度の味は出せる方法だ。
飲むのは私一人だし、拘る程うるさいわけではない。というより、珈琲を粉ではなく、豆を挽く所から飲み出したのは最近なのである。
だから、どちらかと言えば珈琲よりも紅茶の方が知識もあるし、多少ならば味もわかるつもりだ。
だが、最近は専ら珈琲になってしまった。「ある事」に気づいてからは、紅茶よりも珈琲の方が良いという事を知ってしまったのだ。
濾紙の縁までお湯を注ぐと、ぽたぽたと硝子の容器に黒い液体が落ち始めた。一人分といえど、数分はかかりそうだ。
さて、お湯も注いだ事だし、前置はここまでとしよう。情景描写は得意ではない。筆を置いたのは私だが、そろそろ読者ならば本を置く頃合だ。
それでは本題である。珈琲が抽出されるまでの間だけ、不肖私、上白沢慧音の独り言にお付き合い頂きたい。
この静かな夜に私を悩ませているのは何か。
今まで飲んでこなかった珈琲を良しとしてしまう要因は何か。
これらは、同じものだ。
そして、声を大にして言うには些か気恥ずかしい。
だが、結論だけ先に言ってしまおう。
雫になって硝子の容器に溜まり出した珈琲が落ち切るのは、もう幾許もないのだから。
あの迷いの竹林に暮らす奇特な人間。
老いる事も死ぬ事もない白髪の少女。
先刻交わした、その少女とのキスが私の頭を埋めており。
その少女の吸う煙草の残り香と、珈琲の相性がとても良いから。
笑うだろうか。
だが、思い出す度に心の臓を掴まれたような得も言われる感覚に襲われ。
苦い珈琲と合わさると、その感覚にずっと浸っていたくなる私が、確かにいるのだ。
先刻、と言ったがもちろん初めてな訳ではない。
むしろ、初めの頃は口の中に広がる煙草の刺々しい香りに顔を顰めた位だ。
初めては檸檬の味、だなんて言葉があるが、私にとっては煙草の味である。
だから、吸殻の不始末や副流煙を取り上げて禁煙を促したりもした。妹紅は全く以って聞かなかったが。
それもあって、キスというものは特別好きなものではなかったのである。
だが、少し口をつけただけの珈琲が、それを変えてしまった。いや、変わってしまったのは私か。
その日も今日と同じように雑記の途中、一息入れようとした所だった。たまたま村の者が差し入れてくれた粉の珈琲があったのを思い出し、たまにはと淹れてみたのである。
そう、正直忘れていたわけではないが、その日妹紅とキスを交わしたのもあまり気にしていなかった。
だが、琥珀よりも黒い液体を口に含んだ途端。
それは鮮明に。
思い出した。いや、襲ってきたと言うべきか。
消えたと思っていた煙草の残り香は、咥内でまた香りはじめた。
苦い珈琲の味がそれと絡みあって、いつまでも消えてくれない。
気にしていなかったキスの筈なのに、リプレイされているような感覚。苦いけれど少し甘く湿った妹紅の舌。その裏のひだまで思い出した。
この感覚は、経験した者にしかわかるまい。経験してもそれを好みとするかも分からない。
だが、私は溺れてしまった。
その証左に、その次の逢瀬で、初めて自分から妹紅の唇を求めてしまったのだから。
妹紅は少し驚いたようだが、直ぐに応じてくれた。
何分続いたかもわからない口づけのあと、またどこからともなく取り出した煙草を咥えた妹紅は言ったのだ。
「慧音とキスしたあとは、煙草が美味しいのよね」
と。
あぁ。
愛おしいだけの存在だったのに。
吐き出すその煙は嫌いだったのに。
最高に、格好いいと思ってしまった。
今日なんかもっと狡かった。
いつもの様に殺し合いをして。
いつもの様に殺し、殺されて。
いつもの様に自力では動けなくなった妹紅を迎えに行ったのだ。
竹の木に上半身だけ寄りかからせて、妹紅は待っていた。右足は膝下から千切れる様に無くなっている。
身を削る事を無視した殺し合いについて辞めさせる事は諦めているが、それでも小言の一つでも言ってやろうと口を開いた時だった。
手も添えずに煙草をくゆらせた口から煙が漏れて。
「やっと来た。口さみしくて」
煙草を咥えてるのに?
愚問だった。
だから、その口から煙草を外させて地面に落とした。
きちんと火が消えたのを確認したらすぐ。
漏れていた煙が逃げない様に、塞いでやったんだ。
と、済まない。長くなってしまった。はっきり言ってただの惚気だ。面白い筈もないだろう。
見れば、とうに黒い液体は落ち切ってしまっている。少し、冷めてしまっただろうか。
硝子に溜まった珈琲を、カップに移した。香ばしい匂いが鼻腔をくすぐる。
この感覚について言葉を連ねて来たが、伝わってはいないだろう。
あの苦くて蕩ける感覚は、私だけが知っている。
お付き合いありがとう。
夜が深くなる前に、もう休むといい。
私?私の夜は、これからだ。
では、今宵もこの黒い苦みに溺れるとしよう。
一人の夜更かしも、たまには悪くない。
相手のことを思い出して欲し続けている、幼さすら残る恋。
すごく好きな雰囲気でした。