頬を濡らすその感触で気が付いた。
私は優しく包まれながら夢を見ていた。
その夢が良い夢だったのか悪い夢だったのかは思い出せないけれど、今私を包むこの優しい暖かさは確かな幸いだった。
私はずっと瞳を閉じていた。
優しさと暖かさに抱かれて、冷たく暗い世界に独りきり。
独りは淋しいけれど辛くはなかった。
頬を伝う冷たい感触が私を呼んだ。
顔中にべったりと付着しこべりつき、今もなおボタボタと流れ出し私の顔を朱に染める生命の源。
不快ではなかった。愛しい貴方の、まるで胎内に居るようで。ただ少し淋しいと思うのは貴方が、貴方の生命が段々と冷たくなってしまっていることだろうか。
周囲の喧噪が漏れてくる。魔女が。悪魔が。異物が。消えろ。冷たい声音だけが聞こえて、貴方と私の身を侵す。
目を開けると紅い、私の世界がある。
***
目を開けると紅い、真円の月がある。
荒廃した城と瓦礫で出来た玉座。そこに私は君臨し何をするでもなく空を望んでいた。
ずっと眠っていただけのはずなのに意識には靄がかかって体は気だるさに支配されていて指の一本すら動かすことも出来ない。
仕方なく私は眼前の月を見上げる。
すると紅い世界と紅い月が混じり合い、一層深い雫となって堕ちてきた。
月の流す血の涙。それは惹かれる様に私を目指し、直上、触れ合うような距離で静止した。
涙は少女の形をしていた。ただ人とは異なる存在だと主張するように広げられた羽が十字架のようなシルエットを作り上げていた。
吸血鬼。薄ぼんやりした頭をそんな言葉が過ぎる。
美しい。私は思わず見蕩れてしまう。紅い唇から伸びる紅い牙、陶磁器のように滑らかな真紅の肌に深紅の瞳が紅い世界でなお紅く、切り離されたように孤高であった。
こんな美しい少女が悪魔というなら魔界や地獄もそうそう捨てたものではないかもしれない。
きっと彼女が私を終わらせてくれるのだろう、それならばありがたい事だと思い、――四肢に、力を込める。
右手には指先が動かなくて手放せなくなったナイフが鈍い光を放ち、左手は有り得ない方向に折れた指で懐中時計の感触を確かめる。
笑う膝を押さえつけ幽鬼のように立ち上がり、かれ果てた喉を血で潤すと鮮明な意識が帰ってきた。
少女はこれから起こる事をまるで待ち望み期待しているかのように微笑む。
私が殺意を隠しもせずに歩み寄ると少女は右手を差し出し私の左手を優しく包み、二人の間、胸の高さまで引き寄せる。
それがダンスに誘う仕草であると気づくと、優美な少女に比べ服は汚れ破れて、傷だらけの肌をさらして、挙句砕け潰れた指であることを少しだけ残念だと感じた。
少女ははばたき、三日月のような口で告げる。
――さあ、殺し合い《私と踊り》ましょう――。
***
頬を濡らすその感触で夢から醒めた。
今度は間違いなく憶えている。私は確かに幸いな日々を夢に見た。
不遜で気高い吸血鬼と無邪気で淋しがりな吸血鬼の姉妹と博識で物臭な魔女と生真面目で陽気な門番と、そこにいるいつかの自分の姿を。
でも、そこに貴方はいない。
もう冷たくなってしまった貴方は行けない。
だから、私はその幸せに背を向ける。その幸せに向かっていく幾多の私に別れを告げる。
――そっちの私も、幸せにね――。
すっかり冷たくなってしまった貴方の骸から這い出ると愛しい貴方を取り囲む群集に立ちはだかる。
ごめんなさい、貴方との約束を初めて破ります。貴方は怒るかな。貴方は、怒ってくれるのかな。
右手には銀のナイフ、左手には懐中時計。二つとも、大切な貴方の形見だ。
これ以上貴方を傷付けさせはしない。今までずっと守ってくれた貴方を今度は私が守るから。
懐中時計を胸に、念じる。視界が歪む感覚と共に時間が間延びする。時間を完全に停滞させるだけの力は無いけれど貴方を守ることならこれくらいの力でも問題ない。
私は群集の只中を駆け抜ける。これ以上貴方を汚させまいと、貴方に悪意を向ける群集を殺し尽くす。
銀のナイフは振るわれる度に群衆の首を斬り裂き、額をかち割り、心臓に突き刺さった。
その度に私の体は熱い血潮に塗れる。
最後には切っ先の折れたナイフで喉笛を抉り出すと群集は全て崩れ落ち、私もまた力尽きて倒れ伏した。
――。
不意に私の名を呼ぶ声がした。
だが、私の名前を知っているのは貴方しかいない。今更その事実に呆れ、ふと気付いた。
空を仰ぐと紅い、真円の月がある。
***
頬を濡らすその感触で気が付いた。
既にこの地には動くものは何一つ無い。
貴方の骸を抱く私もまた既に動くだけの力なんてほんの少しも残っていなかった。
死んだ町に雨が降る。雲の無い空に降るそれは月の流す涙のようだった。
町を、血を、私を、洗い流すように月は泣く。
だからだろう、
私は終に泣いていることに気付かなかった。
私は優しく包まれながら夢を見ていた。
その夢が良い夢だったのか悪い夢だったのかは思い出せないけれど、今私を包むこの優しい暖かさは確かな幸いだった。
私はずっと瞳を閉じていた。
優しさと暖かさに抱かれて、冷たく暗い世界に独りきり。
独りは淋しいけれど辛くはなかった。
頬を伝う冷たい感触が私を呼んだ。
顔中にべったりと付着しこべりつき、今もなおボタボタと流れ出し私の顔を朱に染める生命の源。
不快ではなかった。愛しい貴方の、まるで胎内に居るようで。ただ少し淋しいと思うのは貴方が、貴方の生命が段々と冷たくなってしまっていることだろうか。
周囲の喧噪が漏れてくる。魔女が。悪魔が。異物が。消えろ。冷たい声音だけが聞こえて、貴方と私の身を侵す。
目を開けると紅い、私の世界がある。
***
目を開けると紅い、真円の月がある。
荒廃した城と瓦礫で出来た玉座。そこに私は君臨し何をするでもなく空を望んでいた。
ずっと眠っていただけのはずなのに意識には靄がかかって体は気だるさに支配されていて指の一本すら動かすことも出来ない。
仕方なく私は眼前の月を見上げる。
すると紅い世界と紅い月が混じり合い、一層深い雫となって堕ちてきた。
月の流す血の涙。それは惹かれる様に私を目指し、直上、触れ合うような距離で静止した。
涙は少女の形をしていた。ただ人とは異なる存在だと主張するように広げられた羽が十字架のようなシルエットを作り上げていた。
吸血鬼。薄ぼんやりした頭をそんな言葉が過ぎる。
美しい。私は思わず見蕩れてしまう。紅い唇から伸びる紅い牙、陶磁器のように滑らかな真紅の肌に深紅の瞳が紅い世界でなお紅く、切り離されたように孤高であった。
こんな美しい少女が悪魔というなら魔界や地獄もそうそう捨てたものではないかもしれない。
きっと彼女が私を終わらせてくれるのだろう、それならばありがたい事だと思い、――四肢に、力を込める。
右手には指先が動かなくて手放せなくなったナイフが鈍い光を放ち、左手は有り得ない方向に折れた指で懐中時計の感触を確かめる。
笑う膝を押さえつけ幽鬼のように立ち上がり、かれ果てた喉を血で潤すと鮮明な意識が帰ってきた。
少女はこれから起こる事をまるで待ち望み期待しているかのように微笑む。
私が殺意を隠しもせずに歩み寄ると少女は右手を差し出し私の左手を優しく包み、二人の間、胸の高さまで引き寄せる。
それがダンスに誘う仕草であると気づくと、優美な少女に比べ服は汚れ破れて、傷だらけの肌をさらして、挙句砕け潰れた指であることを少しだけ残念だと感じた。
少女ははばたき、三日月のような口で告げる。
――さあ、殺し合い《私と踊り》ましょう――。
***
頬を濡らすその感触で夢から醒めた。
今度は間違いなく憶えている。私は確かに幸いな日々を夢に見た。
不遜で気高い吸血鬼と無邪気で淋しがりな吸血鬼の姉妹と博識で物臭な魔女と生真面目で陽気な門番と、そこにいるいつかの自分の姿を。
でも、そこに貴方はいない。
もう冷たくなってしまった貴方は行けない。
だから、私はその幸せに背を向ける。その幸せに向かっていく幾多の私に別れを告げる。
――そっちの私も、幸せにね――。
すっかり冷たくなってしまった貴方の骸から這い出ると愛しい貴方を取り囲む群集に立ちはだかる。
ごめんなさい、貴方との約束を初めて破ります。貴方は怒るかな。貴方は、怒ってくれるのかな。
右手には銀のナイフ、左手には懐中時計。二つとも、大切な貴方の形見だ。
これ以上貴方を傷付けさせはしない。今までずっと守ってくれた貴方を今度は私が守るから。
懐中時計を胸に、念じる。視界が歪む感覚と共に時間が間延びする。時間を完全に停滞させるだけの力は無いけれど貴方を守ることならこれくらいの力でも問題ない。
私は群集の只中を駆け抜ける。これ以上貴方を汚させまいと、貴方に悪意を向ける群集を殺し尽くす。
銀のナイフは振るわれる度に群衆の首を斬り裂き、額をかち割り、心臓に突き刺さった。
その度に私の体は熱い血潮に塗れる。
最後には切っ先の折れたナイフで喉笛を抉り出すと群集は全て崩れ落ち、私もまた力尽きて倒れ伏した。
――。
不意に私の名を呼ぶ声がした。
だが、私の名前を知っているのは貴方しかいない。今更その事実に呆れ、ふと気付いた。
空を仰ぐと紅い、真円の月がある。
***
頬を濡らすその感触で気が付いた。
既にこの地には動くものは何一つ無い。
貴方の骸を抱く私もまた既に動くだけの力なんてほんの少しも残っていなかった。
死んだ町に雨が降る。雲の無い空に降るそれは月の流す涙のようだった。
町を、血を、私を、洗い流すように月は泣く。
だからだろう、
私は終に泣いていることに気付かなかった。