ざわ、と春風が桜並木を揺らした。
爛漫と花咲く樹々は、薄桃がかった乳白色の波をうねらせる。
うらうらとした春の昼下がり、たゆたう陽光はすべての者に否応なくまどろみを振りまいて、風にしなった花房の揺り籠からは眠気に耐えきれなくなったかのように花弁がまた――はらりはらりと零れ落ちてゆく。
裏に表にひるがえり、ついと舞い降りるのは、ある神社の拝殿。
すでに境内には一面桜雪が降り敷いて、掃いても掃いても参道の全様が見えることはない。掃くはしから、また新たな花びらが積もっていくからだ。
「というわけで、掃除してもムダよね」
誰に言いわけするでもなく呟いて、神社の巫女――博麗霊夢は賽銭箱の隣にに腰を下ろした。
その周囲には何枚もの花びらが先客として押しかけていて、一掬【いっく】の参拝客に空谷の跫音【くうこくのきょうおん】たる博麗神社といえども、このような来客は有難迷惑でしかない。
まして賽銭の得られない闖入客など、手ずから歓迎する必要もなく……そればかりか、さらに仕事を増やしていくような輩も、近頃は随分と増えた。
霊夢は傍らに用意しておいたお茶をすすり、ほうと息をつく。
「――で、あんたは何の用?」
桜の樹の向こうから、ぎくりと音が聞こえたように思う。
境内に漂う冷気――いくら花冷えの頃といっても、さすがに肌寒いのではやりすぎだ。日射しの穏やかな午後も午後、未の刻も一つをすぎて、奇怪に思わないわけがない。相変わらず身を隠す気があるのかないのかよくわからない奴だ。
桜の陰にしばらく逡巡するような気配、
いきなり目の前に飛んできた氷の塊をひょいと避けて、霊夢は格子戸にぶつかって跳ね返ったそれを目で追い、からからと音をたてて石畳を転がっていく氷塊の中にはカエルがまるごと一匹。
「別に来るなとは言わないけどね、せめて氷漬けの蝦蟇じゃなくて、お賽銭のひとつも持ってきたって罰は当たらないと思うわよ?」
「……うるっさいなー。ヒマそうだから遊んでやろうと思ったんじゃんか」
「それならそれで、正面から来ればいいじゃない」
いたずらを見つかった子供のような調子で――いやまあ実際それ以外の何ものでもないのだが――妖精が一匹顔を出す。
冷気を操る程度の氷精、チルノである。
チルノは憤懣やるかたないといった表情で霊夢を睨むが、さて睨まれるほうといえば飄々としたものだ。
「忙しいとは言わないけどね。急ぐ理由もないし……それで、何の用?」
「用がなかったら、来ちゃダメだっての?」
「ダメとは言わないけど」
「だってヒマそうだったから」
「あんたとの会話は堂々巡りねぇ」
苦笑をひとつ。
けれど、霊夢はそんなチルノとの単調な会話が、嫌いではない。
なにがしかの縁で知り合った者たち――ひと癖もふた癖もある人妖たちには、それぞれ抱えている複雑な、あるいは重苦しい来歴がある。そうした盤根錯節の中で、チルノの簡明な性分は時として快い。
なんだかんだと理由にもなっていない理由をつけてやってくる、このいたずらっ子を邪険に扱えないのも、そういったチルノの気質に由【よ】るところが大きいのだろう。
「いつもの面子は一緒じゃないのね?」
「なーんか、みんなやることがあるんだってさ。つまんないの」
転がっていた蝦蟇の氷漬けを、スカートの中にごそごそと仕舞い込みながらチルノが答える。
どこに仕舞ってるんだ、というツッコミはさて置き――彼女が言うには、てゐは月兎と一緒に薬売りに出かけ、リグルはこの春成虫する幼生たちの世話にてんてこ舞い、大妖精もあちらこちらへ手伝いに呼ばれ、ルーミアは相変わらず無目的にどこを漂流しているのやら。
……最後の一人はともかくとして、呑気で穏やかな日射しとは対照的に自然界は大忙しのようだった。
かしまし娘たちの姿が見えないのはそのせいであるらしい。チルノたちはその稚気さゆえに意気投合したのか、よく連れ立って遊びにやってくるのだ。
だがそれならば尚のこと、
「遊び相手もいないのに、なんで来たの」
「ん」
チルノが指をさしてくる。
遊べということか。霊夢はひらひらと手を振って、投げやりな調子に返す。
「私はこう見えても忙しいのよ」
「嘘だ。さっき忙しくないって言ったじゃんか」
ぐ。
バカのくせに意外と鋭い。
「それにほら、もうココはあたいの庭みたいなもんだし!」
「……あのねえ、」
勝手に自分の庭にしないでいただきたい。
そういえば、動物の中にはマーキングをして縄張りの所有権を主張する種族もいると聞く。知らないうちに、鎮守の森や鳥居のあたりに無許可で何か刻印されたりしていないだろうか。なんだか心配になってきた。今度ひと通り確認しておかなくちゃ、と霊夢は空白の目立つ脳内の予定帳に書き加えておく。
けれどもまあ、実情として境内が庭というか何というか、チルノたちの遊び場の一つになってしまっているのは否定できないところではある。ここで戯れる彼女たちの姿は日常的とまではいかなくとも「いつもの風景」として溶け込んでしまっている節があるのだ。元気いっぱいに騒ぎ回る彼女らにつき合わされていると、一挙に妹が増えたようで、呆れるような微笑ましいような、多子家庭の長女ならばこんな気分にもなるのだろうか……なんて益体もないことをしみじみと考えてしまったりする。
それはそれとして。
何故か腕を組んで得意げな表情をしている氷精に霊夢は半目を向ける。
こうして毎度思うのは、どうしてわざわざうちの神社に来る必要があるのか、ということだ。
氷精たちに限らず、妖怪、吸血鬼、幽姫、月の民、魔法使いに人形遣い、あっちの世界やこっちの世界の諸所方々、天壌乾坤津々浦々、なんでもござれの幻想郷の中で最も混沌たる渦中が何故うちの神社であらねばならないのか、悩む月日は幾星霜――とまではいかなくとも、すくなくともここ最近の頭痛の種ではあるのだった。
しかも彼奴らは賽銭の一文さえ落とさぬときた。まことに嘆かわしい。
さも当然のように上がりこんで茶をすすり、菓子まで平らげて去っていくその生態は「ぬらりひょん」以外の何ものでもなく、それがなお何匹にも増えた現状なれば、貧乏神のタチの悪さにさえ勝るに違いない。
……なんだか腹が立ってきた。
今日もまた押しかけてきた妖精がやれ遊べと要求する。気の向かない無賃労働など自分の趣味ではないというのに。
そのくせ一銭にもならない異変解決に東奔西走させられているわけだが、あれは仕事なのだから仕方ないのだと思う。結局お金になっていないのだから無賃労働でしかないという事実は、この際考えないことにする。
「ねね、いーでしょいーでしょっ」
「……残念だけど、遊ぶなら他所にして」
やっぱり霊夢は追い返すことにした。
多人数で押しかけられるとその勢いに圧倒されてしまうが、今日は相手も一人なのだ。
「え、なんで。ヒマなんでしょ」
「これから忙しくなるの」
「えー」
断られるとは思っていなかったのか、チルノが不服そうに口を尖らせる。普通に考えれば相手をしてもらえるはずもなかろうに、しかしそこはチルノなのだ。アレなのだ。普通に考えろというのがそもそも無茶な要求なのかもしれなかった。
「ほら、他に用事がないんだったら帰った帰った」
「む~……わかった」
ふくれっ面で目の前の紅白を睨んでいたものの、チルノは大人しく背を向けて引き下がっていった。
その様子に霊夢は、おやと思う。
いつもだったら嫌がろうがなんだろうが、相手が降参するまで食い下がるスッポンのようなしつこさがなかった。ヘンな物でも拾って食ったのだろうか。あり得る話だ。
飛び去ってゆく氷精の後姿を見送りつつ、
「……気まぐれなものね」
自身のことは棚に上げて、巫女は盆に載った煎餅に手を伸ばす。
パリン、と乾いた音が昼下がりの境内に散った。
後に彼女は思うことになる。
異変というのは、それと知らぬうちに始まっているものなのだと――。
爛漫と花咲く樹々は、薄桃がかった乳白色の波をうねらせる。
うらうらとした春の昼下がり、たゆたう陽光はすべての者に否応なくまどろみを振りまいて、風にしなった花房の揺り籠からは眠気に耐えきれなくなったかのように花弁がまた――はらりはらりと零れ落ちてゆく。
裏に表にひるがえり、ついと舞い降りるのは、ある神社の拝殿。
すでに境内には一面桜雪が降り敷いて、掃いても掃いても参道の全様が見えることはない。掃くはしから、また新たな花びらが積もっていくからだ。
「というわけで、掃除してもムダよね」
誰に言いわけするでもなく呟いて、神社の巫女――博麗霊夢は賽銭箱の隣にに腰を下ろした。
その周囲には何枚もの花びらが先客として押しかけていて、一掬【いっく】の参拝客に空谷の跫音【くうこくのきょうおん】たる博麗神社といえども、このような来客は有難迷惑でしかない。
まして賽銭の得られない闖入客など、手ずから歓迎する必要もなく……そればかりか、さらに仕事を増やしていくような輩も、近頃は随分と増えた。
霊夢は傍らに用意しておいたお茶をすすり、ほうと息をつく。
「――で、あんたは何の用?」
桜の樹の向こうから、ぎくりと音が聞こえたように思う。
境内に漂う冷気――いくら花冷えの頃といっても、さすがに肌寒いのではやりすぎだ。日射しの穏やかな午後も午後、未の刻も一つをすぎて、奇怪に思わないわけがない。相変わらず身を隠す気があるのかないのかよくわからない奴だ。
桜の陰にしばらく逡巡するような気配、
いきなり目の前に飛んできた氷の塊をひょいと避けて、霊夢は格子戸にぶつかって跳ね返ったそれを目で追い、からからと音をたてて石畳を転がっていく氷塊の中にはカエルがまるごと一匹。
「別に来るなとは言わないけどね、せめて氷漬けの蝦蟇じゃなくて、お賽銭のひとつも持ってきたって罰は当たらないと思うわよ?」
「……うるっさいなー。ヒマそうだから遊んでやろうと思ったんじゃんか」
「それならそれで、正面から来ればいいじゃない」
いたずらを見つかった子供のような調子で――いやまあ実際それ以外の何ものでもないのだが――妖精が一匹顔を出す。
冷気を操る程度の氷精、チルノである。
チルノは憤懣やるかたないといった表情で霊夢を睨むが、さて睨まれるほうといえば飄々としたものだ。
「忙しいとは言わないけどね。急ぐ理由もないし……それで、何の用?」
「用がなかったら、来ちゃダメだっての?」
「ダメとは言わないけど」
「だってヒマそうだったから」
「あんたとの会話は堂々巡りねぇ」
苦笑をひとつ。
けれど、霊夢はそんなチルノとの単調な会話が、嫌いではない。
なにがしかの縁で知り合った者たち――ひと癖もふた癖もある人妖たちには、それぞれ抱えている複雑な、あるいは重苦しい来歴がある。そうした盤根錯節の中で、チルノの簡明な性分は時として快い。
なんだかんだと理由にもなっていない理由をつけてやってくる、このいたずらっ子を邪険に扱えないのも、そういったチルノの気質に由【よ】るところが大きいのだろう。
「いつもの面子は一緒じゃないのね?」
「なーんか、みんなやることがあるんだってさ。つまんないの」
転がっていた蝦蟇の氷漬けを、スカートの中にごそごそと仕舞い込みながらチルノが答える。
どこに仕舞ってるんだ、というツッコミはさて置き――彼女が言うには、てゐは月兎と一緒に薬売りに出かけ、リグルはこの春成虫する幼生たちの世話にてんてこ舞い、大妖精もあちらこちらへ手伝いに呼ばれ、ルーミアは相変わらず無目的にどこを漂流しているのやら。
……最後の一人はともかくとして、呑気で穏やかな日射しとは対照的に自然界は大忙しのようだった。
かしまし娘たちの姿が見えないのはそのせいであるらしい。チルノたちはその稚気さゆえに意気投合したのか、よく連れ立って遊びにやってくるのだ。
だがそれならば尚のこと、
「遊び相手もいないのに、なんで来たの」
「ん」
チルノが指をさしてくる。
遊べということか。霊夢はひらひらと手を振って、投げやりな調子に返す。
「私はこう見えても忙しいのよ」
「嘘だ。さっき忙しくないって言ったじゃんか」
ぐ。
バカのくせに意外と鋭い。
「それにほら、もうココはあたいの庭みたいなもんだし!」
「……あのねえ、」
勝手に自分の庭にしないでいただきたい。
そういえば、動物の中にはマーキングをして縄張りの所有権を主張する種族もいると聞く。知らないうちに、鎮守の森や鳥居のあたりに無許可で何か刻印されたりしていないだろうか。なんだか心配になってきた。今度ひと通り確認しておかなくちゃ、と霊夢は空白の目立つ脳内の予定帳に書き加えておく。
けれどもまあ、実情として境内が庭というか何というか、チルノたちの遊び場の一つになってしまっているのは否定できないところではある。ここで戯れる彼女たちの姿は日常的とまではいかなくとも「いつもの風景」として溶け込んでしまっている節があるのだ。元気いっぱいに騒ぎ回る彼女らにつき合わされていると、一挙に妹が増えたようで、呆れるような微笑ましいような、多子家庭の長女ならばこんな気分にもなるのだろうか……なんて益体もないことをしみじみと考えてしまったりする。
それはそれとして。
何故か腕を組んで得意げな表情をしている氷精に霊夢は半目を向ける。
こうして毎度思うのは、どうしてわざわざうちの神社に来る必要があるのか、ということだ。
氷精たちに限らず、妖怪、吸血鬼、幽姫、月の民、魔法使いに人形遣い、あっちの世界やこっちの世界の諸所方々、天壌乾坤津々浦々、なんでもござれの幻想郷の中で最も混沌たる渦中が何故うちの神社であらねばならないのか、悩む月日は幾星霜――とまではいかなくとも、すくなくともここ最近の頭痛の種ではあるのだった。
しかも彼奴らは賽銭の一文さえ落とさぬときた。まことに嘆かわしい。
さも当然のように上がりこんで茶をすすり、菓子まで平らげて去っていくその生態は「ぬらりひょん」以外の何ものでもなく、それがなお何匹にも増えた現状なれば、貧乏神のタチの悪さにさえ勝るに違いない。
……なんだか腹が立ってきた。
今日もまた押しかけてきた妖精がやれ遊べと要求する。気の向かない無賃労働など自分の趣味ではないというのに。
そのくせ一銭にもならない異変解決に東奔西走させられているわけだが、あれは仕事なのだから仕方ないのだと思う。結局お金になっていないのだから無賃労働でしかないという事実は、この際考えないことにする。
「ねね、いーでしょいーでしょっ」
「……残念だけど、遊ぶなら他所にして」
やっぱり霊夢は追い返すことにした。
多人数で押しかけられるとその勢いに圧倒されてしまうが、今日は相手も一人なのだ。
「え、なんで。ヒマなんでしょ」
「これから忙しくなるの」
「えー」
断られるとは思っていなかったのか、チルノが不服そうに口を尖らせる。普通に考えれば相手をしてもらえるはずもなかろうに、しかしそこはチルノなのだ。アレなのだ。普通に考えろというのがそもそも無茶な要求なのかもしれなかった。
「ほら、他に用事がないんだったら帰った帰った」
「む~……わかった」
ふくれっ面で目の前の紅白を睨んでいたものの、チルノは大人しく背を向けて引き下がっていった。
その様子に霊夢は、おやと思う。
いつもだったら嫌がろうがなんだろうが、相手が降参するまで食い下がるスッポンのようなしつこさがなかった。ヘンな物でも拾って食ったのだろうか。あり得る話だ。
飛び去ってゆく氷精の後姿を見送りつつ、
「……気まぐれなものね」
自身のことは棚に上げて、巫女は盆に載った煎餅に手を伸ばす。
パリン、と乾いた音が昼下がりの境内に散った。
後に彼女は思うことになる。
異変というのは、それと知らぬうちに始まっているものなのだと――。
焦る事もないと思いますから、考えたままゆっくり完成させればよいのだと思います。
折角言葉は綺麗なのですから、何も自分から可能性をつぶす必要もないのではとお節介にも思う訳です。必要か不要かは、そして内面に留めるべきものかと。
もし完成品が出来るのならば楽しみにしています。
これから異変が起きるみたいですが、一体誰が何を起こすのかが楽しみです。
きっとチルノだろうなぁ。チルノだったら良いなぁと思いつつ次回作を待ちたいと思います。
この続き部分が気になります。
わざわざコメントありがとうございます。
そうですね、言い訳がましいアトガキでした。御不快の念を与えましたら申し訳ないです。
こういった場に投稿するのは初めてで舞い上がってしまったのかもしれません。素人のやったこととご寛恕いただければ幸いです。
>>2さま
ありがとうございます。
現在なかなか筆を進められない状況ですが、なんとか早いうちに書き上げたいと思います。
その際は、また読んでいただけたら嬉しく思います。
>>3さま
読んでいただいてありがとうございます。
あまり文章を人に見せたり褒められたりといった経験がないので、そう言っていただけるとありがたいです。
続きもがんばって書きたいと思います。
>>ヨン様
……は、いませんね。
最近ニュースをあまり見ていないのですが、どうしているんでしょうか。
と、どうでもいいことを。