Coolier - 新生・東方創想話ジェネリック

さよならルペリカリア

2018/02/14 15:39:26
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バレンタインデー、という日本では商業主義的な単語が耳に入るたびに、霧雨魔理沙はほんの一瞬だけ、酷く困ったような顔をする。眉根を寄せて、口をへの字に曲げて、それから誰もいない宙空に視線を投げかける。普段から彼女の顔を注視しているような気持ち悪い人間にしかそのことに気づけるはずもないくらいに、それは本当に刹那的で、コンマ一秒だとか、瞬きの間だとか……そういう表現が適当だと思えてしまう。
 魔理沙の表情はその瞬間を過ぎるとすぐに元の、人を食ったような笑みをたたえたそれに戻って、その単語を口にした友達に向かって、そうだな、と相槌を打つ。楽しみだな、だったかもしれない。要は肯定的で、それでいて簡潔な一言。それを口にしてから、失った空気を取り戻すかのように大きく息を吸って、自然に話題を変えようとする。彼女は会話が好きだけれど、決して上手な方ではない。だから、その不自然な話題の変え方に、誰もが違和感を覚えるのだ。アリスさん、魔理沙ってバレンタイン嫌いなの? という質問は、去年も多くの女子から散々訊かれた。私はそのたびに知らない振りをして、さぁ、と肩を竦めるようにしている。
 中学の頃の魔理沙を知っている人は、その理由にすぐにぴんとくるだろう。多少ひねくれてはいるが、快活で、頭もそれなりに良くて、可愛らしい学生だった。持ち前の積極性と人好きのするキャラクターは男子のみならず、……むしろ女子のハートを掴んで離さなかった。そのせいで、毎年二月の半ばを過ぎると、魔理沙は肌荒れを気にして手鏡を見る頻度が増えた。甘いものの食べ過ぎ。予想は可能でも、回避は不可能だった事態だ。
 まぁ、つまり、そういう理由。
 魔理沙がその日を微妙な表情で迎えるのは、多くの生徒からどっさりと送られるお菓子の山に埋もれるのが嬉しくて、それでいてちょっとだけ困るから、という贅沢な悩みがあるのだろう、というのは、昔馴染みの友達なら誰にでも容易に想像できた。中学では三年間続けてそうだったのだから、高校でも魔理沙がそういう人物である限りは同じ事態が発生するのは想像に難くない。
 では彼女が、お菓子の山を回避するために自分を変えるのかといえば、当然ながら答えはノーだ。肌が荒れたり、食べ切るのに困ったりするのはささやかな付属要素に過ぎない。そもそも愛されるということを嬉しく思っている以上は、天秤にかけるまでもないというのは考えるまでもなくわかりきったことだ。それに……一年の内のたった短い期間のために策を弄するほど、魔理沙は器用ではない。
「アリス」
 前を歩いていた魔理沙がふいにこちらを振り向く。ずっと話していた友人は既に魔理沙との会話を終えて、反対側のホームに向かって歩いていくところだった。高校に入ってから、こういう関係は増えたように思う。中学のときは、みんな徒歩で学校まで来ていたから、電車が来る時間に縛られることもなくて、日が落ちて叱られる時刻になるまでは、いつまでも話していた。
 私は、魔理沙の後ろで止まることなく移り変わる楽しげな会話を聴いていた。
 瞳を閉じていたから、日が落ちるのにも気づかなかったんじゃないかと、今になって、思う。
「……行こう?」意識を戻すと、怪訝そうな顔で魔理沙がこちらに手を伸ばしていた。
「あ、うん、そうね」
 短いその言葉に、出そうと思っていたよりも低い声で答えて、私は差し出された彼女の手をそっと握った。駅のホームのような人混みでは、向かい合ってのんびり話しているような余裕はない。他の人の迷惑にもなるし、もともとあまり大きな声のでない私は、喧騒の中で声が届かないのを嫌った。
 思索に耽っていた私は徐々に周囲の状況を把握していって、魔理沙が足を止めたところでようやく意識が現実に戻ってきた。昔からの悪癖。だいたい、タスクを二つ以上を同時に動かすのが苦手だ。そうそう、それで、どこまで考えていたっけ……。
「あぁ、そうだ、バレンタイン」
「何だって?」
 ぽつりと漏らした言葉に、魔理沙は顔を顰めてこちらを睨んだ。両手には紙袋いっぱいの、可愛らしく包装されたお菓子の山。二月の十四日というのは今日のことで、つまり、魔理沙が抱えている愛の山もその賜物だ。同じクラスの女子からは全員分、他のクラスからも大量のお菓子がなだれ込んできてさぁ、と苦笑交じりに話していたのをさっきまで後ろで聞いていた。嬉しい悲鳴、というのだろう。コースの違う文系クラスからも、魔理沙へチョコレートやらクッキーやらを渡しに行った生徒は少なくない。何故か男子も慣れないお菓子作りに挑戦していたりして、冗談交じりに渡せる相手として霧雨魔理沙を選んだ人も割と多いようだった。
 そうなるであろうことを見越して、前々日くらいからチョコレートをひたすら作り続ける魔理沙の姿は、少々滑稽でもあり、尊敬するところでもあった。私がそれを手伝ったことは一度もない。正真正銘、霧雨魔理沙の手作りチョコをみんなはもらうことができている、というわけだ。
「アリスからその単語が出るなんて、珍しいよな」
 一段と低くなった声で魔理沙は言った。落ち着かないように足先を動かして、ホームの白線を踏んだり、点字ブロックを撫でるようになぞったりと忙しない。
「まぁ、当日だから」淡々と口にする。
「バレンタイン、嫌いなくせに」
「何言ってるのよ」私は苦笑と共に肩を竦めた。「嫌いなのは魔理沙でしょ?」
「誰のせいだと」吐き捨てるように呟いてから、両手に抱えた紙袋を睨みつける。「毎年、なんだかんだ理由つけて、誰にも渡してないじゃん、アリスってさ」
「そうね」
 そう、そう、それだ。
 本当は、みんなからお菓子を貰うのが嫌で、バレンタインが嫌いなのではない。魔理沙は、そういう人ではない。みんなが思っている以上に愛に飢えていて、貪欲な彼女は、本来ならバレンタインデーは大好きなイベントになるはずだった。甘いものは大好きだし、チョコレートなんてまさに好物。
 ……魔理沙の両手の紙袋の中に、アリス・マーガドロイドの作ったチョコレートは入っていない。渡していない、というのが正確な表現で、今年はおろか、私は生まれてからただの一度だって、魔理沙にチョコレートを作って渡したことはなかった。
 彼女はそれが気に入らないのだ。
 それが、真相。
 霧雨魔理沙が、今日という日が楽しみになれない、唯一の理由だ。
「アリス」ぽつりと口にされる名前。
「なに」
「電車、きたよ」
「ええ」
 甲高い音を響かせながらホームに滑り込んできた列車が、腹の中から大勢の客を吐き出す。ここは県内でも大きな駅で、それゆえに乗る人も降りる人も多い。外へと出ていく全員を見送ってから魔理沙は私の手をとって、多少強引に車内へと引っ張った。シートは空いていなかったから、彼女は奥へと歩いていって、ドアの横に身体を預けてこちらをじっと見つめた。
 ぴりぴりしている。
 別に怒ってなんかいないけど? などと今にも言い出しそうな顔がちょっとだけおかしくて、私はくすりと顔を綻ばせた。すぐに魔理沙の表情がむっとしたそれに切り替わって、桜色の唇からふっとため息が洩れる。
 ……きっかけは、本当に些細なことだった。
 幼かったのは私であって、魔理沙ではない。
 確か、小学五年生の頃の、バレンタインデーだ。私はお菓子作りの本と睨めっこしながら初めて作ったチョコを、不恰好にラッピングして、まりさへ、なんて下手くそな文字で書いたカードを添えて、学校へ持って行くことにした。登校は一緒だったからそのときに渡せばよかったのだけれど、何だか気恥ずかしくて、後にしよう、と思ってしまったのだった。
 ――わぁ、ありがとう!
 当時から誰にでも人気だった魔理沙が、多くのチョコを受け取るであろうということは、幼い私でも想像ができただろうに。
 体裁上叱りながらも、渋々持ち帰るための紙袋を先生が用意してくれて、それにたくさんの愛を詰め込んで、魔理沙が嬉しそうに笑っていたのを、少し離れたところで見つめていて。
 ……醒めた、というのが、一番近い表現だと思う。
 何だか、興醒めしてしまった。
 その理由を述べようと思えばいくらでも淡々と口にできるのだけれど、そうするまでもない、と思ったんだ、確か。だから、特に何も言わずに、学校にいるというのに、私は自分で作ったチョコをその場で開けて、口の中に放り込んで、噛み砕いた。アラザンが音を立てて、そこでようやく魔理沙を囲んでいた輪の中の一人が私に気づいて、アリスちゃんいけないんだ! と私の無表情に向かって指を差したのだった。
 あれが、自覚している上では、アリス・マーガドロイドが学校でおこなった、最初で最後の我儘。
 そのときの魔理沙の顔は、ただ、呆然としていた。アリスのチョコレートも当然貰えるだろう、と高を括っていたのだろう。それが目の前で崩れ去って、魔理沙はその瞳を僅かに震わせて、血の気の失せた顔で、ありす? と呟いた。
 たぶん、私は泣きそうになっていたのだろう。
 むしろあのとき泣いてさえいれば。あるいは魔理沙にはっきりと文句を……いや、何を言うというのだろう? 何で私の方を見てくれないの、だなんて、普段から両親と共に過ごせていなかった私は、小学生にしては達観したような素振りをとっていた私には、言えるはずもなかった。母がずっと自分と一緒にいてくれないのは、病院にやってくる患者が大切だからだし、魔理沙がそのとき私を見てくれなかったのは、私に期待してくれなかったのは、単純に……。
 チョコは不味かった。
 最悪の味だった。
 塩なんて入れた覚えはなかったのに、しょっぱかった。
 きっと、どこかで間違えたのだろう。あの味は、高校二年になった今でもどういうわけか覚えている。あのときの手順も忘れていなくて、あの不味いチョコレートは、きっと材料と環境さえ揃っていれば今すぐにだって作れそうだった。
 魔理沙にとっての一番の人物というのは存在しない、というのを知ったのも、そのときだ。
 幼かったのは私。
 けれど、私は今でもささやかな復讐を続けている。
 長い付き合いの中で、多くの我儘を、主張を通してきた魔理沙を受け入れてきた私の、最後の抵抗。
 ――アリス、チョコちょーだい。
 ――イヤよ。
 以来、バレンタインデーになると必ずクラスのみんなの前で行われるやり取りが、これだ。
 生まれてから一度も、誰にもチョコレートをあげることなく育ってしまった私は、一番この日から縁が遠くて、因縁深い関係になってしまった。
「アリスはさぁ」高速で流れていく窓の外に目をやりながら、魔理沙が呟く。「わたしのこと、嫌い?」
「なにそれ」私は笑った。「そんなわけないでしょ、大好きよ」
 躊躇なく愛を囁いてみせた私に、周囲から一瞬だけ視線が注がれるのを感じた。すぐに逸らされて、もとの、幽かなざわつきを孕んだ空気が戻ってくる。日本人らしい反応だ、と内心でそっと笑う。
 コンマ一秒、面食らったように目を見開いた魔理沙はすぐに元に戻って、そう、とだけ呟いてから頷く。窓の外を見る視線は変わっていなかったけれど、それは反射した私の顔を見ているだけだということに気がついた。いつもは気持ち悪いくらい積極的なのに、こういうときだけ妙に、動きが鈍いな、と思う。
 言葉を選ぼうとしているのも、そういうところも、魔理沙らしくない。
「くじ引き、やっていい?」
「ん?」ぽつりと洩らされた声に、首を傾げる。「あぁ、あれ? いいけど……」
 中学一年の二月に、魔理沙にチョコをせがまれたときの話だ。私は前年と同じように断ったのだけれど、クラスの友達がそれじゃあ可哀想だよ、なんて言うものだから、翌日くじ引きを持っていったのだ。割り箸を四本用意して、私の名前が書いてあるものを引けたら、チョコをあげるわ、と微笑んでみせた。
 それを機会にこの奇妙な復讐なんておしまいにしてしまえばよかったのに、やっぱり私は幼くて、意地になっていたようで。
 当然のように四本の中に当たりなんかなくて、魔理沙はパフォーマンスのように引き抜いた一本を見て、がーん、と声に出して悲しんだジェスチャをしていたのを思い出す。中学の三年間はその制度が採用されて、今年の魔理沙はアリスからチョコを貰えるのか、なんて囃し立てられた。
 きっと、本当にパフォーマンスにすぎなくて、学校が終わった後に渡してもらっているのだろう、とみんなは思っていたのに違いない。だって、アリス・マーガドロイドは魔理沙の一番の親友で、そんな人物が魔理沙が可哀想になるようなことをするはずがないからだ。
 魔理沙はもちろん、気づいていた。
 初めから当たりなんてないことに。
 誰が考えたって、想像くらいはできるだろう。幼馴染で、心の通じ合った相手であれば、尚更。
 ……そのはずなんだけど。
「でも、どうしてまた? 去年はやらなかったじゃない。高校でまでやる必要ないよ、なんて言ったのは魔理沙でしょ」
「んー、ううん、やりたくなった、っていうだけじゃ、ダメか」
「別にいいけど」歯切れの悪い言葉に、私は首を傾げるしかできない。
 もしかして、気づいていなかった?
 確かに暗黙の了解のようなものだと思っていて、言葉にして確認したわけではないから、私の認識が間違っていた可能性はあるけれど……。
「アリス、結局今まで誰にもあげてないんだろ?」
「チョコ? まぁ、そうね」
「初めては、ずっとわたしにとっておいてくれてる、ってわけだ」
「あら、ポジティブね」一瞬の息苦しさを吐き出して、軽口を叩く。
「そりゃあ、前向きじゃないとね。わたしはポジティブじゃないと死んじゃう病気にかかってるから」
 電車が止まって、私が何か言葉を返す間もなくドアから吐き出される。幻想町も大きい街だから、やっぱり降りる人が多い。学校のある駅と違ってこちらは住宅街がメインだから、この時間だと乗る人は少ない、というのが違いだろう。
 改札を抜けて、家の方へと歩いていく。さっきの私の言葉のどこかに気に入る点があったのか、少しだけ機嫌を良くした彼女は、半ばスキップ気味で前を歩いていく。私は早足にしないとちょっと追いつけなくて、文句を言おうかと数秒、頭の中でその光景をシュミレートした。ちょっと待ってよ、と言ったらどう返してくるか、という予測。けれどいつものように上手く想像できなくて、私はため息と共に不満を吐き出した。
「あぁ、でも、当日にやっても意味ないんじゃ……だって、もしも当たったとしても、チョコなんて作ってないわ」文句の代わりに出てきたのはそんな言葉で、思っていた通りに喋れなかったことに驚く。
「いいよ、別に。チョコを贈るなんて、日本のビジネスに利用されているだけよ、って言ってたのはアリスだろ?」魔理沙は笑った。どうやら、本当に気づいていないみたいだ。「別に今日中じゃなくたって、アリスが初めてをわたしにくれれば、それで」
 家は駅から近い。視界の隅に香霖堂の看板が映って、私は歩みを遅くした。普段のペースに戻した、というのが本当のところ。魔理沙が先に進んでしまっても、止まることはわかっているから後から追いつけばそれでいい、という判断だった。
 案の定魔理沙は私を気にすることなく先に進んでいって、すぐに止まった。
 けれど、魔理沙の家の前ではなくて、私の家の前だ。
「あ、なに……私の部屋に来るのね?」
「いいだろ?」
「構わないけれど」追いついて、バッグから鍵を取り出して魔理沙に渡す。彼女がドアを開けるのを見ながら、「じゃあ、割り箸取ってから上がるから、先に部屋で待ってて」
 沈黙を貫くリビングに、魔理沙が階段を上っていく足音だけが届く。ポストに入っていたチラシを無造作にテーブルに放って、キッチンの方へと回る。
「確か、ここに……」
 小さな引き出しを開けて、中から割り箸を二膳取り出す。それらを割って、四本に。今日はどれかに名前を書いてあげようかな、なんていう考えが一瞬だけよぎったけれど、やめた。この意地だけは、どういうわけかやめられない。魔理沙を困らせているというのが、嬉しいのか。いつの間にそんな嫌な奴になったんだ、と普段通りの自己嫌悪が首をもたげて、私を激しく威嚇する。
 もう一膳割り箸を取り出して、それをまた一本ずつに分ける。当たりはあったのか、と訊かれたときのためのダミーとして、名前を書いておく。ただのイカサマだ。こんな不誠実なこと、魔理沙以外には絶対にやらない。
 ため息を一つ。
 これでいいのよ、と口の中で呟いて、私は階段を駆け上がって自室へ向かった。
「はいどうぞ」割り箸の端を握って、ベッドに腰掛けてくつろいでいた魔理沙へと差し出す。「一本取って」
「うわぁ、この感じ、二年ぶりだなぁ」
「きっかり二年ぶりよ。まぁ学校じゃないから、数時間遅れ、といったところではあるけれど」
 んー、と悩みながら魔理沙は指先で割り箸の先を突ついた。
 健康的な手。
 私の、好きな。
「ルペルカリア祭、だっけ」
「はっ?」
 唐突に魔理沙が口にした単語に、私は上擦った声で疑問符を叩きつけた。同時にひょい、と一本割り箸が引き抜いて、それに書いてあったよ、と自分のバッグからはみ出ている本を顎で示す。『バレンタインの起源』と題された五十ページほどの薄い冊子は、確か先日図書委員が自作したのだと宣伝していたものだ。
「祭の前日に女の子たちは紙に名前を書いて、桶の中に入れる。翌日、男たちは桶から札を一枚引く。そのペアは、祭の間一緒にいるように、と決められていた……大昔の祭だってね。そして多くのペアは恋に落ちて結婚。アリス、これを知ってて思いついたんだろ、このくじ引き」
「……、」
 私は答えなかった。図星だったからだ。しばらくの間、真一文字に口を結んだ私をじっと見ていたけれど、やがて魔理沙は満面の笑みで私の方に割り箸を投げてよこした。
「はい、大当たり」
「えっ?」
 私の胸に当たって床に落ちた割り箸には、黒いインクで確かにアリスと書いてあって、私は思わずポケットに忍ばせたダミーに手を当てて確認した。差し出すくじを間違えた……? いや、このインクは違う。私はさっき青のインクで……。我ながら、ここまでの動揺を全部口にしなかったのは、偉いと思った。まるで探偵にカマをかけられた犯人のように、嵌められるところだった。
 もう、遅いのだけれど。
 魔理沙はこのくじ引きに当たりなんてないことをやはり知っていて、あらかじめ私の名前を書いた割り箸を用意しておいたんだ。
 私の意識が冊子に向けられた隙を見て、すり替える。単純なこと。私はこれが偽物だ、と断言することはできない。その瞬間、魔理沙は私の手をとって、残ったくじ引きを確認するだろう。その中に当たりがなければ、最初にイカサマをしたのは私ということになる。
 誰も見ていないのに、互いに牽制し合っている。
 これまでとは、真逆だ。教室の中でチョコをちょうだいだの、あげないだのと笑いながら言い合って、その心の内で睨み合っていたあの頃とは、構図がまるで逆。
 いや……?
 本当は、まったく変わっていないのかもしれない。
「魔理沙、これは、」
 続ける言葉を思いつかないまま抗議しようとした私の手首をぎゅっと掴んで、魔理沙は自分の方に勢いよく引き寄せた。バランスを崩して、ベッドの上に倒れこむ。手にしていた割り箸が滑り落ちて、床に散らばった。
 私は声を上げる暇さえなくて、掴まれた手を振り払うこともできないまま、ベッドの上で押し倒される。魔理沙はもう、落ちた割り箸なんかには興味がないようだった。最初から、私を騙すつもりで……いや、自分を騙そうとしたアリス・マーガドロイドに、ささやかな……、
「……アリスの初めて、わたしが貰っていいんだよな?」
 真剣な表情。
 瞳の奥に、めらめらと炎が燃えたぎっているのが見えた。
 巨大な氷を、一瞬で昇華させるほどの強い炎。
 私は、ずっと気がついていなかった。
 この炎は確かに、これまでもずっと燃え続けていた。毎年、この時期になると……いつも。
 深い、愛情の炎。
 熱い、情欲の炎。
 魔理沙の根源にあるのはたぶん、愛されたい、という気持ちだ。
 だからこの日は、どうしても思い通りにならない幼馴染が、嫌で。
「……私、そういう意味で言ったんじゃ」
「いいよ、な」
 この後に及んで首を横に振ろうとした私の言葉に被せるようにして、魔理沙が確認する。否定は許さない、といった顔。これまで私がずっと……この日だけは握っていたイニシアチブは既に魔理沙の手の内にあって、それが、押さえつけられた手首を締め付けた。きっと痕が残る。
 部屋の照明で逆光になった魔理沙の顔が、正面にある。燃え上がるような瞳で私を見つめたまま、それが、近づいてくる。
 吐き出された吐息が、幽かな白を孕んでいる。
 そういえば、今は冬だったっけ……と、どうでもいい方向に考えを巡らせて、私は僅かに顎の向きを彼女から逸らした。
「わたしさ、素直になるのって、苦手で」
「嘘ばっかり」
「本当だよ。アリス相手だと、どうしても後手に回っちゃうみたいでさ……」一度言葉を切って、手首を締め付けている力が強まる。「わたしは、アリスのこと、好きなんだけど。……アリスは?」
「……その質問には、さっき既に答えたわ」
「もう一度言って」
「……っ」
「お願い」
 おねがいだから、と懇願するように唇が動く。生温かい吐息が顔にかかって、唇同士が五センチメートルも離れていないことに気づいた。上気した頬。うっすらと涙を浮かべた瞳。これは演技じゃないのか、と困惑している私がいた。
 白々しいその台詞には、無限かと思えるほどの文句を思いつく。箇条書きを始めたら一日経ってしまうんじゃないかと思くらいに、数え切れないほどの量。これまで私が魔理沙に対して抱いてきた不満で、それと同時に、彼女を愛おしいと思った、不満だ。
「私たちの関係って、なんだか歪だわ」
「そうしたのは、アリスだよ」
「魔理沙もね」
「うん。……わたしたちは、まだ、幼いから」
 膨れ上がって弾けそうになっていた無数の文句と不満が、その言葉で一気に収縮して、消えてなくなる。本当は消えたわけではなくて、一時的に内側にしまいこまれただけなのだけれど。私が張った意地に対して、彼女もまた同じ形の意地を張って。本当に嫌われてしまわない程度の嫌がらせで、関係を構築した。
 歪だ。
 けれど、幼かったのは私たちだ。
「私も愛してるわ、魔理沙」
 はっきりと口にすると、魔理沙は満面の笑みと共に、僅かだった距離を詰めた。
 私の乾いた唇と彼女の濡れたそれが重なって、呼吸が止まって、鼻から息が洩れる。
 舌が歯をこじ開けて、内側へと侵入してくる。どうしても、上にいるのが魔理沙だと、私はイニシアチブを握れない。歯茎を舐めまわされて、唇を押し付けられて、口内を蹂躙される。それだけで脳が麻痺したように機能しなくなって、押さえつけられたままの腕から伝わるのが、痛みから快楽に変わっていくのを静観しているしかできない。
 侵されている。
 その感覚が、何よりも甘美だ。
「んっ……ふ、」
 また呼吸がうまくできなくなって、一度身体を離そうとしたとき、何かがどろりと口の中に流れ込んできた。唾というほど流動的ではなくて、けれど固形物ではない。もっと粘性の強い。
 甘い。
 カカオの香り。
 ……あぁ、そういう。
 魔理沙の口の中で溶かされたチョコレートが、液状になったそれが、私の舌に絡みついて、喉の奥の方へと侵入していく。こういう姿勢だと飲み込みづらいから、勘弁してほしい。
「まり、さ」
 辛うじて発した声は、掠れている。チョコの温さが喉を焼いて、麻痺した脳が溶け出していくような感覚に襲われた。
 これは、私の初めてではあるけれど。
 同時に、あなたの初めてでもあるのでしょう?
 魔理沙。
 まりさ。
 だってあなたが私にチョコレートを渡してくれたのは、たった今、これが初めてなんだから。
「少し、乱暴にしてもいいよな」
 口を離して、有無を言わさぬ口調で魔理沙は囁く。
 私の制服をたくし上げて、露わになった肌を指でなぞった。
 鼓動が高鳴る。
 耽溺していく。
「だってこれは、」
 私の最後の理性が見たのは、恋人の獰猛な笑みだった。
 爛々と輝く瞳と、チョコレートで濡れた唇。
 熱を帯びた吐息と上気した肌が私を包み込んで、意識を塗り潰していく。
 食われる。
 そう思った、刹那。
 白く染まる脳の裏側で、鈴がなるような囁きが聴こえた。


 ……わたしの、ささやかな復讐なんだから。
コメント



1.名前が無い程度の能力削除
物凄い性格悪い指摘だと思うんですけど気になってしまったので一つ。中一の二月のとこは、「昨年と同じように」ではなく「前年と同じように」が正しいかと思います。
洗練されて読みやすい文でした。二人の少し歪な関係と達観した雰囲気の文が調和してる感じがします。
2.名前が無い程度の能力削除
凄い良かった
歪な関係と表して意地を張り合う二人が、第三者からはとても誰かが入り込めない特別な関係に見えるのでしょうね。
幼い頃からのエピソードも絡められていて、二人の関係がより因縁めいててとても素敵です。
これはとても良いものを読ませてもらった。
3.名前が無い程度の能力削除
この文量で二人のこれまでの関係が十分に表現されていて良かったです
4.名前が無い程度の能力削除
これは素晴らしいマリアリでした。
とても読みやすく、二人の関係がとても鮮明に表現されていてよかった。
素敵な創作に感謝です。