「か、影狼ちゃんどうしたのその格好!? 今日は満月じゃないでしょう?」
(俺ただの野良犬なんだけど何言ってるのこの女)
仄暗い水の底から突如現れた魚くさい女に絡まれて、俺は軽く困惑していた。
小春日和の昼下がり、水でも飲もうと湖に来てみたらこの騒ぎである。
~OhMyDogException~
「もしかして影狼ちゃん、変身したまま戻れなくなっちゃったの?」
(かげろうちゃんじゃねえよ)
狼狽した様子で迫る女をヒラリとかわし、湖面へと歩み寄る。
この女が何を勘違いしているのかは知らないが、俺はただのしがない野犬である。妖獣でもなければ珍種でもない、古今東西の犬の血が混ざりに混ざった生粋の雑種犬だ。かげろうちゃんとやらが何者であれ、人違いであることは明白だった。
とっとと水を飲んで、さっさと立ち去ってしまおう――。
湖のほとりに屈み、なんかワカサギっぽい味がする水をピチャピチャと舐める。
すぐ隣では、水際に腰掛けた女が、まだ不思議そうに首を傾げていた。
「よく解らないけど、別に困ってるわけじゃないのかな」
(よく解んねえのはこっちの方だ)
とはいえ、女が無害な輩であることは確かなようだった。横目でちらりと見る限り、女の下半身は人間のそれではなく、大きな魚のように見える。おおかた妖怪の一種なのだろうが、あまり凶悪な類のものでもないらしい。
俺はいくらか緊張を解いて、喉の渇きを癒すことに専念する。
「影狼ちゃんがここの水飲むなんて珍しいね。へ、変な味とかしない?」
なぜか恥ずかしそうに身をくねらせる女を黙殺して、顎から滴る水をブルブルと振り払う。
(――こんな女は放っておけ)
俺の遺伝子 の約三割を占め、最大派閥として心の中核を成している柴犬の血がそう囁いた。
独立自尊を旨とする柴犬は、ゆきずりの女に軽々しく愛想を売ったりはしないのである。
さあ、とにかく渇きはおさまった。長居は無用だ。
この後はどこかで昼寝でもするか、などと考えながら俺は女と湖に尾を向けて歩き出し
「えぇっ!? もう帰っちゃうの!?」
……予想はしていたが、女の声が猛然と追いかけてきた。
辟易して振り向くと、女が縋るように俺を見つめていた。どうやら陸を歩くことはできないらしく、上体だけを両腕で支えた無力な姿で、俺を引き留めようと気を揉んでいるようだった。
「影狼ちゃんったら、まだ来たばかりじゃない。せっかくだもの、もっとお喋りしましょ? ね?」
(喋ってんのアンタだけだろうが)
やれやれ、と鼻で溜め息をつく。
この女、無理に立ち去ったりしたら泣き出しそうな勢いだが……。
(鬱陶しい奴だ。牙でも見せて追っ払ってやろうか)
いやいや。
獰猛な甲斐犬のDNAが血気に逸るのを、やんわりと抑える。
そこまでするほどガキじゃない。
(そう。事を荒立てるのは得策ではありません。ここはスマイルですよ。スマイル)
しないしない。
知的で穏健派なサモエドの血が主張するがそれも却下。こいつらは言うことが極端すぎるのだ。
あれこれ考えている間にも、女は期待の眼差しで俺の挙動を見守っている。
「影狼ちゃん……」
(いや、だから人違いでゆきずりで独立自尊がね?)
「行っちゃうの……?」
(……)
しょうがねえな、と再び溜め息。
面倒は嫌いだ。だが、どっちに転んだところで面倒に違いないのなら……。
湖に、踵を返した。
「あ、よかった♪」
あっさりと機嫌を直し、文字どおり胸を撫で下ろす女の傍らに、ぺたんと顎をつけて寝そべる。
どうせ昼寝するつもりだったのだ。ここでゴロゴロしていても大した違いはあるまい――。
(ま、勝手に喋ってろ)
◇ ◇ ◇
そんな俺の独白が届くはずもなかったが、女は実際よく喋った。花がどうの石がどうのと、およそどうでもいい事を、実に楽しそうに。この女、普段は話相手がいないのかもしれない。
半分寝ながら女の話を聞き流しているうちに、俺にもおおよその事情が飲み込めてきた。
かげろうちゃんというのはどうやら狼の妖怪か何かで、この女と懇意にしており、今日もこの湖で会う約束をしていたらしい。それで、たまたまこの場に現れた俺をかげろうちゃんと勘違いしたのだろう。
(しかし、犬と狼を間違えるかねフツー)
全然違うだろうに、と思う。犬の身としては。
俺だってヤマメとワカサギの区別くらいはつくぞ、と。
ともあれ、そういう事情なら話は簡単だ。おっつけ本物のかげろうちゃんが現れれば、すぐに誤解も解けることだろう。それでこの変な女ともおさらばだ。
「ふふっ、なんだか嬉しいな。影狼ちゃん、この姿の時はなかなか会ってくれないから」
(だからって、姿形くらいちゃんと覚えといてやれよ)
「……ね、ねえ影狼ちゃん。その、触っても、いい?」
おずおずと問う女の手が、俺の背の上で物欲しげに宙をさまよっている。なんだか知らんが触りたいらしい。
女の手を一瞥しただけで俺が動かずにいると、それを静かな承諾と見なしたのか、女はやがて意を決したように俺の毛皮に触れ、嬉しげに撫で始めた。
「わあ。フサフサ……☆」
(ちっ。毛並みが乱れるぜ)
(いいじゃないの。乱れるほど大層な毛でもあるまいし)
神経質なボーダーコリーと能天気なビーグルがせめぎあう中、女はまさに御機嫌といった調子で俺を撫でまくる。湖水に浸した尾ヒレをぱちゃぱちゃ揺らし、おまけに歌まで唄いだす始末だ。
「♪~」
私はあなたの尻尾になりたい、という主旨の透んだ歌声が、静かな湖畔に響き渡る。女の歌は随分と達者なようだった。
あ、やべ。
(じゃれたいよう。かじりたいよう)
軽やかなメロディと鼻先で揺れる銀色の尾ヒレに、悪戯好きのポメラニアンの血がうずうず疼く。くっ、鎮まれ。俺の右前足。
だが、そんな地味な責め苦をしばし堪え忍んでいると、やがて歌声とヒレの動きは萎れるように小さくなり、止まってしまった。
見上げてみると、女はなにやら不満げな目でじっと俺を見つめてくる。
なんだよ。
「影狼ちゃんにも、何か喋って欲しいなあ……」
(無理言うなよ)
「よく考えたら、さっきから私しか喋ってないし」
(今そこに気付くのかよ)
「影狼ちゃん、この姿の時は喋れないのね」
(常時喋れねえよ)
「……ちょっと、試しに喋ってみない? 私もお手伝いするから。ほら、」
くぱぁ。
人の顎を勝手に開け閉めするこの女。
「どうぞ」
(どうぞじゃねえよ)
「はいっ、あおーん」
(あおーんは人語じゃねえよ)
空転する熱意で、女は俺の顎や喉をあれこれと弄り倒す。
だがやがて諦めがついたらしく、消沈した様子で湖に視線を落とした。
「影狼ちゃん、ずっとこのままって事は……ないよね?」
(アンタが誤解に気付くまでだ)
「私にできる事があったら、なんでも言ってね。たとえばキ、キキキキスとかで元に戻るんだったらわわわ私がいつでも」
(落ち着け)
目をぐるぐるさせながら捲し立てる女を適当にあしらいながら、やれ、かげろうちゃんも果報者なこったと思う。
早く来いよな。色男。
◇ ◇ ◇
(……遅えな)
太陽が西にいくらか傾いたが、かげろうちゃんは未だに現れない。
妙だった。
女の言っていた事が確かなら、もうとっくに姿を見せてもいい時分なのだ。
(……何か、あったのか?)
そうなのかもしれない。
仮にこのまま本物が現れず、女の誤解が解けなかったとしても、むろん俺の知った事ではない。俺はその気になればいつでもこの場を離れられるのだし、女にそれを止める術もあるまい。
「それでねー。レプトケファルスのムコ多糖類がイクチオヘモトキシンでねー」
隣では、本物のかげろうちゃんの事など知る由もない女が、今年のウナギの個体数について得意気に語っている。
いい気なもんだ。
かげろうちゃんにもしもの事があって、こいつがそれを知ったら、やっぱり泣くんだろうか……。
ガラにもなく余計な事を考えそうになる頭を、いやいやと振る。
(ここは、一肌脱いで差し上げるべきなのでは?)
(けっ。相変わらず紳士ぶりやがって)
シェットランドシープドッグの提言に、気の強いチワワが噛み付く。
(私の計算によればかげろうちゃんがピンチですよ)
(ないが計算じゃ。紀州犬ちゅうんはそんなに賢いがか?)
頭脳派の紀州犬と土佐犬が火花を散らす。
(お前ら喧嘩すんなー)(火吹くぞー)(地獄の番犬だぞー)
誰だよ。
(おれ桃太郎の家来だったけど質問ある?)
ねえよ。
内なる血統どもの騒乱に堪えかねて、すっくと立ち上がる。
この調子でニャーとかパオーンとか出て来られても困る。
「影狼ちゃんどうしたの? あっ……ねえ、どこ行くのー?」
駆け出す俺の背中を、女の声が追いかける。
いいから大人しく待ってろよ。
やれやれ。
◇ ◇ ◇
読みは当たっていた。
かげろうちゃんがあの女と逢うために足繁く通っていたのだとすれば、そのルートに臭いが残っている筈だった。
鼻を利かせながら湖の周りをうろついてみると――果たしてそれは見つかった。単独で、頻繁にここを行き来している奴がいる。
狼と人間の娘が混ざったような、妙な臭い。こいつがかげろうちゃんで間違いないだろうっていうか女かよ。女なのかよ。
いや、いいけどね別に。
俺は何も言わんけどね別に。
女に間違えられたんですか、俺は。
(クックック猟犬の血が騒ぐぜ。サーチアンドデストローイ)
デストロイはよせ。
ブラッドハウンドの血をだましだまし、慎重に臭いの跡を追ってゆく。
やがて差し掛かったのは、見晴らしのいい平原を抜ける散歩道。
ふと横を見ると、草むらがしくしく泣いていた。
◇ ◇ ◇
その頃。
今泉影狼は、あられもない下着姿で草むらに身を潜めていた。
「うう……なんで私がこんな目に……」
北風と太陽の喧嘩に巻き込まれて強制脱衣させられたのがつい先刻の事。
湖へ行く途中だった影狼は緊急避難を余儀なくされたが、生憎と見晴らしの良すぎるこの立地、唯一のオブジェクトである草むらに飛び込んだものの、それ以上どうすることもできずに今に至るのだった。
「姫、今ごろ心配してるだろうなぁ……」
湖で待っているであろう、気弱な友達のことを思う。
どこかへ吹っ飛ばされてしまった服を探しに行きたいところだが、この姿を誰かに見られでもしたら痴女扱い待ったなしである。運悪く巫女やブン屋にでも出くわせば、どんな目に遭うか知れたものではない。
あと村人とか。
若くて逞しい複数の村人とか。やだー。
「今日が満月なら良かったのに」
影狼はもぞもぞと尻尾の位置 を直しながら、無いものねだりの呟きを漏らす。
満月の夜になれば妖力もムダ毛も増す。その気になれば狼の姿にだって変身できる。だが次の満月まで待つわけにもいかない。
かといって、通りすがりを期待できるような知り合いもない孤独なウェアウルフである。
「はぁ……せめて暗くなるのを待つしかないかー……」
気力ゼロの溜め息をつきながら、影狼は耳についた枯れ葉を払い、
――がさっ、と背後の草が鳴る。
「ひっ!?」
死ぬ程びっくりした。
影狼は反射的に耳を押さえ、尻尾を丸め、仔犬のように縮こまって息を殺す。
五秒。
十秒。
何事もないまま、静寂の時が過ぎる。
恐る恐る体の向きを変えた影狼は、慎重に薮をかき分け、そっと外界を窺う。
そこには、見慣れて着慣れて吹っ飛んだはずの、いつものワンピースが、静かに横たわっていた。
「え……えっ? ど、どうしてここに?」
喜びよりも驚きが先に立ち、目を丸くして硬直する影狼。
しかしすぐに気を取り直し、素早く手を伸ばして服をひっ掴むと、二度と放すまいとばかりに猛然と薮の中に引きずり込んだ。
「また風で飛ばされてきたのかしら? と、とにかく助かったわ……!」
優しい奇跡に心から感謝しながら、影狼はいそいそと服を着込むのだった。
「おお神よ、ありがとうー!」
◇ ◇ ◇
だから狼じゃなくて犬だっつの。
いいから早く湖行け。
◇ ◇ ◇
「姫~、お、遅れてごめんねぇ~!」
「あ、影狼ちゃん! 元の姿に戻れたのね!」
「えぇっ!? な、なんでそれ知ってるの?」
「やだ。私、ずっと傍にいたじゃない」
「えっ?」
「さっきまでの姿も可愛かったぁー♪」
「なっ!?」
「その……良かったら、また今度触らせてね?」
「ひぃっ!?」
新たな誤解を生みつつあるアホな会話を見届けて、俺はようやく湖を後にする。
いやはや、とんだ一仕事だった。
幻想郷というのは、狭いくせに色々と変な奴がいるものだ。
ねぐらへと、日常へと帰る歩を進めながら、さて夕飯は何にしようかと考える。
今日は、なんとなくだけど、魚の気分じゃねえな。
なんとなくだけど。
(……なあ)
なんだよ。
(俺、ニホンオオカミだけど)
そんなのも混じってたか。
ていうか、俺はいつの間にご先祖と対話する体質になってるんだよ。
(うちの娘がさ、)
はぁ。
(思ってたほど孤独じゃないみたいで、安心したよ)
そら良かったな。
(ありがとうな)
なんもしてねえよ、俺は。
~完~
(俺ただの野良犬なんだけど何言ってるのこの女)
仄暗い水の底から突如現れた魚くさい女に絡まれて、俺は軽く困惑していた。
小春日和の昼下がり、水でも飲もうと湖に来てみたらこの騒ぎである。
~OhMyDogException~
「もしかして影狼ちゃん、変身したまま戻れなくなっちゃったの?」
(かげろうちゃんじゃねえよ)
狼狽した様子で迫る女をヒラリとかわし、湖面へと歩み寄る。
この女が何を勘違いしているのかは知らないが、俺はただのしがない野犬である。妖獣でもなければ珍種でもない、古今東西の犬の血が混ざりに混ざった生粋の雑種犬だ。かげろうちゃんとやらが何者であれ、人違いであることは明白だった。
とっとと水を飲んで、さっさと立ち去ってしまおう――。
湖のほとりに屈み、なんかワカサギっぽい味がする水をピチャピチャと舐める。
すぐ隣では、水際に腰掛けた女が、まだ不思議そうに首を傾げていた。
「よく解らないけど、別に困ってるわけじゃないのかな」
(よく解んねえのはこっちの方だ)
とはいえ、女が無害な輩であることは確かなようだった。横目でちらりと見る限り、女の下半身は人間のそれではなく、大きな魚のように見える。おおかた妖怪の一種なのだろうが、あまり凶悪な類のものでもないらしい。
俺はいくらか緊張を解いて、喉の渇きを癒すことに専念する。
「影狼ちゃんがここの水飲むなんて珍しいね。へ、変な味とかしない?」
なぜか恥ずかしそうに身をくねらせる女を黙殺して、顎から滴る水をブルブルと振り払う。
(――こんな女は放っておけ)
俺の
独立自尊を旨とする柴犬は、ゆきずりの女に軽々しく愛想を売ったりはしないのである。
さあ、とにかく渇きはおさまった。長居は無用だ。
この後はどこかで昼寝でもするか、などと考えながら俺は女と湖に尾を向けて歩き出し
「えぇっ!? もう帰っちゃうの!?」
……予想はしていたが、女の声が猛然と追いかけてきた。
辟易して振り向くと、女が縋るように俺を見つめていた。どうやら陸を歩くことはできないらしく、上体だけを両腕で支えた無力な姿で、俺を引き留めようと気を揉んでいるようだった。
「影狼ちゃんったら、まだ来たばかりじゃない。せっかくだもの、もっとお喋りしましょ? ね?」
(喋ってんのアンタだけだろうが)
やれやれ、と鼻で溜め息をつく。
この女、無理に立ち去ったりしたら泣き出しそうな勢いだが……。
(鬱陶しい奴だ。牙でも見せて追っ払ってやろうか)
いやいや。
獰猛な甲斐犬のDNAが血気に逸るのを、やんわりと抑える。
そこまでするほどガキじゃない。
(そう。事を荒立てるのは得策ではありません。ここはスマイルですよ。スマイル)
しないしない。
知的で穏健派なサモエドの血が主張するがそれも却下。こいつらは言うことが極端すぎるのだ。
あれこれ考えている間にも、女は期待の眼差しで俺の挙動を見守っている。
「影狼ちゃん……」
(いや、だから人違いでゆきずりで独立自尊がね?)
「行っちゃうの……?」
(……)
しょうがねえな、と再び溜め息。
面倒は嫌いだ。だが、どっちに転んだところで面倒に違いないのなら……。
湖に、踵を返した。
「あ、よかった♪」
あっさりと機嫌を直し、文字どおり胸を撫で下ろす女の傍らに、ぺたんと顎をつけて寝そべる。
どうせ昼寝するつもりだったのだ。ここでゴロゴロしていても大した違いはあるまい――。
(ま、勝手に喋ってろ)
◇ ◇ ◇
そんな俺の独白が届くはずもなかったが、女は実際よく喋った。花がどうの石がどうのと、およそどうでもいい事を、実に楽しそうに。この女、普段は話相手がいないのかもしれない。
半分寝ながら女の話を聞き流しているうちに、俺にもおおよその事情が飲み込めてきた。
かげろうちゃんというのはどうやら狼の妖怪か何かで、この女と懇意にしており、今日もこの湖で会う約束をしていたらしい。それで、たまたまこの場に現れた俺をかげろうちゃんと勘違いしたのだろう。
(しかし、犬と狼を間違えるかねフツー)
全然違うだろうに、と思う。犬の身としては。
俺だってヤマメとワカサギの区別くらいはつくぞ、と。
ともあれ、そういう事情なら話は簡単だ。おっつけ本物のかげろうちゃんが現れれば、すぐに誤解も解けることだろう。それでこの変な女ともおさらばだ。
「ふふっ、なんだか嬉しいな。影狼ちゃん、この姿の時はなかなか会ってくれないから」
(だからって、姿形くらいちゃんと覚えといてやれよ)
「……ね、ねえ影狼ちゃん。その、触っても、いい?」
おずおずと問う女の手が、俺の背の上で物欲しげに宙をさまよっている。なんだか知らんが触りたいらしい。
女の手を一瞥しただけで俺が動かずにいると、それを静かな承諾と見なしたのか、女はやがて意を決したように俺の毛皮に触れ、嬉しげに撫で始めた。
「わあ。フサフサ……☆」
(ちっ。毛並みが乱れるぜ)
(いいじゃないの。乱れるほど大層な毛でもあるまいし)
神経質なボーダーコリーと能天気なビーグルがせめぎあう中、女はまさに御機嫌といった調子で俺を撫でまくる。湖水に浸した尾ヒレをぱちゃぱちゃ揺らし、おまけに歌まで唄いだす始末だ。
「♪~」
私はあなたの尻尾になりたい、という主旨の透んだ歌声が、静かな湖畔に響き渡る。女の歌は随分と達者なようだった。
あ、やべ。
(じゃれたいよう。かじりたいよう)
軽やかなメロディと鼻先で揺れる銀色の尾ヒレに、悪戯好きのポメラニアンの血がうずうず疼く。くっ、鎮まれ。俺の右前足。
だが、そんな地味な責め苦をしばし堪え忍んでいると、やがて歌声とヒレの動きは萎れるように小さくなり、止まってしまった。
見上げてみると、女はなにやら不満げな目でじっと俺を見つめてくる。
なんだよ。
「影狼ちゃんにも、何か喋って欲しいなあ……」
(無理言うなよ)
「よく考えたら、さっきから私しか喋ってないし」
(今そこに気付くのかよ)
「影狼ちゃん、この姿の時は喋れないのね」
(常時喋れねえよ)
「……ちょっと、試しに喋ってみない? 私もお手伝いするから。ほら、」
くぱぁ。
人の顎を勝手に開け閉めするこの女。
「どうぞ」
(どうぞじゃねえよ)
「はいっ、あおーん」
(あおーんは人語じゃねえよ)
空転する熱意で、女は俺の顎や喉をあれこれと弄り倒す。
だがやがて諦めがついたらしく、消沈した様子で湖に視線を落とした。
「影狼ちゃん、ずっとこのままって事は……ないよね?」
(アンタが誤解に気付くまでだ)
「私にできる事があったら、なんでも言ってね。たとえばキ、キキキキスとかで元に戻るんだったらわわわ私がいつでも」
(落ち着け)
目をぐるぐるさせながら捲し立てる女を適当にあしらいながら、やれ、かげろうちゃんも果報者なこったと思う。
早く来いよな。色男。
◇ ◇ ◇
(……遅えな)
太陽が西にいくらか傾いたが、かげろうちゃんは未だに現れない。
妙だった。
女の言っていた事が確かなら、もうとっくに姿を見せてもいい時分なのだ。
(……何か、あったのか?)
そうなのかもしれない。
仮にこのまま本物が現れず、女の誤解が解けなかったとしても、むろん俺の知った事ではない。俺はその気になればいつでもこの場を離れられるのだし、女にそれを止める術もあるまい。
「それでねー。レプトケファルスのムコ多糖類がイクチオヘモトキシンでねー」
隣では、本物のかげろうちゃんの事など知る由もない女が、今年のウナギの個体数について得意気に語っている。
いい気なもんだ。
かげろうちゃんにもしもの事があって、こいつがそれを知ったら、やっぱり泣くんだろうか……。
ガラにもなく余計な事を考えそうになる頭を、いやいやと振る。
(ここは、一肌脱いで差し上げるべきなのでは?)
(けっ。相変わらず紳士ぶりやがって)
シェットランドシープドッグの提言に、気の強いチワワが噛み付く。
(私の計算によればかげろうちゃんがピンチですよ)
(ないが計算じゃ。紀州犬ちゅうんはそんなに賢いがか?)
頭脳派の紀州犬と土佐犬が火花を散らす。
(お前ら喧嘩すんなー)(火吹くぞー)(地獄の番犬だぞー)
誰だよ。
(おれ桃太郎の家来だったけど質問ある?)
ねえよ。
内なる血統どもの騒乱に堪えかねて、すっくと立ち上がる。
この調子でニャーとかパオーンとか出て来られても困る。
「影狼ちゃんどうしたの? あっ……ねえ、どこ行くのー?」
駆け出す俺の背中を、女の声が追いかける。
いいから大人しく待ってろよ。
やれやれ。
◇ ◇ ◇
読みは当たっていた。
かげろうちゃんがあの女と逢うために足繁く通っていたのだとすれば、そのルートに臭いが残っている筈だった。
鼻を利かせながら湖の周りをうろついてみると――果たしてそれは見つかった。単独で、頻繁にここを行き来している奴がいる。
狼と人間の娘が混ざったような、妙な臭い。こいつがかげろうちゃんで間違いないだろうっていうか女かよ。女なのかよ。
いや、いいけどね別に。
俺は何も言わんけどね別に。
女に間違えられたんですか、俺は。
(クックック猟犬の血が騒ぐぜ。サーチアンドデストローイ)
デストロイはよせ。
ブラッドハウンドの血をだましだまし、慎重に臭いの跡を追ってゆく。
やがて差し掛かったのは、見晴らしのいい平原を抜ける散歩道。
ふと横を見ると、草むらがしくしく泣いていた。
◇ ◇ ◇
その頃。
今泉影狼は、あられもない下着姿で草むらに身を潜めていた。
「うう……なんで私がこんな目に……」
北風と太陽の喧嘩に巻き込まれて強制脱衣させられたのがつい先刻の事。
湖へ行く途中だった影狼は緊急避難を余儀なくされたが、生憎と見晴らしの良すぎるこの立地、唯一のオブジェクトである草むらに飛び込んだものの、それ以上どうすることもできずに今に至るのだった。
「姫、今ごろ心配してるだろうなぁ……」
湖で待っているであろう、気弱な友達のことを思う。
どこかへ吹っ飛ばされてしまった服を探しに行きたいところだが、この姿を誰かに見られでもしたら痴女扱い待ったなしである。運悪く巫女やブン屋にでも出くわせば、どんな目に遭うか知れたものではない。
あと村人とか。
若くて逞しい複数の村人とか。やだー。
「今日が満月なら良かったのに」
影狼はもぞもぞと
満月の夜になれば妖力もムダ毛も増す。その気になれば狼の姿にだって変身できる。だが次の満月まで待つわけにもいかない。
かといって、通りすがりを期待できるような知り合いもない孤独なウェアウルフである。
「はぁ……せめて暗くなるのを待つしかないかー……」
気力ゼロの溜め息をつきながら、影狼は耳についた枯れ葉を払い、
――がさっ、と背後の草が鳴る。
「ひっ!?」
死ぬ程びっくりした。
影狼は反射的に耳を押さえ、尻尾を丸め、仔犬のように縮こまって息を殺す。
五秒。
十秒。
何事もないまま、静寂の時が過ぎる。
恐る恐る体の向きを変えた影狼は、慎重に薮をかき分け、そっと外界を窺う。
そこには、見慣れて着慣れて吹っ飛んだはずの、いつものワンピースが、静かに横たわっていた。
「え……えっ? ど、どうしてここに?」
喜びよりも驚きが先に立ち、目を丸くして硬直する影狼。
しかしすぐに気を取り直し、素早く手を伸ばして服をひっ掴むと、二度と放すまいとばかりに猛然と薮の中に引きずり込んだ。
「また風で飛ばされてきたのかしら? と、とにかく助かったわ……!」
優しい奇跡に心から感謝しながら、影狼はいそいそと服を着込むのだった。
「おお神よ、ありがとうー!」
◇ ◇ ◇
だから狼じゃなくて犬だっつの。
いいから早く湖行け。
◇ ◇ ◇
「姫~、お、遅れてごめんねぇ~!」
「あ、影狼ちゃん! 元の姿に戻れたのね!」
「えぇっ!? な、なんでそれ知ってるの?」
「やだ。私、ずっと傍にいたじゃない」
「えっ?」
「さっきまでの姿も可愛かったぁー♪」
「なっ!?」
「その……良かったら、また今度触らせてね?」
「ひぃっ!?」
新たな誤解を生みつつあるアホな会話を見届けて、俺はようやく湖を後にする。
いやはや、とんだ一仕事だった。
幻想郷というのは、狭いくせに色々と変な奴がいるものだ。
ねぐらへと、日常へと帰る歩を進めながら、さて夕飯は何にしようかと考える。
今日は、なんとなくだけど、魚の気分じゃねえな。
なんとなくだけど。
(……なあ)
なんだよ。
(俺、ニホンオオカミだけど)
そんなのも混じってたか。
ていうか、俺はいつの間にご先祖と対話する体質になってるんだよ。
(うちの娘がさ、)
はぁ。
(思ってたほど孤独じゃないみたいで、安心したよ)
そら良かったな。
(ありがとうな)
なんもしてねえよ、俺は。
~完~
大変面白かったです。
素直じゃない彼にほっこりしました。