復讐に全てを賭けた人生とは、いったいどんなものになるのだろう。私には分からない。命に代えても殺したい誰かなど、私の前には終ぞ現れることはなかった。けれど今思えば、星さんもメリーベルも同類だったのかもしれない。大切なひとを失って、絶対に叶えたい望みを持った。その結論こそ正反対だけれど、出発点は同じだ。
メリーベルはただ前へ進んでいた。ゆっくりと、けれど確実に、星さんたちに向けて歩みを進めていた。此岸から彼岸へ。科学から幻想へ。停滞を捨て本懐へ。そして、待ち受ける確実な死だけを見て、前へと進んでいた。
仇討ちは果たして正義だろうか。メリーベルを非難できる者がいるだろうか。理屈ではどうとでも言えるだろう。けれどそれは、彼女にとって意味のある言葉なのだろうか。死んでも構わないという彼女の背中を押すべきだったのかどうか、私は未だに迷うときがある。
とにかく、私はそのときメリーベルの手を取って、引き留めていた。
「……何よ」
その場に立ち止まり、けれど振り返ることなく彼女は言った。何よ、と言われても返す言葉が咄嗟には出て来ない。深い考えがあった訳ではないし、絶対の正義があった訳でもない。それなのにどうして、私はメリーベルを引き留めたのだろう。
「離しなさいよ。あいつが待っているんだから、お望み通りに行ってやる。パパの仇を討つ最大で最後のチャンスなのよ!」
「本当に? あんた本当にそう思ってるの?」
「当たり前でしょう! 私はこのために何もかもを捧げてきた! 八雲紫を殺すためなら、私は何だってやってやる!」
「……じゃあ、あんたどうして泣いてるのよ」
メリーベルは応えなかった。代わりに振り向いたその顔は、もうくしゃくしゃに歪んでいて、頬には幾筋もの涙の跡が刻まれていた。握った手が、小刻みに震えているのが嫌でも分かった。
そう、簡単なことだった。私には、彼女が怯えていることが分かってしまったのだ。命に代えても、と口に出すのは容易いけれど、だからといって本当に躊躇無く命を差し出せる者など、滅多にいるものではない。
「自信が無くなったのよね? 八雲紫が本当に父親を殺めたのか、事ここに及んで確信が持てなくなった。隙間の妖怪に取り憑かれたときに、その不信がさらに強まった。何を言われたのかは知らないけれど」
メリーベルの内面は今、真っ二つに割れている。自身のこれまでを正当化するために死ぬべきだと主張する復讐者と、死を恐れて泣きじゃくる少女に。
決めていた筈の覚悟に躊躇する。だがそれを責める者などいないはずだ。その覚悟と共にずっと歩んできた、自分自身を除いては。責める自分と責められる自分。同じ個が正反対の主張を真っ向から戦わせているのだから、救えるのはどちらか片方だけだ。
「ねぇ、戻りましょう。東京に、科学世界に」
「嫌よ! ここまで来たのにどうして」
「五月蝿い! 人間を軽々しく死なせるもんか」
ならば私は、この手を離さない。
メリーベルは暫くの間、その手をぼうっと眺めていたけれど、やがて膝からへたり込んでしまった。そして私の握る片手にもう片方の手を添えて、ついには声を上げて泣き出してしまった。
多分、孤独な覚悟を決めた彼女に対して、「死ぬな」と声を掛けてくれる人は今までいなかったのだ。だから復讐者としての彼女は勘違いをしてしまった。自分は本懐のために命をも捨てられると信じてしまった。
博麗の巫女でなくなってしまった私には、もう世界を救ったりすることはできないけれど、生け贄となることが怖くて泣いている少女を引き留めることはできる。理不尽を排斥するのが科学世紀であるのなら、私がその住人であるのなら、こんなことは見過ごせない。
幻想の光が、科学世紀から吸い上げられていく。巨大なトンネルの向こう、どこよりも遠い場所へ。私たちにはもう、たぶん届かないであろう世界へ。
「ねぇ、星さん」
燃えるような輝きで、ずっと私たちを見ていた寅柄の毘沙門天に、私は呼び掛けた。
「これで、良かったのかな」
「それを決めるのは、本当の願いを叶えたときの、あなた自身です」
「本当の、願い……」
それは一体何なんだろう。それが叶うのは一体いつになるのだろう。未来のことなんて、自分自身と同じくらい分からないけれど。
「じゃあ、願うわ。いつか、科学と幻想が並び立つ、そんな日が来るように。東京が科学幻想都市となって、人間と妖怪がもう一度ともに生きる。そんな未来を願うの」
「はは、そりゃ壮大な夢だ。一体何百年かかることやら」
「あら那津、無理だと思う?」
「いいや。千年の夢を追い続けてるひとをずっと傍で見てきたんだ。疑いやしないさ」
「ではいつか、桜子さんの夢が叶ったら、私はその世界にお邪魔しましょう。聖と一緒に」
途方もない絵空事は、星さんと那津に暖かく笑われた。私も、メリーベルでさえも笑った。
けれどもう、別れの時だ。星さんがその槍に法力を籠めて高く掲げる。
「では、お達者で。遠い彼方の地から、あなた方の息災を祈っています」
「私も、星さんたちの捜し物と捜し人が無事見つかることを祈ってる」
「あ、そういえば私、あなた達に負けっぱなしじゃない! 次は勝つわよ」
「悪いが負ける気がしないね。まぁ精々腕を錆び付かせないでおくことだ」
人間と妖怪は、今は違う道を往かなければならない。いつか再び合流する道なのだとしても、ここが分かれ道だ。
星さんが槍で地を突くと、格子模様が粉々に砕け散った。私たちは皆、足場を失って落下していく。星さんと那津は幻想の渦の中へ。私とメリーベルはその逆、再び逆転した重力の中へと。回転する身体と回転する意識の中、私は何とかメリーベルの手を取った。幻想の光が遠ざかっていく中で、科学の光が照らすその場所に着くまで、闇の中ではぐれてしまわないように。
この別れは終わりではない。むしろ始まりだ。科学と幻想は、人間と妖怪は、ここからは異なる次元で生きていく。それぞれの正義で、道の先を照らしながら進んでいく。どこに向かっているのかなんて誰にも分からないけれど、少なくとも後戻りはできない。次に道が交わったとき、結界で分け隔てられたふたつの世界が再び接触するとき、科学と幻想がともに並び立てますように。そのときにはもう、正義の意味も形も変わっているかもしれないけれど、せめて衝突はしませんように。
落下速度は上がっていく。けれど闇の中ではそのことも忘れてしまいそうだった。そのうち自分が落下しているのか静止しているのか、それすら分からなくなって、ぐるぐると意識は暗転していく。繋いだ手の感触だけが、ただいつまでも残っていた。
◆ ◇ ◆
雨がぽつぽつと身体を叩いている。冷たい雨だ。大陸からの寒気が降らせる、冬を連れてくる雨だ。きっと暫くの間は降り続けて、止んだらもう気温は下がっていくばかりだろう。細かいけれど重たい雨は、東京の街から、私の身体から、少しずつ確実に熱を奪っていく。見上げる空から降る雨が時折目に入るのが嫌で、瞼を開いておくのは諦めた。
身体が重い。疲れ果てている。指の一本すら動かす気になれない。けれど右手にある確かな温もりが、私に安心をくれる。失ったものもあるけれど、こうして護ったものもある。どちらが大きいかとか、釣り合っているかどうかとか、そういうことは考えないことにする。どうせ答えなんてすぐには出ないのだから。
周囲が騒つきだした。どうやら私たちに気が付いたようだ。遠巻きに何かを囁く声が聞こえる。規制線を越えないよう警官が誰かに言い付けている。そうか、ここは恩賜上野動物園、仔狐が消失したあの事件現場。メリーベルを追って隙間へと飛び込んだあの場所に、どうやら私はそのまま戻ってきていた。
そう、戻ってきたのだ。科学都市東京に、私は戻ってきた。瞼を開けなくても、音と匂いが教えてくれる。だから分かる。もはや妖怪も、それを退治する博麗の巫女もいない。幻想京の全ては終わった。八雲紫の目論見通りに幕は引かれた。ここは幻想を切り離した人間の都市。私がずっと暮らしてきた、けれど私の知る東京とは少しだけ異なる街。
「 ―― 待ちなさい、ここから先は」
「すいません、通してください!」
思考を中断したのは、覚えのある少年の声だった。そして一心不乱に駆け寄ってくる足音。そうだ、すっかり忘れていた。私は彼と一緒にメリーベルを探していたんだった。
ゆっくりと目を開けると、屈み込んだ岡崎上等兵の心配そうな顔がすぐそこにあった。どうやらかなり心配を掛けてしまったらしい。何も言い置かず勝手に隙間へと飛び込んだことを、少し申し訳なく思った。
「……ほら、ちゃんと連れて帰ってきたわよ、メリーベル」
握った手を掲げてみせる。上手く笑えていたと思う、多分。事を成し遂げた有能な女の顔ができていたと、自分ではそう思う。
ところが岡崎上等兵は、メリーベルに一瞥をくれただけで、何だか妙な顔で私を見た。あれだけ一生懸命に探していた相手がようやく見つかったというのに、彼はそれを喜ぶでもなく、むしろ戸惑っていた。挙げ句の果てにはおかしなことを言い出す。
「あ、あの、あなたもしかして、宇佐見桜子さん、ですか?」
「え、何よ今更……。当たり前じゃないですか。それよりほら、この娘をずっと捜していたんでしょう。まだ寝てるけど、特殊異変隊に見つけたって連絡くらいはしてもいいんじゃないですか」
至極まともな提案をした私を、彼は豆鉄砲を食った鳩みたいな顔で見た。
「あの、そちらの方はどなたでしょう? それに特殊異変隊って、一体何のことですか?」
「……は?」
「まぁ、無理もないか。行方不明になって長かったんだ。少し記憶が錯綜しているのでしょう」
「いや、何を言って……だってあなたがメリーベルをずっと捜してたから、同じ特殊異変隊の仲間だって言うから、私が隙間の中からこの娘を」
「桜子さん、落ち着いてください」
何とか身を起こした私の肩を、岡崎上等兵は柔らかく押さえた。両の肩を捕まれて、鼻と鼻が触れ合いそうな距離で、彼の茶色い大きな瞳は私をじっと覗き込む。
「私がずっと捜していたのは、あなたです。あなたは1年もの間ずっと、行方不明だったんですよ。ご両親も大層心配されています」
彼が何を言っているのか、理解するのにたっぷり14秒の時間が必要だった。
行方不明? 私が?
「いやいやいやいや。だって親とは手紙のやり取りしてたし。えっ、と言うかどうしてあなたが私の親を知って……?」
私の頭は混乱の極みにあった。彼は何を勘違いしているのだろう。あれだけ捜していたメリーベルを知らないと言い、そして私をまるで初対面の人間のように扱う。ひょっとして目の前にいるのは、岡崎上等兵とよく似た別人なのか。
しかしそこではたと思い当たる。ここは東京、幻想京でなくなった人間の都市だ。ということは、まさか。
「……向日葵は?」
「ひ、向日葵とは?」
「幽香さん、花の大妖怪が咲かせたでっかいやつよ! どんなビルよりも高いのが咲いて、後始末が大変だったってあれだけ騒いでたじゃない。それに秘封倶楽部が大流行して、誰も彼もがキネマを観に行ってた。毎日のように妖怪が大暴れして、塵塚怪王とか古代の怨霊とか、強大なやつが荒れ狂ったことだってあった。私はずっと博麗の巫女で、妖怪寺のふたりと、このメリーベルと一緒にそれを退治して。ヴワルとかいう異世界にも ―― 」
もうそれ以上、私は言葉を続けられなかった。岡崎上等兵が私を見る目は、大いなる憐憫と少しの恐怖で満たされていた。
「桜子さん、もう大丈夫です。あなたに何が見えたのかは分かりませんけど、ここにはもうあなたを苛めるものは何もありません。……すいません、そこの方。お医者の先生を呼んでいただくか、もしくは病院へ搬送の手配を ―― 」
目眩がした。気が遠くなりそうだった。こんなの、あんまりじゃないか。
八雲紫は、全てを夢へと変えてしまった。私が博麗の巫女として過ごした1年間の全てが、現実でなくなってしまった。妖怪たちの存在も、それに対抗する異能の人間たちの存在も、余すところなく完全に。
科学世紀においては、現実でない物事は何も無いことと同じだ。つまり私たちが妖怪退治に明け暮れた日々は、無かったことにされてしまったわけだ。まるで幻燈機の光を落とされたときの様に、形すら残さず綺麗さっぱりと。
雨の滴がひとつふたつ、前髪を伝って落ちていく。冷たい雨は止まない。私を暖めることなんて、あの空は微塵も考えてくれやしない。
「…………私、本当に、1年間も、行方不明に?」
「えぇ。たまたま僕が動物園にいたので、すぐに見つけられて良かった……。あれ、そういえば僕はどうして動物園なんかに来たんだっけ」
岡崎上等兵の手を借りて、私は何とか立ち上がった。担架がやってきて、目を覚まさないメリーベルを抱え上げる。兎にも角にも、雨の当たらないところへ行かなければならなかった。警官が持ってきた重たそうな蝙蝠傘を、岡崎上等兵は片手で苦もなく開く。私はそのまま彼の肩を、彼の傘を借りた。岡崎上等兵の背丈が私より頭半分だけ高いことを、そのとき初めて知った。
滴が傘布を打つ細やかな音を聞きながら、凍えかけていた身体が彼からの熱で解されていくことを実感しながら、私はふと不自然な点に気が付いた。
「あの、私とあなたって、初対面のはずですよね?」
メリーベルを捜している彼と偶然出会ったことで、私たちは知り合った筈だ。その事実が消滅したのなら、彼が私を知っている訳がない。
すると岡崎上等兵は私へと視線を下げて、ふんわりと笑ってみせた。
「そうですね、実際にお会いしたのは初めてです。でも以前……いやまぁ、こんなことになったんだし、覚えていないのも当然かもしれませんが」
「実際に……えぇっと」
既視感が強まってくる。彼とどこかで会っていたような、あの奇妙な感覚。
「見合いの話があったんですよ。僕とあなたのね。一人娘に婿を取りたいあなたの両親と、三男をさっさと放り出したい僕の両親の思惑が一致したんでしょう。だけど会うか会わないかって話の前に、あなたが消えてしまって」
そうだ、思い出した。去年のちょうど今頃、父がどこからか持ってきた見合い写真。ちらりと見ただけで放っておいたけれど、あれに写っていたひとは確かに岡崎上等兵だった。あれは妖怪騒ぎがどうこうなる前の話だったから、無かったことにはなっていない。つまりこの記憶が、夢と現実に分け隔てられた私と彼の中で唯一共通するもの。
冷たい風が吹き付けたので、私は濡れ細った身体をぎゅっと縮めた。彼は自分の肩掛けを外して私に被せてくれた。その小さな布切れ1枚で、不思議と全身が暖かくなって、今すぐにでも眠ってしまいたかった。
雨はまだ暫くの間、止みそうにはない。科学都市の隅から隅まで、あらゆる幻想を洗い流してしまうまで、この秋雨は続くのだろう。世界がひとつ終わり、そして始まる瞬間。その継ぎ目を人々から覆い隠すように、分厚い雲は都市上空に蟠り続けていた。