私はいま、前へと進んでいるのだろうか。
それとも、後ろへ引き戻されているのか。
あるいは、上へ飛翔しているのだろうか。
もしくは、下へ墜落しているだけなのか。
「貴方ねぇ、もうちょっと自分で頑張りなさいよ。こっちは重くって仕方がないわ」
「そんなこと言われても……」
あらゆる感覚が消散してしまいそうな暗黒の中、私はメリーベルと共に紫の使い魔を追っていた。まるで負ぶわれるような格好で、深さも知れない闇をひたすらに進んでいく。すでに彼此の差は相当なまでについてしまっており、使い魔の後ろ姿は針の先よりも小さい。
奪われた陰陽玉を取り返さなければ。私をいま突き動かしているものはその想いだけだった。いきなり奪われて、はいそうですかと納得できるわけがない。博麗の力を取り戻して、御役御免を返上し、八雲紫に目に物見せてやらなければなるまい。
しかし、巫女でなくなってしまった私は、もはや霊力を行使することはできない。ただの人間に戻ってしまったら、この謎の暗黒世界では何もできやしない。必然、移動から何からの全てをメリーベルに依存することになる。
「あんたを助けてあげたのは私でしょう。借りがあるんだから返してもらうわ」
「全くもう……。それにしても、進んでる実感が全くないのよね。静止しているようにも、高速で飛んでいるようにも思える、不思議な感じ」
車とか列車に乗ったときによくある、本当はこっちが動いているのに、逆に街の方が動いているような錯覚。要はあれの酷いやつである。
ここには本当に何も無い。追い掛けているあの使い魔が遙か彼方に輝いている以外には、メリーベルの放つ淡い霊力光しか光源は無いのだ。この空間に飛び込んでから174分29秒が経過したことは確かだけれど、それだけでは何も分からない。時間に加えて速度か距離が分からなければ、運動を定義できないのだから。
「あの九尾が羨ましいわ。御主人様の所まであとどのくらいあるのか、きっと分かってるはずだから。私たちにはそれすら分からない。終わりが見えない行軍ほど、辛いものはないのよ」
「 ―― ねぇ、あの使い魔って、やっぱり上野動物園の……?」
紫の声を聞いていたのだろうメリーベルなら知っているのかもしれない、と私は疑問を口に出した。まだ幼い九尾の狐。檻の中で震えていた小さな狐と、私に向けて重い雷槍爆撃を放ってきた紫の使い魔。行動こそ似ても似付かないが、状況から考えればこれらは同じ個体のはずだ。
メリーベルは苦々しい顔をした。紫に憑かれていたときのことを思い返したからだろう。
「そうよ。私を操っていた紫が、動物園から連れ出した。見ていたもの」
「でも、どうして……。最初に見たときはただの動物だったのに、今はあんなに」
「それが妖怪という存在だからよ。妖怪はいつだって、そんな風に生まれるの。あの狐が9本の尻尾を持つ理由は分からない。科学者ならきっと、突然変異だとか何とか適当な理由を付けるでしょう。でもそうじゃない大多数の人々は、あれをただただ不思議な存在として捉える。そして『9本の尾がある狐なら、伝説に聞こえる九尾の狐に違いない』という幻想を信じるようになる。そうなると、あの狐は本当に九尾の狐に変じてしまうのよ」
幻想京、あるいは幻想郷。それは夢が幻想を通じて現実に変わる場所。
「メリーベル(わたし)が紫(わたし)として語ったことだもの、よく覚えているわ。産まれた場所が東京でさえなければ、産まれた時代が明治でさえなければ、あの狐はただ獣として生きて死ぬだけだった。けれど魔都の、それも動物園で産まれたばっかりに、あの狐の存在は大衆に大々的に知られ、妖怪化するのに十分な幻想を得てしまった。それがあの仔にとって、最大の幸運にして最大の不幸」
「え、どうして不幸なの?」
「桜子ってば、九尾の狐がどんな妖怪か知らないの?」
「……凄く強い妖怪狐」
「あのねぇ……。まぁ良いわ。確かに強大な妖獣よ。だけどそれは、本来なら妖怪狐として千年間の修行を積み、そこで初めて身に付けるはずの強さ。それをあの仔は、産まれてほんの数ヶ月で背負うことになってしまったのよ。自分が何者なのかも分からない内にね。だから八雲紫は、九尾の狐に手を差し伸べた。自らの傍に置いて、力の使い方を、己が何者なのかを、しっかり教え込むために」
私は彼方の九尾を見た。主の許(もと)へと迷い無く駆ける妖獣を見た。その姿は、太陽を追い掛けて沈んでいく宵の明星のようにも見えた。
幻想京計画とは一体何だったのか。八雲紫が一体何を企んでいたのか。私には朧気にしか分からない。だが彼女の全ての行動は、幻想郷の確立に向けたものであったはずだ。九尾の狐の誕生は、紫の計算の内にあったのだろうか。それとも偶然の副産物なのか。
「……? あれは」
メリーベルが目を細めた。追い掛ける九尾の放つ輝きが、金色から白へと変わっている。
「もしかして、こっちに何か仕掛けてきてる?」
「かもね。掴まって。回避するわよ」
一直線に後を追うのを一旦中止し、大きく迂回する道を取る。仮に直線的な攻撃ならこれで回避できるし、こちらへ誘導されてくる弾だとしても時を稼げる。
だが、真実はどちらでもなかった。そもそも攻撃ですらなかった。角度を付けてみると、白い光は九尾の狐のさらに先に位置していたことが見て取れた。狐は、そこへ向けて飛翔していたのだ。
つまり、あそここそが目指す目的地。
「メリーベル!」
「分かってる!」
大事を取った作戦が結果としては裏目に出た。迂回したことで、進むべき距離が増えてしまったわけだ。だが今更何を言っても始まらない。可能な限りの速度で、私たちはその光を目指す。
距離感覚が消え失せた世界で、その場所までは永遠の遠さがあるようにも思えた。やがてその光の一葉一葉が、だんだんと見えるようになってくる。輝く腕を四方八方へと伸ばしているその姿は、いつだったか父の科学雑誌で見たアンドロメダ星雲を彷彿とさせた。指先ほどの大きさだったそれが倍の大きさに見えるようになった頃には、さらに細かい光の流れがあることが分かった。それこそ本当に、無数の星が集まって構成されたような場所なのだ。中心には暗い穴があり、そこに向けて光の粒が流れ込んでいく。
「あれ、何だと思う?」
「さぁ……」
訝(いぶか)しみながら近づいていく先で、九尾の使い魔がその中心部を潜り抜けた。なるほど、あれはトンネルなのだ。穴を抜けたその先に、結界に阻まれた世界が、八雲紫が待っているのだろう。
同じことを考えたのだろうメリーベルの、息を呑む音が聞こえた。彼女も私と同じく、八雲紫の許へと向かうつもりなのだろう。隙間の大妖と相見(あいまみ)えて復讐を果たし、そして……。
「メリーベル、あんたまさか」
金色の退魔術師は応えなかった。ただ迫り来る暗黒の大口を、じっと見据えていた。
すると突然、行く手を遮って格子模様が出現した。驚く私たちを余所に、黄金に輝く光網はその網目を四等分してさらに細かくなる。そしてもう一度、さらにもう一度と四等分が行われた。今やトンネルに蓋をされたような形だ。これも九尾の狐の、あるいは八雲紫の妨害なのか?
いや違う。この気配を私は知っている!
「小癪な! 完全に封鎖される前に突破よ、行くわよ桜子!」
「メリーベル待って! 止まって!」
私は必死だった。頭に血が上っていたメリーベルも、私の嘆願を聞き入れるだけの冷静さは何とか残していたようで、私たちはその場に静止する。しかし異常事態は終わらない。静止したつもりが、しかし私たちの身体は未だに前へと引っ張られている。
いったい何がどうなっているのか分からないまま、私たちは暫し混乱へ陥った。得体の知れない力が私たちを掴んで引きずり落とそうとしているようにしか思えなかった。その未知の引力が重力であると気づくまで、私たちは体勢を安定させようとあたふたしっぱなしだった。つまりは、今はあの光の円盤が「下」なのだ。私たちは言わば腹這いの格好で落下しかけていたわけだ。
何とか体勢を整え、ゆっくりと降下する。行く手を塞ぐ光の格子はもはや、蟻の子一匹通さない濃密な網となっていた。
そして網目の内側、見えない床の上。そこに彼女は立っていた。私の全く知らない格好で、私が見たこともない顔をして、いるはずのない場所に。
なんで、どうして。疑問符が形に成り切る直前に、上で蒼い揚力が爆ぜた。咄嗟に上を見ると、無数の弾丸が雨となって降り注いで来る。そうだ、あそこに彼女がいるなら、その相棒も当然いるはずだった。いつの間にか上空へ回り込まれていたのだ。
回避に移るメリーベルが悲鳴のような声を上げる。
「な、なんでここにあいつらがいるのよ!?」
「知らない、全然分かんない……。とにかく降ろして!」
蒼い光弾の雨を躱(かわ)すと、それらの弾幕は網をすり抜けて、虚空の奥底へと消えていく。その何も無いはずの場所に、私たちは降り立った。
星さんは、神様みたいな表情で仁王立ちをしていた。いつもの彼女の面影はどこにもなかった。そこに立っているのは、スリーピースを着込んで柔和に微笑む彼女ではなかった。まるで異国の神話の中から抜け出してきたような、黄と臙脂の不思議な服を纏っていた。
そして傍らに降り立った那津は、東京の街娘の擬態を解いた彼女は、もっと奇妙な格好をしていた。全身を鼠色で固めているのは同じだけれど、着物はもはや小袖どころか和服ですらない。肩に腰に脚にひらひらとした布を纏うその姿は、絵でしか見たことのない砂の国の踊り子のようだった。
2人の人間と、2匹の妖獣の、その距離は差し渡し百歩ほど。辿り着けない距離ではない。けれどもう、決して届かないだろう百歩だ。世界の果てよりも遠い百歩だ。向かい合う私たちは暫し押し黙ったままだった。異様な空間の巨大な沈黙の中、光の粒はただただ流れては落ちていった。
どうしてここにいるんですか、と聞きたかった。どうして私たちを止めるのかを知りたかった。けれどそれを口にすることすら憚(はばか)られるほど、並び立つ2人は神聖だった。毘沙門天の代理、その言葉の意味を深く考えたことなんて今までなかったのに。星さんの放つ威圧感は、これまで対峙した妖怪たちの比ではない。メリーベルが必死で霊力を練り上げているけれど、とても及ぶ気がしない。今更ながらに思い知った。私は彼女の本気をまだ見たことがなかったんだ。
星さんが、ついに鉛のような沈黙を破る。
「桜子さん、あなたは東京へ戻らなければならない。幻想京は終わりました。幻想京の巫女にも、もはやその意義はない」
息を呑む。それっきり呼吸が止まる。相対する爛々と輝く瞳は、いつの間にか最後の迷いを捨てていた。宣告は続く。
「あわよくば東京をそのまま幻想都市へと変える。八雲殿はそのつもりもあったのでしょう。ですが彼女は断念しました。当初の計画通り、幻想郷を覆う大結界の構築に必要なものを揃えるための期間。その僅かな間だけ東京に幻想を集めるのが精一杯だった。いかに強大な力を持つ存在だろうと、人間の作り出した時代の潮流は変えられない。ひとりの大妖怪の力も、億の人間の意志には及ばない。そして、桜子さん、あなたは ―― 」
寅の眦が、その瞬間だけ、ほんの少しだけ、翳(かげ)った。
「 ―― あなたは、その億の人間のうちの、ひとりなのです。あなたは科学世紀の住人だ。ゆえに、幻想の世界にあなたの居場所は無い。私は何度でも忠告しましょう。ここから先にあなたは進むべきではない。科学都市東京が、あなたがこれから生きるべき場所なのだと」
「そんな……」
言葉が見つからなかった。頭の中には感情が嵐のように渦巻いているというのに、それが明確な言葉へと変わってくれなかった。まさか星さんが八雲紫に加勢するだなんて、考えてもみなかった。
「その上で問いましょう。桜子さん、あなたがいま望むことは何ですか?」
「私は……紫を問い詰める。勝手に巻き込んで、勝手に突き放されて、どうしてこんなことをしてくれたのか、ちゃんと説明してもらわないと、気が済まないもの」
それは当然の権利であるはずだ。これだけ滅茶苦茶なことをされて、ただ粛々と受け入れられるほど、私は暢気ではない。そしてそれを否定できる者なんているはずがない。
私の憤激に、しかし那津は溜息で応じた。
「それは科学世紀の人間の典型的な思考だ。理不尽な目を見ると、それに合理的な説明を求めずにはいられない。物事は道理に沿って進まなければならないのだから、無理などということはあり得ない。つまり目に見えないところに、己の知らぬ道理が潜んでいるはずだ、とね。なぁ桜子、言ってしまえば、幻想とは即ち理不尽だ。理不尽な災害、理不尽な死別、理不尽な暴力。それを説明するのが幻想だった。そしてその理不尽に対抗するために対となる幻想を用いる。それがこれまでの世界だった。だが、これからはそうじゃない。科学があれば幻想などもはや用済みだ。だって人間が科学を究極まで発展させたなら、あらゆる物事に科学で説明を付けるなら、理不尽なんてそれだけで消えて無くなるだろう?」
「じゃあ、こんな目にあっても黙って受け入れろって言うの!?」
「受け入れないから君は幻想の人間ではないんだ。非常識を徹底的に排斥し、常識だけで世界を構成する。そのことを責めている訳じゃない。君は間違ってなんかいない。だが現代の東京に生まれた人間は、君も含めて、もう心の底から科学の人間なんだよ。そして科学世紀に生まれた科学の人間が、幻想世界に立ち入ったところで、誰も幸せになんてなれやしない。当たり前だ。理不尽ばかりの世界で、理不尽を許容できない者が安寧を得られる筈がない」
「でも、私にはずっとこの世の者じゃない何かが見えてた! 博麗の巫女の力だってちゃんと使えた!」
「それだけじゃ足りないんだよ。私が言っているのは魂の話だ。身命に賭した覚悟だって及びやしない、生まれ持った魂が別物だという話をしているんだ」
那津の言葉は、私たちと彼女たちの間に深い亀裂を刻んだ。遙か足下で流れる光の奔流も相まって、大河を挟んで両岸に立っているような錯覚に陥った。
もしも、もしも東京が幻想都市のままで在り続けられたなら、私がこんな目に遭うことなどなかったのかもしれない。私は博麗の巫女のまま、退魔術師と並び立って魔都の秩序を護る。そんな夢みたいな世界が、現実になっていたのかもしれない。
けれどその願いは断たれた。私は結局、幻想にはなれない。魂と魄で生きる幻想の生物にはなれない。どこまで行ったとしても、私はきっと心臓と脳で生きている科学の人間だ。
「 ―― だから、桜子さん。私たちはあなたを阻むためだけでなく、別れを告げるためにもここにいる。私とナズーリンは、幻想郷に向かいます。もう、お会いすることはないでしょう」
「そんな、だって、まだ東京に出てきたばっかりで」
「幻想の世界で科学の人間が馴染まないように、科学世紀に幻想の生物が入る余地はありません。それに、私にはどうしても叶えたい望みがある。どうしても助け出さなければならないひとがいる。そう、聖様は科学では絶対に救えない。だから私は、幻想の側に在り続けなければならないのです」
寅丸星は、相も変わらずに正義のひとだった。彼女はいつだって、正義の白い光の中に立っていた。自分を信じてどこまでも突き進めるひとだった。私には真似など到底できそうにない。私に彼女を止めることなんてできる訳がない。
強く握っていた拳を、ふと緩めた。既に結末は決まっていたのだ。八雲紫の組み上げた台本は完璧だったわけだ。私がいかに暴れようと覆せないほどに。
「……じゃあ、私は?」
そのとき、傍らの霊力が燃え盛った。全身を青白い霊力で漲らせ、メリーベルは一歩前へ出る。
「桜子がこの先へ行けないことは分かったわ。でも私はどうなの? 私は幻想郷に入っても良いの?」
「君を止める権限など私たちには無い。復讐や妄執、そういった強い感情動機は、幻想と科学の垣根を軽く飛び越えてしまうだろうしな」
那津の瞳に、言葉と裏腹な剣呑の光が灯る。
「望むなら進めばいい。だが聞いているぞ。八雲紫に復讐を果たせば、引き替えに君は死ぬ。そして結界の中で君の身体が新たな八雲紫となる。……どうするかは、君が決めろ」