雨には濃度があるのだ。そう少女は考える。つまり濃い雨と薄い雨があるのである。それは強弱とはまた違った概念で、豪雨にしたって薄いものは薄い。今日の秋雨はそれとは正反対で、弱いけれど濃厚な雨だった。雨の匂いは街のそこかしこに満ち満ちていて、少女のうんざりはもう限界に来ていた。喫茶店の一番奥に陣取っているにもかかわらず、珈琲の香ばしさが秋雨によって濁されてしまっている。脚を組み替えて、少女はそれをひと口啜った。透き通った苦みと豆本来の円(まろ)やかな甘みに混じって、生臭い雨水の味まで感じられるようだった。眉間に皺が寄りそうになるのを、少女は持ち前の気位の高さでもって何とか抑えた。
窓の向こう、行き交う人々の頭の上。厚ぼったい雨雲は、あらゆるビルディングを圧し潰さんばかりに低く垂れ込めている。雨がこのまましとしとと降り続ければ、石造りの街をすっかりと溶かしきってしまいそうだ。雨垂れはいつか石を穿(うが)つのだから、帝都東京もいつの日にか、雨に負けて真っ平らになってしまうのかもしれない。けれど人間は、より頑丈でより高い、新しいビルディングを建てることができる。科学技術は日進月歩の勢いであり、もちろん建築技術も例外ではない。きっと雨が街を溶かすよりも早く、人間の建てる塔が雲を突き刺すことになるだろう。まるで夢物語のようだけれど、夢はいつか現実に変わるのだ。
少女は ―― 友人たちからは孔雀様と呼ばれている彼女は、鋭く勝ち気な眼をふっと細めた。そういえば、行方不明になった友人、宇佐見桜子と最後に会ったときも、こんな風に喫茶店で珈琲を飲んでいたのだった。店を出たと思ったら急にどこかへ駆けていってしまった彼女は、そのまま行方を眩ませてしまった。東京のどこにも、何ひとつ痕跡を残さずに、この世から忽然と消失したのだ。警察もかなりの人数を動員して捜索に当たったが、有力な手掛かりは見つからなかったと聞く。
宇佐見桜子が消えてからの1年間は、夢のごとくあっと言う間に過ぎ去っていった。そう述懐して、孔雀様は心に微かな痛痒を覚え、そして何故か違和感を抱いた。心のどこかを小さい虫に噛まれたような、酷くはないけれど無視しきれない感覚。何か決定的に記憶違いをしているような気がする。東京に特筆すべき事件など何も起こらなかったはずだ。この街は至極平穏だったはずだ。その確信すら、まるで10日前に見た夢のように朧気なのはどうしてだろう。
例えばこの1年間が夢だったとして、それもいつかは現実になってしまうのだろうか。
「これが現実だとは、信じたくないんだがね。お銀」
突然の声に、孔雀様は思考の海から浮上する。隣の机にはいつの間にか、ひと組の男女が着いていた。黒髪を油で撫で付けたキザったらしい眼鏡男と、銀色のどこかくるくるした女だ。何の変哲もない光景なのに、何かがおかしい。少女は不躾を承知で、横目で2人をじっと見た。
「あれだけ売れた『秘封倶楽部』の名を、もはや誰も覚えちゃいない。日ノ本を席巻した傑作キネマだぞ。それが完全に無かったことになってしまった。やれやれ」
「主どのは、これもあのスキマの仕業と?」
「他に誰もいないだろう。まったく、本当に出鱈目なやつだ」
「して、これからどうするのじゃ」
グラスに長い舌を突っ込むというこの上なく下品な方法で、銀色の少女はミルクをちゃぷちゃぷと飲む。男はそれを見咎めるでもなく、珈琲に5つ目の角砂糖を追加した。
「どうするも何も、また同じことをやるだけさ。香霖堂は僕ひとりいればどこでだって続けられる。幸いなことに前と違って金はあるしな。暫く食うには困らんさ」
「だから、香霖堂を再開してどうするのかを聞いておる。また別のキネマを探して興行かえ?」
「いや、幻想郷へ向かおうと思っている」
ミルクを舐める少女の動きが止まった。真ん丸く見開かれた瞳は、驚きと喜びに染まっていた。男は少女の手からグラスを取り上げて、自分の珈琲にミルクを少し足した。
「君が東京に残ると言ってくれたときは嬉しかった。だが無理をしているのは見れば分かる。君はやはり化猫、幻想の存在だ。本当は他の妖怪たちと一緒に、幻想郷へ向かいたいんだろう」
「妾は……主どのと一緒ならどこででも……」
「強がるんじゃない。ここ数日の君は痛々しくて見ていられなかった。八雲紫の結界の中へ飛び込んでいくのは少しばかり癪に障るがね。それに人間だけの帝都よりも、妖怪都市東京の方が僕は好きだった。あの混然とした何ともいえない喧噪。いつでもどこかで繰り広げられた不可思議な馬鹿騒ぎ。どいつもこいつもまるで覚えちゃいないけれど、僕は忘れない。忘れられるもんか。だってそっちの方が、断然面白いじゃないか」
男の台詞にどんどん熱が籠もっていく。孔雀様は珈琲を啜ったけれど、まるで味なんてしなかった。どうやら彼女には今まで縁の無かった業界の話らしい。キネマがどうとか言っていたし、新しい映画の構想でも練っているんだろうか。
だが、どこかが妙に引っかかる。妖怪都市、知るはずもないその単語を、彼女はどこかで聞いた気がしてならなかった。東京に無数の妖怪が飛び交う光景。そんな非常識なもの、この世界にあるはずがない。キネマトグラフの中の話に決まっている。
銀色の少女は、畏まってぴんと背筋を伸ばす。その頬は真っ赤に染まっていて、あぁ、これは向かいの男に相当惚れ込んでいるのだということが手に取るように分かる。黄色い瞳が縦長にすぼまった。孔雀様は違和感の正体を知った。あの眼は人のそれではない。そう、まるで、猫のような ―― 。
「嬉しい……ありがとう、主どの。でもそれなら急がねばならんな」
「だろうね。こうまで大きく世界が書き換えられているんだ。八雲紫は完全に幻想と現実を切り離すつもりなのだろう。事が済む前に移動を終えなければ」
「東京に根を置ける妖怪など、もうほとんど残ってはおらぬ。東京はもはや幻想京ではない。あの娘が何ちゃらの巫女とかいう役目を免じられるのも時間の問題じゃ」
「えぇと、あぁ、博麗の巫女。八雲紫が勝手に選んだというのに、首を飛ばすときも奴の気紛れ次第というわけか。少し同情するね。名前は確か……宇佐見桜子」
息を呑む。それど同時に、啜っていた珈琲が気管へと流れ込み、孔雀様は激しく咳き込んだ。おまけにカップをソーサーへ戻すことにまで失敗して、机の上にぶち撒けられたその中身が琥珀色の海を形成する。平らな地平をあっと言う間に浸食しきった海は、大地の端から流れ落ちて少女の袴を汚した。
「 ―― お話は纏まりまして?」
「……本当に君はどこにでも現れるね。まぁいいさ、探す手間が省けた」
「えぇと、あの、主どのと妾のこと、どうかよろしくお頼みします」
影も形もなかったはずの、3人目の声がした。だが少女にとっては、とてもじゃないがそれどころではない。肺まで侵入しそうだった珈琲を何とか追い出し、袴の染みを必死に拭き取って、ようやく落ち着いたときにはもう、隣の席はもぬけの殻になっていた。まるで初めから、誰もいやしなかったかのように。
「…………?」
何が何だか分からぬまま、少女は目まぐるしく起こった一連の出来事を反芻しようとして、すぐさま諦めた。それこそ、白昼夢でも見たのだ。そう自分を丸め込んだ。親友の名前を聞いたような気がしたのも含めて、全ては幻想だ。あらためて念入りに袴に染みた珈琲をハンケチで叩く。袴から水気が吹き飛んだ頃には、孔雀様はすっかり先ほどの2人のことを忘れ、そしてその忘却についても何も感じなくなっていた。まるで10日前に見た夢のように、記憶からすっぽりと抜け落ちていたのだ。
濃密な雨は止む気配を見せない。ただしとしとと降り続けては、何もかもを洗い流していく。石造りの帝都の上で、ほんの僅かな間に咲き誇った鮮やかな幻想も、雨水とともに川へと流れ消えていく。後には何も残らない。少女は自らが見ていた夢すら思い出せない。
カップの中に残ったひと口分の珈琲を、残したままで孔雀様は席を立った。
◆ ◇ ◆
暗闇の中に、巨大な瀑布が聳えていた。だが流れているのは水ではなく、光だった。途方もない規模の排水溝のようなものだ、と星はそう理解する。漆黒の空間のあらゆる方向から、次から次へと白い光がこちらに集まってきている。無の闇から有の光が湧いて出ているのだ。ひとつひとつは細かい粒であるそれらの光が、やがて寄り集まって流れを形成し、この一点に向けて流れ込んでいるのだ。遠くから眺めれば、この滝は一輪の水仙のようにも見えるだろう。
ここが、顕界から廃棄された幻想の行き着く先だ。この先に幻想郷が、常識から隔離された非常識が集まる場所がある。
寅丸星とナズーリンは、花の蕊にあたるところに立っていた。四方から穴へと光が落ち込んでいる直上、何もないはずの空間に、両の脚で立つことができる透明な足場があった。意味も原理も分からないが、ここはとにかくそういう場所だった。輝く大河のせいで、辺り一帯は淡い光で照らされている。
ここは現実なのか、それとも。星は考え込みかけて、しかし首を振って止めた。もはやどちらだって構わない。無意味な問い掛けだ。2人は顕界を流れ流れて、そして今ここにいる。その事実だけで充分だった。
傍らに立つナズーリンは、この異常な場所にあっても全く取り乱すことなく、意識をペンデュラムに注ぎ続けている。そう、那津ではなくナズーリンというのが彼女の本来の名だった。日ノ本の人間社会へ溶け込むために異国風の名前を隠し偽ってきたけれど、これからはそれも必要なくなるだろう。
星とナズーリンの関係を一言で表せる言葉はこの世に無い。星がナズーリンに抱く感情も、それを言葉にすることなんてできるわけがない。千年という長きに亘(わた)って、2人は肩を寄せ合って生きてきた。ただ白蓮の戻る場所を護るためだけに生きてきた。親愛と憎悪、尊敬と軽蔑、憐憫と優越、傲慢と滅私。その千年という時間の中には、ひとがひとに対して抱く感情のおよそ全てが詰まっていた。何もかもが綯(な)い交ぜになっていまここにあるもの。互いが互いをもう一人の自分の様にすら思える心象は、愛憎という表現で括るにはいささか巨大過ぎた。
聖白蓮を取り戻すこと。それが星にとっての至上命題である。何に代えても叶えたい、最大の望みである。彼女の全てはそのために動いている。そのためにはまず、毘沙門天の宝塔を必ず見つけ出さなければならない。宝塔が無ければ、白蓮の封じられている魔界最深部へ辿り着くことは不可能だ。紀伊から東京に居を移したのも、そして東京を去って幻想郷へ向かうのも、全てはその一念のためである。
だが、その前にひとつ、片を付けなければならないことがあった。
「ナズーリン」
「何だい」
ペンデュラムから視線を話すことなく、鼠は言葉だけで返事をする。
「私は、間違っていませんよね? 私はいつか、聖を救えるんですよね?」
「…………」
何か応えようと言葉を探すも、ナズーリンはすぐに諦めた。これは独白に過ぎない。寅が鼠に求めているものは、真面目な討論ではなかった。
「時折、私は自分が、とんでもない悪人のようにも思えるのです。私は私の正義を貫いてきた。けれどその裏で、私は沢山のものを裏切って、殺して、潰してきた。そうしなければ、私の正義が消えてしまうから。私はあと何度、こんなことを繰り返せば良いんでしょうね」
「さぁね。未来のことなんか、毘沙門天はおろか、お釈迦様にだって分かるまいよ」
淡く蒼い光が、ナズーリンの掌の上で産声を上げた。やがてそれは強さを増し、煌々とした輝きとなって主に語り掛ける。待ち人がやって来た。立ちはだからなければならない相手が、いよいよここに来るのだ。
「御主人様。あなたはただあなたであれば良い。どこまでも傲慢に、あなたの正義を貫き続ければ良いんだ。聖白蓮がそうしたように。そうでなければ彼女は救えない。誰かにとっての救世主も、他の誰かからしてみれば大悪党だ。聖白蓮がそうだったように。間違ってなどいるものか。たとえ誰もがあなたを謗(そし)るとしても、その正義が変わらぬ限り、私は何度でも肯定してやる。たとえ修羅の道を行くことになろうとも、あなたがあなたでいる限り、私はどこまでもついていく。そうだ、間違ってなどいるものか。心置きなく本懐を果たせ、寅丸星。あなたには十二分に、その資格がある」
ナズーリンは並び立つ星を見た。流れ零れる光に照らされたその顔は、今や毘沙門天代理として相応しいだけの凛々しさを湛えていた。
星は時折こうして、自らの心の弱さをナズーリンに吐露してはそれを恥じる。けれどナズーリンは、星の心が弱いだなんて微塵も思わない。ただ惰弱な存在が、毘沙門天という四天王級の神格を背負って、千年間も実存を続けられる訳がない。彼女はナズーリンの知る誰よりも強いのだ。だから。
「未来のことなんて誰にも分からない。でも私は信じるよ、あなたが掴み取る未来を」
遠く遠く、闇の中に小さな人影が浮かぶ。それは一直線に、しかしゆっくりとこちらへ向かってくる。白蓮寺を幻想郷へ導き入れるために、八雲紫から申し渡された条件。それはあの少女をこの先へ進ませないこと。幻想京を完膚無きまでに終わらせること。
「……ありがとう、ナズーリン」
毘沙門天は、もう俯かなかった。双つの瞳の中、究極の正義が黄金の輝きを取り戻す。そうだ、この先に何が待ち受けていようと、これは私たちの信じた道なのだから。前進を恐れてはいけない。今この時まで、今この場所まで、積み重ねてきたものを、さらに先まで繋ぐために。
今は、ただ前へ。ただ前だけを見て、そしてその正義を誇れ。