Coolier - 新生・東方創想話ジェネリック

ラテルナマギカ ~寅と鼠と桜の巫女~ 『白日は、穢れゆく街に #6』

2016/07/13 22:18:58
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 さぁ、起きなさい。私の可愛いメリーベル。私の愛しい反逆者。世界で一番憎たらしい、弱くて愚かな復讐者よ。
 あなたはもう何も怨まなくていい。何も苦しむことはないし、何も悲しむことはないわ。あなたがずっと欲して止まなかったものをくれてあげましょう。あなたの一生の望みを叶えて差し上げましょう。だから全てを忘れ、何もかもを私に委ねなさい。

 この私を殺すこと。八雲紫への復讐を果たすこと。それがあなたの望みでしょう。たとえ命と引き替えることになっても果たしたい、道理も理屈も何もない、心の底からの願いでしょう。

 あなたに真実を語るつもりは無い。そんなことに意味は無い。あなたの両親に起こったことについて、私が何を語ったところで、それが真であるという証明式を私は提示できない。そして、たとえ完璧な証明をしてみせたところで、あなたもそれを信じようとしないでしょう。メリーベル・ハーンを突き動かしているものは、理論や証明では説明できないのだから。
 それは私にしても同じことよ。八雲紫を動かしているものは、ただひとつの大きな願い。何と引き替えても現実へと変えたい夢。そのためになら、何を支払っても、何を犠牲にしてもいい。私の身命が必要ならば差し出しましょう。可能性の全てを潰せというのなら、完膚無きまで擦り潰しましょう。街をひとつ、国をひとつ、世界をひとつ、生贄が必要ならば、捧げましょう。他の何がどうなったって構うものですか。メリーベル、あなたにはこの気持ちが分かるでしょう。あなたはそうやって今まで生きてきたのだから。私もそうやって生きてきたのだもの。
 そして先立って、私の願いは成就した。まったく、気が遠くなるほどに永い一瞬でしたわ。私は遂に創り上げたのです。幻想郷、妖怪の夢の楽園。打ち捨てられた夢の廃棄場。境界を操る私の能力を最大限に駆使し、常識と非常識を分け隔てた。代償は決して安くはありません。幾つもの異界を滅ぼし、あらゆる平行可能性を遮断したのですから。

 けれど、まだ不完全。私の夢の全ては叶っていないのです。夢の実現に必要な最後の対価を、私はまだ払っていない。

 顕界から幻想を濾過抽出し、地続きの異世界へと転送する結界式。そしていざと言うときに幻想生物を顕界へと送り出すため、肉体と精神を破綻無く再構築する結界式。さらに、他の異界から顕界への接続を遮断し、幻想郷へと繋ぎ直す結界式。そのいずれも、他に類を見ないほどに高度で複雑な演算を必要とするのです。だから超未来のオーパーツが必要だった。卯酉新幹線の車体を構成する超々硬度セラミック。車窓に幻想を描き出す三次元エーテルホログラム。衛星トリフネを無限に維持し続ける有機オペレーティングシステム『H.A.C.R.A.Y.』。これらの必要不可欠な要素を揃えるためには、キネマトグラフを通じて別世界の未来へアクセスしなければいけなかった。
 そして、これでもまだ完全ではない。博麗大結界には、あともうひとつの要素が必要なのです。これらの機能の全てを統合し、負荷を結界の全面へ分散するための頭脳。曖昧に厳格に、公平に残酷で幸福な独裁を行うための意志。時には冷酷に秩序を制定し、時には最適解をあえて無視する。無駄に完成度が高く無意味に美しい。有為に怠惰で有意義に愚かしい。そんな中枢が必要なの。そしてその最後の部品が、今ここにある。

 そう、最後の対価とは、他ならぬ私自身。この八雲紫の身体を中心へ当て填めることで、博麗大結界は完成するのです。

 ちゃんと今までの話を理解できているかしら、メリーベル? あなたの望みを叶えてあげようと言っているのです。そしてここからが最も大切なことなのよ。私が願いの対価を必要としたように、あなたも願いの対価を支払わなければならない。

 願いを叶えるための最も単純な対価は、誰かの願いを叶えてあげること。誰かが他の誰かの願いを叶えて、その他の誰かの願いをまた別の誰かが叶える。そうやって夢は現実へと変わり、世界は回り続けてきたのです。だから、最も単純な取引をしましょう。あなたの願いを叶えてあげる。だから、私の願いも叶えて頂戴。
 大結界が完成しても、幻想郷は完成しない。いえ、きっと永遠に完成することはない。完璧な世界など今まで存在しなかったように、幻想郷に完成という概念は存在しない。幻想郷は全てを受け入れる。そして変質し続けるの。だからそれを調律する者が必要になる。調停する博麗の巫女とは別に、私は調律を続けなければならない。だからそう、私にはもうひとつ身体が要るのです。大結界と同化するこの身体とは別にもうひとつ、幻想郷の調律を行うための身体が。

 メリーベル。愛しい愛しい我が同位体(アイソトープ)。どうか私を殺して、結界に落とし込んで頂戴。そしてあなたは、新しい私になるのよ。

 不安かしら? 心配は要らないわ。私は今までも、こうやって命を繋いできたんですもの。無限の平行世界のどこかに、私の同位体(アイソトープ)は常に存在している。世界と世界の境界を越えて、私は幾多の少女たちと入れ替わりながら生きてきた。八雲紫とは少女という概念そのもの。子供でも大人でもない。娘でも母でもない。天真爛漫にして傲慢不遜、世界の極点となって全てを振り回すのが少女というものよ。あなたがそうであるように、私もそうだった。少女が少女である限り、世界を壊すのも、世界を造るのも、世界を破るのも自由自在なの。ならば極点移動(ポールシフト)なんて、おゆはんのメニューを替えるより容易いことよ。

 だから、ね。心配することは何もない。私は私の身体を捧げる。あなたはあなたの身体を捧げる。あなたには幻想郷(わたし)の中で八雲紫(わたし)となってほしい。そうすれば、私とあなたの全ての望みが叶う。何もかも上手くいくのよ。
 そう、何もかもが……。




「 ―― 上手くいって、堪まるか!!」





 伸ばす。
 深くまで。
 手を伸ばす。
 届くと信じて。
 ただただ一心に。

 闇の中へと、闇の中へと、闇の中へと、闇の中へと。

 闇の中へと延ばし続けた手が、ようやくメリーベルの手を掴んだ。落下しながら上昇していくような狂った感覚。あの世界の隙間へと飛び込んでから、どれだけ経ったのかすら定かではないけれど。
 ともかく私は彼女を捕まえた。真っ白で、どこか闇の中へと溶け消えてしまいそうな彼女を。

「聞こえてんのよ、紫! あんた、メリーベルに何を吹き込んでくれてんのよ!」
「まぁ怖い。そんなに怒鳴らないの」

 私の手にぶら下がるメリーベルが、ぐるんとこちらを見上げた。その双瞳は引き込まれそうな金色の闇だった。ぞっとする。既に紫はメリーベルの中にいる!

「出てきなさい、退治してやるから」
「それは素敵な申し出だけど、あいにくとそういう訳にも参りませんの」

 大妖怪の声はするけれど、メリーベルの唇は動いていない。まだ完全に乗っ取られたという訳ではなさそうだ。今ならまだ間に合う。メリーベルを、救える。
 だけど、どうやって? 妖怪退治の経験は何度もあるけれど、憑き物を落としたことはない。幸か不幸か、そういった面倒な事案に立ち会うことは一度もなかったのだ。そのうえ、メリーベルに憑依しているのは八雲紫という大妖怪だ。そんじょそこらの低級な霊とは訳が違う。そんなものを、一体どうやって祓えばいい?

 手を掴んだまま、一瞬だけ逡巡した。

 刹那、落ちていく先にそれは現れた。光が瞬いたと思ったら、それはぐんぐん近づいてくる。ただの光点ではなかった。黄金の渦が、ものすごい速度で回転しているのだった。
 そしてその渦から、数え切れないほどの光の槍がこちらに向けて射出される。

 メリーベルの、いや紫の眦がにぃと歪んだ。ばちりと衝撃が走り、掴んだ手が解かれる。籠手からほんの僅かに、霊力弾を撃ち出されたのだ。メリーベルの身体は急速に落下し、そして黄金の渦は反対にこちらへ急接近してくる。
 そのまま、渦をなす9つの腕の全てが、彼女の身体を包んだ。

「……ッ!?」

 桜色の花火が闇を照らし出す。一瞬で巫女へと覚醒し、陰陽玉を引き出した私は、その2人と対峙する。

 そこにいたのは、メリーベルと同じ色の髪を人形のように切り揃えた、幼い少女だった。年の頃は5つか6つといったところだろうか。表情のない顔は、私でもメリーベルでもない虚空の誰かを見ているようだった。一糸纏わぬままの彫像のような身体には、身体の何倍も巨大な、荘厳な金色の尾が、9本。それらがのたうつ様は、まるで九頭の龍のようにも思われた。

 闇の中、静寂が保たれたのはほんの少しの間だけだった。紫の一瞥に、幼女は頷きもせずに応える。9本の尾がその先をすべて私へと向け、再び黄金の矢を放ち始めた。掠りでもしたらどうなるか、考えたくもない妖力。突然の乱入者のせいで、私は回避に専念せざるを得なくなる。

「宇佐見桜子、博麗の巫女よ。あなたを助けてあげたのは、あなたを巫女と定義したのは私だっていうのに。あなたはその私に楯突くというの?」
「五月蝿い! あのとき私を空に放り出したのもあんたでしょうが!」
「そういえばそうだったかもしれませんわ。まぁ、何がどちらだとしても、あなたへの仕置きは変わらないのだけど」

 ばら撒いた花弁の全てを、紫へ向け矢のごとく撃ち出す。けれど、ひとつたりとも届くことはなかった。仕置き、だって? 紫は今そう言った?

「幻想京計画は間も無く完遂する。私は私の望むものを全て手に入れ、博麗大結界は完成する。そうなればもう私は、幻想の消え失せた帝都などに用は無いのです。つまりは、幻想京の巫女も、もはや御役御免。護るべき都市は無く、倒すべき妖怪も無いのだから、当然のことよね?」
「勝手なことばっかり、ごちゃごちゃと喧しいのよ!」

 つまりは、何もかもがこいつの掌の上だったというわけだ。私に選択の余地はなく、私には道化の自覚すらなかった。幻想郷とやらの構築に必要な要素を揃えるためだけの手駒。私の役目は、ただのそれだけだ。
 いや、ただの手駒ならばまだ良い。私はまだましな方だ。けど、メリーベルは ―― 。

「さっさとメリーベルを返しなさい!」

 黄金の槍が右腕を掠める。肉が抉られ、骨が削れる運命を幻視する。痛みが頭へ伝わる寸前で、私の肩から先は千々に千切(ちぎ)れ、輝く無数の花弁となった。それら全てを紫へと向かわせるも、余裕に満ちたその瞳はいささかも揺るがない。

 私が道化なら、メリーベルは生贄だ。結界の中の世界を束ねるための人身御供だ。彼女は殺される。八雲紫に、幻想郷に、この世界に殺される。そんな巫山戯た話があって堪まるか。
 嘲りに満ちた紫の双つの瞳が、しかし一瞬、何故だかふっと緩んだ。

「随分と拘るのね。そんなにこの娘のことが大事なのかしら」
「私は東京を護る。幻想京を護る。人間を護る。メリーベルだって、その内のひとりよ」

 ずっと口を噤んだまま立ち尽くしていたメリーベルの口許が、ぴくりと動いたような気がした。
 僅かに生まれた隙、もうそこしか勝機はないと思った。戻ってきた花弁たちが私の右腕を再構成する。その右手に陰陽玉を引き寄せ、紫をぶちのめすことだけを考えて霊力を籠める。そして可能な限りの最高速で、桜色に染まった陰陽玉を撃ち出した。
 即座に、幼い九尾の使い魔が反応する。迫る陰陽玉を認識するや否や、すぐさま雷槍でもって迎撃した。陰陽玉は膨大な妖力に灼き尽くされて砕け散る。
 だが、もちろんそれで終わらせるつもりは毛頭ない。勝機はまだ消え失せてはいない。あれも私の一部なのだから、私と同じ事が可能なはずだ。根拠も経験もないけれど、確信があった。
 砕けたはずの陰陽玉は、桜色に輝く無数の花弁へと姿を変えていた。そして即座に寄り集まって再び陰陽玉へと戻る。速度を全く殺すことなく防御を潜り抜け、討滅すべき魔物へと迫る。

 使い魔は躊躇うことなく、紫の盾にならんとした。だが紫はそれを引き止める。そして自らの腕で、真正面から陰陽玉を掴み取った。

「ぐ……」

 八雲紫が苦悶の声を漏らすのを、私は初めて聞いた。陰陽玉は、妖怪の退滅に特化した霊力に満ち溢れている。さしもの大妖怪と言えども、素手で捌き切るのは難しいだろう。
 ひとまず、1手目は上手く通った。だが安堵にはまだ早い。紫がメリーベルの身体から出て行かざるを得ない状況まで追い詰める必要がある。追撃の2手目と、止(とど)めの3手目が必要だ。
 黄金の槍の嵐はいつしか止んでいた。あの幼い使い魔はきょとんとしたまま、まだ何が起こったのかを理解していないか、あるいは主人の指示を待っている。

 今のうちに、あれをやるしかない。ちくしょう。

 2秒と少し。紫が陰陽玉を受け流すために要した時間だ。そしてそれは、私が彼女の懐の中へと飛び込むのには充分な時間だった。視線が交錯する。黄金の闇と桜色の光が、一瞬だけ激しい火花を散らす。底の知れない深い深い闇。恐怖に蝕まれるも、躊躇っている暇は無かった。闇へ向けて手を伸ばす。その向こうにあるものを掴み取るために。
 私は紫の両目を掌で覆い隠した。隙間の妖怪は、まだメリーベルの瞳しか奪えていない。何をどうやったのかは知らないが、紫はここに取り憑いているのだ。ならば、ここを叩く!

「くたばりなさい!」

 極限まで練り上げた霊力を光に変えて、メリーベルの瞳へと流し込む。陽光が夜闇を追い払うように、聖なる退魔の光で紫を祓うのだ。はたしてどれほど有効であるのか、メリーベル自身にどんな影響があるのか。後先なんて分からないけれど、もうこれしか思い付かなかった。
 びくん、びくんと、メリーベルの身体は何度かのた打った。苦しんでいるのは紫か、それともメリーベルか。たっぷり20秒を数えてから手を離すと、はたして金色の闇は霧消しかけていた。焦点の定まらない瞳には、茫と桜色の光が灯っている。2手目もどうやら成功したようだ。紫の憑依は剥がれかけている。後はメリーベル自身を、意識の奥底から引きずり上げればいい。

「メリーベル、聞こえる? いつまでも寝てる場合じゃないのよ!」

 呼び掛けに応える様子はなかった。まずい。あまり悠長にはしていられない。すぐ傍には紫の指令を待つ使い魔が佇んだままなのだ。金色の闇も靄(もや)となって辺りを薄く漂いながら、まだまだ消滅する気配は無い。おそらくは再憑依の機会を窺っているのだろう。メリーベルが彼女自身の意志で紫を拒絶しなければ、元の木阿弥となってしまう。

「 ―― だぁーもう!!」

 霊力が足りないのだ。だから彼女は動けない。尽きた霊力を私が彼女へ補充する方法。それは……。

―― 霊力の受け渡しはマウス・トゥ・マウスが一番手っ取り早いの。常識よ。

 目を閉じて、その顔を見ないようにする。大丈夫、意識しすぎちゃ駄目。人助けなのだから。
 メリーベルの両の肩を掴む。意外と細い身体に少しぎょっとする。強くぶつけると痛いから、そう思ってそうっと唇を近付けるけれど、なかなかそこに触れない。おかしい、そんなに遠くじゃなかったはず。そう思って瞼を薄く開いた瞬間に、私は柔らかい何かを啄んだ。目の前には淡い桜色の光。睫毛と睫毛が交差しているのがはっきりと見えて、何故だかそこに視線が釘付けとなってしまって、目を瞑れなくなってしまった。
 高いところから低いところへ水が流れていく様に、唇と唇の間に霊力の流れがあった。質量はないけれど、何かが吸い込まれていく感覚を確かに感じる。彼女は僅かに身じろぎした。両の籠手に、青白い霊力光が微かに灯っていた。

「 ―― メリーベル」

 名前を呼ぶ。菫色の瞳の、その焦点が定まる。覗き込んだ私の顔を、メリーベルははっきりと見ていた。彼女の唇はぱくぱくと動くけれど、そこから言葉がなかなか出てこないらしい。けれど、その温もりは確かに感じた。生きている人間の温度が戻ってきていた。メリーベルが息を吸って吐くその度に、青ざめていた頬に赤みが指す。
 安堵で胸がいっぱいになる。奪われていたものを取り返したのだ。その実感がゆっくりと広がって、私の顔は自然と笑顔を形作った。こんな気持ちは初めてかもしれない。私は何か大きなものを、とても大切なものを護ることができた。腕の中の重みは、さっきまで唇に触れていたあの感触は、その証明だ。
 そして八雲紫に一矢を報いたという事実が、確かな喜びをもたらしていた。これまでさんざん好き放題にさせてやったのだから、これくらいの反撃は覚悟してもらわないといけない。私もメリーベルも、物言わぬ傀儡じゃない。人間を侮った妖怪には、痛い目を見せてやらなくては。

 メリーベルの肩に添えていた手に、彼女の手が重なった。霊力光がだんだんとその明るさを増す。分け与えた私の霊力が、彼女の中で循環増幅していく。もう大丈夫、金色の退魔術師は完全に自分を取り戻している。

「良かっ……」

 不意に、私の身体は強く後ろへ引っ張られた。小さな腕が首に巻き付いたかと思うと、そのまま私の身体は背中から引き倒されていた。仰向けにされた私に、九尾の幼い使い魔が馬乗りになった。大きく光る瞳が見える。金色の闇が、私を嘲笑う。しまった。どうして。忘れていた。何のために。
 そして使い魔が、私の喉笛へと喰らいついた。ぷつぷつ、と皮が切り裂かれる音。鋭い獣の牙が、何の抵抗も受けずに私の首へと食い込む。恐慌に陥る間も与えられないまま、やがて九尾が大きく頭(かぶり)を振った。その顎に銜(くわ)えられていたのは血肉ではない。むしろ、それよりも大事な ―― 。

「博麗の巫女の証、返上していただきますわ」

 使い魔の中から、八雲紫は粛々と宣言した。そのまま使い魔は、闇の中へと消えていく。私はそれを呆然と見送ることしかできなかった。喉に手を当てる。傷跡なんて何処にもない。
 身を起こしたメリーベルが駆け寄って、何かを言った。何を言ったのかは分からなかった。全ての音は耳を頭を脳を素通りしていった。掌を見つめる。いくら念じてみても、そこには何も生まれなかった。輝く桜色の花弁も、力強い陰陽玉も、何ひとつ。博麗の巫女装束も消え失せて、そこにいるのは何の変哲もない女学生だった。

 私はもう、博麗の巫女じゃなくなったのだ。




 
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