真っ赤な朝焼けが、東京に長い雨を連れてきた。足早に冬へ向かおうとする季節をほんの少しだけ躊躇わせる、暖かで寂しい雨だ。大通りには無数の傘が溢れていた。人々は蛇の目や蝙蝠へと姿を変え、異形の身体のまま二足歩行を続けている。
私もその一員となって、今日も今日とて恩賜上野動物園にやってきていた。とはいえ、今日は私ひとりだ。星さんと那津は何やら用があるとかで別行動である。もっとも私が気になっているのは、もはや九尾の狐よりもメリーベルの行方なので、都合が良いと言えないこともない。
差した和傘の四方から雨水が滴っている。水の帳が私を世界から隔てるような、そんな感覚。
「……うん?」
入場しようと正門の列までやってきて、何やら物々しい雰囲気に気付く。黒い制服をきっちり着込んだ警官が2人、動物園の職員らしきひとと自転車の側で話し込んでいる。何か事件でも起こったのだろうか。
やがて待機の列を通って、噂が漣のごとく私の下まで伝播してきた。
―― 九尾の狐が消えたんだってよ。
―― 本当に? そりゃまたどうして。
―― よく分からないけど、それで警察が来てるんでしょ。
―― ちぇっ、せっかく雨の中来たってのに。
―― まぁ、本物の九尾の狐なら、そりゃ動物園なんかからは出ていくよな。
私は目を丸くした。九尾の狐が、消えた?
噂を受けて、九尾の狐だけが目当てだったのだろう客が、ちらほらと列を抜け始める。おかげで思ったよりもずっと早く入場できたが、先程の噂が真実だとすれば、事態はさらにややこしいことになる。袴の裾が濡れるのも厭わず、私はキツネの群れが展示されている檻へと走った。
昨日とは打って変わって、そこに見物人はいなかった。警察が規制線を引いており、そもそも檻に近づけないのだ。『キツネ舎の展示は中止いたします』との急造の看板も立てられている。何か事件が起こったことは明白だった。
駄目で元々、とその辺りの警官に話しかけてみたものの、けんもほろろに追い返される。心の中だけでべぇと舌を出しながら、さてどこから潜り込んでやろうかと考える。巫女は妖怪騒ぎの調停者なのだからそれくらいの権限は持っていて然るべきだろう。そう意気込んではみたものの、包囲線は存外に固く、蟻の子1匹通れそうになかった。おまけに私を見咎めた警官に怒鳴られる始末だ。今度は心の中だけでなく、実際にしっかりと舌を突き出してやった。すると肩を怒らせて警棒を持ち出してきたので、私は一目散に退却した。おぉ怖い。小娘ひとりにそんな真剣にならなくても。
それにしてもどうしたものか。九尾の狐とメリーベルを結び付ける証拠は何もないけれど、私の勘が猛烈に主張している。この事件にも、きっと彼女が一枚噛んでいる。これで捜す対象が2つに増えてしまった。やはり一度戻って那津に助力を乞うべきだろうか。
近付けない悔しさに、もう一度キツネ舎を振り返る。あそこにはもしかしたら、何かメリーベルがそこにいたという証拠が残っているかもしれないのに。いっそのこと、巫女として空から入ってやろうか。空中は警察も管轄外のはずだし。
そう息巻いていたときだった。私が『それ』の存在に気が付いたのは。『それ』はまるで誰かが線を引いたように、そこに描かれていた。地面にとか壁にとかではない。空間自体に固定されている。距離感が掴みづらくて、私の目の前に浮かんでいるようにも見えるけれど、あれは恐らくキツネ舎の周囲に、長さ数メートル程の緩やかな曲線として存在しているのだ。
「……?」
錯覚かと思い目を凝らすも、『それ』が消えることはなかった。しかし警官や飼育員には見えていないようで、それどころか『それ』と彼らは全く干渉することなくすり抜けてしまう。陽炎だろうか? この秋雨の中で?
だったらまだ新手の妖怪と考えた方が辻褄は合う。だが『それ』からは、いかなる気配も感じられなかった。妖気どころか、普通の人間が持つ気配ほどのものすら持っていない。そのおかげで、視界から外すとすぐに『それ』の存在記憶が曖昧になってしまう。見つめ続けていなければ見失ってしまいそうなほどの希薄な曲線。
一体、あれは何なのだろう。真剣に首を捻る私の思考を、呑気な声が打ち砕いた。
「 ―― おーい、宇佐見さぁーん!」
昨日聞いたばかりの声だ。私は困惑と共に声の主を振り返る。
「お、岡崎、さん? どうしてここに」
「そりゃあハーンさんを捜すために決まってるじゃないですか。僕の勘が猛烈に主張しているんです。ハーンさんはここに来ていたってね。他に有力な手掛かりもないですし」
にぱっと笑う彼に私は勝手に衝撃を受けた。私の勘がこの人と同じレベルだったとは。
「それにしても、何やら様子がおかしいですが……」
「泥棒が入ったみたいですよ。九尾の狐がいなくなったとか」
「成程、それで近付けないのですか。では僕が掛け合ってみましょう」
「ほ、本当ですか?」
流石、ヘンタイとは言え腐っても帝国陸軍である。警官へと向かうその背中が、初めて大きく頼もしく見えた。岡崎上等兵は警官と暫し掛け合った後、やっぱり満面の笑みで戻ってきた。
「すみません、駄目でした。どうも管轄外みたいで、部外者は出て行けって」
「つ、使えない……」
期待させるだけ期待させておいてあんまりな結果である。思いっきり睨み付けてやるも、彼の笑顔にはいささかの破綻も無い。
「でも、やっぱりキツネは関係ないんじゃないかなぁ。たまたまそこでハーンさんを見かけたってだけで」
「でも、九尾の狐ですよ?」
「尻尾が9本あるというだけの、ただのキツネですからねぇ」
「それはそうですけど……」
確かに、九尾の狐というのは何百年も生きた妖怪狐が変じるものであるが、昨日見た狐はまだ小さく幼かった。他の狐から苛められてもされるがままになっていたし、強大な妖怪とはとても思えない。異常な個体ではあるが、妖怪ではないということか。盗み出したのも単に珍しい狐だからというだけで、メリーベルは無関係と考えることもできる。
けれどあの狐は一瞬だけ、確かに妖気をその身に纏っていたのだ。それは私も、星さんも那津も確認したことだ。あれは一体、どういうことなんだろう。
「兎にも角にも、ハーンさんがここにいたという痕跡を捜しましょう。規制線の中へ入れれば一番良いんですが、あぁまで固められちゃあ……え?」
私の背後にあるキツネ舎へと視線を移した岡崎上等兵が、目を見開いたまま固まる。ざわ、と辺りの警官たちがどよめいた。振り返った私は、すぐにその原因を知る。
キツネ舎の前に、金色の退魔術師が“半分だけ”浮いていた。半分だけ、というのは比喩でも何でもない。文字通り、メリーベル・ハーンの腰から上だけがそこに在った。脚はなく、彼女の腰の直下から檻の根本と雨粒がはっきりと見えている。幽鬼のごとき青白い無表情は、他ならぬ私をじとりと睨み付ける。
その唇の両端だけが、真上へと釣り上げられた。あれは、まさか、笑っているのか。
「ひ……」
悲鳴を上げかけて、そこで気が付く。あの曲線だ。メリーベルはあの曲線を、まるでカーテンを捲るようにして切り開き、そこから身を出しているのだ。
理解の及ばない怪奇を目の当たりにして、規制線の中の人々はすっかり浮き足立っていた。警棒を構えた警官は、しかしそれ以上近寄ることもできずにおろおろするばかりである。気の弱そうな飼育員に至っては、腰を抜かしてその場にへたり込んでしまっている。
「ゆ……幽霊だぁぁぁぁっ! なんまんだぶ、なんまんだぶ。ハーンさんどうか、どうか成仏してください」
そしてもっと酷いやつがここにいた。岡崎上等兵は雨にも負けずその場に平れ伏し、五体投地でメリーベルを拝み震え上がっていた。
それを尻目に、私は傘を捨てて駆け出す。あれは幻影ではない。彼女はあそこに確かにいる。ならば今、この手で捕まえてやる!
雨粒が全身を打つ感覚がやけに鋭く感じられる。規制線を飛び越えても、私を咎める者は誰もいなかった。こちらを見据えるメリーベルの瞳を正面から見返す。視線の奥に、何かがいることに気付く。まるで誰かが、彼女の皮を被っているような。露骨に怪しい予感がする。でも、知ったことか。
背後で誰かが私を呼び止めたような気がした。振り返ろうか、と一瞬考える。メリーベルがこちらへ手を伸ばした。あれは呼んでいるんだ、私を。炎に惹き付けられる羽虫の像が頭の中に浮かんで、だけどそのときにはもう、私は彼女の手を掴んでいた。途端に乱暴な引力で引っ張られて、視界が暗転する。曲線の先の世界に引き摺り込まれていく。
少なくとも、そこに雨は降っていなかった。