昼食時に少し遅れた休憩処は、それでも半分以上の席が埋まっていた。なるだけ人の少ない場所を選んで、私たち4人は席を取った。
たこ焼きにホットドッグ、ラムネにアイスクリーム。辺りには様々な売店があって目移りしてしまう。片っ端から買いこみそうになるのをぐっと我慢し、何とかが自分の食べたいものだけを厳選した。戦利品を抱えて席に戻ってきたところ、岡崎上等兵の手には無料のお冷やしかなかった。
「あれ、何も食べないんですか?」
「私は特に空腹というわけでは ―― 」
そう言った瞬間に、彼のお腹は盛大にぐぅぅと鳴った。主の嘘偽りに対する抗議だろうか。
「 ―― 空腹というわけではありませんので」
「いや誤魔化せてませんから、全然」
「……実は東京中を探し回ったせいで、もう財布がすっからかんでして。お恥ずかしい」
しょげ返る彼の姿は、迷子の仔犬のように情けなかった。垂れ下がった耳まで目に見えるようだ。それでいいのだろうか、軍人として。警戒していた自分が馬鹿らしくなるが、いや待てこれも作戦のうちかもしれないと考え直し、気を引き締める。
けれどその姿が余りにも同情を誘うので、つい耐え切れずに私はたこ焼きを差し出してしまった。
「あの、良かったら、これ食べます?」
「えっ! いいのですか!」
顔を伏せていた仔犬が一転、その表情が満開に咲いた。年上だろうと辛うじて判断できた初対面の落ち着きぶりが、もはや完全に消え失せている。何だか弟の面倒を見ている姉みたいな気分になってきた。
「いやぁかたじけない! あなたは女神のようなお方だ! ……あふっ、あふぁふぁふぁ」
満面の笑顔で熱々のたこ焼きを丸ごと頬張った岡崎上等兵は、その熱に口内を灼き尽くされて悶絶した。その手がお冷やへと伸び、しかし逡巡している。成程、熱を冷ましたいが、水を口にしてしまえばソースの味が馬鹿になる。しかし熱くて堪らない、という訳か。
演技だとしても余りに可笑しくて、私はついつい噴き出してしまった。
「な、何が面白いんですか」
「何がって……あはははは」
涙目で彼はこちらを見る。今の自分が滑稽そのものであるという自覚は全く無いらしい。それがまた面白くって、私は笑いの底なし沼へと引き摺り込まれていく。
「おや、賑やかですね」
星さんと那津が買い物を終えて戻ってきた。星さんは両の腕に食べ物を山と抱えていて、今日も変わらない健啖ぶりを見せてくれる。対する那津は、片掌に乗りそうな菓子らしき袋ひとつしか持っていない。そんなもの売ってたっけか、とその袋をよく見ると。
「ちょっと、それ鳩の餌……」
「私の胃袋は小さいからね。これだけあれば十分さ」
「いやそう言う問題じゃなくて」
「成程、お金がないのですか。では私の今川焼きもひとつ差し上げましょう」
「わ、ありがとうございます。いよっ二枚目!」
「……私は女です」
「ふむ、悪くない。近頃の鳩は良いものを食べてるんだな」
それからしばらく、食事に要した13分9秒間は会話が中断する。星さんが山を崩しきったのと、那津が鳩の餌の最後の1粒を口に放り込むのがほとんど同時だった。
岡崎上等兵が、待ちきれなかったとばかりに口を開く。
「それで、ハーンさんの行方なんですけども」
「うーん、そう言われてもねぇ。私たちだって、あの娘を見たってのは偶然だし」
「やはりここに来ていたのですね! でも何が目的だったんでしょう」
「目的は九尾の狐でしょうねぇ。もしも本当にいたのなら、やはり妖怪の噂を聞きつけてのはずです」
「……え、九尾の狐?」
彼が首を捻る様子に、私たちは掛ける言葉を失った。あれだけ騒ぎになっていた現場にいながら、その存在に全く気が付いていなかったらしい。
「狐の展示檻に九尾の狐がいるって、もう物凄い騒ぎよ。見たでしょう、あの人集り。もっとも狐の方は本当にいた訳だけど」
「へぇー。きっと突然変異ですね。最新の学説によれば、生き物の設計図である遺伝子に異常があると、そういうおかしな個体が生まれるんだとか。蛇の首が二股になったり、猫に羽が生えたりするそうですよ」
「……妖獣も科学で解明されてしまう時代か。世知辛いね」
那津の顔には諦観が浮かんでいる。彼女もまた妖獣なんだし、思う所はあるのだろう。
「でも、ハーンさんにしては妙ですね。あの方なら妖怪と見たらすぐ退治しそうなものですけど」
「その点は私たちも意見が一致しています。まぁそこまで見境のない方だとは思いませんが。現に私たちにも、常につっかかってきていた訳ではなかったですし」
「えっ」
再び岡崎上等兵が首を捻る。そしてまじまじと星さんを、次いで那津を見て、最後に私を見た。
「あなた、妖怪だったんですか?」
「いやいやいや、私は違うわよ! え、何で私を見て言うの。結構見て分かりそうなものじゃない? 星さんとかがっつり寅柄してるし、那津なんて耳生えてるのよ?」
「はぁ、いやてっきりそういう流行りなのかと。近頃のハイカラな文化にはどうも疎いもので」
「……ハイカラかなぁ、これ」
スリーピースの星さんはともかく、那津は普通に小紋を着ているんだし。
「しかし、僕は特殊異変隊でのハーンさんしか知らないので、ちょっと意外だなぁ」
笑って誤魔化しながら彼は頭を掻いた。今自分が所属をぽろっと漏らしたことにも気付いていない様子である。どこまでも鈍い男だった。空気を弛(ゆる)ませることにかけては天賦の才を持っている。ある意味で貴重な存在だが、しかし仮にも軍人がそれでいいのか。
「とにかく、あなた方はハーンさんを見かけたという訳ですね」
「『あなた方』と言うか、桜子だけが見たんだけどね」
「彼女は、どんな様子でしたか?」
「うーん……。心ここに在らずと言うか、魂が抜けたみたいな感じだったわ」
今でも目に焼き付いている。元から白い顔色が、紙よりもさらに真っ白だった。幽霊のような、とも言えるかもしれない。
芳しくない報告だったのだろう。岡崎上等兵は目を伏せた。
「 ―― ハーンさんは、あの向日葵の騒動以来、戻ってきていないんです」
「戻ってきて、ない?」
「騒動の元凶へと、単身で乗り込んでいったことは分かっています。ハーンさんと妖怪が戦闘している場面も確認されています。ですがそこで消息は途絶え、巨大向日葵の倒壊とともに、彼女は行方不明となりました。何の手掛かりも見つかっていません。上層部は外交官を通じて彼女の本国へも照会をかけているようですが、帰国もしていないとなれば……」
「そんな……」
唇を噛みしめる。陽動のために幽香さんをけしかけたのには、私にも責任の一端がある。彼女は幽香さんによって打ち倒され、そして ―― 。
「このままハーンさんが帰らなければ、彼女は詳細不明の殉職者として扱われるでしょう。ですがそんな結末は、誰も望んでいません。彼女は我々の仲間だった。どんな形であれ、見つけ出さなければ」
彼の瞳には強い光が宿っていた。必ず探し出すという、意志の光が。
星さんは彼の話を真剣に聞いていたが、やがてひとつ頷くと、傍らの小さな相棒を見た。
「那津、お願いできますか?」
「やれやれ、そう言うと思ったよ」
嘆息しながら、那津は懐から得物を取り出す。帝都東京の地図と、青い宝石のペンダント。失せ物捜しを得意とする彼女の武器だ。
「言っておくが、あまり期待しないでくれたまえよ。今この場には、彼女の持ち物とか、痕跡を辿れる手掛かりが何もないんだ。これでは私のダウジングも精度は上がらない。気は乗らないが、御主人様の言うことだし。それに奴も知らない顔ではないから、このまま行方知れずでは夢見が悪くなりそうだし」
「お、恩に着ます!」
岡崎上等兵は那津の能力を知っている訳ではないだろうが、協力の意志は理解したようだ。地図とペンデュラムを、まるで救世主のごとく見つめている。
青い宝石が、妖力の高揚に従って輝きだし、震え始める ―― 。
◆ ◇ ◆
夜になり、檻の中の狐達が暖かい塒へと戻っていっても、彼女は石床の上に蹲(うずくま)ったままだった。吹き抜ける風は石床を冷やし、そして石床は彼女の小さな身体からどんどん熱を奪っていく。ふさふさの尻尾を腹の下に抱え込んで何とか寒さを凌ごうとするも、それもすぐに冷え切って用を成さなくなる。仕方がないので次々と尻尾を入れ替えながら彼女は暖を取った。何せ彼女には尻尾が9本もあるのだ。抱き抱えるものはいくらでもあった。
彼女にとっては、生まれて初めての冬が訪れようとしていた。もちろん彼女はそれを知らない。彼女に冬を教える者など、誰もいなかったのだから。これからどんどん寒くなっていくことも、降り積もる雪の冷たさも、手足が凍りかけたときの痛みだって、彼女は知らないのだ。
どうして自分には尻尾が9本もあるのだろう。九尾の狐は、1日に1度はそのことを考えた。
この姿のせいで、彼女を産んだ母は気味悪がって、乳を与えることを早々に放棄した。群れの頭目は彼女に牙を剥き、仲間たちもそれに倣って彼女を苛めた。この狭い檻の中で、彼女は独りきりになった。ここに居場所なんて無いのに、ここから出て行くことができない。その矛盾を受け止めるには、彼女は少し幼過ぎた。
だからどうしようもなくなって、彼女はいつも檻の隅っこで縮こまっているのだった。このままでは凍え死んでしまうだろうことも、冬を知らぬ彼女には理解できていない。
閉園時間をとうに過ぎた動物園は、不気味な暗闇に支配されていた。満月の笑い声が彼女にははっきりと聞こえている。耳障りな声に鋭敏な耳を絶え間なく突き刺され続け、辟易した彼女はさらに固く身を丸めた。月が笑うのは九尾の狐にとっては当たり前のことだった。満ちて円へと近づくほどに、月は高らかに笑う。だから彼女は満月の夜が大嫌いだった。満月の光は夜の闇をいっそう暗く照らし出し、紫色に染まる世界が九尾の狐の心を騒つかせて止まない。
月の哄笑を、ざり、という音が踏みにじった。九尾の狐は耳を、次いで顔をそちらへ向ける。
檻の向こうに人影があった。暗く燃え上がる夜を背景に、その影は漆黒に染め抜かれていて、子細を窺い知ることはできない。誰だろう、と彼女は不思議に思う。こんな時間に客がいるはずもないし、飼育員にしろ警備員にしろ、灯りも持たずに来るわけがない。
人影は九尾の狐を凝視していた。そうに違いないと確信できた。顔も視線も分からないけれど、それは確かにこちらを見ている。身体の上を何かが這うような薄気味の悪い感覚。それに言い様もない恐怖を覚えて、彼女は再び顔を伏せた。見ているからそれはそこにいるのだ、視界に入れなければ消え失せるはずだ。根拠など無い、呪(まじな)いのようなやり方で、彼女は平穏を願った。
夜が明けて、母が自分に微笑みかけた。そんな夢を見た。ほんの一瞬、僅かな微睡みの間に。
身体を昏く灼く熱に、仔狐は飛び起きる。何が起きたのか分からず混乱した頭が、その光景を捉えてさらなる狂乱へと陥る。檻も動物園も夜空も、紫色に煌々と燃え上がっていた。全ては静かな炎に包まれ、短い舌を上へちろちろと伸ばしていた。満月はもはや空に浮かぶ篝火である。炎をそこかしこに振り撒きながら、その勢いを弱めるどころかますます激しく、夜を昏く炎上させているのだった。
そして、それはすぐそばにいた。漆黒の人影はいつの間にか檻の中に立っていた。まるで最初からそこにいたように、当たり前のようにそこにいた。仔狐は震え上がる。今すぐここから逃げ出したい。逃げ出したいのに、身体がすっかり硬直してしまっていた。鼻先から九本の尻尾まで、剥製のように彼女は固まってしまった。
それは腕を伸ばし、彼女へと触れようとした。仔狐の心はそれを全力で拒否したが、抗う術などあるはずもない。死ぬんだ。彼女はそう確信した。目の前に立っているのは、どうしようもない程に圧倒的な最期そのものなのだ。未知への恐怖で、彼女は恐慌に陥っていた。
指先が、仔狐の湿った鼻先を撫でる。そしてその手は頭頂へと伝い、そのままくるりと下へと回り込んで顎を擽る。心地よく暖かい掌の感触に、凍り付いた心が瞬く間に溶けていく。
「 ―― いい子ね」
柔らかい声に、九尾の狐は目を細めた。魔法にかけられたように、彼女の恐怖と警戒はいつしか取り払われていた。その人影に抱き上げられても、彼女は一切の抵抗をしなかった。それどころか、二本の腕の中で彼女は再び微睡み始めた。
「私と一緒に行きましょう。あなたのいるべき場所まで」
眠りの底へ落ちる間際、仔狐が最後に見たものは、自分の身体と同じ金色に輝く髪の ―― 。
天ブ→天賦(てんぷ)
でしょうかね?