寅丸星という妖獣は、正義のひとである。
というのも、彼女は正義という言葉をよく使うのだった。それが星さんの戦う理由であり、白蓮寺を護り続ける意味だと言う。確かに、妖怪退治を続ける星さんは、弱きを助け強きを挫く、正義の味方のようなものだ。そう思ったことをそのまま口に出すと、彼女は苦笑した。そこまで立派なものでもありませんよ、と星さんは言うのだ。
「私は私の正義のためだけに戦うのです。決して誰かの正義を味方するわけではない」
いつだったかの彼女のその言葉を、私はなかなか理解できなかった。正義のために戦うことと、正義の味方をすること。この2つは何が違うというのだろう。
そもそも、正義とは一体何だろう。勧善懲悪物の主人公のように悪い奴を懲らしめることを指すのではないのだろうか。だって星さんのやっていることは正にそれだ。彼女は人間に仇なす妖怪たちを調伏しているのだから。それが正義の味方でなかったら何だと言うのか。
その疑問が、風見幽香による向日葵騒動のときに少し解けた。星さんはあのとき、ヘンタイの地下基地に収容されていた妖怪達を、一匹残らず解き放ったのだ。
彼女の目的は妖怪を根絶することではない。悪事を働く妖怪に説法を重ね、人間にあまり迷惑を掛けないように導く。人間と妖怪が隣で暮らせるように力を尽くしているのだ。妖怪は人間を襲うもので、人間は妖怪に立ち向かうものだけれど、それでも共存できるように。
それが彼女の正義だ。何に代えても貫きたい信念だ。
正義には善も悪もなかった。それは背骨のようなものである。何かを直立させるために必要な芯だ。それを正しいと信じることで、前進する力を持てる。
それを貫くためならば命すら懸けられるもの。それがそのひとにとっての正義だ。
星さんはそのためにずっと生きてきたし、那津だってそのためにずっと連れ添ってきたのだろう。それがどれほど大変なことだったのか、私には想像もできない。だって、千年間だ。ひと月とか1年間ではない。世紀が10も移り変わるほどの年月を、彼女たちはそれに捧げてきたのだ。他人には理解できないだろう。ある意味では狂っているのだろう。けれどそれでも、いや、それこそが正義なのだ。
私がそのことをもう少し早く理解できていれば、この物語の結末だって、少しは違っていたのかもしれない。
◆ ◇ ◆
肌を撫ぜる風が日増しに涼しくなり、空の雲はすっかり高くなった。都市も人間もすっかり秋の装いである。しかしその日は、夏が何か忘れ物でも取りに来たのか、東京の気温は上がり調子であった。お陰で私はすっかり外套を持て余し、汗に塗れることと相成った。
恩賜上野動物園は、休日であることも相まって、多くの人で賑わっている。その多くは良い身形の親子連れで、私のように女ひとりで歩いている者は希だ。ひとりで歩く女が珍しいのは、動物園じゃなくたって分かり切ったことだから別に良いのだが、問題はこうなったのが私のせいではないということである。私が園内案内図を確認している間に、星さんも那津も勝手にどこかへ行ってしまったのだ。
「まったくもう、行き先くらい言っていきなさいよ……」
年齢の割に落ち着きがないひとたちである。千年も生きてきたのだったら、もっとどっしりと構えていていただきたいものだ。
那津はすぐ見つかった。ちびっ子が群れを成していると思ったら、その真ん中で彼女は必死に頭上を庇っていた。
「だからこれは被り物じゃないって……こら触るな! 掴むんじゃない。取れない! 取れないから! 自前なんだよこれは。ほらあっちへ行け! しっしっ」
「……何やってんの?」
「さ、桜子! 助けてくれ、こいつら無遠慮に私の耳を……」
いつもの余裕綽々な態度はどこかへ吹き飛ばされて、彼女は必死だった。しかし追い払っても追い払っても、子供たちは追及の手を緩めはしない。最初は単純に、彼女の鼠耳を髪飾りか何かと勘違いしたのだろうが、那津が大げさに嫌がるものだから、すっかり面白がっているのだ。
埒が開かないので、助け船を出してやることにする。
「ほらほらみんな、そんなばっちぃ耳で遊ぶのは止めなさい。虫が付くわよ」
「ば、ばっちぃとは何だばっちぃとは! ちゃんと毎日洗っているんだぞ!」
那津は抗議したが、子供たちはえんがちょしながらも散っていったのだから、むしろ感謝してほしいものである。
「で、星さんはどこに?」
「知らないよ。すたすたと歩いていってしまうから、慌てて追っかけようとしたらこのザマだったんだ」
髪を手櫛で整える那津に園内案内図を手渡すと、彼女は懐から取り出した青い宝玉をその上に翳(かざ)した。程なくして、ペンデュラムはひとつの檻を指し示し、私たちは顔を見合わせて苦笑した。
「なるほど。確かに気になるだろうね、御主人様としては」
「目当ての場所の道すがらね。じゃあ行きましょ」
私たちは別に動物園へ遊びに来た訳ではない。久しぶりの妖怪調査案件であった。
そう、妖怪はこの動物園にいるのである。しかも堂々と、展示されている檻の中に。
久しぶり、と言ってもよくよく考えれば、向日葵が咲き乱れたあの一件から2週間程しか経っていない。だが一時期の目まぐるしさに比べれば、10日もの間何もないというのは異常だった。幽香さんが妖怪たちをどこかに連れ去ってしまって以来、東京にはもう彼らの影はほとんど見えないのだ。
「……平和よね」
「……そうだな」
それは喜ばしいことのはずなのに、那津の声は平坦だ。
東京は人間の街に戻ろうとしている。もはや妖怪の跋扈する魔都ではない。浮かれ騒いで迷惑を掛ける妖怪はいなくなったが、それは妖怪と人間が共存しているからではなく、妖怪がいなくなってしまったからだ。幽香さんや文の仕業なのだろうか。それとも、これが八雲紫の言っていた『幻想京計画』だというのだろうか。
いずれにしても、これは星さんや那津の望んでいた結末ではない。私の望んでいた結末でも、たぶん、ない。
程なくして星さんに追い付いた。遠くから見ても、虎柄の毘沙門天は目立っていた。残暑が懸命に抵抗している気温の中、三つ揃いの背広をびっちりと着込んだその姿は、見ているこっちが暑苦しくなる。
「星さーん」
呼び掛ける声も聞こえていないようで、檻の向こうの獣を彼女はじっと見つめていた。まるで言葉を使わずに会話をしているようだった。いや彼女のことだし、ひょっとしたら本当に会話しているのかもしれないが。
「星さんってば」
「おっと」
肩を叩いてようやく、星さんは没頭していた意識を引き上げてくれた。目を丸くしているところを見るに、私たちの接近にすら気付いていなかったようだ。
「勝手に行っちゃうんだもの。那津に探させちゃったわ」
「すみません。でも、どうしてもこの子に一目、会っておきたくて」
そう言って振り向いた先、檻のすぐ側で寝そべっていた巨大な獣が、のそりとその身体を持ち上げた。鋭い眼光が私を捉え、思わず背筋が粟立つ。私とその獣の距離は数メートル程あったが、その間に格子がなく、そしてそれが空腹だったなら、私は即座に喉笛を噛み千切られていただろう。
立ち上がったアムールトラは、幸いにして腹を減らしてはいなかったようで、私に一瞥をくれただけで背中を向け、のそのそと檻の奥へ歩いていってしまった。
「……寅が虎を見に来る必要なんて無くない?」
思わず零(こぼ)してしまった本音に、星さんは笑いながら頭を振って、脱いでいたシャッポを被り直す。
虎の住む森。案内図によれば、それがこの展示檻に付けられた名前だった。星さんはこれを見てここまで来たのだろう。しかしいくら寅の妖怪だからって、律儀に見に来なくたっていいんじゃないか。
檻の暗がりで、アムールトラは再び寝そべって、大欠伸をかましている。
「時間を取らせました。もう大丈夫です。目的地へ向かいましょう」
一方の星さんは何でもない風を装っていた。装っているのが私にも分かってしまった。いつもの笑顔が、どことなく寂しげだった。
歩き出した星さんを、私はしばし立ち止まったまま見送ってしまう。悪いことをしてしまったかのような決まりの悪さが、澱のように胸の底へ降り積もっていた。そんな私を見かねてか、那津が小さく息を吐いた。
「桜子、君も少しは御主人様の気持ちを汲み取ってあげてくれ」
「星さんの、気持ち……」
「あのひとはね、人々が『虎』という未知の獣へ抱いた、恐怖の概念から生まれた妖獣なんだ」
「え、そうなの?」
てっきり、虎が化けて妖怪になったのかと思っていた。
「日本に虎はいなかったから、人間たちは伝説ばかりが伝わってくる猛獣のことを恐れたのさ。だが現代になって、人間は日本にいなかった虎を自ら連れてくるまでになった。一般大衆の見せ物にするためだけにね」
那津が横目で見た先で、アムールトラは既に目を閉じて眠っている。
「そうなれば、もはや人間たちのあいだに、未知の獣への恐怖なんて存在しない。命を脅かす猛獣も、檻の中にいれば観賞の対象だ」
「つまり、星さんの力の根源が、消える?」
「……すぐにとは言わない。けれどいつかは、必ずそうなるだろう」
星さんの背中はどんどん小さくなっていく。それが私の不安をやたらと喚起した。東京にいた妖怪たちと同じように、彼女もまたどこかへと消えてしまうのだろうか。
科学世紀は猛烈な速度で進歩を遂げる。その歩みは止まることはなく、それどころかむしろ足を速めて進むのだろう。思い描いた夢は、科学が現実に変えてくれる。恐れていた怪異は、科学が正体を明かしてくれる。そうして発展していく人間の都市には、幻想も妖怪も居場所などない。
そう、幻想京とは、地球上で最後の妖怪都市だったのだ。隅々まで機構化された都市と言われる場所においては、もはや人間と幻想の共存などできないのだ。八雲紫は、結界の材料とやらを揃えるために、滅びる定めが決まっていた都市を無理矢理に構築したわけである。時空を遙か越えた夢の先、この明治の世においても考えすら及ばないような科学技術の粋は、幻想都市でなければ手に入れられなかったということだろう。
そのためにこの東京に、そしてこの私に白羽の矢が立った。撃ち抜かれた私は見事に踊らされ、八雲紫の意のままに働いた。その忠実っぷりは我ながら賛美したい。誇らしすぎて泣けてくる。
そして妖怪都市は、博麗の巫女はその役目を終えた。都市は人間のものへと戻った。
じゃあ、私は?
「 ―― 着いたぞ。ここだ」
那津の声に、いつの間にか伏せていた視線を上げる。星さんの背中がすぐ目の前にあった。何故立ち止まっているのかと思ったが、その理由はすぐに理解した。目当ての檻はもの凄い人集りで、にっちもさっちもどうにも進めないのだ。
「……何よこれ。まさかこの人混み、皆が皆してアレ目当てなわけ?」
「その様ですね。いやはや、まさかここまでとは」
「まぁ、気持ちは分かるさ。噂が本当なら、誰だって見たいと思うはずだからね」
那津は大仰に肩を竦める。しかしその鼠耳はそわそわと忙しなく動いていた。星さんも爪先立ちになって、人波の向こうを何とか見通そうとしている。永く生きてきたはずの彼女たちでさえ落ち着きを失うほどの妖怪。この先にいると噂されているのは、それくらい偉大な存在だった。
「私も御主人様も、まだお目に掛かったことがないんだ。九尾の狐なんてものには」