Coolier - 新生・東方創想話ジェネリック

ラテルナマギカ ~寅と鼠と桜の巫女~ 『念写少女のルナティック・ブルー #8』

2016/02/04 21:59:51
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 大きな音が突然鳴り響いて、はたては飛び上がった。何かがこの独房の扉に、物凄い勢いで衝突している。二度、三度と同じ音がして、はたては身を固くした。これがただのノックである訳がない。人間にこんな力があるはずがない。牛や馬が暴れているところをはたては何度か見たことがあるけれど、それだってこの堅牢な扉を歪ませるほどではないだろう。扉の向こうには、もっと強大な何者かがいる。

『いい子だから、その場で待ってなさい。絶対に扉の正面にいては駄目よ』
「あ、文? そこにいるの?」

 抱き抱えた烏にそう問い返したのと、扉が吹き飛ばされたのはほとんど同時だった。数十センチの厚さがある巨大な扉が、紙屑のようにくしゃくしゃにされて、向かい側の壁へと叩き付けられる。思わず扉のあった場所を見やると、脚を振り上げたままの文がそこに立っていた。
 はたては息を呑んだ。文はあの扉を蹴り破ったのだ。あのしなやかな細脚の、一体どこにそんな力があるというのか。

「待たせたわね。怪我はない?」
「え、あ、うん」

 少しだけ引き攣った声ではたては応えた。声が上手く出なかったのは寒さのせいか、それとも天狗の強大な力を目前で見せつけられたせいか。
 どぎまぎしていると、文はベッドへと飛び乗って、烏もろともにはたてを抱き締めた。

「可哀想に、こんなに身体を冷やして」

 柔らかい掌が、はたての肩を、腕を、背中を、脚を、ごしごしと擦る。すると不思議なことに、撫でられた側から身体がぽかぽかと暖まってくるのだった。まるで大きな風呂に入っているような温もりに、はたての中で凍り付いていた何かが融けて、眦から露となって溢れた。文の掌から発せられる何らかの不思議な力が、自分の身体にすんなりと吸収されていく。そんな生まれて初めての感覚に、はたてはどうしようもなく圧し包まれていた。

「さぁ、行くわよ」
「行くって、どこに」
「さぁね。どこへ行きたい?」

 少しだけぼうっとした頭で、はたては考えた。どこへも何も、はたての知っている世界はあの檻のような家しかない。彼女を閉じ込め、繋ぎ留めようとする世界しか知らないのだ。だから必死の思いで逃げ出したのに、辿り着いた先はまた別の牢獄でしかなかった。

「もう、縛り付けられるのはイヤ。だから ―― 」

 囁くような声で、本当の望みを、必死の思いで声にする。誰にも頸木を嵌(は)められない場所。本当に、真の意味で自由になれる場所。そんな場所へ、ここではないところへ、私は行きたい。

 こちらを覗き込む文の目を、はたては見つめ返した。大きく丸い瞳は、優しい闇の色をしていた。目が離せない。ゆっくりと、でも確実に、はたてはそこへと引き込まれていく。何の恐怖もないままに、ずぶずぶと沈んでいく。

「 ―― だから、自由になれる場所に行きたい。私が私のまま、あるがままにいられる場所へ」

 連れて行ってもらえる。そんな気がした。目の前の天狗はとても強くて大きい。文はこんなにも優しくて美しい。そんな彼女と一緒に行くのなら、今度こそ本当に、はたての望む場所へ行けるだろう。それが何処なのかは分からないけれど、文はそんな世界を知っているのだろう。そう期待した。

 けれど。

 すっ、と抱き締めていた腕が離れる。温もりがはたてと距離を取る。抱えていた烏も、ひとつ身震いするとはたての腕の中から飛び立ち、文の肩へと収まった。はたては追い縋ろうとして、しかしできなかった。文の瞳から感じた闇の温もりが、いつしか焼け石のごとく鋭い熱となり、念写少女を押し留めたのだ。

「あなたはひとつだけ勘違いをしている。私はあなたを理想郷へと導きに来たわけじゃない」

 冷気の中に放り出されて再び凍えるはたてを、文は灼熱の視線でもって幾度も貫く。

「幻想郷。そう呼ばれる郷があるの。人間のちゃちな想像よりもずっとずっと遠くに、そして人間が思うよりも、ずっとずっと近くにある場所。その中でも山には天狗社会が生き残っていてね。かつては中堅規模程度の天狗組織だったけれど、科学世紀となってからは他の大組織も散り散りとなってしまって、今や日ノ本で最大の勢力となってしまった。私はそこの一員。幻想都市となった東京の様子を探る命を受けて来たの。けれど帰還命令が出たから、私はそろそろ妖怪の山へ帰らなければならないのよ。あなたを攫って行けるとしたら、そのついでになるってわけ」
「幻想、郷……」
「隠しても仕方がないから言っておくけど、山の上層部もヘンタイの首脳陣も考えていることは一緒よ。念写能力者を、どうしても手元に置いておきたい。あなたの情報収集能力は世界に類がないほど強力な武器なの。毒ガスだって戦闘機だって及ばない。カメラさえあれば、居ながらにして世界情勢を把握できるんだから」
「で、でも私、そんな大それたこと……」
「あなたがどう考えていようと、それが事実なの。権力者なら誰もが欲しがる力をあなたは持っている。念写をひけらかしてしまったあなたは、これから先もずっと狙われ続けるでしょう」

 文の声がちりちり耳の中で暴れている。耳を塞いでしまいたかった。けれどはたての身体はまるで凍り付いてしまったかのように動きを止め、文の言葉をただ無防備に受け入れていた。天狗の笑顔がとても暖かそうで、どうしてもそれに触れたくて、もう一度包んでほしいと渇望して。

「どこに行きたいか、分からないのなら、私と一緒に来なさい。人間なんて辞めて、あなたも我々の仲間になるの」

 文の笑顔はまるで慈母のようで。
 はたては頷いた。何度も何度も頷いた。この天狗の言葉の意味は半分も分からなかったけれど、とにもかくにも彼女は暖かかった。ここで彼女と逸(はぐ)れてしまえば、もう二度とこの温もりには巡り会えないだろうと思った。このまま地下牢にいたところで、あるいは家へと帰ったところで、自分はもう冷たくなっていくばかりだ。心も身体も冷え切って、きっといつしか何も感じなくなってしまうだろう。それだけは、何があっても嫌だった。

 再び、暖かい双つの腕が戻ってきた。文がもう一度はたての小さな身体を抱き締めたのだ。歓喜に打ち震えながら、はたては文の胸に顔を埋める。このひとと一緒に行こう。どこへだって、どこまでだって行こう。たとえそこに何があったって、もう不幸にはならないだろうから。

「大丈夫よ。あなたほどに濃い幻想を持つ者なら、少し修行すれば立派な天狗になれる」

 はたてを軽々と抱き上げて、文は独房を出る。頬を刺す冷気が少しだけ和らいだのを少女は感じ取る。それはひとつの始まりで、それはひとつの終わりだった。瞑っていた目を薄らと開けた。辺りはほとんど真っ暗だった。照明がないのか、あるいは壊れているのか。どちらにしても、文にとって大した問題ではないようで、彼女の足は迷いなく闇の中を進む。それならばはたてにとっても全く問題はない。文が連れていってくれる場所ならば、何も間違いはない。

 すると、遠くで何かがぼんやりと輝いた。ぼうっとしていた光はだんだんと大きくなり、こちらへ近づいてくる。やがてそれは、見覚えのある人影へと変わった。
 紅色と白色、そして桜色。輝きを纏う少女が2人の行く手を阻んだ。博麗の巫女、宇佐見桜子。

「その娘を下ろしなさい」

 凛としたはずのその声も、はたてには幾重にもくぐもって聞こえる。その意味を理解するまでに数秒の時間を要する。下ろせ? 私を? どうして。これから私は幸せになれるというのに。
 応える文の声には、はたての知らない鋭さが見え隠れしていた。

「私はこの娘を天狗の山に連れて行く。異論は認めないわ」
「異論反論は私がすることじゃない。その娘の行き先を決めるのはその娘自身よ」
「彼女だって望んでいることよ。山で修行を積んで天狗道へ入る。この娘にはそれに相応しい力がある」
「はたて、私の話を聞いて。そいつに誑(たぶら)かされては駄目!」

 そのやり取りを、はたては遠くの世界から聞いていた。自分のことで2人が言い争っているのは分かるけれど、それが全く実感を伴わない。まるで自分とよく似た主人公の小説を読んでいるかのような、そんな奇妙な感覚。

「……あんた、その娘に何かしたわね」

 巫女の尋問に険悪さが混じっても、やはり文は動じない。どころか逆に、その唇の橋をにいと吊り上げた。この天狗にとっては、立ちはだかる者が何であろうと、それは愉快な障害物に過ぎないのだ。

「そりゃあ何だってするわよ。御山のために、妖怪のために、人間のために、この娘のために。やらなきゃいけないことが多過ぎて嫌になっちゃう。組織の中で生きるっていうのは大変だわ」

 言葉に気を取られた巫女の、ほんの一瞬の隙。それを文は見逃さない。瞬時に飛翔、桜子の脇をすり抜け出口へと向かおうとして ―― 。
 桜色の網目が虚空に浮かび、天狗をあっと言う間に絡め取った。巫女が既に罠を張っていたのだ。翼も手脚ももつれさせながら、文の身体は自由を失い暗がりの奥へと転がっていく。桜子はそれを猛然と追いかけ、文へと踵を振り落とした。

「甘いッ!!」
「……!?」

 しかし天狗は、その蹴撃を天狗団扇を構えた片手でいなしてみせる。桜子が文に追いつくまでのほんの刹那。体勢を立て直すのに、文にとってはそれだけの時間で十分だった。そのまま二度三度と繰り返された追撃を、文ははたてを守るように抱えたままで凌ぎ切る。
 桜子は天狗の懐から離れようとしない。間合いが開けば天狗団扇の大振りが待っている。先程の様な猛突風に襲われてしまえば最後、もはや二度と追い付けまい。懐に飛び込んだこの状態のままで圧倒しきる。それが桜子の思惑だった。

 天狗と巫女の視線が交錯する。天狗の余裕と巫女の激憤が火花を散らす。

「随分とムキになる。この娘を人の道から外すことが、そんなに気に食わない?」
「当たり前じゃない! ここの連中もあんた達も同じよ。どこまでも自分勝手!」
「自分勝手の権化みたいなあなたがそれを言いますか」

 風が鋭く渦を巻き、桜子の袖が引き裂かれた。極小の鎌鼬を、文は自身の周囲に発生させていたのだ。袖に続いてタイが、スカートの裾が、そしてついには髪の数本が餌食になった。巫女はたまらず一歩後ずさる。
 もちろん、天狗はこの好機を逃さない。すぐさま天狗団扇を振り抜いた。

 不可視の風の大蛇が、地下通路をのたうち暴れ回る。

「ぐ……」

 桜子は何とか向日葵の茎に掴まった。身体は完全に浮き上がり、鯉幟のごとく真横へたなびいている。この手が離れてしまえばそれまでだ。しかし風はぐんぐんと強まり、その茎さえもが地面から引き剥がされ始める。

 文の腕の中で、はたてはその様子を見ていた。輝ける巫女が闇へと吹き飛ばされようとしている光景を無感動に眺めていた。どうして彼女が文へ逆らったのか分からない。巫女が何をしようとしていたのか分からない。文は正しくて暖かいのだから、何をしてもその正義は揺るがないはずなのに。

 そして天狗は勝ち誇っていた。勝利を確信し、しかし次の瞬間、訝しげに目を細める。
 桜色の光片が、桜子の全身からどんどん零れていく。桜が散るがごとく、輝く花弁が巫女の身体から風に舞っているのだ。
 巫女の悪足掻きだろうか。しかし、何かがおかしい。風の向こう、逆境の直中にいるはずの彼女の闘志は、まだ衰えてはいない。

 嫌な予感に文の首筋が粟立った。そしてそれはすぐ確信に変わる。
 桜子の両脚が弾け、輝く桜の花弁となったのだ!

「なっ……!」

 文は驚愕に目を見開いた。桜子の腰から下はもはやそこにない。切り離された胴体からは、血飛沫の代わりに尋常でない量の花弁がばら撒かれていた。そして腹が、胸が、ついには腕が。桜子の全身が次々と爆裂し、千々の光と化して風に流されていく。巫女は霊力弾として花弁を放っているのではなく、自分の身体を花弁へと変換していた!

 状況を飲み込めない天狗を余所に、そのとき凛と空気が鳴った。猛風が轟轟と吼える中で、その音は文にも、そしてはたてにも確かに聞こえた。ぼんやりとしていたはたての視界が、少しだけはっきりと冴えた。
 1枚、また1枚。光の欠片が風に流されてくる。2人の背後から、桜色の花弁が襲い来る!

 そんな馬鹿な!
 そう叫ぶ間も惜しんで、文は背後を振り返る。天狗団扇を逆方向へ振り風を止めるも、風に乗る花弁の塊はもはやその程度では勢いを失わない。あっと言う間に文とはたては光に圧し包まれた。桜色の霊力がしばし吹き荒れ、地下通路を蹂躙し尽くす。
 意志と力を持つ桜吹雪は、しばし辺りを吹き荒れた後、唐突に消失した。静寂を取り戻した地下通路には、もはや誰も立ってはいない。霊力を叩き込まれて、あるいは霊力を使い果たして、三人の少女はそれぞれ倒れ伏していた。向日葵の茎が滅茶苦茶に引き裂かれ、根本の部分だけがそこに残されている。

 どのくらいの時間が経っただろう。不意に遥か頭上、地上での妖力の暴走が止んだ。
 それとほぼ同時に、御堂はたては意識を取り戻した。

「うーん……?」

 何とか上半身を引き起こし、靄掛かった頭を何度か振る。彼女は真っ暗闇の中にいた。先ほどの暴風と桜吹雪で、残されていた数少ない照明も全て破壊されてしまっていた。おまけに音を立てるものも何もない。目を開けても閉じても、耳を澄ませても塞いでも、はたての感覚は何一つ変わらなかった。まだ夢の中なのだと言われても、容易く信じてしまえそうな孤独。
 心細くなっても、何だか悲鳴を上げてはいけない気がして、はたては口を噤んだ。出口がどこなのかは勿論、どちらが前でどちらが後ろなのか、あるいはどちらが右でどちらが左なのか、それすら見当もつかない。冷たい石畳に座り込んでいるという感触だけが、彼女自身の実在を伝えている。
 私は、何処へ行けばいいんだろう。彼女は自問した。このままここで座り込んでいる訳にもいかない。立ち上がって、次の場所へと行かなければならない。でも、それは一体何処?

 はたての前方に、気配が灯った。弱々しい桜色の光。博麗の巫女が意識を取り戻したのだろうか。しかし、動く気配はない。声すらも聞こえない。先程の大技でかなり消耗してしまったようだ。

 そして、背後にも気配が戻る。振り向くと、真っ暗闇の中で漆黒が輝いていた。烏天狗も失神から我に返ったようだ。叩き込まれた霊力による損耗が激しいのか、こちらも身じろぎひとつ感じられないが。

 闇の中に灯されたふたつの光。はたてはそのちょうど中心にいた。
 心臓が暴れ出す。暗闇の中にいるはたては、誰かの光に導かれなければ何処へも辿り着けないだろう。これは少女の人生における、決定的な岐路だった。巫女と天狗、どちらの輝きを選ぶのか。その答えによって自身の未来が大きく変わってしまうだろうことは、まだ幼い彼女にもすぐ理解できた。

 どうしよう。どうしよう。どうしたらいい。胸が爆発しそう。呼吸の仕方も忘れそうだ。私はどっちを選べばいいんだろう。どうしたらいいんだ。誰か教えてよ。誰か。誰か、誰かって、誰? 今、ここには、誰もいない。私独りだ。どうしよう。指先にはもう感覚がない。誰か。どうしたらいいのか。私は。人間。天狗。東京。幻想郷。どうしよう。ここに今。私は。独りで。自分で。呼吸を。胸を。指先を。身体を。心臓を。頭を。翼を。翼を。翼を!

 少女の自問は、そこで終わった。そして彼女はすっくと立ち上がり、ひとつの輝きへと足を進めたのだった。




 
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