メリーベルがようやく地上へ戻ってきたときには、都市の様相は一変していた。いや、もはやそこは街ではなかった。人の背丈を大きく超えた向日葵の茎の群は、もはや森と呼んで差し支えないだろう。噎せ返りそうな翠の匂いが喉まで押し入ってくる。過ぎ去りかけていた夏が、完全に東京へと戻ってきていた。
妖力の中心へと目をやると、そこにはもはや大樹と見紛うばかりの巨大な幹が聳(そび)え立っている。信じられないが、どうやら巨大な向日葵が無数に絡み合ってあれを形成しているようだ。翠の柱のあちらこちらに、点描画のごとく黄色い花が浮かんで見える。そしてその幹は、はるか上空で平らに広がって茸のような傘となっていた。メリーベルからは数キロメートルの距離があるはずだが、あの傘の上にこの妖力の持ち主がいるだろうことは容易に想像ができる。特殊異変隊があの傘へ向けて霊力砲の斉射を繰り返し行っているものの、焼け石に水だろう。地表の向日葵たちへの力の供給は止まることなく、その勢力は弱まることを知らない。
距離と方角から見て、あの幹の根本は新宿御苑か。メリーベルは脚部機構を起動し、空高く跳び上がった。跳躍能力を数百倍にも高めてくれるこの霊力機構により、建造物の多い都市部であっても、着用者は障害物を跳び越えて最短距離を行くことが可能となる。
新宿御苑に接近すると、いよいよその幹の巨大さを思い知った。直径は30メートルほどはあるだろうか。そんな植物がどんなビルディングよりも高く成長しているのだから、あらためて相手の強大さも知れようというものだ。信号弾代わりの霊力弾を打ち上げ、隊員たちの射撃を一時止めさせると、メリーベルは幹の側面を一目散に跳び登っていく。
頂上に近づくにつれて強まる霊力は、目に見えない濃霧の中を突き進むような錯覚を彼女に与えた。何とか傘の上へとよじ登り、息を切らしながら顔を上げたメリーベルは、再びその目を疑った。
「……嘘ぉ」
目をごしごしと擦っても、目の前の光景は消えない。これは幻ではない。
そこにあったのは、小綺麗な空中庭園であった。丸く生け垣が植えられていて、赤い薔薇の花が彩りを添えている。絡まった蔦で編み上げられたアーチを潜ると、晩夏から秋口にかけての沢山の花々が整然と咲き乱れていた。まるでどこかの西洋庭園だ、と彼女は思った。城でもひょっこりと現れそうな雰囲気だ。
そして、庭園の中心部に風見幽香はいた。どうやってここまで持ち込んだのかは知らないが、揺り椅子に腰掛けて珈琲を飲んでいる。切り取って壁に飾りたいくらいに優雅な光景であった。目を閉じたまま、たおやかな白い指でカップを捧げ持つ彼女は、まるで良家のお嬢様のようにも見えた。
しかし、歩みを進めるメリーベルの脚は少し震えていた。幽香から放たれている妖気は尋常ではない。退魔術師の魂は恐怖に消し飛ぶ寸前であり、一歩の距離を詰めるだけでも相当な覚悟を必要とした。巨大な竜巻に近づいていくような、そんな気分だ。
それは人間が忘れ去ろうとしている、狩られる者が抱く恐怖だった。完璧な理不尽に対する恐怖だった。不可侵の未知からもたらされる恐怖だった。風見幽香にしてみれば、こんな茶番はほんの手慰み程度といった認識しかないであろう。けれどそのほんの手慰みで、彼女は東京中に甚大な畏怖をばら撒いていた。
恐怖の根源へ向けて、メリーベルは渾身の勇気で以て、更なる一歩を踏み出す。
幽香が目を開く。退魔術師を横目で見据える。紅玉(ルビー)色の視線が、幾千もの刃のごとく少女へと襲いかかる。
思わず身構えたメリーベルを見て、幽香はくすくすと微笑を零し、カップを置いて向き直った。ソーサーが鳴らすはずの、かちゃりという音は全く聞こえない。幽香の所作が完璧なせいなのか、あるいはメリーベルの聴覚がそれどころではないからか。
「 ―― それで、貴方はここまで、いったい何をしにきたのかしら?」
翠の暴威が言葉を紡ぐ。たった一文、その質問の意味を頭が理解するまでに、数秒の時間を要した。何をしにきたのか。そんなことは、決まっている。
「妖怪退治、です」
そう応えながらも、一歩後ずさってしまったメリーベルを誰が責められようか。常人であれば一瞬で恐慌し一目散に遁走するような相手と、会話を交わすことができたというだけでも、彼女は讃えられるべきであった。事実、その言葉に幽香の笑顔はさらに鮮やかに、美しく輝いた。それは大妖怪の賛辞に違いなかった。
翠の少女はふわりと宙へ浮き上がる。眼前の巨大な竜巻が、さらにその速度を上げたように錯覚する。退魔鎧の霊力増幅回路をフル回転させ、メリーベルは全身に気を漲らせた。ありったけを注ぎ込んでいるはずなのに、幽香の膨大な妖力の足下にすら到底辿り着けそうにない。彼女を打ち倒すためにどうすればいいのか、その手掛かりすら掴めていない。
生命の危機を明確に感覚しながら、退魔術師はふと、宇佐見桜子のことを思った。こんな相手に、彼女ならばどう立ち向かっていくのだろうか。湯水のごとく溢れ出る潤沢な霊力で以て敵を圧倒する、自分とは正反対の戦法を駆使するあの博麗の巫女ならば。
―― それで、あんたはいったい何をしにきたのよ。
頭の中の彼女は、奇しくも大妖怪と同じことをメリーベルに問う。
返答に詰まる。いったい、どうして、私は。
閃光が走った。爆音は聞こえなかった。幽香の描き出した弾幕によって、金色の退魔術師の姿はあっという間に掻き消された。
◆ ◇ ◆
重苦しい空気に、はたては目を覚ました。呼吸が重かった。苦しいのではなく、重たいのだ。吸っても吸っても、肺の中に空気が入っていく気がしない。彼女に登山の経験があれば、空気の薄い高地にいるような感覚に喩えただろう。ベッドの上に寝かされていることに気づき、何とか身を起こそうとしてみるものの、身体が言うことを聞いてくれない。ほとんど金縛りのような状態に、はたては陥っていた。
靄のかかる記憶を何とか辿って、自分が気を失うまで念写を繰り返させられていたことを思い出す。
疲れ果ててしまったんだ、と少女は理解する。こんなに念写を続けたことなど今までなかった。使い過ぎるとどうなるかを試したことはなかったが、走り続けると疲れてしまうように、念写も続けると疲れてしまうのだろう。
全身が汗に塗れていた。辺りは肌寒いくらいに涼しいのに。腕と脚を支配する不快な冷たさに身を丸めようとするも、寝返りすら打てそうになかった。仰向けに磔(はりつけ)となったようなものだ。いつだったか本で読んだ、小人に雁字搦めにされた男の絵を思い出した。
はたての身体が動かせないのは、繰り返された念写実験の疲労に加えて、収容房に張られた退魔結界の影響もある。しかしもちろん、彼女はそんなことを知る由もない。
このまま自分の身体から熱がすっかり奪われれば、凍え死んでしまうかもしれない。そう思うと、はたては途端に恐ろしく、心細くなってしまった。涙が溢れては音もなく頬を伝い落ちていく。浅く早い呼吸音だけが少女の頭蓋を満たす。
結局、自分はどこへも行けないのだ。せっかくあの鳥籠から逃げ出したと思ったのに、辿り着いた先はもっと酷い場所だった。これならば、まだあの家で暮らしていた方がましだったとさえ思う。けれど、今更戻りたいと望んでも、戻れるかどうかは分からない。自分をまるで実験動物か何かのように扱う連中が、簡単に家に帰してくれるとは思えなかった。
こんなことになるのなら、念写の力なんて要らなかった。これは自分をどこか素晴らしいところへ連れていってくれる翼だと思っていたのに、本当は自分を縛り付けて深く暗い底へと引きずり込む鎖だった。どうしてこんなことになってしまったのだろう。はたては自問する。調子に乗って力をひけらかしたのが悪かったのか。いやでも、私は望んだ訳じゃない。念写の力なんて、欲しいと言った覚えはない!
ふわり、と暖かな風が吹き込んだのはその時だった。それははたての身体を柔らかく包み込み、凍え切った腕を脚を少しだけ溶かした。重く湿った空気が、軽やかな夏風に拭われていった。誰かが季節を巻き戻したのかもしれない、と少女は何となく思った。
指先に感覚が戻り、次いで腕と脚が自由を取り戻す。固まりきった身体を何とか動かして、横臥の姿勢を取る。そして深く深く息を吸った。視界と思考の全てから、靄が取り除かれていく。
「……酷い場所」
自分がいる場所が狭い独房であることを、はたては見て取った。彼女が横たわるベッドの他には、椅子とテーブルくらいしかない。裸電球の寒々しい光が唯一の光源だ。窓などはない。扉の他には、小さな通気孔くらいしか、外へと通じていそうなものはなかった。先ほどの暖気は、あそこから入り込んできたのだろうか。
横になったまま膝を抱え込む。取り戻した温もりを二度と手放さないように。
もう一度、逃げ出すことができるだろうか。自分を閉じ籠めようとする連中を振り切って、誰の手も届かない場所まで。今度こそ、自分で自由に羽ばたくことのできる、そんな楽園みたいな場所まで。
彼女はただ、自分の居場所が欲しかった。誰も自分を否定しない場所が欲しかった。誰も自分を縛らない場所が欲しかった。けれどそんなものは、幻想なのだろうか。
細く長い息を吐く。まだ居座り続ける冷気が、彼女の吐息を白く浮かび上がらせる。
ふと、その向こうで漆黒の闇が、ぶるりと震えた。
「え……?」
はたては慌てて起き上がり、目を凝らした。部屋の隅、暗がりの中に、そいつはじっと佇んでいた。まるで彼女が自分を見つけ出すのを待っていたように。その小さな影は、ぴょんぴょんと飛び跳ねながら裸電球の光の下へと寄ってくる。
そこにいたのは一羽の鴉だった。とはいえ、いままではたてが見た中でも一番大きい。鴉をこんなに近くで見たことがなかったせいかもしれないが、はたての細腕で抱えきれるかどうかといった大きさだ。どこからやってきたのだろう。通気孔を潜(くぐ)り抜けたのだろうか。
鴉は嘴に何かを銜(くわ)えていた。そしてそれを、その場にぽとりと落とす。ベッドの上からでも、それが何かははっきりと分かった。向日葵の種だ。
「……お前、どうしてここにいるの?」
漆黒の影に向けて、はたては問い掛けた。もちろん答えを期待してのことではなかったが、鴉はしっかりとこちらを見返して、その嘴を開いた。
『そりゃあ、お姫様を助けるために決まってるじゃない』
「ひっ!?」
後ずさろうとして、背後は壁だった。緊張してしまったはたてに対し、鴉はさらに一歩近づく。
『あやややや、そんなに怯えないで。私よ、私』
「あ、えっと……あんたは天狗の……」
『そうそう。この鴉は私の使い魔で、あなたの独房を探してもらってたのよ。妖怪だらけの地下牢に人間が1人だけ入れられてるんだもの。ちゃちい結界で封じたからって、天狗の使い魔の鼻は誤魔化せないわ』
射命丸文の得意げな声が、無表情な鴉の喉から放たれている。異様な光景ではあったが、はたては嬉しさのあまり泣きそうになった。こんな場所に閉じ籠められても、手を差し伸べてくれるひとがいる。自分を救おうとしてくれるひとがいる。
はたてと鴉の間で、何かが首を擡(もた)げた。向日葵だ。先ほど床へ落とされた種が芽を出し、どういうわけか一瞬でここまで生長したのだ。
『風見幽香の撒いた種子は、地下牢に張られた結界を貫通しないように調整されている。この子が銜えていたひとつを除いてね。つまり結界の中から伸びた向日葵の場所に、あなたはいる』
鴉は大きく羽ばたいて、はたての傍らへと収まった。黒々とした身体よりもさらに深い闇色の瞳が、少女をじっと見つめていた。
『もう少しだけ辛抱して。あなたは私が、必ず助け出す』
その言葉は、はたての小さな身体の隅々まで染み渡った。涙をその目にいっぱい溜めながら、彼女は満面の笑顔で大きく頷いた。