鳥になって空を飛びたい。それが物心付いて以来の、御堂はたての願いだった。田んぼをうろついている鷺たちは、冬になると暖かい場所へと遠く飛んでいく。いつだったかそう知ってから、はたてにはそれが羨ましくて仕方がなかった。寒くて餌のない場所が嫌になれば、そこから飛んでいけるのだ。それは自分には、決してできないことだった。
だから、せめて想像の中だけでも彼女は鳥になった。自分を閉じ籠める場所から、大きな翼を広げて飛び立つのだ。この武蔵野の一角、広大で肥沃な平野。高い高い空から見下ろしたなら、世界はどんな風に見えるだろうか。
はたては夢想する。田畑と樹木の織り成す緑鮮やかな波浪の上を飛翔する様を。吹き抜ける風は夏の香りに満ち満ちて、遠くには連山が蒼く霞む。そして遙か東に浮かび上がるは大東京市の街並だ。人間の作り上げた英知の結集、流行の最先端。そこへ行くことは彼女の夢だった。空の上からならばすぐにでも手が届きそうな、そんな気がした。
けれどそれは、あくまで夢だ。決して叶うことのない、見るだけ無駄な夢だ。
はたてが夢の世界に逃げ込んではぼうっとする度に、彼女の母は娘の頬をぴしゃりと張った。そして決まってこう言うのだった。そんなことでは立派な跡継ぎの婿を取れないではないですか。
御堂家は、武蔵野に代々居を構える豪農である。広大な田畑と小作人を有する資産家であり、辺りの顔役としても信頼の厚い名家だ。はたてはその家のひとり娘であり、学校に行くことも許されないまま、ただただ毎日座敷の中で母から様々な手ほどきを受けていた。書道であったり、生け花であったり、料理であったり、それらは全て御堂家の理想の大人になるための修行であった。家から出ることすらまともに許されないはたてにとって、空というものはいつも窓枠の中から見上げるものであった。
そんなはたての人生が一変したのは、父のカメラを借りてシャッターを下ろした、その瞬間からだ。
ある日、父ははたてを自分の書斎へ招き入れた。そんなことは生まれて初めてだった。彼がはたてに積極的な干渉を行うことなど滅多になかった。教育だって母に任せきりの人間である。寡黙な仕事人間の単なる気紛れか、それとも篭の鳥である娘を彼なりに不憫に思ったのか、理由は分からない。とにかく胸を躍らせながら書斎へ入ったはたての目は、すぐさま父のカメラに釘付けとなった。机上灯の光を受けて、そのフォールディングカメラはきらきらと輝いて見えた。これが父の唯一にして熱心な道楽であることを、はたてはこのとき初めて知ったのだった。
触らせてほしいと父に懇願すると、なんとその場で父の写真を一枚撮ることまでもはたては許された。信じられないような気持ちではたてはカメラを構えた。彼女の手は淀みなくカメラを操作する。まるで自分の身体の一部であるかのように、ピントも露光もすんなりと合わせることができた。すっかり高揚していたはたては、そのことを全く疑問に思うことなくシャッターを切った。
その晩、写真を現像した父は自分の目を疑った。そこに写っていたのは彼の肖像ではなく、帝都東京の街並みであったのだ。
そんなはずはないと、父ははたてを呼びつけて、さらに数枚の庭の写真を撮らせた。しかし現像の後に浮かび上がる写真は、どれもこれも出鱈目なものばかり写している。フイルムがおかしいのか、と父自身も同じ条件で庭を撮影してみたけれど、そうしてできあがる写真は何の変哲もない庭の画だ。はたてが撮る写真ばかり、レンズに映る光景ではなく、何か全く別のものを写し出していた。
それを知った少女は色めきたった。背中に翼が生えたような気がした。
両親は気味悪がり、はたてをカメラから引き離そうと試みた。けれど彼女に灯った炎の勢いは衰えを知らなかった。はたては理解あるばあやに頼み込み、中古のカメラを買ってきてもらった。いつしか家を抜け出したときのためにと、内緒で貯めていたお金の全てをはたいた。さらに、誰も訪れない倉の一室を無断で暗室へと作り替え、自分だけの現像室まで用意したのだ。そしてシャッターを何度も切っては現像される写真を確認し、自らの不可思議な能力の正体を掴もうとした。この力こそ、自分を閉じ籠める世界へと反逆できる唯一の手段だと彼女は信じていた。
そしてある日、新聞の一面に掲載された人物写真と寸分違わぬ一枚を写し出せたことで、はたては確信した。私はこの世にあるありとあらゆる写真を、手元のカメラに呼び寄せることができるのだ、と。
こんな不思議な力があるのなら、自分の人生がこんな場所に閉じ籠められて終わるはずがない。小さな胸が躍りだした。背中の翼は、今やはっきりとした形を持ち、彼女を籠の外へと連れ出そうとしていた。あの大きな空と自分の間に、邪魔するものは何もない。ずっと願い求めていた自由に、私はいま片手が届いたんだ。もう夢に見るだけじゃない。青い空へと私は飛んでいける。どこまでも、どこまでも。
彼女は自分を信じた。己の可能性を信じた。そう、彼女は大空へと飛び立てるはずだった。御堂はたての念写能力は間違いなく本物であり、能力に対する彼女の推察も正しかったのだ。
けれどその翼を、誰かが今にも奪い取ろうとしている ――
自分が吸い込む空気の埃っぽさに、はたては目を覚ました。
薄く瞼を開けた途端に、眩しい光が目を刺して、はたては思わず顔を背けた。手で光を遮ろうとして、それが出来ないことに気が付く。どうやら、手首と二の腕がベルトのようなもので固定されているようだった。驚きと混乱で身じろぎする。腰と太股と足首が同じように固定されており、固く冷たい椅子へとはたてを完全に拘束していた。
「え……えっ……?」
眩しさを堪えて、はたては辺りを見回す。しかし見えるものは、彼女をぐるりと取り囲むライトばかりだ。その光の和の向こうに人の気配を感じて、はたては息を呑む。何やら作業をごそごそと進める彼らは、はたての覚醒に気が付いたのか、だんだんと慌ただしさを増しているようだ。
混乱した記憶を整理する。そうだ、自分は文に抱えられて空へと逃げようとして、そこを襲われて……。
「こんな小娘ひとりの確保に、やたら骨を折ってしまった」
光の向こうから響いてきたのは、低くじっとりとした男の声だった。はたての父よりも年上と思われる、偉そうに勿体ぶった声色だ。
はたての正面、光源の先に、何やら機械らしき違う色の光が見えた。それを操作する2、3人の人影。そしてさらにその向こうで直立した大柄な人影。どうやらそれが声の主だ。
「やはり隊員の基礎訓練は重要だ。いくら諸君が鼻つまみ者の寄せ集め部隊だからって、練度の低さにも限度というものがある。ハーン嬢がおらなんだら、いったい確保にいつまでかかったことやら」
「少佐殿、御言葉を返すようですが」
忙しなく動いているうちの1人が、立ち止まって敬礼し言った。
「此度の追撃に際しましては、あの娘に『博麗の巫女』と『鴉天狗』が手を貸しており、いくら霊撃砲を配備していると言っても、何も異能を持たぬ我々では ―― 」
「んなこたぁ分かっとるんだよ。それでも任務を迅速に全うするのが、諸君らの責務ではないのかね」
「 ―― は、申し訳ございません」
上役の舌打ちに、作業中の者たちの動きに緊張が増す。
はたてはますます混乱した。あれが自分を浚った犯人たちだとして、その目的は何だ? 最初は身代金でも要求するつもりなのかと思っていたが、どうもそういうわけでもないらしい。ということはつまり、連中の狙いは。
「……おや、どうやらお目覚めのようだ。時間も惜しい。早速始めるとしよう。ハーン嬢」
「はい」
場違いな少女の声がして、そしてその声の主が光の中へ歩み入る。その姿を、はたてははっきりと覚えていた。文を撃墜し自分を奪った、金髪碧眼の西洋人だ。
彼女ははたてのすぐ側までやってきて、棘がたくさん突き出している半球状の装置を手に取った。そしてそれをはたての頭に被せようとして、しかしその手を止める。
「もう一度申し上げますが、私は反対です。こんなことは我々の思想と反します」
「くどい。何度も言ったはずだ。その娘を野放しにしておけば、我が国の機密情報が漏れ続けるのだぞ」
「……分かりました」
その声には悔恨が滲んでいるようにも、はたてには思えた。
装置が被せられると、はたての視界は完全に遮られた。甲高い機械音が唸っていて、はたてに軽い頭痛をもたらす。
ふと、その手に丸い何かが握らされた。金髪の少女の柔らかい手が、はたての親指をボタンへと添える。すぐにその正体に思い当たった。これはシャッターボタンだ。
そう認識した瞬間、はたての異能が発動する。シャッターを握る手からカメラそのものへと、はたてのエネルギーが流れ込んでいく。念写するときにはいつも味わっている感覚だ。
「まずはその娘の能力が本物かどうかを確かめる。一応な。流出したものと同じ、浅草上空の航空写真。それを念写してもらおう」
しかし今回は事情が違った。力が注がれるに従って、頭の装置が唸る声が大きくなっていき、頭が割れそうなほどに痛み始めたのだ。
「う、ぐっ……痛ぁ……あぁ」
「止めちゃ駄目」
思わず念写を中断しようとしたそのとき、傍らの少女が囁きかける声がした。
「辛いのは分かる。でも我慢して。この実験は、成功するまで終わらないわ」
人浚いにしては妙な言い種だったが、痛みに喘ぐはたてがそこに気が付くことはなかった。途切れそうな意識を何とか繋ぎ留め、はたてはシャッターを切る。成功の手応えとともにエネルギーの流れが途絶え、それに合わせて頭痛も治まっていく。
「さっさと現像に回せ」
不機嫌そうな少佐の声にせき立てられて、足音がひとつ駆け足で消えていった。
シャッターを握るはたての手を、柔らかいものが包む。金色の少女が手に手を重ねていた。振り解きたかったが、縛られた腕ではそれもできない。精一杯の抵抗にと、はたては問いかけた。
「何、なのよ、これは」
「あなたには、軍事機密を漏洩した容疑が掛けられている。もう調べはほぼ付いているの。あなた、念写能力をひけらかそうと、新聞記者を呼び付けて念写実験をしたでしょう。そのときにあなたは、記者の要望で東京市の航空写真を写し取った」
微かな耳鳴りと、ぜえぜえと軋む胸。それらの騒音を透かして、彼女の声ははたての耳へと辛うじて届いていた。
「そしてその記者は、あなたから入手した航空写真を国外の諜報機関に売り飛ばそうとしていたの。我々は幸運にも、それをすんでのところで阻止した。尋問は呆気なく片付いた。情報源があなたであることもすぐ割れたわ」
「やっぱり、あの写真……。でも軍事機密って、どういう」
「航空写真はどんな地図よりも正確な地勢図よ。それがあるだけで格段に情報戦が有利になる。古今東西、戦術家の常識だわ。あなた、軽率が過ぎたわね」
「それで、私を逮捕して、拷問しようってこと……?」
「これは実験よ。あなたの能力を科学的に解析するための」
はたての手を包む手が、親指をシャッターボタンへと導く。力がカメラへ流れ込んでいく感覚とともに、また頭痛がぶり返してきた。何とか抜け出したいけれど、はたてに出来ることは何もない。彼女が出来るのはあくまで念写だけだ。この拘束を解いたり、自分を捕らえている連中をぶちのめす力はない。空を飛ぶことなんて、夢のまた夢。
「さあ、もう一度念写してもらうわ。あなたの能力を徹底的に解剖してあげる。そして有用ならば、あなたは軍属として徴用される。念写能力でもって国家に奉仕することになる。あなたが望む望まざるに関わらずね」
鳥籠から逃げ出したい。彼女はずっとそれだけを願ってきた。だからはたては、自分の持つ力に全てを懸けたのに。逃げ出した先は結局、別の鳥籠でしかなかった。それももっと強固で窮屈な鳥籠だ。痛みに割れそうな頭で、はたては自分を呪った。自分自身の運命を呪った。こうして捕らわれ続けることが、彼女の定めだというのなら。
シャッターを押した。念写は成功しただろう。どこかの誰かが写した写真が、フイルムへと焼き付けられたはずだ。彼女は自分自身の選んだ景色を決して撮ることはできない。誰かの構図を盗んで、その後を辿ることしかできない。はたてはようやく理解した。彼女がいくら望んでも、自由なんて得られない。捕らわれたままなのだ、どこまでも。頭が冷めていく。感覚が冷めていく、高揚と熱が失われていく。
これが運命だ。どこまで行ってもついて回る、私の運命。
「あふぁ……ふぁ~あ」
大きな大きな欠伸が喉の奥から沸き上がって、闇から青へと変わったばかりの空へと溶けていった。一晩中働き通しだった身体は休息を強く求めている。今すぐ布団に潜りたい。暖かくしてぐっすりと眠りたい。しかし今私にできることは、目覚め始めた東京の街をただひたすらに歩くことだけだ。何せまだ、路面電車だって動き出してはいない。
明け方、私は這々の体で白蓮寺へと向かっていた。昇る朝陽の光が、一睡も出来なかった私の目に容赦なく突き刺さる。徹夜をしたのは生まれて初めてだった。
「随分とはしたない欠伸ね。だらしがないわ」
「……あんたは、徹夜と徒労に強いのね」
「記者たるもの、締め切り前の2徹3徹は当たり前。重ねた取材がボツになることなんてしょっちゅうですからね」
こちらの精一杯の皮肉に、文はどうだとばかりに胸を張った。新聞記者に一切の疲労が見て取れないのは、彼女の言う通り単純に慣れているからなのか。それとも天狗だからだろうか。
夜通しで何をしていたのかと言えば、はたてを攫っていった連中の痕跡探しである。メリーベルと彼らは潮が引くように忽然と消え失せてしまった。行方を示す残留品のひとつでもないかと、文が借り暮らしている平屋の周辺を探していたわけだ。
けれど何ひとつ見つかることはなかった。私が「徒労」と言ったのはそのことである。
「結局、どこの誰がはたてを連れて行っちゃったのかは分からず終まいかぁ……」
秋の空は高く澄み渡っていて、見上げた私をどこまでも圧し包んでいる。
正確に言えば、メリーベルが実行犯の1人であることは勿論分かっている。しかし、一緒にいたあの連中が一体何者なのかは不明だ。そしてメリーベルが奴らと行動を共にしている理由も。
あの西洋隊魔術師は妖怪退治に執念を燃やしてはいるものの、人間の子供を攫う動機はありそうにない。ということはつまり、彼女に実行を依頼した(あるいは命じた)何者かがいるはずだ。私はそう踏んでいた。
しかし天狗が振り返り、衝撃的なことを宣(のたま)う。
「え、相手の目星は付いてるわよ」
「……は?」
「あれ、言ってなかったっけ」
「言ってない。聞いてないわよ一切! それじゃ夜通し探し回った苦労は無駄だったってことじゃないの!」
思わず文へと詰め寄る。やはりこいつ、ここで退治しておくべきか。
「そんなに怒らないでよ。相手の目星は付いちゃいるんだけど、どこに潜んでいるのか分からないんだから、手掛かりを探すのは必要でしょう」
どうどう、と文に抑えられ、私は立てた角を引っ込めた。どうやら疲れのためか沸点が低くなっているようだ。
「んじゃ、あいつらは誰なのか言ってみなさいよ」
促すと、文は立ち止まりこちらを振り返った。朝の澄んだ空気が一瞬だけ張りつめた。文は周囲の気配を鋭く探り、辺りに誰もいないことを確認していた。それが私にも辛うじて分かった。
「……いつだって、人間は怪異に備えている。太古の昔から、妖怪や異能へ対抗するための者というのはずっと存在してきたの。桜子、今のあなたもそうでしょう」
言葉の意図があまり分からないまま、私はただ黙って頷いた。
「明治政府が興ったとき、同時に日本の軍備も一新された。国防のためには、従来の武家構造とは違う西洋式の軍隊が必要だった。そして根底からの改革が行われたその裏で、変わらずに存在し続けた特務機関があったのよ。京都で千年以上にわたり帝を護衛してきた陰陽師たちと、徳川幕府の政権を霊的に守り続けた魔術師たちが、維新の陰で合一し軍属として再出発した」
「ちょ、ちょっと待って。帝軍の中にそんな非常識な部隊があるって言うの!?」
「……ちょっとでも名の有る妖怪なら皆が知っていることよ。あなた、今さら常識がどうとか言うわけ? それなら今のあなたは非常識の塊じゃない」
「いや、でも、それとこれとはいくら何でも話が」
話が違いすぎる。有り得ない。
だってそうじゃない。欧米列強と渡り合おうという日本の近代軍に、霊能者ばかりの集団が秘密裏に存在しているだなんて、ナンセンスにも程がある。
私のその思考は、しかし言葉にはならなかった。これだけしっちゃかめっちゃかになってしまった魔都東京において、一体何が常識で何が非常識なのか分からなくなってしまったのだ。路面電車に天狗が我が物顔で乗る世界だ。常識と非常識の間に線を引ける者など、この世にいるとは思えなかった。
文の塗れ羽烏色した瞳には諦観が見て取れた。全てを理解しながら、それでも受け入れることは拒み続ける墨塗りの瞳孔だった。射命丸文が何十年、あるいは何百年生きてきたのかは知らない。けれど彼女の瞳は、そこに刻みつけてきた光景の数だけ深みを増してきたのだろう。天狗として、新聞記者として。文は現在の帝都東京に何を見出しているのだろうか。
「やはり東京は、人間の街だということね。分かってはいたけれど」
溜息と共に首を振り、文はその名を告げる。
「大日本帝国陸軍第1師団特殊異変隊。太古の霊術魔術を今に伝える、国家機関で唯一の退魔術師集団。追っ手はそれよ。間違いないわ」