一
里に大九朗という男がいた。無精ひげを生やして着物は継ぎはぎだらけ、だらしのない男だった。
大九朗はいま、家々の隙間に身をちぢこめていた。昼の日差しは軒にさえぎられ、大九朗を影とひとつにしていた。彼の目は里の表通りに注がれている。人が行き交い、子どもたちが花一もんめや蹴鞠をして笑っていた。
里で唯一の花屋の前には、なぜかひとけがほとんどなかった。恐縮した面持ちの店主が女性と話しているくらいだった。その女性は落ち着いた顔ぶり、赤いチェックの上着とスカートが鮮やかだ。風見幽香と呼ばれる妖怪だった。大九朗の目が幽香を認めるや、黒目が引き絞られ、血管の筋がより濃くなった。そしてさっきから懐で温めていた右手を、そっとさらけ出す。
彼の右手には鉄の塊が握られていた。幻想郷ではほとんど見かけない拳銃というものだった。リボルバー式で古臭く手入れが悪い。銃身は鈍い銀色にくもっている。
幽香がアサガオの苗を受け取る。店主とあいさつを交わしたあと、ゆっくり表通りを北へいく。おそらく北門から出ていくのだろう。幽香がいなくなった代わりに、今までそれとなく離れていた女たちが花屋へ近づいていく。
幽香はこのまま北門まで一直線かと思われた。途中、花一もんめをしている女子らのそばを通り過ぎる。そこで女子たちが声をかけた。大九朗にも聞こえるくらいの声だった。
「幽香ねえちゃん。鉢植え買ったの?」
「アサガオの苗が入ってる」
「じゃあアサガオを買ったの」
「そう」
幽香はにこやかに言葉を交わして、小さく手をふりながら女子たちから別れた。やがて大九朗のいる位置から見えなくなってしまう。大九朗は裏道を通って北門へ急いだ。
大九朗が北門についたときには、幽香はもう門をくぐりぬけた後だった。道をちょっと進んでから飛び立つつもりだ。
大九朗は幽香の背中に飛びつかん勢いで道へ踊り出る。そして幽香が振り向くのと同時に拳銃を構えた。
「幽香、俺と戦え!」
幽香は大九朗とその手にある拳銃を見て、困ったように眉をくねらせた。
「えっと、弾幕勝負がしたいってこと? あなたが、私と?」
「そんな遊びじゃない。本物の殺し合いだ。いいか、本物のだぞ」
と、そのとき、大九朗の背中に重たいものがのしかかってきた。彼はあっけなく姿勢を崩してその場にころがる。拳銃が手から離れて地面の上で2、3回まわった。あっと大九朗が思ったときには遅い。青い服の女が拳銃を拾いあげてしまっていた。上白沢慧音だった。
「返せ」
大九朗はすかさず立ち上がって慧音へ突撃した。が、なにか見えない壁にさえぎられて尻もちをつく。慧音は大九朗と幽香を交互に眺めて言い放った。
「里の近くで騒ぎはやめろ」
「この男に言ってよ」
「何があったのか説明してもらうぞ」
「私もういくから」
「待て、幽香」
制止を聞かず幽香の足は地を離れる。あとはもうみるみるうちに北の空へ吸いこまれていく。大九朗は立ち上がって慧音へ迫り寄った。そのときにはもう見えない壁はなかった。かわりに慧音の細い腕が大九朗の胸倉をつかんだ。
「こんなものどこで拾った、無縁塚か。それとも香霖堂で買ったか」
「け、慧音さん。返してくれよ」
「幽香と何があって、こんなことをしているんだ」
慧音の腕が離れていく。大九朗は息を整えながら彼女を見た。話してくれるのを待っている。大九朗は苦々しく眉をよせて口を開きかけたがそうはしなかった。すかさず慧音に飛びついて、彼女が握りしめている拳銃にかじりつく。
慧音が身をよじると、大九朗はそれにつられてよろめく。突如、ズドンと物々しい音が鳴り響いた。大九朗はよろめきながら慧音をみる。慧音のわきばらのあたりが早くも赤黒く染まりはじめていた。彼女の唇が苦しげにゆがんだ。
「す、すみません。そんなつもりじゃ」
大九朗が謝ると、慧音の顔に怒りが燃え広がったかに見えた。火はすぐになりをひそめて、もとの冷静な半妖がそこにいた。わきばらから流れる血を気にもせず、銃をポケットにねじこんでいく。
「これは預かっておく。幽香のことは後で聞こう」
大九朗はためらいながらも、しげしげと家に逃げ帰った。
大九朗の家の投函口に催促状なる紙が挟まっていた。大家からのもので、一年溜めていた家賃をいいかげんで払ってほしい旨が記されている。大九朗は催促状を破いて玄関にばらまき、居間に上がった。
大九朗の家は二階建て家屋だが、彼が二階に上がることはもう何年もないことだった。もっぱら一階の土間と居間だけ使っていた。だが、その居間も人の住める世界ではない。六畳に敷き詰められた畳は色あせ、ささくれ立ち、ふやけている。ふすまと障子はどれも破けて形を成していない。傷だらけのちゃぶ台が物寂しく大九朗の帰りを待っているばかり。
ちゃぶ台の上には紙の箱が置いてあった。表面はすりきれてなんのことだか分からない。開き放しの箱の中には銃弾が数発、ひっそりと佇んでいる。
大九朗は押入れを開いて中からいくつか箱を取り出した。焦るあまり箱をひっくりかえして中身をすべて外に放つ。表に出てきたのはすべて家族の形見だった。彼はその思い出の品々をすばやく吟味して、質に入れられそうなものをよりわけていく。
(もう幽香に戦いを申し出た。いまさら引けるか)
大九朗の心はその思いでいっぱいだった。
(新しい銃を買わなければ)
痛んでいない反物、オルゴール、花札。売れるものが少ない。大九朗は二階へ上がって埃まみれになりながら、さらに吟味をつづけた。
古ダンスから父親の紋付を引っ張り出した。紋付に挟まっていたのか、何か平べったいものが床に落ちた。拾ってみるとアサガオの押し花だった。大九朗の脳裏に父親の顔が浮かび上がる。父親が晴れやかな顔でアサガオを育てていた記憶は、今ではほとんど霧がかっていた。
大九朗はその場にあぐらをかいたまま動かなくなった。しばらく父親の思い出に浸った。が、もういちどアサガオを覗いてみると、幽香の姿が立ち上がってくる。今日の昼、花屋でアサガオの苗を買っていた、笑顔のまぶしい幽香だ。大九朗は押し花をぶんっと投げ捨てた。押し花は力なく宙を舞った。
二
大九朗は路地裏から目を光らせていた。花屋を覗くと今日も幽香がいた。二日続けて訪れるのは珍しいことだ。大九朗は土間から持ち出してきた包丁をぐっと握りしめる。
幽香がまた何かの苗を買って、花屋を離れていく。大九朗もそれに合わせて路地裏をいこうとした。そのとき、幽香を呼び止める声が響く。どこからともなく慧音がやってきて彼女と話しはじめたのだ。
(半妖め、どっか失せやがれ)
大九朗は心の中で毒づいたが、それで何が変わろうか。慧音と幽香の顔色は神妙で、話しぶりはこそこそとしている。しまいには近くの喫茶店へ入っていくふたりの背中よ。大九朗は包丁を投げ捨てて、その場を後にした。
しばらくは慧音への愚痴を小声で漏らした。そして、今なら外を出歩いても見つからないと気づいて、早足で里を後にした。彼が目指したのは香霖堂だった。
香霖堂に入ると、店主の森近霖之助がけだるげにしている。大九朗と目が合ったとたんに苦虫をかみつぶしたような顔。嫌な様子を隠しもしない。
「またあなたか。もう来ないでほしいな」
大九朗は嫌味ごとを聞き入れもせずカウンターまで押し入って、懐から金をつかみだした。
「銃みたいなものはあるか」
「あのさ、上白沢慧音がここにきたよ。あなたのこと話してた」
「もっと強い銃がほしいんだ」
大九朗は物置小屋のように雑多な店内を見渡した。ある一角に目が吸い寄せられる。背の高い壺の中に、釣り竿や木刀やそんなものばかりが突き立てられていた。そのひとつが特に彼の目を奪った。
近づいて引っ張り出してみると、間違いない。ライフルだった。埃をかぶっているし、持ち手はひどい擦り傷だ。使えるかどうか定かではないが、とにかく大九朗は強く惹かれた。埃を払いながらカウンターへ突き出した。
「これの弾はあるか」
「そんなものあったっけ。まあいいや。いちおう探してあげるよ。期待しないで」
霖之助はライフルを手にして考えこむ素振りを見せたあと、奥にひっこんでいった。間もなくして現れた彼の手には、たった3つの銃弾が握られていた。
「たぶんこれじゃないかな」
「使い方も教えろ。わかるんだろ」
霖之助の手が頼りなげに動き出す。ライフルの横に開いた溝へむかい、銃弾を射しこんでみせた。そして引き金を絞るふりをして、それで終わり。大九朗は懐にあった全財産と引き換えに、ライフルと3つの銃弾を手に入れた。店からの帰り際、霖之助の声が飛んでくる。
「うちにはもう銃も弾もないよ。銃がほしいなら別の場所にいってくれ」
大九朗は里に戻る道中、林にもぐってライフルを構えた。すでに霖之助が試しで装填してくれている。大九朗は適当な木に狙いをつけて引き金を引いた。銃声と共にいずこから鳥が飛び立ち、狙いをつけていたのとは別の木がぱんと弾ける。そしてだらしのない構えをしていたものだから、その場でひっくりかえってしまった。立ち上がろうとすると右肩が殴られたように痛かった。
大九朗は懐に手を入れる。残り二つの銃弾を指でたしかめた。
(撃てるのはありがたいが、二発じゃ物足りない。拳銃を取り返したい)
里に入る大九朗。通りすがった男がライフルを見て不審げに眉をよせた。大九朗は男を睨みつけながら路地裏へ逃げた。家にもどるとライフルの手入れで時間を潰した。夜になってから、大九朗は何も持たずに外へ駆る。
表通りには妖怪の姿がちらほらと見える。大九朗は幽香がいやしないかと少し期待したが、彼女の気配は露ほども感じられなかった。妖怪や里の見回りたちに悟られぬよう慧音の屋敷にむかった。
大九朗は屋敷の裏の垣根を乗り越える。裏口をたしかめると鍵が閉まっている。だが風呂場の窓が開けっぱなしだ。残り湯のぬくもりがただよっているが、なに、見つかりはしない。体を折りたたんで、決して大きくない窓からどうにか中へと入っていった。
風呂場を出て廊下を渡る。途中、慧音の書斎を横切ることになり大九朗は神経をとがらせた。もし慧音がいるとすれば書斎に違いないと思ったからだ。が、彼の思惑に反して、書斎はもぬけの殻だった。
壁一面ところ狭しと本棚が立ち並び、本と巻物があべこびに入り乱れている。唯一の机の上にも本と巻物、そして書生用と思しき紙がちらばっていた。
大九朗は迷いのない手つきで机の引き出しを開けていく。下から上へむかって、流れるように。いちばん上の棚を開いたとき、棚の奥から銀の塊が滑り現れた。大九朗の拳銃に間違いない。弾はすべて抜き取られていた。大九朗はすぐに拳銃をとって振り返る。
書斎の入り口に女が立っていた。
「お前、きのうの、大九朗というそうだな」
女は部屋着だった。大九朗は一瞬まよったが、声の様子で慧音だと分かった。
「大九朗、猟銃みたいなのを持ち歩いてたそうだな。また幽香に挑むつもりか。死にたいのか」
慧音が部屋に入ってくる。歩き方がぎこちないのは、まだ撃たれたわきばらが痛むからだろうか。大九朗は彼女といっぱいに距離をとるため、本棚に背中をこすりつけた。
「幽香が言うには、お前とは面識がないとか。なんで幽香をつけ狙う。何があったのか相談できないのか」
「なんでって、そりゃ慧音さん、あんた知ってるはずですよ」
慧音が目を細める。その顔を見せつけられたとき、大九朗の胸にカッと燃えるものがあった。
「覚えてないんですか。慧音さん、だって、あんたいたじゃないですか」
「いたってなんのこと」
「なんのことだと!」
「大きな声を出すな」
慧音が部屋の中央までやってきた。大九朗はうさぎみたいに床を蹴って、廊下へ逃げ出す。慧音がめざとく振り返ってきて再び目が合う。
「やるなら里の近くはやめろ。あと、里から出るときは誰にも見られるな。銃なんて振り回してたら、みんながおびえるんだ」
大九朗は慧音を見つめたまま廊下を後ずさった。慧音が追いかけてこないと分かるや、急ぎ足で玄関を探し出して外へ飛び出した。慧音の忠告が耳に残って離れなかった。
三
家にもどった大九朗はまず着替えをした。父親の紋付と袴を身に着け、手ぬぐいを額に巻き付ける。ライフルはあらかじめ二発の銃弾をこめて肩に担いだ。拳銃も、残していた弾をこめて帯に差した。くたびれた家の中に不揃いななりの武士ができあがっていた。
さらにもう少し待った。夜中も夜中、丑三つ時さえ過ぎたころになって彼は動き出す。この時間ならもう誰にも見られやしない。あとはひたすら走るのみ。目指す先は、幽香のいる花畑だ。
彼は夜通し走った。森や林からは彼を呼び誘う妖怪の声が聞こえていたが、ことごとく無視して走った。ときには何かが横を並走しているような気振りもあった。夜の空気に冷や汗がしたったが、ぬぐう間もなく走った。
やがて空が白みはじめる。林が遠のき、大九朗の視界いっぱいに花畑が広がる。花畑は種々さまざまな花が所せましと並ぶ。どの花も季節外れで大九朗の腰より低い花は見当たらなかった。朝霧を散らす陽光を浴びて、目を焼くくらいに清い光景だった。
それまで全力で走っていた大九朗は、花畑の手前で立ち止まってみじろぎをする。心にうずまく邪な気持ちが、ほんの少しだけひっこんだかに見えた。
いや、だが、と大九朗は恐る恐るに花畑へ足を踏み入れる。しばらくはまっすぐ歩いたが道がない。そして花ばかりの景色が目を惑わす。気が付けばどの方角へ歩いているのか分からなくなっていた。
花畑の奥から声が聞こえてきた。大九朗はさっと拳銃を握りしめ、おそるおそる花をかきわける。3人の妖精と目があった。ふたりは大九朗を目にしたとたんに飛んでいったが、ひとりはころんだ。大九朗は逃げ損ねた妖精を捕まえて、小さな体へ覆いかぶさるように凄んだ。
「風見幽香はどこにいる」
妖精は目を見開き、やがて瞳をうるませはじめた。大九朗は苛立ちながら繰り返し尋ねた。
「風見幽香はこの花畑にいるんだろ」
妖精はまだべそをかいていた。うるみきった瞳が動いて、花畑のさらなる奥にむけられた。大九朗もつられてそのほうを見やる。道はなく何かがいる気配もない。と、大九朗が疑っているうちに、妖精が腕からすり抜けて逃げ出してしまった。
大九朗は妖精を見送ったあと、また例の方向に体を向けた。風が吹いて花畑が揺れ動く。視界が一瞬ひらけたかと思うと、はるか遠くに人影がちらついた。白い日傘に、赤いチェックの上着だった。
大九朗は息をとめてその場に凍りつく。風がおさまって幽香が見えなくなったあとも立ち尽くした。やがて思い出したように拳銃を直し、ライフルを両手に持つ。
歩いて花をかきわけると、さっきより開けた場所に出た。幽香の立ち姿もよりはっきり見えるようになる。花と花の隙間に、花と同じようにおごそかに立っているのだ。ときどきかがみこむが、その場から動くことはなかった。何かしているのかもしれないが、怒りに震える男にはどうでもよいことだ。
大九朗は直立でライフルを構えた。緊張で射線がぶれる。照星が幽香の鼻頭を滑り降りたり、肩をなでたりした。だが、いずれは大九朗も落ち着いてくる。ついに照星が幽香の耳のあたりを横切りかける。
引き金を引くと銃身が軽やかに跳ねて煙が舞う。幽香がはじけるように倒れて、白い日傘が飛び上がる。大九朗はまたしても肩の痛みに顔をしかめたが、今度は尻もちをつかなかった。
大九朗はしばらく狙撃の余韻に口をあけていた。死体を確かめたく思って歩き出した刹那、幽香が立ち上がったではないか。両耳のあたりから赤いものを流しながら、鋭い目を向けてくる。大九朗は慌てて排莢し、さらに引き金を引いた。弾は出ず銃身が弾け飛ぶ。鉄の破片が大九朗の胸元に突き刺さった。
「あがっ」
のけぞって倒れこむと、地面が盛り上がりはじめた。土を破って植物のツルが這いずれば、大九朗の手足に絡みつこうとしてくる。彼が手足を振り乱すと千切れはするものの、次から次へと新しいものが生え出てくる。
どうにか立ちあがろうとした大九朗。だが肩を掴まれて足を踏み外す。見上げると、すでに幽香がそばにいた。顔はほとんど血まみれで、その中で瞳だけがことさら真っ白く飛び出して見えた。
妖怪と呼ぶにはなまぬるい鬼面に、大九朗は手足を震わせる。
「あなた、前に決闘を挑んできた男でしょ。そんなに私を殺したいの」
大九朗の息はすっかり荒くなっていた。ぜえぜえ吸って吐いて、それで精一杯。
「本当の決闘をしてあげましょうか。それで満足するんでしょ」
幽香がふらりとあたりを見回したときでさえ、大九朗は身じろぎさえできなかった。いまここで拳銃を抜いたら撃ち殺せるかもしれない。そんな強気な思いは、彼の心にひとかけらも思い浮かばない。
「そこで見ているあなた。出てきなさい」
幽香が花畑へ呼びかける。妖精がおずおずと現れ出た。さっき大九朗が捕まえておどした妖精だ。幽香はポケットから鈴と鉛筆を取り出して、妖精に手渡した。
「ここに立って、あなたの好きなタイミングで鈴を叩き鳴らしなさい。やることはそれだけ。終わったら帰っていい」
幽香は妖精の頬をやさしく撫でまわしたあと、大九朗の前に戻ってきた。
「ご大層な銃を持ってるんだから早撃ちくらい知ってるでしょ。里で西部劇のフィルム上映会がたまにやってる、見たことある? あんな感じ」
「せ、西部劇……はや……早撃ちを、するのか……」
「私より早く撃てばあなたは助かる。それに私を殺せるかもしれない。これなら納得いくでしょ」
リーン、と。鈴の音が会話に割りこんできた。
大九朗はあっけにとられて妖精を見る。妖精は左手に鈴を、右手に鉛筆をもち、ひきつってはいるが精一杯の笑顔を浮かべていた。
「え、へへ、これでいいよね」
幽香が妖精に歩み寄っていく。目にもとまらぬ速さで腕が振るわれると、妖精の片耳がちぎれて花畑にまぎれた。妖精の呆けた顔は一瞬、たちまち涙をあふれさせた。
「あっ……い、いた、い……」
「言葉が足りなくてごめんね。鳴らすのは、私たちが位置についてから」
幽香の目が大九朗へ注がれる。目じりがいびつに歪んで苛立ちを隠せない様子だった。
「立ちなさい。はじめるわよ」
しなやかな足取りで距離をとりはじめる幽香。大九朗は震える足に鞭うって立ち上がる。妖精は耳元から血をたらして、顔を紙くずのようにくしゃくしゃにしていた。
幽香が立ち止まって振り返る。遠くもなく近くもない。試し撃ちしかしたことのない大九朗でも当てられる距離だ。
大九朗はちらりと視線をおろした。利き手に拳を作ったり解いたりする。ライフルの破裂した破片が腕に刺さっていたら、どうなっていたか。帯にひっかけている拳銃もたしかめる。位置はちょうどいい。
だがそれらを確認すると、なぜか余計に息が荒くなってしまった。緊張がどんどん張りつめて、心臓が別の生き物みたいに暴れた。頬の肉はするどく強張り、眼球は張り裂けそうなほど丸く膨れ上がった。その凄まじい顔は幽香に劣らぬほど妖怪じみていた。
朝の風は涼しいが、大九朗の体から汗は止まらない。額からこぼれてきた汗粒がまぶたをこえて瞳に刺さる。大九朗は目を閉じた。つぎに開いたとき、視界がかすかに白みはじめていた。風音も妖精の震える声も遠くなっていく。今の大九朗にはさんざめく花畑も、穏やかな空も、そうしたものすべてが敵に思えてくるのだ。この世に味方は我が身ひとつ。しかしその身さえ、時がたつにつれて自由が効かなくなっていく。やがて意識すら曖昧に溶けはじめてきた。大九朗は再び目をとじた。
頭に浮かぶのは幽香のこと。
父親のこと。
暗い夜のことだった。大九朗はまだひげも生えていなかった。父親が恋しくて夜の里を出歩いていた。表通りのどこかが騒がしく、歩みはそこに釣られた。人が6、7人集まっていた。
人の群れが割れると道端に倒れているものが露わになる。父親だった。首があらぬ方向に曲がっていた。大九朗はただ無言で走り寄り、人を押し飛ばして父親にすがりついた。
父親は、お気に入りのアサガオ模様の浴衣を身にまとっていた。体はとても酒臭かった記憶がある。手元には何か包みが落ちていたが、中身がなんだったのかは知る由もない。
「きみ、なんでここにいるんだ!」
大九朗の小さな体が宙に浮いたかと思うと、目の前に人の顔が現れた。大九朗のほうは、なぜ寺子屋にいるはずの慧音先生がここにいるのかと思った。慧音の顔はすぐに遠のき、見知らぬ女の顔が視界を埋める。さあ、大九朗くん、おうちに帰りましょうねなどと言うのだ。大九朗は体をひねって父親を見た。そして慧音先生が誰かと揉めている姿が目にとまった。
「もういちど聞くが、本当に面識がないのか」
「通りがかっただけ」
「通りがかっただけで人を殺すのか、幽香」
「抱きついてきたんだからね。離れろって言ったのに」
「たしかに酔っていたみたいだが。誰か抱きついたところを見た人は」
大九朗はふたりの交わす話がよくわからなかった。ただもういちど父親の死体を見守った。何回か父親の名前を叫んだ。現場にいた人々がこちらに振り向いてくる。慧音先生も、幽香という名前の人も。
幽香と目があった。赤い目を見ていると大九朗の胸にもやもやしたものが詰まってくる。やがてもやもやしたものが堅く確かな形をとりはじめた。誰に教えられるでもなく、彼女が父親をあんなふうにしたのだと理解した。
大九朗を抱きかかえる女はどんどん現場から離れてしまった。父親はふたたび人に紛れて見えなくなった。いつの夜のことだったかもう忘れてしまった。だがあの日から、大九朗の心はぐつぐつと煮え立っていた。もう何年経ったかも分からない。ひたすら幽香を殺すことだけ夢に描いていた。それがいま叶おうとしている。
そのとき、リーン、と音がした。
大九朗は現実に引き寄せられる。腰のあたりにさまよわせていた右手が払われる。
火薬のはじける音と弾幕の飛ぶきれいな音がほぼ同時にうなり、聞こえなくなった。
幽香は右手をまっすぐに突き出して静止していた。
大九朗は拳銃を突き出して静止していた。胸のあたりに頭くらいの穴がぽっかりと空いている。袴が早くも黒く塗りつぶされていく。妖精が声にならない悲鳴を漏らしたかと思うと、鈴と鉛筆を捨てて飛び去っていってしまった。大九朗は妖精のぽってりした足を目で追いかけたあと、仰向けに倒れた。
幽香が落ち着き払った態度で大九朗のもとにくる。大九朗は息も絶え絶えに幽香を見上げる。視界はほとんど白く染まって、彼女の顔が青空とまじりあっていた。
花畑が揺れて慧音が現れて出てきた。だが幽香は顔をあげない。彼女の手にはいつの間にか一輪の花がつままれている。よくみるとアサガオの花だ。その花はそっと大九朗に手渡される。大九朗は両手をよろめかせてアサガオを握りしめる。アサガオは拳のなかでねじれつぶれた。そのふやけた感触とともに、父親の顔が頭いっぱいに広がっていく。体はそれっきり動かなくなった。
幽香がようやく立ち上がって慧音をみる。
「そっちで埋葬しなさい。化けて出てこられると邪魔だから」
「幽香、思い出したんだ。この大九朗は」
「迷惑かけてごめんなさいね」
幽香はそれだけ言うと花畑の奥へ消えていった。
慧音はしばらくその場に留まった。やがて無言で大九朗を担いで歩き出した。
誰もいなくなったその場に肌寒い風が吹きつける。どこかで妖精の無邪気な笑い声が聞こえてくる。心地のよい朝だった。
里に大九朗という男がいた。無精ひげを生やして着物は継ぎはぎだらけ、だらしのない男だった。
大九朗はいま、家々の隙間に身をちぢこめていた。昼の日差しは軒にさえぎられ、大九朗を影とひとつにしていた。彼の目は里の表通りに注がれている。人が行き交い、子どもたちが花一もんめや蹴鞠をして笑っていた。
里で唯一の花屋の前には、なぜかひとけがほとんどなかった。恐縮した面持ちの店主が女性と話しているくらいだった。その女性は落ち着いた顔ぶり、赤いチェックの上着とスカートが鮮やかだ。風見幽香と呼ばれる妖怪だった。大九朗の目が幽香を認めるや、黒目が引き絞られ、血管の筋がより濃くなった。そしてさっきから懐で温めていた右手を、そっとさらけ出す。
彼の右手には鉄の塊が握られていた。幻想郷ではほとんど見かけない拳銃というものだった。リボルバー式で古臭く手入れが悪い。銃身は鈍い銀色にくもっている。
幽香がアサガオの苗を受け取る。店主とあいさつを交わしたあと、ゆっくり表通りを北へいく。おそらく北門から出ていくのだろう。幽香がいなくなった代わりに、今までそれとなく離れていた女たちが花屋へ近づいていく。
幽香はこのまま北門まで一直線かと思われた。途中、花一もんめをしている女子らのそばを通り過ぎる。そこで女子たちが声をかけた。大九朗にも聞こえるくらいの声だった。
「幽香ねえちゃん。鉢植え買ったの?」
「アサガオの苗が入ってる」
「じゃあアサガオを買ったの」
「そう」
幽香はにこやかに言葉を交わして、小さく手をふりながら女子たちから別れた。やがて大九朗のいる位置から見えなくなってしまう。大九朗は裏道を通って北門へ急いだ。
大九朗が北門についたときには、幽香はもう門をくぐりぬけた後だった。道をちょっと進んでから飛び立つつもりだ。
大九朗は幽香の背中に飛びつかん勢いで道へ踊り出る。そして幽香が振り向くのと同時に拳銃を構えた。
「幽香、俺と戦え!」
幽香は大九朗とその手にある拳銃を見て、困ったように眉をくねらせた。
「えっと、弾幕勝負がしたいってこと? あなたが、私と?」
「そんな遊びじゃない。本物の殺し合いだ。いいか、本物のだぞ」
と、そのとき、大九朗の背中に重たいものがのしかかってきた。彼はあっけなく姿勢を崩してその場にころがる。拳銃が手から離れて地面の上で2、3回まわった。あっと大九朗が思ったときには遅い。青い服の女が拳銃を拾いあげてしまっていた。上白沢慧音だった。
「返せ」
大九朗はすかさず立ち上がって慧音へ突撃した。が、なにか見えない壁にさえぎられて尻もちをつく。慧音は大九朗と幽香を交互に眺めて言い放った。
「里の近くで騒ぎはやめろ」
「この男に言ってよ」
「何があったのか説明してもらうぞ」
「私もういくから」
「待て、幽香」
制止を聞かず幽香の足は地を離れる。あとはもうみるみるうちに北の空へ吸いこまれていく。大九朗は立ち上がって慧音へ迫り寄った。そのときにはもう見えない壁はなかった。かわりに慧音の細い腕が大九朗の胸倉をつかんだ。
「こんなものどこで拾った、無縁塚か。それとも香霖堂で買ったか」
「け、慧音さん。返してくれよ」
「幽香と何があって、こんなことをしているんだ」
慧音の腕が離れていく。大九朗は息を整えながら彼女を見た。話してくれるのを待っている。大九朗は苦々しく眉をよせて口を開きかけたがそうはしなかった。すかさず慧音に飛びついて、彼女が握りしめている拳銃にかじりつく。
慧音が身をよじると、大九朗はそれにつられてよろめく。突如、ズドンと物々しい音が鳴り響いた。大九朗はよろめきながら慧音をみる。慧音のわきばらのあたりが早くも赤黒く染まりはじめていた。彼女の唇が苦しげにゆがんだ。
「す、すみません。そんなつもりじゃ」
大九朗が謝ると、慧音の顔に怒りが燃え広がったかに見えた。火はすぐになりをひそめて、もとの冷静な半妖がそこにいた。わきばらから流れる血を気にもせず、銃をポケットにねじこんでいく。
「これは預かっておく。幽香のことは後で聞こう」
大九朗はためらいながらも、しげしげと家に逃げ帰った。
大九朗の家の投函口に催促状なる紙が挟まっていた。大家からのもので、一年溜めていた家賃をいいかげんで払ってほしい旨が記されている。大九朗は催促状を破いて玄関にばらまき、居間に上がった。
大九朗の家は二階建て家屋だが、彼が二階に上がることはもう何年もないことだった。もっぱら一階の土間と居間だけ使っていた。だが、その居間も人の住める世界ではない。六畳に敷き詰められた畳は色あせ、ささくれ立ち、ふやけている。ふすまと障子はどれも破けて形を成していない。傷だらけのちゃぶ台が物寂しく大九朗の帰りを待っているばかり。
ちゃぶ台の上には紙の箱が置いてあった。表面はすりきれてなんのことだか分からない。開き放しの箱の中には銃弾が数発、ひっそりと佇んでいる。
大九朗は押入れを開いて中からいくつか箱を取り出した。焦るあまり箱をひっくりかえして中身をすべて外に放つ。表に出てきたのはすべて家族の形見だった。彼はその思い出の品々をすばやく吟味して、質に入れられそうなものをよりわけていく。
(もう幽香に戦いを申し出た。いまさら引けるか)
大九朗の心はその思いでいっぱいだった。
(新しい銃を買わなければ)
痛んでいない反物、オルゴール、花札。売れるものが少ない。大九朗は二階へ上がって埃まみれになりながら、さらに吟味をつづけた。
古ダンスから父親の紋付を引っ張り出した。紋付に挟まっていたのか、何か平べったいものが床に落ちた。拾ってみるとアサガオの押し花だった。大九朗の脳裏に父親の顔が浮かび上がる。父親が晴れやかな顔でアサガオを育てていた記憶は、今ではほとんど霧がかっていた。
大九朗はその場にあぐらをかいたまま動かなくなった。しばらく父親の思い出に浸った。が、もういちどアサガオを覗いてみると、幽香の姿が立ち上がってくる。今日の昼、花屋でアサガオの苗を買っていた、笑顔のまぶしい幽香だ。大九朗は押し花をぶんっと投げ捨てた。押し花は力なく宙を舞った。
二
大九朗は路地裏から目を光らせていた。花屋を覗くと今日も幽香がいた。二日続けて訪れるのは珍しいことだ。大九朗は土間から持ち出してきた包丁をぐっと握りしめる。
幽香がまた何かの苗を買って、花屋を離れていく。大九朗もそれに合わせて路地裏をいこうとした。そのとき、幽香を呼び止める声が響く。どこからともなく慧音がやってきて彼女と話しはじめたのだ。
(半妖め、どっか失せやがれ)
大九朗は心の中で毒づいたが、それで何が変わろうか。慧音と幽香の顔色は神妙で、話しぶりはこそこそとしている。しまいには近くの喫茶店へ入っていくふたりの背中よ。大九朗は包丁を投げ捨てて、その場を後にした。
しばらくは慧音への愚痴を小声で漏らした。そして、今なら外を出歩いても見つからないと気づいて、早足で里を後にした。彼が目指したのは香霖堂だった。
香霖堂に入ると、店主の森近霖之助がけだるげにしている。大九朗と目が合ったとたんに苦虫をかみつぶしたような顔。嫌な様子を隠しもしない。
「またあなたか。もう来ないでほしいな」
大九朗は嫌味ごとを聞き入れもせずカウンターまで押し入って、懐から金をつかみだした。
「銃みたいなものはあるか」
「あのさ、上白沢慧音がここにきたよ。あなたのこと話してた」
「もっと強い銃がほしいんだ」
大九朗は物置小屋のように雑多な店内を見渡した。ある一角に目が吸い寄せられる。背の高い壺の中に、釣り竿や木刀やそんなものばかりが突き立てられていた。そのひとつが特に彼の目を奪った。
近づいて引っ張り出してみると、間違いない。ライフルだった。埃をかぶっているし、持ち手はひどい擦り傷だ。使えるかどうか定かではないが、とにかく大九朗は強く惹かれた。埃を払いながらカウンターへ突き出した。
「これの弾はあるか」
「そんなものあったっけ。まあいいや。いちおう探してあげるよ。期待しないで」
霖之助はライフルを手にして考えこむ素振りを見せたあと、奥にひっこんでいった。間もなくして現れた彼の手には、たった3つの銃弾が握られていた。
「たぶんこれじゃないかな」
「使い方も教えろ。わかるんだろ」
霖之助の手が頼りなげに動き出す。ライフルの横に開いた溝へむかい、銃弾を射しこんでみせた。そして引き金を絞るふりをして、それで終わり。大九朗は懐にあった全財産と引き換えに、ライフルと3つの銃弾を手に入れた。店からの帰り際、霖之助の声が飛んでくる。
「うちにはもう銃も弾もないよ。銃がほしいなら別の場所にいってくれ」
大九朗は里に戻る道中、林にもぐってライフルを構えた。すでに霖之助が試しで装填してくれている。大九朗は適当な木に狙いをつけて引き金を引いた。銃声と共にいずこから鳥が飛び立ち、狙いをつけていたのとは別の木がぱんと弾ける。そしてだらしのない構えをしていたものだから、その場でひっくりかえってしまった。立ち上がろうとすると右肩が殴られたように痛かった。
大九朗は懐に手を入れる。残り二つの銃弾を指でたしかめた。
(撃てるのはありがたいが、二発じゃ物足りない。拳銃を取り返したい)
里に入る大九朗。通りすがった男がライフルを見て不審げに眉をよせた。大九朗は男を睨みつけながら路地裏へ逃げた。家にもどるとライフルの手入れで時間を潰した。夜になってから、大九朗は何も持たずに外へ駆る。
表通りには妖怪の姿がちらほらと見える。大九朗は幽香がいやしないかと少し期待したが、彼女の気配は露ほども感じられなかった。妖怪や里の見回りたちに悟られぬよう慧音の屋敷にむかった。
大九朗は屋敷の裏の垣根を乗り越える。裏口をたしかめると鍵が閉まっている。だが風呂場の窓が開けっぱなしだ。残り湯のぬくもりがただよっているが、なに、見つかりはしない。体を折りたたんで、決して大きくない窓からどうにか中へと入っていった。
風呂場を出て廊下を渡る。途中、慧音の書斎を横切ることになり大九朗は神経をとがらせた。もし慧音がいるとすれば書斎に違いないと思ったからだ。が、彼の思惑に反して、書斎はもぬけの殻だった。
壁一面ところ狭しと本棚が立ち並び、本と巻物があべこびに入り乱れている。唯一の机の上にも本と巻物、そして書生用と思しき紙がちらばっていた。
大九朗は迷いのない手つきで机の引き出しを開けていく。下から上へむかって、流れるように。いちばん上の棚を開いたとき、棚の奥から銀の塊が滑り現れた。大九朗の拳銃に間違いない。弾はすべて抜き取られていた。大九朗はすぐに拳銃をとって振り返る。
書斎の入り口に女が立っていた。
「お前、きのうの、大九朗というそうだな」
女は部屋着だった。大九朗は一瞬まよったが、声の様子で慧音だと分かった。
「大九朗、猟銃みたいなのを持ち歩いてたそうだな。また幽香に挑むつもりか。死にたいのか」
慧音が部屋に入ってくる。歩き方がぎこちないのは、まだ撃たれたわきばらが痛むからだろうか。大九朗は彼女といっぱいに距離をとるため、本棚に背中をこすりつけた。
「幽香が言うには、お前とは面識がないとか。なんで幽香をつけ狙う。何があったのか相談できないのか」
「なんでって、そりゃ慧音さん、あんた知ってるはずですよ」
慧音が目を細める。その顔を見せつけられたとき、大九朗の胸にカッと燃えるものがあった。
「覚えてないんですか。慧音さん、だって、あんたいたじゃないですか」
「いたってなんのこと」
「なんのことだと!」
「大きな声を出すな」
慧音が部屋の中央までやってきた。大九朗はうさぎみたいに床を蹴って、廊下へ逃げ出す。慧音がめざとく振り返ってきて再び目が合う。
「やるなら里の近くはやめろ。あと、里から出るときは誰にも見られるな。銃なんて振り回してたら、みんながおびえるんだ」
大九朗は慧音を見つめたまま廊下を後ずさった。慧音が追いかけてこないと分かるや、急ぎ足で玄関を探し出して外へ飛び出した。慧音の忠告が耳に残って離れなかった。
三
家にもどった大九朗はまず着替えをした。父親の紋付と袴を身に着け、手ぬぐいを額に巻き付ける。ライフルはあらかじめ二発の銃弾をこめて肩に担いだ。拳銃も、残していた弾をこめて帯に差した。くたびれた家の中に不揃いななりの武士ができあがっていた。
さらにもう少し待った。夜中も夜中、丑三つ時さえ過ぎたころになって彼は動き出す。この時間ならもう誰にも見られやしない。あとはひたすら走るのみ。目指す先は、幽香のいる花畑だ。
彼は夜通し走った。森や林からは彼を呼び誘う妖怪の声が聞こえていたが、ことごとく無視して走った。ときには何かが横を並走しているような気振りもあった。夜の空気に冷や汗がしたったが、ぬぐう間もなく走った。
やがて空が白みはじめる。林が遠のき、大九朗の視界いっぱいに花畑が広がる。花畑は種々さまざまな花が所せましと並ぶ。どの花も季節外れで大九朗の腰より低い花は見当たらなかった。朝霧を散らす陽光を浴びて、目を焼くくらいに清い光景だった。
それまで全力で走っていた大九朗は、花畑の手前で立ち止まってみじろぎをする。心にうずまく邪な気持ちが、ほんの少しだけひっこんだかに見えた。
いや、だが、と大九朗は恐る恐るに花畑へ足を踏み入れる。しばらくはまっすぐ歩いたが道がない。そして花ばかりの景色が目を惑わす。気が付けばどの方角へ歩いているのか分からなくなっていた。
花畑の奥から声が聞こえてきた。大九朗はさっと拳銃を握りしめ、おそるおそる花をかきわける。3人の妖精と目があった。ふたりは大九朗を目にしたとたんに飛んでいったが、ひとりはころんだ。大九朗は逃げ損ねた妖精を捕まえて、小さな体へ覆いかぶさるように凄んだ。
「風見幽香はどこにいる」
妖精は目を見開き、やがて瞳をうるませはじめた。大九朗は苛立ちながら繰り返し尋ねた。
「風見幽香はこの花畑にいるんだろ」
妖精はまだべそをかいていた。うるみきった瞳が動いて、花畑のさらなる奥にむけられた。大九朗もつられてそのほうを見やる。道はなく何かがいる気配もない。と、大九朗が疑っているうちに、妖精が腕からすり抜けて逃げ出してしまった。
大九朗は妖精を見送ったあと、また例の方向に体を向けた。風が吹いて花畑が揺れ動く。視界が一瞬ひらけたかと思うと、はるか遠くに人影がちらついた。白い日傘に、赤いチェックの上着だった。
大九朗は息をとめてその場に凍りつく。風がおさまって幽香が見えなくなったあとも立ち尽くした。やがて思い出したように拳銃を直し、ライフルを両手に持つ。
歩いて花をかきわけると、さっきより開けた場所に出た。幽香の立ち姿もよりはっきり見えるようになる。花と花の隙間に、花と同じようにおごそかに立っているのだ。ときどきかがみこむが、その場から動くことはなかった。何かしているのかもしれないが、怒りに震える男にはどうでもよいことだ。
大九朗は直立でライフルを構えた。緊張で射線がぶれる。照星が幽香の鼻頭を滑り降りたり、肩をなでたりした。だが、いずれは大九朗も落ち着いてくる。ついに照星が幽香の耳のあたりを横切りかける。
引き金を引くと銃身が軽やかに跳ねて煙が舞う。幽香がはじけるように倒れて、白い日傘が飛び上がる。大九朗はまたしても肩の痛みに顔をしかめたが、今度は尻もちをつかなかった。
大九朗はしばらく狙撃の余韻に口をあけていた。死体を確かめたく思って歩き出した刹那、幽香が立ち上がったではないか。両耳のあたりから赤いものを流しながら、鋭い目を向けてくる。大九朗は慌てて排莢し、さらに引き金を引いた。弾は出ず銃身が弾け飛ぶ。鉄の破片が大九朗の胸元に突き刺さった。
「あがっ」
のけぞって倒れこむと、地面が盛り上がりはじめた。土を破って植物のツルが這いずれば、大九朗の手足に絡みつこうとしてくる。彼が手足を振り乱すと千切れはするものの、次から次へと新しいものが生え出てくる。
どうにか立ちあがろうとした大九朗。だが肩を掴まれて足を踏み外す。見上げると、すでに幽香がそばにいた。顔はほとんど血まみれで、その中で瞳だけがことさら真っ白く飛び出して見えた。
妖怪と呼ぶにはなまぬるい鬼面に、大九朗は手足を震わせる。
「あなた、前に決闘を挑んできた男でしょ。そんなに私を殺したいの」
大九朗の息はすっかり荒くなっていた。ぜえぜえ吸って吐いて、それで精一杯。
「本当の決闘をしてあげましょうか。それで満足するんでしょ」
幽香がふらりとあたりを見回したときでさえ、大九朗は身じろぎさえできなかった。いまここで拳銃を抜いたら撃ち殺せるかもしれない。そんな強気な思いは、彼の心にひとかけらも思い浮かばない。
「そこで見ているあなた。出てきなさい」
幽香が花畑へ呼びかける。妖精がおずおずと現れ出た。さっき大九朗が捕まえておどした妖精だ。幽香はポケットから鈴と鉛筆を取り出して、妖精に手渡した。
「ここに立って、あなたの好きなタイミングで鈴を叩き鳴らしなさい。やることはそれだけ。終わったら帰っていい」
幽香は妖精の頬をやさしく撫でまわしたあと、大九朗の前に戻ってきた。
「ご大層な銃を持ってるんだから早撃ちくらい知ってるでしょ。里で西部劇のフィルム上映会がたまにやってる、見たことある? あんな感じ」
「せ、西部劇……はや……早撃ちを、するのか……」
「私より早く撃てばあなたは助かる。それに私を殺せるかもしれない。これなら納得いくでしょ」
リーン、と。鈴の音が会話に割りこんできた。
大九朗はあっけにとられて妖精を見る。妖精は左手に鈴を、右手に鉛筆をもち、ひきつってはいるが精一杯の笑顔を浮かべていた。
「え、へへ、これでいいよね」
幽香が妖精に歩み寄っていく。目にもとまらぬ速さで腕が振るわれると、妖精の片耳がちぎれて花畑にまぎれた。妖精の呆けた顔は一瞬、たちまち涙をあふれさせた。
「あっ……い、いた、い……」
「言葉が足りなくてごめんね。鳴らすのは、私たちが位置についてから」
幽香の目が大九朗へ注がれる。目じりがいびつに歪んで苛立ちを隠せない様子だった。
「立ちなさい。はじめるわよ」
しなやかな足取りで距離をとりはじめる幽香。大九朗は震える足に鞭うって立ち上がる。妖精は耳元から血をたらして、顔を紙くずのようにくしゃくしゃにしていた。
幽香が立ち止まって振り返る。遠くもなく近くもない。試し撃ちしかしたことのない大九朗でも当てられる距離だ。
大九朗はちらりと視線をおろした。利き手に拳を作ったり解いたりする。ライフルの破裂した破片が腕に刺さっていたら、どうなっていたか。帯にひっかけている拳銃もたしかめる。位置はちょうどいい。
だがそれらを確認すると、なぜか余計に息が荒くなってしまった。緊張がどんどん張りつめて、心臓が別の生き物みたいに暴れた。頬の肉はするどく強張り、眼球は張り裂けそうなほど丸く膨れ上がった。その凄まじい顔は幽香に劣らぬほど妖怪じみていた。
朝の風は涼しいが、大九朗の体から汗は止まらない。額からこぼれてきた汗粒がまぶたをこえて瞳に刺さる。大九朗は目を閉じた。つぎに開いたとき、視界がかすかに白みはじめていた。風音も妖精の震える声も遠くなっていく。今の大九朗にはさんざめく花畑も、穏やかな空も、そうしたものすべてが敵に思えてくるのだ。この世に味方は我が身ひとつ。しかしその身さえ、時がたつにつれて自由が効かなくなっていく。やがて意識すら曖昧に溶けはじめてきた。大九朗は再び目をとじた。
頭に浮かぶのは幽香のこと。
父親のこと。
暗い夜のことだった。大九朗はまだひげも生えていなかった。父親が恋しくて夜の里を出歩いていた。表通りのどこかが騒がしく、歩みはそこに釣られた。人が6、7人集まっていた。
人の群れが割れると道端に倒れているものが露わになる。父親だった。首があらぬ方向に曲がっていた。大九朗はただ無言で走り寄り、人を押し飛ばして父親にすがりついた。
父親は、お気に入りのアサガオ模様の浴衣を身にまとっていた。体はとても酒臭かった記憶がある。手元には何か包みが落ちていたが、中身がなんだったのかは知る由もない。
「きみ、なんでここにいるんだ!」
大九朗の小さな体が宙に浮いたかと思うと、目の前に人の顔が現れた。大九朗のほうは、なぜ寺子屋にいるはずの慧音先生がここにいるのかと思った。慧音の顔はすぐに遠のき、見知らぬ女の顔が視界を埋める。さあ、大九朗くん、おうちに帰りましょうねなどと言うのだ。大九朗は体をひねって父親を見た。そして慧音先生が誰かと揉めている姿が目にとまった。
「もういちど聞くが、本当に面識がないのか」
「通りがかっただけ」
「通りがかっただけで人を殺すのか、幽香」
「抱きついてきたんだからね。離れろって言ったのに」
「たしかに酔っていたみたいだが。誰か抱きついたところを見た人は」
大九朗はふたりの交わす話がよくわからなかった。ただもういちど父親の死体を見守った。何回か父親の名前を叫んだ。現場にいた人々がこちらに振り向いてくる。慧音先生も、幽香という名前の人も。
幽香と目があった。赤い目を見ていると大九朗の胸にもやもやしたものが詰まってくる。やがてもやもやしたものが堅く確かな形をとりはじめた。誰に教えられるでもなく、彼女が父親をあんなふうにしたのだと理解した。
大九朗を抱きかかえる女はどんどん現場から離れてしまった。父親はふたたび人に紛れて見えなくなった。いつの夜のことだったかもう忘れてしまった。だがあの日から、大九朗の心はぐつぐつと煮え立っていた。もう何年経ったかも分からない。ひたすら幽香を殺すことだけ夢に描いていた。それがいま叶おうとしている。
そのとき、リーン、と音がした。
大九朗は現実に引き寄せられる。腰のあたりにさまよわせていた右手が払われる。
火薬のはじける音と弾幕の飛ぶきれいな音がほぼ同時にうなり、聞こえなくなった。
幽香は右手をまっすぐに突き出して静止していた。
大九朗は拳銃を突き出して静止していた。胸のあたりに頭くらいの穴がぽっかりと空いている。袴が早くも黒く塗りつぶされていく。妖精が声にならない悲鳴を漏らしたかと思うと、鈴と鉛筆を捨てて飛び去っていってしまった。大九朗は妖精のぽってりした足を目で追いかけたあと、仰向けに倒れた。
幽香が落ち着き払った態度で大九朗のもとにくる。大九朗は息も絶え絶えに幽香を見上げる。視界はほとんど白く染まって、彼女の顔が青空とまじりあっていた。
花畑が揺れて慧音が現れて出てきた。だが幽香は顔をあげない。彼女の手にはいつの間にか一輪の花がつままれている。よくみるとアサガオの花だ。その花はそっと大九朗に手渡される。大九朗は両手をよろめかせてアサガオを握りしめる。アサガオは拳のなかでねじれつぶれた。そのふやけた感触とともに、父親の顔が頭いっぱいに広がっていく。体はそれっきり動かなくなった。
幽香がようやく立ち上がって慧音をみる。
「そっちで埋葬しなさい。化けて出てこられると邪魔だから」
「幽香、思い出したんだ。この大九朗は」
「迷惑かけてごめんなさいね」
幽香はそれだけ言うと花畑の奥へ消えていった。
慧音はしばらくその場に留まった。やがて無言で大九朗を担いで歩き出した。
誰もいなくなったその場に肌寒い風が吹きつける。どこかで妖精の無邪気な笑い声が聞こえてくる。心地のよい朝だった。
ひとつやふたつで済むはずもないね。