Coolier - 新生・東方創想話ジェネリック

ラテルナマギカ ~寅と鼠と桜の巫女~ 『念写少女のルナティック・ブルー #2』

2015/09/02 22:35:07
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 月のない、星灯りだけの夜を、寅はただ駆けていた。獣道すらない藪の中を、脚も手も使ってひたすらに駆けた。毘沙門天の代理としての意識などもはや彼女にはなく、そこにはただ激情に塗り潰された1匹の妖獣がいるばかりであった。ただならぬ気配を察知した獣や鳥たちは、寅が迫ると我先に逃げ出していく。森の木々さえも、その気迫に当てられると道を空ける。彼女の頭の中にはただひとつの想いしかなかった。自分を救ってくれたひとを助ける。何としても、何と引き替えても。

 どのくらいの間走り続けただろうか。泥だらけになりながらも、寅はついにその場所へと辿り着いた。尾根から見下ろす谷間の街道沿いにて、軍勢が何かを取り囲んでいた。幾つもの松明に照らされたその中心にて、天にも届かんばかりに強大な法力が燃え盛っている。そしてそれを封じ籠めんと、巨大な魔法陣が幾重にも構築されようとしている。今まさに、ひとりの聖人が討滅されるのだ。正義の名において。

 正義。正義とは何だ。寅は天に向けて咆哮した。その怒りは野火のように地を舐め、風のごとき速さで軍勢へと伝わった。手近な何人かが振り返り、慌てて迎撃の態勢を取る。
 しかしもうその瞬間には、寅は宙へと鋭く跳び上がっていた。そして雷光のごとき勢いで軍勢の直中(ただなか)へと降り立ち、数名の哀れな兵を吹き飛ばす。次の瞬間には幾つかの刃が寅へと迫るも、彼女はその全てを叩き折った。誰かが取り落とした松明が下草へと火を移し、さらなる恐慌が広がる。彼女はそれを意に介することなく、爛々と輝く双瞳で周囲を睨(ね)め回した。周囲の兵たちは一人残らず恐れ慄き、堪らずに距離を置いた。

 寅は許せなかった。聖人の善を信じることなく、ただ否定する連中が許せなかった。昨日まで仰ぎ信じていた聖人を、掌を返して裏切った連中が許せなかった。こんな滅茶苦茶な試練を与える御仏すら許せなかった。
 そして、こうなることを分かっていながら止めること敵わず、あまつさえ官軍への加護まで約してしまった自分自身が、何よりも許せなかった。
 だから彼女は、毘沙門天の化身としての全てをかなぐり捨て、ただの寅としてここにいる。

 法力を押さえ込む魔法陣の圧力がさらに上がる。無限に重なる詠唱の声と、法力が衝突し軋む音が、辺りに割れんばかりに響き渡っている。聖人が抵抗を諦めるまで、奴らは陣を重ね続けるつもりだろう。いくら彼女が膨大な法力を蓄えていると言っても、もちろん限界はある。いつかは、潰れてしまう。

 寅は再び駆け出した。もはや彼女の思考には理も智も残ってはいない。立ちはだかる兵たちを手当たり次第に薙ぎ倒し、法力がせめぎ合うその中心を目指す。高位と思しき数名の僧が円を描くように立ち並び、一心不乱に呪を唱えていた。寅の狙いは単純だ。あれら陣の起点を潰せば、忌まわしい魔法陣を消し去ることができる。

 最後の兵を片手で弾き跳ばし、そして寅丸星はその様を見た。
 聖白蓮は錫杖を水平に捧げ持ち、ただ目を瞑って耐えていた。その傍らには、白蓮を守るために寺を飛び出していった2人の少女 ―― 入道遣いと舟幽霊 ―― が倒れ伏している。尼僧は一切の反撃をすることなく、次々と重ねられる法力の圧力から身を守るばかりだった。まさか、2人を助けるために、法力の緩むまで耐え切ろうというのか。寅は歯噛みした。無茶だ。何日耐えたって、そんな隙をこいつらが見せるはずがない。

 もはやこれは戦だ。ならば敵を屠らなければならない。聖を害するもの全てを殺さなければ、彼女は救えない。星の妖力が爆発する。寺へ帰依するときに立てた不殺の誓いを捨て、彼女は完全なる獣へと戻ろうとした。
 そのときだった。白く目映い衝撃が、星を強く打ち据えた。身体中の力が抜け、思わず膝をつく。荒ぶりかけた心があっと言う間に冷えて鎮まっていく。涙が零れた。誰の仕業かは分かっていた。

 白蓮は柔らかく微笑んでいた。彼女の持つ杖が真っ直ぐこちらを向いていた。
 揺れる視界を何とか整えた星は、響く轟音の中で確かにその声を聞いた。

―― あなたは、いきなさい。

 それは慈愛をそのまま音にしたような声だった。尼僧は決めたのだ。全てを赦すことを、そしてこの辛苦をあるがまま受け入れることを。そして星には分かってしまった。激情に駆られた自分の行いが、最悪の結末をもたらしたことを。
 星を正気に戻す一撃を放ったがために、白蓮の法力による堅牢な防護が僅かに綻んだ。それは奴らにとっては充分な隙だった。好機を逃すことなく、封じ籠めの陣がさらに十重二十重と重ねられる。もはや勝ち目は万にひとつもなかった。白蓮たちの姿は一瞬でひしゃげ、潰され、そして消滅した。

 星は絶叫した。





 星は絶叫し、そしてその自分の叫び声で目を覚ました。弾かれるように椅子から転(まろ)び出て、混乱した頭で辺りを見回す。もはや夢の中ではない。あの山中ではない。ここがどこなのか、自分が何をしていたのかを思い出せず、星の身体はただふらふらと頼りなく暴れた。助けを乞うた両の手は、棚の上の皿や法具を軒並み叩き落とした。瀬戸物が割れ砕ける派手な音が、とっぷりと日の暮れた白蓮寺に響き渡る。
 外の空気を求めて、彼女は窓枠に手を掛けた。息苦しさに喘ぎながら星が覗き込んだ窓硝子には、忌むべき仇の顔がはっきりと映り込んでいた。白蓮が封じられんとしていたその瞬間、それを守るどころか彼女への恩を仇で返し、あまつさえ千年以上ものうのうと生きながらえてきた、厚顔無恥な寅の顔だ。それが己を嘲るように見返している。

「ああああぁぁぁぁッ!!」

 憤怒と後悔の念に星は圧し潰された。彼女は硝子窓へと頭を叩き付ける。哀れな鏡は、三度目の頭突きで罅(ひび)割れ、四度目の衝撃で大きく凹み、そして五度目でついに砕け散った。無数の破片が星の頭のあちこちを切り裂き、その顔を壮絶な赤に染め上げる。

 そこで、自分の腰にしがみ付いて蛮行を止めようとしている存在に、初めて気が付いた。

「 ―― てくれ! ご主人様、落ち着いてくれ! 後生だから!」

 悲痛な声が、澱(よど)みきった意識を突き抜けて、星を正気に引き戻した。那津の声はほとんど悲鳴だった。ぶち抜いてしまった窓枠からゆっくりと頭を引き抜いて、星は彼女を振り返る。那津はぎゅっと目を瞑り、星がどこかへ行ってしまわないようにだろうか、その身体へ必死にしがみ付いていた。眦(まなじり)には少しだけ涙の粒が溜まっている。膂(りょ)力でも妖力でも星に劣る那津は、主を止めるために死力を振り絞っていた。

 星は那津の頭に掌を置いた。その手が震えるのは、乱心した自分の興奮が治まらないためか、あるいは那津が恐怖で怯えているためか。指先に、鼠色の髪が滑る感触。幸いにも、星の手は彼女の頭の撫で方をまだ忘れてはいなかった。





 グラスの水をゆっくりと喉へ流し込んで、星はほうと息を吐いた。落ち着きを取り戻した身体の熱を、夜の風が心地よく奪っていく。自分で割った硝子のせいで頭にいくつか切り傷がついたが、妖獣ゆえの回復力はそれを既に治癒していた。僅かな血糊さえ拭ってしまえば、あっと言う間に元通りだ。
 身体の傷ならいずれは治る。しかし、心の傷はそう容易くはいかない。

「……私まで取り乱していては、世話がないな」
「すみません。いつも那津には迷惑ばかりで」
「いや、いいんだ。久しぶりだったもので、私も少し驚いてしまっただけだから」

 那津の声にはまだほんの少しだけ涙の色があった。

 星は、時折こうして悪夢にうなされては狂乱する。大切なひとを救えなかったという強い悔恨が、彼女の正気を奪い去るのだ。それはもはや千年前の出来事だが、星の心にはいまだに底なしの穴が開いていて、時とともに少しずつ広がっている。発作の頻度は少なくなりつつあるものの、程度はだんだんと酷くなっていた。東京へやってきて初めての発作は、部屋中を引っくり返すかなり激しいものになってしまった。

 この場に桜子がいなくてよかった、と星は思う。彼女にこんな様は見せたくない。

「あれ、そういえば桜子さんはまだ戻ってないんですか?」
「ちょうどさっき、それを伝えようと思っていたところだったんだよ」

 那津はすんとひとつ鼻を鳴らしてから説明を始めた。

「私の鼠が、桜子からの伝言を持ってきたんだ。『今夜は帰れない』ってさ」
「『帰らない』ではなく『帰れない』ですか……」

 そのふたつの言葉の差異は大きい。星は考え込んだ。
 那津は東京中の鼠を支配下へと置いている。その事実を知る者がどこかで鼠に囁けば、鼠同士の伝言で那津のもとへとその内容が届けられるという寸法だ。だがいくら那津の統率が働いているといっても、鼠は所詮小動物だ。記憶していられる内容はそう多くはない。

「彼女の現在位置は分かりますか?」
「ざっと探ったけれど、東京市の北の方としか分からなかった。だいたい板橋あたりかな」
「うーん、何かあったのでしょうか……」

 桜子が白蓮寺へ帰ってこないことなんて、今まで一度もなかった。不穏な予感が頭を過ぎる。けれどいまや桜子もいっぱしの退魔術師であり、そこらの妖怪なら相手にならないほどに博麗の力をちゃんと使いこなしている。考え過ぎか、と星は頭を振った。もしも差し迫った危機があるのならば、桜子はもっと直接的な手段で連絡を取るだろう。

「桜子はちゃっかりしたやつだから、私たちの助けが必要ならちゃんとそう伝えてくるさ。それよりも私は、あなたのことの方がずっと心配で ―― うん?」

 那津の言葉を遮ったのは、鼠の鳴き声だった。1匹や2匹の声ではない。チチチチチ、という細かい声が、白蓮寺のそこかしこから聞こえてくる。那津の視線が険を増した。
 侵入者アリ。警備を任せた鼠たちが発する最大級の危機信号。

 ふたりは同時に、音も無く立ち上がった。千年以上もの間この寺を守り続けてきた彼女たちにとって、こんな事態は初めてではない。取るべき行動は身に染み着いていた。那津のダウジングはものの数秒で完了し、賊の位置がすぐ隣の部屋であることを導き出す。星の鋭敏な感覚も、侵入者がすぐ近くにいることを告げていた。

 そこからの行動にはいささかの淀みも無い。那津はその場所で、館の鼠を総動員し賊を追い詰める頭脳中枢と化した。1匹1匹の戦闘力は乏しいが、寄り集まれば津波のごとき力を発揮する。そして星は単身で出撃した。無数の鼠によって狩り立てられた侵入者を、直接叩く役割だ。足音も物音も全く立てることなく、星はするりと部屋を出る。
 賊のいる部屋の前にて、寅は息を潜めて中の気配を探った。窓枠の軋む微かな音。敵は既に撤退に入っている。こちらが気が付いたことに気が付いたのか。目を細め、ほんの僅かの思案ののち、星は思いっきりその扉を蹴破った。真っ暗な部屋の中、廊下から物陰から現れた鼠たちが、赤い目を光らせて敵へ向けて殺到する。星はひと跳びで侵入者との間合いを詰める。

 軍服を着込んで覆面を被ったその男は、襲撃にもまったく動じなかった。相対する者どもが人外の存在であることを、彼はよく理解していた。鼠の大群と強大な寅を前に、侵入者は既にその武器を構えていた。
 穴のない銃口。無骨な輪郭。放たれるは青白い霊力弾。

「 ―― ッ!?」

 至近距離からの迎撃には、さしもの星といえども対応しきれなかった。その一撃は彼女の胴を正面から捉え、星を背後の壁に叩きつける。最大の脅威を排した賊へと鼠たちが雪崩掛かるが、その一瞬は彼が窓枠を乗り越えるのに十分だった。黒い影が窓枠から逃れていくのを、星はただ眺めていることしかできなかった。

「大丈夫か!?」

 衝撃音に驚き飛んで来た那津が顔を出した頃には、星は服の埃を払って立ち上がっていた。潮が引くように鼠たちが消え失せていく。開け放たれたままの窓を指して、星は首を振った。

「少し、まずいことになってきたかもしれません」





     ◆     ◇     ◆





 文に連れてこられた彼女の仮住まいは、長屋をそのままトタン建てにした感じの、正しく鳥の巣といった趣だった。ただでさえ人ひとりが寝っ転がればいっぱいになってしまうくらい狭い部屋なのに、床は足の踏み場もないほどに散らかっている。うず高く積み上がっている雑多なものは、全部が全部ガラクタにしか見えない。

「ゴミはちゃんと捨てなさいよ」
「失敬な。どれもこれも立派な商売道具ですよ」

 そう言いながら文が足蹴にして退(ど)かしたものは、確かに校正中のゲラ刷りの束のようであった。立派な商売道具の扱いがそれか、と突っ込む暇もあればこそ、彼女はガラクタの山から手早く卓袱台を引っ張り出す。さらに幾つかの瓶を並べると、立ち上がって黒布で窓を覆った。

「さてお二人とも。悪いけどちょっと、部屋の外で待っててもらえる?」
「早々に客を追い出すとは、天狗とやらも随分薄情ね」
「別に中にいてもいいけど、慣れない人にはちょっと辛いかも」

 にやにやと笑いながら、文が瓶の蓋を開ける。すると胸が悪くなるような酸っぱい臭いが立ちこめて、私は思わず顔を背けた。

「な、何よそれ!」
「現像液。もう、この匂いがいいって言うのに……。その娘の言ったことが嘘か真か、フイルムを現像して調べてみないとね」
「ほら桜子、外で待ってよ」

 はたてに手を引かれて、私は外へと転がり出る。大きく深呼吸して胸の空気を入れ換えてから天を仰いだ。満天の星空が私の無様を嘲笑うようだった。路面電車を飛び降りてから3時間39分32秒。最後に停車場から見た時計が正しければ、現在の時刻は午後7時47分2秒。

「1時間もあれば終わるから、お喋りでもしていればすぐだわ」
「どうして1時間で終わるって分かるのよ」
「私だって、自分で念写した写真は自分で現像するもの」

 念写少女が薄い胸を張ってみせる。どいつもこいつも器用なことだ。

「お喋りって……私とあんたで何を話すのよ」
「そりゃあ、あなたのその何たらの巫女って何か凄い力についてよ!」

 具体性が零に近い話題提示だったが、彼女の言わんとすることは伝わった。はたての瞳は、夜闇の中でも分かるほどにキラキラと輝いている。追っ手を撒いたときの私の姿が、彼女の心にはやたら強烈に映ってしまったらしい。

「あなたも人間なのよね? 人間なのにどうしてそんな格好いい力を使えるの?」
「どうしてって言われても……成り行きでと言うか、何と言うか」

 頬を掻いて、子供の眩しい目線からちょっと目を逸らした。博麗の巫女の力は別に、修行して手に入れたとかそういう大仰なものじゃない。あのときの紫の強引で適当な方法は、一歩間違えれば死んでいたわけで、今思い出しても鳥肌が立つ。

「私にも頑張ればできるかなぁ。あぁいう風にキラーンって変身してさ、ぶわーって弾出して悪いやつをやっつけるの。きっと気持ちいいわ」
「いやそんな大層なもんでもないけど」
「あの文ってのは烏天狗なのよね。あなたと天狗とどっちが強い?」

 はたてのご機嫌は最高である。先程まで謎の連中から追われていた少女とはとても思えず、私は苦笑した。
 けれどこの娘もひょっとしたら一杯一杯なのかもしれない。疲弊を表情に出さないだけで、本当は精神がまいってしまっているのではないか。そう考えると可哀想ではあるように思う。独りぼっちで大都会の真ん中へ放り出された子供の、束の間の現実逃避。それに付き合ってやるのも年長者の努めだろう。
 私は重々しい咳払いの後に口を開く。

「そりゃあ私よ。あんな鳥頭に後れを取るわけがないわ」
「わぁ凄い! でも天狗ってとても速く空を飛べるって聞いたけど」
「いくら速かろうが、私はそれに先んじて奴を倒す方法をざっと100通りは知っているわね」
「じゃあ天狗が猛スピードでこっちに向かって突っ込んで来たら?」
「簡単よ。向こうは簡単に軌道を変えられないんだから、激突する直前で私はひらりとカワす。そして自分が今までいたところに、霊力で罠を仕掛けておけばいい」
「じゃあじゃあ、逆に相手がもの凄い速さで逃げていったら?」

 矢継ぎ早に続く質問に、私は淀みなく答えてやった。出任せを繕う必要はなかった。あの高慢な天狗を叩き潰す方法なら、幾らでも頭の中へ湧いて出てくるのである。私の思考回路がすっかり妖怪退治向きになったのか、あるいは自分でも気付かないうちに奴へ結構むかついていたのか。

 文を撃ち墜としては斬り裂いて、爆発四散させたちに時空の歪みに叩き込み、おまけに霊符で従順な奴隷に洗脳したところで玄関が開いた。文は無言で私たち2人に拳骨を落とした。

「人がいない隙に好き勝手言ってくれちゃって。全部聞こえてるのよ餓鬼ども」
「くそう、安普請の扉の薄さをもっと考慮して喋るんだった……」
「一言多い!」

 2発目に撃沈した私に、文は紙切れを突きつけた。つん、と先ほどの酸っぱい匂いが蘇る。現像したばかりの、少し湿った数枚の写真を私は受け取った。

「どうやら本物みたいね、その娘の念写能力は」
「何これ。本当に写真?」

 見たこともない、おかしな写真だった。道路や建物の位置が細かく描かれたそれは、今までみたことのない構図である。写真というより、これは。

「地図みたいだわ。どこかの地図を1ページ写し取ってきたってこと?」

 はたてに問うも、彼女はふるふると首を横に振る。

「違うわ。私はあくまで撮った写真しか念写できないの。絵とか映像は無理」
「でも、こんな写真を誰がどうやって」
「そりゃあ人間よ。他に誰が写真を撮れるっていうの」
「文、ちょうど今私の目の前に、あんたっていう例外が立ってるんだけどね」
「私は撮らないわ。こんな面白味のない写真」

 文は腕を組み、玄関へと背を預けた。

「これは『航空写真』といって、飛行機から真下を写した写真。どんな地図よりも詳細に東京の街を記録することができる。つまりこれは、写った像そのものよりも内包する情報にこそ価値がある、そんな写真なの。そして当然ながら、撮影に大掛かりな設備が必要な航空写真は、個人が道楽で撮影できる範囲をはるかに越えている」

 はたてに目線をやり、文は溜息を吐いた。

「この娘を追っている連中の正体も、その理由も、これで大体分かった。まったく、面倒事を持ち込んできてくれたものね」
「え、どういうことよ」

 霊力弾で私たちを追い詰めようとした、あの追跡者。妖怪でもなければ、ただの人間でもないであろう者の正体。私には皆目見当が付かず首を捻る。そんな私に文はさらなる溜息を重ねた。

「情報が大事なんだと言ったでしょう。飛行機を飛ばすほどの力があって、可能な限りの詳細な地理情報を欲しがる連中。それだけで候補は大分絞られる。その上奴らは、ご大層な軍服を着込んでいた。つまりこの娘を確保しようとしているのは ―― 」

 文は言葉をそこで切った。私も思わず身構える。空気が一変していた。そこかしこから、無数の息づかいが感じ取れる。星明かりのみの視界では辺りはほとんど見えないが、ちりちりする首筋は明確な危機を私に告げる。包囲されていたのだ、いつの間にか。

「え、どうしたの2人とも」

 まったく危機感のない、間の抜けたはたての声。それが合図となって、射線が開いた。

 平屋の影から、屋根の上から、塀の向こうから、奴らがぞろぞろと姿を現す。闇夜に溶けこみそうなその格好、もはや見間違うはずもなかった。信じられない、まさか小さな子供ひとりを捕まえるのに、こんな。

「どうして軍人が、こんなに……?」

 はたてが得てしまった情報。あの写真。それはここまでの騒動を引き起こすものだというのか。

 ばちん、と何かが弾ける音。銃撃だ。私ははたてに覆い被さるようにして地に伏せた。文が風を巻き上げて壁を作り出すが、相手が先程と同じ連中ならば長くは保たないだろう。妖怪の力をものともしない霊撃が襲い来るはずだ。私は立ち上がり、桜の盾を編み上げた。路面電車のときと同じように、両方への防護が必要だ。
 だが先程と比べれば、状況は極めて不利だろう。あのときは動かなくても距離を離すことができたけれど、ここではそうはいかない。何とかして包囲を突破しなければ。

「上よ! 飛んで逃げるわ!」

 文の言葉に空を見上げた。なるほど、この風と桜の防護壁は筒のようにそびえ立っている。そして相手が人間のみならば、空に逃げてしまえば追いかける術はない。

 そう、相手が空を飛べない人間のみであれば。

「文、嫌な予感がする、気を付けて!」

 私が警告を発するのと、黒翼を広げた文がはたてを抱え上げて飛び立つのは、ほとんど同時だった。淡い桜色のトンネルを、重力に逆らって文は抜けて行く。

 そして夜空へと抜け出たその瞬間。

「 ―― がッ!?」

 何者かが、一瞬の隙を突いて文へと躍りかかり、撃墜した。青白い霊力光を両手に纏った、その姿は。

「文!!」

 風の防護壁が消え失せた。気を失ったのか、文は大きく体勢を崩している。はたての姿が見えない。一体どこへ?
 慌てて私も飛び上がった。文を撃ち墜とした襲撃者の姿を探す。……いた! 奴は隣の長屋の屋根に着地したところだ。はたてを奪って抱きかかえるその後ろ姿は、もはや見間違えようがない。

 その襲撃者が ―― メリーベル・ハーンがこちらを振り向く。この暗闇の中では、その表情までは読み取れない。

 とにもかくにも、落ちてくる文に何とか組み付き、落下を食い止める。いくら天狗だとは言っても、10メートル以上の高さから落下したら怪我では済むまい。

「ほら、しっかり、しなさいよ……」
「うぅ、面目ない」

 すぐさま、文は再び翼を広げた。意識はすでに取り戻していたようだ。

「こんな分かりやすい罠にかかってしまうとは……。一応、奇襲を読んでいなかったわけではないのよ、これでも」
「負け惜しみはいいから、早くあいつを ―― って、あれ?」

 桜色の防護壁が風に舞い散ってしまうと、辺りは静寂に包まれた。襲撃と同じく、撤退もあっと言う間だった。用は済んだとばかりに、包囲網はすでに影も形もなく、メリーベルも消え失せている。
 そして、はたてもまた消えた。あの退魔術師にまんまと奪われてしまったのだ。

 静けさが混乱を再び呼び覚ます。はたての不思議な力のこと。はたてを追うあの連中のこと。そして奴らと行動を共にしているメリーベルのこと。これまでの妖怪騒動とは少し趣が違う。はたては念写という超能力を持ってこそいるけれど人間で、追いかける連中もメリーベルを含めてまた人間だ。巻き込まれた文を除けば、この事件は人間を中心にして起こっているわけだ。魔都東京で、何かが起こっている。

 地平線の近くで、街灯りが月のない夜に光を加えていた。星より確かなその人工の光は、空を地面に引きずり落とそうとしているようにも見えた。




 
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