射命丸文がふらりと立ち寄ったとき、太陽の畑はすこし鬱蒼としていた。
どのひまわりも猫背をみせ、花弁がしなだれかかっている。初夏の容赦ない日差しの中にあっては、その弱々しさがなおさら引き立つ。
このとき文はどうとも思わなかった。せいぜい、日の当たり加減でそう見えるだけだと思った。
別の日、用事をこなしていた文はたまたま太陽の畑にちかづいた。
ひまわりは生気がない。セミの音がざわざわと煽りたてているのが、なんともいえず情けなかった。そよ風に波立てども瑞々しさはなく、ただ病人が忍び歩くような哀れさだった。
このとき文はすこし気持ちが傾いた。いつもの太陽の畑と違うことに気付いた。
別の日、文は自ら太陽の畑に出向いた。
改めて空から見おろすとひどいものだ。あの綺麗な太陽の畑はどこへいってしまったのだろう。いまは野良犬の背中を見下ろしているみたいだ。晴れ晴れとした黄色味は薄れて、古い写真を思わせる。
文はしばらく畑の上を飛んでいく。奥へ行くにつれて汗が吹き出てきた。肌を焼く言い知れぬ感覚だった。だがそれにくじけず心を張って、さらに進んでいった。
畑のとあるところだけ空き地になっている。そこには見事な装飾の丸テーブルと椅子が置いてあった。地面に素足で置かれているのがいかにも不釣り合いだ。
椅子には日傘がくくりつけてあった。文はおそるおそるテーブルの前に降り立って日傘の下を覗きこむ。女がはかなげにして座っていた。虚ろな目をひまわりの群れに彷徨わせながら、自分の心を支えるように頬づえをついていた。文の目には、女が今にも霧になって散ってしまいそうに見えた。
風見幽香だ。
文の知る風見幽香は、こんな覇気のない女ではない。文が今日のように近寄れば殺意の笑顔を向けてくる狂犬だ。それがどうだ。文がテーブルを回りこんでも、弱々しげに一瞥をくれるだけ。
「新聞の……」
幽香はそこで息を吸いこむと、咳きこみだした。文はそれだけでネタの匂いを感じ取った。
「よそいきなさい」
「なにか、体の調子が悪いようで」
幽香の手が鞭っぽくしなる。テーブルの上の白いティーカップが宙を舞った。コントロールが悪く、文の真横を横切っていく。
文は野次馬心を隠して、なるべく味方っぽい笑顔を浮かべる。
「病気ですか。お医者さん紹介しましょうか」
「風邪よ」
「大妖怪でも風邪をひくんですか」
幽香は咳きこみながら立ち上がった。そうしてハッキリした足取りで文の目の前にやってくる。文の視界を圧してくる。それだけで文は抱いていた悪戯心をへし折られた。
「私、帰ります」
「そう」
文は急いで空に飛び出した。いくらか離れてから振り返ってみた。幽香はまた日傘の下に隠れてしまっていた。
魔が差した。とでもいえばいいのか。文は自分のやろうとしていることが説明できなかった。
永遠亭に降り立った文は、診療室で八意永琳と顔を突き合わせた。永琳ははじめ狐のような目で警戒していた。なので文は取材カメラを持ってきていないとアピールしなければならなかった。幽香のことを話したのはそれからのこと。
ひまわりのことと、幽香の元気がないことを話した。永琳は丹念に話を聞いてくれたが、眼つきは変わらず鋭いままだ。それに口を開くと声色がよそよそしい。
「それで、その幽香って妖怪はどうしたの」
「え、どうしたのって」
「ここに来てないのね」
永琳は机の書類を整理しはじめた。文が焦って声をかけても、顔をあげてくれなかった。
「あの、診てやって下さいよ」
「なら連れてきなさい」
「あなた医者でしょ」
「ちょっと鈴仙」
鈴仙が診療室に入ってきた。
「新聞記者さんにお帰り願いなさい。じゃま」
鈴仙の手が文を引き寄せていく。ゆったりした動きのわりに力が強い。申し訳なさそうに微笑む鈴仙。文は大人しく従った。
永遠亭を追い出されたあと、文はいったん妖怪の山に帰って仕事にもどった。だが仕事の最中、太陽の畑の力ない様が思い浮かんでは消えていく。しばらくすると、山を抜けだして太陽の畑を目指した。
上空から畑を見下ろした。例の空き地をみると幽香がいる。机に伏せって、物憂げに手をくつろがせていた。横顔は夢の中にいるようだ。ときおり体が揺れるのは咳をしているからだろう。
文がゆっくり降り立つと、幽香はにわかに体をもたげてきた。妖気、とでも呼べるものが文の体に突き刺さりはじめる。
「あの、ちょっと話があるんですが。病院とか、行きませんか」
幽香の眉が釣り上がる。
「風邪なんですよね。何日も長引いているみたいですから、治しといたほうが」
文の言葉はしだいに弱々しくなっていった。一語一語口にするたびに、幽香の逆鱗を撫で回している感じがした。
「だから病院に」
幽香はこそこそと咳をして、また文をじっと睨みつけてくる。
耐えられない。文はほとんど逃げるように畑を飛び出した。
翌日になって、文は再び永遠亭に出向いた。診療室の静謐な空気と一体化した永琳に昨日のことを話した。
永琳がはじめて表情をみせる。呆れた表情だった。
「幽香って子、病院に行きたくないんでしょ。それを強制するのは酷じゃないの」
「や、行きたくないとは違うと思うんです」
「どういうこと」
「その、行くに行けないっていう感じじゃないかと」
ふたり揃って沈黙に襲われる。永琳と過ごす沈黙は、幽香とはまた違う気分の悪さだった。体が蝕まれるような錯覚さえあった。
文が諦めかけたとき、永琳が立ち上がる。机の横にかけていた医療カバンをとって中身を確かめはじめる。鈴仙を呼んで留守番を言いつける。文は永琳の様子に嬉しくなった。
「診に行ってくれるんですね」
「行くだけは行きましょう。けど本人が診療を断ったらそれでお終い。そうなったらあなたも諦めなさい。いいわね?」
鋭い日差しの中、文は永琳を太陽の畑まで連れていった。永琳はここに来るのは初めてだと言った。畑は相変わらず老人のように萎びている。永琳に畑の美しさを教えてやれないことが文には残念だった。
畑の奥にいくにつれて、永琳の表情がどことなくこわばってくる。そしてもう文の案内なしに目的地へ進み始めていた。やがて見えてきた例の空き地を見つけると、文に振り向いてくる。
「あれね」
この並々ならぬ妖気を前にしても怖気づかず、毅然として降り立っていく永琳はさすがと言うべきか。文には真似できぬことだ。
永琳の足が空き地にゆっくり着地した。幽香は机に寝そべり、敷いたクッションに顔をうずめていたが、すぐに体を持ち上げてきた。文の前でふたりが視線を通わせる。
初夏のカラリとした空気が一転、ドロリと粘り気を帯びてくる。目を焼くような青空からは雲がなくなった。騒々しいセミの音はいずこかへ消え去り、鳥のさえずりもなく、風さえふたりに怯えて吹くのをやめた。ふたりの体からあふれ出てきた無数の蛇が、生き物とといわず何といわず、手当たりしだいに絡みついているかのようだった。文も例外ではない。文は蛇に手足をとらわれたように、身動き一つできなくなっていた。
ふと、どこからともなくセミの鳴き声が聞こえてきた。
文が気付いたときには永琳が先に動き出していた。
「ここに置いていいわね」
そういってだぼっとした医療カバンをテーブルの上に置く。幽香が手で口元を隠して咳をする。
「私は永遠亭で医者をやっている八意永琳です。今日は幽香さんと話をしにきました」
「あなた、私が誰だかわかってるの」
「椅子が余ってますね。座っていいですか、幽香さん」
幽香はものを言わなかったが、永琳は躊躇いなく椅子に座ってみせた。そしてにこやかに笑いだす。なんと柔らかい笑みだろうか。文にはそれが作り物であると分かっていたが、それでもつられて口角が上がってしまう。完璧な笑顔だった。
「どういう気分ですか」
「あまり良くない」
幽香の視線がギョロリと文に注がれる。その視線を奪い返すように永琳が会話を続ける。
「風邪をひいているそうですね」
「それがどうかしたの」
「その顔、夜中寝苦しいんですね。体がだるいからって、ご飯もしっかり食べてないんでしょう」
「……だからなんだっていうの」
「これから幽香さんを診ようと思っています。いいですか」
幽香はしばらく答えを出さなかった。視線が文と永琳を行ったり来たりする。
「好きにしなさい」
永琳は医療カバンから用紙と鉛筆を取り出すと、幽香に差し出した。項目を埋めろというものだった。幽香は素直に鉛筆をとって、用紙と向きあいはじめる。静かな時間が過ぎていく。
意外にも文が危惧していたいざこざは何一つ起きなかった。ふたりは正真正銘の医者と患者になっていた。いっそうふたりの言葉数が減っていく。
紙を書き終わったあとには、永琳が器具を表に出す。幽香の喉の中をみたり、シャツをはだけて聴診器をあてたりした。事はすばやく的確に運ばれていった。
診療があらかた済むと、永琳は用紙をファイルに挟んで、すでに挟んであったカルテをさっと黒くしていった。
「まあ、風邪ですね。季節の変わり目だから、体の調子が崩れたんでしょう」
「そんなの自分で分かってたわよ」
幽香の睨みがまた文を震えあがらせる。
「お薬を出しておきます。妖怪むけのお薬でいいですね。幽香さん、妖怪ですよね」
「人間にみえるかしら」
「毎日、食前と食後に一錠ずつ飲んでください」
医療カバンから取り出されたのは、錠剤入りの薬瓶だった。幽香はつまらなそうに薬瓶を受け取って、蓋を開くとさっそく一錠くちに放りこんだ。永琳はニコニコしながらそれを見守っていたが、やがて別れの挨拶と共に空へ飛び出した。
あんまりあっさり終わりを迎えたので文は戸惑った。幽香をみてみれば、永琳という壁がなくなったからか、負の空気を隠しもしなくなっていた。カメラを持っていない文は、その空気に耐えられるほどタフではない。すぐに永琳を追いかけて飛び出していった。
ある風の心地よい日、文は太陽の畑を通りがかった。
丘一面に咲き誇るひまわりは、その一輪一輪が太陽を宿しているかのようだった。輝く鮮やかさと、みなぎる生命力。吹く風をうけて舞いをたしなむ様は、文を心地よくさせた。
ふと畑の奥に目をやれば、ひとつ人影があった。黄色い絨毯の上をゆったりと泳いでいく。幽香だ。乙女のような姿はどこへ逃げたか。ゾッとするほど優雅で落ち着いていた。
文は風にのりながら幽香を眺めた。永琳を連れてきたのがいつだったかあんまり覚えていない。文の記憶にある薬瓶は錠剤が詰まっているが、現実の薬瓶はどうなったのだろうか。それも文には分からない。
ふいに幽香が静止した。ゆっくりと文のほうに振り返ってきた。晴れやかな笑顔だったが、裏に何かを飼っているような薄暗さがある。それは幽香が妖精や妖怪をつかまえて、いじめるときに見せる顔だった。文は急ぎ風に逆らって畑から離れた。
けっきょく、文は前のように畑に近づかないようになった。幽香が先の一件をどう思っているのかは知らないままだし、知らなくてよいと思った。
ただ一度だけこんなことがあった。
文が永遠亭に訪れたときのこと。永琳の診療室に見慣れぬ青い花瓶が置いてあり、一輪のひまわりが生けられていた。ひまわりは大きくて力に溢れている。文にはそれだけで、太陽の畑のひまわりだと分かった。
どのひまわりも猫背をみせ、花弁がしなだれかかっている。初夏の容赦ない日差しの中にあっては、その弱々しさがなおさら引き立つ。
このとき文はどうとも思わなかった。せいぜい、日の当たり加減でそう見えるだけだと思った。
別の日、用事をこなしていた文はたまたま太陽の畑にちかづいた。
ひまわりは生気がない。セミの音がざわざわと煽りたてているのが、なんともいえず情けなかった。そよ風に波立てども瑞々しさはなく、ただ病人が忍び歩くような哀れさだった。
このとき文はすこし気持ちが傾いた。いつもの太陽の畑と違うことに気付いた。
別の日、文は自ら太陽の畑に出向いた。
改めて空から見おろすとひどいものだ。あの綺麗な太陽の畑はどこへいってしまったのだろう。いまは野良犬の背中を見下ろしているみたいだ。晴れ晴れとした黄色味は薄れて、古い写真を思わせる。
文はしばらく畑の上を飛んでいく。奥へ行くにつれて汗が吹き出てきた。肌を焼く言い知れぬ感覚だった。だがそれにくじけず心を張って、さらに進んでいった。
畑のとあるところだけ空き地になっている。そこには見事な装飾の丸テーブルと椅子が置いてあった。地面に素足で置かれているのがいかにも不釣り合いだ。
椅子には日傘がくくりつけてあった。文はおそるおそるテーブルの前に降り立って日傘の下を覗きこむ。女がはかなげにして座っていた。虚ろな目をひまわりの群れに彷徨わせながら、自分の心を支えるように頬づえをついていた。文の目には、女が今にも霧になって散ってしまいそうに見えた。
風見幽香だ。
文の知る風見幽香は、こんな覇気のない女ではない。文が今日のように近寄れば殺意の笑顔を向けてくる狂犬だ。それがどうだ。文がテーブルを回りこんでも、弱々しげに一瞥をくれるだけ。
「新聞の……」
幽香はそこで息を吸いこむと、咳きこみだした。文はそれだけでネタの匂いを感じ取った。
「よそいきなさい」
「なにか、体の調子が悪いようで」
幽香の手が鞭っぽくしなる。テーブルの上の白いティーカップが宙を舞った。コントロールが悪く、文の真横を横切っていく。
文は野次馬心を隠して、なるべく味方っぽい笑顔を浮かべる。
「病気ですか。お医者さん紹介しましょうか」
「風邪よ」
「大妖怪でも風邪をひくんですか」
幽香は咳きこみながら立ち上がった。そうしてハッキリした足取りで文の目の前にやってくる。文の視界を圧してくる。それだけで文は抱いていた悪戯心をへし折られた。
「私、帰ります」
「そう」
文は急いで空に飛び出した。いくらか離れてから振り返ってみた。幽香はまた日傘の下に隠れてしまっていた。
魔が差した。とでもいえばいいのか。文は自分のやろうとしていることが説明できなかった。
永遠亭に降り立った文は、診療室で八意永琳と顔を突き合わせた。永琳ははじめ狐のような目で警戒していた。なので文は取材カメラを持ってきていないとアピールしなければならなかった。幽香のことを話したのはそれからのこと。
ひまわりのことと、幽香の元気がないことを話した。永琳は丹念に話を聞いてくれたが、眼つきは変わらず鋭いままだ。それに口を開くと声色がよそよそしい。
「それで、その幽香って妖怪はどうしたの」
「え、どうしたのって」
「ここに来てないのね」
永琳は机の書類を整理しはじめた。文が焦って声をかけても、顔をあげてくれなかった。
「あの、診てやって下さいよ」
「なら連れてきなさい」
「あなた医者でしょ」
「ちょっと鈴仙」
鈴仙が診療室に入ってきた。
「新聞記者さんにお帰り願いなさい。じゃま」
鈴仙の手が文を引き寄せていく。ゆったりした動きのわりに力が強い。申し訳なさそうに微笑む鈴仙。文は大人しく従った。
永遠亭を追い出されたあと、文はいったん妖怪の山に帰って仕事にもどった。だが仕事の最中、太陽の畑の力ない様が思い浮かんでは消えていく。しばらくすると、山を抜けだして太陽の畑を目指した。
上空から畑を見下ろした。例の空き地をみると幽香がいる。机に伏せって、物憂げに手をくつろがせていた。横顔は夢の中にいるようだ。ときおり体が揺れるのは咳をしているからだろう。
文がゆっくり降り立つと、幽香はにわかに体をもたげてきた。妖気、とでも呼べるものが文の体に突き刺さりはじめる。
「あの、ちょっと話があるんですが。病院とか、行きませんか」
幽香の眉が釣り上がる。
「風邪なんですよね。何日も長引いているみたいですから、治しといたほうが」
文の言葉はしだいに弱々しくなっていった。一語一語口にするたびに、幽香の逆鱗を撫で回している感じがした。
「だから病院に」
幽香はこそこそと咳をして、また文をじっと睨みつけてくる。
耐えられない。文はほとんど逃げるように畑を飛び出した。
翌日になって、文は再び永遠亭に出向いた。診療室の静謐な空気と一体化した永琳に昨日のことを話した。
永琳がはじめて表情をみせる。呆れた表情だった。
「幽香って子、病院に行きたくないんでしょ。それを強制するのは酷じゃないの」
「や、行きたくないとは違うと思うんです」
「どういうこと」
「その、行くに行けないっていう感じじゃないかと」
ふたり揃って沈黙に襲われる。永琳と過ごす沈黙は、幽香とはまた違う気分の悪さだった。体が蝕まれるような錯覚さえあった。
文が諦めかけたとき、永琳が立ち上がる。机の横にかけていた医療カバンをとって中身を確かめはじめる。鈴仙を呼んで留守番を言いつける。文は永琳の様子に嬉しくなった。
「診に行ってくれるんですね」
「行くだけは行きましょう。けど本人が診療を断ったらそれでお終い。そうなったらあなたも諦めなさい。いいわね?」
鋭い日差しの中、文は永琳を太陽の畑まで連れていった。永琳はここに来るのは初めてだと言った。畑は相変わらず老人のように萎びている。永琳に畑の美しさを教えてやれないことが文には残念だった。
畑の奥にいくにつれて、永琳の表情がどことなくこわばってくる。そしてもう文の案内なしに目的地へ進み始めていた。やがて見えてきた例の空き地を見つけると、文に振り向いてくる。
「あれね」
この並々ならぬ妖気を前にしても怖気づかず、毅然として降り立っていく永琳はさすがと言うべきか。文には真似できぬことだ。
永琳の足が空き地にゆっくり着地した。幽香は机に寝そべり、敷いたクッションに顔をうずめていたが、すぐに体を持ち上げてきた。文の前でふたりが視線を通わせる。
初夏のカラリとした空気が一転、ドロリと粘り気を帯びてくる。目を焼くような青空からは雲がなくなった。騒々しいセミの音はいずこかへ消え去り、鳥のさえずりもなく、風さえふたりに怯えて吹くのをやめた。ふたりの体からあふれ出てきた無数の蛇が、生き物とといわず何といわず、手当たりしだいに絡みついているかのようだった。文も例外ではない。文は蛇に手足をとらわれたように、身動き一つできなくなっていた。
ふと、どこからともなくセミの鳴き声が聞こえてきた。
文が気付いたときには永琳が先に動き出していた。
「ここに置いていいわね」
そういってだぼっとした医療カバンをテーブルの上に置く。幽香が手で口元を隠して咳をする。
「私は永遠亭で医者をやっている八意永琳です。今日は幽香さんと話をしにきました」
「あなた、私が誰だかわかってるの」
「椅子が余ってますね。座っていいですか、幽香さん」
幽香はものを言わなかったが、永琳は躊躇いなく椅子に座ってみせた。そしてにこやかに笑いだす。なんと柔らかい笑みだろうか。文にはそれが作り物であると分かっていたが、それでもつられて口角が上がってしまう。完璧な笑顔だった。
「どういう気分ですか」
「あまり良くない」
幽香の視線がギョロリと文に注がれる。その視線を奪い返すように永琳が会話を続ける。
「風邪をひいているそうですね」
「それがどうかしたの」
「その顔、夜中寝苦しいんですね。体がだるいからって、ご飯もしっかり食べてないんでしょう」
「……だからなんだっていうの」
「これから幽香さんを診ようと思っています。いいですか」
幽香はしばらく答えを出さなかった。視線が文と永琳を行ったり来たりする。
「好きにしなさい」
永琳は医療カバンから用紙と鉛筆を取り出すと、幽香に差し出した。項目を埋めろというものだった。幽香は素直に鉛筆をとって、用紙と向きあいはじめる。静かな時間が過ぎていく。
意外にも文が危惧していたいざこざは何一つ起きなかった。ふたりは正真正銘の医者と患者になっていた。いっそうふたりの言葉数が減っていく。
紙を書き終わったあとには、永琳が器具を表に出す。幽香の喉の中をみたり、シャツをはだけて聴診器をあてたりした。事はすばやく的確に運ばれていった。
診療があらかた済むと、永琳は用紙をファイルに挟んで、すでに挟んであったカルテをさっと黒くしていった。
「まあ、風邪ですね。季節の変わり目だから、体の調子が崩れたんでしょう」
「そんなの自分で分かってたわよ」
幽香の睨みがまた文を震えあがらせる。
「お薬を出しておきます。妖怪むけのお薬でいいですね。幽香さん、妖怪ですよね」
「人間にみえるかしら」
「毎日、食前と食後に一錠ずつ飲んでください」
医療カバンから取り出されたのは、錠剤入りの薬瓶だった。幽香はつまらなそうに薬瓶を受け取って、蓋を開くとさっそく一錠くちに放りこんだ。永琳はニコニコしながらそれを見守っていたが、やがて別れの挨拶と共に空へ飛び出した。
あんまりあっさり終わりを迎えたので文は戸惑った。幽香をみてみれば、永琳という壁がなくなったからか、負の空気を隠しもしなくなっていた。カメラを持っていない文は、その空気に耐えられるほどタフではない。すぐに永琳を追いかけて飛び出していった。
ある風の心地よい日、文は太陽の畑を通りがかった。
丘一面に咲き誇るひまわりは、その一輪一輪が太陽を宿しているかのようだった。輝く鮮やかさと、みなぎる生命力。吹く風をうけて舞いをたしなむ様は、文を心地よくさせた。
ふと畑の奥に目をやれば、ひとつ人影があった。黄色い絨毯の上をゆったりと泳いでいく。幽香だ。乙女のような姿はどこへ逃げたか。ゾッとするほど優雅で落ち着いていた。
文は風にのりながら幽香を眺めた。永琳を連れてきたのがいつだったかあんまり覚えていない。文の記憶にある薬瓶は錠剤が詰まっているが、現実の薬瓶はどうなったのだろうか。それも文には分からない。
ふいに幽香が静止した。ゆっくりと文のほうに振り返ってきた。晴れやかな笑顔だったが、裏に何かを飼っているような薄暗さがある。それは幽香が妖精や妖怪をつかまえて、いじめるときに見せる顔だった。文は急ぎ風に逆らって畑から離れた。
けっきょく、文は前のように畑に近づかないようになった。幽香が先の一件をどう思っているのかは知らないままだし、知らなくてよいと思った。
ただ一度だけこんなことがあった。
文が永遠亭に訪れたときのこと。永琳の診療室に見慣れぬ青い花瓶が置いてあり、一輪のひまわりが生けられていた。ひまわりは大きくて力に溢れている。文にはそれだけで、太陽の畑のひまわりだと分かった。