【Scene-one】
陽の下では見る者の心を癒すその薄い緑も、ひとたび夕刻を過ぎれば、それは鬱蒼とした暗緑の内へとその色を移していく。
天へと届けとばかりに長く、細く。どちらを向いても真っ直ぐに伸びた竹が作る森は、月光の灯火さえ遮り、そこへ立ち入った全ての者の方向感覚を狂わす、さながら自然の迷宮へと成りはてていた。
迷いに迷えば、もしかすると光る竹の導きにでも出会えるのだろうか?
「まあそうして生まれたお姫様は、今も昔も家の中に引きこもって。時たま出掛けてする事と言えば火遊びくらい……とね。って誰に向かって話しているのかしら、私」
そんな森の中を独り、まだ年端もない少女が歩いていた。
闇夜に微か浮かび上がるのは、薄いベージュの薄手のシャツ。下は暗に溶け込むような黒いスカートを身につけている。
その衣服の下から覗く肌は、太陽の下で見ればさぞ健康的で美しいだろう。しかし今は夜に震えているのか、小さく縮こまり、落とした両肩が彼女の彩美に一抹の陰を潜めていた。
周囲の闇以上に漆黒と言って良い、肩の下まである髪は無遠慮に風に靡き、大きな瞳は地面を徘徊し憂いの色を強く帯びている。
「はぁ……弱ったわ。これからどうすればいいのかしら」
静寂が運んでくる不安に負けない為か。少女はまた独り、言葉を夜の森に溶かした。
いや、少女は別にこの夜を怖がっている訳ではない。彼女にしてみれば、こんな夜の一人歩きなど、普段からの仕事に比べれば些細過ぎる危険度だった。
では一体彼女は、何に対して憂いているのか?
その答えは直ぐ後ろ。少女自身の背中にあった。
肩よりわずかに下。肩胛骨の付け根から、これまた闇に溶け入る様に黒い大きな翼がある。
少女の名は『射命丸文』。
幻想を翔る鴉天狗。もとより夜を怖れる人間ではないのだ。
だが。その象徴とも言える黒い羽の、片羽の付け根には何やら何重にも細い布が巻き付けられており、その動きと美しさを阻害している。
陽の下で見れば、それが真っ白い包帯で在る事がよく分かっただろう。
その色は、まだ巻かれてから新しかった。
(本当に私とした事がとんだ失敗を……。まあ怪我した場所の直ぐ近くに、手当をしてくれる屋敷が在ったのが不幸中の幸いかしらねぇ)
とは言え。
文はその闇を暗としない黒い瞳で、道の先を見た。
竹林のその微かな先。人の世の物だと思われる灯りが、小さくぼやけて映ってくる。
ここから自分の住処まで、人里を越えさらにその山の奥まで。飛べば小一時間も掛からない距離を、今は歩いて帰らねばならないのだ。
(……はぅあ)
それを思うと、自然と吐く息も足取りも重くなる。
だがのんびりしていれば、それこそ夜が明けてしまう。
(ん?)
ふとその時、文の鋭敏な感覚が上空に何かを捕らえた。
いつも共にしているカラスでは無い。彼は一足先に住処の方へ戻らせている。
カラスなのに夜目が効くのかと問われれば? まあそこは仮にも妖怪である文と共にあるカラスだ。普通のそれとはひと味もふた味も違う。
そんな事よりも、文は周囲に警戒を走らせた。
――今夜もまた~ 深い森の中~。
遠くから響いた声に、文は周囲に警戒を強めた。
例え飛べなくても、並の妖怪なら遅れを取るとは思ってないが。それでも今みたいの場合は、避けれる厄介事は避けるにこしたことはないのだ。
身体的理由ではなく、主に精神的な理由で。
――迷い込む~ 不幸なカラスが一匹~。
声は一定の旋律をもって聞こえてくる。それは歌声と言っても差し支えない。
酷く不吉で、不安を呼び起こすな旋律だと言うのに、歌い手の声質が妙に明るいせいだろうか? こんな夜に聴くにはひどく不釣り合いな印象を受ける。
「だれ?」
文は意識して低めの声で呼びかけた。いつもより大きい声で尋ねたつもりだが、その声は竹林に吸収され、酷く小さく、頼りなく響き渡る。
逆に、歌の主の声は大きいわけでもないのに、竹に反響でもした様にまるでステージさながらの存在感を際だたせていた。
――カサリッ。
竹が揺れる音は真上からした。
文は反射的に見上げ、腰を落とし身構えた。
空から振ってきたそれは、そのまま大きな落下音を立てる事もなく、文に似た羽音を鳴らして目の前に降り立った。
「な~んだ残念。人間かと思ったがご同類? それもカラスときたもんだわ」
先ほどの歌の余韻がすこし残っているのか。そいつは流れるようなイントネーションで早口にまくし立てると、文の瞳を覗き込むように顔を突き出してきた。
文と同じくらいの少女だった。
自分よりわずかに小柄な体を、白と深紫で分かたれたワンピースに包んでいて、それが宵闇に溶け込んでひどく似合っている。
頭には衣服と同じ柄のフリルの着いた帽子。小さな卵形の顔には、どんぐりみたいな大きく丸い瞳が付いていて、可憐な外見へさらに愛くるしさを添えていた。
だが少女自身が文を“同類”と言ったように、彼女も人間ではない。
複雑な形をした、文と同じ猛禽類の翼と、指の三~四倍はありそうな長い爪。羽毛で覆われた細く長い耳。
「ミ、ミスティア……さん?」
文の知った顔だった。とたん彼女は言動を営業用のものに切り替えた。
ミスティア・ローレライ。
この人里の周り中心に住み着いている『夜雀』と呼ばれる妖怪である。
人に害成す妖怪であるくせに、焼き鳥撲滅運動なる物を謳って、人里の近くに屋台を作ってしまった一風変わった性格であり、興味を惹かれた文は以前この夜雀の下へ取材しに訪れた事があった。
「ん、あんたいつぞやの文屋じゃん?」
突然に己の名を呼ばれ、ミスティアが怪訝な表情を浮かべたのは一瞬だ。直ぐに文の顔が自分の記憶と一致したのだろう。
「文。射命丸文です。ちゃんと名前覚えてください」
「なんであんたが、こんな所歩いてるのよ~?」
人の話を聴いているのかいないのか――多分聴いていないと文は思う、ミスティアはうんとも言わずに問うてきた。
「ミスティアさんがここで気まま歌ってるのが自由であるように、私が今ここに居るのは私の自由ですよ」
「……ふ~ん」
自分から問いを振っておきながら、それだけで彼女は文に興味を無くしたようだ。
なので文が続けて紡いだ言葉は、何気ない言葉で相手の話を引き出すと言う、取材に置ける常套句がすでに文にとって、癖というか習性に近い物に成っていたからかも知れない。
「まあでも……なんで“歩いている”かと言われれば。ちょっと先ほど取材中に事故に巻きもまれましてね。この有様だからです」
そう言って文はミスティアの前で、ゆっくりくるりと回って見せた。
ミスティアの視界に、包帯で巻かれた痛々しい黒羽が映り込む。
「うわっ。ど、どうしたのよそれ~?」
どうせ軽くいなされるだろうと思っていたのだが、ミスティアは食い入るようにその包帯を凝視し心配そうに表情を歪ませたので、文は少し面食らった。
「……んまぁお恥ずかしい話なんですが。先ほど向こうで人間二人の喧嘩……というか、火遊びの様を取材していたんですがね。ちょいと失敗して逃げ遅れまして、ああもう今から思い出しただけでも一生の不覚で」
「取材って……大丈夫なの?」
「え? ああはい。不幸中の幸いってヤツで、写真のネガも手帳も無事でした」
「そっちじゃなくてさっ。翼の方だよ、つ・ば・さ?」
「え? ああ」
「もしかして全く飛べないの?」
「だからこうして、夜道を歩いているわけですがね?」
言ってしまって、ちょっと失礼だったかなと文は後悔した。
ミスティアの表情を見る限り、どうも本気で心配してくれてるみたいなのだ。それなのに揚げ足を取るような物言いをしてしまった。
だがミスティア本人は、それを気にした様子が全く無いようだった。
目の前で「う~ん」と何やら眉をひそめて、難しい表情で考え込んでしまっている。
「あ、あのぅ……ミスティアさん?」
「よし大丈夫、きめたっ!」
ミスティアは突然張りのある美声を響かせると、腰に両手を付けた体勢で文に向き直った。俗にいう仁王立ちという恰好だが、もともと愛らしい顔と衣装だけあって、全然威圧感はない。むしろ小さな子供が背伸びして大人のマネをしているような、そんな微笑ましさすら有った。
「というわけで文屋さん、今夜は私の家に泊まりに来てよ」
「……え? はいぃぃ!?」
いきなりの申し出に、夜の竹林にもう一つ少女の美声が響く。
「うん、ここで会ったのも何かの縁だわ。同じ鳥同士、焼き鳥撲滅を誓い合った中でもあるし」
「いや鳥同士はともかく、焼き鳥撲滅は」
「さて、そうと決まったら早速行きましょう。大丈夫、私の家はここから歩いてでも直ぐよ~」
気分が一人乗ってきたのか。ミスティアは語尾をメロディラインに乗せて文の手を握った。
「ちょ、ミスティアさん? いやあの……」
既に文の声など耳に入っていないのかも知れない。
夜も更けた深夜の森。今宵、夜雀の歌声に強引に誘われた鴉天狗は、訳も分からぬままその雀のお宿に身を置く事となったのである。
【Scene-two】
連れてこられたミスティアの住処は、二人が出会った竹林から半刻も歩かぬ人里の外れに有った。
前に取材に訪れた事もあり無論始めての訪問ではないが、改めて人に害を成すはずの妖怪の住処がこれほど人世の傍にあることに驚きを禁じ得ない。
元々は自然の洞窟などを住処としていたミスティアだったが、屋台を始めるに当たって、体よく見つかった廃屋を自分で直して使えるようにしたのだと、前の取材で聴いた。
それらを総合して考えると、いかに彼女の屋台が類い希な、同時に好評の上で繁盛していたかよく分かる。。
人に害成す存在ながらミスティアはその屋台経営によって、人里の皆から一目置かれる存在と成っていたのだから。
もちろん裏の事情を勘ぐろうと思えばいくらでもできる。
ミスティアが屋台を出してから、彼女が人を襲ったという話は一切聴かない。
だとすれば。里の人間に手を出さない代わりに、里から屋台で使う食材やお酒などを定期的に差し入れする。そんなやり取りも、例えば村を守るあの半獣との間に有ったのかも知れない。
もちろんこれは文の推論に過ぎないが、でも十分あり得る事のような気がする。
久しぶりに訪れた屋台はいつもと変わらぬ佇まいでは有ったが、しかし以前とは決定的に違う所があった。
前は夜通し赤々と煌めいていた提灯の火が消えていたのだ。
そしてそれに合わせて、前は順番待ちの列すら有った人影も見る事が出来ない。
「あのミスティアさん。お店のほう、一体どうされたんですか?」
「ん~?」
文のきょとんとした率直な問いに、前を行くミスティアは後ろも振り向かずに軽い返事を返す。
「だってさ、もう八目鰻の捕れる時期じゃなくなったでしょ? だから今は商売お休み中」
「………はぁ」
そう言えば取材の時に、もうそろそろ八目鰻の冬眠時期で捕れなくなると話していた気はする。
でも確かその時は。
「じゃあ結局、鰻とか泥鰌とか混ぜて出すのは止めたんですか?」
文は昔の記憶を掘り出しながら問う。
「ミスティアさん、何気に料理の腕は悪くなかったんですから、騙さずに普通に売ればそっちだって評判になったと思うんですけどね?」
「何気は余計~」
「あ、すいません」
文は咄嗟に謝り、素直に失言を詫びた。
そう。これも失礼な事かも知れないが、彼女の料理の腕は意外にも良く、仕事の世辞抜きにして本当に美味しかった。
普段何を考えているか分からず、年中ふらふら遊んでばかりいるような夜雀風情に、まさかこんな特技が有るとは誰が想像したであろうか?
「だって目が良くなる八目鰻じゃないと、私が鳥目にする意味が無いじゃない?」
「………は、はい?」
要領を得てないミスティアの答えに文は言葉に詰まった。
そもそもミスティアはそういう目的で八目鰻を売っていたのだったか? 確か焼き鳥撲滅がどうのこうのと言っていた気がする。
それに前の取材の時には、もっと無茶苦茶な理由を言っていた気もする。
それこそ自分が歌える場所があるなら、あとはどうでもいい的なノリの。
でもまあ良い。おそらく彼女自身、自分で意味など理解していないのだろう。
「さてと文屋さん」
「アヤですって」
「お腹空いてない? 家に着いたらなんか作るけど、ああ大丈夫。店はやってないけど料理できる準備は止めてないから」
「もしかしてミスティさん、今自炊ですか?」
「うん? ええそんな感じ」
「じゃあさっき竹林で、人間を待ちかまえていたのはなんでです?」
「夜雀が夜道で人を鳥目にせずに、どうして夜雀が名乗れるって言うのよ~」
「………はぁ」
いまいち会話の節々が飲み込めず、話していて非常に疲れる相手だ。まあそこが彼女らしいと言えなくもないのだが。
苦笑いを浮かべながらも、結局文はミスティアに料理を馳走に成る事を伝えた。
彼女の性格や言動はともかく、実際お腹も空いていた。また何より今一度、幻想郷の隠れたこの名シェフの、手料理を久々に食べてみたくなったからであった。
「まあそんな訳ででしてね。暫くは絶対安静、新聞の方もお休みです」
丸い小さな卓を挟んで向かい合う文とミスティア。
所狭しと並べられた深夜の食卓で、文は先ほど起きた事故の事をミスティアに話していた。
焼いた魚に、山菜の佃煮。白味噌を使った汁物。茶碗に山と盛られた白米。
そして中央に置かれた一升。猪口は互いのどちらにも用意されていなかった。
「ああ。あの竹林の中に住んでる人間には、私も何回か燃やされそうになったのよね~」
「どうせミスティアさんの方から、ちょっかい掛けたんでしょ?」
「貴女だって同じ様なもんじゃな~い?」
「私のはれっきとした取材です。まあアポは取ってないですけどね」
適当に答えて、文は一升瓶を手繰り寄せ、そのまま詮先に口づけて呷った。
用意したのはもちろんミスティアだが、どうやら彼女自身は飲まないらしく、専ら文専用の飲み水になっている。
卓を囲ってまだ八分の一刻すぎていないというのに、升は既に三分の一ほどを減らし、文の頬はわずかにだが赤らみを帯びていた。
まあ顔に出るだけで全く酔った気配を見せないのが、さすが飲兵衛で知られる天狗の種という所か。
「でもう~ん、そっか。暫く新聞はお休みか~」
「……?」
呟きながら不意に寂しげな表情を浮かべたミスティアに、文はふと違和感というより疑問を抱いた。
いや正確には、竹林で会ってからずっと疑問には感じていたのだ。
はたして彼女は、こんな性格だったろうか?
前にあった時はもっとこう、他人に無関心というか。自分のやるべき事以外に無関心と言うか。
こうやって情にほだされ他人の世話を焼くような感じでは無かったはずだ。
文が前に、彼女の事を書いた記事を持ってきた時。彼女はそれに興味も示さずずっと歌っていたのだ。
今この食事の時だってそう。本来なら文の話など全く意に介さず「私の歌を邪魔しない」とか言って、延々彼女の歌をBGMに食べる事すら覚悟していたのに。
だが現実はどうだろう。彼女は歌う事もせず、むしろ自分から積極的に文から事情を聞き出そうとしている。
(暫く会わない内に、何があったのかしら? 店も今はやって無いみたいだし……それとも何か関係が?)
まあその思惑はともかく。今は相手の調子に合わせて話し込む事にする。
「まあ仕方ないですよ。今無理して……今後の活動に支障がでたらそれこそ目も当てられないですし」
そう言いながら、文自身完全に割り切った訳ではないが。
「まあでも例え飛べなくても、ネタ探しならどこでも出来ますしね」
「へぇ……例えばどんな?」
「何処でもです。人の噂の集まる場所なら何処でもね?」
本当はそれほど簡単な訳でも無いのだが、それは別に目の前の夜雀に言うような事でもない。
それにこんな事でミスティアを心配させる必要もない。尤もこれは単に、文の杞憂かも知れないが。
「ふ~ん、そっか~」
そう呟いてミスティアは目を細め微笑むと、視線を上げ口をもぞもぞと動かした。
何か考えている様子だったが、はたから見ていると少し気味が悪い。
「でもミスティアさんこそ、勿体ないですよ」
「え?」
「こんな料理上手いんですから、八目鰻が捕れないって理由だけでお店を休業するのは勿体ないと思います」
文は頃合いを見計らって、先ほどの疑問を少々つっついて見るとこにした。
「そ、そうかな? 本当にそう思う?」
「ええ。本当の話、私が取材を通して知り合った方々の中でも、ここまで腕が立つ方ってそうそう居ないと思いますよ?」
それこそ紅魔館のメイド長とか。冥界の御庭番師とか。
「へぇ……なるほど」
「……」
ご機嫌な表情のミスティアをよそに、文は心の中で「おや?」と疑問を浮かべた。
外で聴いた時と違って、急に聞き分けが良くなってしまった。
本当なら渋る彼女を上手く誘導して、真相を聴きだしてやろうと思ったのに。
(ん、まあ良いですけどね)
実際、文がミスティアに言った事は本心だ。それで彼女がまたやる気になって、店を再開してくれるような事になれば、それは仕事を抜きにして嬉しい。
(ふふっ。結構良いもんですね……こういう取材抜き、完全プライベートで他人と……いえ彼女と呑むと言うのも)
ミスティアの笑顔を肴に、文は再び眼前に置かれた一升瓶を呷った。
それから食事が終わった後も、二人だけの語り合いは続いた。
話の内容は主に、文が日々取材で集めたネタを面白く、時には脚色や独自の偏見などを交えながらミスティアに話してやると言う形だった。
極秘なはずのその情報を、本来なら他人に話すような事はしないのだが。しかし何故かミスティアだけには話しても言いような、彼女にはまるで長年連れ添った親友と話している様な親近感さえ文は感じていた。
ミスティアの方もそれを上機嫌のまま聞き入っていた。相づちを打つ口調は歌うように流れるが、それは決して目の前の文を無視した、普段の彼女の歌声とは結びつかなかった。
その内に文は、この急激なミスティア変わり様や屋台休業の真相などどうでも良くなっていた。
楽しかった。この陽気でつかみ所の無い彼女と過ごす時間が、純粋に楽しかったのだ。
そして時はあっと言う間に過ぎ、そろそろ空が明けようかと刻限。
切っ掛けはミスティアの大あくびと、同時に空になった一升瓶だった。
「そろそろ夜明けも近いね。もう寝よっか文屋さん?」
「そうですね、そろそろ頃合いですか。どうもご馳走様でしたミスティアさん」
「着替えは私のスペアで良いでしょ? 見た感じそんな体つきも違わないし」
「はいありがとうございます。こう言う時に同じ羽を持つ身では嬉しいですね。他の人だと体格どうこう言う以前に着れませんから」
肩を竦めて背中の翼を動かして見せた文に、ミスティアは「そうだよね~」と笑った。
「ところでミスティアさん。ご厄介にやる身で少々厚かましいとは思うんですが」
「うん、なあに?」
「お風呂って貸して貰えませんか?」
文の問いに、ミスティアは少々渋い表情を返す。
「お風呂はあるには有るんだけど、私普段使わないから沸かしてないわよ?」
「え? ああ……そうですよね」
今ミスティアが住んでいる此処は、廃屋を彼女自身が直して住めるようにしたものだ。
それ以前のミスティアは洞窟などに住処を構えていたというのだから、人間のように風呂に入るという習慣は無いのかも知れない。
と言うよりも、文など生産的活動を行っている妖怪ならともかく、ミスティアのように自然の中で暮らすほとんどの妖怪は、湯に浸かるという習慣を持っていなくて当然だ。
「じゃあ体を洗う時なんかは、やっぱ水浴びか何かで?」
「うんそう。もうちょっと里へ入った先にさ、結構開けた湖があるのよ。だいたい起きて直ぐかな、そこで体は洗ってるわ。貴女も明日来る?」
「そう……ですね。お願いします」
仕事がら良く家を空ける文にとっては、水浴びも別段珍しい事ではなかった。
「よし。じゃあ寝ようか。……って、あっ」
そう言ってミスティアの動きが止まったのは、二人で席を立った直後だった。
「どうしました?」
「う~ん。泊めるって言っといて何だけど。よく考えたら私の所。布団が一枚しかないじゃない~」
「ああその辺はお構いなく。私、何処でもどんな形にでも寝られる体質なので」
その気になれば座ったままは元より、水の中に浮いた状態で眠れる自信が文にはある。
これも彼女の仕事柄、毎日の過酷な取材を行う間に身に付いた悲しい性と言えるが。
「う~ん分かったわ。ゴメンナサイ」
ミスティアの素直な謝罪を最後に、二人は彼女の寝室へと向かった。
そしてこの時、まだ文は知るよしもない。
今夜関わった彼女に関する事で、ある意味で最も驚くべき真実を目の当たりにする事に成るなどと。
そしてそれはこれから己の感情を揺らめかせ、その方向すらねじ曲げてしまう事になろう事を……。
【Scene-three】
窓から射し込んでくる目映さを瞼に感じて文は目を覚ました。時刻はそろそろ陽が南中に差し掛かろうかという所だ。
片方だけ立てた膝に乗っけた額をゆっくりと持ち上げる。
すっと見開いた瞳で見た室内に、既に人の気配はしなかった。
正面。綺麗丁寧に三つ折りされた布団がある。ミスティアはどうやら先に起きて出たようだった。
そのまま持てあました視線の直ぐ先。文の隣にこれもきちんと畳まれたネグリジェが置かれたままになっている。
ミスティアが文の為に用意してくれたスペア分の寝間着だが、結局文はこの寝間着を着用する事を、その直前で断った。
故に今、座ったまま寝た文は普段着のままである。
「は~ぁ」
文は自分でも無意識の内にため息を吐いた。片手で己の胸元に触ると、今度は自然と肩が落ちる。
文が事を目撃したのは、ちょうど二人して着替えようかとしていた時。あの長い爪で器用に自分のワンピースを脱ぎ捨てたミスティアを見た瞬間だった。
文は硬直し、絶句した。
『どうしたの?』と問いかけると同時に怪訝な顔を向けてくるミスティアに、文はどもりながらも何でも無いと返す。
ミスティアの姿を上から下へ、そして下から上へ眺め回し。
そして視線が二、三往復した後……負けたと思った。何が負けかと言われれば、もうそれはいろいろだ。
正直な所、文だって自分が女で有る事に、そこそこの自信はあるはずだった。
だが突然目で前に罪無く晒し出させたそれは、そんなそこそこの自信など、それこそ自分が操る暴風の様に吹き飛ばしてしまう程の絶世さだった。
(まさか……)
そうまさにその“まさか”が存在していた。
普段体のラインが判りづらい、愛らしく派手なワンピースの下に、まさかあの様な“爆弾”を隠し持っていたなんて。
『あ、ミスティアさん。やっぱり私このままの恰好で寝ますね。ネグリジェってなんか私のイメージに合わないと思いますし』
『え、そう? まあ良いけど?』
突然の拒否にミスティアはとても残念そうな表情を浮かべ、それが文の良心をわずかに苛んだ。
でも取り敢えず“危機”は回避できた。
いざ着てみたら、胸元はぶかぶかの代わりに腰周りは苦しいとか? もしそんな事になろう物なら、文はそのそこそこの自信すら粉々に打ち砕かれかねない。
そう見た目では、二人の身長と体格は同じくらいなのだから。
(まあ今から冷静に考えると、ネグリジェなんてよほどサイズが違わないと着れないなんて事は無いけど……。どうも相当動揺してたわね~私)
まあ取り敢えず、寝起きから思い出して凹むのはこの辺にして。
文は自分に気を入れ直すかの様に、すくっと立ち上がった。
両掌を天上へ向け、思い切り背伸びをする。
「ん……う~んっ。さてと……彼女ははたして何処かしら?」
どうも家の中にいる気配は無い。
昨夜の会話を思い出す限り、水浴びにでも行ったのだろうか。
文の事も湖に案内するとか言っていたが、あの夜雀の事だ。そんな約束、寝て起きたら忘れたという可能性も大いにある。
「なら……ちょいと探ってみますか」
寝室を出て食卓と厨房も確認するが、やはりどこにもミスティアの姿は無い。
そのまま外へ出た瞬間、文の鼻孔を竹の青々しい匂いが掠めた。
伸びたそれは空からの射陽を遮り、真っ昼間とは言えここはいくらか薄暗い。
通り抜けた風は竹をざわざわと揺らし、文の所へさまざまな情報を運んでくる。
「さて……と」
文は視覚を閉じ、風の流れに意識を集中させた。
風は文にとって高性能のレーダーと同じだ。
水中のイルカの様に、洞窟の蝙蝠のように。流動する風は、あらゆる方向から、多量の情報を文の下に届けてくれる。
(確か……湖があるって言ってたけど)
飛べない文を連れて行くと言った手前、それほど遠い場所に在るわけではないだろう。
風の動き、音、匂い。文はそれらを全身の感覚で感じ、そして見つけた。
他から吹いてくる風より、若干重く水気を含んだ風の方向。そして同じ方向から風に乗って運ばれてくるそれは……。
「うた……ごえ?」
誰かが、水辺で歌っているのだ。
この場合誰かはもう考えるまでもない。
文は瞳を閉ざしたまま、歩き出した。
確かに近い。多分……このままゆっくり歩き進めても八分の一刻も掛かるまい。
――跳ねる翼に~ 輝くお陽様~
滝が落ちる腹に響く轟音が生でも聞こえて来るに従って、その声も徐々に明確な詩(うた)を帯びてくる。
――跳ねる心に~ 輝く湖~
相変わらず旋律は暗く、歌う声は明るく。だがそれでも彼女の歌はちぐはぐな印象を与えない。
――天へと跳ねる事を忘れた少女に~ 一夜 私は~
「――をした~」
(っえ?)
ミスティアの歌は、一部水飛沫にかき消され文には聴き取れなかった。
はっと、不意に文は視界を開いた。
もう既に数十メートル先、竹林は自然な形で開かれていた。
その中央に中距離走のトラックなら引けそうな大きさの、薄藍色をした水面がたゆたっている。
その、文から見て左端の方。そこに彼女は居た。
腰下まで湖に体を浸し、まるで空を見上げるように顎を天に突き出し、両の腕と手の平は深呼吸をするかの如く目一杯開かれている。
その肢体には当然……何も身につけていない。
――ばさりっ。
彼女の背中で、大きな翼がはためき、風を水面に押しつけ飛礫を巻き上げる。
日差しに飛礫が煌めき、彼女の裸身に降り注ぐ。
しっとりと濡れた薄紅色の髪は艶やかで、見開いた瞳は何処までも深く澄んでいて。
(汀-みぎわ-におりた、純 天 使……)
ふと文の脳裏に、そんな見出しが浮かんだ。
そう。文の感覚で例えるならば、絶好の被写体と呼べる存在が眼前に存在していた。
しかし文は、ミスティアの家を出る時、カメラを持ってこなかったのを後悔しなかった。
なぜならば。彼女の網膜と脳裏、そして何より心の奥に焼き付いたこの光景を、文は忘れる事など不可能と思ったからだ。
ふと……我に返ると、息が乱れていた。無意識に呼吸を忘れていたのか。体はその遅れを取り戻そうと、心臓に早鐘の如く強く早く打ち続けさせる。
(ううん……。この胸の高鳴りは、決してそれだけじゃなくて……もっとその……)
文の混乱が収まらぬ内に、どうやら向こうもこちらに気付いたようだった。
「あ、やっほ~文屋さんっ!」
その大きく手を振る仕草のあどけなさが凄く無防備すぎて、文は惚け状態から立ち直ると生唾を飲み込んだ。
「射命丸文ですよ。いい加減……覚えてください」
てくてくと早足で近づきながら、文は肩でため息を付く。単なる照れ隠しだと言う事は、文自身が一番良く分かっていた。
「水浴び中ですか? 良いですね~、こんな雲一つ無い快晴の日には絶好の日和です」
「うんホントに。貴女もどう? とっても気持ちいいよ」
「え、ええ……まあ」
笑顔で問うミスティアに、文は曖昧に微笑んだ。明らかに固くちびるが引きつってはいるが、細めた瞳の効果もあって彼女にはなんとか笑ったように見えるだろう。
(実際……ここに来るまではそうするつもりだったんですけどね~)
だが……。
文は改めてミスティアの肢体を見つめた。
どちらかというと、まだ華奢な部類にはいるだろう。だがそれでいて、胸元の双丘は文以上に豊かに盛り上がり、つんと重力に逆らう張りの良さが小憎らしい。
きゅっと絞った腰の下へ艶やかな楕円を描く臀部。そしてまたそこからは真っ白い脚線が伸びて湖の底へと消えていた。
淑女の様に妖艶で、しかし己の艶やかさに気付いていない少女の表情は、そこに純粋な健康美をも混同させていた。
いつものふりふりワンピースではなく、肩ごしから腰元までざっくり切ったイブニングドレスでも着れば、きっと見た目より五つは大人っぽく見られるだろう。
まあ実際の話、ミスティアの実年齢が幾つなのか文は知らないが。
「もったいないですね~」
「え? 何が」
無意識の内に独り言が突いて出てしまったのか、ミスティアの問いかけに文はどぎりとして慌てて言いつくろう。
「いやその。こんな日に勿体ないとは思うのですが、やはり私は遠慮させていただきます。よくよく考えたら、翼の傷口を水に濡らすわけにはいかないですからね?」
本当の理由は、彼女のあまりに見事な肢体に、自分が引け目を感じてとても肌を晒せないから……などとは絶対言えない。言いたくない。
だが話の流れも筋も通った文の言い訳に、ミスティアは納得したようだ。
「そっか。そうだよね~」
「と言うかミスティアさん。寝る前ご自身で誘っておいた癖に、忘れてましたね私の事?」
「そうだっけ? ごめんごめん」
文が苦笑いで問いつめると、ミスティアはホントに覚えていなかったらしく、少しだけ困ったような表情で謝った。
「いえ別に良いですよ、あはは」
「あ……ならさ、貴女の体だけでも、私が拭いてあげる」
「え?」
「ほら」
言ってミスティが指したのは、湖の淵に置かれていた彼女の脱いだ衣装だった。
小さく畳まれたその上に、大きめのタオルが一枚置かれている。
「ねえ、良いでしょ。それくらい私にやらせてくれても?」
「でもあれって、ミスティアさんご自身が」
「平気よ。これだけいい天気なら、自然に乾いちゃうわ~」
何度か問答あったが、文は結局折れて、ミスティアの提案を受け入れた。
彼女の前で自身の素肌を晒し、彼女の手で体を拭いて貰う事になった。
そして……その後ミスティアがタオルを取りに行く為に後ろを向いた時。ふと文の中に浮かんで来たのは、ほんと些細な悪戯心だった。
別にミスティアがタオルを取りに行くのを、最後まで妨害しようと思ったわけではない。もしかしたら彼女の女性らしさに対する軽い嫉妬もあったかも知れないが。
でもそれはただあまりに躊躇無く無防備に背中を晒すミスティアを、ちょっとびっくりさせてやろうと言う……いわば子供が好きになった女の子をワザとからかうような、そんな童心めいた悪戯でしか無かったのだった。
文は風を操る妖術をミスティアの後ろ、揺れる水面に構えると、小さく声を発した。
「あ、ちょっとすいません。ミスティアさん?」
「ん?」
振り向いた刹那、文は集中ししてた能力を開放した。
「えいっ!」
「なっ、きゃぁ!」
瞬間、ミスティアの眼前に叩くような突風が吹き抜け、水を上空へと押し上げた。
津波と成った水面は飛沫を巻き上げ、最も近くにあった人物を飲み込む。
波の勢いに押されてミスティアはバランスを崩し、水底に尻を着いて転倒する。
「くすっ……あははっ」
首の下まで水に浸かりきょとんとするミスティアに、文はからからと大きな笑い声を発した。
「んもぅっ、やったなぁっ!」
両腕を握り、振り上げるミスティアの言葉は荒げた物だったが、その表情は文と同じく楽しげだった。
ミスティアはすぐさま立ち上がり、バサリと羽の水を切り落とすと、そのまま水面近く飛び上がった。
そしてそのまま水面をぎりぎりにホバリングの要領で文に近づくと、文の一歩手前で勢いよく急旋回し、翼のはためきで起こした津波を同じくぶっかける。
「うわっぷっ……ぺっぺっ!」
文はそれを避ける事も出来ず、見事に被った。もし避ける事が出来ても、もしかすると文は避けなかったかも知れない。
「あはははははっ、おかえしよ~とっ!」
「やってくれますね……ミスティアさんっ!?」
不敵な笑いを浮かべて文はもう一度、風の念を放った。
叩く風が再び飛沫を上へ、ミスティアの方へと舞い上げる。しかしミスティアはそれよりも早く翼を大きくはためかせ、遙か上空へと逃れていた。
「あっ、空へ逃げるなんて卑怯ですよっ!?」
「なによ~。最初に不意打ち食らわしてきたのは、貴女じゃない~。それっ!」
言ってミスティアは急降下。再び水面ぎりぎりからのホバリング攻撃で文を狙う。
しかし文の方はそれを読んでいた。
ミスティアが近づいてくると予想したルートに、予め風を使って波を作り上げる。
「あっ、しまっ、きゃあ!」
突然の四方八方からの攻撃に、ミスティアは飲み込まれ撃沈した。
そして二人の間にいつもの弾幕ごっことは違った、空対地上の水遊びが始まった。
二人は風を起こし、時には己の手足を使って、相手に少しでも多くの水の弾幕を打ち当てようと必死になる。
お互い真剣だが、しかしその表情には笑顔が、口からは笑い声が絶えなかった。
水を掛け、掛けられ。すでに当初の目的である、ただミスティアにタオルで拭いて貰うという事は忘れていた。
水で翼の傷を濡らさないという、その根本にある理由などどうでも良くなっていた。
なにしろ文の服は今もうずぶ濡れで、その下に付けた下着の色までもが簡単に分かるような様なのだから。
しかしそんな事も気にせず、いや気にもならずに文は遊んでいた。目の前に現れた汀の天使とじゃれ合い、童女の様に戯れる自分。
何百年も生きてきたが、こんな些細で幼稚な行為をこれほどまで心から楽しんだ事はなかったはずだ。
目の前に、波の向こうに、光の中に、彼女の笑顔が舞っている。彼女の美しい声が聞こえてくる。
久しぶりに、本当に久しぶりだった。これほど笑ったのは。他の誰かと腹の底から笑い会えたのは。
普段取材している時にある愛想笑いではない。記事を書いている時には味わえない、極上の開放感。
新聞を読んで貰った人から貰える感想とは、また違った優越感。
(仕事だとか、取材だとかそんなの関係無いわ……。今私は……彼女と居る事が、純粋に楽しいんだわ。私は彼女が好きなんだ。そして彼女と居る自分が好きなんだ……)
不意に高く巻き上がった風が、こちらに突進してくるミスティアの事を巻き込んだ。
「きゃ、きゃあ!」
先ほどとは違う、驚きと恐怖を含んだ悲鳴がミスティアから洩れる。
「ミスティアっ!」
彼女が突風に翼の動きを取られ、制御できずに落下してくるのを見た瞬間。文は考えるよりも早く飛び出していた。
――ズギンっ!
背後で痛みを感じたのは一瞬。とても気にしている場合じゃない。
空を切り、風を裂き。浮かび上がった我が身に、ミスティアの体が急速に近くなる。
落ち行く彼女のきつく閉じられた瞳は、伸ばされた文の手が彼女の手を掴んだ瞬間に大きく見開かれ。そして文は空中で、ミスティアの膝と肩を抱きかかえた。
(良かった……ぬっぁ!)
安心した瞬間、今まで意識の外で麻痺していた痛覚が甦る。激痛が奔り、ミスティアの瞳に引きつった自分の表情が映り込んでいた。
急に感じられる墜落感。
そこで不意にミスティアの表情が優しくとろけた。彼女の両腕が文の首に絡みついて来る。
(だい…き。……あや…)
ミスティアの唇が一瞬、そう動いた気がした。
そして文の中で疑問が発生するより早く、ミスティアは顔を近づけ、自分の唇と文の唇を重ね合わせた。
(……?)
刹那……文はそれ以外の感覚全てを忘れた。
背に奔る痛みも、息切れして騒がしい肺の動悸も、落下感も。
己の唇を塞ぐ温かく、湿った感触。脳の奥で焼き付くような閃光が瞬きを繰り返し、文の視界をクリアに、しかし真っ白へと染めていく。
「……はぁっ」
洩らした熱いため息ははたして自分のだろうか? 彼女の方だろうか?
文がどぼんと湖の深い場所へ落ちたのは、自分がいつの間にか彼女の肩を強く抱き締めていた事に気付いたのと同時だった。
二人分の盛大な水飛沫が昇って数秒の後、小さな気泡を合図とするかのように突如水面に二つの頭が出現した。
もちろん文とミスティアの二人だ。
「っぷはぁ、鼻から水入った~」
大声一番、不満を口に出したのはミスティアだった。
「申し訳ありませんミスティアさん。怪我の方無いですか?」
二人は肩がくっつく距離で器用にも立ち泳ぎ、顔を見合わせる。
そのお互いの瞳に映った己の表情は、今の空の様に晴れやかだった。
「それは平気」
「元々、湖の中程まで飛んでいてくれたのが幸いしましたね」
この湖は、外側は比較的浅く腰下まで浸かる程度の深さしかないが、ある一定距離進むと途端に深くなっている様だった。最初にミスティアが居た辺りに落ちたのだとすれば、二人とも無事では済まなかっただろう。
「うん。でも」
ミスティアは一端言葉を切り、視線を文の背後へと回り込ませる。
「貴女の方こそ大丈夫? 結構無理して飛んだんじゃ?」
「心配いりませんよ……。まあ傷口はまた開いてしまったと思いますが、再起不能に成るような無茶はしてないはずです」
「そっか……。良かった……」
言ってミスティアは嬉しそうな、でもまだやはり不安が残るような、微妙な微笑みを浮かべた。
「それに……それに見合うだけの役得もありましたしね?」
「え?」
ミスティアの疑問に、文はただ視線を投げる。さきほど触れあった、歌を紡ぐその唇に。
その後、ミスティアの肩を借りて(文の方は平気だと主張したのだが、いつになく強気なミスティアの口調に押し切られた)文は湖の淵まで辿り着いた。
緑の大地に尻と両手を付け、立ったまま自分を惚けたようにのぞき見るミスティアを見上げる。
「どうしました?」
「え、ううん……何でもない」
ミスティアの方はその実、文の濡れそぼった衣服から透ける、その肢体がとても扇情的で見とれていたとはとても言えない訳で。
慌てて顔を背けたミスティアに、文は苦笑いを一つ。そしてこう言った。
「ねぇミスティアさん。もしよければ歌……聴かせてくれませんか?」
「え?」
「さっき私が来た時に、歌っていた歌を聴かせてください」
「え、え? うんまあ……良いけど?」
彼女にしてはやや歯切れの悪い。曖昧な答えだった。いつもなら頼まれなくても四六時中歌っている彼女なのだが。
でも今は文にも何となく分かる。多分……あれは普段のミスティアからすれば、今まで歌った事のないタイプの歌だろうから。
「それじゃ……いくよ?」
不器用にミスティアは今一度念を押し、顎を持ち上げ瞳を閉じた。その頬が微かだが紅渉しているのが分かる。
そしてミスティアは大きく口を開き、大気を飲み込むと数舜の後にそれを喉で奮わせ吐き出した。
「跳ねる翼に~ 輝くお陽様~」
夜雀には似つかわしくない、光溢れる昼の刻を歌った歌。
夜を生きる妖怪にして、もともと太陽みたいに明るい彼女だったが。
「跳ねる心に~ 輝く湖~」
そんな彼女の心は今まさに、風に跳ねて飛沫く、きらきら輝く透明な水のように躍って。
「天へと跳ねる事を忘れた少女に~」
瞬間。ミスティアの瞳が薄く開かれ、文の方を覗き見た。
「一夜 私は~ 恋をした~」
歌い終わるとミスティアは柄にもなく胸をなで下ろし、開けた瞳で文を見た。
気恥ずかしさで真っ赤になっている彼女は、しかし文が何か言おうとするより早く言葉の先取権を奪ってしまう。
「ねえ文屋さん」
「……まあ、もう良いですけどねそれでも。で、なんですか?」
「私ね、明日からまた屋台の方、やってみようと思うんだ~」
「え?」
突然の宣言だった。彼女が再び店を開くのはもちろん文とて歓迎だが、どうにも話の繋がりが見えない。
まあある意味、それは普段の彼女通りと言えなくもないが。
「そしたらさ……。私にも貴女のお手伝いができるかなって思って」
「……っえ?」
文の口を突いたのはまたも疑問だったが。こんどの疑問は、ミスティアの言った意味を理解できず、数秒の間を必要とした。
「一体……どういう事です。私の手伝いって言うのは?」
「昨日貴女が言ってたじゃない。人が集まる所ならどこでもネタが転がってるって」
「……」
確かに。一字一句同じではないが、まあ同様の意味な事をミスティアに訊かせたのは事実だ。
「それならさ~。私がお客からいろんな話を訊きだして、そこから貴女がネタを拾っていけば、今は飛べない貴女でも取材が出来て、新聞も書けるんじゃないかな?」
「…………」
文が言葉を発するには、やはり理解した後も数秒の間が必要だった。
文は――今自分はどんな表情をしているだろうか。
驚きで目を丸くしているだろうか。それとも目を輝かせて喜んでいるだろうか。
それとも……ただ惚けて彼女の、気恥ずかしそうな微笑みを眺めているだけだろうか?
胸の奥から口の中に、甘酸っぱいものがこみ上げてくる。
唾を飲み込んだ瞬間、全身に感じた鳥肌はしかし不快な物ではなく、それはどこか胸が締め付けられる切なさを感じさせた。
抱き締めてあげたかった……。ただ目の前に佇む愛らしい……自分だけの天使を。
「ミスティア……さん」
「ねえ……それ、そろそろ止めないかな?」
「え?」
「私の事、さん付けて呼ぶの。で無いと私だって貴女の事、ずっと文屋さんって呼ぶからね」
ああ……そうか。
文はこの時ようやく理解した。
(そう……もう彼女は私の仕事相手ではないんだから)
文は立ち上がり、真正面からミスティアの視線を射抜いた。
「ミスティア……」
「うん……文?」
お互いに呼び合い、二人は口づけを交わした。今度のは片方から一方的ではない、肩を寄せ合い抱き締め会ったままのキス。
唇を離した後、ミスティアの瞳が悪戯っぽく煌めいた。
「ねえキスの続き……しない?」
「んなっ……ここで?」
「だって早く服脱がないと、文……風邪引いちゃうもん」
歌うように流れた言葉にこの時始めて、文は己のある意味全裸よりも官能的な己の姿に気付き、赤面した。
【Scene-four】
今自分の手の内で高く繊細な声で感情を奏でる歌姫が居る。
その少女の歌を胸の内に聴きながら、文はふと思う。
――人の居る場所なら、何処でもネタになる?
それは確かに間違った事ではないが、実際問題としてそれはやはり現実的ではない。
ネタだけでは新聞と言う物は書けないからだ。
人の噂があり、それを裏付ける証拠があってこそ記事は記事として成り立つ。
翼を失った文には、ネタを仕入れる事は出来ても裏付けを取る為の行動力が圧倒的に欠けている。
そしてもし裏付けを取れたとしても、それを記事起こす道具と、新聞にして刷る道具は文の住処に有り、ここミスティアの住処では無理なのだ。
そう……実際にミスティアの提案した屋台で新聞作りは、絶対不可能とまでは言わないまでも、限りなく難しいのだ。
しかし文はそれでもミスティアに嘘を付いたとは思っていないし、また彼女の提案に対し、取るに足らない案だと適当にあしらったつもりも無い。
あの夜。真摯に心配してくれるミスティアを安心させてあげたかったし、先ほど彼女が自分の為に屋台を再開させると聴いた時には、胸が詰まるほど嬉しかった。
(本当に……彼女の事を好きになって良かった)
自分の方は取り敢えずそれで良い。
だがそれはそれとして、文はどうしてもミスティアに訊いておきたい事が一つだけあった。
「ねえ……ミスティア」
「……ん?」
重なり合った素肌の内、組み合った右手だけを文は名残惜しげに離すと、薄紅色の髪を掻き分け、現れた長い耳に囁きかけるように口づけた。
「どうして昨日の夜。私の事あんなに心配して、泊めてあげようだなんて思ったの?」
そう竹林で会った夜。最初は文などに興味も無かった彼女がある一時を境に、態度を一変させた。
今まで、それだけが文の中で気になっていたのである。
「今……こうやって二人触れあってる事が、理由ってんじゃ納得行かない?」
ミスティアの声は、どこか幼子をあやす母親のような優しさを含んでいた。
「うん……納得行かな~い」
それに対する文の返答は、まさに我が侭を言って困らせる子供のようで。
二人はどちらからともなく、ころころと笑い合った。
ミスティアの豊かな胸が、一度大きく膨らみ息を吐き出す。
「ねえ、文はちょっと前。郷の花が春も夏も、秋も冬も関係なく咲いてた時の事分かる?」
「え、うんまあ」
分かるどころか、絶好の記事になると毎日西へ東へ疾走していた程だ。
「その時にね、私どうも浮かれ過ぎちゃって。一面の毒花の園に迷い込んじゃった事があるの」
「毒花の園? ああもしかして鈴蘭畑の」
文の脳裏に、取材中にあった花の毒によって命を授かったという、一体の人形が思い出された。
まあそれはそれで置くとして。今は耳元で囁く歌姫の声に耳を傾ける。
「その時に私……毒の影響でうまく飛べなくなっちゃったのね。まあその時は直ぐに毒花の場所を離れて支障はなかったんだけど。……どうもその毒が結構後から効いてくるタイプみたいでさ」
「そ、それじゃ?」
「うん。時間が経ったら全然翼も動かせなくなっちゃって。それで更にはどうも喉もやられちゃったみたいでさ」
「……」
「私……歌えなくなっちゃったの」
ミスティアらしくもない悲しい声色に、文は息の呑む。
「私……もうずっとこのままなのかな~って、あの時は本当に怖かったわ」
もう飛べない。もう歌えない。それはこの宵闇を舞い、歌う事で人を惑わす事が生き甲斐の少女に、どれほどの絶望と不安を与えたのだろう。
「まあ実際にはそんな事はなくて、毒が抜けるまで一週間くらいだったかな? それだけ過ぎれば普通に翼も動くし、声も出るようになって。それで今に至る訳だけど」
「……だからなのね?」
「うん?」
「ミスティアが私の怪我に気付いた瞬間、突然親身になって心配しだしたのも」
自分の飛べない恐怖。好きな事が出来ない絶望感。
新聞が書けないといった時の文に、ミスティアはかつての生き甲斐が奪われた時の自身を重ねたのだろう。
だからこそ彼女はそんな文の為に、できるだけ力になりたいと店の再開をも決意したのである。
再び覗き込んだミスティアの瞳は優しげで、しかし困惑している様であった。
「う~んどうかな? こうやっていざ話してみると、そんな気もするしそうじゃない気もする……」
そして彼女は、離れた右腕を自分から絡みつけ再び繋いだ。
「やっぱりさ理由なんか無いんだと思う。私が文の事をこんなにも大好きなのは、今こうやって繋がってる今この時が全部証明してくれるよ?」
「ミス……ティア」
全く卑怯だと思う。こんな間近で、そんな真っ直ぐな瞳と言葉で“殺し文句”なんか囁かれたら……。
「私の方だって……好きって気持ちが止まらないじゃないっ」
「あはは……。ねえ文は?」
「私?」
「うん。文はなんで私の事……す、好きになったのかな~って?」
自分で言って、ことさら頬を真っ赤に染めるミスティアが愛おしい。
「そう……ね」
呟き文は……過去に向かって想いを馳せる。
取材で訪れた彼女の場所。
始めて料理を食べた時。
それから昨日……。竹林での再開。
飲み明かし、語り明かした丑三つ時。
寝る前に感じた、嫉妬心と敗北感。
湖上で見た、水と戯れ歌う天使。
抱きかかえた瞬間奪われた、始めての口づけ。
そして想いを告げあって、訪れた今この刻。
それのどれもが、今思えば愛くるしい気持ちで一杯に満たされる。
どれもが切っ掛けのようで有り、しかし何もが気が付いた瞬間足り得ない。
文はしばしの後、首を横へ振った。
「分からないわ。私がいつ貴女を好きになったのか。気付いたら貴女のその姿に、その声に、その瞳に、その魔力に、私は捕らわれていて。そこから逃げる事すら、ううん逃げる必要すら感じなかった。ほら……昔から良く言うじゃない」
「なんて?」
「恋は盲目って、ねっ?」
「もう……何よ。もしかしてウマい事言ったつもり?」
文が冗談で口走った比喩。それがこのような場合に使う比喩で無い事を説明する必要は、この際無いようだった。
また有ったとしても、ミスティアの方が説明させてくれなかった。
文がその為に用いなければならない口はその後直ぐに、事実盲目にすることが得意な彼女の口によって塞がれてしまったのだから。
その夜以来。寝る布団が一枚しかなくても、昨日とは全く別の理由で困らなかった事は、この際書くまでもないだろう。
また文が先に帰した供のカラスの存在を思い出したのは、このあと三日ほど恋人の傍で、爛れたきった休止活動の日々を過ごし去った後の事だった。
~fin
陽の下では見る者の心を癒すその薄い緑も、ひとたび夕刻を過ぎれば、それは鬱蒼とした暗緑の内へとその色を移していく。
天へと届けとばかりに長く、細く。どちらを向いても真っ直ぐに伸びた竹が作る森は、月光の灯火さえ遮り、そこへ立ち入った全ての者の方向感覚を狂わす、さながら自然の迷宮へと成りはてていた。
迷いに迷えば、もしかすると光る竹の導きにでも出会えるのだろうか?
「まあそうして生まれたお姫様は、今も昔も家の中に引きこもって。時たま出掛けてする事と言えば火遊びくらい……とね。って誰に向かって話しているのかしら、私」
そんな森の中を独り、まだ年端もない少女が歩いていた。
闇夜に微か浮かび上がるのは、薄いベージュの薄手のシャツ。下は暗に溶け込むような黒いスカートを身につけている。
その衣服の下から覗く肌は、太陽の下で見ればさぞ健康的で美しいだろう。しかし今は夜に震えているのか、小さく縮こまり、落とした両肩が彼女の彩美に一抹の陰を潜めていた。
周囲の闇以上に漆黒と言って良い、肩の下まである髪は無遠慮に風に靡き、大きな瞳は地面を徘徊し憂いの色を強く帯びている。
「はぁ……弱ったわ。これからどうすればいいのかしら」
静寂が運んでくる不安に負けない為か。少女はまた独り、言葉を夜の森に溶かした。
いや、少女は別にこの夜を怖がっている訳ではない。彼女にしてみれば、こんな夜の一人歩きなど、普段からの仕事に比べれば些細過ぎる危険度だった。
では一体彼女は、何に対して憂いているのか?
その答えは直ぐ後ろ。少女自身の背中にあった。
肩よりわずかに下。肩胛骨の付け根から、これまた闇に溶け入る様に黒い大きな翼がある。
少女の名は『射命丸文』。
幻想を翔る鴉天狗。もとより夜を怖れる人間ではないのだ。
だが。その象徴とも言える黒い羽の、片羽の付け根には何やら何重にも細い布が巻き付けられており、その動きと美しさを阻害している。
陽の下で見れば、それが真っ白い包帯で在る事がよく分かっただろう。
その色は、まだ巻かれてから新しかった。
(本当に私とした事がとんだ失敗を……。まあ怪我した場所の直ぐ近くに、手当をしてくれる屋敷が在ったのが不幸中の幸いかしらねぇ)
とは言え。
文はその闇を暗としない黒い瞳で、道の先を見た。
竹林のその微かな先。人の世の物だと思われる灯りが、小さくぼやけて映ってくる。
ここから自分の住処まで、人里を越えさらにその山の奥まで。飛べば小一時間も掛からない距離を、今は歩いて帰らねばならないのだ。
(……はぅあ)
それを思うと、自然と吐く息も足取りも重くなる。
だがのんびりしていれば、それこそ夜が明けてしまう。
(ん?)
ふとその時、文の鋭敏な感覚が上空に何かを捕らえた。
いつも共にしているカラスでは無い。彼は一足先に住処の方へ戻らせている。
カラスなのに夜目が効くのかと問われれば? まあそこは仮にも妖怪である文と共にあるカラスだ。普通のそれとはひと味もふた味も違う。
そんな事よりも、文は周囲に警戒を走らせた。
――今夜もまた~ 深い森の中~。
遠くから響いた声に、文は周囲に警戒を強めた。
例え飛べなくても、並の妖怪なら遅れを取るとは思ってないが。それでも今みたいの場合は、避けれる厄介事は避けるにこしたことはないのだ。
身体的理由ではなく、主に精神的な理由で。
――迷い込む~ 不幸なカラスが一匹~。
声は一定の旋律をもって聞こえてくる。それは歌声と言っても差し支えない。
酷く不吉で、不安を呼び起こすな旋律だと言うのに、歌い手の声質が妙に明るいせいだろうか? こんな夜に聴くにはひどく不釣り合いな印象を受ける。
「だれ?」
文は意識して低めの声で呼びかけた。いつもより大きい声で尋ねたつもりだが、その声は竹林に吸収され、酷く小さく、頼りなく響き渡る。
逆に、歌の主の声は大きいわけでもないのに、竹に反響でもした様にまるでステージさながらの存在感を際だたせていた。
――カサリッ。
竹が揺れる音は真上からした。
文は反射的に見上げ、腰を落とし身構えた。
空から振ってきたそれは、そのまま大きな落下音を立てる事もなく、文に似た羽音を鳴らして目の前に降り立った。
「な~んだ残念。人間かと思ったがご同類? それもカラスときたもんだわ」
先ほどの歌の余韻がすこし残っているのか。そいつは流れるようなイントネーションで早口にまくし立てると、文の瞳を覗き込むように顔を突き出してきた。
文と同じくらいの少女だった。
自分よりわずかに小柄な体を、白と深紫で分かたれたワンピースに包んでいて、それが宵闇に溶け込んでひどく似合っている。
頭には衣服と同じ柄のフリルの着いた帽子。小さな卵形の顔には、どんぐりみたいな大きく丸い瞳が付いていて、可憐な外見へさらに愛くるしさを添えていた。
だが少女自身が文を“同類”と言ったように、彼女も人間ではない。
複雑な形をした、文と同じ猛禽類の翼と、指の三~四倍はありそうな長い爪。羽毛で覆われた細く長い耳。
「ミ、ミスティア……さん?」
文の知った顔だった。とたん彼女は言動を営業用のものに切り替えた。
ミスティア・ローレライ。
この人里の周り中心に住み着いている『夜雀』と呼ばれる妖怪である。
人に害成す妖怪であるくせに、焼き鳥撲滅運動なる物を謳って、人里の近くに屋台を作ってしまった一風変わった性格であり、興味を惹かれた文は以前この夜雀の下へ取材しに訪れた事があった。
「ん、あんたいつぞやの文屋じゃん?」
突然に己の名を呼ばれ、ミスティアが怪訝な表情を浮かべたのは一瞬だ。直ぐに文の顔が自分の記憶と一致したのだろう。
「文。射命丸文です。ちゃんと名前覚えてください」
「なんであんたが、こんな所歩いてるのよ~?」
人の話を聴いているのかいないのか――多分聴いていないと文は思う、ミスティアはうんとも言わずに問うてきた。
「ミスティアさんがここで気まま歌ってるのが自由であるように、私が今ここに居るのは私の自由ですよ」
「……ふ~ん」
自分から問いを振っておきながら、それだけで彼女は文に興味を無くしたようだ。
なので文が続けて紡いだ言葉は、何気ない言葉で相手の話を引き出すと言う、取材に置ける常套句がすでに文にとって、癖というか習性に近い物に成っていたからかも知れない。
「まあでも……なんで“歩いている”かと言われれば。ちょっと先ほど取材中に事故に巻きもまれましてね。この有様だからです」
そう言って文はミスティアの前で、ゆっくりくるりと回って見せた。
ミスティアの視界に、包帯で巻かれた痛々しい黒羽が映り込む。
「うわっ。ど、どうしたのよそれ~?」
どうせ軽くいなされるだろうと思っていたのだが、ミスティアは食い入るようにその包帯を凝視し心配そうに表情を歪ませたので、文は少し面食らった。
「……んまぁお恥ずかしい話なんですが。先ほど向こうで人間二人の喧嘩……というか、火遊びの様を取材していたんですがね。ちょいと失敗して逃げ遅れまして、ああもう今から思い出しただけでも一生の不覚で」
「取材って……大丈夫なの?」
「え? ああはい。不幸中の幸いってヤツで、写真のネガも手帳も無事でした」
「そっちじゃなくてさっ。翼の方だよ、つ・ば・さ?」
「え? ああ」
「もしかして全く飛べないの?」
「だからこうして、夜道を歩いているわけですがね?」
言ってしまって、ちょっと失礼だったかなと文は後悔した。
ミスティアの表情を見る限り、どうも本気で心配してくれてるみたいなのだ。それなのに揚げ足を取るような物言いをしてしまった。
だがミスティア本人は、それを気にした様子が全く無いようだった。
目の前で「う~ん」と何やら眉をひそめて、難しい表情で考え込んでしまっている。
「あ、あのぅ……ミスティアさん?」
「よし大丈夫、きめたっ!」
ミスティアは突然張りのある美声を響かせると、腰に両手を付けた体勢で文に向き直った。俗にいう仁王立ちという恰好だが、もともと愛らしい顔と衣装だけあって、全然威圧感はない。むしろ小さな子供が背伸びして大人のマネをしているような、そんな微笑ましさすら有った。
「というわけで文屋さん、今夜は私の家に泊まりに来てよ」
「……え? はいぃぃ!?」
いきなりの申し出に、夜の竹林にもう一つ少女の美声が響く。
「うん、ここで会ったのも何かの縁だわ。同じ鳥同士、焼き鳥撲滅を誓い合った中でもあるし」
「いや鳥同士はともかく、焼き鳥撲滅は」
「さて、そうと決まったら早速行きましょう。大丈夫、私の家はここから歩いてでも直ぐよ~」
気分が一人乗ってきたのか。ミスティアは語尾をメロディラインに乗せて文の手を握った。
「ちょ、ミスティアさん? いやあの……」
既に文の声など耳に入っていないのかも知れない。
夜も更けた深夜の森。今宵、夜雀の歌声に強引に誘われた鴉天狗は、訳も分からぬままその雀のお宿に身を置く事となったのである。
【Scene-two】
連れてこられたミスティアの住処は、二人が出会った竹林から半刻も歩かぬ人里の外れに有った。
前に取材に訪れた事もあり無論始めての訪問ではないが、改めて人に害を成すはずの妖怪の住処がこれほど人世の傍にあることに驚きを禁じ得ない。
元々は自然の洞窟などを住処としていたミスティアだったが、屋台を始めるに当たって、体よく見つかった廃屋を自分で直して使えるようにしたのだと、前の取材で聴いた。
それらを総合して考えると、いかに彼女の屋台が類い希な、同時に好評の上で繁盛していたかよく分かる。。
人に害成す存在ながらミスティアはその屋台経営によって、人里の皆から一目置かれる存在と成っていたのだから。
もちろん裏の事情を勘ぐろうと思えばいくらでもできる。
ミスティアが屋台を出してから、彼女が人を襲ったという話は一切聴かない。
だとすれば。里の人間に手を出さない代わりに、里から屋台で使う食材やお酒などを定期的に差し入れする。そんなやり取りも、例えば村を守るあの半獣との間に有ったのかも知れない。
もちろんこれは文の推論に過ぎないが、でも十分あり得る事のような気がする。
久しぶりに訪れた屋台はいつもと変わらぬ佇まいでは有ったが、しかし以前とは決定的に違う所があった。
前は夜通し赤々と煌めいていた提灯の火が消えていたのだ。
そしてそれに合わせて、前は順番待ちの列すら有った人影も見る事が出来ない。
「あのミスティアさん。お店のほう、一体どうされたんですか?」
「ん~?」
文のきょとんとした率直な問いに、前を行くミスティアは後ろも振り向かずに軽い返事を返す。
「だってさ、もう八目鰻の捕れる時期じゃなくなったでしょ? だから今は商売お休み中」
「………はぁ」
そう言えば取材の時に、もうそろそろ八目鰻の冬眠時期で捕れなくなると話していた気はする。
でも確かその時は。
「じゃあ結局、鰻とか泥鰌とか混ぜて出すのは止めたんですか?」
文は昔の記憶を掘り出しながら問う。
「ミスティアさん、何気に料理の腕は悪くなかったんですから、騙さずに普通に売ればそっちだって評判になったと思うんですけどね?」
「何気は余計~」
「あ、すいません」
文は咄嗟に謝り、素直に失言を詫びた。
そう。これも失礼な事かも知れないが、彼女の料理の腕は意外にも良く、仕事の世辞抜きにして本当に美味しかった。
普段何を考えているか分からず、年中ふらふら遊んでばかりいるような夜雀風情に、まさかこんな特技が有るとは誰が想像したであろうか?
「だって目が良くなる八目鰻じゃないと、私が鳥目にする意味が無いじゃない?」
「………は、はい?」
要領を得てないミスティアの答えに文は言葉に詰まった。
そもそもミスティアはそういう目的で八目鰻を売っていたのだったか? 確か焼き鳥撲滅がどうのこうのと言っていた気がする。
それに前の取材の時には、もっと無茶苦茶な理由を言っていた気もする。
それこそ自分が歌える場所があるなら、あとはどうでもいい的なノリの。
でもまあ良い。おそらく彼女自身、自分で意味など理解していないのだろう。
「さてと文屋さん」
「アヤですって」
「お腹空いてない? 家に着いたらなんか作るけど、ああ大丈夫。店はやってないけど料理できる準備は止めてないから」
「もしかしてミスティさん、今自炊ですか?」
「うん? ええそんな感じ」
「じゃあさっき竹林で、人間を待ちかまえていたのはなんでです?」
「夜雀が夜道で人を鳥目にせずに、どうして夜雀が名乗れるって言うのよ~」
「………はぁ」
いまいち会話の節々が飲み込めず、話していて非常に疲れる相手だ。まあそこが彼女らしいと言えなくもないのだが。
苦笑いを浮かべながらも、結局文はミスティアに料理を馳走に成る事を伝えた。
彼女の性格や言動はともかく、実際お腹も空いていた。また何より今一度、幻想郷の隠れたこの名シェフの、手料理を久々に食べてみたくなったからであった。
「まあそんな訳ででしてね。暫くは絶対安静、新聞の方もお休みです」
丸い小さな卓を挟んで向かい合う文とミスティア。
所狭しと並べられた深夜の食卓で、文は先ほど起きた事故の事をミスティアに話していた。
焼いた魚に、山菜の佃煮。白味噌を使った汁物。茶碗に山と盛られた白米。
そして中央に置かれた一升。猪口は互いのどちらにも用意されていなかった。
「ああ。あの竹林の中に住んでる人間には、私も何回か燃やされそうになったのよね~」
「どうせミスティアさんの方から、ちょっかい掛けたんでしょ?」
「貴女だって同じ様なもんじゃな~い?」
「私のはれっきとした取材です。まあアポは取ってないですけどね」
適当に答えて、文は一升瓶を手繰り寄せ、そのまま詮先に口づけて呷った。
用意したのはもちろんミスティアだが、どうやら彼女自身は飲まないらしく、専ら文専用の飲み水になっている。
卓を囲ってまだ八分の一刻すぎていないというのに、升は既に三分の一ほどを減らし、文の頬はわずかにだが赤らみを帯びていた。
まあ顔に出るだけで全く酔った気配を見せないのが、さすが飲兵衛で知られる天狗の種という所か。
「でもう~ん、そっか。暫く新聞はお休みか~」
「……?」
呟きながら不意に寂しげな表情を浮かべたミスティアに、文はふと違和感というより疑問を抱いた。
いや正確には、竹林で会ってからずっと疑問には感じていたのだ。
はたして彼女は、こんな性格だったろうか?
前にあった時はもっとこう、他人に無関心というか。自分のやるべき事以外に無関心と言うか。
こうやって情にほだされ他人の世話を焼くような感じでは無かったはずだ。
文が前に、彼女の事を書いた記事を持ってきた時。彼女はそれに興味も示さずずっと歌っていたのだ。
今この食事の時だってそう。本来なら文の話など全く意に介さず「私の歌を邪魔しない」とか言って、延々彼女の歌をBGMに食べる事すら覚悟していたのに。
だが現実はどうだろう。彼女は歌う事もせず、むしろ自分から積極的に文から事情を聞き出そうとしている。
(暫く会わない内に、何があったのかしら? 店も今はやって無いみたいだし……それとも何か関係が?)
まあその思惑はともかく。今は相手の調子に合わせて話し込む事にする。
「まあ仕方ないですよ。今無理して……今後の活動に支障がでたらそれこそ目も当てられないですし」
そう言いながら、文自身完全に割り切った訳ではないが。
「まあでも例え飛べなくても、ネタ探しならどこでも出来ますしね」
「へぇ……例えばどんな?」
「何処でもです。人の噂の集まる場所なら何処でもね?」
本当はそれほど簡単な訳でも無いのだが、それは別に目の前の夜雀に言うような事でもない。
それにこんな事でミスティアを心配させる必要もない。尤もこれは単に、文の杞憂かも知れないが。
「ふ~ん、そっか~」
そう呟いてミスティアは目を細め微笑むと、視線を上げ口をもぞもぞと動かした。
何か考えている様子だったが、はたから見ていると少し気味が悪い。
「でもミスティアさんこそ、勿体ないですよ」
「え?」
「こんな料理上手いんですから、八目鰻が捕れないって理由だけでお店を休業するのは勿体ないと思います」
文は頃合いを見計らって、先ほどの疑問を少々つっついて見るとこにした。
「そ、そうかな? 本当にそう思う?」
「ええ。本当の話、私が取材を通して知り合った方々の中でも、ここまで腕が立つ方ってそうそう居ないと思いますよ?」
それこそ紅魔館のメイド長とか。冥界の御庭番師とか。
「へぇ……なるほど」
「……」
ご機嫌な表情のミスティアをよそに、文は心の中で「おや?」と疑問を浮かべた。
外で聴いた時と違って、急に聞き分けが良くなってしまった。
本当なら渋る彼女を上手く誘導して、真相を聴きだしてやろうと思ったのに。
(ん、まあ良いですけどね)
実際、文がミスティアに言った事は本心だ。それで彼女がまたやる気になって、店を再開してくれるような事になれば、それは仕事を抜きにして嬉しい。
(ふふっ。結構良いもんですね……こういう取材抜き、完全プライベートで他人と……いえ彼女と呑むと言うのも)
ミスティアの笑顔を肴に、文は再び眼前に置かれた一升瓶を呷った。
それから食事が終わった後も、二人だけの語り合いは続いた。
話の内容は主に、文が日々取材で集めたネタを面白く、時には脚色や独自の偏見などを交えながらミスティアに話してやると言う形だった。
極秘なはずのその情報を、本来なら他人に話すような事はしないのだが。しかし何故かミスティアだけには話しても言いような、彼女にはまるで長年連れ添った親友と話している様な親近感さえ文は感じていた。
ミスティアの方もそれを上機嫌のまま聞き入っていた。相づちを打つ口調は歌うように流れるが、それは決して目の前の文を無視した、普段の彼女の歌声とは結びつかなかった。
その内に文は、この急激なミスティア変わり様や屋台休業の真相などどうでも良くなっていた。
楽しかった。この陽気でつかみ所の無い彼女と過ごす時間が、純粋に楽しかったのだ。
そして時はあっと言う間に過ぎ、そろそろ空が明けようかと刻限。
切っ掛けはミスティアの大あくびと、同時に空になった一升瓶だった。
「そろそろ夜明けも近いね。もう寝よっか文屋さん?」
「そうですね、そろそろ頃合いですか。どうもご馳走様でしたミスティアさん」
「着替えは私のスペアで良いでしょ? 見た感じそんな体つきも違わないし」
「はいありがとうございます。こう言う時に同じ羽を持つ身では嬉しいですね。他の人だと体格どうこう言う以前に着れませんから」
肩を竦めて背中の翼を動かして見せた文に、ミスティアは「そうだよね~」と笑った。
「ところでミスティアさん。ご厄介にやる身で少々厚かましいとは思うんですが」
「うん、なあに?」
「お風呂って貸して貰えませんか?」
文の問いに、ミスティアは少々渋い表情を返す。
「お風呂はあるには有るんだけど、私普段使わないから沸かしてないわよ?」
「え? ああ……そうですよね」
今ミスティアが住んでいる此処は、廃屋を彼女自身が直して住めるようにしたものだ。
それ以前のミスティアは洞窟などに住処を構えていたというのだから、人間のように風呂に入るという習慣は無いのかも知れない。
と言うよりも、文など生産的活動を行っている妖怪ならともかく、ミスティアのように自然の中で暮らすほとんどの妖怪は、湯に浸かるという習慣を持っていなくて当然だ。
「じゃあ体を洗う時なんかは、やっぱ水浴びか何かで?」
「うんそう。もうちょっと里へ入った先にさ、結構開けた湖があるのよ。だいたい起きて直ぐかな、そこで体は洗ってるわ。貴女も明日来る?」
「そう……ですね。お願いします」
仕事がら良く家を空ける文にとっては、水浴びも別段珍しい事ではなかった。
「よし。じゃあ寝ようか。……って、あっ」
そう言ってミスティアの動きが止まったのは、二人で席を立った直後だった。
「どうしました?」
「う~ん。泊めるって言っといて何だけど。よく考えたら私の所。布団が一枚しかないじゃない~」
「ああその辺はお構いなく。私、何処でもどんな形にでも寝られる体質なので」
その気になれば座ったままは元より、水の中に浮いた状態で眠れる自信が文にはある。
これも彼女の仕事柄、毎日の過酷な取材を行う間に身に付いた悲しい性と言えるが。
「う~ん分かったわ。ゴメンナサイ」
ミスティアの素直な謝罪を最後に、二人は彼女の寝室へと向かった。
そしてこの時、まだ文は知るよしもない。
今夜関わった彼女に関する事で、ある意味で最も驚くべき真実を目の当たりにする事に成るなどと。
そしてそれはこれから己の感情を揺らめかせ、その方向すらねじ曲げてしまう事になろう事を……。
【Scene-three】
窓から射し込んでくる目映さを瞼に感じて文は目を覚ました。時刻はそろそろ陽が南中に差し掛かろうかという所だ。
片方だけ立てた膝に乗っけた額をゆっくりと持ち上げる。
すっと見開いた瞳で見た室内に、既に人の気配はしなかった。
正面。綺麗丁寧に三つ折りされた布団がある。ミスティアはどうやら先に起きて出たようだった。
そのまま持てあました視線の直ぐ先。文の隣にこれもきちんと畳まれたネグリジェが置かれたままになっている。
ミスティアが文の為に用意してくれたスペア分の寝間着だが、結局文はこの寝間着を着用する事を、その直前で断った。
故に今、座ったまま寝た文は普段着のままである。
「は~ぁ」
文は自分でも無意識の内にため息を吐いた。片手で己の胸元に触ると、今度は自然と肩が落ちる。
文が事を目撃したのは、ちょうど二人して着替えようかとしていた時。あの長い爪で器用に自分のワンピースを脱ぎ捨てたミスティアを見た瞬間だった。
文は硬直し、絶句した。
『どうしたの?』と問いかけると同時に怪訝な顔を向けてくるミスティアに、文はどもりながらも何でも無いと返す。
ミスティアの姿を上から下へ、そして下から上へ眺め回し。
そして視線が二、三往復した後……負けたと思った。何が負けかと言われれば、もうそれはいろいろだ。
正直な所、文だって自分が女で有る事に、そこそこの自信はあるはずだった。
だが突然目で前に罪無く晒し出させたそれは、そんなそこそこの自信など、それこそ自分が操る暴風の様に吹き飛ばしてしまう程の絶世さだった。
(まさか……)
そうまさにその“まさか”が存在していた。
普段体のラインが判りづらい、愛らしく派手なワンピースの下に、まさかあの様な“爆弾”を隠し持っていたなんて。
『あ、ミスティアさん。やっぱり私このままの恰好で寝ますね。ネグリジェってなんか私のイメージに合わないと思いますし』
『え、そう? まあ良いけど?』
突然の拒否にミスティアはとても残念そうな表情を浮かべ、それが文の良心をわずかに苛んだ。
でも取り敢えず“危機”は回避できた。
いざ着てみたら、胸元はぶかぶかの代わりに腰周りは苦しいとか? もしそんな事になろう物なら、文はそのそこそこの自信すら粉々に打ち砕かれかねない。
そう見た目では、二人の身長と体格は同じくらいなのだから。
(まあ今から冷静に考えると、ネグリジェなんてよほどサイズが違わないと着れないなんて事は無いけど……。どうも相当動揺してたわね~私)
まあ取り敢えず、寝起きから思い出して凹むのはこの辺にして。
文は自分に気を入れ直すかの様に、すくっと立ち上がった。
両掌を天上へ向け、思い切り背伸びをする。
「ん……う~んっ。さてと……彼女ははたして何処かしら?」
どうも家の中にいる気配は無い。
昨夜の会話を思い出す限り、水浴びにでも行ったのだろうか。
文の事も湖に案内するとか言っていたが、あの夜雀の事だ。そんな約束、寝て起きたら忘れたという可能性も大いにある。
「なら……ちょいと探ってみますか」
寝室を出て食卓と厨房も確認するが、やはりどこにもミスティアの姿は無い。
そのまま外へ出た瞬間、文の鼻孔を竹の青々しい匂いが掠めた。
伸びたそれは空からの射陽を遮り、真っ昼間とは言えここはいくらか薄暗い。
通り抜けた風は竹をざわざわと揺らし、文の所へさまざまな情報を運んでくる。
「さて……と」
文は視覚を閉じ、風の流れに意識を集中させた。
風は文にとって高性能のレーダーと同じだ。
水中のイルカの様に、洞窟の蝙蝠のように。流動する風は、あらゆる方向から、多量の情報を文の下に届けてくれる。
(確か……湖があるって言ってたけど)
飛べない文を連れて行くと言った手前、それほど遠い場所に在るわけではないだろう。
風の動き、音、匂い。文はそれらを全身の感覚で感じ、そして見つけた。
他から吹いてくる風より、若干重く水気を含んだ風の方向。そして同じ方向から風に乗って運ばれてくるそれは……。
「うた……ごえ?」
誰かが、水辺で歌っているのだ。
この場合誰かはもう考えるまでもない。
文は瞳を閉ざしたまま、歩き出した。
確かに近い。多分……このままゆっくり歩き進めても八分の一刻も掛かるまい。
――跳ねる翼に~ 輝くお陽様~
滝が落ちる腹に響く轟音が生でも聞こえて来るに従って、その声も徐々に明確な詩(うた)を帯びてくる。
――跳ねる心に~ 輝く湖~
相変わらず旋律は暗く、歌う声は明るく。だがそれでも彼女の歌はちぐはぐな印象を与えない。
――天へと跳ねる事を忘れた少女に~ 一夜 私は~
「――をした~」
(っえ?)
ミスティアの歌は、一部水飛沫にかき消され文には聴き取れなかった。
はっと、不意に文は視界を開いた。
もう既に数十メートル先、竹林は自然な形で開かれていた。
その中央に中距離走のトラックなら引けそうな大きさの、薄藍色をした水面がたゆたっている。
その、文から見て左端の方。そこに彼女は居た。
腰下まで湖に体を浸し、まるで空を見上げるように顎を天に突き出し、両の腕と手の平は深呼吸をするかの如く目一杯開かれている。
その肢体には当然……何も身につけていない。
――ばさりっ。
彼女の背中で、大きな翼がはためき、風を水面に押しつけ飛礫を巻き上げる。
日差しに飛礫が煌めき、彼女の裸身に降り注ぐ。
しっとりと濡れた薄紅色の髪は艶やかで、見開いた瞳は何処までも深く澄んでいて。
(汀-みぎわ-におりた、純 天 使……)
ふと文の脳裏に、そんな見出しが浮かんだ。
そう。文の感覚で例えるならば、絶好の被写体と呼べる存在が眼前に存在していた。
しかし文は、ミスティアの家を出る時、カメラを持ってこなかったのを後悔しなかった。
なぜならば。彼女の網膜と脳裏、そして何より心の奥に焼き付いたこの光景を、文は忘れる事など不可能と思ったからだ。
ふと……我に返ると、息が乱れていた。無意識に呼吸を忘れていたのか。体はその遅れを取り戻そうと、心臓に早鐘の如く強く早く打ち続けさせる。
(ううん……。この胸の高鳴りは、決してそれだけじゃなくて……もっとその……)
文の混乱が収まらぬ内に、どうやら向こうもこちらに気付いたようだった。
「あ、やっほ~文屋さんっ!」
その大きく手を振る仕草のあどけなさが凄く無防備すぎて、文は惚け状態から立ち直ると生唾を飲み込んだ。
「射命丸文ですよ。いい加減……覚えてください」
てくてくと早足で近づきながら、文は肩でため息を付く。単なる照れ隠しだと言う事は、文自身が一番良く分かっていた。
「水浴び中ですか? 良いですね~、こんな雲一つ無い快晴の日には絶好の日和です」
「うんホントに。貴女もどう? とっても気持ちいいよ」
「え、ええ……まあ」
笑顔で問うミスティアに、文は曖昧に微笑んだ。明らかに固くちびるが引きつってはいるが、細めた瞳の効果もあって彼女にはなんとか笑ったように見えるだろう。
(実際……ここに来るまではそうするつもりだったんですけどね~)
だが……。
文は改めてミスティアの肢体を見つめた。
どちらかというと、まだ華奢な部類にはいるだろう。だがそれでいて、胸元の双丘は文以上に豊かに盛り上がり、つんと重力に逆らう張りの良さが小憎らしい。
きゅっと絞った腰の下へ艶やかな楕円を描く臀部。そしてまたそこからは真っ白い脚線が伸びて湖の底へと消えていた。
淑女の様に妖艶で、しかし己の艶やかさに気付いていない少女の表情は、そこに純粋な健康美をも混同させていた。
いつものふりふりワンピースではなく、肩ごしから腰元までざっくり切ったイブニングドレスでも着れば、きっと見た目より五つは大人っぽく見られるだろう。
まあ実際の話、ミスティアの実年齢が幾つなのか文は知らないが。
「もったいないですね~」
「え? 何が」
無意識の内に独り言が突いて出てしまったのか、ミスティアの問いかけに文はどぎりとして慌てて言いつくろう。
「いやその。こんな日に勿体ないとは思うのですが、やはり私は遠慮させていただきます。よくよく考えたら、翼の傷口を水に濡らすわけにはいかないですからね?」
本当の理由は、彼女のあまりに見事な肢体に、自分が引け目を感じてとても肌を晒せないから……などとは絶対言えない。言いたくない。
だが話の流れも筋も通った文の言い訳に、ミスティアは納得したようだ。
「そっか。そうだよね~」
「と言うかミスティアさん。寝る前ご自身で誘っておいた癖に、忘れてましたね私の事?」
「そうだっけ? ごめんごめん」
文が苦笑いで問いつめると、ミスティアはホントに覚えていなかったらしく、少しだけ困ったような表情で謝った。
「いえ別に良いですよ、あはは」
「あ……ならさ、貴女の体だけでも、私が拭いてあげる」
「え?」
「ほら」
言ってミスティが指したのは、湖の淵に置かれていた彼女の脱いだ衣装だった。
小さく畳まれたその上に、大きめのタオルが一枚置かれている。
「ねえ、良いでしょ。それくらい私にやらせてくれても?」
「でもあれって、ミスティアさんご自身が」
「平気よ。これだけいい天気なら、自然に乾いちゃうわ~」
何度か問答あったが、文は結局折れて、ミスティアの提案を受け入れた。
彼女の前で自身の素肌を晒し、彼女の手で体を拭いて貰う事になった。
そして……その後ミスティアがタオルを取りに行く為に後ろを向いた時。ふと文の中に浮かんで来たのは、ほんと些細な悪戯心だった。
別にミスティアがタオルを取りに行くのを、最後まで妨害しようと思ったわけではない。もしかしたら彼女の女性らしさに対する軽い嫉妬もあったかも知れないが。
でもそれはただあまりに躊躇無く無防備に背中を晒すミスティアを、ちょっとびっくりさせてやろうと言う……いわば子供が好きになった女の子をワザとからかうような、そんな童心めいた悪戯でしか無かったのだった。
文は風を操る妖術をミスティアの後ろ、揺れる水面に構えると、小さく声を発した。
「あ、ちょっとすいません。ミスティアさん?」
「ん?」
振り向いた刹那、文は集中ししてた能力を開放した。
「えいっ!」
「なっ、きゃぁ!」
瞬間、ミスティアの眼前に叩くような突風が吹き抜け、水を上空へと押し上げた。
津波と成った水面は飛沫を巻き上げ、最も近くにあった人物を飲み込む。
波の勢いに押されてミスティアはバランスを崩し、水底に尻を着いて転倒する。
「くすっ……あははっ」
首の下まで水に浸かりきょとんとするミスティアに、文はからからと大きな笑い声を発した。
「んもぅっ、やったなぁっ!」
両腕を握り、振り上げるミスティアの言葉は荒げた物だったが、その表情は文と同じく楽しげだった。
ミスティアはすぐさま立ち上がり、バサリと羽の水を切り落とすと、そのまま水面近く飛び上がった。
そしてそのまま水面をぎりぎりにホバリングの要領で文に近づくと、文の一歩手前で勢いよく急旋回し、翼のはためきで起こした津波を同じくぶっかける。
「うわっぷっ……ぺっぺっ!」
文はそれを避ける事も出来ず、見事に被った。もし避ける事が出来ても、もしかすると文は避けなかったかも知れない。
「あはははははっ、おかえしよ~とっ!」
「やってくれますね……ミスティアさんっ!?」
不敵な笑いを浮かべて文はもう一度、風の念を放った。
叩く風が再び飛沫を上へ、ミスティアの方へと舞い上げる。しかしミスティアはそれよりも早く翼を大きくはためかせ、遙か上空へと逃れていた。
「あっ、空へ逃げるなんて卑怯ですよっ!?」
「なによ~。最初に不意打ち食らわしてきたのは、貴女じゃない~。それっ!」
言ってミスティアは急降下。再び水面ぎりぎりからのホバリング攻撃で文を狙う。
しかし文の方はそれを読んでいた。
ミスティアが近づいてくると予想したルートに、予め風を使って波を作り上げる。
「あっ、しまっ、きゃあ!」
突然の四方八方からの攻撃に、ミスティアは飲み込まれ撃沈した。
そして二人の間にいつもの弾幕ごっことは違った、空対地上の水遊びが始まった。
二人は風を起こし、時には己の手足を使って、相手に少しでも多くの水の弾幕を打ち当てようと必死になる。
お互い真剣だが、しかしその表情には笑顔が、口からは笑い声が絶えなかった。
水を掛け、掛けられ。すでに当初の目的である、ただミスティアにタオルで拭いて貰うという事は忘れていた。
水で翼の傷を濡らさないという、その根本にある理由などどうでも良くなっていた。
なにしろ文の服は今もうずぶ濡れで、その下に付けた下着の色までもが簡単に分かるような様なのだから。
しかしそんな事も気にせず、いや気にもならずに文は遊んでいた。目の前に現れた汀の天使とじゃれ合い、童女の様に戯れる自分。
何百年も生きてきたが、こんな些細で幼稚な行為をこれほどまで心から楽しんだ事はなかったはずだ。
目の前に、波の向こうに、光の中に、彼女の笑顔が舞っている。彼女の美しい声が聞こえてくる。
久しぶりに、本当に久しぶりだった。これほど笑ったのは。他の誰かと腹の底から笑い会えたのは。
普段取材している時にある愛想笑いではない。記事を書いている時には味わえない、極上の開放感。
新聞を読んで貰った人から貰える感想とは、また違った優越感。
(仕事だとか、取材だとかそんなの関係無いわ……。今私は……彼女と居る事が、純粋に楽しいんだわ。私は彼女が好きなんだ。そして彼女と居る自分が好きなんだ……)
不意に高く巻き上がった風が、こちらに突進してくるミスティアの事を巻き込んだ。
「きゃ、きゃあ!」
先ほどとは違う、驚きと恐怖を含んだ悲鳴がミスティアから洩れる。
「ミスティアっ!」
彼女が突風に翼の動きを取られ、制御できずに落下してくるのを見た瞬間。文は考えるよりも早く飛び出していた。
――ズギンっ!
背後で痛みを感じたのは一瞬。とても気にしている場合じゃない。
空を切り、風を裂き。浮かび上がった我が身に、ミスティアの体が急速に近くなる。
落ち行く彼女のきつく閉じられた瞳は、伸ばされた文の手が彼女の手を掴んだ瞬間に大きく見開かれ。そして文は空中で、ミスティアの膝と肩を抱きかかえた。
(良かった……ぬっぁ!)
安心した瞬間、今まで意識の外で麻痺していた痛覚が甦る。激痛が奔り、ミスティアの瞳に引きつった自分の表情が映り込んでいた。
急に感じられる墜落感。
そこで不意にミスティアの表情が優しくとろけた。彼女の両腕が文の首に絡みついて来る。
(だい…き。……あや…)
ミスティアの唇が一瞬、そう動いた気がした。
そして文の中で疑問が発生するより早く、ミスティアは顔を近づけ、自分の唇と文の唇を重ね合わせた。
(……?)
刹那……文はそれ以外の感覚全てを忘れた。
背に奔る痛みも、息切れして騒がしい肺の動悸も、落下感も。
己の唇を塞ぐ温かく、湿った感触。脳の奥で焼き付くような閃光が瞬きを繰り返し、文の視界をクリアに、しかし真っ白へと染めていく。
「……はぁっ」
洩らした熱いため息ははたして自分のだろうか? 彼女の方だろうか?
文がどぼんと湖の深い場所へ落ちたのは、自分がいつの間にか彼女の肩を強く抱き締めていた事に気付いたのと同時だった。
二人分の盛大な水飛沫が昇って数秒の後、小さな気泡を合図とするかのように突如水面に二つの頭が出現した。
もちろん文とミスティアの二人だ。
「っぷはぁ、鼻から水入った~」
大声一番、不満を口に出したのはミスティアだった。
「申し訳ありませんミスティアさん。怪我の方無いですか?」
二人は肩がくっつく距離で器用にも立ち泳ぎ、顔を見合わせる。
そのお互いの瞳に映った己の表情は、今の空の様に晴れやかだった。
「それは平気」
「元々、湖の中程まで飛んでいてくれたのが幸いしましたね」
この湖は、外側は比較的浅く腰下まで浸かる程度の深さしかないが、ある一定距離進むと途端に深くなっている様だった。最初にミスティアが居た辺りに落ちたのだとすれば、二人とも無事では済まなかっただろう。
「うん。でも」
ミスティアは一端言葉を切り、視線を文の背後へと回り込ませる。
「貴女の方こそ大丈夫? 結構無理して飛んだんじゃ?」
「心配いりませんよ……。まあ傷口はまた開いてしまったと思いますが、再起不能に成るような無茶はしてないはずです」
「そっか……。良かった……」
言ってミスティアは嬉しそうな、でもまだやはり不安が残るような、微妙な微笑みを浮かべた。
「それに……それに見合うだけの役得もありましたしね?」
「え?」
ミスティアの疑問に、文はただ視線を投げる。さきほど触れあった、歌を紡ぐその唇に。
その後、ミスティアの肩を借りて(文の方は平気だと主張したのだが、いつになく強気なミスティアの口調に押し切られた)文は湖の淵まで辿り着いた。
緑の大地に尻と両手を付け、立ったまま自分を惚けたようにのぞき見るミスティアを見上げる。
「どうしました?」
「え、ううん……何でもない」
ミスティアの方はその実、文の濡れそぼった衣服から透ける、その肢体がとても扇情的で見とれていたとはとても言えない訳で。
慌てて顔を背けたミスティアに、文は苦笑いを一つ。そしてこう言った。
「ねぇミスティアさん。もしよければ歌……聴かせてくれませんか?」
「え?」
「さっき私が来た時に、歌っていた歌を聴かせてください」
「え、え? うんまあ……良いけど?」
彼女にしてはやや歯切れの悪い。曖昧な答えだった。いつもなら頼まれなくても四六時中歌っている彼女なのだが。
でも今は文にも何となく分かる。多分……あれは普段のミスティアからすれば、今まで歌った事のないタイプの歌だろうから。
「それじゃ……いくよ?」
不器用にミスティアは今一度念を押し、顎を持ち上げ瞳を閉じた。その頬が微かだが紅渉しているのが分かる。
そしてミスティアは大きく口を開き、大気を飲み込むと数舜の後にそれを喉で奮わせ吐き出した。
「跳ねる翼に~ 輝くお陽様~」
夜雀には似つかわしくない、光溢れる昼の刻を歌った歌。
夜を生きる妖怪にして、もともと太陽みたいに明るい彼女だったが。
「跳ねる心に~ 輝く湖~」
そんな彼女の心は今まさに、風に跳ねて飛沫く、きらきら輝く透明な水のように躍って。
「天へと跳ねる事を忘れた少女に~」
瞬間。ミスティアの瞳が薄く開かれ、文の方を覗き見た。
「一夜 私は~ 恋をした~」
歌い終わるとミスティアは柄にもなく胸をなで下ろし、開けた瞳で文を見た。
気恥ずかしさで真っ赤になっている彼女は、しかし文が何か言おうとするより早く言葉の先取権を奪ってしまう。
「ねえ文屋さん」
「……まあ、もう良いですけどねそれでも。で、なんですか?」
「私ね、明日からまた屋台の方、やってみようと思うんだ~」
「え?」
突然の宣言だった。彼女が再び店を開くのはもちろん文とて歓迎だが、どうにも話の繋がりが見えない。
まあある意味、それは普段の彼女通りと言えなくもないが。
「そしたらさ……。私にも貴女のお手伝いができるかなって思って」
「……っえ?」
文の口を突いたのはまたも疑問だったが。こんどの疑問は、ミスティアの言った意味を理解できず、数秒の間を必要とした。
「一体……どういう事です。私の手伝いって言うのは?」
「昨日貴女が言ってたじゃない。人が集まる所ならどこでもネタが転がってるって」
「……」
確かに。一字一句同じではないが、まあ同様の意味な事をミスティアに訊かせたのは事実だ。
「それならさ~。私がお客からいろんな話を訊きだして、そこから貴女がネタを拾っていけば、今は飛べない貴女でも取材が出来て、新聞も書けるんじゃないかな?」
「…………」
文が言葉を発するには、やはり理解した後も数秒の間が必要だった。
文は――今自分はどんな表情をしているだろうか。
驚きで目を丸くしているだろうか。それとも目を輝かせて喜んでいるだろうか。
それとも……ただ惚けて彼女の、気恥ずかしそうな微笑みを眺めているだけだろうか?
胸の奥から口の中に、甘酸っぱいものがこみ上げてくる。
唾を飲み込んだ瞬間、全身に感じた鳥肌はしかし不快な物ではなく、それはどこか胸が締め付けられる切なさを感じさせた。
抱き締めてあげたかった……。ただ目の前に佇む愛らしい……自分だけの天使を。
「ミスティア……さん」
「ねえ……それ、そろそろ止めないかな?」
「え?」
「私の事、さん付けて呼ぶの。で無いと私だって貴女の事、ずっと文屋さんって呼ぶからね」
ああ……そうか。
文はこの時ようやく理解した。
(そう……もう彼女は私の仕事相手ではないんだから)
文は立ち上がり、真正面からミスティアの視線を射抜いた。
「ミスティア……」
「うん……文?」
お互いに呼び合い、二人は口づけを交わした。今度のは片方から一方的ではない、肩を寄せ合い抱き締め会ったままのキス。
唇を離した後、ミスティアの瞳が悪戯っぽく煌めいた。
「ねえキスの続き……しない?」
「んなっ……ここで?」
「だって早く服脱がないと、文……風邪引いちゃうもん」
歌うように流れた言葉にこの時始めて、文は己のある意味全裸よりも官能的な己の姿に気付き、赤面した。
【Scene-four】
今自分の手の内で高く繊細な声で感情を奏でる歌姫が居る。
その少女の歌を胸の内に聴きながら、文はふと思う。
――人の居る場所なら、何処でもネタになる?
それは確かに間違った事ではないが、実際問題としてそれはやはり現実的ではない。
ネタだけでは新聞と言う物は書けないからだ。
人の噂があり、それを裏付ける証拠があってこそ記事は記事として成り立つ。
翼を失った文には、ネタを仕入れる事は出来ても裏付けを取る為の行動力が圧倒的に欠けている。
そしてもし裏付けを取れたとしても、それを記事起こす道具と、新聞にして刷る道具は文の住処に有り、ここミスティアの住処では無理なのだ。
そう……実際にミスティアの提案した屋台で新聞作りは、絶対不可能とまでは言わないまでも、限りなく難しいのだ。
しかし文はそれでもミスティアに嘘を付いたとは思っていないし、また彼女の提案に対し、取るに足らない案だと適当にあしらったつもりも無い。
あの夜。真摯に心配してくれるミスティアを安心させてあげたかったし、先ほど彼女が自分の為に屋台を再開させると聴いた時には、胸が詰まるほど嬉しかった。
(本当に……彼女の事を好きになって良かった)
自分の方は取り敢えずそれで良い。
だがそれはそれとして、文はどうしてもミスティアに訊いておきたい事が一つだけあった。
「ねえ……ミスティア」
「……ん?」
重なり合った素肌の内、組み合った右手だけを文は名残惜しげに離すと、薄紅色の髪を掻き分け、現れた長い耳に囁きかけるように口づけた。
「どうして昨日の夜。私の事あんなに心配して、泊めてあげようだなんて思ったの?」
そう竹林で会った夜。最初は文などに興味も無かった彼女がある一時を境に、態度を一変させた。
今まで、それだけが文の中で気になっていたのである。
「今……こうやって二人触れあってる事が、理由ってんじゃ納得行かない?」
ミスティアの声は、どこか幼子をあやす母親のような優しさを含んでいた。
「うん……納得行かな~い」
それに対する文の返答は、まさに我が侭を言って困らせる子供のようで。
二人はどちらからともなく、ころころと笑い合った。
ミスティアの豊かな胸が、一度大きく膨らみ息を吐き出す。
「ねえ、文はちょっと前。郷の花が春も夏も、秋も冬も関係なく咲いてた時の事分かる?」
「え、うんまあ」
分かるどころか、絶好の記事になると毎日西へ東へ疾走していた程だ。
「その時にね、私どうも浮かれ過ぎちゃって。一面の毒花の園に迷い込んじゃった事があるの」
「毒花の園? ああもしかして鈴蘭畑の」
文の脳裏に、取材中にあった花の毒によって命を授かったという、一体の人形が思い出された。
まあそれはそれで置くとして。今は耳元で囁く歌姫の声に耳を傾ける。
「その時に私……毒の影響でうまく飛べなくなっちゃったのね。まあその時は直ぐに毒花の場所を離れて支障はなかったんだけど。……どうもその毒が結構後から効いてくるタイプみたいでさ」
「そ、それじゃ?」
「うん。時間が経ったら全然翼も動かせなくなっちゃって。それで更にはどうも喉もやられちゃったみたいでさ」
「……」
「私……歌えなくなっちゃったの」
ミスティアらしくもない悲しい声色に、文は息の呑む。
「私……もうずっとこのままなのかな~って、あの時は本当に怖かったわ」
もう飛べない。もう歌えない。それはこの宵闇を舞い、歌う事で人を惑わす事が生き甲斐の少女に、どれほどの絶望と不安を与えたのだろう。
「まあ実際にはそんな事はなくて、毒が抜けるまで一週間くらいだったかな? それだけ過ぎれば普通に翼も動くし、声も出るようになって。それで今に至る訳だけど」
「……だからなのね?」
「うん?」
「ミスティアが私の怪我に気付いた瞬間、突然親身になって心配しだしたのも」
自分の飛べない恐怖。好きな事が出来ない絶望感。
新聞が書けないといった時の文に、ミスティアはかつての生き甲斐が奪われた時の自身を重ねたのだろう。
だからこそ彼女はそんな文の為に、できるだけ力になりたいと店の再開をも決意したのである。
再び覗き込んだミスティアの瞳は優しげで、しかし困惑している様であった。
「う~んどうかな? こうやっていざ話してみると、そんな気もするしそうじゃない気もする……」
そして彼女は、離れた右腕を自分から絡みつけ再び繋いだ。
「やっぱりさ理由なんか無いんだと思う。私が文の事をこんなにも大好きなのは、今こうやって繋がってる今この時が全部証明してくれるよ?」
「ミス……ティア」
全く卑怯だと思う。こんな間近で、そんな真っ直ぐな瞳と言葉で“殺し文句”なんか囁かれたら……。
「私の方だって……好きって気持ちが止まらないじゃないっ」
「あはは……。ねえ文は?」
「私?」
「うん。文はなんで私の事……す、好きになったのかな~って?」
自分で言って、ことさら頬を真っ赤に染めるミスティアが愛おしい。
「そう……ね」
呟き文は……過去に向かって想いを馳せる。
取材で訪れた彼女の場所。
始めて料理を食べた時。
それから昨日……。竹林での再開。
飲み明かし、語り明かした丑三つ時。
寝る前に感じた、嫉妬心と敗北感。
湖上で見た、水と戯れ歌う天使。
抱きかかえた瞬間奪われた、始めての口づけ。
そして想いを告げあって、訪れた今この刻。
それのどれもが、今思えば愛くるしい気持ちで一杯に満たされる。
どれもが切っ掛けのようで有り、しかし何もが気が付いた瞬間足り得ない。
文はしばしの後、首を横へ振った。
「分からないわ。私がいつ貴女を好きになったのか。気付いたら貴女のその姿に、その声に、その瞳に、その魔力に、私は捕らわれていて。そこから逃げる事すら、ううん逃げる必要すら感じなかった。ほら……昔から良く言うじゃない」
「なんて?」
「恋は盲目って、ねっ?」
「もう……何よ。もしかしてウマい事言ったつもり?」
文が冗談で口走った比喩。それがこのような場合に使う比喩で無い事を説明する必要は、この際無いようだった。
また有ったとしても、ミスティアの方が説明させてくれなかった。
文がその為に用いなければならない口はその後直ぐに、事実盲目にすることが得意な彼女の口によって塞がれてしまったのだから。
その夜以来。寝る布団が一枚しかなくても、昨日とは全く別の理由で困らなかった事は、この際書くまでもないだろう。
また文が先に帰した供のカラスの存在を思い出したのは、このあと三日ほど恋人の傍で、爛れたきった休止活動の日々を過ごし去った後の事だった。
~fin