明滅する光。チカチカ。
色取り取りの鮮やかなレーザービームが網膜に焼き付く。
うち赤いのが私のだ。真っ赤な髪の赤蛮奇達。その一つ一つに差異はない。全てが私、マルチプリケイティブヘッド。
それが一つ、また一つ、黒く塗りつぶされていく。ああ、あれは魔砲の光だ。眩しすぎて闇に見える、奇妙不可思議にも。
――視界がぐにゃりと歪む。ぐらぐらと揺れている。落ちていく。北風にもぎ取られた林檎のように、ふわり、ぽとり。
暁の空が夕闇に染まっていくと共に、私の命一つ放り投げられた。
気が付けば仄暗い。
湿った土の冷たさに堪らず私は飛び上がった。けれどノッポな木々が遮って空には届かない。もっともここが何処かくらい俯瞰せずとも把握できる。狭い狭い幻想郷、森と呼べる景色はそう多くない。
全くもって、随分と飛ばされたものだ。実際の人里からの距離はそうでもないが、感覚的には遠くにあった。
「まずいな……」
つい動揺が声に現れる。寝惚け眼を擦ろうとして出来なくて、渦巻く違和感が徐々にハッキリしていった。探しても見当たらない。首から下が。何ということだろう。何処かで落っことしてしまったか。
生憎私は妖怪の中でもろくろ首、四肢がなくても活動できる。でもないと困る。だから飛び跳ねて探し回る。困る困る、五体満足でないと赤蛮奇足り得ないじゃないか! 何しろ人里に紛れて暮らす妖怪なのだから、人型でなければなるまい。
見渡す限り植物、植物、植物……たまに動いたと思ったら四つん這いの獣とか、鳥とか、虫でハズレだ。人間らしい身体はないのか? 祈りと焦りが入り混じって露も滴る。それでも辛抱強く駆け抜ければ――ああ、やった、やっと見つけた!
心躍り、頬の肉を綻ばせる。これで私は赤蛮奇に戻ることが出来よう。
背丈は大人と子供の中間、九歳とするなら成熟しすぎているが十九歳にはとても及ばないくらい。少女という言葉が相応しいその躰に、私はくっついた。この感触は実に小気味よい。手を結んで開いてみせるが反応に遅れはなく、馴染む。最初から一つだったかのごとく。
軽やかにステップを踏み、高い大木の枝に着地する。そこで枝葉を掻き分ければ煌めく。木洩れ日は赤い。けれどこの赤はどことなく白ずんだ赤だ。だんだんと色味が失われて透き通っていくのがわかる。一晩過ぎて、もう日の出の刻だった。
方角も確認したところで、私は人間の世界に向かって歩き出した。
日の光にさんさんと照らされ、街は蠢く。人々は立ち並ぶ家屋から這い出してざわめき、雑音を浴びせてくる。商人は威勢よく、主婦は姦しく、喧騒を形成していた。
私はそれを避けるように小路地を渡り歩く。人目につくのは好ましくない。妖怪だから、というわけではない。あそこの揚げ物屋、平気な顔して談笑に興じる九尾の狐なんかもいる。ただそういう風には人と接しえないだけだ――苦手なんだ。
それでも人里を拠点にしているのはここが幻想郷で一番平穏だから、以外にはない。妖怪は人を襲わず人も妖怪を退治しない。それがルールであり、リアル。故に平等であり、平穏。人間とも妖怪とも深く関わらなければなおのこと。赤蛮奇なら静かに暮らしたいものだから。
そう思えば早足になる。手前に若いいかにも伊達男といった風貌の者が私に向かって歩いてきたが、声を掛けられぬうちに抜き去った。以前似た感じの奴に捕まったがひたすら不快だった。あの年頃の雄は総じて盛りの付いた猫だ。辟易する。いっそ私の顔が醜い餓鬼のようなら寄せ付けないか? いいや、奇異の目で見られるのも厭だな。
「おっ、ろくろ首の姉ちゃん? 白菜安いよー!」
無視だ無視。大体なんだろくろ首の姉ちゃんとは、ちゃんと人間の格好をしてきているというのに。八百屋が大声出すものだから周りの客も私を振り返り見る。ああ面倒くさい。このまま逃げ出すと余計目立つじゃない。仕方なく白菜……ではなく林檎を一つ買ってからそそくさと退散。これなら懐に隠しておけるわけで、仕舞ったところで小走りになった。
憎々しくも雲一つない晴れ空。汗が首元に落ちる。肉体的な疲労はさしたるものではないが、足を止めた。ふと目に付いた看板に見覚えがあって。すぐさま商い中かを確認し、中の人間の数を見定め、それから暖簾を捲った。
「かけそば一つ」
「あいよ」
背の高い主人はいつも通りぶっきらぼうに返事した。それを聞くと安心して席に座れる。注文はすぐに来たが熱冷ましにしばし箸を置く。
ここは行きつけだった。この先真っ直ぐ行った十字路の角に絶品と評判の蕎麦屋がある、にもかかわらず。比べてこちらはたいしたことない、さして美味くはない。もっとも向こうの蕎麦は食べたことがないので想像して、だ。あんな賑わう店になど入りたいものか。この質実剛健で周りもポツポツ独り身の、淡々と啜っているか新聞を読む合間にする者がほとんど、という空気感が心地良いから、つい腹の膨れない蕎麦なんか頼んでしまう。
「旦那ァ! 焼酎、もう一本!」
「あいよ」
そればかりだ。まだ昼にもなっていないのに出来上がった客に対してもだ。主人も主人だが、客の方も絡まず呑む。騒ぎたいなら別の店に顔出すだろう。自然と笑みが零れて、慌てて湯呑に口を付ける。するとさっきのがまた声を挙げた。
「嬢ちゃん、可愛いのう」
油断した。前言撤回、酔っぱらいに自制心なんかない。ああやだやだ、今この店に嬢ちゃんは私しかいないじゃないか。背中を視線で撫でられてぞわっとする。ただ、それっきりなのは幸いだった。そいつからは。
いつもより早いペースで御椀の中身を平らげ、私は小銭をあるだけ取り出して叩きつけた。すると今度は主人がいつになく言った。
「お客さん」
「釣りならいらない」
「そん服、いつもとちゃいますけど、ええですよ」
「……へ?」
何を言い出すんだ。確かに普段着の赤マントを纏っていないが、どうしてわざわざ指摘する。思わずまじまじと相手の顔を見つめる。そこにチャラチャラとした軽薄な表情はなく、いつもの起伏に乏しい主人、のはずだ。けれどこんなことを言われるのは初めてで戸惑う。
一応礼だけ済ませ逃れた。何だったんだろう。もしかすると多めに支払ったものだから、不器用なりに愛想良い反応を探させてしまったのか。でなければこんな風に容姿を褒められるわけがない、よりにもよってあんな地蔵みたいな男から。
そんなに私、可愛く見える?
人里には珍しい洋風の呉服店の前、硝子で出来たショーウインドウに自分の姿を認める。どことなく、浮足立っているのがわかった。不思議なものだ。こういうの、赤蛮奇なら好まないはず、なのに。
このまま進めば大通りに出るので引き返す。今の自分はいつも以上に人に見られたくない。先程の蕎麦屋に目を合わさず通り過ぎる。けれどあの八百屋と違って二度と行くもんかという気にはならなかった。
とはいえ今や懐には林檎一つが入っているのみだ。いかんともしがたい。
「号外~号外だよ~」
ちょうど空から新聞が降ってきたので足しにする。天狗の落し物は大概脚色が過ぎて中身が空の、読み物としては下の下だが、生憎日が暮れるにはまだまだかかりそうな模様。たとえ小判一枚残っていたとして巫女の出入りする貸本屋などには近づけるはずもなく、手持ちこのまま運河の処まで来ると、橋の下に滑り込んで妖怪の時間の始まりを待つことにした。
「ざるそば、ごまだれで」
「あいよ」
いささか収入があったものだから、私は例の蕎麦屋へと足を運んでいた。主人の声色は昨日と大差ない。相変わらず客入りは多すぎず少なすぎず、騒々しくもなければ目立って気まずくもならない。そして頼んだ品はすぐに来る。
冷ます必要がないのでさっさと麺を薄茶色に浸けて喉に通す。胡麻の酸味が良き助けとなって、箸を進ませてくれる。もっとも醤油だれの方が人気なようで、周りを見渡せば黒々としている。それ故醤油は気に食わなかった。人と同じ物を頼んでおけば安牌だろうと安易に便乗するのには心理的抵抗が強い。
早くも食べ終えて勿体ないので、酒を一杯だけ注文してからもう少し店の雰囲気を味わうことにした。すると目に留まる、あっ、あの客も胡麻だと。
その同属は後から入ってきて「いつもの」とだけ頼んだ時から明らかに目立っていた。桃色の髪はとても人間じゃない。その上自分の二倍も麺を盛っている。間違いない、そいつはたまに人里で見かける仙人様だ。その度に何か食べ歩いていた、ような。
別に知り合いというわけでもないし、向こうも目の前に夢中で浴びる視線を気にも留めない。私はそのまま御猪口の中身を飲み干して、勘定へと移った。
「ありがとやす」
今日は定型句だったか――全く何を期待しているんだか。
店を出て十歩、向かいのショーウインドウ、綺麗に着飾った人形共が私を見つめてくる。懐にはまだ幾何かあった。けれどきっと足りないだろうし、それで恥をかくのも御免だ。いやらしいマネキン相手に首を横に振って、踵を返す。
普段の赤蛮奇らしく人気の少ないほうに歩いていくと、不意に貸本屋から紅白の巫女と白黒の魔法使いが出てきた。慌てて私は身を隠す。あいつらは妖怪に対して容赦がない、とこの身でもって味わったのはそう遠くない出来事だ。関わりたくない人間ナンバーワンツーである。
しかし彼女達が出て行ったということは、今貸本屋に入るチャンスなのでは。私は呉服店では温存した勇気を使ってこそこそと、忍び込んだ。
客は他にいない。店主もいない。どういうことだ? チャンスに次ぐチャンス、お蔭でじっくり品物を見定めることが出来るのだが。
それにしても妙な光景だった。これほどまでに本が積み上げられているのは初めて見る。棚でなく床にまで溢れているのは。
「あった! うわっ」
「ひゃっ!?」
「すすすみませんお客さんいらっしゃい」
店主の不意打ちに驚かされ、素っ頓狂な声を挙げてしまった。慌てて頭の位置を手で確認する。よし、外れてはいない。
冷静さを取り戻せばかえって体温が上がる。妖怪が人間に脅かされるなど恥にも程がある。まさか散乱する本の中に埋まっているとは、埋まるほど小さな子供とは、普通思わないじゃないか。そう言い訳してもどうもこうもない。もし首を落として逆転したとして、人間にビビった妖怪ですと晒すようなものだ。そうなっていないだけ幸いと考えることにして、適当に一冊選んで用を終わらせた。
その勢いに任せて柳の下に潜り込む。息が荒い。肉体的な疲労であるものか、妖怪だから精神攻撃に弱いのは仕方ないじゃないか、人一倍繊細で何が悪いんだよ――そんな風に言い訳じみた思考がめくるめく。
こうなれば本でも読んで落ち着けばいい、と手にした物を開いてみるが、すぐに落胆させられた。意味不明な図形が躍っていて読まれるのを拒む。少なくとも和語でも漢語でもなければ噂に聞くアルファベットとやらでもない。私は余計恥ずかしくなった。とんだヘマをこいたものだ。下種な醜聞紙を浅ましく拾っていた方がマシに思えるほど。何せコイツは返しに行く手間を要する。
深い溜息を吐きかけて本を閉じ、目も閉じる。妖怪に睡眠など別段必要でない、蕎麦と同様に。中には冬の間ずっと寝たきりの大妖怪などいるらしいが憐れみを感じる。よほど暇を持て余しているのだろう、今の私の何倍も。そうはなりたくない。
懐を弄ればいつぞやの果実のざわざわとした感触だけが残っていた。起きたら齧るか。無意味だったはずだけれど、さも必要なことのように思えた。
「本、ここに返しておくから」
ボソッと呟いて古めかしい机の上をトンと叩いた。店主は客そっちのけで書を読み耽っている。舐められたものだ。しかし出来る限り接触を避けられるに越したことはない。
ところが店を出ていこうと戸をコンと叩いた時、またも不意打ちである。
「ああお客さん、それ、どうでした?」
返答に困る。そんな愛玩動物が媚びるようなキラキラとした瞳で見つめられても、読めない本の感想などどうしろと? でっちあげてもすぐボロを出されるだろうし、素直に無学を晒したなら頭がカチ割れそうだ。
ここは一つ無難な一言を置いて会話を終わらせるしかない。クールになれ赤蛮奇。
「あ……あいよ?」
駄目だった。とっさに出てきたのがどこぞの鸚鵡返しで、見事にちぐはぐ。会話を終わらせるどころか成り立たせてすらいない。目じりに熱いモノが込み上げてくる。頭を増やして自分を見たなら、きっとひどく真っ青か真っ赤の二択に違いない。
それでも貸本屋は意表を突く。ひたすらに。
「愛! まさしく種族を超えた愛よね~でなきゃ自分から封印されるだなんてね! あーわかっちゃいます?」
棚から牡丹餅というか、都合良く勘違いしてくれたようだ。ビブロフィリアは魔法にかかったかのように熱に浮かされている。私ではなく本がやったことだ。内心こんなことがあるものかと驚くばかりだが、お蔭様で本心を隠したまま脱出できた。
そのまま三歩行って振り返る。小さな貸本屋の小さな主は決して侮れないが、あの本に囲まれた生活感は今思えば嫌らしくなかった。次は読める本を借りようか。なれば何を恐れようか。
使わなかったせいで懐にはたくさん残っている。これから何でも出来る。ほんの少しだがいつにない万能感を味わっていた。
気が付けば人通りの多い方へ足を踏み入れていた。昨日はわざわざ遠回りをしたのだがその道順を失念していたようだ。太陽が雨雲に覆われているせいか、多いといってもたいしたことはない。呉服店のガラス窓も曇っているが、中から覗けばいい。心だけは晴れやかだ。
けれども肝心の蕎麦屋が閉まっていたものだから、一気に白けてしまう。やはりどんよりとした空模様だ。晴れ着も色褪せて見える。仕方なく私は大通りの角の評判だという蕎麦屋に入った。
こういう天気だというのに盛況である。ただ群れを一単位で数えるとたいしたことはないじゃないかと私には思えてならなかった。店員はやたら愛想がよくて逆に不快。注文してからまだ届かないので味を想像してみるが、かけそばの値段で天麩羅が載っているから皆美味いと錯覚しているような気がする。
外は本格的に降りだしたようで、有象無象が霧散していくのは少し面白い。それはさて置きこの後はどこで雨宿りしようか。こういう時、帰る家がある人間は羨ましい。屋根の下でのうのうと本が読める生活。流石に所持金では到底買えないぐらいわかる。ああ、妬ましくて食べてしまいたいな。中々口にできない蕎麦の代わりに。
「いつもの、ごま……いやしょうゆだれ」
「あいよ。今日は醤油ね」
蕎麦屋の亭主は硬い笑顔と不器用なりにその時々の返事をかけてくれる。よっぽどの常連相手にはそうなんだと気付いたのは最近だ。私もすっかり認められたらしい。
以前はたまたま出くわした人間が驚き戦慄き荷を置いていった日、しか寄れなかったものだから。赤蛮奇という妖怪は妖怪として消極的だった。人間としても。あくまで昔のことだ。
「こんにちは、最近よく会いますね」
「そう? 今日は何の御本を?」
「罪と罰です」
「今度読んでみるわ」
向かいに座っているお馴染みと短い挨拶を交わし、席を陣取った。この若い書生風の男は貸本屋の常連でもある。彼はすぐ乱読に戻り、空のざるとごまだれを持て余していた。生憎満席になることのない店だ、注意する者などいない。
ふと彼の周りを見渡せば薄茶色が目立つ。毎日来ている間に人気が逆転してしまった模様。だから黒々とした露を選んだというわけだ。どちらにしても味わい深いのだが。
注文はすぐに来るのが常だが、書生に倣って借りてきた本を開く。本は良い、知識を豊かにしてくれる。今まで知らなかったことを知るというのは気持ちが良い。それさえもかつては知らなかったのだ。臆病に構えて。
だが慣れてしまえばなんということはない。先程も賑わう大通りを歩いてきたが、平気になっていた。平穏な暮らしが心を穏やかにするのではなく、平穏な心が暮らしを穏やかにする、と気づいた今では。
少し時間はかかるようになったが、大盛りのざるそばが目の前にやってくる瞬間は毎度堪らない。一頁目だけ読んだ赤ずきんはさっさと閉めて麺を啜る。すると後ろからよく通った声で、これまた常連の訪れを聞いた。
「いつも以上に」
「富士盛り、あいよ」
花の良い香りを漂わせ、男達は鼻を伸ばす。妖怪の癖を出さぬよう自然に首を回して振り返って見る。桃色の髪をした大食い仙人は、私のちょうど真後ろに腰掛けた。目と目が合った時――ゾクッと背筋に刃を当てられたような感覚があった。
菊一文字のように鋭く睨む目付き。まるで鬼だ。とても普段の幸せそうに蕎麦を貪るあの間抜け面と同一人物とは思えない。頭でもすげ替えられたのか。どうしてそんな風に私を見る?
嫉妬、だろうか。「いつもの」を私も頼むから。この前読んだ本がそんなストーリーだったのを思い出す。そんなことでと疑問はなくもないが、そういうことで自分を納得させて顔の向きを戻す。でなければ食欲が減退していって御馳走を無味乾燥に貶めかねない。全く嫌なことだ。お前も食ってやろうか?
ずるずる引きずってもしょうがないので代わりにちゅるちゅる啜る。今にも噴火しそうな麺の塊を仙人の下へやる主人を横目に見つつ。彼が戻ってくる頃合いにさっと飲み干し代金を置いて出た。すれば後ろから付いてきて、追い越された。
「足りない?」
怪訝な顔して私は言う。寡黙な主人は「ちゃいます」とだけ告げて、何やら看板を立てかけていた。それが終わると不自然に呼吸を乱して、そそくさ店に戻っていく。看板にはこう書いてあった。
給仕募集中。
なんとまぁ、奥ゆかしい男なんだろう。わざわざこのタイミングで開示した理由を、私は他に思い当たれない。とどのつまり赤蛮奇に対してこう言いたかったのだ。「貴方が欲しい」だなんてそんな、私でなくとも頬を真っ赤に染めてヴォルケイノに決まっている!
ああ全く、気が付けば跳ね馬を駆っている。浮かれてしまっているじゃないか。ガラス越しに羨む人形共など最早怖くない、着飾って武装したデュラハンナイトは無敵。
そのまま突っ切ったところで、家に帰る前にまた本を借りていこうと思い直して首を左折。この大通りは相変わらずの混雑だが、今日は不思議と雑音が控えめだった。そんなものは気の持ちようだ。右手に見える巨大な屋敷、妖怪退治の術を知る名家、にやけに人だかりが出来ていたが、少し迂回すれば難なく通れた。その先幾つか裏路地でショートカットすれば、すぐに馴染みの貸本屋が見えてくる。
中は貸切状態だった。一昨日くらいは蕎麦屋で出くわした書生に加えもう二、三人はいたのだが。お蔭でふんだんに選別できるというもの、と顔を綻ばせた矢先、店主が不意打ちを放ってきた。
「お客さん、今日は閉店にします」
「そうなの?」
「すみませんちょっとこんな状態では……あつ」
出鼻を挫かれるとはこのことだ。追い打ちでへし折られた。飛んできた本によって物理的に。見れば奥の方、奇怪なことに何冊も棚よりはみ出して独りで浮いている。店主は意図せずしてやっている風だが、こう毎度毎度驚かされてはどちらが妖怪かわからなくて凹む。
「そう、じゃあ帰る」
その方が良いですよなどと元凶は無責任なことを言う。迫りくる二冊目を手で乱暴に押し返し、戸にも同じことをする。店主は重ねて声を掛けた。
「最近里でも出たらしいので、お気をつけて」
「出たとは、何?」
「新聞読んでません?」
そんな低俗な物は久しく読んでいない。何せ念願の本に囲まれる生活を手に入れたのだから。続く彼女の説明は耳に入ってこなかった。次に振り返ったところ、もう三十歩も離れていたのだから。
本に費やす予定だった有り金はちょうど呼び止めた八百屋に落としてやった。器具さえあれば料理をしてみるのも悪くない。最近は食べても食べても欲が治まらなくて――昨日も果実を一つ、つまみ食いしたことは反省である。
やがて個室内で書も食も完結するようになれば、里を闊歩することもなくなるのだろうか。蕎麦屋にも貸本屋にも顔を出さず……以前はそれが理想に近かったが、今では少し遠ざかったようだ。赤蛮奇の平穏な暮らしとは、何気ない他者との関わりも内包しうるものではないか。何気なくないことも起こると、頭で理解しているつもりでも。
いつぞや寝床にした柳が風に揺れている。どことなく不穏さを感じさせる原風景だ。私はそこで引き返した。傍から見れば、逃げていたかもしれない。また頭を落とさぬよう抱え駆けていたのだから。
チカチカと眩しい。温かな日の光が窓辺から差し込む。よほど疲れていたか、時計は正午を示していた。構うものかと二度寝することも考えたが、布団のざわっとした感触がどうしてか気持ち悪く、バタバタと片づけることにした。
他人の香りがする家。けれど居るのは私一人のはずだ。誰かに見られているのか――まさか。せっかくの天気だというのに浮かぶ暗澹とした思考を掻き消し、私は戸を叩いた。
今日もあの店へと足を運ぶ。あの日褒められた服を着て。あらかじめ決めていた、基本に立ち返ってかけそばにしよう、と。
珍しいこともあるなと私は目を細める。ノッポの主人が店の前に立って、何やら客と揉めているようだ。相手は煌びやかな柄の和服、いやよく見ればアレンジされて洋服風の、を見事に着こなした、やや歳を食っているが美人だった。近づけば向こうからも近づいてくる。やや遅れて主人も付いてきた。
女は私をまじまじと見つめている。顔に似合わないギラギラとした瞳。いかにも因縁を付けられそうで、嫌な感触を覚える。奴が中々口を開かないものだから、振り払うように私から言った。
「何か?」
「……間違いないわね」
白く細い腕が伸びて、私の肩を掴みかかる。突然のことに面食らった私の代わりに、主人の太い腕が一旦退けた。いつになく声を荒げて。
「似とる思いましたけど、きっと奥さんの店で買いはったんですよ」
「売ってないわよ娘の服は特注よ! 娘の為だけに仕立てたの! アンタ娘の何!?」
「奥さん落ち着いてぇな!」
「まさか、腕見せなさい!」
主人の制止を振り解き、女は強引に私の腕を引っ張り上げた。なんという馬鹿力だ、人間というより獣である。そいつは探していたものを見つけるなり絶叫。それを合図に人が呼び寄せられる。勘弁してくれ。主人と二人がかりで何とか引き剥がすと、逃げ道を探すことにした。全く、これでは蕎麦を食うどころではない。
気の狂った女は何やらブツブツ呟いている。そんなもの、聞き取る必要なんてないのに、どうしても気になる私の耳は足に逆らう。それこそ、致命的なミステイクだというのに。
「間違いない……あの痣は私が付けた……娘の体でどうして違うのよ……アンタ! アヤコの頭をどこやったのよ!」
突然音量が跳ね上がって鼓膜が破れる。最悪だ。
「し、知らないわよ。だって私が見つけた時には体しかなかったし!」
「よくも娘を殺したなぁ妖怪ィィィィ」
最悪だ。聞く耳を持たないのを相手にするなど。今使っている体が女の娘の物としても、頭は最初から付いていなかったのだ。普通妖怪に襲われた人間は肉片ひとつ残らず綺麗に食されるか、逆に行方不明ではないと親族に教えてあげる為に頭部のみ残すか、であって体だけ残すケースなど前代未聞。そんな妖怪の常識を丁寧に説明したとして、無駄に思えた。
「森で見つけたんだから、自業自得でしょう」
だからといって、こんな返しはあからさまに良くなかった。興奮した表情とは裏腹に冷静そのものの手付きで、母親は帯に隠した果物ナイフを引き出し、娘の変わり果てた顔、つまり私を切りつけた。
噴出する真っ赤な飛沫。赤蛮奇は初めて自分の血を見た。きっと幻覚。妖怪なんてあやふやなモノに血など通ってないはずなのに。ああ、すっかり人の振りをするのに慣れてしまって、人並みの身体、人並みの神経に落ち込んでいたか。切り傷は浅い。けれど心の奥底をザックリ削られて、痛い。痛い。人間如きが、畜生――
流れる血は蒼ざめていく。紅い瞳を滾らせる。熱線発射。
婦人の鬼気迫る顔は硬直してボトリ、落下する。即死のはずだ。驚愕の余り腰を落とす馴染みの主人。呆気に取られる野次馬共。訪れる一瞬の静寂。何もかもが終わってしまった一瞬、その隙を逃さず私は人混みに逃げ込んだ。途端沈黙は破られ、群衆は一様に喚き始める。
「人殺しだ、人殺しが出たぞ」
「妖怪だ、妖怪が出たぞ」
「大変だ、大変だぞ」
「異変だ、異変だぞ」
その間にも私は駆ける。騒ぐしか能のない人間などに捕まえられようか。けれど彼らの対処しては最適解、こうして騒ぎが大きくなれば妖怪退治屋が動き始める。その前に逃げなければ。
飛ぼうと空を見上げたなら、厚い雲に代わって黒い烏が覆いかかる。全く、天狗の仕事は吐き気を催すほど早い。一羽急降下してきた。天狗の中でも最速の奴だ。
「どうもこんにちは、『文々。新聞』です。いやー派手にやっちゃいましたねぇ。色々と事情をお聞かせ願いたいのですが、ひとまず今の心境など」
「最悪よこのやろう」
スペル宣言も無しに私は眼光「ヘルズレイ」を浴びせる。しかし白黒の天狗は営業スマイルを絶やさずすいすい避け、逆にカメラのフラッシュを焚いた。腹を立ててもしょうがないほど実力差がある。それでもこんな奴に纏わりつかれたままでは目立って困る。妖怪の天敵に「私はここです」と喧伝しているに等しい。
「これでも食らえ」
「わっ、ひぃ、焼き鳥?」
ちょうど通りかかった肉屋で旦那が絞めていた鶏を引ったくり、炙ってグチャグチャにしてぶつけてやる。妖怪は精神攻撃に弱い。とある妖怪兎は兎鍋が苦手だし、烏天狗も同族の肉塊は怖がる。その習性を試してみたが、効果有り。
「ちょっとやめてくださいよこういうこと可哀想だとは思わないのって……あやや、おかしいですねー」
数秒気を取られた天狗は酒屋に隠れた私を見失っていた。相手の声が遠ざかるのを確認してから戸口を出ると、すぐに裏路地に逃げ込んだ。ここからは勝手知ったるという奴である。相変わらず外は騒がしく、禿鷹共は上空をうろちょろしているが、ひとまず深呼吸をして気分を落ち着かせる。クールになれ。人目を避けるいつもの赤蛮奇を取り戻し、私は自宅を目指した。その為に陽動と偵察用の首を増やそう。
「天を裂き地を割る九頭竜よ、海より出でて山ノボレ。飛頭『ナインズヘッド』……あれ?」
何故出ない? 詠唱を間違えた、というわけではないだろう、そんなものは趣味で取ってつけたに過ぎないのだから。たんに体の不調か? 出ないものは出ない。
「じゃあ飛首『エクストーリムロングネック』なら」
頭がポロリ、足元まで垂れ下がる。これならいけると背筋をピンと張り、首をグングン伸ばして先行させた。大丈夫だと判断したら首を縮めて体を追いつかせる。そしてまた、と繰り返していけば安全に目的地に辿り着けるはずだ。問題は目的地が安全かどうかだが。
家の近くまで来たところ、チラッと赤より紅い巫女装束が見えて駄目だった。すでに押さえられていたらしい。なんて勘の鋭い。大人しく首の方を引っ込めようとするが、目論見甘く、目視できる距離に近づいた時点に網に引っ掛かっていた。巫女が気付こうが気付きまいが。次の瞬間、七色の弾が網膜に焼き付く。焼き尽くされる前に首を捻らせろ。
「出たわね? ソッチ!」
危なっかしく一波目を避けきるも、頭は絶望で真っ白になった。さっきはオートホーミングによる迎撃だったが次は直接仕掛けられる。絶望を体現するような弾幕をもって。ああ、寿命が縮む。首が縮まるを今か今かと待ち侘びたその時――耳元を銃声が劈いた。
発砲は博麗の巫女とは全く別方向からだった。下手な鉄砲は当たっちゃいないが驚き私は視界に収める。映し出した猟銃を抱える男は、かつての家主のくたびれた老人によく似ていた。そうか、私のように独り身だと思っていたが息子がいたのか。獲るんじゃなかった……。
復讐者はもう一発撃つ。たった一発だ。けれどこんなにも早い一発は体験したことが無かった。それもそうだ、いつものお遊びじゃ弾幕を見せびらかすの前提なんだから、こんな速度で飛んでくるはずがない。
今度も外したかのように見えて、見事撃ち抜かれた。頭と体を繋ぐ透明の導火線を。力なく少女の遺骸は崩れ去り、私だけが転がり落ちる。後悔と絶望を抱いて。里の人間に手を出してはいけない、平穏に暮らすため最低限守るべき規則から逸脱してしまったことに。もうここでは生きていけない。
男は私が死んだものと思ったか消えた。彼のけたたましい嘲笑も直後雷鳴に掻き消された。気が付けば烏が黒い雲と同化している。
突然の俄雨。けれど私は動けない。いっそ動かなければ巫女に勘付かれないかもしれない。ヤケクソだ。ところが幾分待っているうちに人の気配が霧散していく。雨は天の恵みとはよく言ったものだ。その代償として打たれ放題でも。
頃合いになれば独りでに頭を転がして、運河へ投げ入れる。途中森へ通じる川へと分岐すれば里を出られよう。濡れに濡れて、私は馴染みの橋を通過した。
いつの間にか雨は上がり雲は割れる。けれども既に日は沈んで暗く、闇の世界へと辿り着いていた。今夜は月さえ見つかりそうにない。
新月の夜、森は黒そのものだった。どんな色も塗り潰してしまう。それでも飛び上がってみれば星が瞬いているだろう。時折黒い鳥に遮られて、明滅していることだ。
一度天狗に見つかろうものなら、すぐさま巫女を呼ばれるに違いない。その方が面白い記事が書ける、と彼らはよく御存じなのだから。私からすれば面白くないにも程がある。地べたを這いずり回った方が遥かにマシと思えた。
未練たらしく後ずさりしていけば、水平方向にもチカチカ、光が漏れる。人里の明かりは最早彼岸の明かり。私の棲む余地などなくなってしまった。
当然の帰結だ、妖怪稼業を営みながら人間達の中で暮らそうなど、許されるわけがなかった。強盗殺人者など、妖怪でなくとも社会に反する存在なのだ。里に帰属しない人間だけを襲えばいい、人間を襲っていると知られなければいい、知られようが退治されようがない程の大妖怪、でもなければ。
それでも湧き上がる欲望を私は否定しない。平穏に暮らしたい。誰も恐れず、本を読み、好きな店に屯して、家で寝たい。自分には過ぎたことか? いいや少し手を伸ばせば届いたことだ。気づいてしまっては、やめられない。
今だってそうだ、やり直せるものならやり直したいと思っている。けれどそれだけは最早叶わない、夢のまた夢――だからこうして頬を涙が伝うのか?
人間のようにあの蕎麦屋で働いて、真っ当に収入を得れば良かったのか? ゆくゆくはあの旦那の傍に寄り添って? 馬鹿馬鹿しい、私は妖怪だ。どうしようもなく妖怪なんだ。それも捨てられないなら妖怪らしく生きていけばいいじゃないか。
あらためて温かな光を背に冷たい闇へとその身を投げ入れる。森は深く、私も受け入れてくれる気がした。
どこまで進んでも人気は感じられない。もっとも迷い込む人間は少なからずいるし、定住している変質者までいる。白黒の魔女なんかがそれだ。油断は禁物。幹がミシミシと音を立てる度に私は注意させられる。大概は吹く風か、リスなどの小動物か、であっても。
けれどもお腹がすいては誰でもいいから出てきてほしいという気分になる。かといって手も足も出ないのだから腹立たしい。妖怪らしく生きるにもひとまずボディが欲しいところだ。手を使って調理して食べる、という人間的な癖が抜けきっていないな、とは自覚するも。
すると突如としてノワールにホワイトが差し込んだ。懐中電灯の類だ。餌か天敵か、期待と不安をないまぜにして光に飛び込む。相手は驚いた風にライトを翻らせる。そうすればこちらも来訪者の正体、人間でも魔女でもない、を明かし――驚愕させられた。
「冗談、でしょ……赤蛮奇……?」
「やっと見つけたぞ、私の頭!」
鏡に映ったかのように同じ赤い髪に青いリボンをした少女は、なのに私と違う顔して光線を放つ。その首から下の、赤いマントで覆われた体は間違いない、本物の赤蛮奇の体だ。無くしたと思っていた体だ。それがどうして、“私じゃない”赤蛮奇の頭を付けている。
「偽物?」
「どっちがよ! 私が霧雨魔理沙に捕まっている間好き放題やってくれたな、出鱈目じゃなくてお前の仕業だな!」
怒りに満ちた顔を映した後、赤蛮奇の片手に焦点が当たる。ぐしゃっと握り潰された新聞紙。日付は今日の夕方、ついさっきだ。それを広げてみせれば三面記事に私が躍っている。天狗は足も早ければ手も早いらしい。思いつきも早いのか、いかにも私が答えたかのようなインタビューまで載っている。これで全文虚構だったなら、良かったものを。
お蔭でえらい目に遭った、どうしてくれる、と本体は責める。その通りではあるが、私は何故自分に糾弾されなきゃいけないのか不可解で、すぐさま不愉快になった。そもそもその体があればこう顔に傷を負うこともなかったのではないか? 赤蛮奇の癖に私を理解しないドッペルゲンガーに苛立つ。
「静かに暮らしたいから人を襲わない、関わらない、それが赤蛮奇だろうに! お前は私じゃなくなったか?」
「人を襲えない、関われない、怖いから? 本当は望んでいたのに……私は一歩踏み出しただけ、誰よりも赤蛮奇なんだから!」
「道を外した、の間違いだろ馬鹿!」
図星を突かれたか、顔を真っ赤にする。
「ああもう五月蠅い面倒くさい。地を割り天を裂いた九頭竜よ、山を鎮め海に沈め……」
付き合いきれないと臆病な赤蛮奇はスペルブレイクの詠唱を始める。それを聞いて私も身構える。が、数十秒経っても何も消えはしない。私も彼女も目を丸くして、顔を見合わせた。向こうだけは何か得心がいったのか、変貌して見下した。
「そうかそうか、これも小槌の仕業ということか。通りで私の言うことを聞かない」
「何が小槌よ。お前が消えろと言って消えるもんか! 私こそが」
「もう赤蛮奇じゃない、か。もう回収期。放っておいても消えるなら、手を下すまでもない」
相手は勝手に納得した風で私を無視し、マントを翻す。明かりを消してそのまま闇に溶け込まんとする。一体何なんだ。待て、と叫んでみたが私の体は止まってくれなかった。まるで私の、赤蛮奇の体ではないように。マルチプリケイティブヘッドでは本来ありえないはずの、自我の分裂が起こっていたと考えるべきだろう。
私以外の赤蛮奇は小槌の仕業と言った。もしかすると聞き覚えがあるかもしれない、世間話か何かで。それよりも気にかかるのは捨て台詞の方だ。放っておいても消えるだと? 消えてたまるか、「我思ウ故ニ我アリ」だと本にもあったじゃないか。冗談ではない。
かといって本体に消えられるのも困りものである。後を追ってしばらく探すが、見渡す限り暗黒。それでも気配ぐらい感じ取れていいものだが、魔法に掛かったかのように皆無。折角四肢を取り戻すチャンスだったのにみすみす逃すとは、つくづく厄日だと思った。
獲物を狙う怪鳥の鳴き声が頭上に響く。ただの夜雀ならいいが、大妖怪の鵺だったら横取りなど考える事すら愚かしいだろう。それでも今は前に進むことにした。ここで立ち止まっていたなら、恐怖という名の闇に飲み込まれてしまいそうだから。闇は、すぐ背後に迫っていた。
魔法の森は迷いの森とも言われていた。それは月に向かって生い茂る竹林でも、あるいは霧の立ち込める湖でも、付けられる形容詞だった。人里の外に一歩出てしまえば、余程慣れてない限り帰り道などわからなくなる。まさに私もそうなっていた。
いまだ夜の帳は降ろされたまま。月が出ていないと方角も時間もわからない。もう一人の赤蛮奇も行方知らず。進む道さえ見失ってしまった。
何をやっているんだろう。何がしたいんだろう。それさえ最早わからない。自分は馬鹿だと思える。こういう時、どんな顔をすればいいのだろうか。
ふわふわ浮いて移動するのも結構疲れるものなので、偶然見つけた小さな泉に不時着する。一旦頭を冷やそう。いつだってクールにありたいものだから。
外見上の切り傷はすっかり塞がっていた。痛みもどうやら麻痺してしまったらしい。
水面はキラキラと、幾つもの星を映していた。小さな点々も案外馬鹿に出来ないもので、周囲の木々の皺が判別できるほどの明かりにはなっていた。そこでふと、気づく。対岸に何か見覚えのある物があると。
気のせいかもしれない。けれど今の自分にとっては必要な、目標になり得た。見極めるべく向こうまで泳ぐ。そして顔を出せば、実に馴染みの存在が迎えてくれた。
それは私がこの半月借りていた、少女の骸ではないか。獣のように彼女の母親がそうしたように袖をまくり上げれば、腕の痣が疑惑を確信へと変えてくれる。と同時に新たな謎が現れる。里で放棄されたはずの殻が、何故ここに?
その時、猫か何かの鳴き声が木霊した。威圧した。
「おっと動くんじゃあにゃいよ。何か妙な真似をしたら、たらふく呪いを食わせて殺す。あたいの言う通りにするんだ。いいかい? 逃げ出そうとしても無駄な足掻きさ、もう憑り囲んでるよ。理解したかい?」
声色は甘ったるいが尋常でない凄みがある。私は言われるまでもなく磔にされていた。泉の明かりは星の光でなくたんに死霊が燃えているのだと気付いたのは、今更過ぎることだ。ツンとしたニオイが鼻に纏わりつく。純度の高い死臭というやつで、ネクロマンサーはゴスロリに死の恐怖で武装しておいでなすった。
「さぁその首を渡すんだ……ってあれ、首しかない?」
直前まで圧倒的な妖気を漂わせていたソイツは、私の姿を確かめるなり緊張を解いた。
「なんだ人違いかぁ」
そして蹴飛ばした。イキナリなんてことをするんだ。私は悲鳴を上げながらも動けるようになったので立ち上がる。対する少女は目をぱちくりとさせて、人間的な外観にそぐわない猫耳をピクピク動かし、
「うわ、ごめんねお姉さん。生きてるのか死んでるのかわからなかったから」
口先だけは謝ってみせた。全くふざけている。沸々湧き上がる怒りに任せて睨むが、同時に汗は滝のように流れていた。到底自分の敵う相手ではない、ことくらい理解できる。いくら見た目があどけなく、媚びるような声音を装っても。
化け猫はよっこいしょの掛け声で首無し死体を抱き上げると、はぁと溜息交じりに手押し車に載せた。間違いない、噂に聞く地獄の火車だ。何でもあの間欠泉異変を起こしたとかいう。ただでさえ地底妖怪は武闘派揃いと危険視されているのに、大異変の主犯ともなれば私のような雑魚とは格が幾つも違う。たった今関わりたくない妖怪トップテンにランクインした。それでも、どうしても、このまま見過ごすことも出来ない――
「待て! それは私の体なんだ。返してくれない、か?」
トンズラしようとしていた猫は、無視することなく足を止めた。クスクスと嘲笑う声が聞こえる。彼女は笑顔で振り返って、残酷に告げた。
「お姉さんの、じゃあないでしょ」
説明足らずだと思ったか、ベラベラと続ける。
「こういう商売してるからわかるんだ。“本物の”頭を持って犯人が現場に戻るのはよくあるってね。そいつを押さえるつもりでさ。もしお姉さんの“本物の”体が目当てでも返さないけどねぇ。いやまぁその、そもそも妖怪に死体なんて残らないから興味ないけどねぇ」
猫撫で声がどこまでも不愉快だった。明らかに妖怪歴は長いだろうに「お姉さん」などとコケにするのも。
「犯人? あんたのことでしょ」
「まさか! 火車ってのはね、死体を運ぶのが生き甲斐であって死体を作ることじゃないんだよ。それがルール。だけどお姉さんは、一線を越えたように見える」
見透かしたように言うのがまた腹立たしい。
「そんな怖い顔しないでよ、美人が台無しさ、ピースピース。そうだ! ここで会ったのも何かの縁だし、死体を横取りしたい以外の願いなら聞いてあげようか? それで蹴ったのは許してほしいかなって」
おまけにそんな憐憫の眼差しで馴れ馴れしくされたら、灼熱地獄より熱い炎に焼かれているようだ。いっそ特攻してみるか。けれど私の中のクールな赤蛮奇が必死に宥めるものだから、何とか平静を繕えた。
よくよく考えて、人間の体を取り戻したところで何になる? 人里に戻れるはずないのに。ならば諦めてより賢い選択肢を探すべきじゃないか、私はまだ生きているのだから――ポチャン、思考の泉に一粒の石が落ちて、たちまち波紋が広がる。
「じゃあその車に乗せて、旧都に連れて行ってもらえない?」
我ながら妙案だと思った。風の噂では地下世界に人里より遥かに広い街があるという。住民は人ではなく鬼やら蛇やらといった具合だが、もっとも今までに近い暮らしが出来るとしたらそこしかなかろう。
けれど気紛れな猫は即座に首を振った。容易く破られた約束。私の希望は憤怒に塗り潰され、頂点に達する。
「どうして!」
「悪いけど、無駄だと思うよ。行っても間に合わない、とわかる。あたいにはどうこうできないな、お気の毒だけど」
ガタンと一輪車が倒れる。手を離した火焔描は一歩一歩私に近づいて、拾い上げてはクンクンと、鼻息を鳴らせる。そして冷たい息で囁きかけた。
「だって、こんなにも死が臭う」
それからそっと置いて踵を返す。そこから私は動けなかった。さっきのように気圧されて金縛りに合ったんじゃない、むしろ脱力していく感じだ。待てという言葉も出なかった。
一体何をされたというのか。
「あたいは何もしてない。本当だよ?」
心でも読めるのか、いや私の顔に書いてあったか。死神はまたも首を振った。
「じゃあ来世で、と言いたいところだけど妖怪は死体も死霊も残さない。さようなら」
それで会話は途絶え、気配もあっという間に消えた。一匹の猫など闇は容易く溶かす。
もっとも彼女が目を眩ませたというより、私の目が曇ったせいかもしれない。瞼が自分の意思に関わらず降りゆく。追いかけようという意思に反して地面を這いつくばっている。飛頭蛮であることを忘れてしまったかのような感覚があった。それは、何よりも恐ろしい。
急速に失われていく。赤蛮奇を構成する諸要素が。土のひんやりとした感触さえ、気持ち悪いとも思えない。そんな中、ハッキリとわかることが一つだけあった。
死。
私は今死に瀕している。その理由は知らない。あまりに唐突すぎる。だから怖い。怖い。怖い。
恐怖さえ、消えかかっているのだから。
風に攫われた林檎に出来ることなど、最早腐りきるのを待つだけだった。
射し込む日の光がジリジリと蝕む。意識が戻った時、真っ先に見知らぬ天井を見た。第一印象は天国だった。
まさか。妖怪は死霊を残さないのなら、天国にも地獄にも行けないだろうに。ならば私はまだ生きている、ということになる。
と同時に、これから死ぬ、ということを理解した。
体が動かないのは当然だ。首だけなのだから。それも動かせるのは今や眼球だけ。180°に固定された視界にぬっと首が伸びる。ああ、これはよく見知っている。何せ自分と同じ赤蛮奇なのだから。
「気が付いたか」
声の主は違う。だがこれも聞き覚えはあった。年端のいかぬ人間の魔法使いのだ。その時視界がぐるっと動いて、姿を確かめさせられる。散乱するガラクタに囲まれた白黒の乙女。そして、赤づくめのもう一人の私。リボンの青だけが相変わらず浮いている。
「じゃあ私は神社に行ってくるから、その間は好きに使ってくれていいぜ。店番料な」
「今まで散々滅茶苦茶な弾幕実験に付き合わせておいて、慰謝料をだね」
「退治しないのを感謝しな」
軽口を叩きつつ、バンカラな魔女は颯爽といなくなる。これで赤蛮奇二人きりだ。半身は自分の方に向かってきて、寄り添った。それっきり、喋らない。
「どう、して……」
私が代わりに口を動かしてみる。実際に声に出ているかどうかはわからない。もうほとんど感覚が残っておらず、錯覚で補っているのだから。
「消そう、と、して……」
「勘違いするな。助けるつもりはない。誰かがどうにかしようとして何とかなるものでもない。私から逸脱し、幻想郷のルールを破った報いだと思いな」
鏡合わせの自分は応じてくれているらしい。ただの独り言かもしれないけれど。彼女の言葉尻は冷徹でいかにも赤蛮奇的だったが、でも、と言い淀んで、
「お前の思うこと、望むこと、嫌でもわかってしまう。元は私だったんだから……一人ぼっちは寂しいんだろう」
瞳に塞き止めていた涙をぼろっぼろっと落としてきた。既に死んでいる触覚の代わりに辛うじて生きている視覚が教えてくれる、きっとずっと頬は濡れていたんだと。孤独志向な生き方をしてきたはずなのに。結局最期は赤蛮奇だけになったが、それでも誰かに看取られたかったのかもしれない。
いいやそうじゃない、私はせっかく生まれてきたのに、赤蛮奇の一部に過ぎなかった私が私を自覚したのに、私の幸せに気付いたのに――死にたくない。死にたくない。死にたくない。死にたくない。
今だってお腹がすいて仕方がない。とめどない欲望を抑えきれない。人間の肉なんて望まない。ただ私は、一杯の蕎麦が食べたかった。もっと食べていたかった。
それが赤蛮奇の、私の望む暮らしだった。もう終わってしまったことだ。
糸が切れかけている私だけでなく、五体満足の赤蛮奇にもそんな暮らしは最早叶わないだろう。私がヘマをしたせいで。今まで以上に殻に籠って生きていくのだろうか。そんなことを考えていると彼女が視界が消えてしまったのだから、自責の念に駆られる。ああ、これが報いか。
「……おい、おい、見えていないのか? 聞こえているか? まだ逝くな」
耳音で私によく似た声がした。目を凝らせばぼんやりと、赤い丸が大小二つ、揺らめいている。大きい方は小さい方を口元にあてがって、中身を中へ流し込んだ。何だろうか。細い糸のような、けれどコシがしっかりしているような。喉元をつるんと滑る感触だけは辛うじてわかった。わかった。今や感じ取れない味も甦ってくる。頭の中の腹が満たされていく。
あの好きだった蕎麦だ。有り得ない、どうやって、錯覚か? けれどあの蕎麦だと思える。それで十分だった。
曇った鏡が一瞬晴れた気がした。心なしか、嬉しそうにしていた。悲しそうにも見えた。
その一瞬が過ぎれば瞼が降りる。食べたら眠くなるのは必然だ。私は消えゆく意識の中でただ、この一瞬が永遠になればいいのに、と願っていた。
「かけそば一つ」
「あいよ」
大通りから少し外れたところに、流行ってもいないが寂れてもいない蕎麦屋があった。上手くもなければ不味くもなく、高くもなければ安くもない、そんな何の変哲もない店だが不思議と客足も絶えない。して口下手な主人の代わりに給仕が愛想が良いでも悪いでもなく注文を取る。地味な白い割烹着に赤毛が目立つ出で立ちで、客からの人気は中々。実際彼女が働き出してから、ささやかにも賑わうようになったらしい。
ガタン、ゴトン。新たな客が給仕の前に姿を現す。上から下まで紫のドレスが目を引く、大人びても子供らしくもある女。若干けばけばしいがとてもしっくりくる。だけに上から羽織った赤マントが何とも違和感を醸し出して、むず痒くある。むしろ給仕の方にこそ似合う色なのだから。そんなちぐはぐさからも只者でないのは明らかで、当然注文もおかしかった。
「ねぇ貴方、しょうゆだれとごまだれ、どちらが美味しいと思う?」
「はい?」
「ざるそば。好きな方を選んで」
まるで宮沢賢治に筋書きを書かれたみたいで給仕は戸惑う。思わず主人に助けを求めようと首を振りかけるが、客の眼力に押し止めさせられた。仕方なくしょうゆだれがオススメと答えてみる。根拠のない脊髄反射。それでも紫の婦人はオーダーに満足したらしく、微笑みかけながら座った。見ようによっては威圧しているようでもある。
赤の給仕はおっかなびっくりお盆を置くと、今度は隣に座れと言ってきた。見れば主人は無言のうちに従えと顔に示している。観念して相席すれば、いっそう奇妙なことに頼んだ品をそのまま返してくるではないか。露のなみなみ入った御椀が不自然に熱いとなると、最早現実感もない。珍客は終始笑顔を張り付けながら、麺を浸けて、不気味に囁くのだった。
「さめないうちに、めしあがれ」
色取り取りの鮮やかなレーザービームが網膜に焼き付く。
うち赤いのが私のだ。真っ赤な髪の赤蛮奇達。その一つ一つに差異はない。全てが私、マルチプリケイティブヘッド。
それが一つ、また一つ、黒く塗りつぶされていく。ああ、あれは魔砲の光だ。眩しすぎて闇に見える、奇妙不可思議にも。
――視界がぐにゃりと歪む。ぐらぐらと揺れている。落ちていく。北風にもぎ取られた林檎のように、ふわり、ぽとり。
暁の空が夕闇に染まっていくと共に、私の命一つ放り投げられた。
気が付けば仄暗い。
湿った土の冷たさに堪らず私は飛び上がった。けれどノッポな木々が遮って空には届かない。もっともここが何処かくらい俯瞰せずとも把握できる。狭い狭い幻想郷、森と呼べる景色はそう多くない。
全くもって、随分と飛ばされたものだ。実際の人里からの距離はそうでもないが、感覚的には遠くにあった。
「まずいな……」
つい動揺が声に現れる。寝惚け眼を擦ろうとして出来なくて、渦巻く違和感が徐々にハッキリしていった。探しても見当たらない。首から下が。何ということだろう。何処かで落っことしてしまったか。
生憎私は妖怪の中でもろくろ首、四肢がなくても活動できる。でもないと困る。だから飛び跳ねて探し回る。困る困る、五体満足でないと赤蛮奇足り得ないじゃないか! 何しろ人里に紛れて暮らす妖怪なのだから、人型でなければなるまい。
見渡す限り植物、植物、植物……たまに動いたと思ったら四つん這いの獣とか、鳥とか、虫でハズレだ。人間らしい身体はないのか? 祈りと焦りが入り混じって露も滴る。それでも辛抱強く駆け抜ければ――ああ、やった、やっと見つけた!
心躍り、頬の肉を綻ばせる。これで私は赤蛮奇に戻ることが出来よう。
背丈は大人と子供の中間、九歳とするなら成熟しすぎているが十九歳にはとても及ばないくらい。少女という言葉が相応しいその躰に、私はくっついた。この感触は実に小気味よい。手を結んで開いてみせるが反応に遅れはなく、馴染む。最初から一つだったかのごとく。
軽やかにステップを踏み、高い大木の枝に着地する。そこで枝葉を掻き分ければ煌めく。木洩れ日は赤い。けれどこの赤はどことなく白ずんだ赤だ。だんだんと色味が失われて透き通っていくのがわかる。一晩過ぎて、もう日の出の刻だった。
方角も確認したところで、私は人間の世界に向かって歩き出した。
日の光にさんさんと照らされ、街は蠢く。人々は立ち並ぶ家屋から這い出してざわめき、雑音を浴びせてくる。商人は威勢よく、主婦は姦しく、喧騒を形成していた。
私はそれを避けるように小路地を渡り歩く。人目につくのは好ましくない。妖怪だから、というわけではない。あそこの揚げ物屋、平気な顔して談笑に興じる九尾の狐なんかもいる。ただそういう風には人と接しえないだけだ――苦手なんだ。
それでも人里を拠点にしているのはここが幻想郷で一番平穏だから、以外にはない。妖怪は人を襲わず人も妖怪を退治しない。それがルールであり、リアル。故に平等であり、平穏。人間とも妖怪とも深く関わらなければなおのこと。赤蛮奇なら静かに暮らしたいものだから。
そう思えば早足になる。手前に若いいかにも伊達男といった風貌の者が私に向かって歩いてきたが、声を掛けられぬうちに抜き去った。以前似た感じの奴に捕まったがひたすら不快だった。あの年頃の雄は総じて盛りの付いた猫だ。辟易する。いっそ私の顔が醜い餓鬼のようなら寄せ付けないか? いいや、奇異の目で見られるのも厭だな。
「おっ、ろくろ首の姉ちゃん? 白菜安いよー!」
無視だ無視。大体なんだろくろ首の姉ちゃんとは、ちゃんと人間の格好をしてきているというのに。八百屋が大声出すものだから周りの客も私を振り返り見る。ああ面倒くさい。このまま逃げ出すと余計目立つじゃない。仕方なく白菜……ではなく林檎を一つ買ってからそそくさと退散。これなら懐に隠しておけるわけで、仕舞ったところで小走りになった。
憎々しくも雲一つない晴れ空。汗が首元に落ちる。肉体的な疲労はさしたるものではないが、足を止めた。ふと目に付いた看板に見覚えがあって。すぐさま商い中かを確認し、中の人間の数を見定め、それから暖簾を捲った。
「かけそば一つ」
「あいよ」
背の高い主人はいつも通りぶっきらぼうに返事した。それを聞くと安心して席に座れる。注文はすぐに来たが熱冷ましにしばし箸を置く。
ここは行きつけだった。この先真っ直ぐ行った十字路の角に絶品と評判の蕎麦屋がある、にもかかわらず。比べてこちらはたいしたことない、さして美味くはない。もっとも向こうの蕎麦は食べたことがないので想像して、だ。あんな賑わう店になど入りたいものか。この質実剛健で周りもポツポツ独り身の、淡々と啜っているか新聞を読む合間にする者がほとんど、という空気感が心地良いから、つい腹の膨れない蕎麦なんか頼んでしまう。
「旦那ァ! 焼酎、もう一本!」
「あいよ」
そればかりだ。まだ昼にもなっていないのに出来上がった客に対してもだ。主人も主人だが、客の方も絡まず呑む。騒ぎたいなら別の店に顔出すだろう。自然と笑みが零れて、慌てて湯呑に口を付ける。するとさっきのがまた声を挙げた。
「嬢ちゃん、可愛いのう」
油断した。前言撤回、酔っぱらいに自制心なんかない。ああやだやだ、今この店に嬢ちゃんは私しかいないじゃないか。背中を視線で撫でられてぞわっとする。ただ、それっきりなのは幸いだった。そいつからは。
いつもより早いペースで御椀の中身を平らげ、私は小銭をあるだけ取り出して叩きつけた。すると今度は主人がいつになく言った。
「お客さん」
「釣りならいらない」
「そん服、いつもとちゃいますけど、ええですよ」
「……へ?」
何を言い出すんだ。確かに普段着の赤マントを纏っていないが、どうしてわざわざ指摘する。思わずまじまじと相手の顔を見つめる。そこにチャラチャラとした軽薄な表情はなく、いつもの起伏に乏しい主人、のはずだ。けれどこんなことを言われるのは初めてで戸惑う。
一応礼だけ済ませ逃れた。何だったんだろう。もしかすると多めに支払ったものだから、不器用なりに愛想良い反応を探させてしまったのか。でなければこんな風に容姿を褒められるわけがない、よりにもよってあんな地蔵みたいな男から。
そんなに私、可愛く見える?
人里には珍しい洋風の呉服店の前、硝子で出来たショーウインドウに自分の姿を認める。どことなく、浮足立っているのがわかった。不思議なものだ。こういうの、赤蛮奇なら好まないはず、なのに。
このまま進めば大通りに出るので引き返す。今の自分はいつも以上に人に見られたくない。先程の蕎麦屋に目を合わさず通り過ぎる。けれどあの八百屋と違って二度と行くもんかという気にはならなかった。
とはいえ今や懐には林檎一つが入っているのみだ。いかんともしがたい。
「号外~号外だよ~」
ちょうど空から新聞が降ってきたので足しにする。天狗の落し物は大概脚色が過ぎて中身が空の、読み物としては下の下だが、生憎日が暮れるにはまだまだかかりそうな模様。たとえ小判一枚残っていたとして巫女の出入りする貸本屋などには近づけるはずもなく、手持ちこのまま運河の処まで来ると、橋の下に滑り込んで妖怪の時間の始まりを待つことにした。
「ざるそば、ごまだれで」
「あいよ」
いささか収入があったものだから、私は例の蕎麦屋へと足を運んでいた。主人の声色は昨日と大差ない。相変わらず客入りは多すぎず少なすぎず、騒々しくもなければ目立って気まずくもならない。そして頼んだ品はすぐに来る。
冷ます必要がないのでさっさと麺を薄茶色に浸けて喉に通す。胡麻の酸味が良き助けとなって、箸を進ませてくれる。もっとも醤油だれの方が人気なようで、周りを見渡せば黒々としている。それ故醤油は気に食わなかった。人と同じ物を頼んでおけば安牌だろうと安易に便乗するのには心理的抵抗が強い。
早くも食べ終えて勿体ないので、酒を一杯だけ注文してからもう少し店の雰囲気を味わうことにした。すると目に留まる、あっ、あの客も胡麻だと。
その同属は後から入ってきて「いつもの」とだけ頼んだ時から明らかに目立っていた。桃色の髪はとても人間じゃない。その上自分の二倍も麺を盛っている。間違いない、そいつはたまに人里で見かける仙人様だ。その度に何か食べ歩いていた、ような。
別に知り合いというわけでもないし、向こうも目の前に夢中で浴びる視線を気にも留めない。私はそのまま御猪口の中身を飲み干して、勘定へと移った。
「ありがとやす」
今日は定型句だったか――全く何を期待しているんだか。
店を出て十歩、向かいのショーウインドウ、綺麗に着飾った人形共が私を見つめてくる。懐にはまだ幾何かあった。けれどきっと足りないだろうし、それで恥をかくのも御免だ。いやらしいマネキン相手に首を横に振って、踵を返す。
普段の赤蛮奇らしく人気の少ないほうに歩いていくと、不意に貸本屋から紅白の巫女と白黒の魔法使いが出てきた。慌てて私は身を隠す。あいつらは妖怪に対して容赦がない、とこの身でもって味わったのはそう遠くない出来事だ。関わりたくない人間ナンバーワンツーである。
しかし彼女達が出て行ったということは、今貸本屋に入るチャンスなのでは。私は呉服店では温存した勇気を使ってこそこそと、忍び込んだ。
客は他にいない。店主もいない。どういうことだ? チャンスに次ぐチャンス、お蔭でじっくり品物を見定めることが出来るのだが。
それにしても妙な光景だった。これほどまでに本が積み上げられているのは初めて見る。棚でなく床にまで溢れているのは。
「あった! うわっ」
「ひゃっ!?」
「すすすみませんお客さんいらっしゃい」
店主の不意打ちに驚かされ、素っ頓狂な声を挙げてしまった。慌てて頭の位置を手で確認する。よし、外れてはいない。
冷静さを取り戻せばかえって体温が上がる。妖怪が人間に脅かされるなど恥にも程がある。まさか散乱する本の中に埋まっているとは、埋まるほど小さな子供とは、普通思わないじゃないか。そう言い訳してもどうもこうもない。もし首を落として逆転したとして、人間にビビった妖怪ですと晒すようなものだ。そうなっていないだけ幸いと考えることにして、適当に一冊選んで用を終わらせた。
その勢いに任せて柳の下に潜り込む。息が荒い。肉体的な疲労であるものか、妖怪だから精神攻撃に弱いのは仕方ないじゃないか、人一倍繊細で何が悪いんだよ――そんな風に言い訳じみた思考がめくるめく。
こうなれば本でも読んで落ち着けばいい、と手にした物を開いてみるが、すぐに落胆させられた。意味不明な図形が躍っていて読まれるのを拒む。少なくとも和語でも漢語でもなければ噂に聞くアルファベットとやらでもない。私は余計恥ずかしくなった。とんだヘマをこいたものだ。下種な醜聞紙を浅ましく拾っていた方がマシに思えるほど。何せコイツは返しに行く手間を要する。
深い溜息を吐きかけて本を閉じ、目も閉じる。妖怪に睡眠など別段必要でない、蕎麦と同様に。中には冬の間ずっと寝たきりの大妖怪などいるらしいが憐れみを感じる。よほど暇を持て余しているのだろう、今の私の何倍も。そうはなりたくない。
懐を弄ればいつぞやの果実のざわざわとした感触だけが残っていた。起きたら齧るか。無意味だったはずだけれど、さも必要なことのように思えた。
「本、ここに返しておくから」
ボソッと呟いて古めかしい机の上をトンと叩いた。店主は客そっちのけで書を読み耽っている。舐められたものだ。しかし出来る限り接触を避けられるに越したことはない。
ところが店を出ていこうと戸をコンと叩いた時、またも不意打ちである。
「ああお客さん、それ、どうでした?」
返答に困る。そんな愛玩動物が媚びるようなキラキラとした瞳で見つめられても、読めない本の感想などどうしろと? でっちあげてもすぐボロを出されるだろうし、素直に無学を晒したなら頭がカチ割れそうだ。
ここは一つ無難な一言を置いて会話を終わらせるしかない。クールになれ赤蛮奇。
「あ……あいよ?」
駄目だった。とっさに出てきたのがどこぞの鸚鵡返しで、見事にちぐはぐ。会話を終わらせるどころか成り立たせてすらいない。目じりに熱いモノが込み上げてくる。頭を増やして自分を見たなら、きっとひどく真っ青か真っ赤の二択に違いない。
それでも貸本屋は意表を突く。ひたすらに。
「愛! まさしく種族を超えた愛よね~でなきゃ自分から封印されるだなんてね! あーわかっちゃいます?」
棚から牡丹餅というか、都合良く勘違いしてくれたようだ。ビブロフィリアは魔法にかかったかのように熱に浮かされている。私ではなく本がやったことだ。内心こんなことがあるものかと驚くばかりだが、お蔭様で本心を隠したまま脱出できた。
そのまま三歩行って振り返る。小さな貸本屋の小さな主は決して侮れないが、あの本に囲まれた生活感は今思えば嫌らしくなかった。次は読める本を借りようか。なれば何を恐れようか。
使わなかったせいで懐にはたくさん残っている。これから何でも出来る。ほんの少しだがいつにない万能感を味わっていた。
気が付けば人通りの多い方へ足を踏み入れていた。昨日はわざわざ遠回りをしたのだがその道順を失念していたようだ。太陽が雨雲に覆われているせいか、多いといってもたいしたことはない。呉服店のガラス窓も曇っているが、中から覗けばいい。心だけは晴れやかだ。
けれども肝心の蕎麦屋が閉まっていたものだから、一気に白けてしまう。やはりどんよりとした空模様だ。晴れ着も色褪せて見える。仕方なく私は大通りの角の評判だという蕎麦屋に入った。
こういう天気だというのに盛況である。ただ群れを一単位で数えるとたいしたことはないじゃないかと私には思えてならなかった。店員はやたら愛想がよくて逆に不快。注文してからまだ届かないので味を想像してみるが、かけそばの値段で天麩羅が載っているから皆美味いと錯覚しているような気がする。
外は本格的に降りだしたようで、有象無象が霧散していくのは少し面白い。それはさて置きこの後はどこで雨宿りしようか。こういう時、帰る家がある人間は羨ましい。屋根の下でのうのうと本が読める生活。流石に所持金では到底買えないぐらいわかる。ああ、妬ましくて食べてしまいたいな。中々口にできない蕎麦の代わりに。
「いつもの、ごま……いやしょうゆだれ」
「あいよ。今日は醤油ね」
蕎麦屋の亭主は硬い笑顔と不器用なりにその時々の返事をかけてくれる。よっぽどの常連相手にはそうなんだと気付いたのは最近だ。私もすっかり認められたらしい。
以前はたまたま出くわした人間が驚き戦慄き荷を置いていった日、しか寄れなかったものだから。赤蛮奇という妖怪は妖怪として消極的だった。人間としても。あくまで昔のことだ。
「こんにちは、最近よく会いますね」
「そう? 今日は何の御本を?」
「罪と罰です」
「今度読んでみるわ」
向かいに座っているお馴染みと短い挨拶を交わし、席を陣取った。この若い書生風の男は貸本屋の常連でもある。彼はすぐ乱読に戻り、空のざるとごまだれを持て余していた。生憎満席になることのない店だ、注意する者などいない。
ふと彼の周りを見渡せば薄茶色が目立つ。毎日来ている間に人気が逆転してしまった模様。だから黒々とした露を選んだというわけだ。どちらにしても味わい深いのだが。
注文はすぐに来るのが常だが、書生に倣って借りてきた本を開く。本は良い、知識を豊かにしてくれる。今まで知らなかったことを知るというのは気持ちが良い。それさえもかつては知らなかったのだ。臆病に構えて。
だが慣れてしまえばなんということはない。先程も賑わう大通りを歩いてきたが、平気になっていた。平穏な暮らしが心を穏やかにするのではなく、平穏な心が暮らしを穏やかにする、と気づいた今では。
少し時間はかかるようになったが、大盛りのざるそばが目の前にやってくる瞬間は毎度堪らない。一頁目だけ読んだ赤ずきんはさっさと閉めて麺を啜る。すると後ろからよく通った声で、これまた常連の訪れを聞いた。
「いつも以上に」
「富士盛り、あいよ」
花の良い香りを漂わせ、男達は鼻を伸ばす。妖怪の癖を出さぬよう自然に首を回して振り返って見る。桃色の髪をした大食い仙人は、私のちょうど真後ろに腰掛けた。目と目が合った時――ゾクッと背筋に刃を当てられたような感覚があった。
菊一文字のように鋭く睨む目付き。まるで鬼だ。とても普段の幸せそうに蕎麦を貪るあの間抜け面と同一人物とは思えない。頭でもすげ替えられたのか。どうしてそんな風に私を見る?
嫉妬、だろうか。「いつもの」を私も頼むから。この前読んだ本がそんなストーリーだったのを思い出す。そんなことでと疑問はなくもないが、そういうことで自分を納得させて顔の向きを戻す。でなければ食欲が減退していって御馳走を無味乾燥に貶めかねない。全く嫌なことだ。お前も食ってやろうか?
ずるずる引きずってもしょうがないので代わりにちゅるちゅる啜る。今にも噴火しそうな麺の塊を仙人の下へやる主人を横目に見つつ。彼が戻ってくる頃合いにさっと飲み干し代金を置いて出た。すれば後ろから付いてきて、追い越された。
「足りない?」
怪訝な顔して私は言う。寡黙な主人は「ちゃいます」とだけ告げて、何やら看板を立てかけていた。それが終わると不自然に呼吸を乱して、そそくさ店に戻っていく。看板にはこう書いてあった。
給仕募集中。
なんとまぁ、奥ゆかしい男なんだろう。わざわざこのタイミングで開示した理由を、私は他に思い当たれない。とどのつまり赤蛮奇に対してこう言いたかったのだ。「貴方が欲しい」だなんてそんな、私でなくとも頬を真っ赤に染めてヴォルケイノに決まっている!
ああ全く、気が付けば跳ね馬を駆っている。浮かれてしまっているじゃないか。ガラス越しに羨む人形共など最早怖くない、着飾って武装したデュラハンナイトは無敵。
そのまま突っ切ったところで、家に帰る前にまた本を借りていこうと思い直して首を左折。この大通りは相変わらずの混雑だが、今日は不思議と雑音が控えめだった。そんなものは気の持ちようだ。右手に見える巨大な屋敷、妖怪退治の術を知る名家、にやけに人だかりが出来ていたが、少し迂回すれば難なく通れた。その先幾つか裏路地でショートカットすれば、すぐに馴染みの貸本屋が見えてくる。
中は貸切状態だった。一昨日くらいは蕎麦屋で出くわした書生に加えもう二、三人はいたのだが。お蔭でふんだんに選別できるというもの、と顔を綻ばせた矢先、店主が不意打ちを放ってきた。
「お客さん、今日は閉店にします」
「そうなの?」
「すみませんちょっとこんな状態では……あつ」
出鼻を挫かれるとはこのことだ。追い打ちでへし折られた。飛んできた本によって物理的に。見れば奥の方、奇怪なことに何冊も棚よりはみ出して独りで浮いている。店主は意図せずしてやっている風だが、こう毎度毎度驚かされてはどちらが妖怪かわからなくて凹む。
「そう、じゃあ帰る」
その方が良いですよなどと元凶は無責任なことを言う。迫りくる二冊目を手で乱暴に押し返し、戸にも同じことをする。店主は重ねて声を掛けた。
「最近里でも出たらしいので、お気をつけて」
「出たとは、何?」
「新聞読んでません?」
そんな低俗な物は久しく読んでいない。何せ念願の本に囲まれる生活を手に入れたのだから。続く彼女の説明は耳に入ってこなかった。次に振り返ったところ、もう三十歩も離れていたのだから。
本に費やす予定だった有り金はちょうど呼び止めた八百屋に落としてやった。器具さえあれば料理をしてみるのも悪くない。最近は食べても食べても欲が治まらなくて――昨日も果実を一つ、つまみ食いしたことは反省である。
やがて個室内で書も食も完結するようになれば、里を闊歩することもなくなるのだろうか。蕎麦屋にも貸本屋にも顔を出さず……以前はそれが理想に近かったが、今では少し遠ざかったようだ。赤蛮奇の平穏な暮らしとは、何気ない他者との関わりも内包しうるものではないか。何気なくないことも起こると、頭で理解しているつもりでも。
いつぞや寝床にした柳が風に揺れている。どことなく不穏さを感じさせる原風景だ。私はそこで引き返した。傍から見れば、逃げていたかもしれない。また頭を落とさぬよう抱え駆けていたのだから。
チカチカと眩しい。温かな日の光が窓辺から差し込む。よほど疲れていたか、時計は正午を示していた。構うものかと二度寝することも考えたが、布団のざわっとした感触がどうしてか気持ち悪く、バタバタと片づけることにした。
他人の香りがする家。けれど居るのは私一人のはずだ。誰かに見られているのか――まさか。せっかくの天気だというのに浮かぶ暗澹とした思考を掻き消し、私は戸を叩いた。
今日もあの店へと足を運ぶ。あの日褒められた服を着て。あらかじめ決めていた、基本に立ち返ってかけそばにしよう、と。
珍しいこともあるなと私は目を細める。ノッポの主人が店の前に立って、何やら客と揉めているようだ。相手は煌びやかな柄の和服、いやよく見ればアレンジされて洋服風の、を見事に着こなした、やや歳を食っているが美人だった。近づけば向こうからも近づいてくる。やや遅れて主人も付いてきた。
女は私をまじまじと見つめている。顔に似合わないギラギラとした瞳。いかにも因縁を付けられそうで、嫌な感触を覚える。奴が中々口を開かないものだから、振り払うように私から言った。
「何か?」
「……間違いないわね」
白く細い腕が伸びて、私の肩を掴みかかる。突然のことに面食らった私の代わりに、主人の太い腕が一旦退けた。いつになく声を荒げて。
「似とる思いましたけど、きっと奥さんの店で買いはったんですよ」
「売ってないわよ娘の服は特注よ! 娘の為だけに仕立てたの! アンタ娘の何!?」
「奥さん落ち着いてぇな!」
「まさか、腕見せなさい!」
主人の制止を振り解き、女は強引に私の腕を引っ張り上げた。なんという馬鹿力だ、人間というより獣である。そいつは探していたものを見つけるなり絶叫。それを合図に人が呼び寄せられる。勘弁してくれ。主人と二人がかりで何とか引き剥がすと、逃げ道を探すことにした。全く、これでは蕎麦を食うどころではない。
気の狂った女は何やらブツブツ呟いている。そんなもの、聞き取る必要なんてないのに、どうしても気になる私の耳は足に逆らう。それこそ、致命的なミステイクだというのに。
「間違いない……あの痣は私が付けた……娘の体でどうして違うのよ……アンタ! アヤコの頭をどこやったのよ!」
突然音量が跳ね上がって鼓膜が破れる。最悪だ。
「し、知らないわよ。だって私が見つけた時には体しかなかったし!」
「よくも娘を殺したなぁ妖怪ィィィィ」
最悪だ。聞く耳を持たないのを相手にするなど。今使っている体が女の娘の物としても、頭は最初から付いていなかったのだ。普通妖怪に襲われた人間は肉片ひとつ残らず綺麗に食されるか、逆に行方不明ではないと親族に教えてあげる為に頭部のみ残すか、であって体だけ残すケースなど前代未聞。そんな妖怪の常識を丁寧に説明したとして、無駄に思えた。
「森で見つけたんだから、自業自得でしょう」
だからといって、こんな返しはあからさまに良くなかった。興奮した表情とは裏腹に冷静そのものの手付きで、母親は帯に隠した果物ナイフを引き出し、娘の変わり果てた顔、つまり私を切りつけた。
噴出する真っ赤な飛沫。赤蛮奇は初めて自分の血を見た。きっと幻覚。妖怪なんてあやふやなモノに血など通ってないはずなのに。ああ、すっかり人の振りをするのに慣れてしまって、人並みの身体、人並みの神経に落ち込んでいたか。切り傷は浅い。けれど心の奥底をザックリ削られて、痛い。痛い。人間如きが、畜生――
流れる血は蒼ざめていく。紅い瞳を滾らせる。熱線発射。
婦人の鬼気迫る顔は硬直してボトリ、落下する。即死のはずだ。驚愕の余り腰を落とす馴染みの主人。呆気に取られる野次馬共。訪れる一瞬の静寂。何もかもが終わってしまった一瞬、その隙を逃さず私は人混みに逃げ込んだ。途端沈黙は破られ、群衆は一様に喚き始める。
「人殺しだ、人殺しが出たぞ」
「妖怪だ、妖怪が出たぞ」
「大変だ、大変だぞ」
「異変だ、異変だぞ」
その間にも私は駆ける。騒ぐしか能のない人間などに捕まえられようか。けれど彼らの対処しては最適解、こうして騒ぎが大きくなれば妖怪退治屋が動き始める。その前に逃げなければ。
飛ぼうと空を見上げたなら、厚い雲に代わって黒い烏が覆いかかる。全く、天狗の仕事は吐き気を催すほど早い。一羽急降下してきた。天狗の中でも最速の奴だ。
「どうもこんにちは、『文々。新聞』です。いやー派手にやっちゃいましたねぇ。色々と事情をお聞かせ願いたいのですが、ひとまず今の心境など」
「最悪よこのやろう」
スペル宣言も無しに私は眼光「ヘルズレイ」を浴びせる。しかし白黒の天狗は営業スマイルを絶やさずすいすい避け、逆にカメラのフラッシュを焚いた。腹を立ててもしょうがないほど実力差がある。それでもこんな奴に纏わりつかれたままでは目立って困る。妖怪の天敵に「私はここです」と喧伝しているに等しい。
「これでも食らえ」
「わっ、ひぃ、焼き鳥?」
ちょうど通りかかった肉屋で旦那が絞めていた鶏を引ったくり、炙ってグチャグチャにしてぶつけてやる。妖怪は精神攻撃に弱い。とある妖怪兎は兎鍋が苦手だし、烏天狗も同族の肉塊は怖がる。その習性を試してみたが、効果有り。
「ちょっとやめてくださいよこういうこと可哀想だとは思わないのって……あやや、おかしいですねー」
数秒気を取られた天狗は酒屋に隠れた私を見失っていた。相手の声が遠ざかるのを確認してから戸口を出ると、すぐに裏路地に逃げ込んだ。ここからは勝手知ったるという奴である。相変わらず外は騒がしく、禿鷹共は上空をうろちょろしているが、ひとまず深呼吸をして気分を落ち着かせる。クールになれ。人目を避けるいつもの赤蛮奇を取り戻し、私は自宅を目指した。その為に陽動と偵察用の首を増やそう。
「天を裂き地を割る九頭竜よ、海より出でて山ノボレ。飛頭『ナインズヘッド』……あれ?」
何故出ない? 詠唱を間違えた、というわけではないだろう、そんなものは趣味で取ってつけたに過ぎないのだから。たんに体の不調か? 出ないものは出ない。
「じゃあ飛首『エクストーリムロングネック』なら」
頭がポロリ、足元まで垂れ下がる。これならいけると背筋をピンと張り、首をグングン伸ばして先行させた。大丈夫だと判断したら首を縮めて体を追いつかせる。そしてまた、と繰り返していけば安全に目的地に辿り着けるはずだ。問題は目的地が安全かどうかだが。
家の近くまで来たところ、チラッと赤より紅い巫女装束が見えて駄目だった。すでに押さえられていたらしい。なんて勘の鋭い。大人しく首の方を引っ込めようとするが、目論見甘く、目視できる距離に近づいた時点に網に引っ掛かっていた。巫女が気付こうが気付きまいが。次の瞬間、七色の弾が網膜に焼き付く。焼き尽くされる前に首を捻らせろ。
「出たわね? ソッチ!」
危なっかしく一波目を避けきるも、頭は絶望で真っ白になった。さっきはオートホーミングによる迎撃だったが次は直接仕掛けられる。絶望を体現するような弾幕をもって。ああ、寿命が縮む。首が縮まるを今か今かと待ち侘びたその時――耳元を銃声が劈いた。
発砲は博麗の巫女とは全く別方向からだった。下手な鉄砲は当たっちゃいないが驚き私は視界に収める。映し出した猟銃を抱える男は、かつての家主のくたびれた老人によく似ていた。そうか、私のように独り身だと思っていたが息子がいたのか。獲るんじゃなかった……。
復讐者はもう一発撃つ。たった一発だ。けれどこんなにも早い一発は体験したことが無かった。それもそうだ、いつものお遊びじゃ弾幕を見せびらかすの前提なんだから、こんな速度で飛んでくるはずがない。
今度も外したかのように見えて、見事撃ち抜かれた。頭と体を繋ぐ透明の導火線を。力なく少女の遺骸は崩れ去り、私だけが転がり落ちる。後悔と絶望を抱いて。里の人間に手を出してはいけない、平穏に暮らすため最低限守るべき規則から逸脱してしまったことに。もうここでは生きていけない。
男は私が死んだものと思ったか消えた。彼のけたたましい嘲笑も直後雷鳴に掻き消された。気が付けば烏が黒い雲と同化している。
突然の俄雨。けれど私は動けない。いっそ動かなければ巫女に勘付かれないかもしれない。ヤケクソだ。ところが幾分待っているうちに人の気配が霧散していく。雨は天の恵みとはよく言ったものだ。その代償として打たれ放題でも。
頃合いになれば独りでに頭を転がして、運河へ投げ入れる。途中森へ通じる川へと分岐すれば里を出られよう。濡れに濡れて、私は馴染みの橋を通過した。
いつの間にか雨は上がり雲は割れる。けれども既に日は沈んで暗く、闇の世界へと辿り着いていた。今夜は月さえ見つかりそうにない。
新月の夜、森は黒そのものだった。どんな色も塗り潰してしまう。それでも飛び上がってみれば星が瞬いているだろう。時折黒い鳥に遮られて、明滅していることだ。
一度天狗に見つかろうものなら、すぐさま巫女を呼ばれるに違いない。その方が面白い記事が書ける、と彼らはよく御存じなのだから。私からすれば面白くないにも程がある。地べたを這いずり回った方が遥かにマシと思えた。
未練たらしく後ずさりしていけば、水平方向にもチカチカ、光が漏れる。人里の明かりは最早彼岸の明かり。私の棲む余地などなくなってしまった。
当然の帰結だ、妖怪稼業を営みながら人間達の中で暮らそうなど、許されるわけがなかった。強盗殺人者など、妖怪でなくとも社会に反する存在なのだ。里に帰属しない人間だけを襲えばいい、人間を襲っていると知られなければいい、知られようが退治されようがない程の大妖怪、でもなければ。
それでも湧き上がる欲望を私は否定しない。平穏に暮らしたい。誰も恐れず、本を読み、好きな店に屯して、家で寝たい。自分には過ぎたことか? いいや少し手を伸ばせば届いたことだ。気づいてしまっては、やめられない。
今だってそうだ、やり直せるものならやり直したいと思っている。けれどそれだけは最早叶わない、夢のまた夢――だからこうして頬を涙が伝うのか?
人間のようにあの蕎麦屋で働いて、真っ当に収入を得れば良かったのか? ゆくゆくはあの旦那の傍に寄り添って? 馬鹿馬鹿しい、私は妖怪だ。どうしようもなく妖怪なんだ。それも捨てられないなら妖怪らしく生きていけばいいじゃないか。
あらためて温かな光を背に冷たい闇へとその身を投げ入れる。森は深く、私も受け入れてくれる気がした。
どこまで進んでも人気は感じられない。もっとも迷い込む人間は少なからずいるし、定住している変質者までいる。白黒の魔女なんかがそれだ。油断は禁物。幹がミシミシと音を立てる度に私は注意させられる。大概は吹く風か、リスなどの小動物か、であっても。
けれどもお腹がすいては誰でもいいから出てきてほしいという気分になる。かといって手も足も出ないのだから腹立たしい。妖怪らしく生きるにもひとまずボディが欲しいところだ。手を使って調理して食べる、という人間的な癖が抜けきっていないな、とは自覚するも。
すると突如としてノワールにホワイトが差し込んだ。懐中電灯の類だ。餌か天敵か、期待と不安をないまぜにして光に飛び込む。相手は驚いた風にライトを翻らせる。そうすればこちらも来訪者の正体、人間でも魔女でもない、を明かし――驚愕させられた。
「冗談、でしょ……赤蛮奇……?」
「やっと見つけたぞ、私の頭!」
鏡に映ったかのように同じ赤い髪に青いリボンをした少女は、なのに私と違う顔して光線を放つ。その首から下の、赤いマントで覆われた体は間違いない、本物の赤蛮奇の体だ。無くしたと思っていた体だ。それがどうして、“私じゃない”赤蛮奇の頭を付けている。
「偽物?」
「どっちがよ! 私が霧雨魔理沙に捕まっている間好き放題やってくれたな、出鱈目じゃなくてお前の仕業だな!」
怒りに満ちた顔を映した後、赤蛮奇の片手に焦点が当たる。ぐしゃっと握り潰された新聞紙。日付は今日の夕方、ついさっきだ。それを広げてみせれば三面記事に私が躍っている。天狗は足も早ければ手も早いらしい。思いつきも早いのか、いかにも私が答えたかのようなインタビューまで載っている。これで全文虚構だったなら、良かったものを。
お蔭でえらい目に遭った、どうしてくれる、と本体は責める。その通りではあるが、私は何故自分に糾弾されなきゃいけないのか不可解で、すぐさま不愉快になった。そもそもその体があればこう顔に傷を負うこともなかったのではないか? 赤蛮奇の癖に私を理解しないドッペルゲンガーに苛立つ。
「静かに暮らしたいから人を襲わない、関わらない、それが赤蛮奇だろうに! お前は私じゃなくなったか?」
「人を襲えない、関われない、怖いから? 本当は望んでいたのに……私は一歩踏み出しただけ、誰よりも赤蛮奇なんだから!」
「道を外した、の間違いだろ馬鹿!」
図星を突かれたか、顔を真っ赤にする。
「ああもう五月蠅い面倒くさい。地を割り天を裂いた九頭竜よ、山を鎮め海に沈め……」
付き合いきれないと臆病な赤蛮奇はスペルブレイクの詠唱を始める。それを聞いて私も身構える。が、数十秒経っても何も消えはしない。私も彼女も目を丸くして、顔を見合わせた。向こうだけは何か得心がいったのか、変貌して見下した。
「そうかそうか、これも小槌の仕業ということか。通りで私の言うことを聞かない」
「何が小槌よ。お前が消えろと言って消えるもんか! 私こそが」
「もう赤蛮奇じゃない、か。もう回収期。放っておいても消えるなら、手を下すまでもない」
相手は勝手に納得した風で私を無視し、マントを翻す。明かりを消してそのまま闇に溶け込まんとする。一体何なんだ。待て、と叫んでみたが私の体は止まってくれなかった。まるで私の、赤蛮奇の体ではないように。マルチプリケイティブヘッドでは本来ありえないはずの、自我の分裂が起こっていたと考えるべきだろう。
私以外の赤蛮奇は小槌の仕業と言った。もしかすると聞き覚えがあるかもしれない、世間話か何かで。それよりも気にかかるのは捨て台詞の方だ。放っておいても消えるだと? 消えてたまるか、「我思ウ故ニ我アリ」だと本にもあったじゃないか。冗談ではない。
かといって本体に消えられるのも困りものである。後を追ってしばらく探すが、見渡す限り暗黒。それでも気配ぐらい感じ取れていいものだが、魔法に掛かったかのように皆無。折角四肢を取り戻すチャンスだったのにみすみす逃すとは、つくづく厄日だと思った。
獲物を狙う怪鳥の鳴き声が頭上に響く。ただの夜雀ならいいが、大妖怪の鵺だったら横取りなど考える事すら愚かしいだろう。それでも今は前に進むことにした。ここで立ち止まっていたなら、恐怖という名の闇に飲み込まれてしまいそうだから。闇は、すぐ背後に迫っていた。
魔法の森は迷いの森とも言われていた。それは月に向かって生い茂る竹林でも、あるいは霧の立ち込める湖でも、付けられる形容詞だった。人里の外に一歩出てしまえば、余程慣れてない限り帰り道などわからなくなる。まさに私もそうなっていた。
いまだ夜の帳は降ろされたまま。月が出ていないと方角も時間もわからない。もう一人の赤蛮奇も行方知らず。進む道さえ見失ってしまった。
何をやっているんだろう。何がしたいんだろう。それさえ最早わからない。自分は馬鹿だと思える。こういう時、どんな顔をすればいいのだろうか。
ふわふわ浮いて移動するのも結構疲れるものなので、偶然見つけた小さな泉に不時着する。一旦頭を冷やそう。いつだってクールにありたいものだから。
外見上の切り傷はすっかり塞がっていた。痛みもどうやら麻痺してしまったらしい。
水面はキラキラと、幾つもの星を映していた。小さな点々も案外馬鹿に出来ないもので、周囲の木々の皺が判別できるほどの明かりにはなっていた。そこでふと、気づく。対岸に何か見覚えのある物があると。
気のせいかもしれない。けれど今の自分にとっては必要な、目標になり得た。見極めるべく向こうまで泳ぐ。そして顔を出せば、実に馴染みの存在が迎えてくれた。
それは私がこの半月借りていた、少女の骸ではないか。獣のように彼女の母親がそうしたように袖をまくり上げれば、腕の痣が疑惑を確信へと変えてくれる。と同時に新たな謎が現れる。里で放棄されたはずの殻が、何故ここに?
その時、猫か何かの鳴き声が木霊した。威圧した。
「おっと動くんじゃあにゃいよ。何か妙な真似をしたら、たらふく呪いを食わせて殺す。あたいの言う通りにするんだ。いいかい? 逃げ出そうとしても無駄な足掻きさ、もう憑り囲んでるよ。理解したかい?」
声色は甘ったるいが尋常でない凄みがある。私は言われるまでもなく磔にされていた。泉の明かりは星の光でなくたんに死霊が燃えているのだと気付いたのは、今更過ぎることだ。ツンとしたニオイが鼻に纏わりつく。純度の高い死臭というやつで、ネクロマンサーはゴスロリに死の恐怖で武装しておいでなすった。
「さぁその首を渡すんだ……ってあれ、首しかない?」
直前まで圧倒的な妖気を漂わせていたソイツは、私の姿を確かめるなり緊張を解いた。
「なんだ人違いかぁ」
そして蹴飛ばした。イキナリなんてことをするんだ。私は悲鳴を上げながらも動けるようになったので立ち上がる。対する少女は目をぱちくりとさせて、人間的な外観にそぐわない猫耳をピクピク動かし、
「うわ、ごめんねお姉さん。生きてるのか死んでるのかわからなかったから」
口先だけは謝ってみせた。全くふざけている。沸々湧き上がる怒りに任せて睨むが、同時に汗は滝のように流れていた。到底自分の敵う相手ではない、ことくらい理解できる。いくら見た目があどけなく、媚びるような声音を装っても。
化け猫はよっこいしょの掛け声で首無し死体を抱き上げると、はぁと溜息交じりに手押し車に載せた。間違いない、噂に聞く地獄の火車だ。何でもあの間欠泉異変を起こしたとかいう。ただでさえ地底妖怪は武闘派揃いと危険視されているのに、大異変の主犯ともなれば私のような雑魚とは格が幾つも違う。たった今関わりたくない妖怪トップテンにランクインした。それでも、どうしても、このまま見過ごすことも出来ない――
「待て! それは私の体なんだ。返してくれない、か?」
トンズラしようとしていた猫は、無視することなく足を止めた。クスクスと嘲笑う声が聞こえる。彼女は笑顔で振り返って、残酷に告げた。
「お姉さんの、じゃあないでしょ」
説明足らずだと思ったか、ベラベラと続ける。
「こういう商売してるからわかるんだ。“本物の”頭を持って犯人が現場に戻るのはよくあるってね。そいつを押さえるつもりでさ。もしお姉さんの“本物の”体が目当てでも返さないけどねぇ。いやまぁその、そもそも妖怪に死体なんて残らないから興味ないけどねぇ」
猫撫で声がどこまでも不愉快だった。明らかに妖怪歴は長いだろうに「お姉さん」などとコケにするのも。
「犯人? あんたのことでしょ」
「まさか! 火車ってのはね、死体を運ぶのが生き甲斐であって死体を作ることじゃないんだよ。それがルール。だけどお姉さんは、一線を越えたように見える」
見透かしたように言うのがまた腹立たしい。
「そんな怖い顔しないでよ、美人が台無しさ、ピースピース。そうだ! ここで会ったのも何かの縁だし、死体を横取りしたい以外の願いなら聞いてあげようか? それで蹴ったのは許してほしいかなって」
おまけにそんな憐憫の眼差しで馴れ馴れしくされたら、灼熱地獄より熱い炎に焼かれているようだ。いっそ特攻してみるか。けれど私の中のクールな赤蛮奇が必死に宥めるものだから、何とか平静を繕えた。
よくよく考えて、人間の体を取り戻したところで何になる? 人里に戻れるはずないのに。ならば諦めてより賢い選択肢を探すべきじゃないか、私はまだ生きているのだから――ポチャン、思考の泉に一粒の石が落ちて、たちまち波紋が広がる。
「じゃあその車に乗せて、旧都に連れて行ってもらえない?」
我ながら妙案だと思った。風の噂では地下世界に人里より遥かに広い街があるという。住民は人ではなく鬼やら蛇やらといった具合だが、もっとも今までに近い暮らしが出来るとしたらそこしかなかろう。
けれど気紛れな猫は即座に首を振った。容易く破られた約束。私の希望は憤怒に塗り潰され、頂点に達する。
「どうして!」
「悪いけど、無駄だと思うよ。行っても間に合わない、とわかる。あたいにはどうこうできないな、お気の毒だけど」
ガタンと一輪車が倒れる。手を離した火焔描は一歩一歩私に近づいて、拾い上げてはクンクンと、鼻息を鳴らせる。そして冷たい息で囁きかけた。
「だって、こんなにも死が臭う」
それからそっと置いて踵を返す。そこから私は動けなかった。さっきのように気圧されて金縛りに合ったんじゃない、むしろ脱力していく感じだ。待てという言葉も出なかった。
一体何をされたというのか。
「あたいは何もしてない。本当だよ?」
心でも読めるのか、いや私の顔に書いてあったか。死神はまたも首を振った。
「じゃあ来世で、と言いたいところだけど妖怪は死体も死霊も残さない。さようなら」
それで会話は途絶え、気配もあっという間に消えた。一匹の猫など闇は容易く溶かす。
もっとも彼女が目を眩ませたというより、私の目が曇ったせいかもしれない。瞼が自分の意思に関わらず降りゆく。追いかけようという意思に反して地面を這いつくばっている。飛頭蛮であることを忘れてしまったかのような感覚があった。それは、何よりも恐ろしい。
急速に失われていく。赤蛮奇を構成する諸要素が。土のひんやりとした感触さえ、気持ち悪いとも思えない。そんな中、ハッキリとわかることが一つだけあった。
死。
私は今死に瀕している。その理由は知らない。あまりに唐突すぎる。だから怖い。怖い。怖い。
恐怖さえ、消えかかっているのだから。
風に攫われた林檎に出来ることなど、最早腐りきるのを待つだけだった。
射し込む日の光がジリジリと蝕む。意識が戻った時、真っ先に見知らぬ天井を見た。第一印象は天国だった。
まさか。妖怪は死霊を残さないのなら、天国にも地獄にも行けないだろうに。ならば私はまだ生きている、ということになる。
と同時に、これから死ぬ、ということを理解した。
体が動かないのは当然だ。首だけなのだから。それも動かせるのは今や眼球だけ。180°に固定された視界にぬっと首が伸びる。ああ、これはよく見知っている。何せ自分と同じ赤蛮奇なのだから。
「気が付いたか」
声の主は違う。だがこれも聞き覚えはあった。年端のいかぬ人間の魔法使いのだ。その時視界がぐるっと動いて、姿を確かめさせられる。散乱するガラクタに囲まれた白黒の乙女。そして、赤づくめのもう一人の私。リボンの青だけが相変わらず浮いている。
「じゃあ私は神社に行ってくるから、その間は好きに使ってくれていいぜ。店番料な」
「今まで散々滅茶苦茶な弾幕実験に付き合わせておいて、慰謝料をだね」
「退治しないのを感謝しな」
軽口を叩きつつ、バンカラな魔女は颯爽といなくなる。これで赤蛮奇二人きりだ。半身は自分の方に向かってきて、寄り添った。それっきり、喋らない。
「どう、して……」
私が代わりに口を動かしてみる。実際に声に出ているかどうかはわからない。もうほとんど感覚が残っておらず、錯覚で補っているのだから。
「消そう、と、して……」
「勘違いするな。助けるつもりはない。誰かがどうにかしようとして何とかなるものでもない。私から逸脱し、幻想郷のルールを破った報いだと思いな」
鏡合わせの自分は応じてくれているらしい。ただの独り言かもしれないけれど。彼女の言葉尻は冷徹でいかにも赤蛮奇的だったが、でも、と言い淀んで、
「お前の思うこと、望むこと、嫌でもわかってしまう。元は私だったんだから……一人ぼっちは寂しいんだろう」
瞳に塞き止めていた涙をぼろっぼろっと落としてきた。既に死んでいる触覚の代わりに辛うじて生きている視覚が教えてくれる、きっとずっと頬は濡れていたんだと。孤独志向な生き方をしてきたはずなのに。結局最期は赤蛮奇だけになったが、それでも誰かに看取られたかったのかもしれない。
いいやそうじゃない、私はせっかく生まれてきたのに、赤蛮奇の一部に過ぎなかった私が私を自覚したのに、私の幸せに気付いたのに――死にたくない。死にたくない。死にたくない。死にたくない。
今だってお腹がすいて仕方がない。とめどない欲望を抑えきれない。人間の肉なんて望まない。ただ私は、一杯の蕎麦が食べたかった。もっと食べていたかった。
それが赤蛮奇の、私の望む暮らしだった。もう終わってしまったことだ。
糸が切れかけている私だけでなく、五体満足の赤蛮奇にもそんな暮らしは最早叶わないだろう。私がヘマをしたせいで。今まで以上に殻に籠って生きていくのだろうか。そんなことを考えていると彼女が視界が消えてしまったのだから、自責の念に駆られる。ああ、これが報いか。
「……おい、おい、見えていないのか? 聞こえているか? まだ逝くな」
耳音で私によく似た声がした。目を凝らせばぼんやりと、赤い丸が大小二つ、揺らめいている。大きい方は小さい方を口元にあてがって、中身を中へ流し込んだ。何だろうか。細い糸のような、けれどコシがしっかりしているような。喉元をつるんと滑る感触だけは辛うじてわかった。わかった。今や感じ取れない味も甦ってくる。頭の中の腹が満たされていく。
あの好きだった蕎麦だ。有り得ない、どうやって、錯覚か? けれどあの蕎麦だと思える。それで十分だった。
曇った鏡が一瞬晴れた気がした。心なしか、嬉しそうにしていた。悲しそうにも見えた。
その一瞬が過ぎれば瞼が降りる。食べたら眠くなるのは必然だ。私は消えゆく意識の中でただ、この一瞬が永遠になればいいのに、と願っていた。
「かけそば一つ」
「あいよ」
大通りから少し外れたところに、流行ってもいないが寂れてもいない蕎麦屋があった。上手くもなければ不味くもなく、高くもなければ安くもない、そんな何の変哲もない店だが不思議と客足も絶えない。して口下手な主人の代わりに給仕が愛想が良いでも悪いでもなく注文を取る。地味な白い割烹着に赤毛が目立つ出で立ちで、客からの人気は中々。実際彼女が働き出してから、ささやかにも賑わうようになったらしい。
ガタン、ゴトン。新たな客が給仕の前に姿を現す。上から下まで紫のドレスが目を引く、大人びても子供らしくもある女。若干けばけばしいがとてもしっくりくる。だけに上から羽織った赤マントが何とも違和感を醸し出して、むず痒くある。むしろ給仕の方にこそ似合う色なのだから。そんなちぐはぐさからも只者でないのは明らかで、当然注文もおかしかった。
「ねぇ貴方、しょうゆだれとごまだれ、どちらが美味しいと思う?」
「はい?」
「ざるそば。好きな方を選んで」
まるで宮沢賢治に筋書きを書かれたみたいで給仕は戸惑う。思わず主人に助けを求めようと首を振りかけるが、客の眼力に押し止めさせられた。仕方なくしょうゆだれがオススメと答えてみる。根拠のない脊髄反射。それでも紫の婦人はオーダーに満足したらしく、微笑みかけながら座った。見ようによっては威圧しているようでもある。
赤の給仕はおっかなびっくりお盆を置くと、今度は隣に座れと言ってきた。見れば主人は無言のうちに従えと顔に示している。観念して相席すれば、いっそう奇妙なことに頼んだ品をそのまま返してくるではないか。露のなみなみ入った御椀が不自然に熱いとなると、最早現実感もない。珍客は終始笑顔を張り付けながら、麺を浸けて、不気味に囁くのだった。
「さめないうちに、めしあがれ」
関係ないですが紫って赤マントとか着てましたっけ?
どの読みがミスリードでどの読みが正解なのか、きちんとお示しになっていないので、
ただの雰囲気作品で終わってしまっていると思います。
あるいは書き手の方に読み抜けがあるのでは、とも思います。
最初の殺人を犯したのは普通に読めば実験を仕掛けたあの人物になるわけですが
(お燐のいうとおり現場に戻ったのですし)
その部分の処理が甘い気がします。
それと、以下の文章が不自然に感じます。
”普段の赤蛮奇らしく”(私らしく?)
”出なきゃ自分から封印されるだなんてね”(でなきゃ?)
”運河に投げ入れる”(飛び込む?)
”一度天狗は私を見つけると、”(見つければ?)
特にラストシーンは、誰がどうなってて誰が話してるのか混乱しますた