「……そうそう、二本裏に入った七軒目ののお店です。……ええ、……ええ、……すみませんね、よろしくお願いします」
通話を終え、四季映姫は静かに受話器を置いた。
礼を言って卓越しの女将に電話を戻す。狐の変じた妖怪らしい女将は笑顔でそれを受け取り、裏へとしまった。
妖怪でごった返す中、映姫は自席へと戻る。席では小野塚小町が待っていて、口につけかけた杯を卓の上に戻し、映姫に尋ねた。
「つながりました?」
「ええ、すぐ来てくれるそうです」
「良かったですねー。旧都の電話はすぐ切れるって有名なんですよ。ほら、しょっちゅう妖怪が飛び回っているんで」
「いっそ地下に埋めてしまえばいいのでは……」
「それが、すぐ下に旧灼熱地獄があるせいでうまくいかないみたいです」
「なるほど」
相槌を打ちながら、映姫は座敷に上がった。卓の上には銚子が数本置かれている。その内の一本を取り、自分の杯を満たす。
燗酒は少しぬるくなっていた。杯を口元へ運び、舐めるように唇を湿らす。
映姫と小町はすでにこの店で二刻ほど飲んでいた。さすがの映姫も、やや頭がぼんやりしている。
「四季様、どうでしたこのお店?」
「とても良かったですよ。料理もお酒も美味しくて」
「えへへ、ですよね~。旧都を色々はしごして、ようやく見つけた当たりのお店です」
小町がうれしそうににへら、と笑う。映姫も釣られて微笑み、
「小町のオススメは外れたことがありませんから、安心して任せられます」
と、言う。
映姫と小町は、仕事帰りにときどき飲みに行く事がある。誘うのはどちらと決まっているわけではないが、店を選ぶのは大抵小町だった。
幻想郷各所を飲み歩いている小町は隠れた名店をいくつも知っている。料理が美味しくて、値段は高くなく、それでいて接客は心がこもっている、そんな店をよく見つけてくるのだった
この日は小町の誘いで、旧都に飲みに行く事になった。小町が太鼓判を押しただけあって、料理も雰囲気も文句なしに素晴らしい店だった。構えは洒落た小料理屋という風だったが、中は気取らない居酒屋のようになっていた。客の妖怪たちも賑やかに飲んではいるが、酩酊して分別を無くすような者はいない。社交場での行儀を守っているというより、店の者に余計な迷惑をかけないよう気を遣っているらしかった。この店には誰もがそうしたくなるような温かい雰囲気があった。
「小町のおかげで今夜は楽しく飲めました。いささか楽しみすぎたようですが」
「そうですね。まさかこんなことになるとは……」
二人とも、奥の壁に嵌めこまれた円形の窓の外を見る。空からは雪が舞い、旧都の家々の屋根は早くも積もり始めていた。近くにいた妖怪に聞けば、夕方までは粉雲だけだったのに、夜になって急に強く降ってきたらしい。気候の読めるものによればこのまま朝までいつになく激しく降るそうだ。地底の天気は地上よりずっと読みづらい。
見るともなく窓の外を見ていた映姫は、ふと、呟いた。
「こんな日は昔を思い出しますね」
小町が窓から視線を外し、映姫を見る。
「むかし、ですか」
「ええ、私がまだ地蔵だった頃」
「へー、何かあったんですか? 四季様昔のこと全然話さないから」
興味津々、といった様子の小町に映姫は苦笑する。
「退屈な話になっても、構いませんか?」
「もちろん。聞きたいです」
「そうですか。まあ、迎えがくるまで時間がありますしね……」
そう言って、映姫は店員にほうじ茶を二つ頼むと、小町に向き直って話し始めた。
――あれは、まだ私がまだ路傍の石仏であった頃です。その頃の私はある深い山の中、旅人が通る道沿いに置かれていました。
私は作られた初めこそ小奇麗で小さなお堂もありましたが、長い間風雨にさらされるうちに古びていきました。表面はざらつき所々欠け、そのうちお堂が壊れてからは雨ざらしになりますます崩れて行きました。
もとより通る者の少ない山道。立ち止まって拝んでくれれば良い方で、ましてや修理などは望むべくもありません。
と言ってそれが辛かったわけではありませんでした。そもそも石の体に寒さは暑さは堪えませんし、打ち捨てられて誰にも顧みられないことも、それはそれで一つの宿命だと思っていたのです。
地蔵として生まれ、道行く者を見守ることが出来ればそれで十分だと思っていたのです。
そうそう、先ほど通る者の少ない山道と言いましたが、通るのは何も人間だけではありませんでした。獣も当たり前のように使いますし、夜になると――そういう道だったのでしょうね、妖かしが行き過ぎていくこともありました。私はそれらの人、獣、妖を等しく見守り、朽ちゆく日を待っていたのです。
今日みたいに深々と雪の降る、ひどく寒い日でした。
夜明け前から降り始めた雪は、朝にはもううっすら積もるほどでした。吹雪いてはいませんでしたが、こんな雪の日によもや山を登るものもいないだろうと思い静かに白く染まっていく景色を眺めていました。
すると、向こうから小さな人影が走ってくるのが見えました。あまりに小さく、初めは獣か何かかと思いましたが近づいてくるうちにそれが人間の姿をしていることに気づいたのです。
それは本当に幼い少女でした。どうかすると持ってる傘のほうが大きいくらいで、その傘を重そうに担ぎながら懸命に走っていました。頬は赤く染まり、冬なのに汗が滴るのが見えました。
どう見ても、雪の山道は似合わない少女です。それに着ているものも粗末で、吹雪けばひとたまりもなさそうでした。ですがその少女は雪に着物の袖が濡れることも構わないように、走って来ました。
少女はちょうど私のやや手前で止まると、大声で何事か叫びました。人の名前のようでした。どうやら少女はこの山の中で誰かを探しているようでした。
少女は何度も叫びますが、返事はありません。その内に叫ぶのをやめた少女はあたりを見回し、ふと、私に目を留めました。その時初めて私の存在に気づいたように、目を丸くして驚いていました。
少女は私の前に屈みこむと手を合わせます。そして、こうつぶやきました。
『お地蔵様、どうかお願いを聞いて下さい。私の妹が見つからないんです。もう三日も見つからなくて、今日は雪まで降ってきて……。お願いです、どうか、どうか妹を見つけさせてください』
何度も何度もそうつぶやき、祈っていました。私は同情し、自分も早く見つかるようにと念じました。少女が指先を真っ赤にして手をすり合わせるのは、見るにいたたまれませんでした。
やがて少女は顔を上げ、再び妹を探しに去って行きました。私はそれからずっと、あの少女が早く妹を見つけられるよう祈りました。もう石か仏像かもわからないほどボロボロになった私でしたが、少女のささやかな願いくらい叶えてあげたいと思いました。
やがて日が没してあたりは真っ暗になりました。夜が更けても雪は降り続け、私の台座はもうすっかり白く埋もれ見えなくなっていました。
しん、とした静寂を破って足音がしました。朝の少女が、走り去った山道ではなく暗い森の中から出てきました。足を引きずるようにし、消沈したその表情から妹がまだ見つからないのだと私はさとりました。
少女は無意識にこの山道にでてきたようでした。私を見つけたとき、はっとした表情になり近づいて来ました。
少女の肩に雪が乗っていることに私は気づきました。傘は、山中ではかえって邪魔になったのでしょう、閉じて脇に抱えています。
少女は私に近づくと、静かに膝を折り座りました。そして私に向けて手を合わせると、再び妹が見つかるよう祈り始めます。
私はそれまで朽ち行く自分の体を惜しんだことはありませんが、その時ばかりは、お堂が崩れ形も残ってないことを悔やみました。もし屋根でも残っていれば、この一時ばかりでも少女を雪から守ることができたでしょう。
いえ、それも本当は気休めで、無力な石像のないものねだりに過ぎ無いのかもしれません。少女が本当に望んでいる妹を、見つけてやることもできない私が、せめてもの優しさでそう思っただけなのかもしれません。所詮はただの石像。目の前の少女に一欠片の暖かさも与えてやることのできない石の塊なのです。
そんな私の気持ちも知らず、少女は熱心に私を拝んでくれました。なんの力にもなれない私を、朝と変わらない熱心さで。それは仏教への信心などでは説明されないものでした。ただ祈ることへの真摯さが少女にありました。
その肩に新たな雪がつもるほど長い時間祈って、少女は顔を上げました。私はいたたまれなくなっていました。少女に拝まれれば拝まれるほど、自分の無力さを見せつけられているようでした。ようやく妹を探しに行くのか、と思った時正直安堵さえしたのです。ですが、少女はそれよりずっと驚くべき行動に出ました。
地面においていた傘を手に取ると、大きく開きます。しっかりと骨組みが固まったたのを確かめると、私の側に立てました。
少女は言います。
『お地蔵様、ごめんなさい。自分のことでいっぱいで、お地蔵様が寒そうなことに、今まで気づけませんでした。この傘はもう私は使いませんから、どうかお役に立てて下さい。こんな雪の日に傘もないのは、あまりに辛いです』
辛いのはあなたの方でしょう――もし口が聞けたら、そう言っていたに違いありません。少女は僅かな防寒具の襟巻きさえも取り、私の体と傘を縛り付け始めました。
私は石だから平気です。それより自分の身を気遣いなさい――私は心のなかで何度も叫びました。ですが所詮は石の体、伝わるはずもありません。それでも、その時顔を上げて、にっこり笑う少女を見た時、まるで少女が私の気持ちを知った上で、それでも優しくしてくれたように私は思いました。
『さあ、できましたお地蔵様。どうか風邪など引かぬよう。そして、妹を見つけるのを、ほんの少し手伝っていただければ嬉しいです』
そういった彼女は、笑顔で走り去って行きました。言うまでもなく、妹を探すためです。前よりずっと寒いはずのその体は、むしろ明るく軽やかに山の奥へと消えて行きました。
私は心から少女が妹を見つけられることを望みました。そうでなければせめて、少しでも雪が弱まるように祈りました。
少女が山の奥に消えてからどれほど経ったでしょう。私はただひたすら少女のために祈りました。外で何が起きようと気づかないくらい深く念じました。
ふと気づくと、私の側で子供が寝ていました。あまりに突然だったのでひどく驚き、あの少女が戻って来たのかと思いましたが、違いました。私の側で眠る子供は少女よりさらにあどけなく、スヤスヤと穏やかな寝顔を見せていました。
私の祈りが通じたのか、雪の勢いはだいぶ弱まっていました。これなら明日の朝には止みそうです。私の周囲も、傘で隠れている部分だけは雪が積もっていませんでした。子供はその僅かな面積を器用に猫のように丸まって寝ているのでした。
その子供はあの妹を探している少女とどこか似た雰囲気がありました。もしかしたらこの子こそ少女の妹であるのかもしれません。また、たとえそうでなくても私はその子供のために一晩寝床になってやろうと思いました。少女がくれたかけがえのない優しさを、今度は私が与える番だと思いました。
私は石の体です。私の側で寝ても、ただ冷たいだけのはずです。それでも子供の寝顔はただ安らかでした。まるで石像の私が持たないはずの暖かさを感じているかのようでした。もしそうだとすれば、それは私が少女から傘をもらった時に感じたのと同種の暖かさであったでしょう。
次の日の朝、あの少女が三度、私の前に現れました。私の側で眠る子供を見て、少女はとても驚いていました。
やはり、その子供が少女の妹だったのです。
少女は私に何度もお礼を言いました。私は結局何もしてはいませんでしたが、少女は私が巡りあわせてくれたと思っているようでした。
少女の妹はどうもフラフラと気ままに行動する子のようでした。もしかすると彼女は少しでも暖かい場所を求めて山の中をさまよっていて、たまたま傘で雪のない場所があったために私の側で寝たのかもしれません。だとすれば少女の優しさが結局は妹と巡りあわせたことになります。私はこの不思議な偶然に感謝しました。
姉妹は私に礼を言いながら、山を下って行きました。雪はもうやみ、雲の隙間から微かな陽射しが戻っていました。
「それで、どうなったんですか」
映姫がそこで話を区切ると、小町が訊ねてきた。映姫は一口お茶を飲むと、口を開いた。
「いえ、話はそれだけです。その後、私は是非曲直庁の閻魔職の求人に応募することにしました。地蔵尊としてだけでなく、より実際的な魂の救済を願ったからですが、それにはあの姉妹が関わっていないことも無いですね」
「へえ、じゃあ四季様が閻魔の道を選んだ、一つのきっかけだったと」
「そうですね」
映姫は穏やかにほほえむ。
「しかし、世の中には奇特な人間がいるもんですね。そういう魂ばっかなら、あたいの仕事も楽になるのに」
小町が感心したように頷きながら、言った。その言葉に映姫が注釈を入れる
「いや、どうもその姉妹は妖怪だったと思います」
「なんでですか?」
「普通の人間に、ましてや子供に、夜の雪山を何日もさまよえるわけないでしょう」
「ああ、そりゃそうですね」
小町がぽん、と手を打ったところで、ちょうど店員が迎えがきたことを知らせに来た。
「迎えがきたようなのでこれで失礼しますね。ここは私がおごっておきましょう」
映姫がそう言って伝票を掴むと座敷から降りたので、小町が慌てだした。
「ええっ、いや、そんな、悪いですよ」
後を追って座敷から降りた小町に、映姫はからかうような調子で言った。
「代わりに、明日は遅刻してはいけませんよ。居眠りも禁止です」
「は、はい。絶対しません!」
ビシッと気をつけの姿勢になって言う小町に、ふふ、と笑って映姫は会計を済ませ、店の外に出た。
雪は、変わらず降っている。吹雪くことはないが量は多く、旧都の地面を白く染めていく。
と、
「まったくいつもいつも私に迎えにこさせて。タクシーじゃないんですよ」
傘をさした古明地さとりが雪の中で待っていた。手には古びた和傘をもう一本持っている。
「いつもすいませんね、さとり。そろそろ帰ろうかと思ったところに急に降ってきたものですから」
「たまには雪になる前に帰るか、、傘を持ち歩いて下さい。じゃないともう迎えに来てあげませんよ」
映姫に傘を差し出しながら、さとりが言う。はい、わかりました、と詫びれる様子なく映姫は受け取った。
映姫の傘は古い年代物だった。何度も紙を張り替えて、大切に使っている様子が伺える。
「その傘、そろそろ買い換えたらどうですか」
「いやです」
「だいたいなんでそれ一本しか持ち歩かないんです」
「秘密です」
(おわり)
通話を終え、四季映姫は静かに受話器を置いた。
礼を言って卓越しの女将に電話を戻す。狐の変じた妖怪らしい女将は笑顔でそれを受け取り、裏へとしまった。
妖怪でごった返す中、映姫は自席へと戻る。席では小野塚小町が待っていて、口につけかけた杯を卓の上に戻し、映姫に尋ねた。
「つながりました?」
「ええ、すぐ来てくれるそうです」
「良かったですねー。旧都の電話はすぐ切れるって有名なんですよ。ほら、しょっちゅう妖怪が飛び回っているんで」
「いっそ地下に埋めてしまえばいいのでは……」
「それが、すぐ下に旧灼熱地獄があるせいでうまくいかないみたいです」
「なるほど」
相槌を打ちながら、映姫は座敷に上がった。卓の上には銚子が数本置かれている。その内の一本を取り、自分の杯を満たす。
燗酒は少しぬるくなっていた。杯を口元へ運び、舐めるように唇を湿らす。
映姫と小町はすでにこの店で二刻ほど飲んでいた。さすがの映姫も、やや頭がぼんやりしている。
「四季様、どうでしたこのお店?」
「とても良かったですよ。料理もお酒も美味しくて」
「えへへ、ですよね~。旧都を色々はしごして、ようやく見つけた当たりのお店です」
小町がうれしそうににへら、と笑う。映姫も釣られて微笑み、
「小町のオススメは外れたことがありませんから、安心して任せられます」
と、言う。
映姫と小町は、仕事帰りにときどき飲みに行く事がある。誘うのはどちらと決まっているわけではないが、店を選ぶのは大抵小町だった。
幻想郷各所を飲み歩いている小町は隠れた名店をいくつも知っている。料理が美味しくて、値段は高くなく、それでいて接客は心がこもっている、そんな店をよく見つけてくるのだった
この日は小町の誘いで、旧都に飲みに行く事になった。小町が太鼓判を押しただけあって、料理も雰囲気も文句なしに素晴らしい店だった。構えは洒落た小料理屋という風だったが、中は気取らない居酒屋のようになっていた。客の妖怪たちも賑やかに飲んではいるが、酩酊して分別を無くすような者はいない。社交場での行儀を守っているというより、店の者に余計な迷惑をかけないよう気を遣っているらしかった。この店には誰もがそうしたくなるような温かい雰囲気があった。
「小町のおかげで今夜は楽しく飲めました。いささか楽しみすぎたようですが」
「そうですね。まさかこんなことになるとは……」
二人とも、奥の壁に嵌めこまれた円形の窓の外を見る。空からは雪が舞い、旧都の家々の屋根は早くも積もり始めていた。近くにいた妖怪に聞けば、夕方までは粉雲だけだったのに、夜になって急に強く降ってきたらしい。気候の読めるものによればこのまま朝までいつになく激しく降るそうだ。地底の天気は地上よりずっと読みづらい。
見るともなく窓の外を見ていた映姫は、ふと、呟いた。
「こんな日は昔を思い出しますね」
小町が窓から視線を外し、映姫を見る。
「むかし、ですか」
「ええ、私がまだ地蔵だった頃」
「へー、何かあったんですか? 四季様昔のこと全然話さないから」
興味津々、といった様子の小町に映姫は苦笑する。
「退屈な話になっても、構いませんか?」
「もちろん。聞きたいです」
「そうですか。まあ、迎えがくるまで時間がありますしね……」
そう言って、映姫は店員にほうじ茶を二つ頼むと、小町に向き直って話し始めた。
――あれは、まだ私がまだ路傍の石仏であった頃です。その頃の私はある深い山の中、旅人が通る道沿いに置かれていました。
私は作られた初めこそ小奇麗で小さなお堂もありましたが、長い間風雨にさらされるうちに古びていきました。表面はざらつき所々欠け、そのうちお堂が壊れてからは雨ざらしになりますます崩れて行きました。
もとより通る者の少ない山道。立ち止まって拝んでくれれば良い方で、ましてや修理などは望むべくもありません。
と言ってそれが辛かったわけではありませんでした。そもそも石の体に寒さは暑さは堪えませんし、打ち捨てられて誰にも顧みられないことも、それはそれで一つの宿命だと思っていたのです。
地蔵として生まれ、道行く者を見守ることが出来ればそれで十分だと思っていたのです。
そうそう、先ほど通る者の少ない山道と言いましたが、通るのは何も人間だけではありませんでした。獣も当たり前のように使いますし、夜になると――そういう道だったのでしょうね、妖かしが行き過ぎていくこともありました。私はそれらの人、獣、妖を等しく見守り、朽ちゆく日を待っていたのです。
今日みたいに深々と雪の降る、ひどく寒い日でした。
夜明け前から降り始めた雪は、朝にはもううっすら積もるほどでした。吹雪いてはいませんでしたが、こんな雪の日によもや山を登るものもいないだろうと思い静かに白く染まっていく景色を眺めていました。
すると、向こうから小さな人影が走ってくるのが見えました。あまりに小さく、初めは獣か何かかと思いましたが近づいてくるうちにそれが人間の姿をしていることに気づいたのです。
それは本当に幼い少女でした。どうかすると持ってる傘のほうが大きいくらいで、その傘を重そうに担ぎながら懸命に走っていました。頬は赤く染まり、冬なのに汗が滴るのが見えました。
どう見ても、雪の山道は似合わない少女です。それに着ているものも粗末で、吹雪けばひとたまりもなさそうでした。ですがその少女は雪に着物の袖が濡れることも構わないように、走って来ました。
少女はちょうど私のやや手前で止まると、大声で何事か叫びました。人の名前のようでした。どうやら少女はこの山の中で誰かを探しているようでした。
少女は何度も叫びますが、返事はありません。その内に叫ぶのをやめた少女はあたりを見回し、ふと、私に目を留めました。その時初めて私の存在に気づいたように、目を丸くして驚いていました。
少女は私の前に屈みこむと手を合わせます。そして、こうつぶやきました。
『お地蔵様、どうかお願いを聞いて下さい。私の妹が見つからないんです。もう三日も見つからなくて、今日は雪まで降ってきて……。お願いです、どうか、どうか妹を見つけさせてください』
何度も何度もそうつぶやき、祈っていました。私は同情し、自分も早く見つかるようにと念じました。少女が指先を真っ赤にして手をすり合わせるのは、見るにいたたまれませんでした。
やがて少女は顔を上げ、再び妹を探しに去って行きました。私はそれからずっと、あの少女が早く妹を見つけられるよう祈りました。もう石か仏像かもわからないほどボロボロになった私でしたが、少女のささやかな願いくらい叶えてあげたいと思いました。
やがて日が没してあたりは真っ暗になりました。夜が更けても雪は降り続け、私の台座はもうすっかり白く埋もれ見えなくなっていました。
しん、とした静寂を破って足音がしました。朝の少女が、走り去った山道ではなく暗い森の中から出てきました。足を引きずるようにし、消沈したその表情から妹がまだ見つからないのだと私はさとりました。
少女は無意識にこの山道にでてきたようでした。私を見つけたとき、はっとした表情になり近づいて来ました。
少女の肩に雪が乗っていることに私は気づきました。傘は、山中ではかえって邪魔になったのでしょう、閉じて脇に抱えています。
少女は私に近づくと、静かに膝を折り座りました。そして私に向けて手を合わせると、再び妹が見つかるよう祈り始めます。
私はそれまで朽ち行く自分の体を惜しんだことはありませんが、その時ばかりは、お堂が崩れ形も残ってないことを悔やみました。もし屋根でも残っていれば、この一時ばかりでも少女を雪から守ることができたでしょう。
いえ、それも本当は気休めで、無力な石像のないものねだりに過ぎ無いのかもしれません。少女が本当に望んでいる妹を、見つけてやることもできない私が、せめてもの優しさでそう思っただけなのかもしれません。所詮はただの石像。目の前の少女に一欠片の暖かさも与えてやることのできない石の塊なのです。
そんな私の気持ちも知らず、少女は熱心に私を拝んでくれました。なんの力にもなれない私を、朝と変わらない熱心さで。それは仏教への信心などでは説明されないものでした。ただ祈ることへの真摯さが少女にありました。
その肩に新たな雪がつもるほど長い時間祈って、少女は顔を上げました。私はいたたまれなくなっていました。少女に拝まれれば拝まれるほど、自分の無力さを見せつけられているようでした。ようやく妹を探しに行くのか、と思った時正直安堵さえしたのです。ですが、少女はそれよりずっと驚くべき行動に出ました。
地面においていた傘を手に取ると、大きく開きます。しっかりと骨組みが固まったたのを確かめると、私の側に立てました。
少女は言います。
『お地蔵様、ごめんなさい。自分のことでいっぱいで、お地蔵様が寒そうなことに、今まで気づけませんでした。この傘はもう私は使いませんから、どうかお役に立てて下さい。こんな雪の日に傘もないのは、あまりに辛いです』
辛いのはあなたの方でしょう――もし口が聞けたら、そう言っていたに違いありません。少女は僅かな防寒具の襟巻きさえも取り、私の体と傘を縛り付け始めました。
私は石だから平気です。それより自分の身を気遣いなさい――私は心のなかで何度も叫びました。ですが所詮は石の体、伝わるはずもありません。それでも、その時顔を上げて、にっこり笑う少女を見た時、まるで少女が私の気持ちを知った上で、それでも優しくしてくれたように私は思いました。
『さあ、できましたお地蔵様。どうか風邪など引かぬよう。そして、妹を見つけるのを、ほんの少し手伝っていただければ嬉しいです』
そういった彼女は、笑顔で走り去って行きました。言うまでもなく、妹を探すためです。前よりずっと寒いはずのその体は、むしろ明るく軽やかに山の奥へと消えて行きました。
私は心から少女が妹を見つけられることを望みました。そうでなければせめて、少しでも雪が弱まるように祈りました。
少女が山の奥に消えてからどれほど経ったでしょう。私はただひたすら少女のために祈りました。外で何が起きようと気づかないくらい深く念じました。
ふと気づくと、私の側で子供が寝ていました。あまりに突然だったのでひどく驚き、あの少女が戻って来たのかと思いましたが、違いました。私の側で眠る子供は少女よりさらにあどけなく、スヤスヤと穏やかな寝顔を見せていました。
私の祈りが通じたのか、雪の勢いはだいぶ弱まっていました。これなら明日の朝には止みそうです。私の周囲も、傘で隠れている部分だけは雪が積もっていませんでした。子供はその僅かな面積を器用に猫のように丸まって寝ているのでした。
その子供はあの妹を探している少女とどこか似た雰囲気がありました。もしかしたらこの子こそ少女の妹であるのかもしれません。また、たとえそうでなくても私はその子供のために一晩寝床になってやろうと思いました。少女がくれたかけがえのない優しさを、今度は私が与える番だと思いました。
私は石の体です。私の側で寝ても、ただ冷たいだけのはずです。それでも子供の寝顔はただ安らかでした。まるで石像の私が持たないはずの暖かさを感じているかのようでした。もしそうだとすれば、それは私が少女から傘をもらった時に感じたのと同種の暖かさであったでしょう。
次の日の朝、あの少女が三度、私の前に現れました。私の側で眠る子供を見て、少女はとても驚いていました。
やはり、その子供が少女の妹だったのです。
少女は私に何度もお礼を言いました。私は結局何もしてはいませんでしたが、少女は私が巡りあわせてくれたと思っているようでした。
少女の妹はどうもフラフラと気ままに行動する子のようでした。もしかすると彼女は少しでも暖かい場所を求めて山の中をさまよっていて、たまたま傘で雪のない場所があったために私の側で寝たのかもしれません。だとすれば少女の優しさが結局は妹と巡りあわせたことになります。私はこの不思議な偶然に感謝しました。
姉妹は私に礼を言いながら、山を下って行きました。雪はもうやみ、雲の隙間から微かな陽射しが戻っていました。
「それで、どうなったんですか」
映姫がそこで話を区切ると、小町が訊ねてきた。映姫は一口お茶を飲むと、口を開いた。
「いえ、話はそれだけです。その後、私は是非曲直庁の閻魔職の求人に応募することにしました。地蔵尊としてだけでなく、より実際的な魂の救済を願ったからですが、それにはあの姉妹が関わっていないことも無いですね」
「へえ、じゃあ四季様が閻魔の道を選んだ、一つのきっかけだったと」
「そうですね」
映姫は穏やかにほほえむ。
「しかし、世の中には奇特な人間がいるもんですね。そういう魂ばっかなら、あたいの仕事も楽になるのに」
小町が感心したように頷きながら、言った。その言葉に映姫が注釈を入れる
「いや、どうもその姉妹は妖怪だったと思います」
「なんでですか?」
「普通の人間に、ましてや子供に、夜の雪山を何日もさまよえるわけないでしょう」
「ああ、そりゃそうですね」
小町がぽん、と手を打ったところで、ちょうど店員が迎えがきたことを知らせに来た。
「迎えがきたようなのでこれで失礼しますね。ここは私がおごっておきましょう」
映姫がそう言って伝票を掴むと座敷から降りたので、小町が慌てだした。
「ええっ、いや、そんな、悪いですよ」
後を追って座敷から降りた小町に、映姫はからかうような調子で言った。
「代わりに、明日は遅刻してはいけませんよ。居眠りも禁止です」
「は、はい。絶対しません!」
ビシッと気をつけの姿勢になって言う小町に、ふふ、と笑って映姫は会計を済ませ、店の外に出た。
雪は、変わらず降っている。吹雪くことはないが量は多く、旧都の地面を白く染めていく。
と、
「まったくいつもいつも私に迎えにこさせて。タクシーじゃないんですよ」
傘をさした古明地さとりが雪の中で待っていた。手には古びた和傘をもう一本持っている。
「いつもすいませんね、さとり。そろそろ帰ろうかと思ったところに急に降ってきたものですから」
「たまには雪になる前に帰るか、、傘を持ち歩いて下さい。じゃないともう迎えに来てあげませんよ」
映姫に傘を差し出しながら、さとりが言う。はい、わかりました、と詫びれる様子なく映姫は受け取った。
映姫の傘は古い年代物だった。何度も紙を張り替えて、大切に使っている様子が伺える。
「その傘、そろそろ買い換えたらどうですか」
「いやです」
「だいたいなんでそれ一本しか持ち歩かないんです」
「秘密です」
(おわり)
いやほんと。
これは......?
幼い映姫続き見たいです
しんしんと心に響くエピソードでした
来年は良い年を迎えられそう
読んだ後、そんな気になった
その内に第二の多々良小傘と化すんじゃなかろうか?
…あ、仮にそうなっても、別段問題がある訳じゃないな。