東京を覆い尽くす暑気の中に、少しずつ秋の気配が混じり始めていた。太陽と気団がようやく攻めの手を緩め、都市の占領を諦めたのだ。とはいえ夏の残滓は未だに色濃く、往来を歩く人々の額から玉の汗が消えることはまだない。
後ろを歩く星さんと那津を、私はくるりと振り返った。新調した真白なワンピースの、スカートの裾がふわりと広がるのを感じる。
「もう、2人ともだらだらしてないで、もっとシャキっと歩きなさいよ。このままじゃ日が暮れちゃう」
「いっそのこと、日が暮れてくれた方が涼しくなっていいんだけどね」
「まぁまぁ、その喫茶店も逃げることはないでしょうし」
この残暑の中でもタイを外さずシャッポを脱がないあたりが、星さんらしいといえばらしいのだが。一方の那津はもはや恥も外聞もかなぐり捨て、扇をめいっぱいに活用して自らに猛烈な風を送っている。
喫茶店COINへ行こうと提案したのは私だ。やはりあの場所が八雲紫への手がかりを最も得られそうだったし、何よりもメリーベルの様子が気になったからだ。キネマの中に取り込まれてしまうという一連の異変が終結して以降、彼女は私の前に姿を見せなくなっていた。ウェイトレスとして彼女を働かせていた幽香さんならば、何かを知っているかもしれないと考えたのだ。
苦笑いの星さんが、ふと何かを見つけた。
「おや、あれは」
「……これまた、節操のない」
指さした先、街角のキネマ館には、公演中の演目を示す大きなポスターが掲げられている。そこに写っているのは、どこかで見たような2人組の少女だった。秘封倶楽部、のようだがよく見るとそうではない。他の誰かが似せて作ったキネマトグラフである。
「ここだけじゃない。今やそこかしこで、『秘封倶楽部』の後追い作品が公開されている。雨後の筍みたいな勢いさ。今が書き入れ時ってやつなんだろうね」
那津が胸元から服の中へ風を送り込みながら言う。
結局、香霖堂の『秘封倶楽部』の公演は何が何だか分からない間に終わった。清太郎さん曰く、八雲紫より届いていたフイルムはどれも一度上映すると全て真っ白になってしまう、とのことだった。それではもちろん2度目の公開はできない。フイルムの中身として、私たちが見る夢が必要ということなのだろう。
公演の唐突な終了に愛好家たちも随分と戸惑ったようで、実際香霖堂にはかなりの問い合わせが入ったとのことだったが、上映できないものは仕方がない。私としては、自分の夢の内容など進んで見せたいものでもないから好都合なのだが。
そして香霖堂の興行が終わるが早いか、同業他社がこぞって似たようなストーリーキネマを製作し始めたわけだ。題こそ違えど中身はほとんどそのまんまだったり、酷いものになると勝手に続編と銘打っていたりした。
「ま、勝手にやってください、って感じ。私はもう夢を気にしなくていいから気楽なものよ」
私は踵(きびす)を返し、再び2人を先導するように歩き始める。そうだ、どこの誰がどんなストーリーキネマを作ろうが、もはや私には全く関係ない。もう誰かの夢を勝手に見せられることはないし、その中で何度も殺されることだってないのだ。平穏な睡眠とはかくも有り難いものか。生きる喜びを私は噛みしめていた。
「それにしても、メリーベルさんは大丈夫なんでしょうか」
星さんが心配そうに呟く。自動車が1台通り過ぎて、乾ききった路面から舞い上がった砂埃が私たちを包んだ。
父の仇を取り逃がしたと知ったときの、メリーベルの意気消沈ぶりはかなりのものだった。八雲紫に辿り着くために、彼女は妖怪退治をしていたのだという。手の届く場所まで手繰り寄せた好機をみすみす逃してしまったわけだ。再びその影を探すところから始めなければならないとなれば、彼女が落胆するのも頷ける。
頷ける、けれど。
「……それを確かめに行くんじゃないですか」
少しだけ足を早める。ずっと胸騒ぎがしているのだ。彼女の身に、もっととんでもないことが起こっているような、そんな微かな不安。杞憂であってほしいと願いながら、私は歩を進めた。星さんと那津はもう何も言わない。風が止んで、辺りに熱が蟠(わだかま)り始める。日差しが前髪を焦がすじりじりという音が聞こえてきそうだった。帽子が欲しい、と強く思った。星さんや、あるいは宇佐見蓮子が持っていたような。キネマの中の彼女が、ほんの少しだけ羨ましくなった。
悲しいことに、私の胸騒ぎは的中していた。
◆ ◇ ◆
ソーサーの鳴る軽い音とともに、私の前にカップが置かれた。7分9秒前に注文したのは、珈琲3つと那津のバニラアイスだ。それらが載ったトレイを手に持ったまま、しかし幽香さんは残り2つの珈琲を机に置こうとはしなかった。
「獣って、カフェインを摂るのはまずいんじゃなかったかしら?」
「大丈夫ですよ。お気遣い、痛み入ります」
そう、と薄く微笑んで、幽香さんは残りのカップとバニラアイスを出して戻っていった。星さんと那津は確かに妖獣に類する妖怪であるが、そのことはまだ彼女に説明していない。一目だけで見抜いたということだろうか。
ミルクと砂糖をひと差しずつ入れてから啜る。豊かな香りが鼻を抜けていく。ほんの一時だけ、全てを忘れてその味わいに身を委ねた。
「なるほど、彼女も妖怪ですか。かなり上手く気配を断っていますね。人間として振る舞っている限りは、正体を看破されることはないでしょう」
「星さんと、どっちが強い?」
「勝負は時の運です。実際にやってみなければ何とも」
「やめてくれ。東京が焼け野原になる」
那津の言葉が私には冗談としか思えなかったが、その目は真剣だった。焼け野原という言葉は比喩ではないらしい。
カップを置いて店内を見渡す。テーブルを囲む私たち3人とカウンターの中で洗い物をしている幽香さん以外には、店内には誰もいない。メリーベルは今日はいないのだろうか。彼女はウェイトレスとしてこの店にいるはずなので、この珈琲を幽香さんが直接持ってきたということは、メリーベルは休みなのかもしれない。だとすれば当てが外れたことになるが。
「あの娘なら、連れていかれた」
幽香さんが事も無げに言った。あまりに唐突だったので、私は思わず腰を浮かせていた。
連れていかれた?
「……誰に?」
「さぁ、そこまでは知らないわ。制服みたいな格好をした連中だったから、何かの組織か団体だと思うけど」
私たち3人は目を見合わせた。そんな展開は予想していなかった。
幽香さんの話によると、メリーベルを訪ねて数人の男がここにやってきたらしい。彼女は彼らに拒否の姿勢を示すことなく、少しの間話し込んでから幽香さんにこう言ったらしい。
―― 短い間でしたが、お世話になりました。私は戻ります。
「……戻る、ってどこに」
立ち尽くした私の問いかけに、答える人はいなかった。真剣に彼女の行方を案じているのは、どうやら私だけのようだった。星さんは眉根を寄せて少しだけ考え込むような顔をしたが、すぐに首を横に振った。那津は黙々とアイスクリームを口に運んでおり、幽香さんも既に意識を手元の皿へと戻している。
「ちょ、ちょっと皆、心配じゃないの?」
「その話が正しいとすれば、彼女は自分の意思で着いていったんだろう」
那津がスプーンを振る。
「それなら問題ないじゃないか。誘拐されたってわけでもないんだし」
「その集団というのが何者なのかは気になりますが……。まぁメリーベルさんにも彼女なりの事情がおありでしょうし」
そう言われてしまうと、私には返す言葉がない。確かに、メリーベルには彼女の交友関係があるのだろう。けれど、私に何も言わずに消えてしまうなんて。
歯噛みしながら私は腰を下ろした。同じ妖怪退治をする人間として、私はメリーベルともっと仲良くなりたかった。こんな形で終わってしまうことが、悔しくて仕方なかった。カップの中身を一気に呷る。その熱さに舌と喉が悲鳴を上げるが、それを無視して全ての珈琲を飲み下した。
「やけに執着するじゃないか。桜子、どうしたんだい」
アイスクリームを完食した那津が横目で私を見る。それには応えず、私は背中を椅子へと預けた。そんなことに理由はいらないんじゃないだろうか。妖怪には理解できない感覚なのか。
ふと、自分でも意外なほど憤慨している自分に気付き、ぎょっとしてしまった。那津の言うことが尤もであるような気もしてきた。ひょっとしたら、『秘封倶楽部』の中へ取り込まれた影響も少しはあるのかもしれない。キネマの中で私たちは本当の意味で相棒だった。登場人物の設定としてもそうだったし、2人きりで夢の世界へと放り込まれたという状況からも、私たちは互いを信頼しあうしかなかったのだ。
「……一言、お礼を言いたかったのよ。ほら、今回の件ではお世話になったわけだし。それなのに勝手にどっかに行っちゃったから」
「まぁ、じきに戻ってくるんじゃないかしら。あの娘、紫を親の仇だって言ってるんでしょう? その気概がある限り、あの娘は東京から逃れられないもの」
緩やかに揺れていた那津の尻尾が、ぴたりと止まった。星さんの目が少しだけ鋭くなって幽香さんを見た。剣呑な空気に気が付いているのかいないのか、マスターは涼しい顔である。そう、彼女は八雲紫と何らかの形で通じているのだ。味方ではない、と言ってはいたがその真意は定かではない。
「どこに行っちゃったのかは知らないけど、あの娘もそのつもりなら早めに行動するべきね。時間はあまり残っていないわ」
「時間?」
ぶるり、と那津の耳が震える。幽香さんはくつくつと笑った。
「えぇ、時間。八雲紫が幻想京に留まっている時間よ」
「境界の大妖が東京を去る、と言うのですか?」
星さんは目を丸くした。私も驚いた。東京を魔都へと変え、私を博麗の巫女にした化け物が、どこかへ消える?
私たちの驚愕を余所に、幽香さんは続ける。
「どうやら『幻想京計画』はほぼ完遂した。紫の目的は、博麗大結界の構築に必要なものを揃えることだった。それが済めば、この街は元通りになる。幻想は現実へと変わる」
「元通りに……? ということは」
言いかけた那津が、続きを言葉にできなかった。星さんも私も、ただ顔を見合わせるばかりだった。東京が元に戻る。それの意味するところは自明だ。私もそれを願っていたはずだった。しかし何故だか、それが手の届く場所にあると言われても、手放しでは喜べなかった。
幻想帝都、東京。妖怪の街が、もうじき。
「そう、東京は人間の街に戻るのよ」
16時を告げる壁時計の鐘が、きぃんと空気を切り裂いた。その音は珈琲の香りを掻き消して、私の鼓膜をいつまでもちりちりと焦がしていた。そうだ、いつしかすっかり忘れていた。どんなことにだって終わりは訪れるのだ。楽しいことも苦しいことも、昼も夜も、晴れ間も雨模様も、いつか必ず終わるときが来るのだ。
私の博麗の巫女としての時間も、もうすぐ終わる。終わってしまう。そう考えると寂しくなった。それが何故なのかは、自分でも分からなかった。
紫と一戦なかったのは残念。
次作のはたてちゃん登場楽しみ。