「そう、人間は幻想を現実に変えていく存在です。自らが描いた夢物語を、自らの手でキャンバスから取り出す。そうやって具現化した機構で、また新たな夢を描く。その繰り返しが歴史であり、その成果が科学なのですわ。適者生存の理(ことわり)の下、何千世代もの気の遠くなるような進化を重ねるしかなかった生命という概念から、人間は一歩前進した存在なのです。自らの改新を自らの手で行う主体であるのです」
辺り一面は乳白色の霧に覆われている。仰向けに転がる私の視界には、それしか映らなかった。背中にあるのは固い粒の感触。たくさんの石に覆われた地面のようだ。河原だろうか。微かに漂う、お香のような匂い。
「ところが、全ての幻想が現実に変わるという訳ではない。科学技術が完成するにつれて、人間はだんだんとそれだけを具現化の手段に選ぶようになっていった。夢とはとても重いもの。とてもじゃないけれど、全部を抱えてはいられない。だからあなたたちは、きっといつか捨て去るでしょう。科学技術の御眼鏡に適(かな)わない数多(あまた)の幻想を。そして取捨選択の後、掌の中に残った幻想だけを、確実に現実へと変えていく」
がばりと身を起こした。身体は羽根のように軽かった。まるでぐっすりと眠った後の、素晴らしく晴れ渡った朝のような気持ちだった。
すぐ傍に、白磁で覆われた巨大な機械が横たわっている。ぎょっとするも、すぐにその正体に思い当たった。はめ込まれた窓の硝子が割れている。割ったのは私だ。これは超特急ヒロシゲの車体なのだ。
河原だと思った地面は、バラストの平地だった。見渡す限りの砂利、どこまでも続く軌条。ここがどこだかは分からないけれど、少なくともヒロシゲの走っているという地下トンネルの中ではなさそうだった。
ここは現実なのか、まだ夢の中なのか。それとも、どちらでもないのか。
「私たちはそれを責めはしない。恨むことも妬むこともしない。私たちが物語の中だけの存在となろうとも、粛々とその事実を受け入れるだけ。でも、ねぇ。それじゃあまりにも無慈悲だと思いません? 誰かひとりくらいは、捨てられる哀れな幻想に救いの手を差し伸べたって、きっと罰(ばち)は当たりませんわ」
時速400キロで走る列車の窓から放り出されたはずなのに、私の身体には傷ひとつついていない。ひょっとして痛覚が麻痺してしまっているだけで、どこかに大きな傷があるのかもしれない。私はそう考えて自分の身体を見回し、それとは別の事実に驚いた。私の格好はもう、白のカッターシャツに黒いスカートという、『宇佐見蓮子』のそれではなかった。入眠時に着ていた寝間着のままなのである。
メリーベルは傍で倒れたまま、目を覚ます気配はない。
「ですから私は、それを行おうと思うのです。捨て去られた幻想に今しばらくの安息を。叶わなかった願いにもうひとつの可能性を。世界というものは有形無形を問わず無数に在りますわ。人間が支配しようとしているのは、その内のたったひとつに過ぎません。ならば私は、残り全ての世界を借り受けましょう。あなたたちが科学で閉ざす世界の門戸が、再び開かれるその時まで」
その声は囁くような色でありながら、確かな存在感を持って空間全体を響き渡っていた。空間のあらゆる点から、声は遍(あまね)く発せられていた。
車両の後方の霧が少し揺蕩(たゆた)う。声の主がゆっくりとこちらへ歩み寄ってくる。日傘を携えた、ゴシックドレスの喪服を着た彼女は、まるで茶飲み話でもするかのように続けた。
「ここは私の友人の管理する世界。広さが200由旬もありますので、ヒロシゲのように大きなものでもこうやって悠々と引き込めるのですよ。あとで菓子折りのひとつでも持って、お茶を集(たか)りがてら御礼をしなくては」
慈しむような目で、八雲紫はヒロシゲの車体を見上げた。
目の前の白磁の表面に手を触れてみる。ひやりとした感触が、それが確かにそこに存在することを示している。私はもう、宇佐見蓮子ではない。夢からはとっくに覚めているはずなのに。
「どういうことなの……? ヒロシゲはキネマの中だけの、夢の中にしか存在しない列車のはず」
「私の力はあなたの想像の斜め上、ちょうど捻れの位置にありますので」
「じゃあここは夢の中じゃないのね?」
「確かなことは、あなたが今眠っていないということ。でも起きたままでだって、夢を見ることはできますわ」
相変わらずよく分からないことばかり言う奴である。けれど私にも、これだけは確信を持って言えた。
「『秘封倶楽部』シリーズを作っているのは、あなたなのね」
「その答えはYESでもあり、NOでもある。私はただ少し、時空をデタラメに繋ぎ変えただけに過ぎません。私の力は、この世に存在するありとあらゆる境界を操ることができる。過去と未来の境界は常にこの瞬間。『今』を曖昧にしてしまえば、過去の中に未来を取り込むことも、未来へ過去を送り出すことも可能というわけです」
「目的を教えなさい! こっちは大迷惑なのよ」
「私は私のやり方で幻想を現実に変える。ただ、それには幾つか必要なものがあるのです。それを手に入れられるのは、あなた方をおいて他にいなかった。故に無理矢理ですが、お手伝いいただいているという訳です」
「それがあんたの『幻想京計画』?」
「えぇ。そして、最も美しい葬送曲(レクイエム)」
その瞳の、金色の闇に引きずり込まれそうで、私は紫から目を逸らす。しかしその先、鏡のように滑らかなヒロシゲの車体に、彼女の視線が反射していた。私の心がそれにわし掴まれる。
「この車体は人間の技術の粋を集めた至高の芸術。すなわち人間の描き続けた幻想の結晶。私の『幻想郷』にはどうしてもこれが必要なの。夢と現を隔て、非常識を常識に変換する結界のために。これ以上に相応しい結界の触媒は、どの時空を探したってありませんわ。……あぁ、他の乗客は皆、ちゃあんと卯東京駅に送り届けておりますのでご心配なく」
鏡像の中、縦に細長く伸びた紫の顔が、蛇のように微笑んだ。
「では迷惑ついでに、もうひとつ頼まれていただけません?」
嫌だ、と叫びたかった。もう沢山だった。けれど身体が動かない。いつの間にか私の全身は、魔力で強く縫い止められていた。紫が指先をほんの僅か振るだけで、あるいは瞬きを1回するだけで、私は羽虫のごとく潰されるだろう。今度は夢の中ではなく、現実の話だ。やり直しは、無い。
全身を滝のように冷や汗が流れていく。
「さぁ」
境界の大妖が片手を差し伸べた、そのときだった。
「 ―― ああああァァァァッ!」
私の傍らで怒気が噴出し、次の瞬間に霊力が暴発した。青白い霊力光の跡が、乳白色の霧にくっきりと描かれる。すぐそこに倒れていたはずのメリーベルが意識を取り戻し、八雲紫へと殴りかかったのだ。
「やっと、やっと見つけた! パパの仇ッ!」
手刀が、上段蹴りが、拳が、目にも留まらぬ速さで紫へと振るわれる。一撃必殺の意志をメリーベルから籠められた退魔鎧が、主にかつてないほどの力を与えている。メリーベル・ハーンは父を殺した妖怪を追って妖怪退治を続けていた。その妖怪こそ、あの八雲紫なのだという。
しかしどの攻撃も紫を捉えることはない。何とも奇妙なことに、あの妖怪が身動きひとつしていないにも関わらず、メリーベルの攻撃はことごとく空を切っているのだった。
「死ね! 呪われろ! 地獄に、堕ちろぉッ!」
「どれも遠慮させていただきますわ。特に ―― 」
そして、境界が動く。
「 ―― 地獄なんて場所にはもう行き飽きましたので」
胴体に穴を穿つべく放たれた、メリーベル渾身の正拳。大岩ですら粉々に砕くであろうそれを、まるで赤子の手でも取るかのように紫は片手で受け止めていた。退魔術師の動きが止まる。きっと拳を引くことも押すこともできないのだろう。先程の私と同じだ。大妖怪の威圧は、人間の小娘など容易く圧し潰す。
ヒロシゲの車体に映った鏡像のふたりが、まるで母娘か姉妹のように見えてしまって、私はその事実に軽く戦慄する。どうして今まで思い当たらなかったのかが不思議なくらい、彼女たちは似通っていた。
「あなたたちには、もうひとつ取ってきてもらいたいものがあります」
紫の声は、メリーベルの攻撃を受け止め続けているくせに、丸っきり平時と変わらない。
「あなたたちの夢は終わらない。『秘封倶楽部』は、まだ続かなければならない」
視界がぐにゃりと揺れた。メリーベルが紐の切れた操り人形のように倒れた。存在の無い何かに、私は引き寄せられている。八雲紫の笑みだけがいつまでも壮絶に脳裏に焼き付いて離れない。世界が暗転する。音声が断絶する。感覚が消滅する。自分が消散する。
私の意識は決定的に途絶えた。抗うことは許されなかった。
◆ ◇ ◆
さァてさて、お集まりいただきました皆々様におかれましては、きっと楽しみになさってておいででしょう。本日より封切られまするは、お待ちかね『秘封倶楽部』の新章にございます。題しましては『鳥船遺跡』、舞台は何と空の遙か上、月の傍らに浮かぶ人工の衛星! かのライト兄弟が考案せし航空機の登場より、人間は自ら空を飛ぶことを可能にいたしました。そして科学技術が究極まで発展した近未来にて、人間はついに月にまで辿り着く術を得たのです。『秘封倶楽部』が向かうのは、宇宙空間に第二の地球を作るため、天高く打ち上げられました衛星『トリフネ』。人類の期待を一心に背負って稼働を始めたそれは、しかし事故にて打ち棄てられ、遺跡の名を冠されるに至ったわけであります。
宇宙に浮かぶ緑の島。秘封倶楽部は、結界を越え時間を越え距離を越え、その謎めいた内部へと侵入したのでありました。
「 ―― わあ、これが衛星トリフネの内部なの?」
「素敵でしょ? 地上じゃこんな世界、中々見られないわ」
「幻想的ね。隔離された楽園、かー」
メリーに導かれ、蓮子は辺りを見回します。生い茂る植物たちの、これまた大きいこと大きいこと。まるでジャングルのごとき様相を呈しているのであります。
「ここにある動植物は恐らく殆ど亜種ね。このぐらい適応力が高いと、逆に地上には持って行けないかも知れないわねぇ……」
「何、研究者みたいな目で見ているのよ」
「理系の人間はみんなこうよ……ん? 何の音?」
蓮子の耳に飛び込んできたのは、地響きとともに響く低い唸り声! そして、暗い茂みを踏み潰しながら、奇奇怪怪な怪物が現れたのであります。その身の丈は20尺ほどもありましょうか。秘封倶楽部のふたりを睨み見下ろすその異形の瞳には、未来世界には失われて久しい獰猛の光がぎらぎらと瞬いているのです。
「ちょっと、アレって!?」
「うーん、合成獣かしら。でも身体の大きさに比べて翼が小さすぎて、アレでは飛べない。ここは閉鎖空間だから遺伝子異常かが起きやすいし、ウィングキャットみたいな物かもね」
「じゃ、なくて! 何でそんなに冷静なのよ! 明らかにアレは危険でしょ?」
「だって、これは夢でしょ? メリーが見せた」
呑気な蓮子と恐慌のメリー。その2人に、ついに合成獣キマイラが襲いかかる! 少女の二の腕ほどもある巨大で鋭い爪が、鋭い光とともに踊る! 咢に生え揃った無数の殺人牙がか弱い少女を噛み砕く!
あぁ、哀れなる秘封倶楽部は、無残にもキマイラの餌食となってしまったのでありました……。謎に満ちた衛星トリフネの密林、ここに巣食う不思議が解き明かされる日は、果たして訪れるのでありましょうか。
では本日はこれにてお開き。またの御来場、心よりお待ち申し上げまする。
キャラクタ全般の感情の艶(息遣いの濃さ)が弱く、そこから派生する情動行為・動作にも切れ(美しいステップ)が無い。そのギコチなさのせいか文章全体の接合が悪い。今一度息を吹き込まないと物語その物が死ぬ……?。
一読者の私見。ですがもっとやりたい事やって八茶けても良いかと。もっと楽しんで(余計なお世話かしら?)