Coolier - 新生・東方創想話ジェネリック

神道

2014/10/13 11:17:33
最終更新
サイズ
32.45KB
ページ数
1
※やあ (´・ω・`)
ようこそ、バーボンハウスへ。
このテキーラはサービスだから、まず飲んで落ち着いて欲しい。

うん、「また」なんだ。済まない。
仏の顔もって言うしね、謝って許してもらおうとも思っていない。

でも、このSSタイトルを見たとき、君は、きっと言葉では言い表せない
「ときめき」みたいなものを感じてくれたと思う。
殺伐とした世の中で、そういう気持ちを忘れないで欲しい
そう思って、このSSを書いたんだ。

じゃあ、注文を聞こうか。


 白鳥は 哀しからずや 空の青

 (若山牧水 短歌の一部)


その頃、彼の名をカゼフリノミコトと言った。

神代。去る川辺の岩場。


「――何だ。ぜんぜん釣れないのね」

などと、後ろでした声に、振りかえった時には、もう遅かった。
ミコト、正名はカゼフリノミコトは、その若い娘の姿を目にし、見惚れるまもなく、顔色を真っ青にした。

(な、な)

わななきながら、何とか首を元に戻す。先程から糸はぴくりとも動いていないが、今も変わらず、風だけがそよそよと吹いている。

(ななな何でこんなところに居るのだ?)

釣り竿を持つ手が小刻みに震えそうになるのをしっかと握り直しつつ、よいしょと隣に腰を落とし、魚籠をのぞきこんで、ひょいとその中の魚(といっても一匹だけしかいないが)をつまんで、口の中に入れてしまううら若い娘を横目にしつつ、「あ」と、ミコトは今さら気にした風を見せた。

「けちけちするな。こんなやせた小魚じゃ夕げにならん」

言いながら、魚を平らげると、骨になったのをつまんでそこらに投げ捨てる。
八坂天禍之神奈比女子。
そこらの平神族であるミコトでさえその名と姿は知っている。くわしいいきさつは伏せられているが、現国ツ神どもの集まり、中央神軍の若き宗主にして軍将たる大国主命王の子としてその名が囁かれる。しかも女だてらにその武勇は荒びたるにて気性はまるで若きいのししのようである、と。

(ぬぅ)

ミコトはうなった。とはいえそれ以上言うことがあるわけでもない。なんせこの八坂比女ときたら女だてらに戦場にて将として功を立てるほどの暴れ馬、下手に口応えしようものなら今居る岩場から滝壺に蹴り落とされて、ミコト自身この比女の猛勇伝に名をつらねることになりかねない。
ミコトとてその噂がどれだけ信ぴょう性あるものか知らないが、儀式やらでちらりと遠目に見かけた比女衣のしずしずとした姿そのままを信じるほどでもない。

(くそぅ)

彼は自身のへたれぶりをよく知っており、ここは無難に釣りに集中しているふりにもどることにした。

「なぁ」
「は、はい」

が、比女はかまわず口を開いてきた。

「お主、ここにはよく来ているのか?」
「は、はぁ……」
「そうか。では、ここに住まっているという主の話を聞いたおぼえはあるか?」
「主、でございますか。はぁ、たしかにそのような話は……」

ミコトはせわしなく言いつつ、頭を働かせた。
確かにこの川にはそのような伝説がある。
事実としてミコトも何度か、信じられないほどドでかい魚影がうろこをちかちかとかすかに反射させ、水面を、ゆっくりと怪物のように泳いで、またどこへとなく消えるのを、信じられないが、目にした覚えがあった。
しかし、幻だと思っていた。つづけて比女が言う。

「主は見たことがあるのか?」
「は、はぁ。信じられませんが、たしかに数度、そのような影がその水面に現れるのは、見たことが……」
「ふぅむ。そうか」

言うや、何か考えてから、やがて比女はすっくと立ち上がった。腰に下げていた袋から、何やの果実を取り出し、それにかぷりとかじりつく。そして、不意に水面にむかい、手をかざした。
そして、すさまじい暴風が吹き荒んだ。

「うわっ!!?」

ミコトはさけんでのけ反ったついでに、したたかにふっ飛ばされて、ごろごろと転がった。何とか体勢を立て直して川の方を見やる。
どうやら今の風は比女が吹かせたもののようだ。

(何をするのだ!)

心の中で非難を浴びせながら見やった瞬間。今度はずぱぁぁん!! と、水がふっ飛ばされるような音がして、そして、ミコトは見た。いきなり川の方からズォォと盛りあがるようにして、水面から飛びだした魚の体を。

「おわぁぁぁっ!!?」

ぐぉん、と、のけ反ってミコトがさけぶのを横目にするように、巨大な魚は頭をまわし、うろこをうねらせると、またゆっくりと水面に落ちた。

「……。……ふむ」

わなないて硬直したミコトを尻目に言い、そうして比女は、すっと姿をどこぞへ消した。

「……」

ミコトは残され、そして、やがて気を取り直した。手を見やる。「あっ」と声をあげ、あわてて水面に目を落とす。すると水流にのって、ちょうど釣り竿が滝壺へと吸いこまれていった。


翌日。

(冗談じゃないぞ)

ミコトはひとりごちた。
あの後、家に帰って母にこっぴどく叱られた。滝壺にあの釣り竿を落とすとは何事かと。ミコトの家はたしかに貧相で脆弱な神だ。だがそれでもあれは由緒ただしいものだったらしい。(まったく)と、ミコトはため息をついた。

「まったく……」
「――よう」

「おわっ!?」と、ミコトはぎょっとした。ふりむく、と、声のしたところに、案の定昨日と同じ、比女が立っていた。片手になにか持っている。

「いやぁ、悪かったわね、昨日は」

比女は言った。にこにこと悪気のなさそうな顔だ。

(ぬぅ……)
「い、いえ……」

ミコトは言った。比女は「かわりにこれをやろう。詫びのあかしだ」と、手に持っていたものを差し出してきた。

(ん……?)

ミコトがいぶかしむのも構わず比女はさっさと持っていたものをミコトに手わたしてきた。

「昨日お前のとこの釣り竿が滝壺に落ちてしまっただろう? 主にすまないと思ってな」
「いえ、滅相も」

ミコトは言った。比女から渡された釣り竿を見やる。今日はなんとか無理をいって近所の者に借りた釣り竿で釣りをしていた。

(余計な気を利かさないでいい)

というのが本音だったが、まさか言えまい。仕方なしにミコトは素直に竿を受け取った。

(お、軽いな)

ミコトは密かに思いつつ、立派な彫りのされた釣り竿の柄をにぎった。感触におっかなびっくりしつつも、その手応えのよさになかばつられるようにしながら、新しく用意した仕掛けをほどこす。ふと、比女を見やると、ミコトのそばにつったったまま、どこかを見つつ、この間も食べていた果物をもち、かじっているところだった。

(また妙なまねをしなければいいが……)

などと思うも、こちらに関心を払っていないのを今にと思い、つくった仕掛けをたぐり寄せ、それ、と水に放って垂れた。しばし待っていると、糸がピンと――ではない。ミコトは一瞬だけピン、と感じ、実際には、次の瞬間、びびし、と張った糸をぐいんと折りまがるようにしてしなった竿に引きずられ、水面に引き込まれるような巨大ななにかの存在を、糸の下に感じとった。

(なな!)
「よし!! かかりおったな! いいか離すなよ!!」

後ろで言った比女が、すばやくミコトの持っている竿をつかみ、ぐいと安定させた。竿の向こうの巨大な何者かはそれでこちらを引きずりきれないと見るや、別方向にひっぱりはじめる。

「わ、わわっ!」
「馬鹿者。きばれ!」

後ろで叫んでくる比女の言葉に思わず足をふんばる。そうしないと一気にここから滝壺へ転落しそうだ。やがて、ぐぐ、ともう一段階重くなったか、と見るや、ざばざばんとうねっていた水面の一部が盛り、ズバァァァンン!! と水面を跳ね上げ、見上げるほど大きな体をくねらせて、飛沫の中からぎろ、と大きな目がこちらを威かくするようににらんで、また水面をすさまじい勢いではねさせた。

(うわっ! うわわっ!!)
「わっ! わわっ!!」
「えぇいさわぐな! 私が竿を握っておる! 滅多なことで引き負けやせん! いやいやさても、いい面構えの魚めよ! 見たか、こっちをにらんだあのごう岸そうな眼差し! ふてぶてしい野郎よ」
(冗、冗談じゃ)
「おら、逃げ腰になってるんじゃない。せっかく親爺どのの処から一点ものを借りて来たのだ、私に神力を合わせよ」
(なんと勝手な)

ミコトは思った。言ったものの、しかしこのままではミコトも水中に引きずり込まれかねず、この比女は、そうなったらミコトをほっぽって「やれやれ」といった顔をしてくるりと去っていくだろう。くそ、と思いにくたらしい横顔を真っ向から見つめる。そのとき、内心間近に見るきらきらときらめく美しい瞳、生気に満ち満ちた顔を見、ミコトは自分の中で何かがごとんと動いたのを感じ、しかし、その一瞬のまたたきのような時間が、「うおっ!!」という比女の声で、引き裂かれるように引きずり戻されるのを感じ、それどこでない、と、頭のすみにぼんやりとしかし、残った感覚が退くのも感じつつ、意識と視線をむりくり美しい比女の横顔から自分が強引に引き離すのを感じた。

(うおおぉぉぉぉ!!)
「とわっ! わぁっ!! ひぇっ!!」
「オラ! 情けない声を上げるな!」
(ムリだぁぁぁ)

両手の疲労はすでにひきしぼった弓のように張り切っていたが、ズパァンン!! ズパァァン!! と恐ろしい音をたてる水面の荒ぶりは、まるで川そのものが怒っているかのようだ。
してはならないことをしている、と感じつつも、ふっと、意識がとぎれるかのような影が頭上にきざした。ミコトは他人事のような目で見、それから「――ずわぁぁぁぁ!!」と、何故自分が上げたかわからない悲鳴を上げた。比女の「よっしゃ!!」という遠い(実際には耳元に息がかかるくらいの近さで)歓声、空中にたかく上がった巨魚の魚体、(鯉だ、と、ミコトはこのとき今さらながらに魚体の模様を見て思った)空を埋めつくす影に押し潰されるような錯覚を味わい、次の瞬間、ミコトは、どくん、どくん、どくん、どくん、と、早鐘のように鳴る心音とともに、グォォォオオオオオオオオオ!!! と、なにかが吼えるのを聞いた。
いや、正確には聞けなかった。それはどこか遠くのほうから、一気に姿を変えたその竜の巨大な、大きな牙、舌、ひげをびりびりと、震わせて近くへとなだれこみ、一つの咆哮となって、川岸から天地の隅々まで、一気呵成に駆け抜ける暴風のように轟いた。

(な、な!!)

ミコトは耳をふさいでかばいつつ、竜がいきなり姿をあらわにしたその場から、前のような歓喜の叫びを上げて、ゴォォオオオオ!! と、風を纏って、近くの木々をババババ! ギシギシギシ、ザザザザザザと、轟音を立ててゆらし、(しかし木々が折れる音はひとつも聞こえない)はるか果てしない空へと続くかのような竜体をくねらせ伸びあがり、一気に体を宙に持ち上げ、ミコトの前を駆け抜け、下から上へと駆け上がって行くのを見た。そして呆然としているうちに風は去った。木々は鳴りやみ、空はおさまった。嘘のように静まり返った水面を静かに見下ろすようにして、反して上を向いた視線に、ゆっくりと空へのぼっていく、蛇のような長い体が遠く見えた。
ミコトはしばし沈黙していた。

「……。……」

ァォォォ……ン……、と、遠くまた竜の遠吼えが聞こえる。

「あれは竜だ」

比女が言った。ミコトはまだ上を見ていた。よっこらせ、と、比女が立ちあがる。

「アマツカミ、というやつであろう。おそらく今よりいつかは知らぬが、何ぞかの理由でここに落ち、巨魚に身を変え、成り下がっていたのだ。それが、誰かに釣り上げられたことにより、呪縛を解かれ、竜の姿にて天に還った、というわけだ」

ミコトは比女を見た。比女はつまらなそうな顔をしていた。

「つまらん」

比女は言い、去っていった。後に残されたミコトは、比女が消えていった路の向こうをじっと見つつ、動かなかった。いつまでも。動かなかった。


鼓動だけがいつまでもうずきのようにして鳴りやまなかった。

数日、いや。あれからどれくらい日が経ったかミコトもよくは覚えていなかった。ただいつものように、このときには、ここ最近よくあったように、ぼぅっとして、釣り竿を握っていたことは、覚えていた。

「何だ、また釣れていないのね」

後ろから声が聞こえ、(それまで考えていたことを後ろめたく思いながら)ミコトはそちらを見た。そして、また腰に袋をさげた比女がいて、袋から取り出した果実をむさぼるように食っているのを目にした。

「あぁ……、どうも……」

ミコトは言った。冴えない挨拶だ、と自分でも思った。比女は何も言わず、果実をしょり、とかじっている。比女の体からもまるで桃のようなふんわりとした香りがしていた。比女が黙っているので、ミコトはしばらく水面を見つめていたが、やがて見あげて言った。

「今日は、何用で……?」

比女は何も言わず、袋に手を入れると、「ほれ」と、こちらに果実をさしだしてきた。ミコトはちょっとためらった。しばしして受け取る。受け取るとさらに比女の指が目に入り、綺麗な指だと思った。

「先日は迷惑をかけた。悪かったわね」
「はあ……」

ミコトは言った。目を何とか(苦労がいった)水面に戻した。比女がよっこらしょ、と腰をおろす。ミコトは比女にならって、果実をかじった。甘くさわやかな味が広がる。桃か。

「実は縁談が決まってな」

比女は言った。ミコトはちょっと見た。

「親爺どのがもってきた話なのだが、どうやら本決まりらしい。私もとくに不満は無い」
「はあ……あ。おめでとうございまする」
「ああ」

しょり、と比女は果実をかじった。そのあいだ会話が途切れる。

「なんだかこのあいだの竜を見てから、私の中の竜はどこかへいってしまったようだ」
「……。竜、ですか」
「あらぶる竜だ。私の中にはそれがおり、いつでも天を駆け、地に咆哮をひびかせ、竜には小さき我が身を走らせ、疾らせしていた。わたしは私が私自分におさえきれないことをどこかで知っていたが、いままでそれにかまわず高ぶるままに、吼えるままに生きてきた。だが、あのときまことの竜をこの目で見て、私の中からはあの竜の姿のように、内にいた竜がはるかな天をめがけ飛び立って、のぼっていたようだった。何かがぬけきったようなつまらん心地がした」

比女は言った。しょり、とひとつ桃をかじる。身がつぶれて、甘いほう香が鼻をくすぐる。

「だがいままで荒びけることのつけはきっちりとつけねばならん。親爺どのとの先にのばしのばししてきた話からももう私はするりと逃れられん。私を疾らせていたあの風は、もうここにはないのだから」

比女は言って、桃の種をぽいと川へと捨てた。ぽちょんと魚が跳ねて、それを抗議するように川へと戻る。比女はちょっと笑うと立ち上がった。
ミコトは桃を手にしたまま、その姿を横目にみあげていた。思い出したように桃にかじりつくと、じゃあな、と比女が言った。そのまま去っていく。後にはミコトだけが残された。


三日後、八坂之天禍之神奈比女子の嫁入りを祝して、前夜の祝事が盛大にもよおされた。
比女衣のしずしずとした姿の女が、婚礼前の最後の挨拶を交わすべく、堂々たる父王、大国主命の前にひざまずいて、無言の礼をするのを、ミコトは遠くから見た。紅をさし、化粧をさした女の顔はあのとき見た比女よりも幾倍もかがやいて見えた。きらめいて見えた。


その夜。

(はぁ、はぁ、はぁ……)

ぎらりと血走った目をかまわず、ぜぇ、ぜぇ、と息を切らせて、がら、と、ミコトは目の前の木戸を勢いよく開いた。寝所。月灯りに照らされ、比女は、そう、あのときに見たままの比女はそこに退屈そうな目をして座っていた。ミコトは肩で息をつきながら、呆然とその姿を見ていた。

(竜は、いなくなったのでは?)

心中で言う。左に握っていた、折れて先の軽くなった剣――父が使っていたものだと聞く。ミコトは手入れの仕方もろくに知らないので、そのまま持ってきた――で、甲ごしにぶん殴った、いかにも屈強の武人のことを思い出し、体中に燃えさかる熱がまたじんわりと、体内を焦がしていくのを感じた。

「何用だ」

比女が言う。ミコトは返事を返せずに、はぁ、はぁと荒い息をついて、立ちすくんだ。ぬるりとぬめる指先が、月
灯りに、急速に冷えていく。比女は無言で、くいと酒をあおった。

「お前が来るよう申しつけた覚えはないが。夜這いか? 私は婚礼前の身であるぞ」
「……。……八坂之……、天禍之神奈比女子どの」
「何か」
「……、おっ、俺の――私の、嫁になってくれ!!」

ミコトは言った。剣を投げ出して、だん! と、両手を地に着き、深ぶかと頭を下げる。

「この通り!! お願い申す!!」
「何だ。まさか私に惚れたとでも申すか」

比女が言う。ミコトはぐっと頭を下げたまま言葉に詰まった。だがすぐに、「そっ、そうだっ!」と口を開いた。

「そうだ。俺は――おれは、あなたに惚れた! この想いを抑えられぬほど惚れた!! あのときあなたの体を近くに感じ、その眼差し、その仕草、その言葉、その身のこなしを見たときから、すでに惚れていた!! 自分でも頭がどうにかしたのではないかと思うぐらいだ! それほどあなたのことが頭から離れん、あのとき、あなたの眼差しの先にいた竜は、いまではあなたそのものだ。あなたの中にいた竜は、あなたの中から去ったとあなたは言ったが、それは違うとおれは、俺は思った! あなたの竜はこの私の中にいる、今でもいる、あの川岸にいたときから、ずっと! この数日の、たったそれだけのあいだにあなたの元へこの足を走らせるほどそれは高ぶり、この身を焼き焦がしている……」

ミコトは言った。比女はしばし黙ってそれを見ていた。比女が黙っているのを感じて、ミコトは自分が息を呑んで黙りこくっているのに気づき、何か言おうと「う、あ……」ともがいて、しかし結局黙りこんだ。静寂。

「……、……そうか」

比女が言った。ことりと盃をおき、ことと、と、酒を注ぎ、とっくりを置く。

「私の中にいた竜は、今度はそなたに移っていたというわけか。まこと難儀なものよ」

比女は言った。盃をくいと呑み、やがて言った。

「近う」

ミコトは言われて、顔を上げた。比女がぞんざいに手まねきする。ミコトは立ち上がり、おそるおそる比女のそばに寄った。月灯りに比女の肌がほの明るいほど白く映る。

「顔を」

ミコトは言われるままに片膝をつき、頭を垂れた。もっとだ、と比女に言われ、さらに身を近づける。

「う、」

比女は手を伸ばし、ミコトの額のあたりをさわった。傷を見て、ちょっと目を細める。

「夜駆けにくるのに、甲もしてこなかったのか?」
「い、いや。甲はしてきたのだが……額のあたりを一撃されたら割れてしまった……」
「そりゃそうだろう。きたえた武人の一撃なら甲ごとき真っ二つだ。よくこの程度ですんだな」
「あ、ああ。死んだかと思った。目の前が炎がはぜたように熱くなって……」

ミコトは言った。自分でもしどろもどろに何を言っているのかが分からないようだった。そのうち、比女が傷からそっと手をまわし、ミコトの頭を、両手で包みこむようにした。くしゃくしゃにみだれた髪のあいだに、そっと比女の唇が触れる。それから、比女は片手を離し、自分の胸元を、ぐいと広げ、灯りにあらわにさせた。「来い」と、耳元で囁くような声。ミコトは生唾をのみ、その胸元に吸い寄せられるように唇を這わせた。――熱い。比女がもらした吐息が虚空にとけた。
そのときだった。いきなりがらり、と部屋の扉があけ放たれ、すぱん!! と、ぶっ壊れるような音を立てた。ミコトは心臓が飛びあがりそうな心地をあじわった。唇がとろけるほどにむせ返るような比女の匂いから、どうにか顔を上げ、後ろを振り返ると、男が立っているのが見えた。
それはとにかく威風猛々しとした、立派な美丈夫であった。整ったあご。いかり肩、体の両脇に下げた両腕、手にした刀、申し訳程度であろうが、簡易に纏ってきたような具足の手足。その名も知れぬ――いや、ミコトも正直に言えば知っていた。この比女の父王、おのらが国ツ神どもの宗主。大国主命、その人だ――武人、宗主大国主命はその矢もて射抜かんばかりの鋭い眼差しをじろりと比女とその正面にいる男――というより、ミコトははなから歯牙にもかけていないようで、しかし、もし動かば脳天から一直線に斬り倒してくれんといわんばかりに見ては居り――の、今正に「こと」に及ばんとしているその姿を見ながら、スゥ、と息を吐き、だァン!! と、剣の鞘を床に立てた。口を開く。

「そこな男、主に聞く。我が子、八坂之天禍之神奈比女子と主はすでに契ったか? それともことにおよぶ前であったか?」

百人の女男が聞きほれん美声で言い、大国主命は言った。

「若し契る前であれば、我が邸の門前を任せていた者を昏倒させた主に武勇を与え不問に伏そう。だが、若し事に及んだ後であるのなら、武門の恥として、私は汝と娘を直々に斬り捨てけじめを致さねばならぬ。厳かに答えよ」

姿にひとすじのみだれも無く言ってくる姿に言葉通りの粛粛とした殺気を感じ、ミコトはすくんだ。その横、というより、ほぼ正面にいた比女が言う。

「あら、お父様。その様なこと、お父様ほどの方が見ればお分かりになることですわ。そのような無粋な問いで下手に縮みあがらせるのはいかがかと思います」
「女はいか様にも取り繕い、私に分かることなど少数に過ぎん。このような事は男に聞くがけん命よ。お前は口を閉じておれ」
「――と言う事だ。さぁどうなのだ? お前が言わんと話が進まんぞ」

比女が言う。その腕に抱き寄せられてミコトは生きた心地もしなかったが、その後ろで大国主命の重いため息が聞こえる。

「口を閉じておれと言うに。私とて無粋な真似は慎みたいのだ我が娘よ。なれば言うとおり主に聞くが、その者はどこぞの誰なりや」

大国主命が言う。答えようとしたミコトを抱きすくめ、「この者は私の想い人に御座います父上」と、固まるミコトをよそにして比女が言った。

「今宵、夜這いをかけてくるよう取り計らって居りましたが、私が門人にそれを伝えるのを忘れていました。申し訳有りません」
「また阿呆なことを……」
「阿呆ではありませんよ? ちょうど今、この者の口から嫁になってくれと口説きも受けました。父上、私はこの者を夫といたしたく存じます」
「無茶を言うな。いいか神奈、お前はこの私の娘だぞ。この大国主命の娘なのだぞ」
「えぇ。私は父上の娘です。いか様に成りましても娘で御座います」
「分からん事を言うな。一体これは何の真似だ。やっと婚儀を受け入れるなどと心にもなきたわごと申し出しければと思えば、今度は何処ぞでひっかけた男に夜這われるとは、御前の気質である血の風の神が疼いたか?」
「御父上。娘に対し随分な言いざまではありませんか。この血の半分はお父様のものではありませんか。私はどのようにあろうとお父様の娘に御座います。どこぞの馬の骨に体を開こうとお父様の娘で御座います」
「わからんことを」

大国主命が言う。その間にも、どうすべきか固まっていたミコトを、ふと比女が抱きよせ、かたく頬をすり寄せてきた。

「御父上。私はこの男に惚れました。嫁になりとうございます」
「何を言う」
「この男は馬鹿な理由で、ろくに見てもいない私に想いを覚え、このように血にまみれて証明しました。私に嫁になれと言いました。私はこの男の嫁になりとう御座います」
「馬鹿者。無茶苦茶を言い出しおって。お前の無茶苦茶はいつもその様だ。しかも全て本気だから性質が悪い。この大国主、お前の育て方を間違ったのが数多き若気の至りのとびきりよ」

大国主命は首を振ると、がちゃ、と刀を上げ、びくりとするミコト(おさえて逃がさぬかのように吸いつくような肌にふにょりと押し込められたが)に構わず、歩み寄って腰をおろした。ため息をもらす。

「後から考えを変えようと、俺は何もしてやらぬぞ、よいのか」
「その様に言いつつも「何か」として下さるのが御父上と存じあげております。長いつきあいですからね」

大国主命は頭を抱え、しばし考え、ぎろ、と(気が立っていたためだろう。殺気はなかった)ミコトを見て、言った。

「……分った。許そう。どうせ許さぬとあればお前は百年用いてでもこの俺を大層困らそう。そういう女だからな。長い付き合いゆえ分っておる。名も知らぬ婿殿。聞いての通りだ。こいつはどうやら生涯かけて男を困らす運びの下に生まれた禍ツ風である。どうかよろしゅうたのむ。早速こやつの気まぐれが起こらぬ内に婚儀の談を蹴り、整えるが、今度あらためて酒の席をもうける故、話はそのときにな。御主の我が屋敷の門弟倒せしは甚だ見事であったぞ」

大国主命は言った。そして、立ち上がると、怒りの片鱗も見せない足取りで出、戸を閉めていった。
何が何だか分からぬ内に、ミコトはふと抱きかかえられたままのむせるような比女の匂いをかぎ取り、体温を上気させた。

「さて、それでは、先程の続き――始めようか? 婿殿」

言って、比女が額に口を当ててくる。流れて固まった血をなで、その味を見るようにミコトの顔をなぞり、首すじを舐める。それからふと唇をはなして、怪訝な目でミコトを見た。

「どうした?」
「……、こ、腰が」

ミコトはそれだけかろうじて答えた。比女は呆れた目をした。

「馬鹿者。それでは続きが出来んだろうが」

ぺし、と容赦なくミコトを叩く音が、月光の下に響いた。


それから。それからが大変だった。そして、ミコトにとってそれからは何が起きたかわからぬ体で数千年、幾星霜すぎた。

むろん、大国主命の残した予言は当たっていた。家柄の都合から、婿入りする段となってからのミコトは一般兵と共に武芸をみがくわけにもいかず、毎日毎日、来る日も比女やその実近の者たちにやっかみを受けつつもしごかれた。ときに大国主命が直にしごくこともあり、かの養父どのはそのたびに未熟なミコトをなげき、素質の無さを苦笑混じりにこぼした。(とはいえ比女をのぞけばもっとも気に入りとして懇意にしてくれたのはこの大国主命でもあった)その後中央神軍の大征討が始まれば「武御名方」として軍の実権の一翼をにやけ笑いの妻とともに担がされ、征討がすめば、急に諏訪にこもると言いだした妻とともに隠遁させられ、そして来たる国譲りの際には敵の猛将御雷公(彼いわく、「なれば我が養子を討ってみせよ」と大国主に吹き込まれたという)に勝負をいどまれて逃げまわり、そのあげくに土下座してわめき立てた。

『ゆ、許してくれ、ミカヅチ公! わたしは単なるかいらいなのだ。このとおり、負けは認める! この国も御主にすべて譲り渡す、だから、どうか命ばかりは――』

そうして、そしりを受けつつも、(片腕はそれから数千年使えぬほどの傷を負ったが)五体無事のまま、かつての神軍の軍神という名書きを降り、平穏を手に入れた。名だけは残った。


現在。

そんなわけで今、彼の名は武御名方神命といった。


現代。

「――はっはっは。まったくなぁ。あのときのお主の顔と来たら、見れたものではなかったぞ同輩!」
「ミカヅチ殿、いつまでも昔の事をそう言いなさるなよ」

たしたしと肩を叩く友人に呆れを返しつつ、ミコトはこぼさぬよう盃をすすった。数千年を経て完治した腕の傷はあの日を思い起こさせる。今は某地の某諏訪神社、彼はここにまつられる神として鎮座し、彼の妻たる八坂比女とは離れて日々を暮らしている。となりで酒を飲むミカヅチも、自由な気風なのだかこうして幾年かに一度は訪ねてくる。むろん一度は仇として敵対したが、元々ミナカタ(ミコト)に敵対の(理由は大いにあったが)意思はなかったことと、ミナカタの自然と人を引き寄せていく気配の円さも相成り、今は良き酒仲間である。

(とはいえ)

幾星霜経てもわずかしか変わらぬ相方の陽気さに、妻の気配の片りんを思い起こしつつ、談笑の合間にもの思いをはせる。この長年来の友人はいつまで経っても変わらぬが、ここちょっと目を離したすきのように、またまたたきのように外は自分ら古き神を置きざりにするようにひょう変していった。駆け巡った野や山や、どこまでも流れていた雲や星のちぢこまった様を見て、ふとミコトは、今は離れて封じられるもうひとりの武御名方、まことの武御名方と呼ばれるべき、彼の伴侶のことをつよく思いだした。いつもより少しばかり。

(会おう)

相方との会話の合間に酒をすする間にミコトはそう決めた。夜は更けた。


翌翌日の朝。

自らの社を抜けだして、またたくまに(神力を使ったのだ。神代やそれにちかい世からは格段に失われたとはいえ、こなたより遠地に飛ぶくらいの力は、ミコト程の者なら持っている)こっそりと諏訪の地、その大社より少し離れた地に現れ、しばしその地を見下ろして、ふむ、とあごをなでたミコトはさっそく妻の居る大社を目指した。ふつう彼ら神同士の邂逅はもっと出雲の神神に厳重にゆるしを得るのがまぁきまりだが、先がたミコトの元を訪れていたミカヅチにせよ、ミコトにせよ、大体の神神はその様な規則は守らず徘徊する輩が多い。(出雲の神神の権威を認めていないのではなく、「そのようなことにいちいち」というだらけた思考があるのはミコトも否定しない)
舗装された山道やらコンクリ漬けの家家を見て回っていると、ほどなく社の階段にはたどり着いた。ミコトは少し悩んでから、ぱしぱしと自分のほほを両側で叩き、それから石段に足をかけ上り始めた。

(二拝、二拍、一拝と)

律儀に参拝の礼にそって石段を上り終え、ミコトはさて、とあたりを見た。人の少ない日にち時間を彼なりに目算してやってきたが、人は多い。別に目立たぬとも思ったが、彼自身ある程度偽装のようなことはしてきた(壮年の紳士風のスーツにハット、杖(ステッキだ。正しくは)を身につけた地味な姿だ)。とはいえ、人目は気になる。

「あの? ……えぇ~と、……」
(ん?)
「こちらにご参拝ですか?」

ミコトが声のほうを見やると、制服(彼は知識としてそう認められるだけだが)を着た年頃くらいの娘が立っている。その特異な緑、いや、日に映える鮮やかで濃厚な、碧い翠色をした髪を見て、ここの主神どのの血すじを思い起こし、ミコトは思わずまじまじと見た。

(新しい御子神どのか。いや、私が顔を出していなかったのだ)

なんと言おうか、ふんと怪訝に首をかしげた娘の若い面立ちを見ていると、その後ろへ、ふっと妻が姿を現し、怪訝な顔をした。

(……)
「……、ミコト? なによその格好」
「いや。まぁ」

ミコトはちょっと咳払いするように人目をはばかり、久しぶりに目にする妻の姿を上目に見た。妻はその態度が若干気に入らなかったらしく、ちょっと眉を片方あげてこちらを見たが、「ま、いいわ」と言いつつ、

「寄っていくんでしょ? 上がりなさいよ。あ、早苗。お帰り。済まないけれど、そちらは私の客人だ。もてなす用意を。酌は私がやるから、酒だけ持ってきてくれよ」

妻は言った。早苗と呼ばれた娘ははい、と従ってぱたぱたと向こうへ走っていった。


社内。

巫女の装束で戻って来て、「勝手に供物に手を加えないでくださいね」と注意をしていった早苗の言に反し、巫女がいなくなるや、妻は社内の台所でなにごとかやりはじめ、今は仕上げて見せたつまみの料理と盃を片手に、ミコトの隣に座っていた。そのうち酒の匂いにつられたのだか、もう一人の幼神どのも、陽気気味に顔を見せた。(妻には夫婦水入らずだろ、と言われて追っ払われるような言動をされたが意にも介していない)

「いっやーーぁ、にしてもひさしぶりねぇ、だんなさぁん」

後ろから背のびして抱きつきぷふーと、酒の息を吐いてくる幼神どのに「こら人の旦那に何手つけてんだ」と、妻が言う。

「何だよのり悪いなーぁカナちゃん。どうせ私の見目で抱きつかれたって男が興奮するもんかね」
「よっぱらい蛙め、いい加減大人しく座って下戸下戸しとらんか、助平め」
「いたいいたい。だんなさん助けてぇ」

まだ言うか、いひゃいいひゃい、とどたばたしだす妻と幼神どのを見て、ミコトは表情をゆるめてはっはっは、とすこし湿気ったふうに笑った。


翌翌日。

久方振りに会ったのだ、散歩でもしよう、と、妻に誘われいでた外の道を、ミコトは彼の連れ添いとともに歩いた。人の姿をはばからぬよう、姿は消している(というより見えなくしているといった方が正しい)が、彼の妻はさも自分がそこにいるように歩いていく。ミコトも来た時に着た格好はダメ出しされ、今は烏帽子に古い男ものの公家装束など着込み、ひげはきれいにきちんとそられていた。(床を共にするときに剃らされたのだ。妻いわく暑苦しい)すっかり変わった街並みを歩き、やがて湖のそばへ抜けた。人の集まらぬところを、と、妻の吹かせた風にのって湖面を渡り、やってきた岸辺でどちらとなく足を止め、湖を眺めた。こうしていると昔を思い出す、と言い、妻は昔と輝きの変わらない横顔を向けた。彼女が言うので、ミコトはその通り、一緒に座り、背中から妻の体を抱きしめてやった。昔のよう、ではないが、若いころ交わしたような青い口づけを交わした。やっぱりひげは無い方がいい、と妻があごをなでてわずかに笑った。そうしてもう一度、今度は少し時間をかけて、お互いをたしかめるような口づけを交わした。


昼前にきたが、沈む日はあっという間だった。感じる風は人にしたら冷たいだろうか、というくらいだ。

ふと、妻が口にした。

「ん?」

と、ミコトは聞き返した。

「これから私たちはどうなるのかね」

妻が言う。ミコトはやや不意を突かれた間抜け顔で妻を見た。妻は言った。

「私たちの力が急激に衰えてるってのはあなたも知っているでしょ。毎年毎年出雲の長老方もぼやいてる」
「あぁ……」

あぁ、じゃなくてさ、と、妻は頭をかいた。

「あぁ、じゃあなくてさ。このままじゃあ私たちも、いずれは消えてしまう。こんな呑気な事はしておれなくなる」
「そうだな……」

ミコトが言うのに、胸によりかかった妻は、不満そうに身をよじらせた。ミコトが腕をゆるめると、若いときにそうしていたように、腕に触れてくる。服を握る指が静かに閉じ、何かを訴えかけ、また降りる。

「……まったく」

妻は言った。

「……。どうした?」
「どうしたもこうしたも、……はぁ~」

妻は言う。身じろいで、ミコトの腕の中から脱するように立ち上がると、半裸にしていた体に、衣を引っかけ、湖を見やる。ミコトは黙って妻を見た。うなじ。
美しい髪だ。年を経ても神神はそれほど見た目を変えずに存在する。彼ら自身にも老いる理由はわかっていない。

(美しい)

月夜に映えそうな肌、夕暮れに影をのばす指。あちらこちらに散らかった服。吹く風にもこそとも揺れない、といた長い髪をぼんやり見つめていると、妻が言った。

「私はまだ消えたくない。いや、消えたくない。ただそれには、我我はあきらめを断ちきらないといけない」

妻は言う。吐息まじりに。

「私たちの存在をはばむものはなんだ? それは、そう、暗闇だ。月の光も照らさぬ暗闇だ。私たちがかつてあった居場所はすでに奪われ、消えつつある」

妻は言った。だらりとさげていた指先がわずかに上がり、妻のなぞめいた言葉の意味を主張したように思えた。
それからいくばくかの時を使って、二人はまた交わり、そして別れた。


あのときから幾月流れたか。

あのときが最後だった。

(あのときが……最後になった)

ミコトは呟いた。ふたたび今、妻と夫婦の時をすごした最後の場所に立っていた。あのときの妻は何を考えていたのか、いや、ひょっとしてあの問いかけは「そういう」意味だったのか。考えかけて、ミコトはやめた。
日が沈む。あのときと同じように。今の自分にできる事はなんなのか。岸辺に立って思う事は愚にもつかないことばかりだ。日が暮れていく。
あのときと変わらぬのはこの湖面を渡る風か、それとも、郷愁なのか。
今、この湖の社に神の姿は無い。あの御子神の娘も自分のことは見えておらないようで、髪の色もあの神さびた碧い翠が抜けていた。幼神どのも、誰もかれも、いずれかへと消えさり、その行方はようとして知れない。まるで神かくしにでもあったかのように。


湖畔を眺めやるとまた風が吹いていた、だが、それはたしかにミコトの知るものではなかった。湖面に満ちた日の輝きも、どこか輝度を落としたように思える。
夕暮れに映える白い色の花が咲いている。
彼の妻を思わせる華やかで小さな花だった。名も知らない花だった。妻や幼神どのたちがどこへ行ってしまったのかはわからないが、今の自分には手が届かないのだろう。そう思えた。目が滲んで見えなくなる。あたりがすっかり闇につつまれるころにはミコトの姿はその場にはなくなっていた。
月は照らした。


ところで。

間。
そんな場面から二月も経ったか、奇特な事にミコトの社に一通の手紙が届いた。中身を抜粋する。

『拝啓、軍神 建御名方命さま。
突然のお手紙、失礼申し上げます。私、とある山深き里に居を持ちますしがない妖怪、失辞ながら名を名乗るのは憚らせて頂きますが、そのような者に御座います。
重ねて申し上げまするに、こうして突然の書をしたためましたのは、実を申しますに軍神、建御名方命さまの奥方様のことについてで御座います。すでにしてそちらでは奥方様方の突然の消失、隠遁にさぞ大騒ぎしておられることとお察しいたします。実は今、奥方様、ならびにその同柱にあたるお二方、モレヤ様、また現ツ神の方様は、こちらに仮の神社ごと移転し、暮らしております。これ以上は私共、管理する者の約定に抵触しかねない為、しがない一員であります私にはしたためる権がありませぬが、私共の住む里、『幻想郷』と知る人の呼ばわるかの地にて、奥方様がたは御心配いらずの身で悠々自適に暮らしております。――さて、手紙の要件というのは、単刀直入に申し上げまして、軍神、建御名方命さまのこちらへの御来訪、(無論私共、管理人一同の総諾によるご招待という形とさせて頂きます。ご同意いただいた暁には、ということですが)又は、御意思に配慮し次第では、そのまま定住をたまわれはしないかということに関してでございます。
実のところ先に述べました奥方様がたは、御三方揃って、こちらでは新顔にあたるということもありまして少々お茶目が過ぎる行動が目立ち、私共としても密かにですが、頭を悩ませております(表面上、里の方々からも慕われておりますし、近隣の住人達からも畏敬の念をもって接されておられます。ですから問題にしにくいのですが)こちらの里は閉鎖的なこみゅにてぃいということもあり、周囲の均衡は大変にばらんすの悪いものとなっておりますゆえ、御一方の誤った判断が誤解とちいさからぬ軋れきを生みかねません(実際、ほん放すぎる里の人々の中には良からぬ、ではありませんが言うには過激な暴力性を秘めている者も少なからず居ます。そういった者も排せず受け入れてこそのこの里ありきなのですが)。誤解されては不穏当と思いますに付け添えてお書きしませば、奥方様がたの身の上にご不幸が押し寄せるなどと言っているのではありません、実際そのようなことが起これば対処はいたしかねます、こちらでは総てを受け入れておりますから。とまれそのような都合とけ念から、軍神、建御名方様に置かれましては、一度奥方様にお会いになって、色々とお話をなさってほしいと存ずるところで御座います。不測の事態が起きぬ内に、です。御返信のは葉書と同封致しました由、そちらにご返事いただける場合は、記入の上最寄りのポストに御投函ください。迅速、確実に御受け取りに「伺い」ます。
返事はいついつまでと期限を切ってなど居りませんので、軍神様のご都合宜しいときに投函なさってください。
私共の返信葉書に有効期限は御座いませんので、ご安心を。

それではまた何れ。……あら、こう書くと、まるで軍神様が返信をお出しになりこちらに来て頂けると決めつけているようですわね。うふ。

山深き里の隠者、

八雲紫
敬具』
コメント



1.名前が無い程度の能力削除
凄く面白かったです
2.名前が無い程度の能力削除
凄く面白かったです
3.名前が無い程度の能力削除
面白かった
次も楽しみにしてます