その石造りの古い洋館の立派な門の前には、まるで難解な哲学思想に一生涯を費やして挑む孤高の学者のように、あるいは人々の幸福のために一心に祈りを捧げる慈悲深い宗教家のように、じっと目を閉じ、腕を組み、うつむいて、壁にもたれ、何時間も(ひょっとすると何日も?)同じ姿勢で、静かに目を閉じ、瞑想にふける一人の門番がいたが、初対面の私がいくぶん緊張した面持ちで来意を告げると、意外にも門番はあっさりと門を開け、人なつこい笑顔さえ見せて私を中へ招き入れてくれたのだった。
使用人の一人に案内されて、女主人の待つ広間へと続く長い廊下を歩きながら、私はもう何度も思い描いた彼女との対面シーンをまた一から頭の中で繰り返していたが、ふと自分の身なりがその場面に相応しいだろうかと考えて、和装できてしまったことにひどくがっかりしてみたり、いや、ここは慣れない洋装で恥をかくよりも、普段どおりの和装を選んでかえってよかったかもしれないぞ、などと思い直して、急にまた元気を取り戻してみたり、あるいは「お近づきの栄を賜りたいへんうれしゅうございます」などと普段つかわない《お上品》な言葉づかいを口の中でもごもごとつぶやいて練習したりして、何かと気を揉んでいたのだが、それも広間に到着するまでの話で、高さが私の背丈の三倍ほどもある重厚な扉――それが広間の扉だった――の前にさしかかった途端、これら諸々の懸案事項は、いっさいが雲散霧消して、すべて杞憂に終わってしまった。というのも、使用人が扉を開けようと手を伸ばした瞬間、ふいに中から扉が開き、
「本居……小鈴です」私はどぎまぎしながら答えた。
レミリアは私より少しだけ背が低く、やや上目遣いに私の顔をのぞき込んでいたが、その目はいつか洋書の挿絵で見た西洋人形のように美しく、澄んでいた。白磁のように白い頬を赤らめて、彼女ははにかんだ様子で微笑んだ。
「存じておりますわ、小鈴さん」彼女はせかせかとしゃべった。「貸本屋を切り盛りしていらっしゃる。お若いのに、ご立派なことですわ。全部存じ上げておりますとも。それに出版も……立派な輪転機をお持ちだそうで!」
「て、て、手伝いです!」私は二度もどもりながらやっとの思いでそれだけを答えた。
「あの先生のなんとかいう著作もあなたが製本なすったのね? あれは大変すばらしいできばえでしたわ。そういえば、先生は……今日はお見えになりませんの?」
彼女の言う「先生」が阿求のことであるとはすぐにピンときたが、彼女はどうにもこの名前が覚えられず、この会合のあとも――私はその後も何度か彼女と顔を合わせることになるのだが――ずっと「先生」で通したのだった。
阿求は私の幼いころからの親友で、文筆家であったが、肺病やみのように白い、しかしよく見るといかにも育ちの良さそうな繊細なその顔立には、十台半ばにしてすでに《偉大な大作家の懊悩》とでもいうべき苦悩のあとがはっきりと見受けられ、なにか深い威厳のようなものさえ備わっているように感じられるのだった。彼女の家系は代々文筆家で、それも文壇では相当に名の通った家柄だった。彼女の家にはじつに風変わりな一冊の書物があったが、それは千年以上ものあいだ一族に代々受け継がれ、当主が代替わりをするたびに編纂が続けられてきたという大変な労作であった。驚くべきことに、彼女は十台半ばという若さでありながら、己がライフワークともいうべきこの労作の改訂作業をすでに完遂してしまったのである。そのため、天から与えられた使命を早々にまっとうしてしまった彼女は、自身の寿命の蝋燭がもういくばくも残っておらず、あとは天に召されるのを待つばかりとかたくなに信じ込み、始終自分に言い聞かせていたのだった。彼女がこの《偉大な才能を持つ悲運の作家》という自身の境遇をこよなく愛していたことはまず疑いなく、件の労作の中にも、やはり自分が短命であることをにおわせるそれらしい一文を挿入していたし、私が――もちろん私は親友を元気付けようとしてこう言うのだが――そんなものは単なる思い込みで、根も葉もない妄想だから、なにも気を落とす必要はない、とでも言おうものなら、彼女はまるで耐えがたい侮辱でも受けたみたいに真っ蒼になって、三日も口をきいてくれなくなるのだった。
私の知るところによると、この偉大な作家先生の寿命に関するエピソードにはまだいく通りかのバリエーションがあって、なかでも、最近のお気に入りは、彼女の著作によって正体を暴きたてられた妖怪たちが、彼女のことを危険視するあまり、もうずいぶん前から彼女のことを監視下に置き、その一挙手一投足に神経を尖らせていたのだが、やがてこの話題が賢者たちの
彼女の名誉のためにもこれだけははっきりさせておくのだが、この弁明書は――そうした事実は私の知る限り一度もなかったが――何者かに狙われ、身の危険を感じた彼女が、我が身可愛さから、つまり保身のために書いたものでは決してなかった。彼女は我が身に対する危険よりも、むしろ自身の著作や、文壇に対する不当な弾圧の方をより危惧していたのである。「もし仮に」なぜこんな話題になったのか私自身よく覚えていないのだが、「自分一人が犠牲なることで文壇の未来が救われるのだとしたら、自分はよろこんでこの身を差し出すに違いない」と厳かに宣言した彼女は、その晩、私と夜通し酒を飲み、ムサ〔訳注 文芸を司るギリシア神話の女神たち〕に五度目の乾杯を捧げたあとに、突然私の膝の上に突っ伏して、おいおいと泣き出してしまったのである。その後、彼女はひどい
「それは残念ですわ」レミリアは形の良い唇に上品な笑みを浮かべて言った。「先生ともお話したいことがたくさんありましたのに……まあ、仕方ありませんわ。一週間後か、ひょっとすると明日にでもすっかりよくなるかもしれませんものね」
レミリアは私を館に招いた理由について話しはじめた。彼女は女性の社会進出に関する自身の考えを述べたうえで、婦人問題について取り扱う雑誌を創刊したいので協力してほしいとのことだった。阿求と私が過去に出版を手がけていたことはすでに述べたが、二人が女性であったことも、やはりレミリアの興味を惹きつけた要因の一つであるらしかった。雑誌には最新の流行や服飾に関する記事も織りまぜる予定で、決して堅苦しいものではないことを彼女は強調した。
「これは正式な仕事の依頼だから、相応の報酬が支払われる」旨を申し添えたところで、ふいに彼女は自分たちがずっと立ち話をしていることにようやく気付き、にわかに頬を赤らめた。「あら、わたしったらお客様に椅子も勧めないで……さあ、こっちにいらして、そうそう」レミリアはまるでダンスの手ほどきでもするように、両手をしっかりと握ったままの私をぐいぐい引っ張っていくのだった。私は子ども扱いされているみたいで妙に恥ずかしい気分になったが、「自分で歩けます」の一言がどうしても言い出せなかったので、そのまま彼女の言いなりにまかせていた。彼女は円テーブルの周囲に並べられた椅子の一つに私を座らせて、自らも向かいの席に腰を下ろした。
広間はいかにも西洋貴族趣味といった内装で、天井が高く、リノリウムの床はぴかぴかに磨き上げられ、何か宗教をモチーフにしたらしい西洋絵画が壁にかけられていた。バルコニーに通ずるガラス戸は開け放たれ、心地よい風が吹き込んでいた。湖がすぐ近くに見えた。
広間にはレミリアと私の他に三人の人物がいた。そのうちの一人は侍従長の十六夜咲夜で、いかにも従者然とした態度で扉の脇に控えていたが、私が部屋に入ったそのときから、もう敵意の込もった視線でじっとこちらをにらみつけていたのだった。彼女にしてみれば、親愛なるお嬢様とどこぞの町娘風情が親しげに話していること自体、赦されざる蛮行であったかもしれない。これはあとになってわかったことだが、彼女は私に嫉妬していたのである。「働く女性ならもっと身近にいるじゃありませんか、もっとわたしを見てください!」と彼女は主張したかったのだ。しかし、従者という立場上、彼女がそれを自分から口にすることは絶対になかったし、主人の方も、やはりそのことにまったく気付かないでいるのだった。とはいえ、このときはまだ自分がなぜ敵視されているのかまったく理解できなかった私は、ただただ恐縮し、おずおずと縮こまっているより他になかったのだが、そのためにかえってレミリアの同情を買い、優しく接してくれるものだから、これがいっそう彼女の嫉妬心をあおり、イライラを募らせるのだった。あとの二人は部屋の隅に設えた長椅子に仲良く並んで座っていた。いずれも幼い少女だった。このうち一人はレミリアの妹のフランドール・スカーレット嬢であったが、これがまたなんとも愛くるしい少女で、姉の洗練された上品さとはまた違った、例えるなら、見る者すべてを幸福な気持ちにさせてしまうような、天子のように無垢な美しさがあった。彼女はとなりにいるもう一人の少女に向かって、何やらしきりに話しかけては、きゃっきゃと無邪気に笑い声を上げているのだった。そのもう一人の少女のことを私は知らなかった。年恰好はフランドールとさして変わらないように見えた。少女はすぐに並々ならぬ深い印象を私に与えずにはおかなかった。というのも、少女はフランドールの話に返事をするでもなく、あいづちを打つでもなく、ただ私の方にじっと視線を向けていたのだが、その瞳には、私の姿はおろか他の何者も映じていないように感じられたからである。
「この子はわたしたち姉妹の大切なお友達ですわ」と紹介するレミリアの声にはどこか寂しげな響きがあった。彼女はこの不思議な少女――古明地こいしとの出会いの場面を静かに語りはじめた。それは次のような話だった。
ある寒い雪の日のこと、クリスマスの飾りつけの準備をするために咲夜を伴って珍しく里へ買出しに出かけた彼女は、今とほとんど変わらぬ薄い洋服一枚でふらふらと歩き回る奇妙な少女に出会ったのである。少女の身なりは季節はずれではあったが、生地は上等なもので、仕立てもよかったので、それなりの家柄の娘であることは容易に知れた。「もし」とレミリアは少女に話しかけた。「そんな格好で寒くないのかしら?」。しかし少女は答えなかった。それどころか、自分が何を聞かれたのかも理解できない様子で、ただ彼女の顔を不思議そうにじっと見つめているのだった。レミリアはすぐに身に着けていたショールを取ると、憐れな少女の肩にそっとかけてやった。それから銀の十字架の付いた首飾りを外して、これも少女の首にかけながら、ささやくように言った。「せめて神様のお恵みがありますように」。ところが、少女はせっかくもらったそれらのものを、偶々近くにいた乞食同然の男にそっくり渡してしまい、またもと来た道をふらふらと歩き去ってしまったのである。お嬢様のせっかくの《お心遣い》が台無しにされたと言って咲夜がかんかんに怒ったのは言うまでもないが、当のレミリアは目の前で起こったできごとにすっかり心を奪われてしまった。憐れな少女は自分よりずっと不幸な人間がいることを知っていたのである。それから何日か経って、風の噂から、少女が地霊殿に住まう古明地さとりの妹でこいしという名であること、ずっと姉妹二人きり――他ならぬこの《姉妹二人きり》というフレーズが彼女に多大な
この噂にはまだ続きがあった。古明地は読心術に長けた一族で、姉妹はその天賦の才能を平等に受け継いでいたが、人の心が読めるというのは決して愉快なことばかりではなく、むしろその逆で、周囲と様々な軋轢を生じることの方がはるかに多かった。姉妹は周囲から常に孤立していたのである。しかし、姉妹にとってそれは瑣末な問題でしかなかった。姉妹にとって最も厄介だったのは、互いに相手の考えが読めてしまうことだった。これはちょっと想像するのも難しいのだが、自分の考えていることが相手にすっかり読まれていて、なおかつ、それに対して相手がどんな感情を抱いたかもやはり筒抜けなのである。これでどうして普通の生活を送ることができよう? しかも、よりによって、この世でたった一人の肉親との関係がそうなのである。押しひしがれた妹の精神がやがて小さな悲鳴をあげて壊れてしまったとしても、そこにどんな不思議があろう? それにしても、徐々に正気を失っていく妹の心中を察する姉の心境たるや、いかばかりのものだったろうか? 私は断言するのだが、この姉こそは最大の不幸を背負った人ではなかったか? 妹は心を閉ざすことでつらい現実から目を背けてしまった。一方、姉の方は……
「この子は姉の幸福のためにご自分を犠牲になすったのですわ!」
感極まったレミリアの声によって、私の思考は中断された。してみると、彼女は私とはまた違った視点から、まったく別の姉妹像をつくりあげているらしかった。彼女は少女の中に何か特別崇高なものを見出だしたのである。彼女はふいに身震いして立ち上がり、少女の座る長椅子の前までふらふらと歩み寄ると、まるで霊感に打たれたように突然がっくりと膝を折り、憐れな少女の手を取り、その小さな愛らしい手にそっと接吻した。フランドールは姉の仕草を見てほとんど有頂天になり、姉にまけじと少女を抱擁し、少女の頬に何度も何度も接吻するのだった。少女の表情に変化はなかったが、こころなしか頬の赤みが増したように見えた。
私は少女の目をじっとのぞき込んだ。漆黒の闇をたたえた瞳の奥底からせめて何かしら感情の残滓ともいうべきものをすくい上げようと試みたのだが、それは想像以上に困難な仕事だった。
――悲しみ? 怒り? 絶望?
そのどれも少女の瞳の色を正確に言い表しているとはいいがたかった。
――憐れみ?
強いて言うなら、それが一番近い色のように思えた。ところが、このとき少女を観察していたはずの私自身が、逆に少女から観察されているような、奇妙な錯覚にとらわれはじめたのである。無垢な少女の瞳にそれこそ深層心理の奥底に至るまですべてが見透かされているような気がして、まるで自分の心の奥底をさらけ出しているような不安で落ち着かない気持ちになってしまった。
――嘲笑?
ふと脳裏にこんな考えがよぎった。この少女はじつはしっかりとした意識を持っているのだが、白痴のふりをして、周囲の人たちを、いや、この世界そのものをあざけっているのではあるまいか。私ははっとなってすぐにこの恐ろしい考えを頭から追い出した。なぜなら、他人に対してこんな考えをいだくのは、間違いなく、私自身のたましいが歪んでいるために他ならないからである。結局のところ、私が少女の瞳から汲み取った(つもりになっていた)感情は、なんのことはない、私自身の感情の投影に過ぎなかったのである。
少女の漆黒の瞳が無言で私をあざ笑っていた。〈この姉妹はこんなにも他人を愛することができるというのに、お前ときたら!……〉
私はもう少女の顔をまともに見ることさえ困難になっていた。
レミリアがまた何か話しだそうとして立ち上がったちょうどそのとき、外の廊下を何人かの人たちがわいわい話しながらやってくるにぎやかな物音が聞こえた。
様子を確かめるために咲夜が扉を開けたのと、部屋に近づけまいと必死に闖入者を押しとどめていた使用人がほとんど突き飛ばされたみたいになって部屋に転がり込んできたのが、ほぼ同時だった。
「なーんです騒々しい」レミリアが長く語尾を引いて言った。
「門番は何をしている!」咲夜がすぐさま使用人を怒鳴りつけた。
憐れな使用人は腰が抜けたみたいになって、床の上にぺたりと座り込んだまま、ハンカチのように蒼ざめて、ひとことも言葉を発せられないでただガチガチと震えていた。見かねた私――もうこれ以上、少女の前にいることに耐えられなくなっていた私は、席を立つ口実をずっと探していた――が手を貸したおかげで憐れな使用人はようやく立ち上がることができたのだが、客人に助け起こされる無様な使用人を咲夜はいっそう激しい剣幕でにらみつけるのだった。
闖入者は全部で四人だった。四人の先頭に立っていたリーダー格の人物は鬼人正邪――この人物は当時何かと世間を騒がせていた――で、そのすぐうしろに、車椅子に乗ったわかさぎ姫とそれを押す今泉影狼の姿が見えた。三人は悪びれる様子もなく、さも自分たちは招かれた客人で、今この場にいるのが至極当然なのだといった態度で、こう言ってよければ、ある種の威厳さえ漂わせて立っていた。特にうしろの二人は何かはっきりとした目的を内に秘めているらしく、にやにやと不敵な笑みを浮かべながら、しかし用心深く周囲に視線を走らせていた。三人から少し離れたところに、赤蛮奇が赤い半外套を手に立っていたが、自分はこんなくだらない連中の馬鹿騒ぎにつきあう気などさらさらなかったのに、無理矢理ここに連れてこられたのだということを、無言のまま態度で示そうとしているかのように、終始不満げな表情でそっぽを向いているのだった。
「突然押しかけた非礼について、まずはお詫びせねばなりませんな」正邪は慇懃にそう言うと、かぶっていた鳥打帽を手に持って頭が床につくほど深々とお辞儀をした。
「あなたのことは存じておりますわ」とレミリアは言った。「ずいぶん型破りな人とうかがっておりましたけども、人様の家に勝手に上がり込んだりもなさいますのね」
「
「その『のっぴきならない理由』って何ですの?」レミリアが問い返した。
騒ぎを聞いて駆けつけた四、五人の使用人たちが、先ほどから無礼な闖入者たちの周囲をすっかり取り囲み、じりじりと詰め寄っていたのだが、今にも跳びかかってきそうな使用人たちの様子を横目で見ながら、彼女はもどかしげに、レミリアにだけ聞こえる小声で早口にしゃべった。「詳細はあとですっかり話して差し上げますから、今は『赦す』か『赦さない』かはっきりおっしゃっていただきたいのですがね」
「そうね」半分は正邪に向かって、残りの半分は咲夜に向かってレミリアは言った。「きっと赦すと思うわ」
咲夜はうやうやしく一礼して次の間にしりぞいた。使用人たちもそれに習った。
この《高貴なご婦人》の例え話にはレミリアをいくらかうっとりさせる効果があった。このときレミリアは〈話くらいは聞いてあげてもかまわない〉という気になっていた。この鬼人正邪なる人物は、なるほど型破りな方法ではあったが、レミリアとの面会をいとも簡単に実現させてしまったのである。
「それに」と最大の障害である十六夜咲夜を下がらせることに成功した彼女は意気揚々と続けた。「ことによっては、まったくの無礼というわけでもないのかもしらんのです。というのも、そこにいる赤蛮奇君は困っている人を見ると放っておけないたちでして、先日もK橋のあたりでとある不幸な少女に施しをしておったのですが、偶々そこを通りかかり、ことの一部始終をご覧になったさるご婦人が、この光景にいたく胸を打たれまして、『何か困ったことがあったら遠慮なくおっしゃいなさい』とお優しい言葉をおかけになったそうですが――そうだね、赤君?――ご存知ありませんか?」
「あるいは」とレミリアは答えた。「そんなこともあったかもしれませんね」
レミリアは赤蛮奇の方にちらと視線をよこした。
赤蛮奇はあいかわらず険しい表情で顔をそむけていたが、反論しないところを見ると、どうやらこれは本当の話であるらしかった。
「今日うかがったのも」と彼女はさらに続けた。「実はこの不幸な少女の話題がすべての発端でして、……いえ、この問題は少女一人だけのものでは決してございません。ひょっとすると、これはすべての子供たちに関する問題かもしらんのです。つまり、未来に関する話なんですな」
「まあ、たいそうなおっしゃりようですこと!」
「我々はただただ高潔な精神からこの事業を思いついたのです。ですが、なにぶん虫けら同然の憐れな連中の思いつきですから、思いつきはすれども知恵がない、熱意はあれども資金がないという有様でして、一同途方に暮れておりましたところ、こちらの赤蛮奇君からお話をうかがいまして、このご婦人ならきっと我々を救ってくださるに違いないと……暗闇の中に一条の光を見出だすとはまさにこのことですな。おお、お優しいお方、我らが救い主!」
彼女は自分の言葉にすっかり酔いしれている人よろしく、やたらと両手を振り回したり、自分の胸を荒々しく叩いたりしながら話していたが、その様子をじっと観察していたレミリアはふいに話をはぐらかすように、まったく別なことを話しはじめたのである。
「そうそう、先日、あなたのご同輩がお見えになりましたわ」
「同輩? はて、どんな奴で?」話の腰を折られた正邪は訝しむ表情でたずねた。
「小柄で、ずる賢そうな顔をしたネズミみたいな人でしたわ。両手に妙な棒切れを持って、それで何かの鉱脈を探すとかおっしゃってましたっけ」
「そいつは悪党です、悪党です!」
「おおかた酒代でもせびりにきたのでしょうけども。もちろん一銭も出してやりませんでしたわ」
「銅銭一枚だって恵んでやる価値はありませんな!」
「さて、次はあなたの事業計画について聞かせていただけるかしら?」レミリアは意地の悪い笑みを浮かべて、勝ち誇ったように話の続きをうながした。
正邪は目を丸くして、しばらくのあいだ驚いたニワトリみたいな顔をしていたが、やがて素早く影狼たちの方に振り向くと、仲間うちにだけ聞こえるくらいの小声で言った。「想定外だ!」彼女はすぐにレミリアの方に向き直って、またせわしなく両手を動かしながら話しはじめた。「お嬢さん、あんなやくざ者と我々をいっしょになすってはいけませんぞ。あれはタダ飯にありつけるというそれだけ理由から坊主になったような野郎でして、つまり寺に寄生しているんですな。こう言っちゃなんですが、おつむの少々いかれた可哀そうな奴でして……。で、我々はと言いますと、これはもうただ高潔な精神から事業を思いついたわけですが……」
「それはもう聞きました」レミリアがぴしゃりと言い放った。
「つまり……そう、これはそちらのお嬢さん(彼女は私の方にあごをしゃくって見せた)にも関係することなのですが、その、印刷して、ばらまくのでして……」
「何か出版なさいますの?」
「いえ、いえ。出版ではありません。我々の目的は、か、か……ところで(彼女はここでまた唐突に不敵な笑みを浮かべて、ぎらぎらと目を輝かせはじめた)、ここにいるわかさぎ姫は詩を読むのですが、これがどうしてちょっとしたものでして、よろしければたった今ここで詠んで差し上げることもできますが?」
「あなたは今しらふですの?」
「誓って申しますが、一ミリたりとも飲んではおりませんぞ。これは――つまりこれから詠む詩の話ですが――我々が結界で隔離されたちょうどそのころに流行した詩でして、つまり当時の世相を反映したものですな。その精神は今も(彼女は拳固で自分の胸を叩いた)我々の中に受け継がれているというわけで。その、か、かく……えい、どのみち聴いてもらえばわかることでして……」
正邪はつま先立ちになってちょこちょことわかさぎ姫のもとに歩み寄り、車椅子を押してうやうやしくレミリアの前に戻った。
「さっきから何の話をされてますの? 何か朗読なさいますの?」
不安にかられたレミリアが矢継ぎ早に質問を浴びせかけたが、正邪はもう彼女の問いには答えず、わかさぎ姫と何やらひそひそ話をしながら、ずるそうな笑みを浮かべているのだった。正邪は余裕たっぷりに周囲の面々をもう一度見渡してから、わかさぎ姫に何かの合図を送ってよこした。
「座ったままで失礼しますよ。なにぶん《足が不自由》なものですから。へ、へ!」そう言ってわかさぎ姫は、もったいぶって咳払いをしながら、何かの詩の一部を独特の節をつけて詠みはじめた。
「固い
意気な束髪ボンネット 貴女に紳士のいでたちで
うわべの飾りはよけれども 政治の思想が欠乏だ
天地の真理がわからない 心に自由の種を蒔け」
「もう結構ですよ」顔の前で素早く手を振りながらレミリアが言った。
「いえ、これはまだほんの序の口でして、続きがあるんです」そう言うと正邪はわかさぎ姫に続きをうながした。彼女は朗読を再会した。
「
言葉は開化の英語にて 晦日の断り
不似合いだ およしなさい
何も知らずに知った顔 むやみに西洋を鼻にかけ
日本酒なんぞは飲まれない ビールにブランデー ベルモット
腹にも慣れない洋食を やたらに食うのも負け惜しみ
内緒でそっと
おかしいね おかしいね
米価騰貴の今日に 細民困窮省みず
目深にかぶった高帽子 金の腕輪に金時計
内には米を倉に積み 同朋兄弟見殺しに
いくら慈悲なき欲心も 余り非道な薄情な
但し冥土のお土産か 地獄で閻魔に面会し
行けるかえ 行けないよ」
「もうたくさん!」
かんかんに怒ってしまったレミリアが叫ぶが早いか、再び広間に戻ってきた咲夜と使用人たちが、もう招かれざる客たちを追い出しにかかっていたのだった。
そこから先はもうすべてがデタラメで、まったくの喜劇だった。まず正邪が大声でしきりに「ただ高潔な精神から!」とわめき散らしながら広間中を駆け回る、使用人たちがそれを追い回す、影狼とわかさぎ姫が腹を抱えて笑い出す、赤蛮奇が醜悪なものを見る目つきで眉をひそめる、フランドールがこのドタバタに大喜びで歓声を上げる、――といった有様で、紙みたいに蒼ざめてしまったレミリアが今にも泣き出しそうな表情でスカートのすそをぎゅっと握りしめたままわなわなと震えているのだった。
これはあとになってわかったことだが、このふざけた連中は、ここに来る前は居酒屋にいて、一杯機嫌でこの悪だくみを思いついたのだった。正邪は「レミリアからせめて酒代くらいは引き出せる」と豪語し、影狼とわかさぎ姫はこの目論見が失敗する方に賭けていた(赤蛮奇はこの賭けに参加していなかったが、やはり何かしら目的があってこの連中と行動を共にしていた)。しかし、こうしたことはすべて建前であり、実際のところ、鼻持ちならない金持ち連中に一泡吹かせてやろうというのが目的の大半を占めていた。事実、この目的さえ達成できれば、もう金のことなどはどうでもよくなって皆子供みたいに満足しているのだった。世の中にはこうした《騒動》を巻き起こすことそれ自体を実現困難な偉業ととらえ、まるで勲章か何かのように見せびらかし、自慢し、あまつさえ誇りにしているどうしようもない連中というのがいるものだが、連中にとってこうした《騒動》は一種の武勇伝であり、いわば尊敬の対象なのである。
業を煮やした咲夜がついに逃亡者をつかまえて(彼女は電光石火の早業で逃亡者の背後に回り込み、気付いたときにはすでに首根っこを押さえつけていた!)この乱痴気騒ぎに収拾をつけたように見えたが、これで一件落着とはいかなかった。ここで逃亡者はまた思いもよらない悪あがきを見せたのである。
咲夜は彼女の洋服の襟首をつかんでいたが、彼女はその洋服を素早く脱ぎ捨て――つまり下着一枚きりになって――広間の真ん中まで再び走り込んでくると、やたらと拳固を振り回しながら、思いがけず「革命万歳!」を叫んだものだから、またもやすさまじい笑い声が起こった。フランドールがこの光景に目を輝かせて、意味も分からずにただ見よう見まねで両手を突き上げながら、いっしょになって「万歳!」を連呼しはじめた。これには赤蛮奇さえ眉をハの字にして苦笑していた。
まるで養豚場のブタでもみるかのように冷たい目をした咲夜が、今度は正邪の鼻っつらをひっつかんで、なかば引きずるようにしながら無言で広間から出ていった。勢いよく扉の閉まる音が響いた。
再び訪れた静寂の中、フランドールの「万歳!」の声だけが続いていた。
「お願いだからやめてちょうだい、フランドール!」レミリアはヒステリックな声を上げて、どういうわけかこのフレーズがたいそう気に入ってしまったらしく、無邪気にはしゃいでいる妹を黙らせると、おぼつかない足取りで長椅子に近づき、ばったりとその上に倒れ込んでしまった。
となりに座っていた古明地こいしの手がそっとやさしくレミリアの髪に触れた。
レミリアはびくりと肩を震わせて、すぐに少女の手を強く握り返したが、小さくうずくまったまま顔を上げようとはしなかった。どうやら泣いているらしかった。
少女の目は相変わらず何も見ていなかったし、何も言わなかったが、あるいはレミリアのことを憐れんでいたのかもしれない。何もかも気違いじみた騒乱の中にあって、どういうわけか、この少女だけが唯一正気を保っていたように私には思えたのである。
結局小鈴の存在意義や阿求関連のエピソードを挿入した意味、話の筋とかテーマがよくわからないストーリーきらい
文学作品風味にするだけで登場人物が洗練されたように見える(見えるだけ)のに、内容は結構派手で、文学作品風味だからそれほどドタバタしてるように見えずにスマートなジョーク集を読んだような仕上がりになってる