面白くて笑うのと楽しくて笑うのとは当然違います。
全ての場合がそうではありませんが。
低俗や下劣といった言葉がもし本来の意味で使われるのなら、
たとえようもなくそうであるというのなら、
それは前者を指します。
全ての場合がそうではありませんが。
19XX。
某国某所。
昼休みから帰るなり、編集長の高花が「犬飼」と、犬飼を自分のデスクに呼びだし、昨夜提出していった記事の文面が書かれてある下書きの原稿用紙の束をばん、とかるく放ってみせた。
「お前よう、この記事はなんや」
「はぁ」
「仕事なめとんのか。書き直せ。全部やぞ」
「はい」
「それと、例の先生、お前のとこの担当やろ。今日あたりヒマ見て行ってこいや。失礼無いようにな」
「はい。わかりました」
「よし。戻れ」
高花の許しがでると、その人よりちょっとつきでたあごをしゃくられ、犬飼はやれやれと内心思いながら、失礼します、ときっちり頭を下げ、自分の机へと戻ってきた。先ほど指摘された原稿を横に放り、ごそごそ、と、机の中の新しい原稿を探していると、隣にいた海堂が、ひょいとさっきの原稿用紙を取りあげ、ざっと目を通しはじめた。
「うっわー、何何、この文章。居丈高というか、喧嘩売ってるわね。何、何かしたの?」
「どうもしませんよ。何というか、まぁ――……憂さ晴らしです。僕も、こんなもんが通るなんて、毛一本ほども思っちゃいませんよ」
「へー。じゃ、何? 巷で流行のマゾヒステイックにでも目覚めたとか?」
「こういう仕事を仕事としてやっていると、時々こう、どうしようもなくむらむらとしてくるのです。そのむらむらを放ったらかしにしておくのはよくないことなので、たまにこんな風なことをやるのです。よくない癖ですが、どうにも性分らしくてやめかねます」
「あなたも変わったたちね。男気らしいというのかしら、昨今では」
「よしてくださいよ。これでも女ですから」
「おら、海堂! くっちゃべっとらんで、先週の海難事故の記事書けとるんか!? きりきり書けぇ。口やなく手ェ動かせほんまお前!」
はい! すみません、編集長! と、きちっと答えながら、「じゃ、また後でね。あ、今夜飲み行こ」と、ひそひそと言って、自分の席へと戻っていく。さてと、と、犬飼は手帳やペンなんかを確認し、いつも持ち歩いている肩掛けカバンに放りこみ、
「ちょっと出てきます。帰りは夕方で」
と言い、海堂に目線と手振りで了解をもらいながら、がたがたと机を立った。
新聞社を出て数刻。
昨今女だてらに自転車などというはいからなものに乗るのは目立つので、犬飼はいつもの男物じみた質素なはかまに着物、洋物の長シャツを着こなし、肩から小柄な体には大きな肩掛けカバンを下げ、ちょっと頭にのせたハンチング帽を直して、自転車のスタンドをおろした。小学校はぼつぼつ下校の時間らしく、犬飼がつく頃に、ちょうどチャヰムの音が鳴っていた。先生、さようなら。さようならー。という、子供らの声を背景にしつつ、すれちがう小さい視線がひそひそ、くすくすと好奇心に満ちた笑いで自分を見送るのもそれほど気にせず廊下をわたり、「ねー、あのお姉ちゃん、男の人の格好しとるよー」という声も聞き流しつつ、目当ての教室の前に立つと、「御免下さい」と言って、
「あ、きしゃのお姉ちゃんや!」
「本当や。こんにちはー!」
「お姉ちゃん今日はドロップもっとらんのー?」
「今日もへんな格好やなー」
と、子供らの(何やら残っていたらしい)みじんも無礼をわきまえない対応に、「ごめんねー。今日はもってきてないのよ」などと適当に答え、「あら、先生は?」と、子供らに聞くと、どうやら職員室に行っているとのことを、子供ら特有のわらわらとした応答から察した。
「ねーお姉ちゃんたまには遊んでやー」
「そやそや。こないだみたくふっちぼうしようやー」
「えーかくれんぼやろー」
「お姉ちゃんいつも先生とお話してばっかやん!」
「はいはい、後でね」と答えて流しつつ、「もーお姉ちゃん適当ばっかやん!」「あそぼやー!」「大人がウソついたらあかんねやで!」と非難の声を聞き流しつつ、あ、先生さようならー、はい、さようなら、という、聞きおぼえのある声を聞いて、きたな、と犬飼は思った。
「あぁ! 犬飼さん。来てらしたんですか」
カラカラと教室の戸を開くなり言った白澤に、犬飼は、子供らに袖をひっぱられたまま、どうも、と応じた。が、白澤はそこから一転子供らに目を止めたらしく、
「こら! お前たち! 宿題終わったのか!? まったく!」
わーっ、わーっ、と、子供らがばたばたと自分の席に戻る。それからこそっと「何や、自分が話すんのに都合悪いからおっぱらったんやで」と、子供らのはしっこそうなのが言うのを見るにつけ、つかつかとそちらに寄り、ぺしん! と頭を叩く。
「いったー!」
「そんな強く叩いてない。ひそひそ話なんかするな、まったく。ちゃんと全部終わらしてから帰るんだぞ」
「つごー悪くなるとすぐ叩くやん! 先生あかんやねんで、そーいうの!」
「黙ってろ、まったく。――お待たせしてすみません。それじゃお前たち、ちゃんとやってるんだぞ」
はーい。あーあ。というわらわらした声を背にしつつ、白澤は、「場所を変えましょうか」と言いつつ、犬飼を教室から連れだした。
「相変わらず大変そうですね」
「えぇ……でもまぁあれでかわいいものですよ。なにか失礼をしませんでしたか?」
「いえ。仰る通りかわいいものですよ」
「あら。また」
白澤は可笑しそうに笑いつつ、ちょっと口元に手をやった。犬飼とはちがい、袴に袷の着物、それから履き物を履き、いかにも女教師といった感じの白澤は、真っ直ぐな黒髪を肩のあたりに垂らした、気の芯としていそうな美人である。黙っていれば良家の家柄という生まれにふさわしい気立てのよいおしとやかな女性だが、生憎と犬飼はなかなかがんこで一心とした強そうなところがあるのを、付きあいのうえで知っていた。
良家の家柄とはいうものの、その根っこはもともと武門であるらしく、本人も古流の剣術やら古武術を体得し、修めているところであるといい、なるほど子供らを叱るときにみせる妙な気迫はそのせいもあるか、と、ひそかに犬飼は思っていた。
「あーキリコ姉ちゃんやー」
「ホンマやー。なんでここにおるん? お姉ちゃん中学いったやん!」
「何だよ、卒業したからって別に来ちゃいけないって決まりはないぜ? かわいくないちび共の面倒みにきたんじゃないから安心しろよ」
「なんでやー。あそぼうやー」
「ほやで。鬼ごっこしたい!」
「私はがきんちょの遊びは卒業したの。ほらほらがきんちょはがきんちょ同士で仲良くしてろ。んべ~」
「なんやそれ~かっこつけー」
「にあっとらんわー」
「いたたた!」
「ひたいひたい!」
「あ~ん? 何か言ったか~? おった!」
「桐子。年下の子に何をしているんですか」
「あ、白澤先生。ちょうどよかった~探してたんだよ。な! 宿題でわからないところがあってさ~」
「まったく、私に聞きに来ちゃだめって言ってるでしょ。貴方ももう女学生なんだから……」
「そう言わないでさ。ほら、いい先生を選ぶのも、勉学の基礎じゃん?」
「調子がいいんですから……」
「あれ、記者さん? あ、すみません。こんにちは」
「えぇ。こんにちは」
犬飼はかるい調子で頭を下げてくる女学生、桐子に、帽子をとって挨拶した。昨今珍しい異人めいた風貌のある女学生で、生まれは聞いたことはないが、調べたところによると某造船会社で名を知られる成金の霧雨と呼ばれる霧雨の家の次女に当たる子だそうだ。世間で仇名されているのとは裏腹に愛嬌があり、人当たりも結構気さくなことで、この学校に在籍していた頃は、愛されっ子(ひそかに、だが)で通っていたらしい。異人の血が混じった子特有の金色の髪はくせがかってのびた様が見事で、柔和な顔立ち(黙って立っていれば、西洋人形のような愛らしさを秘めた目鼻立ちだ)によく似合っている。
「あ~……。お邪魔だった、かな? ごめんね、出直すわ」
「いえ、僕は別に構いません。桐子さんとはそう知らないわけでもありませんし、ご一緒にお茶でもいかがですか? カフェーにでも行きましょう。僕のおごりです」
「あら、いいの? そんじゃ、甘えちゃおうかな。ありがとね、記者さん!」
「まったく現金なやつだな……」
さて。と。
カフェテラス。テーブルを囲みながら、誰にともなく椛は言った。何となく頭が寂しく、ハンチング帽をかぶったまま、茶をすする。
「で、どうなんだ」
そう口を開くと、女学生の格好をし、頭にはかんざしもさした魔法使いが、ひょいと肩をすくめた。同じく、頼んだ紅茶をすすっていた、上白沢の半妖も、首をふるような、渋い顔をする――女教師の格好に、髪の色まで違うので、違和感はおおいにあるが、表情はまぎれもなく本人だ。そのような意思を感じる――。椛も同じく頼んでおいたカステイラを一切れさして口に運んだ。もむもむと甘味を食べながら、無言で収穫のないことを示して見せる。
「やれやれ。こりゃ~参ったな」
「博麗の巫女は相変わらず変わり無しか。私たちだけがこうやって目が覚めているというのも不自然だが……」
「案外目が覚めているつもりなのかもしれないぜ、本当に。なんにせよこんな異変はじめてだしな~」
「上白沢殿。何か見解は無いのか」
「申しわけありません。私にもわかりかねます」
上白沢は相変わらずの様子で首をふった。ふむ、と椛は吐息するように視線をうつし、ふと向こうっかわの窓ガラスにちょうど映るような自分の容姿をながめ、嘆息した。いつもの自分の顔には変わりない、短めの頭髪もその長さには変わりないのだが、今は強制的に無理やり染めぬかれたかのような墨染の黒髪で、髪型も若干違い、これが思ったよりも違和感がつよく、頭の獣耳がなく、人間の耳がついているのもまた落ちつかない。とにかく、と窓ガラスから目を離して、椛はざわつく店内を適当に流し、話し合いに意識を戻した。
およそ三日ほど前。
幻想郷が何かおかしい。と、そう椛が気づいたのはそのくらいである。だから、この異変(なのかどうか)がいつから始まっていたのかは知らない。というのも、幻想郷が何故かいたるところ全て、元あったものが消え去り19××年頃の某国某所(と、椛が目覚めたときから、彼女の頭の中でくり返し主張してくる。何かが)になってしまったという「記憶」と「認識」が、「目覚めた」(というのか知れないが)椛の頭の中にすでにあったからだ。それだけではない。自分が今数十年ほど生きた人間で、元武家の血に連なる没落した家柄の血筋で、小さい頃から勉学に励み帝都へ上京してから新聞記者となった苦労の半生と、人間の父母(父は十四の時に死別している)との記憶と存在、また今の自分の人間関係と犬飼松は、という名前であること、それらひっくるめた全ての記憶が事細かにあった。もちろんそれが全て偽物の記憶であることを椛は知っていたのだが。
そして、二日前。
ねつ造されるだけされたような記憶をたよりに白澤京子――上白沢慧音をどうにか見つけ出した時には、彼女はすでに椛同様、「目覚めており」、これを異変? のようなもの、と、認識し、自覚も持っていた。聞いたところでは、それが自分に来たと感じたのは、椛より四日前の昼、何の前触れもなかったそうだ。そして、彼女もまたねつ造された記憶の中からつてを辿り、霧雨桐子――あのしょっちゅう巫女といっしょに異変にかまけてくる泥棒魔法使いの娘を探しあてたのが、椛が目覚める一日前のことだそうだ。彼女の見解については特に椛たちと変わるところなかったので、割愛する。(目が覚めた、と自覚したのは三人の中では一番早く、二週間前になるそうだ)
「ま、どっちにしろだ。私たち三人だけ目を覚ましてるってのはちょっとおかしい。絶対に他にも目の覚めてるやつがいるはずだ。たぶん」
「では、なんで見かけないのです?」
「さぁな。目は覚めたけど、今の世界が気に入ってしまって、気づいたことも忘れて満喫しているのかもしれない。なんせヒマで頭のねじが緩んでるやつのたまり場だからな、この幻想郷ってところは」
(ありえるが、お前が言うな、と言ったところだな)
「面倒くさいことになっちまったよなぁ。霊夢のやつが目を覚ましているんなら、カンで適当に異変の原因なんか探しだしてくれるのに」
「お前だっていつも異変だのなんだのに首を突っこんで、原因を探しあててるようじゃないか」
「う~ん、そりゃそうなんだけど、今回のはどうもいつものとは感じが違うんだよなぁ。もっとこう、得体のしれない力が働いているというか、おいぞれとは口に出せないものがどうこうしちまってるんじゃないかというか……」
「それがお前の見解か」
椛は言いながら茶をすすりつつ、らちのあかなさを感じて、頬杖をついた。どのみちこの三人の組み合わせでは、もっとどうにかしていこうという積極性に欠けるのを感じる。よくも悪くも、見解に突出したところのない、しいて言えば普通や並といった領域で物事を見るような三人だ。他所ではどうか知らないが、この郷でより面白くするどくやっていくのなら、もっとねじ曲がったものが必要だ。(もちろん具体的にそれが何かということも椛にはわからない)
結局無難に様子見という結論なのか、なんなのか、そんなところで上白沢が時計を見上げ、そろそろ戻りましょうか、と言った。
「そうだな。じゃ、白澤先生。勉強宜しくね」
「構いませんけどね……」
しばし後。では、またお願いいたします、と帽子を脱いで白澤に頭を下げ、取材を終えたメモと手帳をカバンにしまいこんだまま、椛は新聞社への道を、ガチャンとスタンドを上げて、こぎだした。
(まだスキマ妖怪の姿を見ていない、か)
先ほど教室に戻って、女学生の偽装をしつつ、霧雨が何の気なしに言った。確かに、椛自身の顔見知りも、みんながみんなそれらしき姿を確かめられているかというとそうではない。(それらしい者はいかにもそれらしい者としてそこにいる、というのもこの異変のようなものの特徴のようだ。おかげで上白沢を探し出すのにも時間がかからなかった)それもたしかに気にかかるが、問題はやはり八雲紫だろう。
(たしかにいい加減で大ざっぱな妖怪らしいところもあわせもつ輩だが、結界やら郷の異変をいち早く察知するのは否定しがたいところだし、それらに敏感な対応を取るのもまた認めねばならんところだ。……黙って見ている理由か……)
いくつかぼんやり想像はしてみたが、元々椛の頭はそういうことに特化してはおらず、むしろ苦手であるらしく、考えるはしからモヤモヤとわだかまって霧と散っていくようだった。
翌々日。
街頭で人ごみに揉まれつつ、椛は弁壇に立つ弁士たちの白熱喧々とした論語を聞き、内心辟易していた。犬飼自身は少なからず昨今の論調に耳立てて関心高いたちらしいが、椛にとっては人間たちの喋くることなど毛並みにつく埃の一切れほどの関心しかなく、おまけに喧々ごうごうとした野次馬どもの殺気熱気で頭が充てられてくるようだ。それでも取材は取材ということらしく、いちいち几帳面に手帳に書き込みはしていた。
「いやぁ、すごい熱気ねぇ。さすが今一番の論壇だけあるわ。噂に名高いだけあるねぇ」
横から言ってくる先輩記者、というより記者づきのカメラマンだが、川城にとが活気のある声で言ってくるのを、(むろん、彼女がおそらく河童の河城にとりであることは、椛もうすうす予測していたが、どうやら彼女は椛らのように目を覚ましてはいないらしい)そうですね、と無難に笑ってかわしながら、ふと場内がざわつき、一旦ひときわ音高い野次が飛ぶのを聞きつつ、「お、出た出た。松は、出たよ」と、川城が言ってくるのに、はいはいと言った様子で、椛――犬飼は熱心な目を弁壇上に向けた。
「檀上、社民保守労働党末席、社名鳥文子女史! 静粛、拍手にてお迎えください」
馬鹿野郎ぉ、引っ込め、と罵声が飛ぶ中、弁壇に、きりっと、若い面を何処か不敵にひきしめた黒髪、松葉の髪飾りをし、はいからな色柄の袷と袴に、昨今流行のハイヒヰルなる履き物をかつ、かつと鳴らして、檀上聴衆を見下ろす女性が、す、と頭を下げた。
「いっやー、あいかわらず雰囲気悪らつだねぇ。まぁ、無理もないか」
「ですね」
地方から弁士として帝都に名を上げた社名鳥卿の娘であるこの文子は、現在軍縮を声高にさけぶ同党の父とは裏腹に、富国強兵による国力拡大路線を声高に叫ぶ、いわばきわものの女傑である。年は未だ二十を越したばかりと若いながらその才媛ぶりは、学生の時分、本人のたっての切望により、諸学、留学の際にも、ぬきんでた語学の才能ともども高く評価され、大弁士の娘という立場にも臆さず、己の意をより国政に届かせるため、と、女性の身ながら弁士という立場に立った実力、手腕は、他他が認めるところではあるが、只でさえ女性の権利、人権などというものが取り沙汰される昨今では、従来の古古風風たる保守、マチズモを気風とする世論の中では、その鬱々したる先例として、批判の声が後を絶たない。
「――現在亜細亜圏の諸諸国の抱えます課題はひとえに富国、又、其の為の強兵、即是、軍備の拡張、及び、旧政権の抱える古代的、国風的な負債の早早たる是正、とくに我が国においては最後の一つがやはり絶後にして大きな壁、といえる情況であります。これは何も旧態的マチズモ国家たることを指して言っているのではありません。昨今の世界情勢において最重要たるは強く高潔たる国家たること。弁論一部の現政権高官がたの一部が意見するよう、他国と比肩される立場にたつ力を早急に身につけることであります。先の戦禍における好景気がもたらした国益は、たしかに莫大たるものでありましたが、その実、景気の先行や、あくまでも経済的な観点という目で見ますなら、それはあくまで一時の膨大的な富の流入から、有効な使い道を見いだせず、その多くが特需により富を得る権利を引き当てた、あくまで一部の人間に渡り、放散的かつ浪費的な消費をされ、結果として、国益に不十分なものしか還元できないままに終わってしまいました――」
凛とした声で続ける文子と野次を飛ばす連中を聞き流して見つつ、犬飼は気なさげにペンを走らせていたが、ふと、(これは犬飼達が人ごみの少し外れたくらいにいたからだが)「ん?」と、聴衆から抜けだして歩く2,3人の男らに目をいかせ、ちょっとハンチング帽を上げた。男らは犬飼の視線に、偶然、のようだが気づき、しかしじろりと見ただけでどこかへ行ってしまった。あのマスコミ関係者を見る特有の目は左巻きの者らのようだが。ボシュッ、ボシュッ、と隣でシャッタアを切っている川城の何も気づいていない様子に紛らせ、犬飼は再び檀上の文子に――と、そのときは一瞬椛になっていたが――やれやれと目を戻した。
(あれでは接触する機会もない。あのあほたれガラスのことだから正気かどうかも判断つかんしな……)
椛は檀上で力強く語る先達で上司の射命丸文そのものの娘を見上げ、まあいいかと考えた。どうせあのあほたれガラスが正気だったところで、何か当てになるわけではない。むしろややっこしく目ざわりなことになるだろう。
(天狗に出来るのは、扇動くらいのもの、と、自ら語る通りでもあるがな、それは)
「――今こそ我らは、天皇陛下に統制権を委譲し、軍略的観点に則った政治を行わせるべきであり、それは現在の惰弱なる、非実力的、非行使的にして、一部の報道関係者が弁略によって民衆に言力を与えるこの実情から脱却し、――」
しばし後。
ま、こんなもんか、と川城が言ったのを契機に、すでに文子から(文から)数えて二人目を過ごしていたこともあり、「僕の方も大丈夫そうです」と犬飼は告げて、やっと熱気溢れる屋外(でなければ頭沸騰させてぶっ倒れる者が出そうな様相だったが)に出て、フー、とハンチング帽をぱたぱたと扇ぎ、近くの広場に建っている大時計を見る。
「まだ帰社するには早そうですね。そこらの店でティヰかアイスクリイムでもどうでしょう?」
「お、いいねぇ」
「おごらさしていただきますよ。こないだもお世話になりましたしね」
「あら、いいの。悪いわね」
「いいえ――」
犬飼は言いながらふと通りのすみに目を向けた。あの服装は、と、仕事柄特有の、目端の利く視線をそれとなく向ける。どこかで見た覚えのある男たちだ、という思考を合間に挟んで、ハンチング帽をかぶり直す。「ん? どうしたの」と目を向けてくる川城に向かい、「先にそちらの店に入っててください。注文もとっておいて構いませんので」と言いつつ、男らの妙な様子を気にしつつ、そちらに向かって駆けてゆく。男らが路地を曲がり、どんづまりらしきところへ入っていくのを目に止め、さらに追いかける。
ひっそりとした路地。
何でこんなところに連れこまれたのか知らないがともかくも犬飼は、途中、都合よく転がっていた細めで手頃な大きさの角材を拾い、何事か声を荒げて、文子の手をつかみ上げている男らの一人を目がけて、するどく踏みこんで横に薙いだ。ガツリと肘の辺りを打たれ、ぐわっと声をあげて文子の手を離す輩と男らの隙をつき、両者の間に割って入りながら、文子を自分の背中に庇い立てするように、角材を構える。
最近は竹刀を握る機会もないので、少し鈍っているかもしれない、と思いつつ、握りにくい角材を、それなりに握り直す。
「何だ、若造! 貴様、邪魔だてするならその女共共痛い目にあってもらうぞ」
「下がって、」と、何か言いかける様子の文子を抑えつつ、犬飼は男らをじろ、と見据えた。
(一刀流は慣れていない、が、まぁごろつき程度のようだし、今の私でも何とかなるだろう)
頭の中で、ちらりと椛としての見解を浮かべ、すぐに犬飼に立ち直る。
「大の男が女一人囲んで腕を掴みながらものを言うなんて見目のいいことじゃないですよ。憲兵様に来てもらいましょうか」
「ふん! その女郎が憲兵に助けを請える身分か。国を愚弄していやがる女なんぞ」
「貴様先頃あの場に居よった者だな。どこぞの藪記者だか知らんが、藪は藪らしくとっとと社に帰ってその女を批判する論調でも書いて国民どもに尻尾を振っているがいい、このドラ犬風情め」
「ご高説どうも有難う御座います。それで結局やるのですか。やるならやぶさかではありませんよ」
「ちっ、よく舌のまわるドラ犬だ。もういい、白けたわ。おい、いくぞ」
ああ。ちっ、と、ぶつぶつ言いながらも、男たちは意外にあっさりと引きあげて行く。犬飼――椛は――ちょっと拍子抜けに思いながら、それを表には出さないで、角材を下ろし、からん、とそこらに放った。それからあらためて文子を振り返る。
「大丈夫でした、か、……?」
すると意外なことに文子は、はー、とため息をつき、かりかりと額の辺りを掻いて、さも呆れたというかやれやれもう少しだったのに、とでも言いたげな、先程檀上で喋くっていたときの印象はどこへやら(もっとも犬飼と――椛としても、だが――あまり意外とは思わなかった。なぜか)、実際「やれやれ、もう少しのところだったのに」などと形のいい唇をぼそぼそと、何か呟かせてもいたが、見ていると、「ま、いいか」と言い直し、
「あぁ。すみません、何でもありません。――どうも失礼、危ない処を助けて頂きまして、有難うございます」
「はぁ」
「社名鳥文子と申します。先程ご覧になっていた方、でしたか? お見苦しいところをお見せしまして」
「いいえ、お気になさらず。怪我がなくて何よりでした。それでは僕はこれで」
「あ。お待ちになって。これ。私の名刺です。記者さんならご存知かもしれませんが。是非とも御礼がしたいので、後日屋敷へお越しください。家の者には取り次いで置きますので。それでは」
「あ」と犬飼が何とも否とも言わない間にさっと横を通り抜けると、そのまま文子は何も言わず、また額をかりかりと掻きながら、やれやれ、とぼそりと言いながら、路次の入口へと消えた。
しばし後。
夕刻。
社からの帰り道、犬飼の顔をして自転車をこぎながら、椛は漠然とした居心地の悪さを感じていた。偶然、とは思うが、思いもかけない
形で文子に接触を図ることができた。……何か釈然としないものを感じるが。
(偶然か。こんな三文芝居のようなすじ書きが……。いや、違うか。そう、この違和感は、何だ? 鼻がムズムズするというか……)
風邪かな、と犬飼としての思考がちらりと入り込むが、それをわずらわしげに払って、ふと椛は思った。
(この私は本当に私なのかしら)
翌昼。
新聞社。
昼休みから戻ってきた犬飼を、高花がデスクに来るように呼んだ。何事か、と、何も思い当たることがなかったので行ってみると、「お前宛てや」と、すっと机に一通の封筒、それもまるで身分卑しからぬ人からの誘いのごとき立派なもので、犬飼も西洋式にだがしたためられた貴社、犬飼松は様という名書きに、思わず目を白黒させそうになった。
「何ぞあったかしらんが、名前知らせんなら自分ン家の番号教えとけや。事務が目ェ白黒させとったぞ」
高花はそう言うと、「ええぞ」と、戻るよう促して、ばさりと読んでいた新聞を開いた。(粗野な印象とは裏腹に高花は堅気で教養のある男である。デスクの横にはよく購読している他社の経紙やら大衆紙、果ては有名どころの同人誌までが山と積まれている。素性は謎だが、恰幅の良さから、彼の前を探らず類推する者がほとんどだ)犬飼は失礼します、と言って自分の机に戻りつつ、ちら、と送り主の名を見た。社名鳥文子。一体どうやったらたったの半日程度で自分の調べがつくのだか、甚だ疑問に思ったが、考えても、そこにはあまり類のよくない考えが浮かぶだけだったので、犬飼は素直に考えるのをやめた。おっかなびっくり封筒を開いていると、ふ~と茶をすすりながら歩いてきた海堂が、犬飼の手元をのぞくなり、おぉっと、と、この先輩記者特有の、どこか憎めない、謎のうざったさで、早速反応してきた。
「うっわ。何何、すっごい。何、鹿鳴館?」
「いいえ。まぁ、なんといいますか……。僕も事情がまだよく呑み込めていないというか。まあ、何だか助けてもらったお礼のようです」
「ほぉう? 何何?」
「まぁかくかくしかじかで」
「はあ、まるまるうまうまと。何ともやるものだね、あなたも。やはり私が見込んでいるだけのことはあるというか、女傑ね。女傑」
「何ですか、それ」
苦笑いしぎみに言うと、ふむふむと文面から目を上げた(あまり内容を読んでいる風ではなかったが。というか、この招待状、そもそも中身までが全て英文字で書かれてあり、不親切この上無い。もっとも、達筆な筆調で書かれた文字は、達筆すぎて読めないことを除けば、単純な英文であり、和訳の経験がある犬飼には、ほぼ全て読み解けた)海堂は、「で、パーティヰにはその服で行くの? 私の知人に、その方面のツテがあるから、口利こうか?」と、笑いながら言ってくる。からかい半分のようなので、犬飼もかるく応じた。
「止してください。お茶の誘いだそうですよ。何か高級な菓子でも出てくるんでしょう。お金持ちは道楽がお好きですからね。この服ででも行きますよ」
「あらま卑屈ね。貴方のそういう処、私あんまり良くないと思うけれど。まあ行ってらっしゃいな。折角だから楽しんできてね」
海堂は言いつつ、持っていた茶をすすり、それをこと、と置くと、さてと、と、昼に入る前から取り組んでいる某大手商船会社の海難事故の記事に取り組み始めた。仲の良い先輩との雑談にキリがついたらしいのを感じつつ、犬飼はデスクの引き出しに書状を放りこもうとして、ふと止め、それを懐にしまい込み、「ちょっと出てきます。夕方前には帰ります」と言い置き、んあー、という海堂の生返事を聞いて、カバンを取った。
駅。
新しく建設された某市の駅舎は、あいかわらず人でごった返している。元元は、ひと昔前まで富民の道楽と言わしめていた鉄道だが、国が特需により懐を温めた企業に便宜をはからせ、半官半民の鉄道公社を設立して業務を委託(押し付けと呼ばわる者もいたが、先の戦禍において鉄鋼業の位置づけが割高となった現在は、莫大な利益をもたらすものに様変わりしている)することで、運賃が大幅に値下げて見直され、またかねてからの好景気も手伝ってか、今や鉄道業は立派な大事業のひとつとなっている。古くからの移動の手といえばつまり馬であったが、昨今では犬飼のような一記者の身分でも会社から経費として運賃が出るほどには、遠出の足として、汽車が一般化していた。からからと駅から出てくる馬車を横目に見つつ、切符売場に並んでいると、ふと向こうに見目の立つ西洋風のひらひらとした服(ふわふわ、という表現が適切そうな様子にも見えたが)を着て、少しウェエブのかかった、見事な金髪を揺らした娘が、閉じた日傘を片手に、先で地面をつき、何か案内の文字でも書いてあるのだろうメモ紙を持って、場ちがい気にあっちを見たりこっちを見たりしている。通行人らの邪魔にならぬよう壁際に退けてはいるが、その姿は、目を引かれる者の目は引いていくほどに目立っているようだった。
犬飼はちょっと考えて袖手にして頭を掻いたが、結局、腕を下ろすと、どうぞ、と、後ろに並んでいた妙齢の婦人に言い、ありがとう、と、丁寧に言われるのに、ハンチング帽を上げて挨拶を返し、そのまま壁際の娘の方へ行った。
「Excuse me?」
と、丁寧な語調で話しかけると、あら、と、(日本語だった)娘は、と、その娘を見て、椛は――犬飼の顔をよそおってはいたが――薄薄そうではないかとも思っていたが、改めて見ると、驚きを隠せなかった。
(スキマ妖怪、じゃ、ない? いや、ちがう。これは間違いなく……しかし、……?)
「あ。失礼いたしました。何かお困りのようでしたので」
「あら……。申し訳ありません」
娘は、犬飼が――椛が、だが――少し驚いた風にしたのを気にしてか、少しぷっくりとふくれた感のある唇を動かして、流暢な日本語で答えてきた。向かいあってみると、顔の輪郭をやや覆うほどの豊かな金糸の髪に、ほどよく感情を表す茶色の瞳が、何とも言われない趣で、こちらを見返し、にこりと微笑んでくる。
「どうもお気遣いなく、と言いたいのですけれど、どうにも人の多い場所の手順は不慣れでして。あ、」
「切符、ですか?」
犬飼は失礼、と言いつつ、娘が覗きこんでいた紙を取り、覗きこんだ。
「ええ。横浜の知人に会いに行くのです。先刻手紙で招待を受けたのはいいのですけど、私ったら見栄を張って、案内の方を頼まずともよいようなことを言ってしまって……」
「これなら僕と行先は同じようですよ。急ぎなのですか? でしたら今すぐ並んだほうがいい」
ガタン、ガタン。
車内。向かい合わせの形の座席。
件の娘の案内を終えると、(切符をどう買ったらいいものか迷っていたらしく、その後は一人で行けますから、と丁寧に言われたため、犬飼もそれ以上の手出しは控えておいた。淡白とも取られかねないが、正直犬飼もああいう身の上いやしからぬと言った人間はどうもそりが合わず、困っているのでなければ話しかけもしなかっただろう)駅弁(これは自費なので、いつものクセで、安い握り飯をつつんだ簡素なものを選んで食べた)を食べ終えて、何の気なしに外の景色を見ながら、煙管をやりたいのを我慢し、茶をすすっていると、「あら」と、先程聞いて、まだ耳に残っている声が、耳に届いた。果たして見上げると、そこに立っているのは先程の娘である。
「あぁ。すみません、いきなり」
「いいえ。無事に乗れたようで良かった」
「えぇ。ありがとうございました。あの、――よろしかったら、こちら、いいですか?」
「ええ。どうぞ」
犬飼はちょっといぶかしむような顔をしたが、娘はそれを見透かしたように、済まなそうな笑顔を作った。
「人の多いところは慣れなくて。あちらに席は空いていたのですが、さすがにお話し相手になって下さる方が、なかなかいないもので」
「まぁ、汽車の旅というのはどうにも退屈ですからね。外の景色を眺めることくらいしかやることがない」
「同感ですわ」
「汽車の旅というのは初めてで?」
「いいえ。でもそれほど多くもありません。向こう、あ、そういえばまだ自己紹介もしていませんでしたね。失礼しました」
「いいえ」
「私、マエリベリヰ・ハァンと申します。こちらには留学で来ていまして、生まれはエゲヰレスの方ですの」
「へぇ。留学ですか。そいつはまた勇ましい」
「あら、そんな大層なことではございません。どちらかというと、私の我がままで来ているようなものですもの。特別、能力だのなんだのがお目にとまって、ということではございませんわ。私の家柄があって成っていることもありますし、むしろ感謝するべきことだと思っていますわ」
「一体いつ頃からです? 此方へはお一人で?」
「えぇ。もう二年になります。さすがに慣れない地に娘一人ほっぽりだすというのは外聞も、また常誠にもよろしくないと考えられたのだと思いますけれど、今も付きの者が一人。向こうにいたときからなじんでいる婆やで、なにかとよくしてもらっていますわ。……ちょっと口うるさいのがたまにキズですけれど」
ハァンは言いつつ、ちょっと悪戯っぽい顔をした――犬飼の顔で応じた椛は、実はかのスキマ妖怪をよく見ているわけではなかったが、確かに今のちょっと含んだもののある顔は、まさしくあの妖怪を思わせるものがあるな、と思っていた――まま、目を細めた。一聞きするには一見口さがない物言いのようだが、不思議とそれ特有の嫌味な感じを微塵も感じさせないな、と密かに犬飼は思った。その内、自分の事ばかり話していますわね、と、ハァンが言い、
「犬飼さんは、何をされに横浜へ?」
「あぁ。向こうにちょっと恩のある人がいるのです。いえ、それが目的というわけでもないのですが」
「そういえば――あ。失礼。すみません。実は、私、先ほどはじめてお目にかかったとき、犬飼さんのことを、最初男の人だと思ったものですから……。お恥ずかしいですわ」
「いえ。このような格好をしているのが紛らわしいのです。全く構いませんよ」
「いいえ、――実は、それもそうなのですけれど、その、所作のほうが、どうにも男気らしいというか。そんな次第で。お気にさわったらごめんなさいませ」
「いえ、一向構いません。社の先輩達にもよく言われますので」
「社、というと……」
「あぁ。申し遅れまして。僕、新聞記者です。東京の某新聞社という処で、社会部の記者をやっています。横浜へ行く本命も、実は取材です」
「まあ。そうでしたの」
「見苦しい格好ですが、これはこれで、色々と便利なのです。言葉遣いもこのようにむさ苦しく思われるでしょうが、実は僕、私自身、このような格好をしていると、どうにも、その、充てられるというか。わざとやっているわけではありませんから、どうかご勘弁下さい」
「いえ。よく似合っていますわ。ああ……失礼でしたわね。こんなこと言うの」
犬飼もさすがに苦笑い気味にしながら、何も言わなかった。
横浜駅。
と思しき所か、と、心中で椛はそのように否定し、ハンチング帽の庇をちょっと直す仕草をした。犬飼自身は退屈な旅の最中、良い有意義だった、と好ましく思って(取材の目的について聞かれ、横浜の娼館の取材だ、と答えた時は、さすがに気まずくなったが、向こうの御仁もなかなか配慮をわきまえている人のようで助かった)いるようだったが、椛当人は少なからない疑念と困惑に曝され、心中で顎をさすり、ふとまた煙管をやりたい衝動になるのを隠した。
さて、と、とはいえしかし、あのスキマ妖怪のことは後に思考をするとして、今は犬飼としての用事があるから、そちらに早いとこ赴かねばならない。
駅舎からほんの少し入った横道。
昼も少し下がったばかりというのにこんな格好で此処をうろついているのは感心できたことではないが、上京して1,2年、この通りに下宿を借りていた犬飼には、そこらの格子の隙間からこちらを向いている好奇と商売っ気に満ちた視線から、人通りの少ない道や、さり気にすれ違う、ハンチング帽を目深にかぶった人種のはらむ危うい空気など、それらは全く馴染みを覚えないものでも無かった。もっとも懐かしい、と思う類でも無いが、そういういささかの経験は全て自分にとって無駄となるものではない、というのが(年を経ればまた変わるのか?)犬飼の正直な意見であった。
とにかく椛――犬飼の記憶を辿る椛という自分は――は、記憶にある通りの佇まいの店、それと同じものはどこにでもあるという空気をはらんだ味気の無い外装の店の一つを見つけ、その入口に回り、帽子を脱いで、「御免下さい」と、店の中に声をかけた。
「……何だい? こんな時間に来ても、誰も」
「霖助さん。お久しぶりです」
「おや。松はか」
やや薄暗い店の中、受付の台についていた霖助が、この薄暗い中、よくも読めるものだという本を置いて、近寄ってくる犬飼を見やった。「こちらに戻ってきたのかい?」と、相も変わらず、ものに動じないような端正な眼差しのまま、特に親しみの無い、かつあまり口さがの無い昔通りの口調で言って来るのにちょっと苦笑いしつつ、(もちろん犬飼の顔をした椛は、この霖助とやらがよく文が訪れている香霖堂とかいう道具屋の店主だと知っていたが、あまり知己でもないのと、話す縁も無い相手であるのとが相まって、どうでもよいものと思っていた)「いいえ。取材ですよ。いえ、こちらの店ではないのですが」と、帽子をかぶり直しつつ言った。
「そうか、君は記者になったのだったな。調子の方は如何なんだい?」
「ぼちぼちとやっています。三面の担当をちらほら任される程度ですが……」
「まぁがんばることだね。なんだ、それじゃあ取材のついでにわざわざ寄ったのかい。相変わらず律儀だな、君は」
「何半分は趣味も入っています。此方に来ると如何にも霖助さんの顔が気になってしまうものですから」
「何度見に来たって変わりゃしないよ。急ぎでなかったら茶でも淹れようか。丁度菓子も余っているんだ」
「へぇ。珍しい。姐さん達に食べられていないんだ」
「あの子たちなら、今おかみさんから禁令を出されているんだ。余り暇だからと食べ過ぎるとね。肉が付きすぎているのも宜しくないらしいね、仕事柄」
「あはは。成程」
しばし。
夕方頃とは言ったが、霖助の処を辞して取材を十分終える頃には、帰りを少し過ごしそうな時間にはなっていた。まあ急ぎの仕事はいくらでもあるので、申告した時間に遅れれば、編集長と仕事上での信用を大きく損なう恐れはあった。
(世知辛いものだ、人間は)
などと、ちらりと椛の思考を挟みながら犬飼は東京駅のホームに、と思しき処に、だ、と心の中で言い直し、ふと、そこですぐ向こうのベンチに目を止めた。目を止めたのにはそれなりの理由が在り、一つはその人物が、見覚えのある人物で、何やら挙動に困った風なところが見受けられたからだった。ホームに下がった西洋式の丸時計の文字盤を見、まぁ一寸ぐらいなら良かろうと判断し、後ろで汽車が音を立てて動きはじめるのを見送りつつ、「どうかしましたか?」と、犬飼は、はっとして、ベンチからこちらを振り仰いだハァンに、ハンチング帽を脱いでちょっと礼をしてみせた。「あら……」と、おっとりとしたような、今朝方見た困ったような笑みで、ハァンはこちらを見て、ちょっと頭を下げた。
「どうも。偶然ですわ」
「ええ。すみません。失礼かとは思ったのですが、何か困ったように見受けられましたので」
「いいえ……。そうですわね……。大したこと、と言えばそうでもないのですけれど……」
「……。靴、ですか?」
「えぇ……。嫌ですわ、私ったら間が抜けていて。下りる時に、人ごみに交じっていたんですけど、踏まれてしまって」
「それはひどいですね。相手は? 謝りも無かったんですか?」
犬飼がちょっと眉をひそめて言うが、ハァンは「いいんですのよ。お急ぎだったのでしょう」などとのたまって、何処か頼りない。犬飼は呆れた風な目になりそうになるのを堪えて、一寸失礼を、と言って、ハァンの足もとにしゃがみこみ、後ろの底が少し高くなっているハイカラ物のブゥツの具合を見た。成程、ちょっと底の部分の高くなっている端っこが、後ろから人の足で踏まれたように凹んでおり、これでは立ち上がった時に足首をやってしまいかねない。
(異人の娘だ、と見てからかわれたか)
偶然と見れば見えるが、犬飼はそんな様に思った。
(是では歩きにくくて仕方なかろうな。足でも捻りかねない)
「仕様が無いですね、これは。仕方が有りません、僕が手を貸しましょう。……失礼しても?」
「ええ。ですけど、悪いですわ」
「構いませんよ。さ。……おっ、と」
立ち上がりかけた時に、案の定、うっかり安定を崩したハァンを、犬飼は抱き止めて、「大丈夫ですか」と、声を掛けて、「えぇ……」とすまなそうに言うハァンの肩に手を回して、それからもう一方の手を取り、ゆっくりと歩き出した。
駅から離れて、道。
夕暮れ。
からからと廻る車輪の音を聞きつつ、「落ちませんか?」と、後ろに声だけ掛けて、「えぇ」と、荷台に座り乗りをしたハァンが言うのを聞きつつ、しばしして、犬飼は、「この辺でよろしいですわ」というハァンの声を聞き、カラカラ、と、自転車を止めた。駅までは勿論自転車で移動していたが、それが幸いして、ハァンを後ろに乗せてくる事が出来た。空にちょっと目を移せば視界の端がほんのり暮色を越していて、日の光が向かって来る方はその残り日が既に目に優しくなり始めていた。慕情か。犬飼の顔をした椛はふと思い、人間ならば或いは、と犬飼というこの人間の顔に戻りつつ、
(全く何時になったらこの茶番みたいな世界は終わるのかしら)
と、厄体無い事を思いつつ、自転車から降りて、ハァンを見た。ハァンは笑っていた。
「本当にお世話を掛けてしまって……」
「いいえ。困った時はお互い様……じゃあないですが、お気になさらず。逆に私の方がハァンさんに色色気を遣わせてしまった様で」
犬飼が申し訳無いと頭を下げるのに、「そんな」と、少し慌てたように(委縮させてしまったか、と、人知らず犬飼が思うのが、椛には分かった)手を胸元に当て、「頭なんて下げないで下さいな」と、ハァンが言って来るのを聞く。
「私本当に感動しましたの。いくら困ってる人がいたからって普通はなかなかできませんわ、……なんて、女性に言われてもあまりうれしくないかしら、こんなこと」
「いいえ。大げさな事じゃありませんよ、本当に。それじゃあ靴のこと、あとは靴屋の方に任せてしまいましたけど、代金は宜しくお願いしますね、ハァンさん」
「えぇ。あ。どうぞ、メリヰと呼んでください。何だか名字で呼ばれると、少しばかりかた苦しくなりますわ。こちらの礼儀ではないかもしれませんけれど。私、人には、マエリベリヰというよりも、そう呼ばれることが多いのです。呼びにくい、というか、少少長いでしょう。マエリベリヰ、なんて」
「そうですか? 其れでしたら、僕の事も松はとどうぞ。あぁ。苗字だけしか名乗っていませんでしたね、そういえば。道理で呼べない筈だ」
「いいえ。分かりました。松はさん」
ハァン、メリヰは、くすくすと可笑しげに笑った。何か遠慮ばかりしているのがくすぐったくなったのだろう。その事が犬飼にも分かって、柄にも無くはは、と、眉尻を下げて笑った。
「――すみません」
「あら。如何して謝るんです?」
「いいえ、つい。いいえ。やっぱり失礼ですわ。こんなの」
「どうして?」
犬飼が聞くと、手の平の方を口元に当てたメリヰが、少し眉尻を下げた。
「私ったら、だって、ああ、今、あなたのそういうお顔を見て、やっとこの方も女性なのね、なんて思ったんですもの」
「あらら。それは失礼だ」
犬飼はそう言って、またひとしきりメリヰと笑い合うと、「あ。それじゃ、そろそろ」と、頃合いを見て言った。いや、本当は楽しくて時間を忘れそうだっただけだが、それもジャアナリスト失格だなあと思ったので、見て見ぬ振りをして置いた。何時になく心が晴れ晴れとしている。
「えぇ。またお会いできるのを楽しみにしていますわ。そのときはまた自転車乗せて下さいね。これでも身体の軽さには自信がありますのよ」
「はい。喜んで。其れでは。ユーアーウェルカム、レディヰ」
ちりん、と自転車のベルを鳴らして、犬飼は走り出した。
(何なんだろうな、これは)
と、心の底で椛としてのうんざりした心地を味わいつつだが。
翌々日。
昼を下がってしばし、デスクで原稿に(その時自分が何を考えていたか犬飼、いや、椛はよく覚えていない。ただその時の自分はどちらかと云えば椛寄りで、苦手な机仕事に辟易していた)取り組み、ペンの尻で頭を掻いていた犬飼を、「犬飼」と、何事か電話で話していた高花が呼んだ。――口調と会話の短さから察するに内線だろうとは思っていたが――少少意表を突かれながらも「はい」と犬飼は返事をしてすぐ机を立って高花の処へ行った。高花は「客や」と、部屋の扉口の方を指して、言って見せた。高花のデスクからはほとんど右手すぐに見える扉口(と言っても常時構わず出入りする社員達の為に扉は開け放しで外は丸見えだ。空調が碌に効かないからこの方が良かったが)に、見事な白髪をした和装袴姿の男が一人立ち、音も無くこちらに頭を下げて来ていた。
応接室。
白髪の男、と云うよりか、壮年過ぎの老人である。袷の下に長シャツを着込み、日除けのハット――洋風の洒落た物だった――を机の上に置いた姿は折り目正しく、腰一つ曲がった処の無い何処と無く剣士か年経た将兵を思わせる(はいからな格好は然しよく似合っていた)面構えで、「どうぞ」と茶を置いた犬飼に「是は失礼を」と述べる礼は丁重にして品があった。
(名家の使用人、て処かな)
盆を片付け、自分の分の湯呑みの前に座った犬飼に、老人は、静かな口調で「突然の訪問、誠に失礼を致します」と前置きして、
「先日御送りいたしました書状の件について、日にちが整いましたので、お知らせに参りました。ついては、今下、○月×日、午後二時にて、御迎えに上がらせて頂きます。宜しければ、ご都合を御伺いしてもよろしいでしょうか」
「……。……え?」
犬飼は口にしてからしまったな、と思った。仮にも下手に出ているとは言え年長者に対して失礼な口の利き方だ。が、老人は、「はて」と、年嵩じみた、男前の名残りのこす口元と白いものの多く混じった口髭を動かし、「おお、いかんいかん」と、急に言い、懐から一枚の名刺を差し出してきた。
「失礼! いえ。話を飛ばし過ぎました。思えば何処ぞの誰とも存じ合わせて居りませんでしたな。いやはや。申し訳無い」
老人は言い、「私、この様な者で御座います」と、渡した名刺の向こうから言ってきた。やや黄地ばんだ色の合成紙にタイプされた文字が浮かんでいる。社名鳥家執事、千田憲兵。
(社名鳥。ああ……)
あほたれガラス、と思い浮かべかけ、椛は何とか犬飼の意識について行った。犬飼は其れを見て、「あぁ」と、漸く思い当たった様だった。
「失礼致しました。はい。確かに先日に書状を頂いて居りました」
「いいえ。申し遅らるる事御座いませぬ。あれ等は文子様の悪い難癖が出た物で御座いましたから。幾ら先方が記者様とは云え、全て英文でしたためた上、一方的に形式に則ってお出しする様、私めに一一念押ししてお送りするなど、悪癖で御座いましょう。とは言えここで云うても始まりませぬ故、どうぞご無礼をば御容赦頂きとう」
老人、千田が頭を下げるのに恐縮して「いえ」などと言いつつ、犬飼は取りあえず千田の持ってきた用件を再度改めた形で聞き、「失礼します」と言って、懐から手帳を取って「えぇと……」と、確かめ、文子が招待を希望しているらしい日にちで都合の良い事を、口頭で伝えた(後で知った事だがこの様なやり取りは、あの様な書状の形式に則るなら、都合の良い日取りまで全て書状でのやり取りで済ませるのが形式だそうだ)。
三日後。
社名鳥家の迎えは、如何にも昨今風と云ったこしらえの、御者つきの馬車で有った。高花には言われていたものの、流石に自分の住む古通りに場所を指定するほど大胆には為られず、(結果的にはその方が良かったようだ。周囲からの視界を遮らんとする箱型向かい合わせの馬車は貧乏書生や地方出の平記者が住まう木造りアパァトに停まられたら何事や有らんと好奇の目を集らせついでに大家にも睨まれる事疑い無い)指定した社にやって来た迎えの者に恐縮しつつ、犬飼は慣れない高級な革地、布地を使った馬車のソファーに腰掛け乗り込んだ。馬車に乗り込んだ時すぐに気が付いたが、向かい合わせになる形で乗っていた千田が、「どうも御機嫌よう御座います」と、好好爺とした様子で頭を下げた。犬飼も、実を言えば椛自身も、何ぞかこの両手に杖を着き、良く見れば長めで有るらしい髪を後ろで縛った佇まいに、何処か敬意を覚え、敬った。
(なうての剣士。其れも我らに匹敵する程極めた者か。恐らくは幻想の住人の一人だろうが)
社名鳥邸。
ここで本来の主家に仕える者の役目に戻ったらしい千田に手を取られ(無論千田のエスコォトのおかげで無理無く受け入れられたのだが)、令嬢のごとく馬車を降りた犬飼は、流石の名家らしき大仰な社名鳥家の敷地を目にし、自然と心呑まれるものを覚えたが、何故か不思議と、逸る心を押さえ抱えた帽子を押さえて、整えられた庭園と、昨今特需により得た者らの建てた様な西洋洋館風の成金としたものとは又一線を画す風観を持つ洋館を見、「はぁ~」と、感嘆の声を漏らす程の余裕は有った。
「おや、片田舎の出の御方と云うから昨今風の見聞は無いのかなどと、失礼な事を存じ上げて居りましたが、ひとかどの目はやはり持って居られるようで」
「あ。いえ。済みません。いえ、滅相も有りません。只仕事柄、社名鳥家の邸宅は実の処拝見するのは初めてでは無いのですが、実際に見るのと聞くのとでは、やはり違うなと」
「はは。何しろ古い家ですからな。私もこちらで働く様になったのは最近ですが、余り数多の主人さまに仕えてきたと言えるでは無い身では有りますが、最初は確かに戸惑ったものです。他家の職人を呼び立てての建とは違い、元から此処に有った明治の豪商の家屋を其のまま改築、修繕を加えた物と伺っております」
広い庭を歩き、重厚な扉をくぐって、邸内。
「暫しの間、お待ち下さいませ」
と言い残して去った千田と入れ替わりで、こちらは巨大で豪奢なシャンデリヤ、また今の様に人を待たせる為なのだろう、又馬車の仕立てとは趣きの違う、来客用に設置されたソファアと丸卓(色柄物を使用した、全体に装飾芸術を感じさせる)に着いた犬飼の前に、年嵩の和装服姿の老婆がしずしずと歩み出て、「どうぞ」と、犬飼の前に、よく冷えた麦茶、と思しきものを置いた。礼を言うと老婆は微笑んで下がり、エントランスから少し入った広間には、犬飼一人がぽつんと残された。
(う~ん)
などと思考に成らない思考を浮かべつつ、「其れにしても立派な屋敷だ」と、然し妙に冷静さの有る犬飼の心地をやや訝りつつ、無関心に麦茶――いや、すすってみると、どうやら冷やしたティヰのようだった。この季節、正直薄目の生地のに変えているとは云え、犬飼の男物した格好は薄らと汗を掻くが――の様な物を「どぉん!!」
「おぶっ!?」
背後から突然、其れもでかい声で叫ばれ、口に含んでいた茶を吐き出しそうになりつつ、犬飼は口元を押さえ、声のした横を見た。すると、何やら(見目麗しい、と云うのが第一印象だったが、先の奇行が有り、犬飼にも椛にも其れは真っ先に年相応の、いや下手をすれば見た目よりも幼くすら見せた)其の当の犬飼の傍で行き成り奇声を上げる奇行に出たのは、年で言えば十二、三くらいの娘であった。こちらはこの屋敷に似つかわしい、如何にも西洋風のひらひらふりふりした服を着て、まるで繊細な人形の様だが、良く見ると良く日に焼けているのが見て取れた――とはいえ、当人は所謂西洋の血が混じって居る様で、顔立ちも日本人じみたものを残しながら整って(美形だ。其れも相当な)いる独特な物で、何より髪が見事な金色で、少しくせの有るのを頭の片側でまとめて居る、いわゆるサイドテヰルにしていた。目も澄み切った秋空のような深い青だ――。
(異人の混血? 此処の子かしら――)
「あなた誰?」
如何にも高級なソファアに寄り掛かり、かたぶき加減の顔から、青い目を一心に注いで、聞いてくる。犬飼は何となく苦手を感じたが、取り繕って「今日は。お邪魔して居ます」と、挨拶した。
「貴方は――えぇと。此処の家の子? かしら?」
「いいえ? 私はここの家の子じゃないわよ。あなたはお客様?」
「えぇ。そうよ。貴方は? 御名前は?」
「あら。レディヰにものを尋ねるならまずそちらからってお姉様がいつも言っているわ。あなたはどなた?」
「えぇ。是は失礼を。私は記者の犬飼と云う者ですよ。宜しく、御嬢さん」
「ふぅん、ミスタ、イヌカイ。日本の方は変な名前の方が多いのね。ちなみに私はお嬢さんではないわ。私の名前は――おっと。それじゃ失礼、ミスタ・イヌカイ!」
「シャルロット様? どちらですか」
言うや、すささ、と(何か変な仕草がこなれて居る様な、そんな動きだったが)、あっと言う間の機敏さで居なくなった娘と替わる様に、こちらは一風風変りな、犬飼の知識によると、向こうから輸入されたメイド服と云う文化服を、和装風に仕上げた、所謂昨今風の其れを着た黒髪の娘――とは言え、年は犬飼と同じかその近辺だろう。肩、襟に着かない長さに整えられた髪型に、慎ましそうながら、何処か其れは地の垢抜けた様子を押し隠しているように感じられる顔の両側に洒落た感じに編み込まれたおさげ髪と、其れを結わえる赤地のリボンを下げている――がエントランスに入ってきて、ちらりと犬飼を見て、一寸自分の大声を恥じ入る様な顔をした。其れから此方に近寄って来て、改まった様な顔で尋ねて来る。
「あの、急に申し訳有りません。今、此方に十二、三と云った年の、見目が可愛らしい、西洋風の女の子が来ませんでしたか? 金色の髪をこう頭の横で括る様にして居る特徴的な子なのですが」
「はぁ」
と、犬飼は言いつつ、寄りにも寄って犬飼のソファアの丁度背の裏に当たる処で「しー」とやっているらしいさっきの娘の気配を感じながら、「いいえ、済みませんが、ちょっと辺りから目を離していたものですから」、分かりかねます、と返すと、「そう」と、メイドの娘は言って、「失礼しました」と、何処に行ってしまったのかしら、と言いつつ、エントランスを抜けて二階へと上がって行った。その様子を見ていると、やがて「ばぁ」と後ろから出て来た腕に、がっしりと身体を捕えられ、犬飼はおっとと、と、慌てて紅茶を置いた。
「ありがとう! 良い人ね、あなた」
言いながら、娘――シャルロット、と云うのだろう、まぁ――は、「んっ」と、一寸くすぐったげにした犬飼に構わず、ちゅー、と目の下辺りに唇を押しつけて来た。
「今の人は? 貴方のお家の人?」
「えぇ。そうよ。ミス・イザヤ。家に来たのはつい二年かそこらだけど、仕事ができるから、私とカレンお姉様の世話を任せられているの。でもしょっちゅう私がどこかに行くから苦労しているの」
「あぁ。苦労させてるのは分かってるのね……」
うん、とあっけらかんと言いつつ、ふとこちらに抱きついていたシャルロットは犬飼の身体の匂いを嗅ぐ仕草をし、一寸きょとんとした顔をした。
「ねぇミスタ・イヌカイ。そういえばさっきからなんで女の人みたいな喋り方しているの? それに安物だけど香水もちょっとふっているでしょう。なにか女の人みたいだわ」
「それは私が女の人だからよ、シャルロット。まぁ、こんな格好をして居るけど」
「あら、まぁ。そうだったの? 私ったら失礼したわ。ごめんなさいね、ミス・イヌカイ。ありがとう。それじゃさようなら」
言うと、シャルロットはちゅー、とまた犬飼の、今度は目の上辺りに唇を押しつけて、其れからたたた、とエントランスを走り、柱の陰に行ったかと思うと、其処からちょっと身体を傾けて、グッバイ、と、手をひらひらさせて見せた。犬飼も、一寸苦笑いしながら、金色の尻尾頭に向かってばいばいと手をひらひら振った。其の丁度すぐ後に、千田が下りてきて、やや取り繕い気味になる犬飼を、「どうぞ。御嬢様がお会いに為られます」と、頭を下げて呼ばわった。
屋敷の二階。
廊下を歩くほんの一間の間だが、犬飼、いや、犬飼の顔を繕った椛は、其の表情の裏で、さっき会った娘と、メイドの事を、あれは霧の湖の吸血鬼の妹と、そのメイドではないか、と、思い切り類推していた。
(あれも目が覚めていない類か)
あの二人が何故此処にいたのかは深く考えず、椛は然しその事も今はあまり深く考えなかった。元元幾ら幻想郷の主立った住人たちの中の顔ぶれとは云え、椛自身は面識すら無い、其れこそ文の発行するとか云う何ちゃらと言う学級新聞紛いのあれで、知識として知っているのみだ。無論、魔法使いの小娘に引き合わせれば何事か有益だろうが、今は何事も思いつかない。
(これも様子見か。やれやれ)
思いながら、千田がこつこつと扉をノックし、「御連れしました」と述べるのを聞きつつ、椛はまた自分たる自分が犬飼に立ち戻るのを自覚しつつ、丁寧に先を越して開かれたドアーをくぐった。意外にも室内には先客が居り、それが文子と向かい合わせのソファアに座って仲良さ気に歓談していた処に入って来た犬飼をちょっと見て、「あら?」と、小さく小首を傾げる動作をした。先程見たはしこい娘よりか一つ二つ年上と思しき娘は(比べたのは、どうやら先程の娘と、同じ様な西洋風のふりふりとしたひらひらの、これもやはり人形其のままの様な可愛らしさを以て、やや長めのくせのある髪――こちらは絹の様な細さを持った茶色で飾りの大きなリボンを揺らしている――をもち、何処かしら似通った風の有る、先程の娘同様の美形然とした顔立ちから、何となく察せられるものが有ったからだ)その異国の情緒溢れる茶色の目を一寸煌めかせ、好奇の浮いた目で犬飼を見つつも、其の内気づいた様になり、文子の方に向き直って、かちゃりと紅茶のカップを取って口づけた。
「ああ。御待ちして居ました、犬飼さん。どうぞお座りになって?」
はぁ、と――内心椛の顔では不信を顕わにしながら――冴えない返事をしつつも、御邪魔致します、と一つ礼をして、犬飼は文子と向かい合わせの、先客の娘が座っている隣に失礼を致します、と言い、伺いを立て、「えぇ、どうぞ」と、微笑んだ娘に一つ礼をし、脱いでいた帽子をソファアの背に置いて、上質な質感をもった生地の上に腰を下ろして座った。隣の娘との歓談に水を差す形になったのを思考の端に留め置きつつ、
「本日は御招きに預かり、誠に有難う御座います」
と、精一杯の社交的な挨拶を発した。
「そんなにお固くならなくっても結構ですよ。日ごろ弁士の先生方との歓談やなんかで、肩の凝る会話の仕手は散々して居りますので。今日お呼び申し上げ、来て頂いたのは、お礼の意味合いです。どうぞ寛いで行って下さいまし」
「はぁ、その様ですか」
と、少し背筋を緩めながら文子に受け答えしていると、横の娘が、わざと臭い咳払いをした。其れを見て、一寸文子が微笑む。
「ええ、御紹介が遅れましたわ。花蓮さん。こちらは記者の犬飼松はさん。そして、犬飼さん。こちらは私の友人の花蓮・エドワァズです」
「どうも、はじめまして。犬飼さんと言うのね。ご紹介に預かりました花蓮・エドワァズです」
「ええ。宜しく。犬飼と申します」
「ふーん。イヌカイ。なかなかいい名前ね。記者さんてことは頭のいい方なのね。たたずまいも何だか品があって素敵。ねぇねぇ!」
うおっと、と、ちょっとびっくりしたように目を開く犬飼に構わず、花蓮は鳶色の瞳をきらきらさせて、犬飼の腕に抱きついて来る。
「犬飼さん、年はおいくつ? うーん、見た感じ二十歳かそこらかしら? 若くていらっしゃるのね。それになんというか、こう、――とってもお綺麗だわ。まるで女の人みたいに柔らかいけどどこか引きしまっていて――とってもステキ! 失礼かもしれないけれど、そこらの女の人より綺麗で――ううん。とってもハンサム。そうね!」
「あの――」
「ね、さっき聞いたと思うけど私の花蓮って名前、英語のカレン、て名前とはちょっとちがうのよ。花に蓮って書いてね。この名前は日本生まれのお父様がつけてくださったの。私、ほら。見るとわかると思うけど、エゲヰレスの方の血が入っていてね。この髪の色、瞳の色ととってもよく似合ってるって言われるの。ほら、光に当てるとちょっと不思議な色に輝いて見えるでしょう? 妹のシャルロットみたいな金髪と海の向こうの方みたいな青い色も本当はうらやましいんだけど、あなたはあなたでとっても綺麗よ、ってお母様がとっても褒めて下さるのよ。だから私、自分のこの髪と目がとっても好き。ほめられるのも大好きよ」
「は、はぁ」
「ねぇ、この人、文子さんの恋人? とっても素敵だわ。私こんな綺麗な男の人って見たことない。あ。桃の香水をつけていらっしゃるのね。お洒落で素敵!」
言いながら、無邪気に腕に擦り寄って来る娘、花蓮に困っていると、
「花蓮」
と、文子が一寸人の悪そうな笑みを浮かべて――其れはあのあほたれガラスが時々漏らす顔にとても良く重なって、犬飼の顔で困りながらもぶん殴りたいな、と、椛はちらりと思い浮かべたが――「そこいら辺にしておあげなさいな。犬飼さんは御困りですよ」と、やんわりと諭す風に言って、茶を口に含んだ。
「あら、何? やっぱり文子さんの彼なの、この人?」
「いいえ。でも花蓮。其の調子だと、貴方そっちの趣味も結構いけそうね」
「え? 何が?」
「其の人は女の方ですよ」
文子が笑いながら言うと、「え?」と、花蓮は一寸犬飼から身体は離さずに――からかわれていると思ったのだろう――そのまま不意に胸の辺りに頬を埋め、「あっ」と、暫くして騒がしい声を上げた。
「やだ。本当! 立派なお胸があるじゃない。もう! 文子さんたら分かっててからかったわね!」
「あはは。済みません。でも花蓮、貴方も少しがっつき過ぎですことよ? 其れでは日本の殿方は内気になってしまいます。あちらとは違い、此方の男の方と言うのはとても照れ屋でシャヰなのですよ。皆が皆そうという訳では有りませんが、人前で今の様な事をやられては、女性であっても大層戸惑ってしまいます」
「へー。そうなんだ。こっちの人たちはみんな奥手な人が多いのねー。あ、ちなみに文子さんは」
「失礼します」と、成り行きについていけないで居る犬飼が茶をすすって居ると、ノックの音の後に、先程聞いた覚えの有る声がして、また、「ん?」と、其の声を聞くと、一人はしゃいで居た(其の様子を見て犬飼は――其の中の椛の部分は是がよく幻想郷で話題を起こす紅い館の吸血鬼だと類推して居たが――此の娘は、幼い外見の割に、又随分と表情の裏表を持っていて、その切り替えが忙しないようだ、と思い、又其処に何となく此の娘のはしこさの様なものを感じ取った)花蓮が、
「あら。イザヤ。どうしたの?」
と、声をかけ、「はあ」と言う娘――イザヤ、と言うらしいが――イザヤの返答を聞いて取った。
「実は――シャルロット様が、また……」
「ああ。あの子またどっか行ったのね。屋敷で留守番させときゃよかったかな。それはそれでばあやに睨まれそうだけど」
「申し訳有りません」
「いいわよ謝らなくても。あの子が姿くらます時っていったら、カスミかカゲかっていうものじゃない。むだに頭が回るんだから、まったく。とりあえずかた苦しいから頭を上げなさいな、イザヤ」
「はい」
「どうせあの子がどこにいこうがこの家の中じゃ文子さんところの素敵なおじさまの目から逃れられないんだから放っときゃいいのよ」
「おじ様って歳でも無いですけどね、千田さんは」
「あら、おじさまよ。渋みがあってかっこよくってとっても素敵な方だわ。ジエントルメェンっていうのね。あこがれるわ」
その様に話していると、こつこつ、と硬いノックの音がして、千田の声がした。
「どうぞ」
と、文子が苦笑いを残したまま、ティヰカップを持ち上げて、其のまま口元を隠すようにして居ると、「失礼を致します」と、千田が入室してきた。
「御歓談の処、大変申し訳有りません。エドワァズ様の処から、迎えの方が到着致しましたので、御教えに上がりました」
「ありがとう。すぐに行くから、少しばかり待つように伝えておいて」
「畏まりました」と言い、千田は廊下に下がると、「姉様は?」と、手をつないで言って来るさっきの娘――シャルロット(何時の間に居たのか)に、「もうすぐ来られるとの事です」と、たしなめる様に言い、ドアーを閉めて、かっかっと足音を立てて出て行った。
「さて。そういうわけだから、また次の機会にでもごきげんよう、文子さん。今度はいつごろお邪魔しようかしら」
「そうですね。今は大した用事も有りませんし、暫くはいつでも構いませんよ、気軽に来てくださいな」
「それではごきげんよう。今度はそちらの素敵なお姉さんもね」
にっこりと微笑んで会釈する花蓮に何と言ったものかと固まっている内に、くすくすと笑って、花蓮は部屋を出て行った。
「元気でしょう? 何と言うか、御待たせして済みませんね、色々」
「はぁ、いいえ。そんな」
犬飼が恐縮すると、
「それで、椛」
「はい、何でしょうか文様」
文子が――いや。まて、と、犬飼は自分で答えてから、ふと、ぴたりと止まって、紅茶のカップを手にしたまま、――いや、犬飼では無い。このときは、完全に椛であり、それ以上でも以下でもないものになっていた。「ぶ」と、そう言いそうな顔の(実際はそう言わず、ちょっと口をそのような形にして)文子――いや、完全に文だが――が、ぶるぶると震えだし、やがてかちゃんと紅茶のカップを置き、カタカタと、しかしカップの耳はつかんだまま背中を震わせてうずくまり、うわぁ、と何気に上司に対する礼もなにもなく助走をつけて殴りたそうな衝動(殺意にもそれは似た)をこらえた椛の横で、ぶっ、ぶくくっ、くくっ、と、今の見目にはあまり似合わない、いわば理知的と対にあるものを引っさげて、「ぶっ……いま、今の、顔……」と、(わざとだろう)ぎりぎり聞こえるように言って、椛をさらに犬歯をぎらりとむきださせた顔にさせたが、はー、と、やがて顔を上げると、文子――と、文がひとしく入り混じったような――の顔で、ちょっと目のはしをぬぐった。涙が出るほど笑えたらしい。
「気づかれていたので?」
「ええ」
「いつ頃から」
「さてね。ま、そこら辺は好きに。重要なことでも無いでしょうしね」
「私と最初に接触した時は?」
「さてね。そこら辺はあなたの好きにしなさい」
落ち着き払って言いながら、文はいつもの人を食った調子で、袴の足を楽に組み、紅茶をすすった。
「ま、ここ数日の調査であなたの身辺に関するいくらかの推測と、その裏付けとなる情報は手に入れているわ。どうやらあなたが目を覚ましたのは最近のようね。そして近ごろあなたが、正確には犬飼松はが少しばかりひんぱんに接触をとっている人物が二人。こちらについても先日内偵を進めはじめましたが、どうやら私たちと同じように「目が覚めて」いる人たちのようね。もっともあなた達の会話を聞いた諜報の人はなにか言いたげにしていましたが」
「相変わらずの抜け目の無さで結構なことですね」
「はい、ありがとう。とは言ったものの、こちらから提供できるような情報、と言ったものか。ただの近況報告のようにも思えるけれど」
「ほかの連中や私たちの同胞は、どうしたのでしょう。文様なら調べを進めているものと思いますが……」
「いいえ。しかしどうやら先ほどの花蓮・エドワァズ、それとイザヤさん。あの二人にはどうも兆候は見られないわね。妹さんの方は何考えてるか分からないけれど、まぁこれは目が覚めていても私らの協力者にはなりえない。まぁ、あなたが接触している魔理沙と慧音先生には近々接触を図りたいと思うけれど、それにはあなたの協力が必要なので、見聞きしたことを言付けてください。頼むわよ」
「分かりました」
「ま、今回の話はこんなところかしらね。しかしなんとも奇妙なこともあったものだわ。ちょうど今はスキマ妖怪も寝ているしね」
「文様には何かお考えが?」
「特には。というか、考えも何も、なんというかね。必要性を感じないというか」
「……。それは?」
「ふむ」
文はちょっとうなって、(なにか言葉を逡巡させているように見える。その目の色を見るに、「さてどうやってこの犬コロに――ここは椛の私見である、ちなみに――分かるように伝えてやるか」といったところか)
「そうね。椛。ヒントを上げます」
というと、持っていた紅茶をズズ、と下品に音を立てて飲んだ。
「なんです?」
「博麗の巫女に解決できない異変はない。なぜなら、この郷で起こる異変と名のつくものは、全てどこかの誰かのヒマつぶしによるものだからよ」
「文様。あなたはもしやこの異変が何であるのか、見当がついているのですか?」
「そうねぇ、椛。私は人間の倍や数倍は頭が回ると吹聴してはいるけれど、実を言うとそんなでもないのよ。それに妖怪だからか人間みたいな細かいところまで目がいかないし、視野も狭まらないし、ちょっと昔の事は覚えていられないわ。全てのものは朽ち果てるし、記憶は腐る。覚えておこうにもそのままの形をとどめておくのは私ら化生の身でも無いかぎりは難しい。そこに残ったこん跡から忘れてしまったことを思いだすことができるのは人間くらいのものであって、私たちは人間ではないわ。まぁ人間にも妖怪がなにを見てるかなんてわからないんだけどね、逆に」
「なにか難しい話なんですか?」
「これがいつのことでその時自分がどこでどうしていたのかあなたはそれを思いだせるかしら」
「?」
文のすまし顔を見つめて椛は眉をひそめたが、文は、(いや、これは文子だ、と、椛は犬飼の顔にふっと戻りつつ思い)やがて茶をすすって、かちゃりとカップを置くと、チリンチリン、と、そばに置いていた呼び鈴を鳴らした。
「それじゃあ、取材の方は済みましたかしら、記者さん」
「ええ、御蔭で良い記事が書けそうです」
犬飼が言うと、丁度コツコツと硬いノックの音が鳴り、「御呼びで御座いますか」と、千田の声がした。
翌々日。
又も昼だった。外での軽食を終えて、どれもう一仕事と今一集中の無い自分を盛り上げつつデスクに着こうとすると、「犬飼」と、何やら受話器を取っていた高花が呼び、「はい、編集長」と、犬飼(この時にはすでにこの「高花」が上司の大天狗その人である事に疑いを抱いていなかった)はすぐさま高花のデスクの前に立った。「客や」と、高花が指さした方を見ると、つい数日前に千田と面会した応接室のドアーが有り、高花は行け、と促して居るようであった。はい、分かりました。済みません、失礼します、と、丁重に礼をして、犬飼は足早に応接室に向かい、コツコツとドアーをノックした。
「失礼します」
と、中に入ると、丁度今しがた立ち上がった――イザヤ、だ。文の言っていたところによると――数日前も見た娘が、そのままの家政婦姿で丁寧にお辞儀をしてきた。
応接室。
改まって(うっかり忘れていたので、空になっていたいざ夜の湯呑みに麦茶を入れて出直して来た為だ)ソファアに座った犬飼に、「突然の御訪問失礼致しました」と、頭を下げ、いざ夜、と言う娘は、――この時初めて名乗ったが、姓は有栖川、と云うらしかった――自分の身分を告げて、「これをお持ち致しました」と、犬飼に、此れも先日頂いた社名鳥家の書状に劣らず立派な其れを差し出し、手渡してきた。
「此れは?」
「御嬢様より、犬飼様を当屋敷にお招きさしあげるとの旨が書かれた文で御座います。ひいては、内容は其処に書かれてある通りですが、犬飼様の御都合を伺いたく存ずるとの事により、御伺い申し上げに上がりました。御嬢様のご希望によれば一週間後の○月×日、午後三時よりお招きしたいとの事ですが、犬飼様、御都合の方は如何でしょうか?」
「はい、一週間後、ですか。――そうですね、其の時間でしたら大丈夫かと。もし都合が悪くなった場合は連絡したいのですが――」
犬飼が言うと、
「畏まりました。其れではこちらが当屋敷の専用回線となって居ります。ご都合宜しからぬ時は、御連絡頂ければ問題無いかと存じます」
其れでは、失礼致します、と、言い終えるなり、いざ夜、有栖川はソファアを立ち、丁寧な礼をした。犬飼は、「ああ、一寸」と、やんわりと呼び止め、有栖川を振り向かせ、「何かお有りですか?」と、やや事務的な笑顔に苦笑いしつつも、
「お時間お有りでしたら、そこらのカフェーにでも座りませんか。折角来て頂いたのも何ですので」
犬飼が言うと、有栖川は一寸笑顔を引っ込めて、
「其れはお仕事上の言葉ですか?」
と、聞き返して来た。
「いいえ。個人的なお誘いです」
「其れでしたら、有り難く御受け致しますわ」
有栖川は言い、此処で漸く親しみの有る笑みを見せた。
暫しして。
編集部。
有栖川と十分かもう少し長く、と云った程度(思ったよりも親しみやすく、且つ垢抜けて居る、と云った犬飼の見立てを外さない人柄の娘で、職務上きっちりと弁えている為に口に出来なかった主人の花蓮の唐突さなども冗談交じりの口調で詫びて行った)、歓談を終えて戻って来た処へ、「犬飼」と、高花の声が呼んだので、「はい、編集長」と、犬飼は半ば習性となった歯切れの良い返事をして、高花のデスクの前に、姿勢良く立った。
「ほれ」
高花は言った。同時に其のやや人よりでかい手から差し出された、小さな(香水だ、と、すぐに分かった)瓶を見て、犬飼が何も言わずに居る内に、片手に雑誌を読みながら、言って来た。
「持ってけ。どうせ安物の香水しか手に入らんやろ。あぁ。安心せえ。俺が選んで買うてきたやつや。そこんとこらの名家に上がるんなら、それっくらいのやつで失礼にはならん。ええか」
高花は言い、
「犬飼。お前は若い割に人より結構苦労しとる。やから、お前の如何にも上の者を見ると卑屈になりがちなんは、お前の身に付いた悪癖なんやろとは、俺にもまぁそら分かる」
はぁ。と、犬飼は答え、思わず高花の「何やその返事は、お?」といういつものどすを効かせた叱責を覚悟して肩をすぼめたが、高花は其れには構わず、続けた。
「せやけど、お前もまだまだ社会から見りゃ若造や、一寸ばかりそう突っ張るように成るんは、早い。ええか犬飼、美徳ちゅうのは確かにそらまぁ一種のものまねや。けんど身に付けといても損はないもんや。がわかむりに見えて内心窮屈なんは否定はせんし、誰でも須らくそないな心地で居る。勿論そうでない奴も居る。色々や。けんど其れは嘘ついとるんでもおどれを騙してるんともちゃうもんなんや。分かるか? きっと分かるやろうけどな。兎に角そいつはお前にやるから、お邪魔する時はつけてけ。使ったもんを返す返さないもお前に任す」
「はあ。いえ。はい。有難うございます」
犬飼は言って、ふと真顔になった。
「肩、お揉みしましょうか?」
「そう言う愛想は取材で使え。此処でムダづかいすんな」
「はい。済みませんでした。……、ところで此れ、もしかして奥様のと同じやつだったりしませんよね?」
「うちのはそいつは好みじゃないらしくて持っとらんよ。そないなアホなことせえへんわい。女房に送った香水の数くらい覚えとかんと、此の仕事で食って行けやせんからの」
ふん、と高花は一寸肩をすくめた。どこか何時もより親しげだが、其処は犬飼も調子に乗らず、「はい。済みません。失礼します」と、礼をして自分のデスクへ戻った。
数日後。
黒雲。
(参ったな)
と、犬飼は、ごろごろと鳴り出した空を見上げ、不吉を胸に抱きながらも歩いて居たが、夕立は予想よりも遥かに早くぽつ、ぽつ、と犬飼の鼻先を打ち、瞬く間に落雷を鳴り響かせた。辛くも、降り出し際を慌てて走り、近くの避けられそうな和式の門構えに飛び込んだが、肩や帽子は、大粒の雨を受け、見事に湿って居た。
「やれやれ」
犬飼は懐に仕舞った手帳を庇う様に袖手にし、忌々しげに空を見た。既にからんとして抜けるような夏の青い色は無く、一面どんよりと黒雲に覆われている。
「……。若し」
と、ふと声を掛けられ、犬飼は其の方を見た。すると、何時の間に現れたのか、今外から帰って来た風の、若い娘――何となく陰の差す様な気のある少女、と言っていい年頃にも見える娘だ。切り揃えた綺麗な髪が、傘の下で揺れ、短く眼の上に掛らぬ様揃えられた前髪の下で、これも少し影の有る両の瞳が、じっとこちらを見ている――が、蛇ノ目を差して立って居り、
「自家に何か御用でしょうか」
と、やや硬い口調で言って来た。犬飼は「あ。申し訳有りません」と、咄嗟に慌てて、
「申し訳有りません。急に降り出したもので……。勝手に軒をお借りしてしまい、申し訳有りませんでした。――あぁ。私、こういう者です」
犬飼は言い、帽子を脱いで、袖手にして居た名刺を取り出そうと探った。
「……。女の方?」
娘が言った。其れから蛇ノ目を畳むと、軽く水気を払って、「中へどうぞ」と、犬飼の後ろの、立派な門構えの扉をかちゃん、と開いた。
「え。いえ。そんな」
「服が濡れてお出でです。其のままだと身体に障りますから。どうぞ。遠慮は結構です」
どうぞ、と促し、蛇ノ目を開くと、娘は犬飼の上に差し、相相傘として、やや戸惑い気味と云った風の犬飼を、構わず屋敷の方へと招いた。
邸内。
庭の見える縁側の間。茶を用意する、と言った娘を待つ間、何となく眺めていると、何処ぞの庭師が一体世話をしているのか、一屋敷には有るのが驚くほどの優美且つ、和さびた庭園が、雨に煙って其処にあった。
(これは評せないわね)
と、思わず呑まれるような迫力を感じつつ、上の袷を脱いで畳み、犬飼は暫し庭に見入った。その内に失礼致します、と、静かな声で先程の娘がやって来て、こと、と、犬飼の前に茶を置いた。丸形の湯呑みに、程よく温まった茶が揺れて居る。
「随分と立派な庭ですね」
世間話の調子で言うと、娘ははい、と、あまり親しさの無い口調で言った。
「自家の屋敷が建った頃から有る庭と聞いて居ります。先代様が大事に為されていたと家人には言い伝えられており、此の庭を保つのが私共屋敷の者に与えられた命であると聞いて居ります」
「あぁ。館の主人さまは……。一応上がり込んで頂かせて居る身ですし……」
「当家の主人は――」
「あら。むらさん。御客様ですか? 今日は予定有ったかしら」
と、廊下の入口の方から声がして、見やると女が一人立って居た。
(ん?)
と、その女の顔を見たとき、犬飼は、(椛で無く)何処かでその顔を見た事が有ると思った。
「阿田さん。いえ。表門の軒で雨宿りをされていたので、上がって頂きました。記者の方だそうです」
「あら、そうだったのですか」
(阿田……。ああ。阿田女史、か)
犬飼は驚きをもって、こちらに目を向けて、たおやかににこりと頭を下げてくる女、阿田に合わせて、やや慌てて頭を下げた。
「どうも、御邪魔させて頂いて……」
「此方の主家様の御人柄ですから、気になさらずとも好いと思いますよ。なんて、客人の私が言うのも捗捗しいかしら。――あぁ。紹介が遅れました。当西園寺様のお家に御世話になって居ります、阿田之ひゑ子と申します。お見知り置き下さい」
きちんと正座して言って来る女、阿田。いや、犬飼の知識によれば、昨今文壇を賑わせて居る、才媛の呼び名高い、阿田ひゑ子女史、其の人である。
「恐縮です。犬飼と申します」
犬飼は言いつつも、
「あの、失礼ですが、もしや、阿田女史、ですか。他誌で、――あぁ。失礼しました。私、こういう者です」
名刺を差し出しながら言い、「是は御丁寧に、」と受け取る阿田――肩を少し過ごした風な長さの髪をくせの無い風に流し、脇の少し斜めの上、丁度前から見える位置に一輪の花を模した髪飾りを飾って居る――をまじまじとは見ないように見た。そして思った事は――犬飼として思った事では無い。椛として思ったことだ。それはこの阿田という女は里でも有名で、椛も一度だけ面識の有る、例の稗田の当代であり、又、今しがた部屋を出て行った、良く言えば物静か、悪く言えば少少陰気な女は、例の西行寺家の庭師とかいう刀使いだろうという事だった――何か不思議な緊張で有った。記者特有のものと言うのか。
「あぁ。成程。何と言うか、是は妙な偶然ですね」
阿田は一寸悪気の無い顔で笑い、困った顔をして見せた。犬飼も「はあ」と、何とも複雑そうに返しをした。犬飼自身、昨今の開戦雲霞の高まりに左右どちらかの立場有る訳では無かったが、社の紙面的方針としては、富国強兵論を支持して扱っている。一方の阿田女史は専らの平和協調路線と、大東亜の物資流通を盛んとし、準利益的交路の開拓をこそ進めるべきであると主張している女傑である。無論今の台詞を聞くにつれ、犬飼の社の事も知って居る様だ。
「そうお互い固く成らずに参りましょう。犬飼さんも取材で来られた訳では無いのでしょう?」
「はぁ、恥ずかしながらと言うか、疑わしながら、全く偶然です」
犬飼は言い、然しふと気を取り直して言った。
「然し、お時間許すようでしたら、是非御話を伺いたいとは今思って居ります。いえ、失礼ながら個人的な興味では有りますが……」
阿田はちょっと笑って「宜しいですよ。此の夕立に降られては記者さんも暫くここに厄介にならなければいけないでしょうし」と、冗談めかして言った。いや、全くです、と、犬飼は言って、ではオフレコと言う事で、と、手帳を出して、卓の上に置いた。
暫し。
とは言ったものの、犬飼もこの才媛と議論する程己の教養に絶対の自信が有るわけでは無いので、話は二十分か其処らで、弁談から、半分世間話の様な調子になった。
「――ええ。そうです。元元は地方の貧しい方の村に住んでいたのです。生まれもそちらで、元の姓も阿田では無く山本などと申します」
阿田は粛粛とした調子で述べ、意外な生い立ちにははあ、としきりに感心する犬飼を見、続けて言う。
「元元、早くに両親が亡くなり、村のつての人の家で厄介になっていたのですが、あるとき当家、西園寺様の先代様が村に来て、私に書家の才能を見出したということで、引き取りたいと仰りまして。それ以来、当家にお世話になって居ります」
「成程……。改名は、ではそのときになすったのです?」
「えぇ。立場的には西園寺様の姓を名乗るところだったのでしょうが、流石に恐れ多く、又、旦那様――先代様も外聞上、流石にそれは出来ぬ事、御分かりになったのでしょう。です故、阿田、と仮に考えた、全く関係の無い姓を与えられ、元のひゑも、ひゑ子、と改名するようにと仰られました」
「ははぁ。然し、そのような経緯ですと、その――」
犬飼が遠慮して言う。話を聞くうちに西園寺、と云う名と、又、先の先代が早晩亡くなって居るというのを聞くにつけ、記憶の端にあった、西園寺とは、あの西園寺に相違なかろう、と、そのような知識としての事柄が徐徐に思い出されて来た。察してかどうか、阿田は一寸眉尻を下げた。
「仰る通りです。当時既に旦那様は、今は亡くなられた奥様と御結婚為さって居ましたが、人の耳や口と云うのは中中にさがない物で、知らぬ、知るを関わり無く、様々な憶測を立てられた様です。無論事旦那様はその様な事柄を見抜いて居られましたが、気にせぬ様にと気を遣ってくれましたし、奥様も、気を煩わしていなかった筈も御座いませんが、優しく接して下さいました。……尤も、今と成っては、若しや其れが重荷になったかと思わぬでも無いのです。私自身、昔よりも色々な事を知る様に成ったからでしょうが……そうですね。しることばかりがいつもよいこととは限らないのかもしれません。知る事、思ゆる事は、其れだけ視野を広げ、在らぬ想像を掻き立てる。何処ぞの人が言うような、知恵の泉が人の頭の中にこんこんと湧き出ているのなら、きっと其れは思う以上に濁って見えるのでしょう。まぁ、それは抽象的に成りすぎですわね」
阿田は茶をすすって、にこりと微笑んだ。
「書家と言うのはリアリストで無ければいけない、と言うのが文の師の教えですが、如何しても厄体も無い事を考える癖が付いていけません。きっと一寸した病か業なのでしょう――」
「失礼を致します。ひゑ子さん、いざ夜――有栖川様がお見えです」
話の途中、襖を開いて入ってきた先程のむら、と云う娘が告げ、あら、と、阿田が言った。
「ああ。そろそろそんな時期だったかしら。いいわ。待たせておくのも失礼でしょうから、こちらで応対させて頂きますので」
「分かりました」
むらは其のまま外へ出、「どうぞ」と、外にいた誰彼かに告げると、ぱたぱたと和服の裾を揺らして廊下を歩いて行った様だった。入れ替わりに、此方もまた折り目の付いた所作で、「あら」と、犬飼を見て驚きつつ、何と先日話したばかりの有栖川が、全く其の時と委細変わらぬ(但し汚れや目立つ皺も無い)衣服で、畳の部屋に入ってきた。
「いざ夜さん。如何もお久しゅう」
「えぇ。阿田さんも。それと、犬飼さん、でしたかしら? どうも、奇遇です」
「えぇ。どうも。本当に奇遇で」
「あら。御二人は?」
「あぁ、はい、何と言いますか、つい先日会ったばかりの御縁なのですけど……」
一時間ばかりも邪魔したか。
雨の降りはとっくに過ぎ去り、蒸し暑い夏の夕暮れが、日長く辺りを染めている。有栖川と阿田は知己の様で、ちらりと聞いた処だと、元は有栖川は此処の屋敷で働いていたとの事だ如何も此の二人と相性が良かったのだか、ついつい話し込んでしまった事を恥じ入りつつ、犬飼は丁重に礼を述べて、屋敷を後にした。そうして、今はこうして、同じく屋敷を出てきた有栖川と共に歩いている。元元、有栖川が訪ねてきた理由の邪魔に成ろうと、場を遠慮した犬飼だが、有栖川は、「其れでは私も此れで」と言い、阿田も「ええ」と、あっさりしたもので、犬飼の心が的外れだった様に、何某かの包みを持って、犬飼と共に屋敷を辞した。「御用事は良いのですか?」と聞く犬飼にも、「ええ。実はもう帰りがけだったのですが、久しぶりに御顔を見たものですから、つい話し込んでしまっていたのです。ですから助かりましたわ」等と、冗談めかして笑って見せた。
「あそこで働いて居られたとか?」
「ええ。今のエドワァズ様に御世話になるように成ったのは、ほんの最近で、其の前は、長く西園寺様の屋敷の御世話に為っていたのです」
「そうでしたか。あぁ、確か西園寺卿は……」
「ええ。記者の方なら御存じでしょうが、先代の旦那様は早晩に亡くなられました。其の前の先先代様も御身体を患って居られた方で、私が屋敷に来た時は、丁度其の御葬儀の手伝いと言うのが初めてでした。それから私を引き取って御世話して下さっていた有栖川様の御紹介で、私は改めて西園寺様に仕えるように成ったのです」
「引き取って下さった、というと……」
「私は元元が孤児なのです。有栖川様はそういう子を拾い、名を与えたり、勉学を施したりする活動を私財で進めて居らっしゃる方ですので、私も元元はその様に引き取られた子供の一人なのです」
そうでしたか、と、犬飼は一寸済まなさそうにしつつ、ようやく有栖川、と云う名で、元の政府の財務大臣を務めていた有栖川子爵の事を頭に思い浮かべた。
(善行に厚く、とみな篤志家で有るとされている。在任時にも財務省の仕事とは別に年少者、書生共への福祉に大いに関心して居られたとか、だったな)
ちらりと椛の顔を覗かせつつも、すぐに犬飼の顔に戻り、また犬飼の顔をした椛は、有栖川との話を続けた。
数日。
用事を理由に社を早退した犬飼は、何時もの男装然とした格好ながら、一寸出て行く前に自分の服にさしておいた、何とも言われぬ(慣れない所為か、鼻が利かなくなったように匂う)匂いがするのを確かめつつ、社の前に停まっていた、これまた、社名鳥家からつかわされた馬車とは又趣の違う馬車に乗り込み、すぐ横の方で会釈していた有栖川が後から乗り込んでくるのを尻目に、「ハイ」と、軽く挨拶をしてきた、馬車の中の、犬飼の為に空いているのだろう席の向かいに座る花蓮の姿に、苦笑めいた驚きを返した。
「てっきり御屋敷でお待ちしているものだと」
「良いのよ。さ。座ってちょうだい」
畳んだ日傘をころころ揺すりながら、花蓮は促し、犬飼が座り、其の横に有栖川が着くと、御者の男の合図で、馬車が動き出した。
暫しして、件のエドワァズ邸前。
馬車に揺られる道中、花蓮は社名鳥邸で見た様な活発さは見せず、物静かに馬車の窓から見える景色に目をやって居り、あまり言葉も交わさなかった。不機嫌なのか、具合でも悪いのか、などと犬飼は勘ぐったが、如何もあちらの礼儀には、あまり馬車の中では口を利かないのが上品である、と言う決まりでもあるらしい、と、後から聞いた。兎も角エドワァズ邸に着いて、今度は千田とは違うが、予め待っていた、如何も此の屋敷に古い風であるような厳めしい面構えの男(言い方は何だが、犬飼の顔をしつつ、椛はまるで入道か何かの様だと思った)に手を取ってエスコォトされ、同じ様にして、こちらは先に降りた有栖川に手を取って其れこそ令嬢の様に降ろされた花蓮が日傘を差し、
「それではこちらへいらっしゃいませ? 記者さん。大久保さん。あとは私がご案内さしあげるからいいわ」
花蓮が言い、言葉少なに辞儀をした大久保、と云う男を尻目に、犬飼は屋敷の方へと歩き出した。
邸内。
「……」
客間のソファアに座り、やたら高い天井を見上げつつ、犬飼は内心息を呑んでいた。――犬飼が、だが。椛は実はどんなに豪奢な建築物を見ても、人間の作った物に持つ感情は無い――流石に筋金入りと言うのか、見る世界の違いを実感させる。社名鳥家の屋敷も大したものだったが、此れは明らかに其れ以上だ。
(エドワァズ家……。貿易商だったな。成金と言うよりか古くからの向こうでの商売拠点を日本へ移した類、前当主で有った元荻ヶ原隆道卿は、然し既に他界しており、商会を切り盛りしているのは妻のエドワァズ夫人だとか)
「お待たせしました」
がちゃり、と扉が開いて、花蓮が(先程より簡素、と言っても彼女らの基準においてと云うだけで、其れでも十分に着る者の魅力を引き立てる逸品に見えたが、なものを着て)入って来たので、犬飼は一寸慌てた風にカップから口を離して、立ち上がった。
「本日は御招きに預かり――」
「いいわよ。格式ばったのってあまりしたくないの。お座りになってくださいな」
「はぁ」
犬飼は言って、帽子を横に戻し、ソファアに座った。向かいに座って、花蓮がにっこり笑う。
「ようこそ犬飼さん。我がエドワァズ邸へ。当主代理の母様は仕事で留守にしておりますので、代理の代理で私がご挨拶いたします」
「恐れ入ります。いやぁ……何というか、しっかりとしていらっしゃいますね」
「……そうかしら? 母様にはまだまだ甘えんぼのお嬢さんなんて言われるわ。母様はとっても頭が良くて色々な事をこなしてしまえる方だからね。私もああなれたら良いわね」
「個人的な事を御聞きして申し訳有りませんが、今の商会も御当主の夫人が手管して居られるとか……」
「えぇ。お父様が早くに亡くなってしまったからね。でも、お母様はご自分の意思でお父様の仕事をお継ぎになったのだから凄いわね。犬飼さん。私の家のこと、調べてきたのでしょう?」
「はい。失礼な事を致しました」
「謝るの? 真面目な方ね。そういうところ何か男の人みたいって言われない?」
「時時言われますが、言わないだけと言う人も居るようです」
「日本の方はつつしみぶかいからねー」
くすくすと笑いながら、こんこんとドアーがノックされ、「いざ夜です」と言うのに花蓮が応じる。
「失礼します」
と、扉を(一礼した後すぐに扉の外に出て行ったのを妙に思っていると、からからと、茶菓子のケェキ――未だ一般的では無いが、犬飼もそこいらのカフェーで食べた事の有る物と同じ形をしていた――を乗せたカァトを押して部屋に入る)開けて入ってきた有栖川が、かた、と、失礼します、と断りながら、ケェキを用意する。
「あら、ケェキにしたの?」
「ええ」
と、花蓮が何気に聞いて来るのに応じながら、有栖川はカァトを脇に退け、花蓮の座っているソファーの脇に静かに控えた。
「ま、いいか。どうぞ召し上がれ」
「はあ」
犬飼は冴えない返事をして、カップの横に用意されている銀製の物らしいフォヲクを手に取り、(持つだけで手が震えそうなほど高価な物である事が分かる代物だ)かちゃ、と静かにカップを置いて、「いざ夜」と、茶の代わりを要求する花蓮に、持ってきたティヰポットから茶を注ぐ有栖川を何気無く見つつ、ケェキを切って口に運び、ぱくりと頂いた。
(うわっ……)
と、思わず口に手を運んでしまうほど、それは何と言うか、計り知れない、上品な味わいがした。自分が目を見開き、一寸頬に赤みが差したのが分かる
「――ほら。見なさい、いざ夜。犬飼さんケェキなんて食べ慣れてないのよ。和菓子にすりゃよかったじゃない。――ん。あっ! ちょと。また私の紅茶に変わったの入れたわね。なに入れたのよ」
「はぁ。木瓜を少少」
「まったく。おいしいけどあなたのそのクセ本当直らないわね。人をおどろかしてその顔見てなにが楽しいのよ。趣味? ここがエゲヰレスだったら変態あつかいされるところよ」
「だって可愛いじゃないですか。そういうお顔」
「やめなさいよ、まったく……犬飼さん、大丈夫?」
「あ、えぇ。……凄く、何と言うか、……美味しいです……」
犬飼はまだ口に手をやったまま、何とか答えた。
今の会話から察して如何も是は有栖川一流のジョヲクであるらしいが、確かに、変わった御仁の様である。新しい、カァトに乗せて運んできたカップに、今度は別のティヰポットから注いだ紅茶を「はい、大丈夫ですか?」と、言いながら、かちゃりと置いてくる。
「此方には変なのは入っていませんので、安心して下さいな」
と、くすくす笑いながら、呆れ顔、というか何というか何かを諦めている顔の花蓮が、向かいで茶に口をつけている。
「犬飼さん、この子は親しくなると、気に入った人にこういう悪戯をする悪い癖があるの。大変だろうけれど勘弁してくださいまし」
向かいで言う花蓮に、いえ、と曖昧に応じて、犬飼は茶を啜った。此方は普通に美味しい。急激な刺激の無い美味さに、しばし口を落ち着ける。そうしている間にも、失礼します、と、有栖川はカァトと共に部屋を出て行く。
「……変わった人の様ですね」
「えぇ。話しているときはそうでもなかったでしょう? あ、ごめんなさいまし。いざ夜から、先日お話をしたというのを聞いていたの。とっても礼儀正しくて好感のある人だって言っていたわ。でも、気をつけてね。あいつ、けっこうその気があるようだから。気に入られるのってわりと危険な兆候よ」
「はぁ……気をつけます」
しばし。
「……では御父上は海難事故で?」
「えぇ。事故といえば事故だし、海といえば海よ。何ていうか港に停泊してたときにね。お父様の乗ってた船が軍艦に撃たれて沈められちゃったんですって」
「軍船ですか?」
「同じ港に停まっていた船らしいんだけど、それに頭のおかしな人がいたらしくてね。その人がほかの目を盗んで、なんでだか、すぐ隣に停まってたお父様の船に打ちこんだんですって。まぁついてなかったんだってお見舞いにきた人たちは言っていたわ。といっても、私もシャルロットもいまよりもっと小さかったから、お父様が亡くなったんだってことくらいしか分からなかったけれどね」
有栖川が、横から失礼致します、と言って置いたカップを持ち上げつつ、花蓮は手の平を返して見せた。
「お母様がお父様のお仕事を継いだのはその二年後くらいよ。最初はおじい様が代理でこなしていて、継ぐのも反対されたらしいんだけど――」
ゴーン、ゴーン、と、その時、柱時計が鳴ったのを見て、「あら、もうこんな時間?」と、花蓮が言った。
「そろそろお開きね。楽しいお話をありがとう、ミス犬飼。時間を忘れましたわ」
またお誘いいたしますね、ご迷惑でなければだけど、と花蓮が上品さを伴って言うのに、「とんでも御座いません、レディヰ。どうぞまた御話しいたしましょう」と、内心、本当に畏まりながら、犬飼は答えた。
暮れ時より少し前。
からからと帰路を辿る馬車に揺られ、「素敵な方でしょう」と、ふと、有栖川が口を開くのに、その横でじっと押し黙ったままの大久保某をちょっと気にしながら(特に咎め立てする気配は無い)「ええ……」と、控え目に答えた。
「なりは確かに年幼い方ですが、何というか、下世話に言えば、よくませておられます。そしてそれ以上に年相応以上に、どこかお聡い方ですわ」
「そのように私も思いました。とはいえ、二、三度言葉を交わした程度でどの様か口にするのも捗捗しいとは思いますが」
犬飼は後ろ頭を掻きつつ、ちょっと恥じた後で、「尊敬していらっしゃるのですね」と、表情を改めて言った。
「えぇ。尊敬できる方たちです。奥様もお嬢様方も。尤も、こんな事を言うのは、前の旦那様に全く失礼なのですが、有栖川様の勧めで西園寺様に仕え、かのエドワァズ様に奇しくも御縁が出来た事は、私にとって幸多からん事でした」
有栖川が言うのに一寸微笑んで返しつつも、犬飼は内心、その感覚についていけないようなものも感じていたが、有栖川が満足そうに目を細めて微笑み返すのに、人それぞれか、と、普段そうする様にしてみせた。
翌翌日。
またお話しましょう。個人的に、ですが、と、馬車を降りる時有栖川に手を取られて降りながら言われた事を振り返りつつ、犬飼は前日の休暇の余韻に頭を振ってしゃきっとさせつつ、(川城に誘われて、呑みに繰り出していたのだ)編集部に入り、「おぁよ、」と、なぜかスルメを口に咥えつつ、他社の新聞を広げている海堂に挨拶をし、デスクにつき、それから何気無くちらりと覗いた、海堂の読んでいる新聞の文面をさらさらと目に留め、それから目を離して、すぐさまばっ! と食い入るように、海堂の読んでいる文面を読み返した。
「……ん? どしたの」
海堂はあまり動じる風も無く、「はい」と、何を思ったか、読んでいた新聞を差し出した。
「まぁ驚くか。っても刑事課の連中は不機嫌だろうけどね~。こんな大ニュース他社に攫われちゃったんじゃあさ――あ! お早うございます! 編集長!」
おう、と返す挨拶を聞きつつ、犬飼も咄嗟に席を立って高花への挨拶を怠らなかったが、それは日常的に染みついた動作だからであって(怠ると彼の恫喝と一寸した説教を朝から喰らわされることになる)、頭の中は記事の文面の事で埋められていた――無論、犬飼の中の椛も、だったが。
――殺害されたのはかの社名鳥家令嬢にして、開戦論者の噂高い文子女史――。
昼。
犬飼は早退して社名鳥家に向かった。汽車に揺られての道すがら、喪章の黒腕を下げた腕を横目にしつつ、道中購入した新聞を目の前に広げて、しばらくして読み終えて、広げっぱなしにしていた事に気づき、適当に他の文面に目を移しながら新聞を畳んだ。
(なんなんだ、これは)
如何言う事だ。文子が死んだ。――それはつまりあの射命丸文が死んだ、いや、殺された? ――椛の思考を思い返しつつ、煙管を吸いたい心地に駆られ、袖を探っていた事に気づき、犬飼の顔をした椛は、何気の無い顔でまた新聞を広げた。ボゥッ、と、汽笛が鳴る。一雨来そうな空だ。
社名鳥邸。
とはいえ勢いに任せてやって来たのは少少軽率であったようだ。門前払いしたらしい記者達が――いや、同業が、だ――歩いてくるのを丁度見つつ、犬飼は日を改めることも考え、そもそも自身はその様に軽率に行動する性質では無かったのを思い出し、やはり動揺で我を忘れていたらしい、と、苦虫を潰したような顔をした。
(帰るか)
苛立ち紛れにそう思っていると、「あら?」と声がし、聞き覚えのある声にそちらを向くと、「犬飼さん」と、有栖川が此方に近づいてくる処だった。そして、ふとちょっと何かを気にしたような顔をする。
「お仕事、ですか?」
「いえ。自分は部署が違いますので。御悔みをと思って最初は来たのですが、矢張り厚かましいと思いまして。帰ろうとしていた処です」
犬飼は正直に答えた。有栖川は一寸困った感じの笑みで其れを返すと、
「その様な言い方は良くないと思いますが。犬飼さんは少少正直が過ぎますよ」
「いえ。本当の事ですので……あぁ。済みません。少少愚痴っぽくなりましたね。有栖川さんは? 花蓮さんの御供ですか?」
「いえ。御嬢様は今日はいらっしゃらないと仰りまして。唯話だけでも伺って来るよう、申しつけられまして」
「そうでしたか……」
犬飼は「では」と言いかけて止め、ちょっと考えた。
「宜しければ、何処か近くの店に入りませんか? あぁ、有栖川さんの用事が終わっていらしたら、ですが」
店内。
丁度用事が終わった、とは言え、あっさりと応じた有栖川に少々持て余したものを感じつつも、犬飼は頼んだ紅茶を啜り、目の前で、同じく頼んでおいた――有栖川のした事では無い、犬飼が厚意で頼んだ物だが――ケェキを放ったままにしつつ、カチャリと紅茶のカップを置く有栖川を見ずに見つつ、しばし沈黙した。
(やれやれ……)
「……それで、邸内の方はどの様な?」
犬飼はカップを置いてそう言った。有栖川はええ、と、前置きした。
「大層ざわつかれた様子でしたが……どちらかと言うと、葬儀や今後の日取りの話し合いが主の様でしたわ。急な事でしたが、文子様はこの様な事を想定していた、というわけでは有りませんが、しっかりしている方でしたから、御自分の事はこの様な事に関しても、人知らず段取りをしていた様なのです。……」
「御気の毒な事だと思います。紙面を見た限りでは犯人は既に捕まっているとの事でしたが……いえ。言う事でもないですね。花蓮さんも落ち込んでいらっしゃるでしょう?」
「えぇ。私共には何も仰りませんが……」
「文子さんとは長いお付き合いだったのですか」
犬飼は、聞いてから少少今のは不味い質問だったかと内心眉をひそめたが、有栖川は特に動じる事無く応えた。
「私はそれ程存じていませんが、屋敷の方方の話ですと、既に八年か其処らになるようです。御二人が御友人となり始めたのがいつからかは分かりませんが、御嬢様が幼少であった頃から、御話の相手をして下さっていたそうで」
「そうですか……」
「千田さんも気落ちしていた様ですわ。マスコミや関係者の方方の対応で、大変だったのも――あ、失礼」
「いえ」
「前の西園寺様に続き、社名鳥様の御家でまでこの様な事が起こるなんて……」
「……。前の、と言いますと? 西園寺家で御勤めになられていた時ですか?」
「あぁ……。いえ。言うべきでは有りませんでしたね。ですが、言って黙るのも失礼かと存じますので、御教えしますわ。西園寺様の先代、……今の御当主、西園寺京子様の御父上様が早晩亡くなられたのは、犬飼さんも御存じでしょう? 千田さんが気にしているのではと言ったのは、その事です」
「あぁ……」
犬飼はようやく思い至って、言った。
「其れは大変済みませんでした。配慮が足らなかったですね」
「いえ。御気になさらず」
「然し、西園寺の当主様と言えば、当時の文面を見る限り、遊猟中に怪死為さったとの事です。真偽は確かに疑わしいですが、それで御気になさると言うのも、無いことなのでは?」
「……。是は千田さんには内緒の事として頂けますか? ……西園寺の旦那様は――」
そう言いかけて、有栖川は店の時計を眺め、一寸済まなそうな顔になった。
「申し訳有りません。時間を忘れていました。ああ、……済みません。中座する様で失礼ですけれども。わざわざ頼んで頂いたのに……」
「いえ。私が好きでやった事です。会計は済ませておきますから、どうぞ御気に為さらずお行きなさい。また御話しましょう」
汽車内。
遠慮しながらも帰って行った有栖川を見送って後、椛は外した喪章を懐にしたまま、新聞を読むのも止めて、袖手に腕を組んでいた。
(これからどうするべきか)
正直な話、文の死と言うのを内心ではまったく信じていなかった。(文が死んだと言うなら、まだ微塵隠れでもして、またにこにこ顔で何処ぞから登場してくる方が信用できる)なので、椛の顔から犬飼の顔に戻り、その上で物を考える事にした。そうして考えてみるに、確かに文子の死と言うのはただならぬ物を感じる処は有るが、所詮一介の自分と言う者とは介在しない処の様に思えるし、実際そうであったろう。死の直前に話をしたというのは確かに気になる処で有るが、昨今の世相からすれば文子のような過激論者が赤の他人に殺害、又は暗殺されるのは珍しい事でもない。「一寸宜しいですか」と、その時声をかけられたのは、犬飼にとっても予想の外だった。見上げると、如何にも官憲と刑事、と思しき男らが連れだって、「犬飼松はさん、ですな」などと声を掛けてくる。
「少少御話を伺いたいのですが、宜しいですかな」
夕刻。
何とか帰社して(早退とは言え、理不尽ながら本日中に片付ける仕事が有るため、戻れと高花に言われていたのだ。無論拒否権も給与請求の権利も無い)、残業していた面々に挨拶し、犬飼は自分のデスクに戻った。
「犬飼」
そうするなり、こちらも居残っていた(珍しく、だ)高花が呼んだので、犬飼は返事して素早くデスクの前に立った。
「お前、二、三日有休取ってこい」
「は?」
「もう話は通しておいたから、何もせんでええぞ。明日から休め。今やっとる分は他の奴に回しといたる。それと、もう一つな。この件に関しちゃ何も聞くな。編集会議からの指示や。ええか――」
翌朝。
休みの日と言えど、犬飼は家でごろごろしている習慣は無い。さっさと貧乏アパァトの一室に相応しい自分の住み家を欠伸混じりに掃除し、洗濯をすると、昼には昼食を摂りがてら、自宅部屋に鍵を掛けて、肩から肩掛けカバンを掛けて、駅に自転車を走らせた。
駅に着いて、昼食代わりに購入したじゃこ結びをほお張りつつ、今日の紙面を見る。文子の死はネタとしては今一であったのか、続報は載っていない。
(犯人が捕まっているのだから騒がれるはずも無いか)
『社名鳥文子さんとはどの様な御関係で』
犬飼は握り飯をもごもごやりつつも、考える眼差しをした。ついでに今日になっていきなり言い渡された休暇の事についても、無関係ではないな、と、すぐに思い浮かべた。
『トッコウがな。お前の事を話に上げとったとか何とか言う話や。まぁ社ではお前の事も庇い立てするつもりも無いらしいし、何か有ったら首切るちゅう意向で話が進んどる。せやからしばらく自重しとけ』
高花は言っていた。嘘は無いだろう。あれでも誠実さにかけては編集部員内から折り紙付きを貰っている。犬飼もそれを疑うつもりは無い。
(うーん)
犬飼は思考を巡らせ巡らせして、こくんと喉を動かすと、何となく気になっていた事をぼんやり形にして思い浮かべつつ、次の握り飯をほお張ろうとして、がしゃん、ごとん、がしゃん、ごとん、ぼぉっ! と、目の前に到着した汽車を見て、おっと、と、開きかけていた犬歯をしまい込み、素早く握り飯も新聞も片付けて持ち、ハンチング帽を直す仕草をして、ついでに汽車に乗り込む際に腕の喪章も直した。
(犯人が捕まっていると言うのに警察ははっきりした疑いを持って捜査している。或いは……)
そこまで考えてから、犬飼は思考の塊を屑切りにかけて其処らに散らした。
(馬鹿馬鹿しいわね)
すたすたと、目の前を歩く紳士帽が揺れるのについて行きながら、ふと、視界の端に見覚えのある横顔を見て、犬飼はちょっと指の甲側でちょいと帽子の庇を持ち上げて見せた。
(……?)
「千代田さん?」
「はい……?」
言われて千代田――千代田むら、と言ったか。阿田が何気に口にしていたのを、犬飼は覚えていた。物覚えの良いのは職業病の様な物だ――は顔を上げ、その拍子に、思わず立ち止まっていた犬飼は、後ろからどん、と「失礼」と、歩いて来ていた中年くらいの男にぶつかられ、此方も失礼しました、と頭を下げながら、通路から、座席側に身体を入れる。
「どうも……。あぁ。急にお声を掛けて失礼致しました」
「いいえ……。あぁ。犬飼さん、でしたね。申し訳有りません。すぐに思い出せず」
「いえ。あぁ、宜しかったらこちら、御一緒しても宜しいですか?」
「どうぞ」
千代田はあまり嬉しげではない様子だったが、犬飼はでは、と、やや遠慮がちに向かいに座り、帽子を脱いだ。
「お仕事……ですか?」
千代田は自分からそう言ってきた。犬飼はいえと首を振って、それから腕の喪章に気づいて、自分から「知人の喪中に参ろうかと思って居ります」と、目的を言った。
「そのようでしたか」
ええ、と犬飼は答え、
「千代田さんはどちらに? ああ。不躾で申し訳有りません」
「不躾では有りませんが、私も人の喪中に参る処です。犬飼さんと同じですね。奇遇です」
「そうでしたか。これは失礼を致しました」
「その、私……。いえ。済みません。そんなに気分良からぬような様子をしていましたか? だとしたら、申し訳御座いません」
千代田はちょっとぎこちなくだが、微笑んで言った。成程、どうも人よりふさぎがちに見える外見らしい、と犬飼は思い、努めて明るめに応じた。
「社名鳥様の……?」
「ええ。御縁と言うほどではなく、少少厚かましいとは思うのですが、こういう事になったのも、何か放って置けない気が致しまして……機会を見て御悔みを申し上げるつもりで居たのです」
「……。犬飼さんは記者でいらっしゃいましたわね」
「はい」
「では、少少、……失礼ですが、その……」
「不謹慎、というのは承知の上です。実際社の方でも今度の件には関心を持って見ているようですし、僕も一介の記者ですから、そちらを優先しろと言われれば、その指示に従わないいわれは有りません。何せ平の記者なんぞと言うのは大抵が人の不幸で飯を食う処が有りますので、自分も其れから外れているとは言えない、と言うよりか、寧ろそのまんまです」
犬飼の言葉に一寸不快そうな顔をして見せた千代田だが、少し眉をひそめたままの顔で、くす、と困ったように笑った。それはどうも影のある様子と同様、この娘に染みついた一つの仕草のようだった。好ましくない、と思われるものではないが、犬飼は経験を当てにして、この娘は何か鬱屈した物を見聞きして、この様な顔を身につけたのだろう、と思った。
「正直な方ですね。何時もそのような物言いを為さって居られるのですか?」
「いいえ。自分は根が捻くれ者なので、勿論下手な事は口にしない様気をつけています。むしろ、お気に障ったのでしたら申し訳無いとも思っております。如何も失礼を致しました」
席を移ろうと立ち上がりかける犬飼に、「お待ち下さい」と、千代田は言った。
「社名鳥様の御屋敷まではまだ時間が有りますよ。話し相手が居ないでは大層鬱屈としてしまいます。どうぞお座りになって下さい」
犬飼は言われるままに座った。
しばし。
汽車から降り、犬飼は千代田と共に、社名鳥邸への道を向かっていた。あの後行く先をよくよく聞いてみると、千代田は犬飼と同じく社名鳥邸に用が有ったのだと言う。
「社名鳥様と私の主人である西園寺様とは知らぬ縁では無く、古くより付きあいが有ったのだと聞き及んでおります。無論、ずっと昔、私が西園寺様にお仕えするより何代も前からの付きあいで有ったと聞かされておりますが」
詳しい起源は不詳であるが、今でもその縁は続いて居り、人知らずでは在るが、現在の西園寺の当主である西園寺京子と、文子の間には付きあいが有ったらしい。
(客賓として住まわせている阿田女史を挟んでか。何とも複雑な話ね)
そう思う間にも、見る目にも巨大な社名鳥の屋敷は其処に見えてきた。門前での騒ぎはもう収まったようで、犬飼はさてどうするか、と、立ち止まり、門の様子を伺った。今日は無論招待された身分でも無い。
が、そうこうしている内に、「行きましょうか」と、こちらを促して、千代田が歩き出す。少々せこい気はしたが、千代田の知人と言う事にした方が門での通りは良いだろう。そう決めると、犬飼は千代田について門前に行き、門人として其処にいた(犬飼が初めて見る顔だ。長い黒髪に使用人らしい簡素な格好をしている。顔の両側に下げられた白いリボンが飾られている)娘に、千代田がやや親しげ、と言ってもこの娘は人に接する態度にある種の壁が有るらしく、親しさもそれなりだったが、――顔見知りであることは話の調子で知れた――そのような様子で取り次ぎを願い、その際にちらりとこちらを見た娘が、しかし何も言わずに去っていくのを、犬飼は帽子を直しつつ見送り、
(ありゃ紅魔の館の門番じゃないか)
などとちらりと思い、やがてやって来た件の娘が、今千田は手が離せないことを説明して詫び、兎に角正面入り口へ行く事を促した。
邸内。
千田の案内が無い分、取り次ぎに手間を食ったが、何とか門を潜り、文子を弔った菩提の場所――文子が書斎にしていた部屋だそうで、簡素な黒檀らしき大きな机に、戒名を彫り込んだ真新しい位牌がぽつねんと乗っている――に案内され、犬飼は千代田と共に、神妙に仏前に礼をし、手を合わせた。
遺体は、と遠慮しいで千田に尋ねると、既に社名鳥家が檀家を持つ寺に移され、火葬の段を待っているという事だった。
(……)
犬飼の顔で目を閉じて拝みつつも、その中の椛としての部分で、椛は何か形容しがたいむずむずとしたつっかえを覚えながら、この茶番じみた場を耐えていた。そのうち、後ろでふと、部屋を先に出た千代田が、同じく部屋の外に出ていた千田と、「変わり無いか」「はい」などと、何やら話しているのが耳に入った。犬飼の顔を忘れていた椛は、はたと自分の顔を取り戻すと、合わせていた手を下ろし、一礼して部屋を出た。千田と千代田は、今だ気づかずに話をしていたが、犬飼が出て来た事に気づくと、文子の菩提を弔いに来てくれた礼を述べ、下に茶の用意がしてあることを告げ、案内した。
邸内、一室。
と言っても、犬飼には其処は一度来た覚えの有る場所、無論花蓮を交えて文子と歓談した場所であったが、「申し訳御座いません、当家の正式な客間は只今旦那様が御自分の客賓を迎えるのに使い切りにして居ります故、それ以外の方は此方に御迎えして居ります」と、千田は丁重に言ってくれた。「花蓮さんは今日は?」と、何の気無しに聞くと、「夕暮れ時頃、此方への御用事のついでにお訪ねになる、とお聞き及びしております」と、簡潔にだが教えてくれた。
千田が用事が有るので、と下がり、室内に千代田と二人きりになると、犬飼は何の気無しに紅茶を含みつつ、かちゃりとカップを置いて「千田さんとはお知り合いだったのですか?」と、千代田に言った。「あぁ……」と、千代田は其れに一寸鈍い反応を返して、やがて言いにくい、ように見えたというだけだが、何かそのような様子で口を開いた。
「私の養父ですので」
「養父……」
犬飼はちょっと気にした風にしてそう言ってから、礼を失していると思い、言葉を継いだ。
「其れは初耳でした。あ、突っ込んだ事をお聞きしてしまい……」
「いえ……構いません。隠していることでも無いので」
取りあえずは其れで繕ったと思い、犬飼は一旦質問を止めたが、このままで居るのも居心地悪い事だ。其の思考は椛(犬飼の中の、だが)が思っている事では無かったが、どうも本来のまんま白狼天狗の犬走椛としての気性に近いものだった。
(……うん?)
一寸違和感を感じつつも、其のもやもやしたものは結局「犬飼」としての思考に押し込められ、そして勝手に口を開かせようとしていた。
「苗字が違う事、お気になるのでしょう?」
「はぁ」
「養父は自ら改名をしていますので。元の姓は私と同じ千代田と申します」
「改名……」
複雑な事情を感じる。そう思って犬飼も一寸遠慮がちに呟いたのだが、千代田も意外と人に悪い印象を与えるのを気にするのか、やや定規的に言った。
「養父は……いえ、本名を千代田剣平と申しますが、本来は私の実の祖父に当たります。両親は既に他界しました由にて、私を養子として預かって下さり、その後、自ら改名を致しました。理由は恐らく私の二親の事である、と思います」
「と言いますと」
「詳しい経緯を本人達から聞いた訳では在りませんが、祖父の実の娘に当たる私の母は、父と駆け落ち紛いの事をして夫婦となったのだそうです。祖父はそれをお許しに成らず、また、和解もしないままに、どちらも不慮の死を遂げました。其の為でしょう。祖父は私を預かりましたが、本来の姓を手放し、一個人の千田憲兵、という人間として、私を養子に取るという形で引き受けられました。苗字が違うのはそのような事です」
しばし。
(……)
駅のベンチ。犬飼は既に喪章を外し、いつもの帽子を深めに被って、新聞を読みふけっていた。
やることが無いといえばそのまんまだったが、考えにふけるふりをする時間は欲しい気分だった。好物のじゃこ結びをもぐもぐやりながら、ぺろりと行儀悪く指を舐めて、残りのご飯粒を口に収めた。
(要は退屈しているだけか)
自責気味に思いつつ、新聞のペエジをめくる。気掛る事はあるには有ったが、同時に一個人として触っていいものとも思ってはいないようで、どうにもやるかたない、といった心持ちであった。とは言え、犬飼も、その中の椛としての部分もそれを表に出すには意地が働く気性である事では合致していたので、表向き感情を剥き出しになどせず、大人しく横に積まれた雑誌に手をつけた。そこでふと気付く。
(連絡を取っておくか)
文、今は文子として死んだ扱いになっている山の上司に言われた事に思い至りつつ、犬飼はやれやれと、どっさり買ってきていた雑誌類を一部は近くの屑かごに入れ、他はカバンに放り込んで、ベンチを立とうとした。
「あら?」
其処へ掛った声に、反射的にそちらを見やると、久方振り、でも無い顔見知り、マエリベリヰ・ハァン、メリヰと呼んでくれと言われていたか、メリヰが、にこりと日傘を差して、何時ものひらひらとした服を着て、西洋の令嬢然として其処に立っていた。犬飼は、勿論その中の椛も、やや驚いた風でそちらを見、とはいえ相手が相手としての突拍子も無い反応は避けた。
「奇遇ですわ。どうも久しぶりです」
「ええ、本当に」
「――おとなり、よろしいですか?」
そう言ってから、ちょっと日傘を揺らしてメリヰは考える風で口に閉じた手を当て、何かと思っていると、「これは失礼をいたしました。How do you do?」と、おもむろに言った。
「……、No more, please. ――How do you like a ticket?」
「Thanks to you」
メリヰがちょっと悪戯っぽく笑って隣に座るのに、犬飼はちょっと周りを見渡してから、これもちょっと悪戯っぽい顔で返した。
「――I have a lot of money. Have you anytime this ticket, how do you like?」
「Yes, please any time」
犬飼がアヰスクリイムの屋台を指さして言うのににこやかに頷きつつ、メリヰは答えた。犬飼は失礼、とベンチを立つと、二人分のアヰスクリイムを買い求め、それを片手に持って、「どうぞ」と、これは日本語でベンチに腰かけるメリヰに言った。「Thanks to you.――やっぱり。英語もたしなまれますのね。こないだのお別れの挨拶、とっても素敵でしたわ」
「喜んでもらえたら何よりです。ほんの下手の横聞きですから、間違っていたらお恥ずかしいです」
「お気になさらず」
「中中御手厳しいです」
メリヰはくすくすと笑いつつ、日傘を傾けた。
「今日は……ひょっとすると、お休みで?」
「ええ。お恥ずかしいことですが」
「そんな……。いいえ。私もまだまだ学徒の身分ですから、働くなどしたことありませんが、休息は必要だと思います。どんなことでも根をつめるのはあまりよろしくないかと思いますので」
「仰る通りだと思います。何というか……僕は性分が小心なのですよ。どうにも自分が意図しないところで物事というのは起こりがちだ、と、こう囚われるような思いが有るのですな。じっとしている自分が根っこの処では本当は歯痒いのです。だからと言って自分の分際が分かっていない訳では無い、いえ、分からずに行動することが出来ないと言いますか。貧乏症と言うのでしょうね」
「そのように卑下なさることはないと思いますけれど。知っていらっしゃいますか? 某国の学者には云々というえらい方がおりまして、……」
「如何されました?」
「……、いいえ。言おうとしたことがあったのですけど、それと関係して、また別のことを思い出したのです。はしたない頭ですね」
「はぁ」
メリヰはくすくすと笑いつつ、それからちょっと真面目さを帯びた口調で言った。
「蝶が私なのか、私が蝶なのか、でしたっけ。異国の方にそういう事をおっしゃった人がいるのはご存じ?」
「いいえ」と犬飼は言いながら、蝶、という言葉で、ふと自分の中の椛が反応する感じを覚えた。そういえば、この西洋の風貌持つ麗人の向こうに見える面影の妖怪は、蝶を好んでいたはずだ、と。
「最近、そんな夢を見ますの。時の流れは平面ではなく立体である、という話はご存じ? 川の下流で生まれた河童が川の上流で川をせき止めても河童は消えません。時間というのは無限なのか有限なのか、全てのあらゆる可能性が同時に存在している立体なのです。私たちがその可能性にあることができないのは、ひとつの可能性を選んだ瞬間にすべての他の可能性が消え、見ることができなくなる。時間とは、主観。もし時を止めることができたとしても私たちに他の可能性を見ることはできません。それは私たちがこの肉体という器にいつでも納まり、生きているかぎり出ることはできないからです。こんな話から、魂の実在を主張する人もいますわね。人は肉体という一本の杭に鎖で繋がれた魂の器だと。その鎖から解き放たれたときにすべてのあらゆるものを見通せる全知の存在になることができるけれど、魂はすでに肉体という外部に接触するものを失っているから、何もできない、何も見れない。そこで人は神の国や極楽浄土といったことを考えます。おかしく、そして不思議ですわ。人の想像力というものは」
「随分と色々な事をご存じなのですね。本がお好きなのですか?」
「えぇ。恥ずかしながら、子供の頃からそればかりでして。色々な本を片端から読んでは見終わり、また読んでいました。実は今でもそのようです。お恥ずかしい話ですが、本なども書いてみたことがあります。人様がどうでもいいと思うようなことまでむつかしく考えて、きっとちょっとした病気なのですわね」
「そんな。博識で居られるのなら、身についておられるということでしょう? 病気だなんて」
「あら。そう言っていただけると、その気になってしまいますわね」
くすくす、とメリヰは笑った。
しばし。
メリヰと別れて(彼女も散歩というわけではなく、留学生として通学している学校の休憩時間だったらしい)、犬飼は本来の用事を果たしに、白澤の勤める学校へやって来た。いつものように自転車を止め、下校やら何やら、わらわらとしている童子らを横目にして、白澤のいる教室を目指す。
「あら。犬飼さん。お疲れ様です」
「えぇ。あ、申し訳有りません、出直します」
教室の様子を見て犬飼は言ったが、「いえ、構いませんよ」と、白澤は書きかけの書綴りを閉じて筆を置いた。「先生は一寸出かけてくるからね、きちんとやっていなさいよ」と、いつもの厳しい眉を吊り上げた顔で言い、「はぁい」とかひそひそと、しかし聞こえるように「自分だけお茶しに行くんやで」と言い交わしていた子供らに軽くぽかりとげんこつを見舞うと、非難の声を背に、「さ、行きましょうか」と、笑いながら犬飼と共に教室を出た。
カフェー。
しかし、思わぬ事が起きた。
「犬飼さん?」
と、問われ、犬飼、いや、すっかり油断していた椛は、「ああ、いえ……」と、歯切れの悪い返事を返した。
(どういうことだ)
思う。学校を出てこっち、会話する中でふと奇妙な心地に襲われたのは確かだ。だが、カフェーに来て、
「それで、今日は?」
と、やや訝しげに微笑んだ「白澤」に言われたことで、それは確信された。
(何?)
「その――」
「はい?」
(上白沢どの?)
と、続けようとした言葉だったが、上白沢――であるはずの、白澤の顔を見て、止まった。
「……賢者殿?」
「は?」
「いえ。すみません。あ、ちょっとぼっとしておりました。申し訳ない」
犬飼は慌てて言った。全く変な事を口走ってしまったものだ。自分のさっきまでの突拍子もない考えに、思わず苦笑する。例えば――自分は本当は幻想郷という名の隔離された楽園に住む一匹の妖怪であり、今のこの世界も姿も仮のもので、いわば狐が狐につままれたような状態にある、今は異変なのだと――待て。何を言っている?
「――犬飼さん? どうかされましたか?」
白澤が言ってくる。「ああ、これは失礼!と、犬飼は、はっとして言った。
「済みません。いえ。不躾かとは思ったのですが、いきなり社から休みを言い渡されたもので、それで先生は何をなさっているのかと」
「あら。珍しいですね」
「ご迷惑でしたら申し訳ありません」
「迷惑だなんてそんな。犬飼さんは好ましい方ですもの。たまにはこのようなお付き合いも宜しいかと思います……。でも、まあ。たまに、ですけれどね。お互い仕事がありますから」
白澤はくすりとちょっと悪戯っぽく笑った。「そうですね」と犬飼も微笑んで返した。
翌日。
どうしても確かめなければならないと思い、その日の昼頃、犬飼は自宅からそれ程離れていない某女学校の構内でベンチに腰かけていた。犬飼も自身が女であるという自覚はあるので、心持ち柔らかく頼み込めば、たとい記者の身分であっても守衛が見逃してくれるのを分かっていたので、時折自分を見て、ひそひそ、きゃあきゃあ、と何やらはしゃぎながら通り抜けていく浮ついた女学生らの視線をやり過ごし、目的の学生が通りかかるのを待っていた。
「――あれ?」
と、ふと後ろを振り返ると、そちらの芝生の横の道に、霧雨が立っていた。
「あれ。やっぱり記者さんだ。どうしたんです? こんなところで」
「何? 知り合い?」
と、横から尋ねてくるのは博麗の巫女――と分かる姿形に、霧雨と同じような、袷、袴にこちらは底がちょっと高めな赤の草履を履き、髪には簡素な提げ櫛のついた赤い花の飾りを着けている女生徒だ。こちらが魔理沙――であるはずの霧雨が言っていた自覚のきていない巫女だろう。
こんにちは、とそちらの娘に挨拶してから、
「やあ、桐子さん。突然済みません。そろそろ昼げの時間だということで、待たせてもらいました。不躾で申し訳ありません。あ、僕、記者をやっております、犬飼と申します。初めまして」
と、隣の巫女似の娘にそつなく言う。娘は「あ、どうも初めまして。白道霊子と申します」と、やや野暮ったい感じに頭を下げてきた。
「待ってたって……私?」
「えぇ」
言うと、目をぱちくりさせる霧雨の横から、白道がつんと袖を引っ張り、
「誰? 貴女のいい人?」
と、不躾に言い、「あ~?」と霧雨を半眼にさせ、「ちがう違う。私そんな趣味無いよ。昔の学校のセンセの知り合い」と、手を振りながら言わせた。それから霧雨はちょっと頬を掻いて、
「あー、まぁいいや。記者さん、昼はまだ? ここいいカフェーがあるからそっち行こうよ。れーこ。ちょっとそういうのだから、また午後ね」
わかった、と言いながら、白道はそのまま立ち去った。
「どうも急にすみません。無粋でした」
「へ? いいのいいの。あの子ちょっと変わってるからさ。こういうのそんな気にしないし、埋め合わせすりゃ何ともないもん。――それより珍しいねぇ、記者さんから用事なんて。あ、犬飼さんて呼んでいい? 先生の手前だとそういうの煩くてさ」
「構いませんよ」
犬飼は言いながら霧雨を見、またやはりか、と、胸の中にもやもやとしたものが沸くのを覚えたが、そのまま並んで歩いていった。
しばしして霧雨と別れ、犬飼は、いや、「椛」は、ますます困惑を究めていた。やはり、というか、やはり、霧雨は、霧雨になっていた。白澤が白澤となっていたのと同じように。
(どうなっているんだ……?)
翌日。
汽車。じゃこ結びをほお張りつつ、冴えない顔で犬飼は、いや、犬飼の顔をした椛は車内を揺られていた。疑念に煩悶とする自分を差し置いて、犬飼は事前に決めていた予定通りの行動を取っていた。今日は「例の件」で霖助に会いに行く。一日二日で調べが進むものでは無いが犬飼には「他にやることも無い」のを椛は「知っていた」。
横浜。
霖助の店に入ると、なぜか霖助は番台におらず、机の上にいつも読んでいる本の一冊であろう、――これは何やら異国の翻訳本のようだ。つくづく霖助という人間は良く分からない素性を持っている、と「犬飼」がそれを見て思った――何の気無しにぱらぱらと取り上げて読んでみる。
(ん?)
間もなく本の間に紙片が挟まっており、四つ折りにされているそれの端に、犬飼松は、と、自分の名前が書かれてある。
新聞社。
結局、数刻待っても霖助の行方は知れず、(店の者に聞いて、今日は出てきていないことだけを聞きおぼえた)犬飼はこれも「予定通り」、ふらりとなんとなく足が向き、社へとやってきていた。昼を下がった時間だったが、社会部のオフイス内は閑散としており、かと思えば、自分の机に行くと、「おっ? おはよう」と、ひとり残っていた海堂がとぼけた挨拶をする。「お久しぶりです」と、犬飼も苦笑を作って応じた。
「何よ、謹慎中じゃあなかったの?」
「建前では有給中ということで聞いていましたが……そんな話になっているのですか?」
「いいえ。でも編集長がそんなぬるーいことするなんて、なにか事情が有ると思って当たり前だし。食べる? 美味いよ」
海堂がさしだしてくる乾菓子の袋を遠慮なく摘まみながら、犬飼は有給中と言いつつしっかりと乗せられているデスクの上の伝聞や資料の写しを見つつ、やれやれとがさごそ整理を始めた。その内に思い立って、先程霖助の店で入手して懐に入れぱなしにしていた紙片を取り出し、デスクの上で広げる。
『この件には関わるな』
紙片には様々な切り抜きされた文字で、そう読める文面が貼り付けられていた。
翌日。
『横浜裏街で男性の遺体発見さる。調べによれば身元は近くの娼館に勤める戸之森霖助(二七)――』
ばさり、と、今朝の朝刊に偶然見つけた三面以下の欄に目を通しつつ、犬飼は無言で紙面をデスクに放って捨てた。
(これ以上は付きあいきれない)
椛がひそかに思う。
霧雨になっていた黒白。
白澤になっていた上白沢。
犬飼になっていた犬走。
(違う……)
椛は腕組みして――違う、これは犬飼の行動だ――と思いつつ、自分も急速に犬飼になりつつあるのを自覚していた。現に霖助に会いに行き、「例の件」の調べを頼んだことは自分の記憶からすっぽり抜け落ちている。いや、違う違う、と、椛はぶ然としたままで口元をさすった。「犬飼の中の椛という自分」がそれを自分の行動と認識していないだけだ。
(今ここにいる私は、本当に私なのかしら)
自信が驚くほどに緩慢な速度で傾いていくのが分かった。犬飼になったら、果たして自分はどうなるのか、いや、そもそもこれは「真実」なのか? 自分が蝶なのか蝶が自分なのか、もしかすると椛という自分は、いや、犬走椛という幻想郷に住まう一匹の妖怪である自分は、この犬飼松はという人間の中に、何かの拍子に生まれた蝶であると、ただの想像か妄想の産物でないとなぜ言いきれる? そう、もしかしたら自分が、犬飼松はというこの人間が、いつかどこかでその幻想郷とやらの話か、それに似た「おとぎ話」でも聞きつけ、それが今、自身さえも自覚しないところで生まれ育ち、「自分」である犬飼松はの顔をしている何者か、犬走椛という天狗として生まれ、この世界が異変である、「夢」の産物であるなどと、まことあらぬ奇奇怪怪な妄言を生み出しているのかもしれません。真実は誰にも分からないのですよ? 人間にも妖怪が何を見ているのか分からないんだけどね。人間にも……では、妖怪は? 妖怪には、人間が何を見ているのか、それが分かるのか?
(妖怪にも人間が何を見ているのか分からない……。……。ん?)
パチリ。
「……」
「ん? どったん?」
隣のデスクでお茶をすすっていた海堂に言われ、「え? ああ」と、目をぱちくりさせていた犬飼は、返事をし、ふとオフィスにかけてある時計に目をやって、
「あ、ちょっと出てきます」
と、海堂に言った。
「夕方には戻りますんで、編集長には宜しく言っておいてください。あとで奢りますから」
「はいよ」
生返事で手を振る海堂を横目に、いつものように道具類を詰めた肩掛けカバンを取り上げ、犬飼は社会部のオフィスを出た。
「……」
椛は目の前に流れ落ちる滝を見つつ、瞬きの間に視界が入れ替わった目の前の景色を見て、眉間を軽くつまみ、それから、大きく伸びをして欠伸をした。犬歯をどうにかしまいつつ、滝の陰から出ると、ほんのり緩くなった水の気配とぽかぽかと匂う春の気配を含んだ日差しが目に優しく射しこんできて、獣の目を二、三またたかせた。
椛は川からちょっと離れて胡坐をかき、懐の煙管を取りだした。火を入れ、すぅーと煙を吸い込む。美味い。
――邸内。
室内に妙な緊張感、いや、殺気、か。が漂った。
ガタン。
その沈黙にも似たほんのわずかな間を破ったのは、部屋の入り口にあるドアーであった。
室内の面々が思わずそちらを見やる中、勢い良く開かれたドアーの向こうから姿を見せたのは、千代田むら、――そして、何と口惜しげに顔をゆがめたむらの後ろで手首を取っている、
犬飼松は、であった。
「犬飼さん!?」
室内にいた一人、有栖川いざ夜が、大変驚いた顔で叫んだ。しかし、それとは対照的に、ソファーに座ったままのマエリベリヰは静かに紅茶のカップから手をはなし、「犬飼さん。大丈夫でしたか」と、声をかけた。
「何故……」
と、その腕に捕らえられたむらが、無念そうに唇をかむ。
「残念でしたね。トリック、というやつです。西洋の探偵小説なんかで言うね」
犬飼は淡々と、しかし警戒は解かないままに言った。
「意表を突いてみたのですよ。あなたが殺してなどいない人間が、もし遺体で発見されたら、僕を襲った当人であるむらさんはどう思うか、とね。どうも思わないかもしれない、でも、ひょっとしたら? 僕の発案なんかではなく、ハァンさん、メリヰさんの発案によるものではありましたけどね」
犬飼は言うと、「さ、いい加減、その物騒な物を手放してください。屋敷の外に官憲の方方がおいでになっています。逃げたりできませんよ」犬飼が言うと、むらは一瞬逡巡したが、「くっ……」と、うつむいて、がしゃん、と手にしていた小刀を床に落とした。犬飼がそれを拾い上げ、同時にむらを離して、「失礼」と、ちょっと前に押しやって距離を置く。
「……」
放られたむらは、うつむいたまま、唇を引き結んだ。それに、今まで沈黙を保っていた千田が歩み寄り、「むら」と、厳しい声で呼び、上げさせた顔に、パン、と平手を見舞った。
「……」
そのまま、何も言わない。
やがて、頬をおさえて立ちつくしていたむらが、その目から、「っ……」と、涙を流しはじめた。肩が小刻みに震える。
「千田さん。ご覧の通りです」
「……」
「千代田さんの行動が何を意味するものであるか、それは官憲さまの前でお話ししていただきます。私共にそれ以上を問い詰める権限はありませんので」
「……」
「ですから千田さんはご自由になさってください。私の語った話は今のところはただの限りなく推論に近い、与太話です。今ここにある真実は一つのみ、それはむらさんが私の推論を耳にされて何故か、それを、手にした物騒な物でどうにかこうにかしようとしていただけ。私はそれを以て、官憲さまの手に事の真相をお渡しするだけです。さ。犬飼さん。申し訳ありませんが、彼女をお連れするのを手伝ってください。それでは失礼を致します」
マエリベリヰは言うと、犬飼と共に、むらの背中を押して、部屋を出ていった。
千田憲兵、旧名、千代田剣平が、警察に出頭したのは、
『――その日の夜遅くになってからであった。』まで読み進めてから、藍は栞を挟んで本を閉じた。
(おっとっと――)
と、ぱたぱたと屋敷の廊下を歩きながら、目覚めた紫がうん、と伸びをしているのまでを感じ取りつつ、ひとりごちて、忙しない挙動を押さえがちにすると、とん、と廊下に正座し、目の前の襖を開けた。
「お目覚めの加減、いかがでございますか、紫様」
藍が、ふかぶかと頭を下げて言うのに、今年は物好きにも布団で冬眠していた紫は、ねぐせのひとつもない寝巻き姿でほほ笑んだ。
「とても良い加減だわ、藍。あなたの用意してくれた寝具のおかげで、良い眠りが楽しめましたわ」
「それは良うございました」
「ねぇ、もう桜は咲いているかしら」
「まだ三分咲きといったところかと」
「あらら。思ったよりはやく目が覚めちゃったわね。もう少し寝てようかしら」
「恐れながら今日は布団を干すのにいい日和です。寝るなら枕をかかえてスキマへどうぞ」
「そ? まぁいいか。それじゃあ霊夢のやつの顔でも見に行こうかしらね。藍、着替え」
「畏まりました」
人里。
寺小屋の近くまで妖怪の類がやってくるのは、天狗とはいえあまり歓迎されないが、そこは適当に流して、椛は子供らのいない廊下を渡り、目的の上白沢がいる教部屋へとやってきていた。
「御免――」
「――あっ! お外道様や!」
「ホントだ!」
「お外道様だ! うわぁ、本物だ!」
「すげぇ、ふかふかしてる!」
「尻尾もふもふだぁ」
「耳おっきぃー」
「こら! 何するんだ! やめんか!」
わらわらと群がってくる子供らを叱っていると、教卓にいた上白沢が言った。
「皆。お外道様が嫌がっていらっしゃるぞ。やめなさい」
「はーい」
「はーい。何やつまらんのぅ」
「毛並みすっごいやわらかかった!」
「耳もふもふやった!」
上白沢が来てぽかりと一人ばかり殴りつけながらしっしっと追い払うと、ようやく子供らはめいめいに教部屋のそれぞれのところに散っていった。
「どうもご迷惑をおかけいたしました」
「お前の処ではどういうものの教え方をしているんだ。もっと妖怪は怖がるものだと教えておけよ」
「教えてはいるんですが、何分私がこのようなものでして、なかなか手こずっています」
「そういう問題か?」
椛は言った。上白沢はさして堪えていないように、ちょっと微笑むと、「私に用事ですか?」と、つかめない表情で言ってきた。
「それは私がここに来た理由について心当たりが無いという意味か?」
「いいえ」
「そうか。……いつ目が覚めた?」
「一昨日頃です。もっとも何故だか、私が眠っていたようなことは誰も言っていません」
「魔法使いの小娘はもう目が覚めているだろうか」
「う~ん。ちょっと分かりかねます。何分人里の外で起こることは把握しがたくて、でも、こちらには来ていませんよ」
「まぁ、いいか」
「座ったらいかがですか? お茶をお出ししますよ」
椛は勧められるのに「いや」と言い、しかし茶は頂くと言った。
しばし。
子供らが引けた後の教部屋で、椛は茶をすすりつつ、
「何だったのだろうな、あれは」
と言った。
「あれ? 何となく分かったから目を覚ましたのでは?」
「そういうものだったのか? じゃあ、上白沢殿は見当をすでに見出したのか?」
「まぁ、……いえ失礼、いえ。実は私も何となくです」
「そうか……」
「ただ……」
「ん?」
椛は聞きかえしたが、上白沢は、あ、いえ、と、失言を気にするようなそぶりで言った。
「八雲殿は……」
それから、ちょっと考えるように、女性らしい細い顎に指をあてる仕草で言った。
「?」
「八雲殿は、あれで結構人間臭いところがあられる方です。もしかすると、あれはだから……」
「スキマ妖怪がどうかしたのか?」
「えぇ」
上白沢は言った。寺小屋の外から、子供らの遊ぶ声や、わぁっといった歓声が遠く聞こえる。そんな間を置き、窓の外にしていた視線を落としてから、また上白沢はぽつりと言った。
「人の夢、歴史のくびき」
「……」
「甘い一欠けらの夢の断片を誰かとともに見たいと思うのは、人間にありがちな強欲です。人間臭いということは、しかしそういうことなのかも」
「犬走様は、なぜ抜けだすことが出来たのか、覚えていらっしゃいますか?」
「……? いいや」
椛は言ってから、少し考えた。それからまた口を開く。
「あの夢、なのか何なのか、よくわからん世界で、私は次第に自分が消えていくような感覚を覚えはじめた。人間の中に人間としている私本来の私が、徐々に何かに引きずられていくような感覚があった。自分が夢なのか、あれが夢なのか分からなくなるひと時を感じはじめた。それは不快ではないが、どこか取り返しのつかないような、そんな危うさが感じられた。結局最後には、私は私があの世界にとっての排されるべき異物なのだと勝手に決めつけた。そしたら頭の中で思考ではない、何かの声が囁いた。私は確信がくる時を待ち、気がついたら元の私に戻っていた」
椛は言った。そして言ってから、やはり今の言葉に、どこか自分でない何者かの意思が介在した感覚に囚われるところを感じ、また、怖気にも似た感覚が、密かに尾の毛を逆立たせるのも感じた。
「上白沢殿。この世界は、私は、夢なのか?」
気がつくとそう言っていた。そして、言ってからかぶりを振った。
「いや、何でもない。申し訳ないが、今言ったことは忘れてくれ、上白沢殿」
「ええ」
教卓。
犬走が帰った後、上白沢はとんとんと教書のたぐいをまとめつつ、ふとごちた。
(人の夢、歴史のくびきか。それは人ならざるが、それゆえ人である者にもまた同じように)
まとめ終えた教書を手に、教部屋を出る。辺りは薄く闇が下りはじめ、逢魔が時の気配を含みはじめている。
(まぁ、八雲殿もご苦労なされている身だ。ここは一つ見ないふりをしておくのが一番というものか……)
上白沢は勝手に決めながら、まだ外で聞こえている子供らの声を聞き、それを帰らせるべく、すたすたと早足に廊下を歩いていった。
間。
全ての場合がそうではありませんが。
低俗や下劣といった言葉がもし本来の意味で使われるのなら、
たとえようもなくそうであるというのなら、
それは前者を指します。
全ての場合がそうではありませんが。
19XX。
某国某所。
昼休みから帰るなり、編集長の高花が「犬飼」と、犬飼を自分のデスクに呼びだし、昨夜提出していった記事の文面が書かれてある下書きの原稿用紙の束をばん、とかるく放ってみせた。
「お前よう、この記事はなんや」
「はぁ」
「仕事なめとんのか。書き直せ。全部やぞ」
「はい」
「それと、例の先生、お前のとこの担当やろ。今日あたりヒマ見て行ってこいや。失礼無いようにな」
「はい。わかりました」
「よし。戻れ」
高花の許しがでると、その人よりちょっとつきでたあごをしゃくられ、犬飼はやれやれと内心思いながら、失礼します、ときっちり頭を下げ、自分の机へと戻ってきた。先ほど指摘された原稿を横に放り、ごそごそ、と、机の中の新しい原稿を探していると、隣にいた海堂が、ひょいとさっきの原稿用紙を取りあげ、ざっと目を通しはじめた。
「うっわー、何何、この文章。居丈高というか、喧嘩売ってるわね。何、何かしたの?」
「どうもしませんよ。何というか、まぁ――……憂さ晴らしです。僕も、こんなもんが通るなんて、毛一本ほども思っちゃいませんよ」
「へー。じゃ、何? 巷で流行のマゾヒステイックにでも目覚めたとか?」
「こういう仕事を仕事としてやっていると、時々こう、どうしようもなくむらむらとしてくるのです。そのむらむらを放ったらかしにしておくのはよくないことなので、たまにこんな風なことをやるのです。よくない癖ですが、どうにも性分らしくてやめかねます」
「あなたも変わったたちね。男気らしいというのかしら、昨今では」
「よしてくださいよ。これでも女ですから」
「おら、海堂! くっちゃべっとらんで、先週の海難事故の記事書けとるんか!? きりきり書けぇ。口やなく手ェ動かせほんまお前!」
はい! すみません、編集長! と、きちっと答えながら、「じゃ、また後でね。あ、今夜飲み行こ」と、ひそひそと言って、自分の席へと戻っていく。さてと、と、犬飼は手帳やペンなんかを確認し、いつも持ち歩いている肩掛けカバンに放りこみ、
「ちょっと出てきます。帰りは夕方で」
と言い、海堂に目線と手振りで了解をもらいながら、がたがたと机を立った。
新聞社を出て数刻。
昨今女だてらに自転車などというはいからなものに乗るのは目立つので、犬飼はいつもの男物じみた質素なはかまに着物、洋物の長シャツを着こなし、肩から小柄な体には大きな肩掛けカバンを下げ、ちょっと頭にのせたハンチング帽を直して、自転車のスタンドをおろした。小学校はぼつぼつ下校の時間らしく、犬飼がつく頃に、ちょうどチャヰムの音が鳴っていた。先生、さようなら。さようならー。という、子供らの声を背景にしつつ、すれちがう小さい視線がひそひそ、くすくすと好奇心に満ちた笑いで自分を見送るのもそれほど気にせず廊下をわたり、「ねー、あのお姉ちゃん、男の人の格好しとるよー」という声も聞き流しつつ、目当ての教室の前に立つと、「御免下さい」と言って、
「あ、きしゃのお姉ちゃんや!」
「本当や。こんにちはー!」
「お姉ちゃん今日はドロップもっとらんのー?」
「今日もへんな格好やなー」
と、子供らの(何やら残っていたらしい)みじんも無礼をわきまえない対応に、「ごめんねー。今日はもってきてないのよ」などと適当に答え、「あら、先生は?」と、子供らに聞くと、どうやら職員室に行っているとのことを、子供ら特有のわらわらとした応答から察した。
「ねーお姉ちゃんたまには遊んでやー」
「そやそや。こないだみたくふっちぼうしようやー」
「えーかくれんぼやろー」
「お姉ちゃんいつも先生とお話してばっかやん!」
「はいはい、後でね」と答えて流しつつ、「もーお姉ちゃん適当ばっかやん!」「あそぼやー!」「大人がウソついたらあかんねやで!」と非難の声を聞き流しつつ、あ、先生さようならー、はい、さようなら、という、聞きおぼえのある声を聞いて、きたな、と犬飼は思った。
「あぁ! 犬飼さん。来てらしたんですか」
カラカラと教室の戸を開くなり言った白澤に、犬飼は、子供らに袖をひっぱられたまま、どうも、と応じた。が、白澤はそこから一転子供らに目を止めたらしく、
「こら! お前たち! 宿題終わったのか!? まったく!」
わーっ、わーっ、と、子供らがばたばたと自分の席に戻る。それからこそっと「何や、自分が話すんのに都合悪いからおっぱらったんやで」と、子供らのはしっこそうなのが言うのを見るにつけ、つかつかとそちらに寄り、ぺしん! と頭を叩く。
「いったー!」
「そんな強く叩いてない。ひそひそ話なんかするな、まったく。ちゃんと全部終わらしてから帰るんだぞ」
「つごー悪くなるとすぐ叩くやん! 先生あかんやねんで、そーいうの!」
「黙ってろ、まったく。――お待たせしてすみません。それじゃお前たち、ちゃんとやってるんだぞ」
はーい。あーあ。というわらわらした声を背にしつつ、白澤は、「場所を変えましょうか」と言いつつ、犬飼を教室から連れだした。
「相変わらず大変そうですね」
「えぇ……でもまぁあれでかわいいものですよ。なにか失礼をしませんでしたか?」
「いえ。仰る通りかわいいものですよ」
「あら。また」
白澤は可笑しそうに笑いつつ、ちょっと口元に手をやった。犬飼とはちがい、袴に袷の着物、それから履き物を履き、いかにも女教師といった感じの白澤は、真っ直ぐな黒髪を肩のあたりに垂らした、気の芯としていそうな美人である。黙っていれば良家の家柄という生まれにふさわしい気立てのよいおしとやかな女性だが、生憎と犬飼はなかなかがんこで一心とした強そうなところがあるのを、付きあいのうえで知っていた。
良家の家柄とはいうものの、その根っこはもともと武門であるらしく、本人も古流の剣術やら古武術を体得し、修めているところであるといい、なるほど子供らを叱るときにみせる妙な気迫はそのせいもあるか、と、ひそかに犬飼は思っていた。
「あーキリコ姉ちゃんやー」
「ホンマやー。なんでここにおるん? お姉ちゃん中学いったやん!」
「何だよ、卒業したからって別に来ちゃいけないって決まりはないぜ? かわいくないちび共の面倒みにきたんじゃないから安心しろよ」
「なんでやー。あそぼうやー」
「ほやで。鬼ごっこしたい!」
「私はがきんちょの遊びは卒業したの。ほらほらがきんちょはがきんちょ同士で仲良くしてろ。んべ~」
「なんやそれ~かっこつけー」
「にあっとらんわー」
「いたたた!」
「ひたいひたい!」
「あ~ん? 何か言ったか~? おった!」
「桐子。年下の子に何をしているんですか」
「あ、白澤先生。ちょうどよかった~探してたんだよ。な! 宿題でわからないところがあってさ~」
「まったく、私に聞きに来ちゃだめって言ってるでしょ。貴方ももう女学生なんだから……」
「そう言わないでさ。ほら、いい先生を選ぶのも、勉学の基礎じゃん?」
「調子がいいんですから……」
「あれ、記者さん? あ、すみません。こんにちは」
「えぇ。こんにちは」
犬飼はかるい調子で頭を下げてくる女学生、桐子に、帽子をとって挨拶した。昨今珍しい異人めいた風貌のある女学生で、生まれは聞いたことはないが、調べたところによると某造船会社で名を知られる成金の霧雨と呼ばれる霧雨の家の次女に当たる子だそうだ。世間で仇名されているのとは裏腹に愛嬌があり、人当たりも結構気さくなことで、この学校に在籍していた頃は、愛されっ子(ひそかに、だが)で通っていたらしい。異人の血が混じった子特有の金色の髪はくせがかってのびた様が見事で、柔和な顔立ち(黙って立っていれば、西洋人形のような愛らしさを秘めた目鼻立ちだ)によく似合っている。
「あ~……。お邪魔だった、かな? ごめんね、出直すわ」
「いえ、僕は別に構いません。桐子さんとはそう知らないわけでもありませんし、ご一緒にお茶でもいかがですか? カフェーにでも行きましょう。僕のおごりです」
「あら、いいの? そんじゃ、甘えちゃおうかな。ありがとね、記者さん!」
「まったく現金なやつだな……」
さて。と。
カフェテラス。テーブルを囲みながら、誰にともなく椛は言った。何となく頭が寂しく、ハンチング帽をかぶったまま、茶をすする。
「で、どうなんだ」
そう口を開くと、女学生の格好をし、頭にはかんざしもさした魔法使いが、ひょいと肩をすくめた。同じく、頼んだ紅茶をすすっていた、上白沢の半妖も、首をふるような、渋い顔をする――女教師の格好に、髪の色まで違うので、違和感はおおいにあるが、表情はまぎれもなく本人だ。そのような意思を感じる――。椛も同じく頼んでおいたカステイラを一切れさして口に運んだ。もむもむと甘味を食べながら、無言で収穫のないことを示して見せる。
「やれやれ。こりゃ~参ったな」
「博麗の巫女は相変わらず変わり無しか。私たちだけがこうやって目が覚めているというのも不自然だが……」
「案外目が覚めているつもりなのかもしれないぜ、本当に。なんにせよこんな異変はじめてだしな~」
「上白沢殿。何か見解は無いのか」
「申しわけありません。私にもわかりかねます」
上白沢は相変わらずの様子で首をふった。ふむ、と椛は吐息するように視線をうつし、ふと向こうっかわの窓ガラスにちょうど映るような自分の容姿をながめ、嘆息した。いつもの自分の顔には変わりない、短めの頭髪もその長さには変わりないのだが、今は強制的に無理やり染めぬかれたかのような墨染の黒髪で、髪型も若干違い、これが思ったよりも違和感がつよく、頭の獣耳がなく、人間の耳がついているのもまた落ちつかない。とにかく、と窓ガラスから目を離して、椛はざわつく店内を適当に流し、話し合いに意識を戻した。
およそ三日ほど前。
幻想郷が何かおかしい。と、そう椛が気づいたのはそのくらいである。だから、この異変(なのかどうか)がいつから始まっていたのかは知らない。というのも、幻想郷が何故かいたるところ全て、元あったものが消え去り19××年頃の某国某所(と、椛が目覚めたときから、彼女の頭の中でくり返し主張してくる。何かが)になってしまったという「記憶」と「認識」が、「目覚めた」(というのか知れないが)椛の頭の中にすでにあったからだ。それだけではない。自分が今数十年ほど生きた人間で、元武家の血に連なる没落した家柄の血筋で、小さい頃から勉学に励み帝都へ上京してから新聞記者となった苦労の半生と、人間の父母(父は十四の時に死別している)との記憶と存在、また今の自分の人間関係と犬飼松は、という名前であること、それらひっくるめた全ての記憶が事細かにあった。もちろんそれが全て偽物の記憶であることを椛は知っていたのだが。
そして、二日前。
ねつ造されるだけされたような記憶をたよりに白澤京子――上白沢慧音をどうにか見つけ出した時には、彼女はすでに椛同様、「目覚めており」、これを異変? のようなもの、と、認識し、自覚も持っていた。聞いたところでは、それが自分に来たと感じたのは、椛より四日前の昼、何の前触れもなかったそうだ。そして、彼女もまたねつ造された記憶の中からつてを辿り、霧雨桐子――あのしょっちゅう巫女といっしょに異変にかまけてくる泥棒魔法使いの娘を探しあてたのが、椛が目覚める一日前のことだそうだ。彼女の見解については特に椛たちと変わるところなかったので、割愛する。(目が覚めた、と自覚したのは三人の中では一番早く、二週間前になるそうだ)
「ま、どっちにしろだ。私たち三人だけ目を覚ましてるってのはちょっとおかしい。絶対に他にも目の覚めてるやつがいるはずだ。たぶん」
「では、なんで見かけないのです?」
「さぁな。目は覚めたけど、今の世界が気に入ってしまって、気づいたことも忘れて満喫しているのかもしれない。なんせヒマで頭のねじが緩んでるやつのたまり場だからな、この幻想郷ってところは」
(ありえるが、お前が言うな、と言ったところだな)
「面倒くさいことになっちまったよなぁ。霊夢のやつが目を覚ましているんなら、カンで適当に異変の原因なんか探しだしてくれるのに」
「お前だっていつも異変だのなんだのに首を突っこんで、原因を探しあててるようじゃないか」
「う~ん、そりゃそうなんだけど、今回のはどうもいつものとは感じが違うんだよなぁ。もっとこう、得体のしれない力が働いているというか、おいぞれとは口に出せないものがどうこうしちまってるんじゃないかというか……」
「それがお前の見解か」
椛は言いながら茶をすすりつつ、らちのあかなさを感じて、頬杖をついた。どのみちこの三人の組み合わせでは、もっとどうにかしていこうという積極性に欠けるのを感じる。よくも悪くも、見解に突出したところのない、しいて言えば普通や並といった領域で物事を見るような三人だ。他所ではどうか知らないが、この郷でより面白くするどくやっていくのなら、もっとねじ曲がったものが必要だ。(もちろん具体的にそれが何かということも椛にはわからない)
結局無難に様子見という結論なのか、なんなのか、そんなところで上白沢が時計を見上げ、そろそろ戻りましょうか、と言った。
「そうだな。じゃ、白澤先生。勉強宜しくね」
「構いませんけどね……」
しばし後。では、またお願いいたします、と帽子を脱いで白澤に頭を下げ、取材を終えたメモと手帳をカバンにしまいこんだまま、椛は新聞社への道を、ガチャンとスタンドを上げて、こぎだした。
(まだスキマ妖怪の姿を見ていない、か)
先ほど教室に戻って、女学生の偽装をしつつ、霧雨が何の気なしに言った。確かに、椛自身の顔見知りも、みんながみんなそれらしき姿を確かめられているかというとそうではない。(それらしい者はいかにもそれらしい者としてそこにいる、というのもこの異変のようなものの特徴のようだ。おかげで上白沢を探し出すのにも時間がかからなかった)それもたしかに気にかかるが、問題はやはり八雲紫だろう。
(たしかにいい加減で大ざっぱな妖怪らしいところもあわせもつ輩だが、結界やら郷の異変をいち早く察知するのは否定しがたいところだし、それらに敏感な対応を取るのもまた認めねばならんところだ。……黙って見ている理由か……)
いくつかぼんやり想像はしてみたが、元々椛の頭はそういうことに特化してはおらず、むしろ苦手であるらしく、考えるはしからモヤモヤとわだかまって霧と散っていくようだった。
翌々日。
街頭で人ごみに揉まれつつ、椛は弁壇に立つ弁士たちの白熱喧々とした論語を聞き、内心辟易していた。犬飼自身は少なからず昨今の論調に耳立てて関心高いたちらしいが、椛にとっては人間たちの喋くることなど毛並みにつく埃の一切れほどの関心しかなく、おまけに喧々ごうごうとした野次馬どもの殺気熱気で頭が充てられてくるようだ。それでも取材は取材ということらしく、いちいち几帳面に手帳に書き込みはしていた。
「いやぁ、すごい熱気ねぇ。さすが今一番の論壇だけあるわ。噂に名高いだけあるねぇ」
横から言ってくる先輩記者、というより記者づきのカメラマンだが、川城にとが活気のある声で言ってくるのを、(むろん、彼女がおそらく河童の河城にとりであることは、椛もうすうす予測していたが、どうやら彼女は椛らのように目を覚ましてはいないらしい)そうですね、と無難に笑ってかわしながら、ふと場内がざわつき、一旦ひときわ音高い野次が飛ぶのを聞きつつ、「お、出た出た。松は、出たよ」と、川城が言ってくるのに、はいはいと言った様子で、椛――犬飼は熱心な目を弁壇上に向けた。
「檀上、社民保守労働党末席、社名鳥文子女史! 静粛、拍手にてお迎えください」
馬鹿野郎ぉ、引っ込め、と罵声が飛ぶ中、弁壇に、きりっと、若い面を何処か不敵にひきしめた黒髪、松葉の髪飾りをし、はいからな色柄の袷と袴に、昨今流行のハイヒヰルなる履き物をかつ、かつと鳴らして、檀上聴衆を見下ろす女性が、す、と頭を下げた。
「いっやー、あいかわらず雰囲気悪らつだねぇ。まぁ、無理もないか」
「ですね」
地方から弁士として帝都に名を上げた社名鳥卿の娘であるこの文子は、現在軍縮を声高にさけぶ同党の父とは裏腹に、富国強兵による国力拡大路線を声高に叫ぶ、いわばきわものの女傑である。年は未だ二十を越したばかりと若いながらその才媛ぶりは、学生の時分、本人のたっての切望により、諸学、留学の際にも、ぬきんでた語学の才能ともども高く評価され、大弁士の娘という立場にも臆さず、己の意をより国政に届かせるため、と、女性の身ながら弁士という立場に立った実力、手腕は、他他が認めるところではあるが、只でさえ女性の権利、人権などというものが取り沙汰される昨今では、従来の古古風風たる保守、マチズモを気風とする世論の中では、その鬱々したる先例として、批判の声が後を絶たない。
「――現在亜細亜圏の諸諸国の抱えます課題はひとえに富国、又、其の為の強兵、即是、軍備の拡張、及び、旧政権の抱える古代的、国風的な負債の早早たる是正、とくに我が国においては最後の一つがやはり絶後にして大きな壁、といえる情況であります。これは何も旧態的マチズモ国家たることを指して言っているのではありません。昨今の世界情勢において最重要たるは強く高潔たる国家たること。弁論一部の現政権高官がたの一部が意見するよう、他国と比肩される立場にたつ力を早急に身につけることであります。先の戦禍における好景気がもたらした国益は、たしかに莫大たるものでありましたが、その実、景気の先行や、あくまでも経済的な観点という目で見ますなら、それはあくまで一時の膨大的な富の流入から、有効な使い道を見いだせず、その多くが特需により富を得る権利を引き当てた、あくまで一部の人間に渡り、放散的かつ浪費的な消費をされ、結果として、国益に不十分なものしか還元できないままに終わってしまいました――」
凛とした声で続ける文子と野次を飛ばす連中を聞き流して見つつ、犬飼は気なさげにペンを走らせていたが、ふと、(これは犬飼達が人ごみの少し外れたくらいにいたからだが)「ん?」と、聴衆から抜けだして歩く2,3人の男らに目をいかせ、ちょっとハンチング帽を上げた。男らは犬飼の視線に、偶然、のようだが気づき、しかしじろりと見ただけでどこかへ行ってしまった。あのマスコミ関係者を見る特有の目は左巻きの者らのようだが。ボシュッ、ボシュッ、と隣でシャッタアを切っている川城の何も気づいていない様子に紛らせ、犬飼は再び檀上の文子に――と、そのときは一瞬椛になっていたが――やれやれと目を戻した。
(あれでは接触する機会もない。あのあほたれガラスのことだから正気かどうかも判断つかんしな……)
椛は檀上で力強く語る先達で上司の射命丸文そのものの娘を見上げ、まあいいかと考えた。どうせあのあほたれガラスが正気だったところで、何か当てになるわけではない。むしろややっこしく目ざわりなことになるだろう。
(天狗に出来るのは、扇動くらいのもの、と、自ら語る通りでもあるがな、それは)
「――今こそ我らは、天皇陛下に統制権を委譲し、軍略的観点に則った政治を行わせるべきであり、それは現在の惰弱なる、非実力的、非行使的にして、一部の報道関係者が弁略によって民衆に言力を与えるこの実情から脱却し、――」
しばし後。
ま、こんなもんか、と川城が言ったのを契機に、すでに文子から(文から)数えて二人目を過ごしていたこともあり、「僕の方も大丈夫そうです」と犬飼は告げて、やっと熱気溢れる屋外(でなければ頭沸騰させてぶっ倒れる者が出そうな様相だったが)に出て、フー、とハンチング帽をぱたぱたと扇ぎ、近くの広場に建っている大時計を見る。
「まだ帰社するには早そうですね。そこらの店でティヰかアイスクリイムでもどうでしょう?」
「お、いいねぇ」
「おごらさしていただきますよ。こないだもお世話になりましたしね」
「あら、いいの。悪いわね」
「いいえ――」
犬飼は言いながらふと通りのすみに目を向けた。あの服装は、と、仕事柄特有の、目端の利く視線をそれとなく向ける。どこかで見た覚えのある男たちだ、という思考を合間に挟んで、ハンチング帽をかぶり直す。「ん? どうしたの」と目を向けてくる川城に向かい、「先にそちらの店に入っててください。注文もとっておいて構いませんので」と言いつつ、男らの妙な様子を気にしつつ、そちらに向かって駆けてゆく。男らが路地を曲がり、どんづまりらしきところへ入っていくのを目に止め、さらに追いかける。
ひっそりとした路地。
何でこんなところに連れこまれたのか知らないがともかくも犬飼は、途中、都合よく転がっていた細めで手頃な大きさの角材を拾い、何事か声を荒げて、文子の手をつかみ上げている男らの一人を目がけて、するどく踏みこんで横に薙いだ。ガツリと肘の辺りを打たれ、ぐわっと声をあげて文子の手を離す輩と男らの隙をつき、両者の間に割って入りながら、文子を自分の背中に庇い立てするように、角材を構える。
最近は竹刀を握る機会もないので、少し鈍っているかもしれない、と思いつつ、握りにくい角材を、それなりに握り直す。
「何だ、若造! 貴様、邪魔だてするならその女共共痛い目にあってもらうぞ」
「下がって、」と、何か言いかける様子の文子を抑えつつ、犬飼は男らをじろ、と見据えた。
(一刀流は慣れていない、が、まぁごろつき程度のようだし、今の私でも何とかなるだろう)
頭の中で、ちらりと椛としての見解を浮かべ、すぐに犬飼に立ち直る。
「大の男が女一人囲んで腕を掴みながらものを言うなんて見目のいいことじゃないですよ。憲兵様に来てもらいましょうか」
「ふん! その女郎が憲兵に助けを請える身分か。国を愚弄していやがる女なんぞ」
「貴様先頃あの場に居よった者だな。どこぞの藪記者だか知らんが、藪は藪らしくとっとと社に帰ってその女を批判する論調でも書いて国民どもに尻尾を振っているがいい、このドラ犬風情め」
「ご高説どうも有難う御座います。それで結局やるのですか。やるならやぶさかではありませんよ」
「ちっ、よく舌のまわるドラ犬だ。もういい、白けたわ。おい、いくぞ」
ああ。ちっ、と、ぶつぶつ言いながらも、男たちは意外にあっさりと引きあげて行く。犬飼――椛は――ちょっと拍子抜けに思いながら、それを表には出さないで、角材を下ろし、からん、とそこらに放った。それからあらためて文子を振り返る。
「大丈夫でした、か、……?」
すると意外なことに文子は、はー、とため息をつき、かりかりと額の辺りを掻いて、さも呆れたというかやれやれもう少しだったのに、とでも言いたげな、先程檀上で喋くっていたときの印象はどこへやら(もっとも犬飼と――椛としても、だが――あまり意外とは思わなかった。なぜか)、実際「やれやれ、もう少しのところだったのに」などと形のいい唇をぼそぼそと、何か呟かせてもいたが、見ていると、「ま、いいか」と言い直し、
「あぁ。すみません、何でもありません。――どうも失礼、危ない処を助けて頂きまして、有難うございます」
「はぁ」
「社名鳥文子と申します。先程ご覧になっていた方、でしたか? お見苦しいところをお見せしまして」
「いいえ、お気になさらず。怪我がなくて何よりでした。それでは僕はこれで」
「あ。お待ちになって。これ。私の名刺です。記者さんならご存知かもしれませんが。是非とも御礼がしたいので、後日屋敷へお越しください。家の者には取り次いで置きますので。それでは」
「あ」と犬飼が何とも否とも言わない間にさっと横を通り抜けると、そのまま文子は何も言わず、また額をかりかりと掻きながら、やれやれ、とぼそりと言いながら、路次の入口へと消えた。
しばし後。
夕刻。
社からの帰り道、犬飼の顔をして自転車をこぎながら、椛は漠然とした居心地の悪さを感じていた。偶然、とは思うが、思いもかけない
形で文子に接触を図ることができた。……何か釈然としないものを感じるが。
(偶然か。こんな三文芝居のようなすじ書きが……。いや、違うか。そう、この違和感は、何だ? 鼻がムズムズするというか……)
風邪かな、と犬飼としての思考がちらりと入り込むが、それをわずらわしげに払って、ふと椛は思った。
(この私は本当に私なのかしら)
翌昼。
新聞社。
昼休みから戻ってきた犬飼を、高花がデスクに来るように呼んだ。何事か、と、何も思い当たることがなかったので行ってみると、「お前宛てや」と、すっと机に一通の封筒、それもまるで身分卑しからぬ人からの誘いのごとき立派なもので、犬飼も西洋式にだがしたためられた貴社、犬飼松は様という名書きに、思わず目を白黒させそうになった。
「何ぞあったかしらんが、名前知らせんなら自分ン家の番号教えとけや。事務が目ェ白黒させとったぞ」
高花はそう言うと、「ええぞ」と、戻るよう促して、ばさりと読んでいた新聞を開いた。(粗野な印象とは裏腹に高花は堅気で教養のある男である。デスクの横にはよく購読している他社の経紙やら大衆紙、果ては有名どころの同人誌までが山と積まれている。素性は謎だが、恰幅の良さから、彼の前を探らず類推する者がほとんどだ)犬飼は失礼します、と言って自分の机に戻りつつ、ちら、と送り主の名を見た。社名鳥文子。一体どうやったらたったの半日程度で自分の調べがつくのだか、甚だ疑問に思ったが、考えても、そこにはあまり類のよくない考えが浮かぶだけだったので、犬飼は素直に考えるのをやめた。おっかなびっくり封筒を開いていると、ふ~と茶をすすりながら歩いてきた海堂が、犬飼の手元をのぞくなり、おぉっと、と、この先輩記者特有の、どこか憎めない、謎のうざったさで、早速反応してきた。
「うっわ。何何、すっごい。何、鹿鳴館?」
「いいえ。まぁ、なんといいますか……。僕も事情がまだよく呑み込めていないというか。まあ、何だか助けてもらったお礼のようです」
「ほぉう? 何何?」
「まぁかくかくしかじかで」
「はあ、まるまるうまうまと。何ともやるものだね、あなたも。やはり私が見込んでいるだけのことはあるというか、女傑ね。女傑」
「何ですか、それ」
苦笑いしぎみに言うと、ふむふむと文面から目を上げた(あまり内容を読んでいる風ではなかったが。というか、この招待状、そもそも中身までが全て英文字で書かれてあり、不親切この上無い。もっとも、達筆な筆調で書かれた文字は、達筆すぎて読めないことを除けば、単純な英文であり、和訳の経験がある犬飼には、ほぼ全て読み解けた)海堂は、「で、パーティヰにはその服で行くの? 私の知人に、その方面のツテがあるから、口利こうか?」と、笑いながら言ってくる。からかい半分のようなので、犬飼もかるく応じた。
「止してください。お茶の誘いだそうですよ。何か高級な菓子でも出てくるんでしょう。お金持ちは道楽がお好きですからね。この服ででも行きますよ」
「あらま卑屈ね。貴方のそういう処、私あんまり良くないと思うけれど。まあ行ってらっしゃいな。折角だから楽しんできてね」
海堂は言いつつ、持っていた茶をすすり、それをこと、と置くと、さてと、と、昼に入る前から取り組んでいる某大手商船会社の海難事故の記事に取り組み始めた。仲の良い先輩との雑談にキリがついたらしいのを感じつつ、犬飼はデスクの引き出しに書状を放りこもうとして、ふと止め、それを懐にしまい込み、「ちょっと出てきます。夕方前には帰ります」と言い置き、んあー、という海堂の生返事を聞いて、カバンを取った。
駅。
新しく建設された某市の駅舎は、あいかわらず人でごった返している。元元は、ひと昔前まで富民の道楽と言わしめていた鉄道だが、国が特需により懐を温めた企業に便宜をはからせ、半官半民の鉄道公社を設立して業務を委託(押し付けと呼ばわる者もいたが、先の戦禍において鉄鋼業の位置づけが割高となった現在は、莫大な利益をもたらすものに様変わりしている)することで、運賃が大幅に値下げて見直され、またかねてからの好景気も手伝ってか、今や鉄道業は立派な大事業のひとつとなっている。古くからの移動の手といえばつまり馬であったが、昨今では犬飼のような一記者の身分でも会社から経費として運賃が出るほどには、遠出の足として、汽車が一般化していた。からからと駅から出てくる馬車を横目に見つつ、切符売場に並んでいると、ふと向こうに見目の立つ西洋風のひらひらとした服(ふわふわ、という表現が適切そうな様子にも見えたが)を着て、少しウェエブのかかった、見事な金髪を揺らした娘が、閉じた日傘を片手に、先で地面をつき、何か案内の文字でも書いてあるのだろうメモ紙を持って、場ちがい気にあっちを見たりこっちを見たりしている。通行人らの邪魔にならぬよう壁際に退けてはいるが、その姿は、目を引かれる者の目は引いていくほどに目立っているようだった。
犬飼はちょっと考えて袖手にして頭を掻いたが、結局、腕を下ろすと、どうぞ、と、後ろに並んでいた妙齢の婦人に言い、ありがとう、と、丁寧に言われるのに、ハンチング帽を上げて挨拶を返し、そのまま壁際の娘の方へ行った。
「Excuse me?」
と、丁寧な語調で話しかけると、あら、と、(日本語だった)娘は、と、その娘を見て、椛は――犬飼の顔をよそおってはいたが――薄薄そうではないかとも思っていたが、改めて見ると、驚きを隠せなかった。
(スキマ妖怪、じゃ、ない? いや、ちがう。これは間違いなく……しかし、……?)
「あ。失礼いたしました。何かお困りのようでしたので」
「あら……。申し訳ありません」
娘は、犬飼が――椛が、だが――少し驚いた風にしたのを気にしてか、少しぷっくりとふくれた感のある唇を動かして、流暢な日本語で答えてきた。向かいあってみると、顔の輪郭をやや覆うほどの豊かな金糸の髪に、ほどよく感情を表す茶色の瞳が、何とも言われない趣で、こちらを見返し、にこりと微笑んでくる。
「どうもお気遣いなく、と言いたいのですけれど、どうにも人の多い場所の手順は不慣れでして。あ、」
「切符、ですか?」
犬飼は失礼、と言いつつ、娘が覗きこんでいた紙を取り、覗きこんだ。
「ええ。横浜の知人に会いに行くのです。先刻手紙で招待を受けたのはいいのですけど、私ったら見栄を張って、案内の方を頼まずともよいようなことを言ってしまって……」
「これなら僕と行先は同じようですよ。急ぎなのですか? でしたら今すぐ並んだほうがいい」
ガタン、ガタン。
車内。向かい合わせの形の座席。
件の娘の案内を終えると、(切符をどう買ったらいいものか迷っていたらしく、その後は一人で行けますから、と丁寧に言われたため、犬飼もそれ以上の手出しは控えておいた。淡白とも取られかねないが、正直犬飼もああいう身の上いやしからぬと言った人間はどうもそりが合わず、困っているのでなければ話しかけもしなかっただろう)駅弁(これは自費なので、いつものクセで、安い握り飯をつつんだ簡素なものを選んで食べた)を食べ終えて、何の気なしに外の景色を見ながら、煙管をやりたいのを我慢し、茶をすすっていると、「あら」と、先程聞いて、まだ耳に残っている声が、耳に届いた。果たして見上げると、そこに立っているのは先程の娘である。
「あぁ。すみません、いきなり」
「いいえ。無事に乗れたようで良かった」
「えぇ。ありがとうございました。あの、――よろしかったら、こちら、いいですか?」
「ええ。どうぞ」
犬飼はちょっといぶかしむような顔をしたが、娘はそれを見透かしたように、済まなそうな笑顔を作った。
「人の多いところは慣れなくて。あちらに席は空いていたのですが、さすがにお話し相手になって下さる方が、なかなかいないもので」
「まぁ、汽車の旅というのはどうにも退屈ですからね。外の景色を眺めることくらいしかやることがない」
「同感ですわ」
「汽車の旅というのは初めてで?」
「いいえ。でもそれほど多くもありません。向こう、あ、そういえばまだ自己紹介もしていませんでしたね。失礼しました」
「いいえ」
「私、マエリベリヰ・ハァンと申します。こちらには留学で来ていまして、生まれはエゲヰレスの方ですの」
「へぇ。留学ですか。そいつはまた勇ましい」
「あら、そんな大層なことではございません。どちらかというと、私の我がままで来ているようなものですもの。特別、能力だのなんだのがお目にとまって、ということではございませんわ。私の家柄があって成っていることもありますし、むしろ感謝するべきことだと思っていますわ」
「一体いつ頃からです? 此方へはお一人で?」
「えぇ。もう二年になります。さすがに慣れない地に娘一人ほっぽりだすというのは外聞も、また常誠にもよろしくないと考えられたのだと思いますけれど、今も付きの者が一人。向こうにいたときからなじんでいる婆やで、なにかとよくしてもらっていますわ。……ちょっと口うるさいのがたまにキズですけれど」
ハァンは言いつつ、ちょっと悪戯っぽい顔をした――犬飼の顔で応じた椛は、実はかのスキマ妖怪をよく見ているわけではなかったが、確かに今のちょっと含んだもののある顔は、まさしくあの妖怪を思わせるものがあるな、と思っていた――まま、目を細めた。一聞きするには一見口さがない物言いのようだが、不思議とそれ特有の嫌味な感じを微塵も感じさせないな、と密かに犬飼は思った。その内、自分の事ばかり話していますわね、と、ハァンが言い、
「犬飼さんは、何をされに横浜へ?」
「あぁ。向こうにちょっと恩のある人がいるのです。いえ、それが目的というわけでもないのですが」
「そういえば――あ。失礼。すみません。実は、私、先ほどはじめてお目にかかったとき、犬飼さんのことを、最初男の人だと思ったものですから……。お恥ずかしいですわ」
「いえ。このような格好をしているのが紛らわしいのです。全く構いませんよ」
「いいえ、――実は、それもそうなのですけれど、その、所作のほうが、どうにも男気らしいというか。そんな次第で。お気にさわったらごめんなさいませ」
「いえ、一向構いません。社の先輩達にもよく言われますので」
「社、というと……」
「あぁ。申し遅れまして。僕、新聞記者です。東京の某新聞社という処で、社会部の記者をやっています。横浜へ行く本命も、実は取材です」
「まあ。そうでしたの」
「見苦しい格好ですが、これはこれで、色々と便利なのです。言葉遣いもこのようにむさ苦しく思われるでしょうが、実は僕、私自身、このような格好をしていると、どうにも、その、充てられるというか。わざとやっているわけではありませんから、どうかご勘弁下さい」
「いえ。よく似合っていますわ。ああ……失礼でしたわね。こんなこと言うの」
犬飼もさすがに苦笑い気味にしながら、何も言わなかった。
横浜駅。
と思しき所か、と、心中で椛はそのように否定し、ハンチング帽の庇をちょっと直す仕草をした。犬飼自身は退屈な旅の最中、良い有意義だった、と好ましく思って(取材の目的について聞かれ、横浜の娼館の取材だ、と答えた時は、さすがに気まずくなったが、向こうの御仁もなかなか配慮をわきまえている人のようで助かった)いるようだったが、椛当人は少なからない疑念と困惑に曝され、心中で顎をさすり、ふとまた煙管をやりたい衝動になるのを隠した。
さて、と、とはいえしかし、あのスキマ妖怪のことは後に思考をするとして、今は犬飼としての用事があるから、そちらに早いとこ赴かねばならない。
駅舎からほんの少し入った横道。
昼も少し下がったばかりというのにこんな格好で此処をうろついているのは感心できたことではないが、上京して1,2年、この通りに下宿を借りていた犬飼には、そこらの格子の隙間からこちらを向いている好奇と商売っ気に満ちた視線から、人通りの少ない道や、さり気にすれ違う、ハンチング帽を目深にかぶった人種のはらむ危うい空気など、それらは全く馴染みを覚えないものでも無かった。もっとも懐かしい、と思う類でも無いが、そういういささかの経験は全て自分にとって無駄となるものではない、というのが(年を経ればまた変わるのか?)犬飼の正直な意見であった。
とにかく椛――犬飼の記憶を辿る椛という自分は――は、記憶にある通りの佇まいの店、それと同じものはどこにでもあるという空気をはらんだ味気の無い外装の店の一つを見つけ、その入口に回り、帽子を脱いで、「御免下さい」と、店の中に声をかけた。
「……何だい? こんな時間に来ても、誰も」
「霖助さん。お久しぶりです」
「おや。松はか」
やや薄暗い店の中、受付の台についていた霖助が、この薄暗い中、よくも読めるものだという本を置いて、近寄ってくる犬飼を見やった。「こちらに戻ってきたのかい?」と、相も変わらず、ものに動じないような端正な眼差しのまま、特に親しみの無い、かつあまり口さがの無い昔通りの口調で言って来るのにちょっと苦笑いしつつ、(もちろん犬飼の顔をした椛は、この霖助とやらがよく文が訪れている香霖堂とかいう道具屋の店主だと知っていたが、あまり知己でもないのと、話す縁も無い相手であるのとが相まって、どうでもよいものと思っていた)「いいえ。取材ですよ。いえ、こちらの店ではないのですが」と、帽子をかぶり直しつつ言った。
「そうか、君は記者になったのだったな。調子の方は如何なんだい?」
「ぼちぼちとやっています。三面の担当をちらほら任される程度ですが……」
「まぁがんばることだね。なんだ、それじゃあ取材のついでにわざわざ寄ったのかい。相変わらず律儀だな、君は」
「何半分は趣味も入っています。此方に来ると如何にも霖助さんの顔が気になってしまうものですから」
「何度見に来たって変わりゃしないよ。急ぎでなかったら茶でも淹れようか。丁度菓子も余っているんだ」
「へぇ。珍しい。姐さん達に食べられていないんだ」
「あの子たちなら、今おかみさんから禁令を出されているんだ。余り暇だからと食べ過ぎるとね。肉が付きすぎているのも宜しくないらしいね、仕事柄」
「あはは。成程」
しばし。
夕方頃とは言ったが、霖助の処を辞して取材を十分終える頃には、帰りを少し過ごしそうな時間にはなっていた。まあ急ぎの仕事はいくらでもあるので、申告した時間に遅れれば、編集長と仕事上での信用を大きく損なう恐れはあった。
(世知辛いものだ、人間は)
などと、ちらりと椛の思考を挟みながら犬飼は東京駅のホームに、と思しき処に、だ、と心の中で言い直し、ふと、そこですぐ向こうのベンチに目を止めた。目を止めたのにはそれなりの理由が在り、一つはその人物が、見覚えのある人物で、何やら挙動に困った風なところが見受けられたからだった。ホームに下がった西洋式の丸時計の文字盤を見、まぁ一寸ぐらいなら良かろうと判断し、後ろで汽車が音を立てて動きはじめるのを見送りつつ、「どうかしましたか?」と、犬飼は、はっとして、ベンチからこちらを振り仰いだハァンに、ハンチング帽を脱いでちょっと礼をしてみせた。「あら……」と、おっとりとしたような、今朝方見た困ったような笑みで、ハァンはこちらを見て、ちょっと頭を下げた。
「どうも。偶然ですわ」
「ええ。すみません。失礼かとは思ったのですが、何か困ったように見受けられましたので」
「いいえ……。そうですわね……。大したこと、と言えばそうでもないのですけれど……」
「……。靴、ですか?」
「えぇ……。嫌ですわ、私ったら間が抜けていて。下りる時に、人ごみに交じっていたんですけど、踏まれてしまって」
「それはひどいですね。相手は? 謝りも無かったんですか?」
犬飼がちょっと眉をひそめて言うが、ハァンは「いいんですのよ。お急ぎだったのでしょう」などとのたまって、何処か頼りない。犬飼は呆れた風な目になりそうになるのを堪えて、一寸失礼を、と言って、ハァンの足もとにしゃがみこみ、後ろの底が少し高くなっているハイカラ物のブゥツの具合を見た。成程、ちょっと底の部分の高くなっている端っこが、後ろから人の足で踏まれたように凹んでおり、これでは立ち上がった時に足首をやってしまいかねない。
(異人の娘だ、と見てからかわれたか)
偶然と見れば見えるが、犬飼はそんな様に思った。
(是では歩きにくくて仕方なかろうな。足でも捻りかねない)
「仕様が無いですね、これは。仕方が有りません、僕が手を貸しましょう。……失礼しても?」
「ええ。ですけど、悪いですわ」
「構いませんよ。さ。……おっ、と」
立ち上がりかけた時に、案の定、うっかり安定を崩したハァンを、犬飼は抱き止めて、「大丈夫ですか」と、声を掛けて、「えぇ……」とすまなそうに言うハァンの肩に手を回して、それからもう一方の手を取り、ゆっくりと歩き出した。
駅から離れて、道。
夕暮れ。
からからと廻る車輪の音を聞きつつ、「落ちませんか?」と、後ろに声だけ掛けて、「えぇ」と、荷台に座り乗りをしたハァンが言うのを聞きつつ、しばしして、犬飼は、「この辺でよろしいですわ」というハァンの声を聞き、カラカラ、と、自転車を止めた。駅までは勿論自転車で移動していたが、それが幸いして、ハァンを後ろに乗せてくる事が出来た。空にちょっと目を移せば視界の端がほんのり暮色を越していて、日の光が向かって来る方はその残り日が既に目に優しくなり始めていた。慕情か。犬飼の顔をした椛はふと思い、人間ならば或いは、と犬飼というこの人間の顔に戻りつつ、
(全く何時になったらこの茶番みたいな世界は終わるのかしら)
と、厄体無い事を思いつつ、自転車から降りて、ハァンを見た。ハァンは笑っていた。
「本当にお世話を掛けてしまって……」
「いいえ。困った時はお互い様……じゃあないですが、お気になさらず。逆に私の方がハァンさんに色色気を遣わせてしまった様で」
犬飼が申し訳無いと頭を下げるのに、「そんな」と、少し慌てたように(委縮させてしまったか、と、人知らず犬飼が思うのが、椛には分かった)手を胸元に当て、「頭なんて下げないで下さいな」と、ハァンが言って来るのを聞く。
「私本当に感動しましたの。いくら困ってる人がいたからって普通はなかなかできませんわ、……なんて、女性に言われてもあまりうれしくないかしら、こんなこと」
「いいえ。大げさな事じゃありませんよ、本当に。それじゃあ靴のこと、あとは靴屋の方に任せてしまいましたけど、代金は宜しくお願いしますね、ハァンさん」
「えぇ。あ。どうぞ、メリヰと呼んでください。何だか名字で呼ばれると、少しばかりかた苦しくなりますわ。こちらの礼儀ではないかもしれませんけれど。私、人には、マエリベリヰというよりも、そう呼ばれることが多いのです。呼びにくい、というか、少少長いでしょう。マエリベリヰ、なんて」
「そうですか? 其れでしたら、僕の事も松はとどうぞ。あぁ。苗字だけしか名乗っていませんでしたね、そういえば。道理で呼べない筈だ」
「いいえ。分かりました。松はさん」
ハァン、メリヰは、くすくすと可笑しげに笑った。何か遠慮ばかりしているのがくすぐったくなったのだろう。その事が犬飼にも分かって、柄にも無くはは、と、眉尻を下げて笑った。
「――すみません」
「あら。如何して謝るんです?」
「いいえ、つい。いいえ。やっぱり失礼ですわ。こんなの」
「どうして?」
犬飼が聞くと、手の平の方を口元に当てたメリヰが、少し眉尻を下げた。
「私ったら、だって、ああ、今、あなたのそういうお顔を見て、やっとこの方も女性なのね、なんて思ったんですもの」
「あらら。それは失礼だ」
犬飼はそう言って、またひとしきりメリヰと笑い合うと、「あ。それじゃ、そろそろ」と、頃合いを見て言った。いや、本当は楽しくて時間を忘れそうだっただけだが、それもジャアナリスト失格だなあと思ったので、見て見ぬ振りをして置いた。何時になく心が晴れ晴れとしている。
「えぇ。またお会いできるのを楽しみにしていますわ。そのときはまた自転車乗せて下さいね。これでも身体の軽さには自信がありますのよ」
「はい。喜んで。其れでは。ユーアーウェルカム、レディヰ」
ちりん、と自転車のベルを鳴らして、犬飼は走り出した。
(何なんだろうな、これは)
と、心の底で椛としてのうんざりした心地を味わいつつだが。
翌々日。
昼を下がってしばし、デスクで原稿に(その時自分が何を考えていたか犬飼、いや、椛はよく覚えていない。ただその時の自分はどちらかと云えば椛寄りで、苦手な机仕事に辟易していた)取り組み、ペンの尻で頭を掻いていた犬飼を、「犬飼」と、何事か電話で話していた高花が呼んだ。――口調と会話の短さから察するに内線だろうとは思っていたが――少少意表を突かれながらも「はい」と犬飼は返事をしてすぐ机を立って高花の処へ行った。高花は「客や」と、部屋の扉口の方を指して、言って見せた。高花のデスクからはほとんど右手すぐに見える扉口(と言っても常時構わず出入りする社員達の為に扉は開け放しで外は丸見えだ。空調が碌に効かないからこの方が良かったが)に、見事な白髪をした和装袴姿の男が一人立ち、音も無くこちらに頭を下げて来ていた。
応接室。
白髪の男、と云うよりか、壮年過ぎの老人である。袷の下に長シャツを着込み、日除けのハット――洋風の洒落た物だった――を机の上に置いた姿は折り目正しく、腰一つ曲がった処の無い何処と無く剣士か年経た将兵を思わせる(はいからな格好は然しよく似合っていた)面構えで、「どうぞ」と茶を置いた犬飼に「是は失礼を」と述べる礼は丁重にして品があった。
(名家の使用人、て処かな)
盆を片付け、自分の分の湯呑みの前に座った犬飼に、老人は、静かな口調で「突然の訪問、誠に失礼を致します」と前置きして、
「先日御送りいたしました書状の件について、日にちが整いましたので、お知らせに参りました。ついては、今下、○月×日、午後二時にて、御迎えに上がらせて頂きます。宜しければ、ご都合を御伺いしてもよろしいでしょうか」
「……。……え?」
犬飼は口にしてからしまったな、と思った。仮にも下手に出ているとは言え年長者に対して失礼な口の利き方だ。が、老人は、「はて」と、年嵩じみた、男前の名残りのこす口元と白いものの多く混じった口髭を動かし、「おお、いかんいかん」と、急に言い、懐から一枚の名刺を差し出してきた。
「失礼! いえ。話を飛ばし過ぎました。思えば何処ぞの誰とも存じ合わせて居りませんでしたな。いやはや。申し訳無い」
老人は言い、「私、この様な者で御座います」と、渡した名刺の向こうから言ってきた。やや黄地ばんだ色の合成紙にタイプされた文字が浮かんでいる。社名鳥家執事、千田憲兵。
(社名鳥。ああ……)
あほたれガラス、と思い浮かべかけ、椛は何とか犬飼の意識について行った。犬飼は其れを見て、「あぁ」と、漸く思い当たった様だった。
「失礼致しました。はい。確かに先日に書状を頂いて居りました」
「いいえ。申し遅らるる事御座いませぬ。あれ等は文子様の悪い難癖が出た物で御座いましたから。幾ら先方が記者様とは云え、全て英文でしたためた上、一方的に形式に則ってお出しする様、私めに一一念押ししてお送りするなど、悪癖で御座いましょう。とは言えここで云うても始まりませぬ故、どうぞご無礼をば御容赦頂きとう」
老人、千田が頭を下げるのに恐縮して「いえ」などと言いつつ、犬飼は取りあえず千田の持ってきた用件を再度改めた形で聞き、「失礼します」と言って、懐から手帳を取って「えぇと……」と、確かめ、文子が招待を希望しているらしい日にちで都合の良い事を、口頭で伝えた(後で知った事だがこの様なやり取りは、あの様な書状の形式に則るなら、都合の良い日取りまで全て書状でのやり取りで済ませるのが形式だそうだ)。
三日後。
社名鳥家の迎えは、如何にも昨今風と云ったこしらえの、御者つきの馬車で有った。高花には言われていたものの、流石に自分の住む古通りに場所を指定するほど大胆には為られず、(結果的にはその方が良かったようだ。周囲からの視界を遮らんとする箱型向かい合わせの馬車は貧乏書生や地方出の平記者が住まう木造りアパァトに停まられたら何事や有らんと好奇の目を集らせついでに大家にも睨まれる事疑い無い)指定した社にやって来た迎えの者に恐縮しつつ、犬飼は慣れない高級な革地、布地を使った馬車のソファーに腰掛け乗り込んだ。馬車に乗り込んだ時すぐに気が付いたが、向かい合わせになる形で乗っていた千田が、「どうも御機嫌よう御座います」と、好好爺とした様子で頭を下げた。犬飼も、実を言えば椛自身も、何ぞかこの両手に杖を着き、良く見れば長めで有るらしい髪を後ろで縛った佇まいに、何処か敬意を覚え、敬った。
(なうての剣士。其れも我らに匹敵する程極めた者か。恐らくは幻想の住人の一人だろうが)
社名鳥邸。
ここで本来の主家に仕える者の役目に戻ったらしい千田に手を取られ(無論千田のエスコォトのおかげで無理無く受け入れられたのだが)、令嬢のごとく馬車を降りた犬飼は、流石の名家らしき大仰な社名鳥家の敷地を目にし、自然と心呑まれるものを覚えたが、何故か不思議と、逸る心を押さえ抱えた帽子を押さえて、整えられた庭園と、昨今特需により得た者らの建てた様な西洋洋館風の成金としたものとは又一線を画す風観を持つ洋館を見、「はぁ~」と、感嘆の声を漏らす程の余裕は有った。
「おや、片田舎の出の御方と云うから昨今風の見聞は無いのかなどと、失礼な事を存じ上げて居りましたが、ひとかどの目はやはり持って居られるようで」
「あ。いえ。済みません。いえ、滅相も有りません。只仕事柄、社名鳥家の邸宅は実の処拝見するのは初めてでは無いのですが、実際に見るのと聞くのとでは、やはり違うなと」
「はは。何しろ古い家ですからな。私もこちらで働く様になったのは最近ですが、余り数多の主人さまに仕えてきたと言えるでは無い身では有りますが、最初は確かに戸惑ったものです。他家の職人を呼び立てての建とは違い、元から此処に有った明治の豪商の家屋を其のまま改築、修繕を加えた物と伺っております」
広い庭を歩き、重厚な扉をくぐって、邸内。
「暫しの間、お待ち下さいませ」
と言い残して去った千田と入れ替わりで、こちらは巨大で豪奢なシャンデリヤ、また今の様に人を待たせる為なのだろう、又馬車の仕立てとは趣きの違う、来客用に設置されたソファアと丸卓(色柄物を使用した、全体に装飾芸術を感じさせる)に着いた犬飼の前に、年嵩の和装服姿の老婆がしずしずと歩み出て、「どうぞ」と、犬飼の前に、よく冷えた麦茶、と思しきものを置いた。礼を言うと老婆は微笑んで下がり、エントランスから少し入った広間には、犬飼一人がぽつんと残された。
(う~ん)
などと思考に成らない思考を浮かべつつ、「其れにしても立派な屋敷だ」と、然し妙に冷静さの有る犬飼の心地をやや訝りつつ、無関心に麦茶――いや、すすってみると、どうやら冷やしたティヰのようだった。この季節、正直薄目の生地のに変えているとは云え、犬飼の男物した格好は薄らと汗を掻くが――の様な物を「どぉん!!」
「おぶっ!?」
背後から突然、其れもでかい声で叫ばれ、口に含んでいた茶を吐き出しそうになりつつ、犬飼は口元を押さえ、声のした横を見た。すると、何やら(見目麗しい、と云うのが第一印象だったが、先の奇行が有り、犬飼にも椛にも其れは真っ先に年相応の、いや下手をすれば見た目よりも幼くすら見せた)其の当の犬飼の傍で行き成り奇声を上げる奇行に出たのは、年で言えば十二、三くらいの娘であった。こちらはこの屋敷に似つかわしい、如何にも西洋風のひらひらふりふりした服を着て、まるで繊細な人形の様だが、良く見ると良く日に焼けているのが見て取れた――とはいえ、当人は所謂西洋の血が混じって居る様で、顔立ちも日本人じみたものを残しながら整って(美形だ。其れも相当な)いる独特な物で、何より髪が見事な金色で、少しくせの有るのを頭の片側でまとめて居る、いわゆるサイドテヰルにしていた。目も澄み切った秋空のような深い青だ――。
(異人の混血? 此処の子かしら――)
「あなた誰?」
如何にも高級なソファアに寄り掛かり、かたぶき加減の顔から、青い目を一心に注いで、聞いてくる。犬飼は何となく苦手を感じたが、取り繕って「今日は。お邪魔して居ます」と、挨拶した。
「貴方は――えぇと。此処の家の子? かしら?」
「いいえ? 私はここの家の子じゃないわよ。あなたはお客様?」
「えぇ。そうよ。貴方は? 御名前は?」
「あら。レディヰにものを尋ねるならまずそちらからってお姉様がいつも言っているわ。あなたはどなた?」
「えぇ。是は失礼を。私は記者の犬飼と云う者ですよ。宜しく、御嬢さん」
「ふぅん、ミスタ、イヌカイ。日本の方は変な名前の方が多いのね。ちなみに私はお嬢さんではないわ。私の名前は――おっと。それじゃ失礼、ミスタ・イヌカイ!」
「シャルロット様? どちらですか」
言うや、すささ、と(何か変な仕草がこなれて居る様な、そんな動きだったが)、あっと言う間の機敏さで居なくなった娘と替わる様に、こちらは一風風変りな、犬飼の知識によると、向こうから輸入されたメイド服と云う文化服を、和装風に仕上げた、所謂昨今風の其れを着た黒髪の娘――とは言え、年は犬飼と同じかその近辺だろう。肩、襟に着かない長さに整えられた髪型に、慎ましそうながら、何処か其れは地の垢抜けた様子を押し隠しているように感じられる顔の両側に洒落た感じに編み込まれたおさげ髪と、其れを結わえる赤地のリボンを下げている――がエントランスに入ってきて、ちらりと犬飼を見て、一寸自分の大声を恥じ入る様な顔をした。其れから此方に近寄って来て、改まった様な顔で尋ねて来る。
「あの、急に申し訳有りません。今、此方に十二、三と云った年の、見目が可愛らしい、西洋風の女の子が来ませんでしたか? 金色の髪をこう頭の横で括る様にして居る特徴的な子なのですが」
「はぁ」
と、犬飼は言いつつ、寄りにも寄って犬飼のソファアの丁度背の裏に当たる処で「しー」とやっているらしいさっきの娘の気配を感じながら、「いいえ、済みませんが、ちょっと辺りから目を離していたものですから」、分かりかねます、と返すと、「そう」と、メイドの娘は言って、「失礼しました」と、何処に行ってしまったのかしら、と言いつつ、エントランスを抜けて二階へと上がって行った。その様子を見ていると、やがて「ばぁ」と後ろから出て来た腕に、がっしりと身体を捕えられ、犬飼はおっとと、と、慌てて紅茶を置いた。
「ありがとう! 良い人ね、あなた」
言いながら、娘――シャルロット、と云うのだろう、まぁ――は、「んっ」と、一寸くすぐったげにした犬飼に構わず、ちゅー、と目の下辺りに唇を押しつけて来た。
「今の人は? 貴方のお家の人?」
「えぇ。そうよ。ミス・イザヤ。家に来たのはつい二年かそこらだけど、仕事ができるから、私とカレンお姉様の世話を任せられているの。でもしょっちゅう私がどこかに行くから苦労しているの」
「あぁ。苦労させてるのは分かってるのね……」
うん、とあっけらかんと言いつつ、ふとこちらに抱きついていたシャルロットは犬飼の身体の匂いを嗅ぐ仕草をし、一寸きょとんとした顔をした。
「ねぇミスタ・イヌカイ。そういえばさっきからなんで女の人みたいな喋り方しているの? それに安物だけど香水もちょっとふっているでしょう。なにか女の人みたいだわ」
「それは私が女の人だからよ、シャルロット。まぁ、こんな格好をして居るけど」
「あら、まぁ。そうだったの? 私ったら失礼したわ。ごめんなさいね、ミス・イヌカイ。ありがとう。それじゃさようなら」
言うと、シャルロットはちゅー、とまた犬飼の、今度は目の上辺りに唇を押しつけて、其れからたたた、とエントランスを走り、柱の陰に行ったかと思うと、其処からちょっと身体を傾けて、グッバイ、と、手をひらひらさせて見せた。犬飼も、一寸苦笑いしながら、金色の尻尾頭に向かってばいばいと手をひらひら振った。其の丁度すぐ後に、千田が下りてきて、やや取り繕い気味になる犬飼を、「どうぞ。御嬢様がお会いに為られます」と、頭を下げて呼ばわった。
屋敷の二階。
廊下を歩くほんの一間の間だが、犬飼、いや、犬飼の顔を繕った椛は、其の表情の裏で、さっき会った娘と、メイドの事を、あれは霧の湖の吸血鬼の妹と、そのメイドではないか、と、思い切り類推していた。
(あれも目が覚めていない類か)
あの二人が何故此処にいたのかは深く考えず、椛は然しその事も今はあまり深く考えなかった。元元幾ら幻想郷の主立った住人たちの中の顔ぶれとは云え、椛自身は面識すら無い、其れこそ文の発行するとか云う何ちゃらと言う学級新聞紛いのあれで、知識として知っているのみだ。無論、魔法使いの小娘に引き合わせれば何事か有益だろうが、今は何事も思いつかない。
(これも様子見か。やれやれ)
思いながら、千田がこつこつと扉をノックし、「御連れしました」と述べるのを聞きつつ、椛はまた自分たる自分が犬飼に立ち戻るのを自覚しつつ、丁寧に先を越して開かれたドアーをくぐった。意外にも室内には先客が居り、それが文子と向かい合わせのソファアに座って仲良さ気に歓談していた処に入って来た犬飼をちょっと見て、「あら?」と、小さく小首を傾げる動作をした。先程見たはしこい娘よりか一つ二つ年上と思しき娘は(比べたのは、どうやら先程の娘と、同じ様な西洋風のふりふりとしたひらひらの、これもやはり人形其のままの様な可愛らしさを以て、やや長めのくせのある髪――こちらは絹の様な細さを持った茶色で飾りの大きなリボンを揺らしている――をもち、何処かしら似通った風の有る、先程の娘同様の美形然とした顔立ちから、何となく察せられるものが有ったからだ)その異国の情緒溢れる茶色の目を一寸煌めかせ、好奇の浮いた目で犬飼を見つつも、其の内気づいた様になり、文子の方に向き直って、かちゃりと紅茶のカップを取って口づけた。
「ああ。御待ちして居ました、犬飼さん。どうぞお座りになって?」
はぁ、と――内心椛の顔では不信を顕わにしながら――冴えない返事をしつつも、御邪魔致します、と一つ礼をして、犬飼は文子と向かい合わせの、先客の娘が座っている隣に失礼を致します、と言い、伺いを立て、「えぇ、どうぞ」と、微笑んだ娘に一つ礼をし、脱いでいた帽子をソファアの背に置いて、上質な質感をもった生地の上に腰を下ろして座った。隣の娘との歓談に水を差す形になったのを思考の端に留め置きつつ、
「本日は御招きに預かり、誠に有難う御座います」
と、精一杯の社交的な挨拶を発した。
「そんなにお固くならなくっても結構ですよ。日ごろ弁士の先生方との歓談やなんかで、肩の凝る会話の仕手は散々して居りますので。今日お呼び申し上げ、来て頂いたのは、お礼の意味合いです。どうぞ寛いで行って下さいまし」
「はぁ、その様ですか」
と、少し背筋を緩めながら文子に受け答えしていると、横の娘が、わざと臭い咳払いをした。其れを見て、一寸文子が微笑む。
「ええ、御紹介が遅れましたわ。花蓮さん。こちらは記者の犬飼松はさん。そして、犬飼さん。こちらは私の友人の花蓮・エドワァズです」
「どうも、はじめまして。犬飼さんと言うのね。ご紹介に預かりました花蓮・エドワァズです」
「ええ。宜しく。犬飼と申します」
「ふーん。イヌカイ。なかなかいい名前ね。記者さんてことは頭のいい方なのね。たたずまいも何だか品があって素敵。ねぇねぇ!」
うおっと、と、ちょっとびっくりしたように目を開く犬飼に構わず、花蓮は鳶色の瞳をきらきらさせて、犬飼の腕に抱きついて来る。
「犬飼さん、年はおいくつ? うーん、見た感じ二十歳かそこらかしら? 若くていらっしゃるのね。それになんというか、こう、――とってもお綺麗だわ。まるで女の人みたいに柔らかいけどどこか引きしまっていて――とってもステキ! 失礼かもしれないけれど、そこらの女の人より綺麗で――ううん。とってもハンサム。そうね!」
「あの――」
「ね、さっき聞いたと思うけど私の花蓮って名前、英語のカレン、て名前とはちょっとちがうのよ。花に蓮って書いてね。この名前は日本生まれのお父様がつけてくださったの。私、ほら。見るとわかると思うけど、エゲヰレスの方の血が入っていてね。この髪の色、瞳の色ととってもよく似合ってるって言われるの。ほら、光に当てるとちょっと不思議な色に輝いて見えるでしょう? 妹のシャルロットみたいな金髪と海の向こうの方みたいな青い色も本当はうらやましいんだけど、あなたはあなたでとっても綺麗よ、ってお母様がとっても褒めて下さるのよ。だから私、自分のこの髪と目がとっても好き。ほめられるのも大好きよ」
「は、はぁ」
「ねぇ、この人、文子さんの恋人? とっても素敵だわ。私こんな綺麗な男の人って見たことない。あ。桃の香水をつけていらっしゃるのね。お洒落で素敵!」
言いながら、無邪気に腕に擦り寄って来る娘、花蓮に困っていると、
「花蓮」
と、文子が一寸人の悪そうな笑みを浮かべて――其れはあのあほたれガラスが時々漏らす顔にとても良く重なって、犬飼の顔で困りながらもぶん殴りたいな、と、椛はちらりと思い浮かべたが――「そこいら辺にしておあげなさいな。犬飼さんは御困りですよ」と、やんわりと諭す風に言って、茶を口に含んだ。
「あら、何? やっぱり文子さんの彼なの、この人?」
「いいえ。でも花蓮。其の調子だと、貴方そっちの趣味も結構いけそうね」
「え? 何が?」
「其の人は女の方ですよ」
文子が笑いながら言うと、「え?」と、花蓮は一寸犬飼から身体は離さずに――からかわれていると思ったのだろう――そのまま不意に胸の辺りに頬を埋め、「あっ」と、暫くして騒がしい声を上げた。
「やだ。本当! 立派なお胸があるじゃない。もう! 文子さんたら分かっててからかったわね!」
「あはは。済みません。でも花蓮、貴方も少しがっつき過ぎですことよ? 其れでは日本の殿方は内気になってしまいます。あちらとは違い、此方の男の方と言うのはとても照れ屋でシャヰなのですよ。皆が皆そうという訳では有りませんが、人前で今の様な事をやられては、女性であっても大層戸惑ってしまいます」
「へー。そうなんだ。こっちの人たちはみんな奥手な人が多いのねー。あ、ちなみに文子さんは」
「失礼します」と、成り行きについていけないで居る犬飼が茶をすすって居ると、ノックの音の後に、先程聞いた覚えの有る声がして、また、「ん?」と、其の声を聞くと、一人はしゃいで居た(其の様子を見て犬飼は――其の中の椛の部分は是がよく幻想郷で話題を起こす紅い館の吸血鬼だと類推して居たが――此の娘は、幼い外見の割に、又随分と表情の裏表を持っていて、その切り替えが忙しないようだ、と思い、又其処に何となく此の娘のはしこさの様なものを感じ取った)花蓮が、
「あら。イザヤ。どうしたの?」
と、声をかけ、「はあ」と言う娘――イザヤ、と言うらしいが――イザヤの返答を聞いて取った。
「実は――シャルロット様が、また……」
「ああ。あの子またどっか行ったのね。屋敷で留守番させときゃよかったかな。それはそれでばあやに睨まれそうだけど」
「申し訳有りません」
「いいわよ謝らなくても。あの子が姿くらます時っていったら、カスミかカゲかっていうものじゃない。むだに頭が回るんだから、まったく。とりあえずかた苦しいから頭を上げなさいな、イザヤ」
「はい」
「どうせあの子がどこにいこうがこの家の中じゃ文子さんところの素敵なおじさまの目から逃れられないんだから放っときゃいいのよ」
「おじ様って歳でも無いですけどね、千田さんは」
「あら、おじさまよ。渋みがあってかっこよくってとっても素敵な方だわ。ジエントルメェンっていうのね。あこがれるわ」
その様に話していると、こつこつ、と硬いノックの音がして、千田の声がした。
「どうぞ」
と、文子が苦笑いを残したまま、ティヰカップを持ち上げて、其のまま口元を隠すようにして居ると、「失礼を致します」と、千田が入室してきた。
「御歓談の処、大変申し訳有りません。エドワァズ様の処から、迎えの方が到着致しましたので、御教えに上がりました」
「ありがとう。すぐに行くから、少しばかり待つように伝えておいて」
「畏まりました」と言い、千田は廊下に下がると、「姉様は?」と、手をつないで言って来るさっきの娘――シャルロット(何時の間に居たのか)に、「もうすぐ来られるとの事です」と、たしなめる様に言い、ドアーを閉めて、かっかっと足音を立てて出て行った。
「さて。そういうわけだから、また次の機会にでもごきげんよう、文子さん。今度はいつごろお邪魔しようかしら」
「そうですね。今は大した用事も有りませんし、暫くはいつでも構いませんよ、気軽に来てくださいな」
「それではごきげんよう。今度はそちらの素敵なお姉さんもね」
にっこりと微笑んで会釈する花蓮に何と言ったものかと固まっている内に、くすくすと笑って、花蓮は部屋を出て行った。
「元気でしょう? 何と言うか、御待たせして済みませんね、色々」
「はぁ、いいえ。そんな」
犬飼が恐縮すると、
「それで、椛」
「はい、何でしょうか文様」
文子が――いや。まて、と、犬飼は自分で答えてから、ふと、ぴたりと止まって、紅茶のカップを手にしたまま、――いや、犬飼では無い。このときは、完全に椛であり、それ以上でも以下でもないものになっていた。「ぶ」と、そう言いそうな顔の(実際はそう言わず、ちょっと口をそのような形にして)文子――いや、完全に文だが――が、ぶるぶると震えだし、やがてかちゃんと紅茶のカップを置き、カタカタと、しかしカップの耳はつかんだまま背中を震わせてうずくまり、うわぁ、と何気に上司に対する礼もなにもなく助走をつけて殴りたそうな衝動(殺意にもそれは似た)をこらえた椛の横で、ぶっ、ぶくくっ、くくっ、と、今の見目にはあまり似合わない、いわば理知的と対にあるものを引っさげて、「ぶっ……いま、今の、顔……」と、(わざとだろう)ぎりぎり聞こえるように言って、椛をさらに犬歯をぎらりとむきださせた顔にさせたが、はー、と、やがて顔を上げると、文子――と、文がひとしく入り混じったような――の顔で、ちょっと目のはしをぬぐった。涙が出るほど笑えたらしい。
「気づかれていたので?」
「ええ」
「いつ頃から」
「さてね。ま、そこら辺は好きに。重要なことでも無いでしょうしね」
「私と最初に接触した時は?」
「さてね。そこら辺はあなたの好きにしなさい」
落ち着き払って言いながら、文はいつもの人を食った調子で、袴の足を楽に組み、紅茶をすすった。
「ま、ここ数日の調査であなたの身辺に関するいくらかの推測と、その裏付けとなる情報は手に入れているわ。どうやらあなたが目を覚ましたのは最近のようね。そして近ごろあなたが、正確には犬飼松はが少しばかりひんぱんに接触をとっている人物が二人。こちらについても先日内偵を進めはじめましたが、どうやら私たちと同じように「目が覚めて」いる人たちのようね。もっともあなた達の会話を聞いた諜報の人はなにか言いたげにしていましたが」
「相変わらずの抜け目の無さで結構なことですね」
「はい、ありがとう。とは言ったものの、こちらから提供できるような情報、と言ったものか。ただの近況報告のようにも思えるけれど」
「ほかの連中や私たちの同胞は、どうしたのでしょう。文様なら調べを進めているものと思いますが……」
「いいえ。しかしどうやら先ほどの花蓮・エドワァズ、それとイザヤさん。あの二人にはどうも兆候は見られないわね。妹さんの方は何考えてるか分からないけれど、まぁこれは目が覚めていても私らの協力者にはなりえない。まぁ、あなたが接触している魔理沙と慧音先生には近々接触を図りたいと思うけれど、それにはあなたの協力が必要なので、見聞きしたことを言付けてください。頼むわよ」
「分かりました」
「ま、今回の話はこんなところかしらね。しかしなんとも奇妙なこともあったものだわ。ちょうど今はスキマ妖怪も寝ているしね」
「文様には何かお考えが?」
「特には。というか、考えも何も、なんというかね。必要性を感じないというか」
「……。それは?」
「ふむ」
文はちょっとうなって、(なにか言葉を逡巡させているように見える。その目の色を見るに、「さてどうやってこの犬コロに――ここは椛の私見である、ちなみに――分かるように伝えてやるか」といったところか)
「そうね。椛。ヒントを上げます」
というと、持っていた紅茶をズズ、と下品に音を立てて飲んだ。
「なんです?」
「博麗の巫女に解決できない異変はない。なぜなら、この郷で起こる異変と名のつくものは、全てどこかの誰かのヒマつぶしによるものだからよ」
「文様。あなたはもしやこの異変が何であるのか、見当がついているのですか?」
「そうねぇ、椛。私は人間の倍や数倍は頭が回ると吹聴してはいるけれど、実を言うとそんなでもないのよ。それに妖怪だからか人間みたいな細かいところまで目がいかないし、視野も狭まらないし、ちょっと昔の事は覚えていられないわ。全てのものは朽ち果てるし、記憶は腐る。覚えておこうにもそのままの形をとどめておくのは私ら化生の身でも無いかぎりは難しい。そこに残ったこん跡から忘れてしまったことを思いだすことができるのは人間くらいのものであって、私たちは人間ではないわ。まぁ人間にも妖怪がなにを見てるかなんてわからないんだけどね、逆に」
「なにか難しい話なんですか?」
「これがいつのことでその時自分がどこでどうしていたのかあなたはそれを思いだせるかしら」
「?」
文のすまし顔を見つめて椛は眉をひそめたが、文は、(いや、これは文子だ、と、椛は犬飼の顔にふっと戻りつつ思い)やがて茶をすすって、かちゃりとカップを置くと、チリンチリン、と、そばに置いていた呼び鈴を鳴らした。
「それじゃあ、取材の方は済みましたかしら、記者さん」
「ええ、御蔭で良い記事が書けそうです」
犬飼が言うと、丁度コツコツと硬いノックの音が鳴り、「御呼びで御座いますか」と、千田の声がした。
翌々日。
又も昼だった。外での軽食を終えて、どれもう一仕事と今一集中の無い自分を盛り上げつつデスクに着こうとすると、「犬飼」と、何やら受話器を取っていた高花が呼び、「はい、編集長」と、犬飼(この時にはすでにこの「高花」が上司の大天狗その人である事に疑いを抱いていなかった)はすぐさま高花のデスクの前に立った。「客や」と、高花が指さした方を見ると、つい数日前に千田と面会した応接室のドアーが有り、高花は行け、と促して居るようであった。はい、分かりました。済みません、失礼します、と、丁重に礼をして、犬飼は足早に応接室に向かい、コツコツとドアーをノックした。
「失礼します」
と、中に入ると、丁度今しがた立ち上がった――イザヤ、だ。文の言っていたところによると――数日前も見た娘が、そのままの家政婦姿で丁寧にお辞儀をしてきた。
応接室。
改まって(うっかり忘れていたので、空になっていたいざ夜の湯呑みに麦茶を入れて出直して来た為だ)ソファアに座った犬飼に、「突然の御訪問失礼致しました」と、頭を下げ、いざ夜、と言う娘は、――この時初めて名乗ったが、姓は有栖川、と云うらしかった――自分の身分を告げて、「これをお持ち致しました」と、犬飼に、此れも先日頂いた社名鳥家の書状に劣らず立派な其れを差し出し、手渡してきた。
「此れは?」
「御嬢様より、犬飼様を当屋敷にお招きさしあげるとの旨が書かれた文で御座います。ひいては、内容は其処に書かれてある通りですが、犬飼様の御都合を伺いたく存ずるとの事により、御伺い申し上げに上がりました。御嬢様のご希望によれば一週間後の○月×日、午後三時よりお招きしたいとの事ですが、犬飼様、御都合の方は如何でしょうか?」
「はい、一週間後、ですか。――そうですね、其の時間でしたら大丈夫かと。もし都合が悪くなった場合は連絡したいのですが――」
犬飼が言うと、
「畏まりました。其れではこちらが当屋敷の専用回線となって居ります。ご都合宜しからぬ時は、御連絡頂ければ問題無いかと存じます」
其れでは、失礼致します、と、言い終えるなり、いざ夜、有栖川はソファアを立ち、丁寧な礼をした。犬飼は、「ああ、一寸」と、やんわりと呼び止め、有栖川を振り向かせ、「何かお有りですか?」と、やや事務的な笑顔に苦笑いしつつも、
「お時間お有りでしたら、そこらのカフェーにでも座りませんか。折角来て頂いたのも何ですので」
犬飼が言うと、有栖川は一寸笑顔を引っ込めて、
「其れはお仕事上の言葉ですか?」
と、聞き返して来た。
「いいえ。個人的なお誘いです」
「其れでしたら、有り難く御受け致しますわ」
有栖川は言い、此処で漸く親しみの有る笑みを見せた。
暫しして。
編集部。
有栖川と十分かもう少し長く、と云った程度(思ったよりも親しみやすく、且つ垢抜けて居る、と云った犬飼の見立てを外さない人柄の娘で、職務上きっちりと弁えている為に口に出来なかった主人の花蓮の唐突さなども冗談交じりの口調で詫びて行った)、歓談を終えて戻って来た処へ、「犬飼」と、高花の声が呼んだので、「はい、編集長」と、犬飼は半ば習性となった歯切れの良い返事をして、高花のデスクの前に、姿勢良く立った。
「ほれ」
高花は言った。同時に其のやや人よりでかい手から差し出された、小さな(香水だ、と、すぐに分かった)瓶を見て、犬飼が何も言わずに居る内に、片手に雑誌を読みながら、言って来た。
「持ってけ。どうせ安物の香水しか手に入らんやろ。あぁ。安心せえ。俺が選んで買うてきたやつや。そこんとこらの名家に上がるんなら、それっくらいのやつで失礼にはならん。ええか」
高花は言い、
「犬飼。お前は若い割に人より結構苦労しとる。やから、お前の如何にも上の者を見ると卑屈になりがちなんは、お前の身に付いた悪癖なんやろとは、俺にもまぁそら分かる」
はぁ。と、犬飼は答え、思わず高花の「何やその返事は、お?」といういつものどすを効かせた叱責を覚悟して肩をすぼめたが、高花は其れには構わず、続けた。
「せやけど、お前もまだまだ社会から見りゃ若造や、一寸ばかりそう突っ張るように成るんは、早い。ええか犬飼、美徳ちゅうのは確かにそらまぁ一種のものまねや。けんど身に付けといても損はないもんや。がわかむりに見えて内心窮屈なんは否定はせんし、誰でも須らくそないな心地で居る。勿論そうでない奴も居る。色々や。けんど其れは嘘ついとるんでもおどれを騙してるんともちゃうもんなんや。分かるか? きっと分かるやろうけどな。兎に角そいつはお前にやるから、お邪魔する時はつけてけ。使ったもんを返す返さないもお前に任す」
「はあ。いえ。はい。有難うございます」
犬飼は言って、ふと真顔になった。
「肩、お揉みしましょうか?」
「そう言う愛想は取材で使え。此処でムダづかいすんな」
「はい。済みませんでした。……、ところで此れ、もしかして奥様のと同じやつだったりしませんよね?」
「うちのはそいつは好みじゃないらしくて持っとらんよ。そないなアホなことせえへんわい。女房に送った香水の数くらい覚えとかんと、此の仕事で食って行けやせんからの」
ふん、と高花は一寸肩をすくめた。どこか何時もより親しげだが、其処は犬飼も調子に乗らず、「はい。済みません。失礼します」と、礼をして自分のデスクへ戻った。
数日後。
黒雲。
(参ったな)
と、犬飼は、ごろごろと鳴り出した空を見上げ、不吉を胸に抱きながらも歩いて居たが、夕立は予想よりも遥かに早くぽつ、ぽつ、と犬飼の鼻先を打ち、瞬く間に落雷を鳴り響かせた。辛くも、降り出し際を慌てて走り、近くの避けられそうな和式の門構えに飛び込んだが、肩や帽子は、大粒の雨を受け、見事に湿って居た。
「やれやれ」
犬飼は懐に仕舞った手帳を庇う様に袖手にし、忌々しげに空を見た。既にからんとして抜けるような夏の青い色は無く、一面どんよりと黒雲に覆われている。
「……。若し」
と、ふと声を掛けられ、犬飼は其の方を見た。すると、何時の間に現れたのか、今外から帰って来た風の、若い娘――何となく陰の差す様な気のある少女、と言っていい年頃にも見える娘だ。切り揃えた綺麗な髪が、傘の下で揺れ、短く眼の上に掛らぬ様揃えられた前髪の下で、これも少し影の有る両の瞳が、じっとこちらを見ている――が、蛇ノ目を差して立って居り、
「自家に何か御用でしょうか」
と、やや硬い口調で言って来た。犬飼は「あ。申し訳有りません」と、咄嗟に慌てて、
「申し訳有りません。急に降り出したもので……。勝手に軒をお借りしてしまい、申し訳有りませんでした。――あぁ。私、こういう者です」
犬飼は言い、帽子を脱いで、袖手にして居た名刺を取り出そうと探った。
「……。女の方?」
娘が言った。其れから蛇ノ目を畳むと、軽く水気を払って、「中へどうぞ」と、犬飼の後ろの、立派な門構えの扉をかちゃん、と開いた。
「え。いえ。そんな」
「服が濡れてお出でです。其のままだと身体に障りますから。どうぞ。遠慮は結構です」
どうぞ、と促し、蛇ノ目を開くと、娘は犬飼の上に差し、相相傘として、やや戸惑い気味と云った風の犬飼を、構わず屋敷の方へと招いた。
邸内。
庭の見える縁側の間。茶を用意する、と言った娘を待つ間、何となく眺めていると、何処ぞの庭師が一体世話をしているのか、一屋敷には有るのが驚くほどの優美且つ、和さびた庭園が、雨に煙って其処にあった。
(これは評せないわね)
と、思わず呑まれるような迫力を感じつつ、上の袷を脱いで畳み、犬飼は暫し庭に見入った。その内に失礼致します、と、静かな声で先程の娘がやって来て、こと、と、犬飼の前に茶を置いた。丸形の湯呑みに、程よく温まった茶が揺れて居る。
「随分と立派な庭ですね」
世間話の調子で言うと、娘ははい、と、あまり親しさの無い口調で言った。
「自家の屋敷が建った頃から有る庭と聞いて居ります。先代様が大事に為されていたと家人には言い伝えられており、此の庭を保つのが私共屋敷の者に与えられた命であると聞いて居ります」
「あぁ。館の主人さまは……。一応上がり込んで頂かせて居る身ですし……」
「当家の主人は――」
「あら。むらさん。御客様ですか? 今日は予定有ったかしら」
と、廊下の入口の方から声がして、見やると女が一人立って居た。
(ん?)
と、その女の顔を見たとき、犬飼は、(椛で無く)何処かでその顔を見た事が有ると思った。
「阿田さん。いえ。表門の軒で雨宿りをされていたので、上がって頂きました。記者の方だそうです」
「あら、そうだったのですか」
(阿田……。ああ。阿田女史、か)
犬飼は驚きをもって、こちらに目を向けて、たおやかににこりと頭を下げてくる女、阿田に合わせて、やや慌てて頭を下げた。
「どうも、御邪魔させて頂いて……」
「此方の主家様の御人柄ですから、気になさらずとも好いと思いますよ。なんて、客人の私が言うのも捗捗しいかしら。――あぁ。紹介が遅れました。当西園寺様のお家に御世話になって居ります、阿田之ひゑ子と申します。お見知り置き下さい」
きちんと正座して言って来る女、阿田。いや、犬飼の知識によれば、昨今文壇を賑わせて居る、才媛の呼び名高い、阿田ひゑ子女史、其の人である。
「恐縮です。犬飼と申します」
犬飼は言いつつも、
「あの、失礼ですが、もしや、阿田女史、ですか。他誌で、――あぁ。失礼しました。私、こういう者です」
名刺を差し出しながら言い、「是は御丁寧に、」と受け取る阿田――肩を少し過ごした風な長さの髪をくせの無い風に流し、脇の少し斜めの上、丁度前から見える位置に一輪の花を模した髪飾りを飾って居る――をまじまじとは見ないように見た。そして思った事は――犬飼として思った事では無い。椛として思ったことだ。それはこの阿田という女は里でも有名で、椛も一度だけ面識の有る、例の稗田の当代であり、又、今しがた部屋を出て行った、良く言えば物静か、悪く言えば少少陰気な女は、例の西行寺家の庭師とかいう刀使いだろうという事だった――何か不思議な緊張で有った。記者特有のものと言うのか。
「あぁ。成程。何と言うか、是は妙な偶然ですね」
阿田は一寸悪気の無い顔で笑い、困った顔をして見せた。犬飼も「はあ」と、何とも複雑そうに返しをした。犬飼自身、昨今の開戦雲霞の高まりに左右どちらかの立場有る訳では無かったが、社の紙面的方針としては、富国強兵論を支持して扱っている。一方の阿田女史は専らの平和協調路線と、大東亜の物資流通を盛んとし、準利益的交路の開拓をこそ進めるべきであると主張している女傑である。無論今の台詞を聞くにつれ、犬飼の社の事も知って居る様だ。
「そうお互い固く成らずに参りましょう。犬飼さんも取材で来られた訳では無いのでしょう?」
「はぁ、恥ずかしながらと言うか、疑わしながら、全く偶然です」
犬飼は言い、然しふと気を取り直して言った。
「然し、お時間許すようでしたら、是非御話を伺いたいとは今思って居ります。いえ、失礼ながら個人的な興味では有りますが……」
阿田はちょっと笑って「宜しいですよ。此の夕立に降られては記者さんも暫くここに厄介にならなければいけないでしょうし」と、冗談めかして言った。いや、全くです、と、犬飼は言って、ではオフレコと言う事で、と、手帳を出して、卓の上に置いた。
暫し。
とは言ったものの、犬飼もこの才媛と議論する程己の教養に絶対の自信が有るわけでは無いので、話は二十分か其処らで、弁談から、半分世間話の様な調子になった。
「――ええ。そうです。元元は地方の貧しい方の村に住んでいたのです。生まれもそちらで、元の姓も阿田では無く山本などと申します」
阿田は粛粛とした調子で述べ、意外な生い立ちにははあ、としきりに感心する犬飼を見、続けて言う。
「元元、早くに両親が亡くなり、村のつての人の家で厄介になっていたのですが、あるとき当家、西園寺様の先代様が村に来て、私に書家の才能を見出したということで、引き取りたいと仰りまして。それ以来、当家にお世話になって居ります」
「成程……。改名は、ではそのときになすったのです?」
「えぇ。立場的には西園寺様の姓を名乗るところだったのでしょうが、流石に恐れ多く、又、旦那様――先代様も外聞上、流石にそれは出来ぬ事、御分かりになったのでしょう。です故、阿田、と仮に考えた、全く関係の無い姓を与えられ、元のひゑも、ひゑ子、と改名するようにと仰られました」
「ははぁ。然し、そのような経緯ですと、その――」
犬飼が遠慮して言う。話を聞くうちに西園寺、と云う名と、又、先の先代が早晩亡くなって居るというのを聞くにつけ、記憶の端にあった、西園寺とは、あの西園寺に相違なかろう、と、そのような知識としての事柄が徐徐に思い出されて来た。察してかどうか、阿田は一寸眉尻を下げた。
「仰る通りです。当時既に旦那様は、今は亡くなられた奥様と御結婚為さって居ましたが、人の耳や口と云うのは中中にさがない物で、知らぬ、知るを関わり無く、様々な憶測を立てられた様です。無論事旦那様はその様な事柄を見抜いて居られましたが、気にせぬ様にと気を遣ってくれましたし、奥様も、気を煩わしていなかった筈も御座いませんが、優しく接して下さいました。……尤も、今と成っては、若しや其れが重荷になったかと思わぬでも無いのです。私自身、昔よりも色々な事を知る様に成ったからでしょうが……そうですね。しることばかりがいつもよいこととは限らないのかもしれません。知る事、思ゆる事は、其れだけ視野を広げ、在らぬ想像を掻き立てる。何処ぞの人が言うような、知恵の泉が人の頭の中にこんこんと湧き出ているのなら、きっと其れは思う以上に濁って見えるのでしょう。まぁ、それは抽象的に成りすぎですわね」
阿田は茶をすすって、にこりと微笑んだ。
「書家と言うのはリアリストで無ければいけない、と言うのが文の師の教えですが、如何しても厄体も無い事を考える癖が付いていけません。きっと一寸した病か業なのでしょう――」
「失礼を致します。ひゑ子さん、いざ夜――有栖川様がお見えです」
話の途中、襖を開いて入ってきた先程のむら、と云う娘が告げ、あら、と、阿田が言った。
「ああ。そろそろそんな時期だったかしら。いいわ。待たせておくのも失礼でしょうから、こちらで応対させて頂きますので」
「分かりました」
むらは其のまま外へ出、「どうぞ」と、外にいた誰彼かに告げると、ぱたぱたと和服の裾を揺らして廊下を歩いて行った様だった。入れ替わりに、此方もまた折り目の付いた所作で、「あら」と、犬飼を見て驚きつつ、何と先日話したばかりの有栖川が、全く其の時と委細変わらぬ(但し汚れや目立つ皺も無い)衣服で、畳の部屋に入ってきた。
「いざ夜さん。如何もお久しゅう」
「えぇ。阿田さんも。それと、犬飼さん、でしたかしら? どうも、奇遇です」
「えぇ。どうも。本当に奇遇で」
「あら。御二人は?」
「あぁ、はい、何と言いますか、つい先日会ったばかりの御縁なのですけど……」
一時間ばかりも邪魔したか。
雨の降りはとっくに過ぎ去り、蒸し暑い夏の夕暮れが、日長く辺りを染めている。有栖川と阿田は知己の様で、ちらりと聞いた処だと、元は有栖川は此処の屋敷で働いていたとの事だ如何も此の二人と相性が良かったのだか、ついつい話し込んでしまった事を恥じ入りつつ、犬飼は丁重に礼を述べて、屋敷を後にした。そうして、今はこうして、同じく屋敷を出てきた有栖川と共に歩いている。元元、有栖川が訪ねてきた理由の邪魔に成ろうと、場を遠慮した犬飼だが、有栖川は、「其れでは私も此れで」と言い、阿田も「ええ」と、あっさりしたもので、犬飼の心が的外れだった様に、何某かの包みを持って、犬飼と共に屋敷を辞した。「御用事は良いのですか?」と聞く犬飼にも、「ええ。実はもう帰りがけだったのですが、久しぶりに御顔を見たものですから、つい話し込んでしまっていたのです。ですから助かりましたわ」等と、冗談めかして笑って見せた。
「あそこで働いて居られたとか?」
「ええ。今のエドワァズ様に御世話になるように成ったのは、ほんの最近で、其の前は、長く西園寺様の屋敷の御世話に為っていたのです」
「そうでしたか。あぁ、確か西園寺卿は……」
「ええ。記者の方なら御存じでしょうが、先代の旦那様は早晩に亡くなられました。其の前の先先代様も御身体を患って居られた方で、私が屋敷に来た時は、丁度其の御葬儀の手伝いと言うのが初めてでした。それから私を引き取って御世話して下さっていた有栖川様の御紹介で、私は改めて西園寺様に仕えるように成ったのです」
「引き取って下さった、というと……」
「私は元元が孤児なのです。有栖川様はそういう子を拾い、名を与えたり、勉学を施したりする活動を私財で進めて居らっしゃる方ですので、私も元元はその様に引き取られた子供の一人なのです」
そうでしたか、と、犬飼は一寸済まなさそうにしつつ、ようやく有栖川、と云う名で、元の政府の財務大臣を務めていた有栖川子爵の事を頭に思い浮かべた。
(善行に厚く、とみな篤志家で有るとされている。在任時にも財務省の仕事とは別に年少者、書生共への福祉に大いに関心して居られたとか、だったな)
ちらりと椛の顔を覗かせつつも、すぐに犬飼の顔に戻り、また犬飼の顔をした椛は、有栖川との話を続けた。
数日。
用事を理由に社を早退した犬飼は、何時もの男装然とした格好ながら、一寸出て行く前に自分の服にさしておいた、何とも言われぬ(慣れない所為か、鼻が利かなくなったように匂う)匂いがするのを確かめつつ、社の前に停まっていた、これまた、社名鳥家からつかわされた馬車とは又趣の違う馬車に乗り込み、すぐ横の方で会釈していた有栖川が後から乗り込んでくるのを尻目に、「ハイ」と、軽く挨拶をしてきた、馬車の中の、犬飼の為に空いているのだろう席の向かいに座る花蓮の姿に、苦笑めいた驚きを返した。
「てっきり御屋敷でお待ちしているものだと」
「良いのよ。さ。座ってちょうだい」
畳んだ日傘をころころ揺すりながら、花蓮は促し、犬飼が座り、其の横に有栖川が着くと、御者の男の合図で、馬車が動き出した。
暫しして、件のエドワァズ邸前。
馬車に揺られる道中、花蓮は社名鳥邸で見た様な活発さは見せず、物静かに馬車の窓から見える景色に目をやって居り、あまり言葉も交わさなかった。不機嫌なのか、具合でも悪いのか、などと犬飼は勘ぐったが、如何もあちらの礼儀には、あまり馬車の中では口を利かないのが上品である、と言う決まりでもあるらしい、と、後から聞いた。兎も角エドワァズ邸に着いて、今度は千田とは違うが、予め待っていた、如何も此の屋敷に古い風であるような厳めしい面構えの男(言い方は何だが、犬飼の顔をしつつ、椛はまるで入道か何かの様だと思った)に手を取ってエスコォトされ、同じ様にして、こちらは先に降りた有栖川に手を取って其れこそ令嬢の様に降ろされた花蓮が日傘を差し、
「それではこちらへいらっしゃいませ? 記者さん。大久保さん。あとは私がご案内さしあげるからいいわ」
花蓮が言い、言葉少なに辞儀をした大久保、と云う男を尻目に、犬飼は屋敷の方へと歩き出した。
邸内。
「……」
客間のソファアに座り、やたら高い天井を見上げつつ、犬飼は内心息を呑んでいた。――犬飼が、だが。椛は実はどんなに豪奢な建築物を見ても、人間の作った物に持つ感情は無い――流石に筋金入りと言うのか、見る世界の違いを実感させる。社名鳥家の屋敷も大したものだったが、此れは明らかに其れ以上だ。
(エドワァズ家……。貿易商だったな。成金と言うよりか古くからの向こうでの商売拠点を日本へ移した類、前当主で有った元荻ヶ原隆道卿は、然し既に他界しており、商会を切り盛りしているのは妻のエドワァズ夫人だとか)
「お待たせしました」
がちゃり、と扉が開いて、花蓮が(先程より簡素、と言っても彼女らの基準においてと云うだけで、其れでも十分に着る者の魅力を引き立てる逸品に見えたが、なものを着て)入って来たので、犬飼は一寸慌てた風にカップから口を離して、立ち上がった。
「本日は御招きに預かり――」
「いいわよ。格式ばったのってあまりしたくないの。お座りになってくださいな」
「はぁ」
犬飼は言って、帽子を横に戻し、ソファアに座った。向かいに座って、花蓮がにっこり笑う。
「ようこそ犬飼さん。我がエドワァズ邸へ。当主代理の母様は仕事で留守にしておりますので、代理の代理で私がご挨拶いたします」
「恐れ入ります。いやぁ……何というか、しっかりとしていらっしゃいますね」
「……そうかしら? 母様にはまだまだ甘えんぼのお嬢さんなんて言われるわ。母様はとっても頭が良くて色々な事をこなしてしまえる方だからね。私もああなれたら良いわね」
「個人的な事を御聞きして申し訳有りませんが、今の商会も御当主の夫人が手管して居られるとか……」
「えぇ。お父様が早くに亡くなってしまったからね。でも、お母様はご自分の意思でお父様の仕事をお継ぎになったのだから凄いわね。犬飼さん。私の家のこと、調べてきたのでしょう?」
「はい。失礼な事を致しました」
「謝るの? 真面目な方ね。そういうところ何か男の人みたいって言われない?」
「時時言われますが、言わないだけと言う人も居るようです」
「日本の方はつつしみぶかいからねー」
くすくすと笑いながら、こんこんとドアーがノックされ、「いざ夜です」と言うのに花蓮が応じる。
「失礼します」
と、扉を(一礼した後すぐに扉の外に出て行ったのを妙に思っていると、からからと、茶菓子のケェキ――未だ一般的では無いが、犬飼もそこいらのカフェーで食べた事の有る物と同じ形をしていた――を乗せたカァトを押して部屋に入る)開けて入ってきた有栖川が、かた、と、失礼します、と断りながら、ケェキを用意する。
「あら、ケェキにしたの?」
「ええ」
と、花蓮が何気に聞いて来るのに応じながら、有栖川はカァトを脇に退け、花蓮の座っているソファーの脇に静かに控えた。
「ま、いいか。どうぞ召し上がれ」
「はあ」
犬飼は冴えない返事をして、カップの横に用意されている銀製の物らしいフォヲクを手に取り、(持つだけで手が震えそうなほど高価な物である事が分かる代物だ)かちゃ、と静かにカップを置いて、「いざ夜」と、茶の代わりを要求する花蓮に、持ってきたティヰポットから茶を注ぐ有栖川を何気無く見つつ、ケェキを切って口に運び、ぱくりと頂いた。
(うわっ……)
と、思わず口に手を運んでしまうほど、それは何と言うか、計り知れない、上品な味わいがした。自分が目を見開き、一寸頬に赤みが差したのが分かる
「――ほら。見なさい、いざ夜。犬飼さんケェキなんて食べ慣れてないのよ。和菓子にすりゃよかったじゃない。――ん。あっ! ちょと。また私の紅茶に変わったの入れたわね。なに入れたのよ」
「はぁ。木瓜を少少」
「まったく。おいしいけどあなたのそのクセ本当直らないわね。人をおどろかしてその顔見てなにが楽しいのよ。趣味? ここがエゲヰレスだったら変態あつかいされるところよ」
「だって可愛いじゃないですか。そういうお顔」
「やめなさいよ、まったく……犬飼さん、大丈夫?」
「あ、えぇ。……凄く、何と言うか、……美味しいです……」
犬飼はまだ口に手をやったまま、何とか答えた。
今の会話から察して如何も是は有栖川一流のジョヲクであるらしいが、確かに、変わった御仁の様である。新しい、カァトに乗せて運んできたカップに、今度は別のティヰポットから注いだ紅茶を「はい、大丈夫ですか?」と、言いながら、かちゃりと置いてくる。
「此方には変なのは入っていませんので、安心して下さいな」
と、くすくす笑いながら、呆れ顔、というか何というか何かを諦めている顔の花蓮が、向かいで茶に口をつけている。
「犬飼さん、この子は親しくなると、気に入った人にこういう悪戯をする悪い癖があるの。大変だろうけれど勘弁してくださいまし」
向かいで言う花蓮に、いえ、と曖昧に応じて、犬飼は茶を啜った。此方は普通に美味しい。急激な刺激の無い美味さに、しばし口を落ち着ける。そうしている間にも、失礼します、と、有栖川はカァトと共に部屋を出て行く。
「……変わった人の様ですね」
「えぇ。話しているときはそうでもなかったでしょう? あ、ごめんなさいまし。いざ夜から、先日お話をしたというのを聞いていたの。とっても礼儀正しくて好感のある人だって言っていたわ。でも、気をつけてね。あいつ、けっこうその気があるようだから。気に入られるのってわりと危険な兆候よ」
「はぁ……気をつけます」
しばし。
「……では御父上は海難事故で?」
「えぇ。事故といえば事故だし、海といえば海よ。何ていうか港に停泊してたときにね。お父様の乗ってた船が軍艦に撃たれて沈められちゃったんですって」
「軍船ですか?」
「同じ港に停まっていた船らしいんだけど、それに頭のおかしな人がいたらしくてね。その人がほかの目を盗んで、なんでだか、すぐ隣に停まってたお父様の船に打ちこんだんですって。まぁついてなかったんだってお見舞いにきた人たちは言っていたわ。といっても、私もシャルロットもいまよりもっと小さかったから、お父様が亡くなったんだってことくらいしか分からなかったけれどね」
有栖川が、横から失礼致します、と言って置いたカップを持ち上げつつ、花蓮は手の平を返して見せた。
「お母様がお父様のお仕事を継いだのはその二年後くらいよ。最初はおじい様が代理でこなしていて、継ぐのも反対されたらしいんだけど――」
ゴーン、ゴーン、と、その時、柱時計が鳴ったのを見て、「あら、もうこんな時間?」と、花蓮が言った。
「そろそろお開きね。楽しいお話をありがとう、ミス犬飼。時間を忘れましたわ」
またお誘いいたしますね、ご迷惑でなければだけど、と花蓮が上品さを伴って言うのに、「とんでも御座いません、レディヰ。どうぞまた御話しいたしましょう」と、内心、本当に畏まりながら、犬飼は答えた。
暮れ時より少し前。
からからと帰路を辿る馬車に揺られ、「素敵な方でしょう」と、ふと、有栖川が口を開くのに、その横でじっと押し黙ったままの大久保某をちょっと気にしながら(特に咎め立てする気配は無い)「ええ……」と、控え目に答えた。
「なりは確かに年幼い方ですが、何というか、下世話に言えば、よくませておられます。そしてそれ以上に年相応以上に、どこかお聡い方ですわ」
「そのように私も思いました。とはいえ、二、三度言葉を交わした程度でどの様か口にするのも捗捗しいとは思いますが」
犬飼は後ろ頭を掻きつつ、ちょっと恥じた後で、「尊敬していらっしゃるのですね」と、表情を改めて言った。
「えぇ。尊敬できる方たちです。奥様もお嬢様方も。尤も、こんな事を言うのは、前の旦那様に全く失礼なのですが、有栖川様の勧めで西園寺様に仕え、かのエドワァズ様に奇しくも御縁が出来た事は、私にとって幸多からん事でした」
有栖川が言うのに一寸微笑んで返しつつも、犬飼は内心、その感覚についていけないようなものも感じていたが、有栖川が満足そうに目を細めて微笑み返すのに、人それぞれか、と、普段そうする様にしてみせた。
翌翌日。
またお話しましょう。個人的に、ですが、と、馬車を降りる時有栖川に手を取られて降りながら言われた事を振り返りつつ、犬飼は前日の休暇の余韻に頭を振ってしゃきっとさせつつ、(川城に誘われて、呑みに繰り出していたのだ)編集部に入り、「おぁよ、」と、なぜかスルメを口に咥えつつ、他社の新聞を広げている海堂に挨拶をし、デスクにつき、それから何気無くちらりと覗いた、海堂の読んでいる新聞の文面をさらさらと目に留め、それから目を離して、すぐさまばっ! と食い入るように、海堂の読んでいる文面を読み返した。
「……ん? どしたの」
海堂はあまり動じる風も無く、「はい」と、何を思ったか、読んでいた新聞を差し出した。
「まぁ驚くか。っても刑事課の連中は不機嫌だろうけどね~。こんな大ニュース他社に攫われちゃったんじゃあさ――あ! お早うございます! 編集長!」
おう、と返す挨拶を聞きつつ、犬飼も咄嗟に席を立って高花への挨拶を怠らなかったが、それは日常的に染みついた動作だからであって(怠ると彼の恫喝と一寸した説教を朝から喰らわされることになる)、頭の中は記事の文面の事で埋められていた――無論、犬飼の中の椛も、だったが。
――殺害されたのはかの社名鳥家令嬢にして、開戦論者の噂高い文子女史――。
昼。
犬飼は早退して社名鳥家に向かった。汽車に揺られての道すがら、喪章の黒腕を下げた腕を横目にしつつ、道中購入した新聞を目の前に広げて、しばらくして読み終えて、広げっぱなしにしていた事に気づき、適当に他の文面に目を移しながら新聞を畳んだ。
(なんなんだ、これは)
如何言う事だ。文子が死んだ。――それはつまりあの射命丸文が死んだ、いや、殺された? ――椛の思考を思い返しつつ、煙管を吸いたい心地に駆られ、袖を探っていた事に気づき、犬飼の顔をした椛は、何気の無い顔でまた新聞を広げた。ボゥッ、と、汽笛が鳴る。一雨来そうな空だ。
社名鳥邸。
とはいえ勢いに任せてやって来たのは少少軽率であったようだ。門前払いしたらしい記者達が――いや、同業が、だ――歩いてくるのを丁度見つつ、犬飼は日を改めることも考え、そもそも自身はその様に軽率に行動する性質では無かったのを思い出し、やはり動揺で我を忘れていたらしい、と、苦虫を潰したような顔をした。
(帰るか)
苛立ち紛れにそう思っていると、「あら?」と声がし、聞き覚えのある声にそちらを向くと、「犬飼さん」と、有栖川が此方に近づいてくる処だった。そして、ふとちょっと何かを気にしたような顔をする。
「お仕事、ですか?」
「いえ。自分は部署が違いますので。御悔みをと思って最初は来たのですが、矢張り厚かましいと思いまして。帰ろうとしていた処です」
犬飼は正直に答えた。有栖川は一寸困った感じの笑みで其れを返すと、
「その様な言い方は良くないと思いますが。犬飼さんは少少正直が過ぎますよ」
「いえ。本当の事ですので……あぁ。済みません。少少愚痴っぽくなりましたね。有栖川さんは? 花蓮さんの御供ですか?」
「いえ。御嬢様は今日はいらっしゃらないと仰りまして。唯話だけでも伺って来るよう、申しつけられまして」
「そうでしたか……」
犬飼は「では」と言いかけて止め、ちょっと考えた。
「宜しければ、何処か近くの店に入りませんか? あぁ、有栖川さんの用事が終わっていらしたら、ですが」
店内。
丁度用事が終わった、とは言え、あっさりと応じた有栖川に少々持て余したものを感じつつも、犬飼は頼んだ紅茶を啜り、目の前で、同じく頼んでおいた――有栖川のした事では無い、犬飼が厚意で頼んだ物だが――ケェキを放ったままにしつつ、カチャリと紅茶のカップを置く有栖川を見ずに見つつ、しばし沈黙した。
(やれやれ……)
「……それで、邸内の方はどの様な?」
犬飼はカップを置いてそう言った。有栖川はええ、と、前置きした。
「大層ざわつかれた様子でしたが……どちらかと言うと、葬儀や今後の日取りの話し合いが主の様でしたわ。急な事でしたが、文子様はこの様な事を想定していた、というわけでは有りませんが、しっかりしている方でしたから、御自分の事はこの様な事に関しても、人知らず段取りをしていた様なのです。……」
「御気の毒な事だと思います。紙面を見た限りでは犯人は既に捕まっているとの事でしたが……いえ。言う事でもないですね。花蓮さんも落ち込んでいらっしゃるでしょう?」
「えぇ。私共には何も仰りませんが……」
「文子さんとは長いお付き合いだったのですか」
犬飼は、聞いてから少少今のは不味い質問だったかと内心眉をひそめたが、有栖川は特に動じる事無く応えた。
「私はそれ程存じていませんが、屋敷の方方の話ですと、既に八年か其処らになるようです。御二人が御友人となり始めたのがいつからかは分かりませんが、御嬢様が幼少であった頃から、御話の相手をして下さっていたそうで」
「そうですか……」
「千田さんも気落ちしていた様ですわ。マスコミや関係者の方方の対応で、大変だったのも――あ、失礼」
「いえ」
「前の西園寺様に続き、社名鳥様の御家でまでこの様な事が起こるなんて……」
「……。前の、と言いますと? 西園寺家で御勤めになられていた時ですか?」
「あぁ……。いえ。言うべきでは有りませんでしたね。ですが、言って黙るのも失礼かと存じますので、御教えしますわ。西園寺様の先代、……今の御当主、西園寺京子様の御父上様が早晩亡くなられたのは、犬飼さんも御存じでしょう? 千田さんが気にしているのではと言ったのは、その事です」
「あぁ……」
犬飼はようやく思い至って、言った。
「其れは大変済みませんでした。配慮が足らなかったですね」
「いえ。御気になさらず」
「然し、西園寺の当主様と言えば、当時の文面を見る限り、遊猟中に怪死為さったとの事です。真偽は確かに疑わしいですが、それで御気になさると言うのも、無いことなのでは?」
「……。是は千田さんには内緒の事として頂けますか? ……西園寺の旦那様は――」
そう言いかけて、有栖川は店の時計を眺め、一寸済まなそうな顔になった。
「申し訳有りません。時間を忘れていました。ああ、……済みません。中座する様で失礼ですけれども。わざわざ頼んで頂いたのに……」
「いえ。私が好きでやった事です。会計は済ませておきますから、どうぞ御気に為さらずお行きなさい。また御話しましょう」
汽車内。
遠慮しながらも帰って行った有栖川を見送って後、椛は外した喪章を懐にしたまま、新聞を読むのも止めて、袖手に腕を組んでいた。
(これからどうするべきか)
正直な話、文の死と言うのを内心ではまったく信じていなかった。(文が死んだと言うなら、まだ微塵隠れでもして、またにこにこ顔で何処ぞから登場してくる方が信用できる)なので、椛の顔から犬飼の顔に戻り、その上で物を考える事にした。そうして考えてみるに、確かに文子の死と言うのはただならぬ物を感じる処は有るが、所詮一介の自分と言う者とは介在しない処の様に思えるし、実際そうであったろう。死の直前に話をしたというのは確かに気になる処で有るが、昨今の世相からすれば文子のような過激論者が赤の他人に殺害、又は暗殺されるのは珍しい事でもない。「一寸宜しいですか」と、その時声をかけられたのは、犬飼にとっても予想の外だった。見上げると、如何にも官憲と刑事、と思しき男らが連れだって、「犬飼松はさん、ですな」などと声を掛けてくる。
「少少御話を伺いたいのですが、宜しいですかな」
夕刻。
何とか帰社して(早退とは言え、理不尽ながら本日中に片付ける仕事が有るため、戻れと高花に言われていたのだ。無論拒否権も給与請求の権利も無い)、残業していた面々に挨拶し、犬飼は自分のデスクに戻った。
「犬飼」
そうするなり、こちらも居残っていた(珍しく、だ)高花が呼んだので、犬飼は返事して素早くデスクの前に立った。
「お前、二、三日有休取ってこい」
「は?」
「もう話は通しておいたから、何もせんでええぞ。明日から休め。今やっとる分は他の奴に回しといたる。それと、もう一つな。この件に関しちゃ何も聞くな。編集会議からの指示や。ええか――」
翌朝。
休みの日と言えど、犬飼は家でごろごろしている習慣は無い。さっさと貧乏アパァトの一室に相応しい自分の住み家を欠伸混じりに掃除し、洗濯をすると、昼には昼食を摂りがてら、自宅部屋に鍵を掛けて、肩から肩掛けカバンを掛けて、駅に自転車を走らせた。
駅に着いて、昼食代わりに購入したじゃこ結びをほお張りつつ、今日の紙面を見る。文子の死はネタとしては今一であったのか、続報は載っていない。
(犯人が捕まっているのだから騒がれるはずも無いか)
『社名鳥文子さんとはどの様な御関係で』
犬飼は握り飯をもごもごやりつつも、考える眼差しをした。ついでに今日になっていきなり言い渡された休暇の事についても、無関係ではないな、と、すぐに思い浮かべた。
『トッコウがな。お前の事を話に上げとったとか何とか言う話や。まぁ社ではお前の事も庇い立てするつもりも無いらしいし、何か有ったら首切るちゅう意向で話が進んどる。せやからしばらく自重しとけ』
高花は言っていた。嘘は無いだろう。あれでも誠実さにかけては編集部員内から折り紙付きを貰っている。犬飼もそれを疑うつもりは無い。
(うーん)
犬飼は思考を巡らせ巡らせして、こくんと喉を動かすと、何となく気になっていた事をぼんやり形にして思い浮かべつつ、次の握り飯をほお張ろうとして、がしゃん、ごとん、がしゃん、ごとん、ぼぉっ! と、目の前に到着した汽車を見て、おっと、と、開きかけていた犬歯をしまい込み、素早く握り飯も新聞も片付けて持ち、ハンチング帽を直す仕草をして、ついでに汽車に乗り込む際に腕の喪章も直した。
(犯人が捕まっていると言うのに警察ははっきりした疑いを持って捜査している。或いは……)
そこまで考えてから、犬飼は思考の塊を屑切りにかけて其処らに散らした。
(馬鹿馬鹿しいわね)
すたすたと、目の前を歩く紳士帽が揺れるのについて行きながら、ふと、視界の端に見覚えのある横顔を見て、犬飼はちょっと指の甲側でちょいと帽子の庇を持ち上げて見せた。
(……?)
「千代田さん?」
「はい……?」
言われて千代田――千代田むら、と言ったか。阿田が何気に口にしていたのを、犬飼は覚えていた。物覚えの良いのは職業病の様な物だ――は顔を上げ、その拍子に、思わず立ち止まっていた犬飼は、後ろからどん、と「失礼」と、歩いて来ていた中年くらいの男にぶつかられ、此方も失礼しました、と頭を下げながら、通路から、座席側に身体を入れる。
「どうも……。あぁ。急にお声を掛けて失礼致しました」
「いいえ……。あぁ。犬飼さん、でしたね。申し訳有りません。すぐに思い出せず」
「いえ。あぁ、宜しかったらこちら、御一緒しても宜しいですか?」
「どうぞ」
千代田はあまり嬉しげではない様子だったが、犬飼はでは、と、やや遠慮がちに向かいに座り、帽子を脱いだ。
「お仕事……ですか?」
千代田は自分からそう言ってきた。犬飼はいえと首を振って、それから腕の喪章に気づいて、自分から「知人の喪中に参ろうかと思って居ります」と、目的を言った。
「そのようでしたか」
ええ、と犬飼は答え、
「千代田さんはどちらに? ああ。不躾で申し訳有りません」
「不躾では有りませんが、私も人の喪中に参る処です。犬飼さんと同じですね。奇遇です」
「そうでしたか。これは失礼を致しました」
「その、私……。いえ。済みません。そんなに気分良からぬような様子をしていましたか? だとしたら、申し訳御座いません」
千代田はちょっとぎこちなくだが、微笑んで言った。成程、どうも人よりふさぎがちに見える外見らしい、と犬飼は思い、努めて明るめに応じた。
「社名鳥様の……?」
「ええ。御縁と言うほどではなく、少少厚かましいとは思うのですが、こういう事になったのも、何か放って置けない気が致しまして……機会を見て御悔みを申し上げるつもりで居たのです」
「……。犬飼さんは記者でいらっしゃいましたわね」
「はい」
「では、少少、……失礼ですが、その……」
「不謹慎、というのは承知の上です。実際社の方でも今度の件には関心を持って見ているようですし、僕も一介の記者ですから、そちらを優先しろと言われれば、その指示に従わないいわれは有りません。何せ平の記者なんぞと言うのは大抵が人の不幸で飯を食う処が有りますので、自分も其れから外れているとは言えない、と言うよりか、寧ろそのまんまです」
犬飼の言葉に一寸不快そうな顔をして見せた千代田だが、少し眉をひそめたままの顔で、くす、と困ったように笑った。それはどうも影のある様子と同様、この娘に染みついた一つの仕草のようだった。好ましくない、と思われるものではないが、犬飼は経験を当てにして、この娘は何か鬱屈した物を見聞きして、この様な顔を身につけたのだろう、と思った。
「正直な方ですね。何時もそのような物言いを為さって居られるのですか?」
「いいえ。自分は根が捻くれ者なので、勿論下手な事は口にしない様気をつけています。むしろ、お気に障ったのでしたら申し訳無いとも思っております。如何も失礼を致しました」
席を移ろうと立ち上がりかける犬飼に、「お待ち下さい」と、千代田は言った。
「社名鳥様の御屋敷まではまだ時間が有りますよ。話し相手が居ないでは大層鬱屈としてしまいます。どうぞお座りになって下さい」
犬飼は言われるままに座った。
しばし。
汽車から降り、犬飼は千代田と共に、社名鳥邸への道を向かっていた。あの後行く先をよくよく聞いてみると、千代田は犬飼と同じく社名鳥邸に用が有ったのだと言う。
「社名鳥様と私の主人である西園寺様とは知らぬ縁では無く、古くより付きあいが有ったのだと聞き及んでおります。無論、ずっと昔、私が西園寺様にお仕えするより何代も前からの付きあいで有ったと聞かされておりますが」
詳しい起源は不詳であるが、今でもその縁は続いて居り、人知らずでは在るが、現在の西園寺の当主である西園寺京子と、文子の間には付きあいが有ったらしい。
(客賓として住まわせている阿田女史を挟んでか。何とも複雑な話ね)
そう思う間にも、見る目にも巨大な社名鳥の屋敷は其処に見えてきた。門前での騒ぎはもう収まったようで、犬飼はさてどうするか、と、立ち止まり、門の様子を伺った。今日は無論招待された身分でも無い。
が、そうこうしている内に、「行きましょうか」と、こちらを促して、千代田が歩き出す。少々せこい気はしたが、千代田の知人と言う事にした方が門での通りは良いだろう。そう決めると、犬飼は千代田について門前に行き、門人として其処にいた(犬飼が初めて見る顔だ。長い黒髪に使用人らしい簡素な格好をしている。顔の両側に下げられた白いリボンが飾られている)娘に、千代田がやや親しげ、と言ってもこの娘は人に接する態度にある種の壁が有るらしく、親しさもそれなりだったが、――顔見知りであることは話の調子で知れた――そのような様子で取り次ぎを願い、その際にちらりとこちらを見た娘が、しかし何も言わずに去っていくのを、犬飼は帽子を直しつつ見送り、
(ありゃ紅魔の館の門番じゃないか)
などとちらりと思い、やがてやって来た件の娘が、今千田は手が離せないことを説明して詫び、兎に角正面入り口へ行く事を促した。
邸内。
千田の案内が無い分、取り次ぎに手間を食ったが、何とか門を潜り、文子を弔った菩提の場所――文子が書斎にしていた部屋だそうで、簡素な黒檀らしき大きな机に、戒名を彫り込んだ真新しい位牌がぽつねんと乗っている――に案内され、犬飼は千代田と共に、神妙に仏前に礼をし、手を合わせた。
遺体は、と遠慮しいで千田に尋ねると、既に社名鳥家が檀家を持つ寺に移され、火葬の段を待っているという事だった。
(……)
犬飼の顔で目を閉じて拝みつつも、その中の椛としての部分で、椛は何か形容しがたいむずむずとしたつっかえを覚えながら、この茶番じみた場を耐えていた。そのうち、後ろでふと、部屋を先に出た千代田が、同じく部屋の外に出ていた千田と、「変わり無いか」「はい」などと、何やら話しているのが耳に入った。犬飼の顔を忘れていた椛は、はたと自分の顔を取り戻すと、合わせていた手を下ろし、一礼して部屋を出た。千田と千代田は、今だ気づかずに話をしていたが、犬飼が出て来た事に気づくと、文子の菩提を弔いに来てくれた礼を述べ、下に茶の用意がしてあることを告げ、案内した。
邸内、一室。
と言っても、犬飼には其処は一度来た覚えの有る場所、無論花蓮を交えて文子と歓談した場所であったが、「申し訳御座いません、当家の正式な客間は只今旦那様が御自分の客賓を迎えるのに使い切りにして居ります故、それ以外の方は此方に御迎えして居ります」と、千田は丁重に言ってくれた。「花蓮さんは今日は?」と、何の気無しに聞くと、「夕暮れ時頃、此方への御用事のついでにお訪ねになる、とお聞き及びしております」と、簡潔にだが教えてくれた。
千田が用事が有るので、と下がり、室内に千代田と二人きりになると、犬飼は何の気無しに紅茶を含みつつ、かちゃりとカップを置いて「千田さんとはお知り合いだったのですか?」と、千代田に言った。「あぁ……」と、千代田は其れに一寸鈍い反応を返して、やがて言いにくい、ように見えたというだけだが、何かそのような様子で口を開いた。
「私の養父ですので」
「養父……」
犬飼はちょっと気にした風にしてそう言ってから、礼を失していると思い、言葉を継いだ。
「其れは初耳でした。あ、突っ込んだ事をお聞きしてしまい……」
「いえ……構いません。隠していることでも無いので」
取りあえずは其れで繕ったと思い、犬飼は一旦質問を止めたが、このままで居るのも居心地悪い事だ。其の思考は椛(犬飼の中の、だが)が思っている事では無かったが、どうも本来のまんま白狼天狗の犬走椛としての気性に近いものだった。
(……うん?)
一寸違和感を感じつつも、其のもやもやしたものは結局「犬飼」としての思考に押し込められ、そして勝手に口を開かせようとしていた。
「苗字が違う事、お気になるのでしょう?」
「はぁ」
「養父は自ら改名をしていますので。元の姓は私と同じ千代田と申します」
「改名……」
複雑な事情を感じる。そう思って犬飼も一寸遠慮がちに呟いたのだが、千代田も意外と人に悪い印象を与えるのを気にするのか、やや定規的に言った。
「養父は……いえ、本名を千代田剣平と申しますが、本来は私の実の祖父に当たります。両親は既に他界しました由にて、私を養子として預かって下さり、その後、自ら改名を致しました。理由は恐らく私の二親の事である、と思います」
「と言いますと」
「詳しい経緯を本人達から聞いた訳では在りませんが、祖父の実の娘に当たる私の母は、父と駆け落ち紛いの事をして夫婦となったのだそうです。祖父はそれをお許しに成らず、また、和解もしないままに、どちらも不慮の死を遂げました。其の為でしょう。祖父は私を預かりましたが、本来の姓を手放し、一個人の千田憲兵、という人間として、私を養子に取るという形で引き受けられました。苗字が違うのはそのような事です」
しばし。
(……)
駅のベンチ。犬飼は既に喪章を外し、いつもの帽子を深めに被って、新聞を読みふけっていた。
やることが無いといえばそのまんまだったが、考えにふけるふりをする時間は欲しい気分だった。好物のじゃこ結びをもぐもぐやりながら、ぺろりと行儀悪く指を舐めて、残りのご飯粒を口に収めた。
(要は退屈しているだけか)
自責気味に思いつつ、新聞のペエジをめくる。気掛る事はあるには有ったが、同時に一個人として触っていいものとも思ってはいないようで、どうにもやるかたない、といった心持ちであった。とは言え、犬飼も、その中の椛としての部分もそれを表に出すには意地が働く気性である事では合致していたので、表向き感情を剥き出しになどせず、大人しく横に積まれた雑誌に手をつけた。そこでふと気付く。
(連絡を取っておくか)
文、今は文子として死んだ扱いになっている山の上司に言われた事に思い至りつつ、犬飼はやれやれと、どっさり買ってきていた雑誌類を一部は近くの屑かごに入れ、他はカバンに放り込んで、ベンチを立とうとした。
「あら?」
其処へ掛った声に、反射的にそちらを見やると、久方振り、でも無い顔見知り、マエリベリヰ・ハァン、メリヰと呼んでくれと言われていたか、メリヰが、にこりと日傘を差して、何時ものひらひらとした服を着て、西洋の令嬢然として其処に立っていた。犬飼は、勿論その中の椛も、やや驚いた風でそちらを見、とはいえ相手が相手としての突拍子も無い反応は避けた。
「奇遇ですわ。どうも久しぶりです」
「ええ、本当に」
「――おとなり、よろしいですか?」
そう言ってから、ちょっと日傘を揺らしてメリヰは考える風で口に閉じた手を当て、何かと思っていると、「これは失礼をいたしました。How do you do?」と、おもむろに言った。
「……、No more, please. ――How do you like a ticket?」
「Thanks to you」
メリヰがちょっと悪戯っぽく笑って隣に座るのに、犬飼はちょっと周りを見渡してから、これもちょっと悪戯っぽい顔で返した。
「――I have a lot of money. Have you anytime this ticket, how do you like?」
「Yes, please any time」
犬飼がアヰスクリイムの屋台を指さして言うのににこやかに頷きつつ、メリヰは答えた。犬飼は失礼、とベンチを立つと、二人分のアヰスクリイムを買い求め、それを片手に持って、「どうぞ」と、これは日本語でベンチに腰かけるメリヰに言った。「Thanks to you.――やっぱり。英語もたしなまれますのね。こないだのお別れの挨拶、とっても素敵でしたわ」
「喜んでもらえたら何よりです。ほんの下手の横聞きですから、間違っていたらお恥ずかしいです」
「お気になさらず」
「中中御手厳しいです」
メリヰはくすくすと笑いつつ、日傘を傾けた。
「今日は……ひょっとすると、お休みで?」
「ええ。お恥ずかしいことですが」
「そんな……。いいえ。私もまだまだ学徒の身分ですから、働くなどしたことありませんが、休息は必要だと思います。どんなことでも根をつめるのはあまりよろしくないかと思いますので」
「仰る通りだと思います。何というか……僕は性分が小心なのですよ。どうにも自分が意図しないところで物事というのは起こりがちだ、と、こう囚われるような思いが有るのですな。じっとしている自分が根っこの処では本当は歯痒いのです。だからと言って自分の分際が分かっていない訳では無い、いえ、分からずに行動することが出来ないと言いますか。貧乏症と言うのでしょうね」
「そのように卑下なさることはないと思いますけれど。知っていらっしゃいますか? 某国の学者には云々というえらい方がおりまして、……」
「如何されました?」
「……、いいえ。言おうとしたことがあったのですけど、それと関係して、また別のことを思い出したのです。はしたない頭ですね」
「はぁ」
メリヰはくすくすと笑いつつ、それからちょっと真面目さを帯びた口調で言った。
「蝶が私なのか、私が蝶なのか、でしたっけ。異国の方にそういう事をおっしゃった人がいるのはご存じ?」
「いいえ」と犬飼は言いながら、蝶、という言葉で、ふと自分の中の椛が反応する感じを覚えた。そういえば、この西洋の風貌持つ麗人の向こうに見える面影の妖怪は、蝶を好んでいたはずだ、と。
「最近、そんな夢を見ますの。時の流れは平面ではなく立体である、という話はご存じ? 川の下流で生まれた河童が川の上流で川をせき止めても河童は消えません。時間というのは無限なのか有限なのか、全てのあらゆる可能性が同時に存在している立体なのです。私たちがその可能性にあることができないのは、ひとつの可能性を選んだ瞬間にすべての他の可能性が消え、見ることができなくなる。時間とは、主観。もし時を止めることができたとしても私たちに他の可能性を見ることはできません。それは私たちがこの肉体という器にいつでも納まり、生きているかぎり出ることはできないからです。こんな話から、魂の実在を主張する人もいますわね。人は肉体という一本の杭に鎖で繋がれた魂の器だと。その鎖から解き放たれたときにすべてのあらゆるものを見通せる全知の存在になることができるけれど、魂はすでに肉体という外部に接触するものを失っているから、何もできない、何も見れない。そこで人は神の国や極楽浄土といったことを考えます。おかしく、そして不思議ですわ。人の想像力というものは」
「随分と色々な事をご存じなのですね。本がお好きなのですか?」
「えぇ。恥ずかしながら、子供の頃からそればかりでして。色々な本を片端から読んでは見終わり、また読んでいました。実は今でもそのようです。お恥ずかしい話ですが、本なども書いてみたことがあります。人様がどうでもいいと思うようなことまでむつかしく考えて、きっとちょっとした病気なのですわね」
「そんな。博識で居られるのなら、身についておられるということでしょう? 病気だなんて」
「あら。そう言っていただけると、その気になってしまいますわね」
くすくす、とメリヰは笑った。
しばし。
メリヰと別れて(彼女も散歩というわけではなく、留学生として通学している学校の休憩時間だったらしい)、犬飼は本来の用事を果たしに、白澤の勤める学校へやって来た。いつものように自転車を止め、下校やら何やら、わらわらとしている童子らを横目にして、白澤のいる教室を目指す。
「あら。犬飼さん。お疲れ様です」
「えぇ。あ、申し訳有りません、出直します」
教室の様子を見て犬飼は言ったが、「いえ、構いませんよ」と、白澤は書きかけの書綴りを閉じて筆を置いた。「先生は一寸出かけてくるからね、きちんとやっていなさいよ」と、いつもの厳しい眉を吊り上げた顔で言い、「はぁい」とかひそひそと、しかし聞こえるように「自分だけお茶しに行くんやで」と言い交わしていた子供らに軽くぽかりとげんこつを見舞うと、非難の声を背に、「さ、行きましょうか」と、笑いながら犬飼と共に教室を出た。
カフェー。
しかし、思わぬ事が起きた。
「犬飼さん?」
と、問われ、犬飼、いや、すっかり油断していた椛は、「ああ、いえ……」と、歯切れの悪い返事を返した。
(どういうことだ)
思う。学校を出てこっち、会話する中でふと奇妙な心地に襲われたのは確かだ。だが、カフェーに来て、
「それで、今日は?」
と、やや訝しげに微笑んだ「白澤」に言われたことで、それは確信された。
(何?)
「その――」
「はい?」
(上白沢どの?)
と、続けようとした言葉だったが、上白沢――であるはずの、白澤の顔を見て、止まった。
「……賢者殿?」
「は?」
「いえ。すみません。あ、ちょっとぼっとしておりました。申し訳ない」
犬飼は慌てて言った。全く変な事を口走ってしまったものだ。自分のさっきまでの突拍子もない考えに、思わず苦笑する。例えば――自分は本当は幻想郷という名の隔離された楽園に住む一匹の妖怪であり、今のこの世界も姿も仮のもので、いわば狐が狐につままれたような状態にある、今は異変なのだと――待て。何を言っている?
「――犬飼さん? どうかされましたか?」
白澤が言ってくる。「ああ、これは失礼!と、犬飼は、はっとして言った。
「済みません。いえ。不躾かとは思ったのですが、いきなり社から休みを言い渡されたもので、それで先生は何をなさっているのかと」
「あら。珍しいですね」
「ご迷惑でしたら申し訳ありません」
「迷惑だなんてそんな。犬飼さんは好ましい方ですもの。たまにはこのようなお付き合いも宜しいかと思います……。でも、まあ。たまに、ですけれどね。お互い仕事がありますから」
白澤はくすりとちょっと悪戯っぽく笑った。「そうですね」と犬飼も微笑んで返した。
翌日。
どうしても確かめなければならないと思い、その日の昼頃、犬飼は自宅からそれ程離れていない某女学校の構内でベンチに腰かけていた。犬飼も自身が女であるという自覚はあるので、心持ち柔らかく頼み込めば、たとい記者の身分であっても守衛が見逃してくれるのを分かっていたので、時折自分を見て、ひそひそ、きゃあきゃあ、と何やらはしゃぎながら通り抜けていく浮ついた女学生らの視線をやり過ごし、目的の学生が通りかかるのを待っていた。
「――あれ?」
と、ふと後ろを振り返ると、そちらの芝生の横の道に、霧雨が立っていた。
「あれ。やっぱり記者さんだ。どうしたんです? こんなところで」
「何? 知り合い?」
と、横から尋ねてくるのは博麗の巫女――と分かる姿形に、霧雨と同じような、袷、袴にこちらは底がちょっと高めな赤の草履を履き、髪には簡素な提げ櫛のついた赤い花の飾りを着けている女生徒だ。こちらが魔理沙――であるはずの霧雨が言っていた自覚のきていない巫女だろう。
こんにちは、とそちらの娘に挨拶してから、
「やあ、桐子さん。突然済みません。そろそろ昼げの時間だということで、待たせてもらいました。不躾で申し訳ありません。あ、僕、記者をやっております、犬飼と申します。初めまして」
と、隣の巫女似の娘にそつなく言う。娘は「あ、どうも初めまして。白道霊子と申します」と、やや野暮ったい感じに頭を下げてきた。
「待ってたって……私?」
「えぇ」
言うと、目をぱちくりさせる霧雨の横から、白道がつんと袖を引っ張り、
「誰? 貴女のいい人?」
と、不躾に言い、「あ~?」と霧雨を半眼にさせ、「ちがう違う。私そんな趣味無いよ。昔の学校のセンセの知り合い」と、手を振りながら言わせた。それから霧雨はちょっと頬を掻いて、
「あー、まぁいいや。記者さん、昼はまだ? ここいいカフェーがあるからそっち行こうよ。れーこ。ちょっとそういうのだから、また午後ね」
わかった、と言いながら、白道はそのまま立ち去った。
「どうも急にすみません。無粋でした」
「へ? いいのいいの。あの子ちょっと変わってるからさ。こういうのそんな気にしないし、埋め合わせすりゃ何ともないもん。――それより珍しいねぇ、記者さんから用事なんて。あ、犬飼さんて呼んでいい? 先生の手前だとそういうの煩くてさ」
「構いませんよ」
犬飼は言いながら霧雨を見、またやはりか、と、胸の中にもやもやとしたものが沸くのを覚えたが、そのまま並んで歩いていった。
しばしして霧雨と別れ、犬飼は、いや、「椛」は、ますます困惑を究めていた。やはり、というか、やはり、霧雨は、霧雨になっていた。白澤が白澤となっていたのと同じように。
(どうなっているんだ……?)
翌日。
汽車。じゃこ結びをほお張りつつ、冴えない顔で犬飼は、いや、犬飼の顔をした椛は車内を揺られていた。疑念に煩悶とする自分を差し置いて、犬飼は事前に決めていた予定通りの行動を取っていた。今日は「例の件」で霖助に会いに行く。一日二日で調べが進むものでは無いが犬飼には「他にやることも無い」のを椛は「知っていた」。
横浜。
霖助の店に入ると、なぜか霖助は番台におらず、机の上にいつも読んでいる本の一冊であろう、――これは何やら異国の翻訳本のようだ。つくづく霖助という人間は良く分からない素性を持っている、と「犬飼」がそれを見て思った――何の気無しにぱらぱらと取り上げて読んでみる。
(ん?)
間もなく本の間に紙片が挟まっており、四つ折りにされているそれの端に、犬飼松は、と、自分の名前が書かれてある。
新聞社。
結局、数刻待っても霖助の行方は知れず、(店の者に聞いて、今日は出てきていないことだけを聞きおぼえた)犬飼はこれも「予定通り」、ふらりとなんとなく足が向き、社へとやってきていた。昼を下がった時間だったが、社会部のオフイス内は閑散としており、かと思えば、自分の机に行くと、「おっ? おはよう」と、ひとり残っていた海堂がとぼけた挨拶をする。「お久しぶりです」と、犬飼も苦笑を作って応じた。
「何よ、謹慎中じゃあなかったの?」
「建前では有給中ということで聞いていましたが……そんな話になっているのですか?」
「いいえ。でも編集長がそんなぬるーいことするなんて、なにか事情が有ると思って当たり前だし。食べる? 美味いよ」
海堂がさしだしてくる乾菓子の袋を遠慮なく摘まみながら、犬飼は有給中と言いつつしっかりと乗せられているデスクの上の伝聞や資料の写しを見つつ、やれやれとがさごそ整理を始めた。その内に思い立って、先程霖助の店で入手して懐に入れぱなしにしていた紙片を取り出し、デスクの上で広げる。
『この件には関わるな』
紙片には様々な切り抜きされた文字で、そう読める文面が貼り付けられていた。
翌日。
『横浜裏街で男性の遺体発見さる。調べによれば身元は近くの娼館に勤める戸之森霖助(二七)――』
ばさり、と、今朝の朝刊に偶然見つけた三面以下の欄に目を通しつつ、犬飼は無言で紙面をデスクに放って捨てた。
(これ以上は付きあいきれない)
椛がひそかに思う。
霧雨になっていた黒白。
白澤になっていた上白沢。
犬飼になっていた犬走。
(違う……)
椛は腕組みして――違う、これは犬飼の行動だ――と思いつつ、自分も急速に犬飼になりつつあるのを自覚していた。現に霖助に会いに行き、「例の件」の調べを頼んだことは自分の記憶からすっぽり抜け落ちている。いや、違う違う、と、椛はぶ然としたままで口元をさすった。「犬飼の中の椛という自分」がそれを自分の行動と認識していないだけだ。
(今ここにいる私は、本当に私なのかしら)
自信が驚くほどに緩慢な速度で傾いていくのが分かった。犬飼になったら、果たして自分はどうなるのか、いや、そもそもこれは「真実」なのか? 自分が蝶なのか蝶が自分なのか、もしかすると椛という自分は、いや、犬走椛という幻想郷に住まう一匹の妖怪である自分は、この犬飼松はという人間の中に、何かの拍子に生まれた蝶であると、ただの想像か妄想の産物でないとなぜ言いきれる? そう、もしかしたら自分が、犬飼松はというこの人間が、いつかどこかでその幻想郷とやらの話か、それに似た「おとぎ話」でも聞きつけ、それが今、自身さえも自覚しないところで生まれ育ち、「自分」である犬飼松はの顔をしている何者か、犬走椛という天狗として生まれ、この世界が異変である、「夢」の産物であるなどと、まことあらぬ奇奇怪怪な妄言を生み出しているのかもしれません。真実は誰にも分からないのですよ? 人間にも妖怪が何を見ているのか分からないんだけどね。人間にも……では、妖怪は? 妖怪には、人間が何を見ているのか、それが分かるのか?
(妖怪にも人間が何を見ているのか分からない……。……。ん?)
パチリ。
「……」
「ん? どったん?」
隣のデスクでお茶をすすっていた海堂に言われ、「え? ああ」と、目をぱちくりさせていた犬飼は、返事をし、ふとオフィスにかけてある時計に目をやって、
「あ、ちょっと出てきます」
と、海堂に言った。
「夕方には戻りますんで、編集長には宜しく言っておいてください。あとで奢りますから」
「はいよ」
生返事で手を振る海堂を横目に、いつものように道具類を詰めた肩掛けカバンを取り上げ、犬飼は社会部のオフィスを出た。
「……」
椛は目の前に流れ落ちる滝を見つつ、瞬きの間に視界が入れ替わった目の前の景色を見て、眉間を軽くつまみ、それから、大きく伸びをして欠伸をした。犬歯をどうにかしまいつつ、滝の陰から出ると、ほんのり緩くなった水の気配とぽかぽかと匂う春の気配を含んだ日差しが目に優しく射しこんできて、獣の目を二、三またたかせた。
椛は川からちょっと離れて胡坐をかき、懐の煙管を取りだした。火を入れ、すぅーと煙を吸い込む。美味い。
――邸内。
室内に妙な緊張感、いや、殺気、か。が漂った。
ガタン。
その沈黙にも似たほんのわずかな間を破ったのは、部屋の入り口にあるドアーであった。
室内の面々が思わずそちらを見やる中、勢い良く開かれたドアーの向こうから姿を見せたのは、千代田むら、――そして、何と口惜しげに顔をゆがめたむらの後ろで手首を取っている、
犬飼松は、であった。
「犬飼さん!?」
室内にいた一人、有栖川いざ夜が、大変驚いた顔で叫んだ。しかし、それとは対照的に、ソファーに座ったままのマエリベリヰは静かに紅茶のカップから手をはなし、「犬飼さん。大丈夫でしたか」と、声をかけた。
「何故……」
と、その腕に捕らえられたむらが、無念そうに唇をかむ。
「残念でしたね。トリック、というやつです。西洋の探偵小説なんかで言うね」
犬飼は淡々と、しかし警戒は解かないままに言った。
「意表を突いてみたのですよ。あなたが殺してなどいない人間が、もし遺体で発見されたら、僕を襲った当人であるむらさんはどう思うか、とね。どうも思わないかもしれない、でも、ひょっとしたら? 僕の発案なんかではなく、ハァンさん、メリヰさんの発案によるものではありましたけどね」
犬飼は言うと、「さ、いい加減、その物騒な物を手放してください。屋敷の外に官憲の方方がおいでになっています。逃げたりできませんよ」犬飼が言うと、むらは一瞬逡巡したが、「くっ……」と、うつむいて、がしゃん、と手にしていた小刀を床に落とした。犬飼がそれを拾い上げ、同時にむらを離して、「失礼」と、ちょっと前に押しやって距離を置く。
「……」
放られたむらは、うつむいたまま、唇を引き結んだ。それに、今まで沈黙を保っていた千田が歩み寄り、「むら」と、厳しい声で呼び、上げさせた顔に、パン、と平手を見舞った。
「……」
そのまま、何も言わない。
やがて、頬をおさえて立ちつくしていたむらが、その目から、「っ……」と、涙を流しはじめた。肩が小刻みに震える。
「千田さん。ご覧の通りです」
「……」
「千代田さんの行動が何を意味するものであるか、それは官憲さまの前でお話ししていただきます。私共にそれ以上を問い詰める権限はありませんので」
「……」
「ですから千田さんはご自由になさってください。私の語った話は今のところはただの限りなく推論に近い、与太話です。今ここにある真実は一つのみ、それはむらさんが私の推論を耳にされて何故か、それを、手にした物騒な物でどうにかこうにかしようとしていただけ。私はそれを以て、官憲さまの手に事の真相をお渡しするだけです。さ。犬飼さん。申し訳ありませんが、彼女をお連れするのを手伝ってください。それでは失礼を致します」
マエリベリヰは言うと、犬飼と共に、むらの背中を押して、部屋を出ていった。
千田憲兵、旧名、千代田剣平が、警察に出頭したのは、
『――その日の夜遅くになってからであった。』まで読み進めてから、藍は栞を挟んで本を閉じた。
(おっとっと――)
と、ぱたぱたと屋敷の廊下を歩きながら、目覚めた紫がうん、と伸びをしているのまでを感じ取りつつ、ひとりごちて、忙しない挙動を押さえがちにすると、とん、と廊下に正座し、目の前の襖を開けた。
「お目覚めの加減、いかがでございますか、紫様」
藍が、ふかぶかと頭を下げて言うのに、今年は物好きにも布団で冬眠していた紫は、ねぐせのひとつもない寝巻き姿でほほ笑んだ。
「とても良い加減だわ、藍。あなたの用意してくれた寝具のおかげで、良い眠りが楽しめましたわ」
「それは良うございました」
「ねぇ、もう桜は咲いているかしら」
「まだ三分咲きといったところかと」
「あらら。思ったよりはやく目が覚めちゃったわね。もう少し寝てようかしら」
「恐れながら今日は布団を干すのにいい日和です。寝るなら枕をかかえてスキマへどうぞ」
「そ? まぁいいか。それじゃあ霊夢のやつの顔でも見に行こうかしらね。藍、着替え」
「畏まりました」
人里。
寺小屋の近くまで妖怪の類がやってくるのは、天狗とはいえあまり歓迎されないが、そこは適当に流して、椛は子供らのいない廊下を渡り、目的の上白沢がいる教部屋へとやってきていた。
「御免――」
「――あっ! お外道様や!」
「ホントだ!」
「お外道様だ! うわぁ、本物だ!」
「すげぇ、ふかふかしてる!」
「尻尾もふもふだぁ」
「耳おっきぃー」
「こら! 何するんだ! やめんか!」
わらわらと群がってくる子供らを叱っていると、教卓にいた上白沢が言った。
「皆。お外道様が嫌がっていらっしゃるぞ。やめなさい」
「はーい」
「はーい。何やつまらんのぅ」
「毛並みすっごいやわらかかった!」
「耳もふもふやった!」
上白沢が来てぽかりと一人ばかり殴りつけながらしっしっと追い払うと、ようやく子供らはめいめいに教部屋のそれぞれのところに散っていった。
「どうもご迷惑をおかけいたしました」
「お前の処ではどういうものの教え方をしているんだ。もっと妖怪は怖がるものだと教えておけよ」
「教えてはいるんですが、何分私がこのようなものでして、なかなか手こずっています」
「そういう問題か?」
椛は言った。上白沢はさして堪えていないように、ちょっと微笑むと、「私に用事ですか?」と、つかめない表情で言ってきた。
「それは私がここに来た理由について心当たりが無いという意味か?」
「いいえ」
「そうか。……いつ目が覚めた?」
「一昨日頃です。もっとも何故だか、私が眠っていたようなことは誰も言っていません」
「魔法使いの小娘はもう目が覚めているだろうか」
「う~ん。ちょっと分かりかねます。何分人里の外で起こることは把握しがたくて、でも、こちらには来ていませんよ」
「まぁ、いいか」
「座ったらいかがですか? お茶をお出ししますよ」
椛は勧められるのに「いや」と言い、しかし茶は頂くと言った。
しばし。
子供らが引けた後の教部屋で、椛は茶をすすりつつ、
「何だったのだろうな、あれは」
と言った。
「あれ? 何となく分かったから目を覚ましたのでは?」
「そういうものだったのか? じゃあ、上白沢殿は見当をすでに見出したのか?」
「まぁ、……いえ失礼、いえ。実は私も何となくです」
「そうか……」
「ただ……」
「ん?」
椛は聞きかえしたが、上白沢は、あ、いえ、と、失言を気にするようなそぶりで言った。
「八雲殿は……」
それから、ちょっと考えるように、女性らしい細い顎に指をあてる仕草で言った。
「?」
「八雲殿は、あれで結構人間臭いところがあられる方です。もしかすると、あれはだから……」
「スキマ妖怪がどうかしたのか?」
「えぇ」
上白沢は言った。寺小屋の外から、子供らの遊ぶ声や、わぁっといった歓声が遠く聞こえる。そんな間を置き、窓の外にしていた視線を落としてから、また上白沢はぽつりと言った。
「人の夢、歴史のくびき」
「……」
「甘い一欠けらの夢の断片を誰かとともに見たいと思うのは、人間にありがちな強欲です。人間臭いということは、しかしそういうことなのかも」
「犬走様は、なぜ抜けだすことが出来たのか、覚えていらっしゃいますか?」
「……? いいや」
椛は言ってから、少し考えた。それからまた口を開く。
「あの夢、なのか何なのか、よくわからん世界で、私は次第に自分が消えていくような感覚を覚えはじめた。人間の中に人間としている私本来の私が、徐々に何かに引きずられていくような感覚があった。自分が夢なのか、あれが夢なのか分からなくなるひと時を感じはじめた。それは不快ではないが、どこか取り返しのつかないような、そんな危うさが感じられた。結局最後には、私は私があの世界にとっての排されるべき異物なのだと勝手に決めつけた。そしたら頭の中で思考ではない、何かの声が囁いた。私は確信がくる時を待ち、気がついたら元の私に戻っていた」
椛は言った。そして言ってから、やはり今の言葉に、どこか自分でない何者かの意思が介在した感覚に囚われるところを感じ、また、怖気にも似た感覚が、密かに尾の毛を逆立たせるのも感じた。
「上白沢殿。この世界は、私は、夢なのか?」
気がつくとそう言っていた。そして、言ってからかぶりを振った。
「いや、何でもない。申し訳ないが、今言ったことは忘れてくれ、上白沢殿」
「ええ」
教卓。
犬走が帰った後、上白沢はとんとんと教書のたぐいをまとめつつ、ふとごちた。
(人の夢、歴史のくびきか。それは人ならざるが、それゆえ人である者にもまた同じように)
まとめ終えた教書を手に、教部屋を出る。辺りは薄く闇が下りはじめ、逢魔が時の気配を含みはじめている。
(まぁ、八雲殿もご苦労なされている身だ。ここは一つ見ないふりをしておくのが一番というものか……)
上白沢は勝手に決めながら、まだ外で聞こえている子供らの声を聞き、それを帰らせるべく、すたすたと早足に廊下を歩いていった。
間。
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