現実と見紛うほどに精巧な夢を見たことがあるだろうか。感触も感覚も、いつもと変わらないように感じることのできる夢だ。そんな夢の中で、自分を意のままに操作できたなら、もう何だってできそうな気もする。明晰夢に憧れる人は多い。かく言う私だって、少し前まではその中のひとりだった。
けど、今なら断言できる。そんな夢は見ない方がいい。
「……んあ」
朝の光に意識を取り戻した私は、ベッドの中で丸まっている自分を発見する。どうやらきちんと眠ってはいたようだ。そう理解はするけれど、睡眠を取ったのだという感覚は全くない。頭が休まっていなかった。私の意識は、夢の中からずっと地続きに繋がっていた。
私たちは変な荒れ寺にいて、墓場の中で、季節外れの桜を咲かせて ――
体を起こして、頭をわしわしと掻く。少しだけくらくらする視界は睡眠不足の証か。ここ数日はずっとこんな調子だった。眠れば必ず夢を見て、その中にはまるで現実のような世界があるのだ。今の自分と夢の中の自分、どちらが本当の私なのかさえも分からなくなりそうなほどに。
ふと、右掌で何かを握り込んでいることに気づく。拳を開いてみると、はらはらと何かが零れ落ちる。
それは裏側まで透けて見えそうな、桜色の花弁だった。
ぎょっとしてそれを放り投げる。花弁はふわふわと舞い落ちて、枕の上に着地した。
もう夏の盛りだ。桜などどこにも咲いているはずがない。いや、違う。咲いている所はある。さっきまで私がいた夢の中、荒れ寺の墓地だ。墓石を回すと出現した巨大な桜の樹。
そこまで思考が及んでから、私は頭をぶんぶんと振った。いくら何でもそんな筈はない。夢から現実へ、何かを持ち帰ることなんてできるはずがない。いくら私が博麗の巫女だからと言ったって、そこまでデタラメな能力を持たされてしまっているだなんて信じたくはなかった。
よく見ると桜の花弁にしては大きすぎるような気もするし、色や形が違っているようにも見える。どこからか吹き込んできた別の花の花弁を、寝呆けた私が掴んでしまったのだろう。
そう考えると得心できて、私は安堵した。同時に、無様に狼狽えてしまった自分に大変腹が立った。枕の上の花弁を掴んで、くしゃくしゃに丸めて屑籠へ放り込む。私は桜が嫌いなのだ。散った後の花弁は尚更に嫌いだ。
興奮したせいか朝から汗が噴き出している。ひとまずはしゃっきり目を覚ましたかった。念入りに顔を洗って、気怠さを吹き飛ばさなければならない。自室のドアを後ろ手で閉めて、私はひとつ大きく深呼吸をした。
ぼんやりしている暇はない。今日は大切な用事があるのだ。
◆ ◇ ◆
都市は熱を持つ。人間は生きて活動するだけで膨大なエネルギーを放射するので、それが密集している大都市には物凄い熱量が籠もるのだ。その原理は妖怪都市となった今年の東京でも、何ら変わることはない。そこに強烈な太陽光線と熱帯からの暖気団が加われば、夏の暑気が増すのは必然である。白蓮寺の窓硝子はひとつ残らずに開け放たれていた。西洋風の建築は風を通すようにできていない。加えて星さんも那津も、暑さにはあまり強くなかった。妖怪騒動の一報が入ったときこそは颯爽と出動していくけれど、そうでないときは基本的にダレダレのボケボケである。氷水を張った盥(たらい)から抜け出せなくなっている星さんなんて、私は見たくなかった。
私は台所でくるくると料理をしていた。料理はそれなりに得意だ。精進料理で鍛えたという星さんや那津もかなりの腕前はあるが、私だって遅れを取っているつもりはない。
白蓮寺の台所は、瓦斯(ガス)七輪に水道つき流し台を備えた最新式である。いっそ洋風にキッチンと呼んでしまえるかもしれない。何と言っても、竈(かまど)の前にしゃがみ込んで米を炊く必要がないところが凄い。
鍋と包丁を総動員しながら、いつもよりも1人分多い分量の夕食を準備する。ことに今日は張り切らなければならなかった。大切な客人があるのだ。
あとは五目ちらしの熱を飛ばして、鍋に火の通りきるのを待つばかりといった頃に、ドアベルが躊躇いがちに鳴った。
「いらっしゃい。待ってたわ」
「……どうも」
赤く染まり始めた街を背に、菫(すみれ)色のワンピースを着たメリーベルは、いつもよりずっと小柄に見えた。退魔鎧を着込んだがっしりとした姿を見慣れすぎたのかもしれない。
「入って入って。あ、靴は脱がなくてもいいから」
「本当に、大丈夫なの?」
「大丈夫、あんたが心配するようなことは何もないって」
「でも、私、この前だって、その、あのひとたちとは……」
「あぁもうじれったいなぁ。ほらこっち!」
もじもじしているメリーベルの手を強引に取り、客間へと案内する。
メリーベルを白蓮寺の夕食会に呼ぼうと発案したのは私だ。彼女は全ての妖怪を悪として憎んでいる。だからたびたび星さんや那津とも衝突してしまうのだ。確かに今、東京は妖怪のせいで滅茶苦茶なことになっている。けれど妖怪は絶対悪ではない。それどころか白蓮寺の2人のように、人間の側に味方してくれる妖怪だっているのだ。そのことをメリーベルには知ってほしかった。
何よりメリーベルは、「妖怪騒動を積極的に鎮められる人間」という意味で私の数少ない仲間である。そしてもちろん、星さんと那津は共に暮らし戦う同志だ。私にとってこの上なく大切な両翼がいがみ合ったままというのは、とても落ち着きが悪い。3人の仲を何とか取り持つことが私の狙いである。
メリーベルを呼ぼうと言ったとき、星さんは笑って賛成してくれた。那津も、少しだけ苦い顔はしたものの、結局拒否はしなかった。2人のいつもの姿を見てもらえれば、メリーベルもきっと考えを改めてくれるだろう。
メリーベルには断られるかもしれないと覚悟していたが、喫茶店で働く彼女にこの話を伝えたとき、意外にもあっさりと頷いたので逆に拍子抜けしてしまった。そのときの彼女は、どことなく不安げな表情だった。
「もう準備できてるから。すぐにでもご飯にしましょう」
努めて明るく私は言った。彼女には自分からぶつかっていった相手に対する気まずさがあるのだろう。いたたまれなかった。早くこのわだかまりを解きほぐしてあげたかった。
早く星さんと那津も呼んでこよう。私は客間の扉を開けた。
「……暑い、暑すぎますよ。盥の氷もすっかり溶けてなってしまったし、このまま溶けてしまいそうです」
「暑いと言うから暑くなるんだ。もう暑い暑いと言うのはやめにしよう。しかし、とてもじゃないがこんなだらしのない姿は人には見せられないな」
「こうやって少しでも机との密着面を増やすことで、熱を身体から逃がすんです。生死の懸かった問題です。見た目がどうとか、そういうことを言っている場合じゃありません」
「そういや聞いた話では、虎が溶けてバターになって、それを焼いたパンケーキを食べる童話がアメリカの方にあるらしいね。そうならないように気をつけてくれよ、ご主人様」
「私、甘いもの苦手ですけどね。でもバターになれば暑さも忘れられそうで」
「ダメだ、暑さで思考がおかしくなってる……」
目の前には、徹底的に溶けきったダメ妖獣が2匹、机の上でだれていた。
私は何も言わずに陰陽玉を彼女らの頭上に落とした。
「痛っ! あ、桜子さん、もうご飯ですか?」
「ご飯ですかじゃない! 今日はメリーベルを呼ぶ日だからしゃんとしてて、ってあれだけ言ったのに!」
「そんなこと言われても暑くて暑くてもう」
「何と、ついに巫女が退魔師側に寝返ったか。こうなれば我らも黙っているわけにはいかないな、降りかかる火の粉は払わねば。あぁその前に、麦酒の一本でもつけてくれないか」
「えぇい黙りやがれ鼠女! まずは足下のその盥を片づけてから言いなさい!」
最悪である。2人のいつもの姿を、とは言ったがこれはあんまりだ。日常の中でも最低辺の光景じゃないか。
「 ―― ぷっ、あはは」
振り向くと、メリーベルがお腹を抱えて笑っていた。
「いや、あの、違うのメリーベル。これはね」
「あはははは、可笑(おか)しい。あんなにキリッとしてた人たちが、こんなだらけちゃって……あはははは!」
あんまり笑われたからか、那津の顔が赤くなる。星さんは身を起こして薄く微笑んだ。私ははっとする。ひょっとして星さんは、メリーベルと打ち解けさせるためにわざとこんなことをしたのだろうか。流石に長く生きた妖怪は考えることが違う。
星さんは立ち上がってひとつ大きく背伸びをすると、爽やかな顔で言った。
「ちょっと盥の水を取り替えてきますね。もうすっかりお湯みたいになっちゃって……あだっ!」
追加のもう一発を脳天に叩き込む。前言撤回だ。この人は何も考えちゃいなかった。
帝都の都市ガス事情とかどんなだったんでしょうね?