ハレー彗星の最接近から一週間も経つと、人々の生活はすっかり元に戻った。東京上空をあれだけ騒がせた嵐も、結局あれっきりで収まってしまった。帝都はすっかり平常を取り戻していた。平常、と言ってももちろん、妖怪たちが街から消え失せたというわけではない。むしろ奴らの引き起こす騒ぎは、彗星の騒動が収まってからの方が酷くなっているようにすら思える。星さんに言わせれば、彗星の出現や怨霊の覚醒といった出来事はそれ自体が強大な妖怪のようなものなのだそうだ。それを経た妖怪たちは、様々な刺激を受けて活性化するのだという。まったく迷惑な話だ。
昼も夜もなく暴れ回る妖怪どもの退治に連日駆り出されて、私は疲れ果てていた。もとから妖獣である星さんと那津はへばる気配すら見せないが、私はか弱い少女である。この一週間で出動回数は30回を超えようとしており、ずっとまともに眠ることすらできていない。事ここに至って私の心の中の何かがぶちっと切れた。今朝方、10時間と28分に及ぶ大取物を終えて白蓮寺へ戻ってきた私は、もううんざりだと寝室に引き籠もった。たとえ世界が崩壊するとしたって構うものか、私は眠るのだ。そう宣言した私に、星さんも那津も流石に同情してくれたのか、何も言わずに寝間着を手渡してくれた。そしてすぐさま那津が次の妖怪騒ぎを察知し、2人で向かっていってしまった。やっぱり罪悪感がちょっぴりあるけれど、それでもあの2人は手練(てだれ)である。心配することなど何もない。私は最後の力を振り絞って、もはや悲鳴すら上げなくなった可哀想な身体を、布団と布団の狭間に捻じ込んだ。もう何もしなくていい、泥のように眠るだけでいい。そこは滑らかな布に包まれた極楽だった。私はただ赤ん坊のように身を丸めた。そしてあっと言う間に深い眠りへと墜落し、とても幸せな夢を見た。本当の幸福を余すところなく具現化した夢だった。辛いことも悲しいことも、ほんのひと欠片だってそこにはない。丸くて甘くてふわふわした、世界で一番美しい夢を私は見ていた。最も美しい夢の中の私は、午前0時の灰かぶりよりも美しいのだった。
射命丸文が訪ねてきたのは、そんな時分であった。
「…………んあ」
窓硝子が騒々しく叩かれる音が、私を深い夢から引き上げる。頬にひんやりとした感覚があった。自分のよだれで枕はすっかりびしょびしょだった。極彩色の夢の映像が、一瞬にして記憶から消え失せてしまう。今の今まで幸福に満たされていた胸に大きな穴が開いて、中身をすっかり零してしまっていた。伽藍堂になってしまった胸の内に、やがて虚しさの種火が灯る。
「桜子さーん、起きてー、起きてってば!」
新聞記者の声は、カーテンを締め切った窓のすぐ外から聞こえてくる。はてこの部屋は2階だったはずなんだけど、と思い当たったところで、先日の自己紹介を思い出す。なるほど天狗ならば空くらい飛ぶのだろう。
鏡を覗き込むと、目つきの悪い山姥のような女がこちらを見返した。もちろん私である。目覚めの寝ぼけ眼と荒れ放題の髪が私を化け物に変えていた。継母にいびられながら掃除をする灰かぶりだって、もう幾分かマシな見た目だろう。カーテンを開く前にせめて手櫛で最低限の身だしなみは整えよう、と思ったけれど、やっぱり思い直して私はそのまま窓から顔を突き出した。
「うおっ!?」
思った通りだ。迷惑なブン屋を追っ払うためならば、威嚇が効く分だけ山姥顔の方が都合がいい。
「何しに来たのか知らないけどさっさと帰れ。私は寝るの。今日一日は眠ることだけを考えたいの。用があるなら後日にして。急な用だってなら、後で読むからその辺に書き付けでも置いといて。どうでもいい用だったらこの場で滅してやる」
「も、物凄ぇ迫力ですね……。いやほんと、こんなに驚いたのも久しぶりです」
文はそう言いながら、しかしすぐに涼しい顔を取り戻す。
「用事というのは他でもありません。最新号の新聞が刷り上がったのでお届けにあがりました」
即座に脳天に陰陽玉を叩き込む。そして間髪入れずに桜色の討魔光を放ち追撃した。巫女の安眠を妨害するとはなんと邪悪な妖怪であろうか。こんなヤツを生かしておく訳にはいかない。さっさと殺して二度寝しよう。
「な、何のこれしき。我が鋼のジャーナリズム信念、これしきで潰えるものではありません……!」
しかし文はゴキブリのごときしぶとさで、再び同じ窓まで浮かび上がってくる。
「私、本当に疲れてるの。お願いだからまた今度にして」
「そう仰らないでくださいよ。情報は鮮度が命なのです」
そう言いながら手渡してきた新聞を、私は結局受け取ってしまった。見出しにはこうある。『破滅の巨大彗星、博麗の巫女が追い払う!』
「……鮮度、ねぇ。くだらない」
「あなたにとってはくだらなくとも、他の人々にとってはそうでもありませんよ。あなたは東京を救った救世主。それは揺るがない事実となる」
「ねぇ、何が目的なの?」
腕を組んで私は問うていた。最初からこの文々。新聞の報道はどこかおかしかった。まるで私に博麗の巫女としての権威を持たせようとしているかのような。
「幻想京計画」
しかし文の呟いた言葉が、疑惑も疑念もどこかへ追いやってしまった。
「私自身はあまり乗り気じゃない。本気で帝都を奪えるだなんて思っちゃいない。それでも、八雲紫はこの計画によって何かを手に入れられると確信している節がある。彼女は私に、天狗社会に協力を求めてきた。天狗の風説は風より速い。相手が何百万人だろうと、幻想京の基底情報を万全に構築できる。私はその要請を請けた。あなたが思うがままに暴れられる世界を、私がきちんと用意してあげる。そして ―― 」
ばさり。黒い羽根が舞う。文の背中に、細く鋭い烏の翼が具現化した。
「 ―― その先に八雲紫が求めるものを、私は知りたい。ただそれだけですよ」
そして短い別れの挨拶を残して、天狗は飛び去ってしまった。瞬きする間に見えなくなってしまうほどの猛烈な速度だった。
手にしていた新聞を床に放る。窓を閉めると大きな欠伸が出た。睡眠不足を身体が強く訴えていた。私の知らないところで、私を中心にして、何か巨大な陰謀が巡っている。それはどうやら間違いないようなのだが、しかし。
「……それって、私の安眠を妨害するほど大事なこと?」
虚空に問いかけてみるも、誰も肯定の返事を返さなかったので、私は私の意志において否決の裁定を下した。安らかな眠り以上に大切なものなど、今の私にあるはずがなかった。
布団に潜り込む。枕はまだよだれで湿っていてひんやりとしていた。さっきの幸せな夢にもう一度戻りたかった。午前0時の灰かぶりにもう一度なろうと思った。しかし目を閉じても、なぜだか頭は冴え渡ってしまっていて、夢の扉はぴくりとも動かないのだった。
◆ ◇ ◆
流れる星と同じ速さで、都良香は落ちていった。どこまでも、どこまでも落ちていった。
なぜ陰陽玉を蹴ってしまったのか、良香は自分でも分からなかった。あれだけ執着していたはずの霍青娥への復讐。それをあっさり擲ってしまうだけの何かが自分の中に残されていたことが、まだ信じられなかった。
流れる星と同じ色の輝きが、彼女を覆い尽くした。あっと言う間に、彼女も虹色の星となった。
蘇我屠自古の情念を受け取ったとき、その巨大な狂気に良香は圧倒された。彼女は心の中を執念だけで塗り潰した、もはや執念そのものと言える存在だった。常人であれば触れるだけで正気を失うほどの感情の塊を、彼女は胸に抱えたまま存在を続けていたのだ。そして新陳代謝のごとく感情を無限に自己増幅することで、あれほど強大になってしまったのだ。
生前のことを何とか思い出そうとして、それができなくなっていることを知って、良香は自嘲した。自分の死んだ理由さえ、もはや忘却の彼方にあった。
流れる星のひとつとなって、彼女はどこかへ飛んでいた。向かう先が終わりなのか始まりなのか、それすら分からないまま。
殺意に全てを塗り潰されたと自覚していたから、良香は行動を起こした。そう思っていた。けれど、自分に純粋な悪意以外の感情がまだ存在していたことを認識してしまった途端、すべてが馬鹿馬鹿しくなった。復讐がただの逃避であることに、手段と目的が入れ替わっていたことに気が付いてしまった。心の奥底に眠っていた本当の望みが、彼女を最後に突き動かしたものの正体だった。
芳香との平穏を壊したのは自分だ。それはいずれ壊れてしまうことが決まっていた儚い代物だった。これがなるべくしてなった結末なのだろう。完全に狂ってしまえれば、怨霊になることができていれば、また違った結末だっただろう。だがそれも、もはや可能性の話に過ぎない。無意味な仮定だ。
流れる星の行く先は、誰も知らない。ただ闇の中を飛翔している。どこかで聞き届けられることを夢見ながら。
◆ ◇ ◆
「君は今、幸せですか?」
そう神子に問われた屠自古は、マントの解(ほつ)れを繕う手を止めてしばしきょとんと目を丸くした後、不気味なものを見たというふうな怪訝な視線を返した。
「何よ急に、気味悪い」
歯に衣着せぬ物言いに、神子は苦笑する。神霊廟に住まう者たちの中で、神子に対してそんな口をきくのは屠自古くらいのものだった。だからこの亡霊のことが彼女は好きだった。
「先程まで、百年ほど昔の不幸せの後始末をしていたものだから。いやぁ、復活して結構経ったし、この幻想郷って場所にも慣れてきたと思っていたけれど、まだまだ甘かった。とにかくデタラメな体験でした。何でも、大結界を越える際には数百年くらいの時間ならあっさり飛び越えてしまう例もあるそうで」
「意味分かんない。分かるように喋ってよ」
「押し付けられたお仕事を頑張ってました」
「へぇ。……あ、ここも破れてる。まったくもう」
布の端切れを当てると、屠自古は手早く穴を塞いでいった。神子もそれくらいのことなら自分でできるのだが、屠自古に見つかると「みっともない」と怒られて以来、それとなく彼女に頼むようにしていた。彼女はこういう手作業を、不平を言いながらもやりたがるのだった。
「今幸せか、って?」
繕う手先を見つめたまま、屠自古は言った。
「微妙なところよね。神子は意味分からないことばっかりしてるし、布都はアホだし、青娥はやりたい放題だし、芳香は何考えてるか分からないし。幻想郷の連中も馬鹿ばっかりだし、あんたも負けず劣らずの馬鹿をするし、布都はアホだし。ここで修業したいって物好きどもも唐変木しかいないし、それを拒まないあんたも訳分からないし、それに加えて布都はアホだ」
彼女の裁縫の素晴らしい腕前が、みるみるうちにマントの穴を塞いでいく。ぱん、と屠自古が両手で伸ばした布には、もはや跡すら見当たらなかった。
「でもまぁ、不幸せではない、かな。少なくとも」
少しだけぶっきらぼうなその言葉で、神子には十分だった。
そのとき、神霊廟の静穏を破って、がらがらと何かが崩れる音がした。
「ぎゃー! とじこー、助けてくれとじこー!」
「何をやってるんだ、あのアホは」
マントを手早く畳んで神子へ突き返し、屠自古は布都の声がした方へ駆けていってしまう。その背中に向けて、神子は小さく呟いた。
「君の願いだけは、私が必ず叶えてみせる」
そしてマントを羽織ると、神子は仙術を展開し幻想郷へと跳んだ。事の次第を八雲紫へ報告しなければならなかった。そしてついでに問い詰めなければならなかった。もうひとりの博麗の巫女から聞こえてきた言葉、『幻想京計画』。かつて八雲紫が展開したらしいその計画は、しかし現在に、さらには未来にまでも、大きな影響を与えかねない。現に先程の邂逅で、神子は過去を改変することすら可能だった。いやもしかしたら、気づかぬまま過去を変えてしまったのかもしれない。あまりにも危険な計画である。あるいは、その危険すら織り込んだ企みなのかもしれないが。
今とは、過去と未来の境界である。八雲紫は、それすらも操ろうとしているのかもしれない。そこまで思いを巡らせて、神子の背筋は粟立った。
願いの向かう先は未来とは限らない。そこにあるものは神子にさえ分からない。理解したときには、すべてが終わっている。それが手遅れにならないことを、彼女は祈るしかなかった。