霊廟の最深部にて私たちを出迎えたのは、無数に浮かぶ虹色の星々だった。天から地に向けて大小の光が絶えず降り注いでいる。それだけが上下の区別を教えてくれるけれど、その他の方向感覚は曖昧になり溶けかかっていた。
豊聡耳神子は、自分の傍に落ちてきたひとつの光をそっと掌で受け止めた。するとその虹色の星は途端に跳ね上がって、彼女の周りをくるくると廻(まわ)った。そしてそのまま、彼女のミミズクの耳羽のようにぴんと立つ髪へと吸い込まれていった。
「願いとは、誰かに聞こえなければ意味がない」
振り返った神子は、ついてきていた3人の亡霊を順繰りに見つめた。私はそのさらに背後に浮いて、ただ事の成り行きに任せることにした。私に何かできることがあるだなんて、もはや考えてはいなかった。
「この光はみな神霊です。私に聞いてほしい一心で世界中から集まってきた、ありとあらゆる生き物たちの願い。私はどんな願いでも聞くことができますので、この場所は自然とこうなってしまう。えぇ、聞くだけです。叶えてやれる願いなど一握りにすら満たない。けれど神霊たちにとっては、願いが叶わずとも、受け止めてもらうことこそが肝心なのです。私はきっと、そのためにここにいるのでしょう」
真っ直ぐに降り注ぐだけだった虹色の光は、今や神子を中心にした大きな渦を描いていた。それらすべては、彼女の耳羽に次々と吸い込まれていくのだった。空間そのものが、甲高い音で鳴っている。水の入ったグラスを濡らした指でなぞったときのような、金属質の音色だ。
「君たちが今まで存在を続けてきたのは、強い願いを抱えていたからだ。ただただ強い想いを」
そして最後のひとつが神子の耳羽へと入り込んだ。辺りを暗黒と静寂が満たす。
「けれど、強い想いはそれだけ歪みやすい。願い続けるためには、それに向けて進み続ける推進力が、巨大な意志の力が必要だ。その反作用の先が僅かでもずれてしまえば、行き着く先は……」
神子の金色の瞳が、すんと鼻をすすり上げた幽霊へと向いた。都市ひとつを滅ぼす力を持つ強大な怨霊は、今やただの泣き虫となっていた。
「屠自古、私を許せとは言わない。目一杯恨んでくれて構わない。私も、そして布都も、君の怨念を受け止める覚悟はできている。けれど、今少し待っていておくれ。君の向かう未来で、私たちは必ず蘇る。何を置いても、君の願いだけは、必ず叶えてみせる」
3度、4度と屠自古は頷く。私には神子の言葉の意味が分からなかった。未来で蘇る、というのなら、今目の前にいる彼女は一体何だ。
「そして、問題は君たちだ。芳香と良香」
話題が自分に向いたせいか、良香はびくりと身体を震わせた。一方で芳香はふらふらと身体を揺らすばかりだ。
「ひとつの身体に宿ったふたつの魂が、全く相反する意志を抱えている。良香は青娥への復讐を、芳香は青娥を護ることだけを考えている。ふたつの願いを同時に叶えることはできない。すなわち、どちらかの願いが叶った瞬間に、もう一方は存在理由を失って消滅するでしょう。君たちは間接的に殺し合っているのです」
「ち、違うよ! 私は良香を殺したりなんか ―― 」
「ならば芳香、君は自分の望みを諦めるのですか? あなたが青娥を見捨てるというのなら、あなたと良香は共存できる」
「青娥は……それも嫌だ……私は」
芳香のふらつきが酷くなった。神子は良香にも呼びかける。
「あなたもそうです。都良香が霍青娥を殺すのであれば、宮古芳香は主を追って消滅する。あなたは孤独な死体となる。その結果にあなたは満足しますか? これがあなたの求める尊厳ある死なのですか?」
「う……」
言葉を詰まらせて、良香は俯く。誰も、何も答えられなかった。答えなんて出せるはずがなかった。だって、答えが決まったその瞬間に、どちらか片方は死ぬ。片割れに死を宣告しなければ、自分の願いを貫けないのだ。相手の望みを叶えた瞬間に、自分は無念のまま消えるしかないのだ。
「どうすればいいのか、きっとあなたたちには決められない。ましてや私が決めることでもない。あなたたちふたりとも、どちらも正しくはなく、そしてどちらも間違っていないのだから」
「じゃあ、どうすればいいんだ」
良香の声からは、邪仙と対峙していたときの覇気はすっかり消え失せていた。
「誰が決めるっていうのよ。そんな権利を持ってるやつが、この世にいるのか。神か、仏か、それとも閻魔か?」
「そのいずれとも面識はありますが、彼女たちに任せられる選択ではありません。でも、これを決めることのできる者は、確かにこの世に存在します。それも、私たちのすぐ近くに」
神子は薄く微笑むと、3人の亡霊の誰でもなく、なんと私を見た。心臓をひと突きで刺されたような、左胸を中心とした淡い痺れの波紋が、ざわりと全身を駆け抜けた。
良香と芳香が振り返って私を見る。なぜ、どうして私が。
「博麗の巫女は世界を調停する。故意であれ偶然であれ、あなたの決定がすべてを定める。それは絶対の裁定です」
「いや、いやいやいや」
「さぁ、どちらか片方を指し示しなさい。そのためにあなたをここまで連れてきたのだから」
「ふざけないでよ、こんなの丸投げじゃない!」
私にできるわけがない。たとえ一度は死んでる存在に対してだからといって、死刑の宣告なんて荷が重すぎる。
慌てふためく私に、神子は笑った。笑いやがった。
「えぇ、あなたの仰る通り、これは丸投げです。それでも、あなたの他に任せられない問題なのです。誰にも出せない答えを、それでも博麗の巫女だけは出すことができる。そしてその決定は、必ず世界に受け入れられる」
神子の言葉に宿るのは、誰にも有無を言わせない圧倒的な言霊だった。論理も何もあったものじゃない。いやそもそも、彼女は論理で私を説こうなどとは考えていない。博麗の巫女はすべてを説明する原理で、あらゆる存在の前提だと言っているのだ。そしてそれを、私に受け入れろと言っているのだ。
「君には決める力がある。あとは意志だけだ。私は君に、前に進んでほしいと思っています」
良香と芳香、ふたりのキョンシーがこちらを見つめる瞳からは、何も読み取ることができない。呼吸が浅く、速くなる。私は恨まれるのだろうか。それとも感謝されるのだろうか。10の指先が死にかけた虫の脚のように震えている。怖い。怖くて仕方がない。
私には決める力がある。ないのは意志だけだ。そうだ、私にはいつだって、それがなかったのだ。東京の妖怪退治を白蓮寺でやっていこうと考えたのだって、別に正義とか何とか、そういう御大層な大義があったわけじゃない。ただ家に帰りたくなかったからだ。面白そうだと思ったことも嘘ではないけれど、それ以上に逃げたかったのだ。両親が勝手に決めた見合いの話。大人になれと頭ごなしに言いつけてくる世界。私は、それに背を向けたかっただけだ。
それでは前へと進むことはできない。意志のない選択には後退する力はあっても、願いを叶える推進力はない。
「……いいのね?」
私の問い掛けに、ふたりのキョンシーは躊躇いがちに、それでもはっきりと頷いた。
1歩でいい。ほんの1歩だけ、踏み出せ。
「ねぇ神子。なら私の言うことも聞き入れてくれるわよね? 私が消え失せる方を決める。けど、それをどうか無駄にしないで。無意味な消滅じゃなくて、意義のある最期にしてあげて」
「分かりました。ならば持っていってもらうことにしましょう、屠自古の貯め込んだ千年分の苦しみを。彼岸へ渡るときにしか解放できない情念です。屠自古もずっと楽になる」
私は頷く。そして、覚悟を決めた。
胸の奥から決意の証を引っ張り出す。出現した陰陽玉は色のない光をまき散らしながら、私の周りを高速で周回した。もろともに飛び出した何かが私の中に漲って、言葉となって迸る。
「今からあんたたちの間に、この陰陽玉を投げる。陰陽玉には文字通りに陰と陽の面があるわ。キョンシーは陰の存在、だから陽の面が向いた方が、恨みっこなしで消えなさい。聖人すら聞けない願いなら、聞き届けられるのは天だけよ。そして運を識るのは天ばかり。あんたたちの最後の一瞬の願いが、きっと天に届いて、陰陽玉の向く先を決めるわ」
回転する陰陽玉が光の帯を作り出して、私を包んだ。そのせいで他の誰の表情も見えない。しゅうしゅうという陰陽玉の廻る音の中に、私は声を聞いた気がした。怨恨も忠誠も超越したどこか深いところで、ふたりのキョンシーは言葉を交わしていた。彼女たちにしか理解できない、彼女たちだけの概念で、相反しているはずのふたりは、確かに繋がっていた。
私はそれを、断ち切るのだ。
猛烈な速度で私の周回軌道上を公転していた陰陽玉が、垂直に撃ち上がる。そして鋭い放物線軌道を描いて、キョンシーたちの間に落下していった。着地した陰陽玉は、跳ねることなくその場で独楽のように回転する。その速度がだんだんと遅くなり、やがて止まろうというとき、私は確かに見た。その足先をほんの少しだけ動かして、都良香は陰陽玉を蹴り転がしたのだった。
◆ ◇ ◆
「桜子さん、一体どこへ消えたんですか!?」
「ど、どこにも反応がない。完全に消滅してる!」
星と那津は完全に取り乱していた。巨大な雷がビルへと落ちたと思ったら、桜子が消滅したのだ。墜落したとか気絶したとか、そういった生易しい事情ではない。那津の捜索網にもまったく引っ掛からないということは、この街に彼女は存在しないということだ。ひょっとしたら、落雷によって桜子は一瞬のうちに燃え上がり、塵ひとつ残さずに消滅したのかもしれない。そんなことまで星の思考が展開するうちに、金髪の退魔士が懐まで飛び込んできていた。相手の動きの鈍くなった隙を、メリーベルが見逃すはずもなかった。
「はッ!」
胴を腰で両断せんとばかりに繰り出された回転蹴撃を、星は回避不能と断じ、辛うじて槍の柄で受けた。破城鎚(はじょうつい)のごとき猛烈な衝撃に、寅の体幹が少しだけ軋んだ。
「待ってくれメリーベル。今は戦ってる場合じゃ ―― 」
「黙れ! 黙れ黙れ!」
那津の呼び掛けは無駄に終わる。メリーベルの連撃は止まらない。蹴りを受け止められた脚が、そのまま膝で槍へと絡み付いた。そしてそれを軸に、もう片方の脚で今度は星の首を狙う。
しかし今度は寅の反応速度が退魔士の上を行った。握っていた槍を手放し、星は素早く地に伏せる。頭のすぐ上を通過した蹴撃が、シャッポを鋭く跳ね飛ばした。
攻撃が失敗に終わったことを覚ったメリーベルは、蹴り足を地面に突き刺し、急いで体勢を立て直す。そして振り向いたそのときには既に、そこに星の姿はなかった。支えを失った槍がゆらりと倒れかけて。
「……致し方ありません!」
星の手刀は正確無比に、メリーベルの首筋を捉えていた。退魔士はその刹那、本能より深いところから湧き上がる恐怖を確かに感覚していた。那津の背筋も粟立つ。それは人間では絶対に放射できない、岩のように重い殺気。星はもちろんメリーベルの意識だけを刈り取るつもりだった。しかし先の動揺と戦闘による昂奮が、あるいは寅の手加減を狂わせていたのかもしれない。
終わった。誰もがそう思ったとき、桜吹雪が舞い上がった。
無数の花弁が殺到する。それらひとつひとつにまるで意志があるかのように、戦うふたりへ纏わり着く。
そして、弾けた。見た目とは裏腹の強烈な威力だった。一瞬で、星もメリーベルも、吹き飛ばされていた。ついでに那津にも衝撃波が及び、バランスを崩し尻餅を突いた。何が何だか分からない3人のちょうど真ん中に、彼女は降り立つ。
宇佐見桜子は、桜色に光る花弁を纏いながら、倒れ伏す3人を順番に見渡した。
「桜子、無事だったのか。一体どこに」
「それは私が聞きたいんだけどね」
不可解な桜子の再出現に、白蓮寺のふたりはまた戸惑う。それにメリーベルが反応し、再び襲いかかろうとして。
「 ―― 2発目は、撃たせないでよ?」
その眼前に、花弁の壁が出現した。慌ててメリーベルは後ずさる。そして壁の向こう、巫女と視線がぶつかった。籠められた意志の強さに思わず怯んだ。この少女がこんな眼を見せたことがかつてあっただろうか。何かを悟った、神様のような眼を。
同じような壁が星と那津をも塞ぐように出現している。那津は困惑して尋ねた。
「君は、一体誰の味方なんだ?」
「私は誰の味方もしないわ」
呆気に取られた皆を壁で押さえつけながら、巫女は答えた。
「私は私の思うようにやる。私が気に入らないものだけを潰す。妖怪だろうが人間だろうが関係ない。私が規則になる。私が見て、私が聞いて、私が決めるの。あんたたちが戦ってるのが私は気に食わない。だから止める。何度繰り返されたって同じことよ。何度だってこうやって止めてやるから」
があん、と鋼の音が響く。星の槍が倒れて、混凝土に叩き付けられた音だった。メリーベルは仰向けに寝転んだ。霊力は尽きた訳ではないが、身体の力がすっかり抜けてしまっていた。桜子の言葉は滅茶苦茶だ。滅茶苦茶だが、強烈な説得力があった。理屈も論理も飛び越えた調停者が、少女の型を取って現出していた。
雲が消えていく。帝都を覆っていた嵐が晴れていく。
一方、霍青娥はようやくキョンシーへの施術を完了しようとしていた。落雷によってその死体はところどころが焦げていたが、再起動に支障はない。新しい札を貼り、呪紋を書き入れる。
「芳香、お願いだから目を覚まして。芳香、いい子だから……」
青娥は芳香を愛している。それに理由はない。ただただ深く、歪(いびつ)に死体を愛している。
やがてその四肢がびくりと跳ねた。瞼が3度、ぱちぱちぱちと音を立てて開閉した。死の淵の向こうから彼女は帰還する。そして腕を伸ばした。邪仙の無防備な首へと、その両手が伸びていった。
「芳香」
呼ばれた名に、泥のような瞳が夜闇の反射光を返す。
「青娥、さま……」
キョンシーは、宮古芳香は、その伸ばした腕を赤子のように青娥の首へ絡めた。
「あぁ、良かった。本当に良かった。あなたが戻ってこないんじゃないかって、私は心配で心配で……」
「青娥様、よしかは、どこ?」
奇妙なことを問われて、青娥は芳香を抱き締める。再起動に伴う混乱か、それともあるいは。
「芳香は、ここにいるわ。ちゃんと、私の腕の中に」
「我々は、よしかだ。我々だったんだ。ずっとそうだった。ずぅっと、一緒だったんだ」
その拘束から逃れるようにして、芳香は立ち上がる。手足が曲がらないのが嘘みたいにすんなりと。青娥は座ったままで、芳香の背中を目で追った。キョンシーの向こう側で、怨念の黒雲が夜空へと溶けていく。
そして現れた星空に、邪仙は息を飲んだ。夜空の端から端まで、巨大な箒星が空に身を横たえていたのだ。砂糖水のように透明な天の川に、冷たく細かな真珠をぶち撒けたようだった。それでいてその光は、地平を炙る勢いの膨大な熱量を感じさせる星の舌でもあった。永い時を生きてきた青娥であっても覚えのないほど、巨大な彗星だった。
芳香は空を見上げながら、しかしその素晴らしい光景を見てはいなかった。キョンシーはただ天を仰いでいた。彼女が最期に何かを願ったという、遠い遠い天という場所を見つめていた。
「我々は、キョンシーの、みやこよしかだ。我々は、我々だったんだ。そうだったんだ。そうだった、のに」
その泥のような瞳から、上澄みの一滴が零れ落ちた。しかしそれは地面に到達する前に、星色の光へと変わってしまった。滴は虹色に煌めきながら空へと舞い上がり、やがて彗星の尾の中へと溶けて分からなくなってしまった。
大筋と帰結は理解できるけど 場面の連結に 違和感
それとも自分がどっか読み飛ばしてる?
期間が空いたのもあるし 少し読み返して来ます