喫茶店を出立してから13分57秒が経過した。日没の時間も過ぎ、人影ひとつない東京はどんどん暗くなっていく。黒雲の底を稲光が這うたび、沈黙したビルディングたちから影のような輪郭が浮かび上がった。
良香の走る様子はまるで獣だった。脚だけではなく腕をも使って、摩天楼を猿のごとく縦横無尽に駆け抜けるのだ。かなりの速度で駆けていってしまったので、もはや飛行している私にも彼女の姿を直接見ることはできない。何百年ぶりかの自由を、身体ぜんぶを使って存分に満喫しているのだろう。
メリーベルは私より10メートルほど先行していた。彼女の跳躍が描く低い放物線軌道に沿って、退魔鎧が放つ淡い霊力光が幻想的に輝く。その脚に迷いはない。メリーベルはしっかりと良香を捕捉しているのだろう。私の進む先を直接示してくれているのはこの光だ。
なんだか気分が晴れない。真っ直ぐで迷いない心持ちになれない。考査の答案用紙に書いた解答に、提出した直後に違和感を抱いてしまったときのような。そんなもやもやとした不安が胸に巣食っている。
東京を騒がせる妖怪を今まで何度も退治してきたけれど、こんな気持ちになるのは初めてだった。信じるべき正義が自分の傍に存在していない。頭の中は疑問符で満ちてしまっている。
本当に、私は正しいのか。
巫女装束の赤いスカートが、湿った風に重くはためく。それがばたばたと何度も脚を叩いている。
やがて、メリーベルが一際高く跳び上がり、ひとつのビルディングの屋上に着地した。私はそれに続く。良香は給水塔の天辺に立ち、黒一色に塗り潰された帝都を睨んでいた。まるで舞台に立つ主演女優といった趣(おもむき)である。私は舞台の袖、給水塔の下からそれを見上げていた。客席たる暗黒都市を睥睨(へいげい)する良香の瞳の中には、隠しきれない愉悦が跳ね回っている。
「来い、邪仙め。早く来い」
きっと彼女は、もう邪仙の喉に牙を突き立てるクライマックスシーンのことしか頭にないのだろう。
メリーベルは、私と給水塔を挟んだ反対側の舞台袖に立ったまま、静かに目を閉じた。しかし両手の手甲に嵌(は)め込まれた霊力球は一層の輝きを放ち始めている。彼女もまた、妖怪と対峙するときのことだけを考えているのだ。
2人はすでに臨戦態勢である。しかし私の陰陽玉は、未だに当てもなくゆっくりと浮遊するだけだ。胸のどこかにつっかえた棘は収まらないままだった。着いてきたことがそもそもの間違いだったのではないか、とすら考えてしまう。
「ねぇ、本当に嵐を止められるの?」
「ん? まぁ、何とかなるんじゃないか」
紅い瞳をぎらぎらと街並みへ這わせながら良香は答えた。邪悪な仙人はまだ見つからないようだ。
「何とか、って。まさか確証はないわけ?」
「あぁもう、五月蠅いなぁ。そんなことはどうでもいいよ。今は青娥を殺すことだけを考えていたいんだ。邪魔をしないでくれないかな」
良香は不機嫌さを隠そうともしない。そんなことと彼女は言うが、私にとっては重大な問題である。帝都を滅茶苦茶にしようとする嵐を止めるためにここまで来たのに。同意を求めてメリーベルを見やるけれど、彼女も接近する気配を探ることに忙しいようだった。胸の奥の棘が、さらに深く突き刺さる。
「千年間だぞ? 私はあまりにも長い間待たされた。それを今さら邪魔立てするというんなら、まずお前から先に始末してやる」
「邪魔だなんて、そんなつもりじゃ」
強烈な光が天空を巡った。竜のように太い稲妻が、ビルディングの真上を駆け抜けていった。
縮こまっていた私の心の中に、そのときひとつの疑問が芽生えた。
「そうだ、あの娘はどうしてるの?」
「あの娘って、誰のことだ?」
「私とあんたが最初に会ったときに喋った娘よ。札によって出現していた、あんたを封じてた人格のほう」
強張った身体をぎこちなく動かして、ぴょんぴょんと跳びはねながら歩く。それこそ死体のような少女の姿が、私の脳裏に蘇ったのだった。
それは何の気もない質問に過ぎなかった。けれど良香にとってはそうではなかったらしい。
「あいつは ―― 」
それっきり、言葉は続かなかった。吐き出そうとした言葉を何度も飲み込むような、そんな沈黙がしばらく場を支配する。48秒間の沈黙の間に稲光は7回走った。その後に紡がれた言葉は、先程までと打って変わって静かな口調だった。
「 ―― あいつも、芳香のことも、最初は憎かった。でも、あいつは ―― 」
雲の底の全面を、網のような稲妻が覆う。銅鑼を思い切り鳴らしたような音がした。あまりの眩しさに私は目を瞑ってしまって、だからそのときの良香の表情を見ることはできなかった。
「 ―― あいつは、私のことが、好きだって言ったんだ」
ビルディングの間を木霊していく雷鳴の残響が、いつまでも鼓膜を震わせ続ける。おそるおそる瞼を開くと、もうそこに良香の姿はない。給水塔の下にいたはずのメリーベルもだ。状況を把握すると同時に、妖力の激しい衝突を感知する。
急いで振り向くと、すでに良香は初撃を放った後だった。それを受け止めたのは、いつの間にかビルディングの屋上へ現れていた少女だ。青い大陸風の装いに身を包んだ彼女 ―― おそらく邪仙である霍青娥 ―― は、必殺の意思が籠められた良香の爪を、腕ごと掴んで止めていた。
「誰よ、あなた」
青い少女の声色は、ぞっとするほど冷たい。
「返しなさい。私の芳香から出ていって!」
掴んだ腕を、そのまま振り回す。空中へ投げ上げられた良香は、一回転して頭から混凝土(コンクリート)に叩き付けられた。
メリーベルは、と視線を巡らせると、また別に屋上へ闖入した2人の人影を迎え討っている。すらりとした長身と子供のような影。それはあまりにも見慣れたコンビだった。なぜ、どうしてここに。思考が若干の混乱をきたす。
メリーベルの上段からの蹴撃を、星さんはすんでのところで回避する。同時に放たれていた霊力弾が那津を狙い飛翔、鼠はこれをダウジングロッドを交差させて弾いた。
そして、両名の視線が同時にこちらを見た。向こうも私と同じことを思ったようで、その顔には驚きが混じっている。
私は、動けなかった。誰と戦うべきなのか、分からなかった。
メリーベルは2対1の不利な状況を意にも介さず、寅と鼠へと挑み続ける。手甲の青白い宝珠はシリウスのように強く燃え盛っていた。
「待ってください、私たちは戦いにきたわけでは」
繰り出される打撃をいなしながら星さんは説くが、メリーベルに聞く耳はない。
「そっちに理由がなくても、私にはあるのよ!」
退魔術師はついに寅の懐に潜った。そこから会心の一打を叩き込もうと身を沈める。
しかし直後、メリーベルは弾きとばされた。星さんの周囲を、3つの蒼い光が回転している。その菱形の結晶体には見覚えがあった。
「相手が人間だからって、気を抜いたのかい、ご主人様」
那津の声からは、怒りを噛み殺している気配が伝わってくる。星さんの傍らで、彼女は自らのペンデュラムを防護壁として展開していた。
「あなたがいなくなってしまったら、誰が白蓮寺を守るというんだい? 言っておくけれど、私は御免だから」
「……ありがとうございます。でも」
星さんの反論を遮って、那津は槍の包みを差し出した。少しの逡巡があって、けれど結局、星さんはそれを受け取る。
「さて、私も状況は全く理解できていないが……そうだな、まずはっきりさせておこうか」
那津の視線が私を真っ直ぐ見据えた。闇の中で昏く輝く瞳は、私の胸の中の棘を一層深く押し込んだ。
「桜子。君は、誰の味方なんだい?」
◆ ◇ ◆
屠自古は狼狽していた。どうしたらいいのか分からなかった。
空間の裂け目を通って突然現れた女の子は、ここに探し人がいないことを知ってから、ただひたすら泣きじゃくるばかりだった。無間の孤独に苛まれ続けていた屠自古には、その対処方法が分からない。他人との接触、ましてや子供の相手など、遠い遠い彼方の記憶にしかなかった。
それに、何か言葉をかけようとしても、肝心の喋り方が思い出せないのだった。自分がまだ人間だったころは、息を吐くのと一緒に喉を震わせて、それで声を出していたような気がする。だが今の屠自古には、呼吸の仕方すら覚束ない。
「よ、良香が青娥様を、こ、殺すって言うから、だから、それで、わたしは、わたし、わたしそんなの知らなくて」
女の子の泣き声のせいで、死に満ち満ちた霊廟の静謐はどこかへ消えてしまっていた。屠自古から吐き出されていた黒い靄も、いまや湧出が完全に止まっている。
「いやだぁ。そんなの、いやだよぉ」
女の子はしゃくりあげながらも懸命に言葉を紡いだ。そうしなければ全てが終わってしまうような、そんな悲壮感すら纏いながら。
おろおろしていた屠自古だったが、しかし次の一言がその心を射抜いた。
「さ、3人一緒がいいんだ。わたしと、青娥様と、良香と、3人ずっと、一緒でいたいんだ」
途端に、屠自古の胸は苦しくなった。それは長い間自分を苛んだ窒息の苦痛ではなく、むしろ心地良さすら覚える感情のねじれだった。
この子の願いは、自分と同じだ。それを理解した瞬間に、とっくに存在しないはずの、けれど重たくて仕方なかった屠自古の身体が、ふっと軽くなった。胸の中に風が渦巻く。こう、と空気が喉を通る音がする。
「 ―― 私が」
その声に、女の子の肩がびくりと跳び上がる。
そう、声だった。それを通じて、屠自古の感情は容易く形を取った。今までずっと忘れていたとは思えないほど、彼女の声音は転がる鈴のように美しかった。
「私が、一緒に探してやる。だから、泣くな」
そうやって千年ぶりに、屠自古は呼吸を取り戻したのだった。
続き期待