「霍青娥は、この街を滅ぼすつもりだよ」
都良香は断定的な口調で言った。私はそれを、何だか遠い世界からの通信であるかのように聞いていた。
良香とともに喫茶店へ戻ると、新聞記者のしかめっ面が私たちを出迎えた。彼女が言うには、それはキョンシーという、死体を操る不浄の術の産物ということだった。確かに血色の最悪な青白い肌は死者のそれである。それでも腐食や欠損はどこにもなく、臭いも全く気にならない。
「嵐を起こしてるのが、あなたを作った術師だってこと?」
メリーベルの問いかけに、良香は頷いた。どこか不敵な表情だった。
「正確に言えば、嵐を起こすことのできる強大な怨霊を、奴が操っている。手をこまねいていれば、この雲は日本中を覆い尽くすだろう」
「国ひとつを壊滅させる怨霊、ですか」
文が天井を見上げる。その向こうに広がる黒雲を見ているのだろう。
「それほどの力を持つ怨霊が、どこにも祀られずに放置されているとは、俄かに信じられません。これまで全く暴れなかったというのも少し不自然です」
「私を疑うのか?」
良香の赤眼が鋭く天狗に突き刺さる。文はそれを意に介さず、ゆったりと首を横に振った。
「すぐには全てを信じない、というだけです。一応の説得力はある話ですからね」
「ふん」
グラスの水を、キョンシーはぐいと飲む。
「とにかく、私はあの邪悪な仙人をおびき寄せ、殺す。奴への復讐、私の望みはそれだけよ」
「復讐……」
ウェイトレスの目はぎらぎらと不穏な光を湛えている。メリーベルの呟きを何と捉えたのか分からないが、良香は勢い付いて立ち上がった。
「そうだ、復讐だ! かつて私は、奴に騙されて殺された。そして身体をキョンシーに、『宮古芳香』へと作り変えられたんだ。この身体の正当な主権者である私の魂は、『都良香』は、ずっと死体に縛り付けられてきた。千年もの間、死よりもなお酷い形で!」
机に腕を叩き付けて、死体は叫んだ。グラスが中身をぶちまけながら倒れ、そして床へと転がり落ちて砕けた。
「私の尊厳ある死を取り返す。……巫女、お前のおかげでそれができる。礼を言うわ」
「え、私?」
いきなり指を差されたので戸惑ってしまった。私がやったことと言えば、良香の額から札を剥がして、ここへ連れてきたことくらいなのだけど。
「そう、札だよ。それのせいで私はずっと封じられていた。芳香を通して青娥にこの身体を使われるのを止められなかったんだ。私が自由になるためには、それを何としても外さなければならなかった。長い間、私は聖なる力を行使する退魔師をずっと探していたのさ」
つまり、いつだったか彼女と最初に出会った日から、私は目を付けられていたわけだ。
「それに、札を剥がされた瞬間に嵐が収まっただろう。あれは青娥が芳香を見失ったのさ。おおかた、嵐の中で何か予期しない障害に巻き込まれたと考えたんでしょうね。だから嵐を一時的に抑えた。私の思惑通りに」
良香が言葉を切って腰を下ろすと、店内は静まり返った。メリーベルは少しだけ俯いて、思い詰めたような表情で考え込んでいた。彼女の戦う理由も、良香と同じく復讐だという。何か思うところがあるのだろう。
キョンシーの座る席から3つ隣の椅子の上で、新聞記者は彼女を横目で眺めていた。興奮した様子は全くない。むしろつまらなそうに、射命丸文は目を細めていた。意外だった。私の知るかぎり記者という職業は、こういう特ダネを手に入れたら即座に記事へと仕立てあげるものだと思っていたのに。
さて私はといえば、話の展開に少し置いていかれているような気がしていた。良香の執念も、メリーベルの熱情も、私の胸にはない。天狗のように客観的に構えることもできない。キョンシーに利用されるような形になったのは少し癪だが、その程度である。私の心の及ばない何かを、私以外の3人は抱えているのだ。
疎外感に浸る私をよそに、良香は立ち上がる。
「じゃあ、私はそろそろ行かなければ。青娥はすぐに私を見つけだすわ。それを迎え討つにはここじゃ少し狭すぎる。それじゃ、短い間だったけど、ご静聴どうも」
「……待って」
声を上げたのはメリーベルだ。
「私も行く。力を貸すわ。この嵐がその仙人の仕業だっていうなら、退治して止めないと」
着替えてくるから、と言って彼女は奥へと消えていった。その後ろ姿を、私は呆けたように見送る。
博麗の巫女は妖怪退治のための存在であることを、今さらながらに思い出した。巫女として覚醒してからこっち、私はずっと街を乱す輩と戦い続けている。星さんや那津と一緒に。白蓮寺の2人は妖怪だけれど、その力を弱き者を守るために使っている。この嵐が怨霊の仕業であると知れば、2人ともきっと即座に動くだろう。
それならば。
「これは驚きだ。死体に助太刀する人間なんて、この世じゃあいつ1人くらいだろうな」
「 ―― 私も行くわ」
「……2人いたとは」
良香の鳩が豆鉄砲を食ったような顔が、さらなる驚きに染まった。
私だって退魔の巫女なのだ。この事態を指をくわえながら眺めているという訳にはいくまい。
「戦力が多いに越したことはないけど、足手まといは御免だよ。それと、青娥に止めを刺す役は譲らない」
そう言いながら、立ち上がった良香は「外を見たい」と店を出ていった。私と新聞記者だけが店内に残される。
椅子の背に身体を預け、天井を見上げる。それにしても凄い話になってきた。何せ、都市ひとつを滅ぼしかねないほどの嵐を起こす怨霊だ。さらにそれを操る仙人ともなると、もうどんな存在なのか見当もつかない。きっと見た目からして凶悪で邪悪な連中なのだろう、とぼんやり考えていると、不意に文が立ち上がった。
「あれ、あんたも助太刀?」
「いえ」
帳面と万年筆を鞄へ仕舞い込み、彼女はひとつ大きく伸びをした。
「私はこれでお暇(いとま)させていただきますよ。取材にご協力いただき、ありがとうございました」
「はぁ」
大したことは答えていないような気がするけれど、文はひとまず満足したらしい。
「でも、私よりも良香の記事を書いた方が面白そうじゃない? 『復讐のために蘇ったキョンシー』なんて」
「まぁ、センセーショナルではありますが ―― 」
彼女は横目で店のドアを見た。その向こうの良香をきっと見ているのだろう。
「 ―― 私好みのネタじゃないのよねぇ」
その声は剃刀みたいに薄かった。刃を肌に当てられたように、私の首筋は粟立った。思わず目を瞑ってしまって、けれど瞼を開いたそのときにはもう、文は愛嬌いっぱいに微笑んでいる。
「では、いい記事が書けそうな展開になりましたら、またお会いしましょう」
そう言って彼女も店を後にした。ひとり残された私は、メリーベルが着替え終えるまでの間、彼女が出ていった扉を眺めていることしかできなかった。
◆ ◇ ◆
蘇我屠自古は夢から覚めた。そしてそこがまだ悪夢の最中であることを自覚した。いや、もはや彼女に夢と現の区別などついていない。どちらでも同じことだった。霊廟の石室の中でも、何万回と見た夢の中でも、屠自古は常に孤独だった。圧倒的に孤独だった。彼女の声は誰にも届かなかった。死で充満した密室の中で、屠自古自身までもがその概念の一部となった空間において、彼女の意識を保つものはもはやただひとつの想いのみだった。
―― あいたい。
また3人で、一緒に。その一念だけが彼女を存在させていた。ひとりの少女の純朴な願いは、千年の監禁を通じて、もはや狂気と化していた。そしてその狂気こそが、今や屠自古そのものなのであった。
息を吸おうとしてそれができず、屠自古は喉を掻き毟る。怨霊に呼吸は許されない。だからその満たされない願いが続く限り、彼女は永遠に窒息し続ける。ほんのひと息でも呼吸ができたなら。あるいは存在を止めることができたなら。屠自古が解放されるのは、彼女の願いが果たされたときか、あるいはその妄執を諦めたときでしかなかった。
石室の天井近くに、魔都へつながる大きな空間の断裂が、真っ黒い虚ろな口を開けていた。その口は黒い靄(もや)を際限なく吸い上げている。靄を生んでいるのは屠自古だ。長い長い間彼女の中に積み重ねられてきた怨念が、まさに今少しずつ解き放たれて、恐ろしい雲へと具現化しているのであった。
―― あいたい。
それでも、彼女の狂った心の片隅には、ほんのひと滴だけの理性が残っていた。それ故に、彼女は怪物と化す一歩手前で踏み留まることができたのだった。そして、しかしながらそのせいで、屠自古は苦痛を忘れた完全な狂人となることができなかった。
窒息の苦しみを痛みで紛らわせようと、彼女は頭を壁に打ちつける。しかし霊体となった屠自古には、もう身体はない。それはすでに何万回と失敗した試みだった。無意味と理性では分かっている。分かっていても、彼女にはどうしようもできない。そうなると逃避する先は、これもやはり何万回と繰り返された悪夢の中にしかない。
見る夢はいつも同じだった。豊聡耳神子も、物部布都も、復活することなく消滅してしまった未来の映像だ。それを見せつけられるたび、屠自古は頭を割られたような深い絶望に襲われる。幾度繰り返し経験しても、褪せることのない悲しみに沈んでいく。
彼女の千年間は、ただそれの繰り返しだった。孤独の中で、漆黒の絶望と悲哀に溺れ続けていた。
―― あいたい。
そして、地球とハレー彗星の尾の衝突への人々の恐慌が、霊廟まで届いてしまった。これが起因となって、屠自古の力は覚醒してしまった。屠自古の負の念は強力な黒雲となって、仙界に最も波長の近い土地へと吹き荒れた。すなわち魔都と化した東京である。
世界が危機に陥るとき、神子と布都はきっと蘇る。自分はこの苦しみから逃れられる。それならば、最初からこうすればよかったのだ。どうして今まで思いつかなかったのだろう。
悲痛しかなかった屠自古の胸の内に、ほんの少しの愉悦が芽生えた。砂に注がれる水のように、邪悪な快楽は彼女の中へと瞬く間に染み込んでいった。もはや彼女を止めるものはない。無数の雷が地上の全てをことごとく灼き尽くすのは時間の問題だった。
しかし、屠自古の湧き出る怨念は今、何者かによって無理矢理抑え込められている。嵐は先ほどまで龍のごとく猛り狂っていたが、いまや雲の維持が精一杯だ。屠自古は訝(いぶか)しんだが、彼女にできることは怨念をただただ放ち続けることだけである。
屠自古の黒雲を制御しているのが、自分たちの尸解を手ほどきした霍青娥であることなど、彼女は全く知らない。たとえ知っていたとしても、できることなどなかっただろう。
ふと、屠自古は天井の真っ黒い口を見上げた。確かに、何かが聞こえた。死しか存在しないはずの石室の中に、どこからか生まれた音が響いてきていた。
「……いがさまぁ、どこぉ?」
それが声であることを、屠自古はなかなか思い出せなかった。それが言葉というものであることを、もうすっかり忘れてしまっていたのだ。
「青娥様ぁ。……あれ?」
やがて黒い靄の流れを遡って、ひとりの少女の霊体が降りてきた。屠自古はその姿を驚きとともに見つめる。しばし、窒息の苦しみすら忘れていた。降りてきた少女は、身体をぎこちなく硬直させながらふらふらと浮いている。身体など霊体には存在しないのに、それすら彼女には理解できていないようだった。
石室の中をきょろきょろと見回した彼女は、探す相手がいなかったせいか目に見えて落胆した。その後ようやく、驚愕とともに固まったままの屠自古を見つけた。
「……おまえ、誰だ?」
お前こそ誰だ。
そう問い返そうとして、しかし屠自古にできたことは少しの身じろぎだけだった。自分が千年以上も声なんて出していなかったことを彼女は思い出した。
続きを楽しみにしてます