東京はもうすっかり狂ってしまったのだ。真っ黒な雲を見上げながら、少女はそう思い知った。孔雀、という自分の渾名(あだな)の元であった煌びやかな女学生服も、強烈な風雨のせいでもうどろどろだ。荒れ狂う嵐から解放された彼女は、百貨店の壁に背中を預けると、そのまま自分の肩を抱き締めた。恐ろしくて仕方がない。もうこの街は自分が慣れ親しんだ場所ではない。化け物どもの巣食う魔都なのだ。肩を大きく上下させながら、孔雀様はその場にへたりこんだ。
ついこの間まで、東京の人間たちは誰ひとりとして、妖怪変化などとは無縁だった。そんなものは、科学と文化の粋を集めたこのモダンな街にとって、あまりにナンセンスな概念だった。全ては人間の掌の上に存在し、その支配に逆らう者など在り得ない。ここでは人間が全能の神である。そのはずだった。
少女もそう信じきっていた。生まれてこの方不自由など感じたことのない彼女には、人生のあらゆる瞬間が栄光というレールの上にあるとしか思えなかった。自分はいつか素敵な恋をして、素敵な結婚をし、素敵な子供に恵まれるだろう。そのビジョンは予感などという曖昧なものではなく、ほとんど訪れることが確定していた事実なのだった。そう、そのはずだった。
今となってはもう、明日のことすら分からない。人間は世界の覇者ではなくなり、そこかしこに渦巻く怪異に脅えながら暮らしている。得体の知れない存在、正体不明の現象。連中は東京を我が物顔でかき回し、論理と秩序を完膚なきまで打ち壊したのだ。
そして挙げ句の果てがこの嵐だ。あらゆるものを砕く勢いで、雷の柱がそこかしこへ引っきりなしに降り注いだ。孔雀様をはじめ、東京にいた人々は逃げ惑うより他になかった。彼女が先ほどまで避難していた先はとあるデパートの軒先だったが、まるで雷は人々を脅すかのように、目と鼻の先へ何度も落ちた。
―― ハレー彗星の尾に入ったんだ。
―― 世界の終わりだ。
誰かがそう呟くと、避難した人々の間に不安が漣(さざなみ)となって拡がった。荒唐無稽でしかなかったはずの与太話、しかしそれが今、確かな現実としてそこにあった。
孔雀様が思い出したのは、彼女の友人のことだった。半年ほど前に行方を眩ませ、そして今は何故か怪異の解決者となっているらしい、1人の同窓生。
少女の名は宇佐見桜子といった。東京に巨大な怪物が現れたあの日から、孔雀様は桜子と会っていない。
やがて、その怪物を倒したのは不思議な力を行使する巫女であり、その正体が桜子であると、とある壁新聞がすっぱ抜く。何人もの新聞記者が、こぞって孔雀様の元へ取材に訪れた。とはいえ、取り立てて喋るようなことなど何もなかったのだが。
桜子に何があったのか、それは分からない。けれど確かなのは、彼女が不可思議な事件に巻き込まれて、今は東京の妖怪騒ぎを片端から解決しているということだ。新聞記事からはその活躍の一端が稀に伝わってくるが、人々はそれ以上に確実に迅速に、『博麗の巫女』の噂を拡げていた。自由自在に空を飛び、退魔の力を振るう少女。彼女こそが、人間が縋ることのできる最後の希望なのだと。
桜子の両親と会った際に、彼女からの手紙を読ませてもらった。時折届くのだというそれも、内容は彼女が退治したという妖怪のことばかりだった。桜子は東京のどこかにいるが、まだ帰るつもりはないらしい。
見合いの話もこのごたごたで流れてしまったのだと、宇佐見夫妻は溜息を吐いていた。
「桜子……どこにいるの?」
もたれていた壁から立ち上がった。力の入らない足腰に活を入れ、何とか歩き始める。この半年間、彼女は桜子を見つけ出したいとずっと願っていたが、今ほど強く会いたいと思ったことはなかった。彼女は異変を解決する者なのだ。たとえ世界の終わりだろうと、桜子ならば何とかしてくれるような、そんな根拠のない希望があった。
つん、と身体が大きく前へと引っ張られた。そのまま盛大に転んでしまう。頬と額を強かにぶつけ、痛みに思わず涙が滲んだ。苦心しながら身を起こす。転んだのは引っ張られたせいではなかった。雷が道路に穿った穴に躓いたのだ。もはや彼女に美しき孔雀の面影など微塵もない。せいぜいが尾長鳥というところだろう。
もう一度立ち上がろうとして、できなかった。今度こそ力尽きてしまっていた。この上なく惨めな気分で、土の上に手を突いたまま、少女は砂に埋もれていく指をただ眺めていた。そこには紛れもなく、ひとつの世界の最期があった。
「 ―― 君、大丈夫かい?」
その声が自分にかけられたものだと気がつくのに、呼吸3つ分の間が必要だった。顔を上げると、鼠色の少女が自分を見下ろしていた。年の頃は、自分よりも2つか3つ下といったところか。両手に鉤型の長い棒を1本ずつ持っている。
「立てないのなら手を貸そう。ほら」
差し出された小さな手を取ると、冷えきった身体が不思議と温まるような気がした。風雷は弱まったとはいえ、まだ不穏な気配を孕んだまま街の上空を覆っている。人間たちはそれにすっかり萎縮してしまっているが、その少女はそんな雰囲気とは無縁だった。
「歩けるかい? ……そうか、ならよし。悪いが面倒を見なきゃいけない奴らが大勢いるみたいだからね。君だけに付きっきりというわけにはいかないんだ。また酷くなる前に、さっさと帰った方がいい」
それだけを言い残し、鼠色の少女は行ってしまった。
孔雀様は少女の背中をじっと見つめた。そこらの人間たちとは、何かが違う気がした。まるで強い光を放つ一番星のような、そんな印象を受けていた。
やがて反対の方向へ向けて、孔雀様は歩き出した。とにもかくにも、家に帰って着替えたかった。
先ほどまで奪われていた身体の力は、いつの間にか戻ってきていた。彼女自身も気がつかないうちに。
◆ ◇ ◆
「那津、そちらはどうでした?」
「雷に腰を抜かした連中ばかりだったよ。建物への損害は酷いが、それくらいさ」
那津の言葉に、星は安堵の息を吐いた。
2人が街の中心へ辿り着いたときには、嵐は何故か勢力を弱めていた。原因は分からないが好機である。星と那津は辺りの様子を見て回った。嵐の脅威に晒されていたのは人間ばかりではない。あちらこちらの物陰で、妖怪たちもまた身を縮めていた。困っている者には人妖問わずに手を差し伸べるのが白蓮寺の精神である。
「それにしても」
星は顎を抓んで思案顔をした。
「どうして嵐は収まったのでしょう」
「桜子が黒幕を退治した……っていうのは楽観的な見方かな」
「そうですね。原因が除かれたのであれば、この黒雲が居座ったままというのは不自然です」
雷神にせよ怨霊にせよ、一度荒れ狂いだせばちょっとやそっとでは収まらない怪異である。嵐雲が去っていない以上、誰かがその根源を退治した、という線は薄い。これは抑え込まれているのだ、と星は踏んでいた。街ひとつを嵐で覆い尽くす強大な力を、また別の誰かが制御しているのだ。そして黒幕を叩くのであれば、その制御が有効な内に事を済ませるべきだ。
問題はこの異変の原因が皆目分からないことであった。倒すべき相手が目の前にいるのなら、寅の武と鼠の智で大抵は何とかできる。しかしそれがどこの誰なのか分からなければ、こちらも手の打ちようがない。空を見上げる星の目は険しかった。
「私のダウジングも、名前や姿の分からないものは探せないからなぁ」
「いっそのこと、私があの雲の中へ潜ってみましょうか。案外、真ん中にどすんと座っていたりして」
「……あなたの頑丈さは知ってるけれどね、流石にそれは危険が過ぎる」
講じるべき手段が見つからないまま、時間ばかりが過ぎていく。いっそのこと相手が姿を現わすまで状況を放置しようか、とまで那津が考えたところで、彼女の大きな耳がぴくりと動いた。声が聞こえたのだ。星も一瞬遅れてそれに気づく。それは誰かの悲痛な叫びだった。はぐれた子供を探す、母親のような。
「那津、今のは」
「あぁ聞こえた。こっちだ」
今困っている人がいるのなら、何を置いても助ける。それが白蓮寺の精神である。
角を2つ折れた先の路地裏で、その少女は彷徨っていた。
「芳香、芳香。どこなの? 返事をして、芳香……あぁ」
淡いブルーを基調としたツーピースをふわりと纏った彼女の後ろ姿からは、ひと目で分かるほどの濃厚な仙気が漂っていた。
星と那津は一瞬だけ顔を見合わせる。あれは人間ではない。しかしそれは、2人が手を差し伸べない理由にはもちろんならなかった。
星は1歩前へ出る。
「もし、誰かをお探しなのですか?」
その声に彼女は振り向いた。蒼い大きな瞳からは、同じ色の滴がいくつも流れ落ちていた。
「……あなた方は」
「嵐に巻き込まれ、誰かとはぐれてしまったご様子。お困りであるのなら手を貸しましょう。特に探し物ならば、ここにいる那津の右に出る者はおりません」
星の言葉に、蒼い少女は泣くことも忘れてぽかんと呆けていた。しかし暫しの後、再び慟哭が始まる。彼女は瞳から大粒の涙を溢れさせながら、両掌で顔を覆い、その場に座り込んでしまった。
「あぁ、あぁ、可哀想な芳香! きっとこの街のどこかで、恐怖に独り震えているんだわ。あなたがどこにいるか分からない。ただそれだけのことで、こんなに不安になるなんて!」
駆け寄って肩を支えてやると、弱々しい声で彼女は言った。
「お願いです、あの娘を探してください……。名前は芳香、宮古芳香という、女の子です」