Coolier - 新生・東方創想話ジェネリック

東方シリーズで俳句集2

2014/04/27 22:11:42
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※俳句集第二弾。前回分は こちら です。
※作品毎で一句です。
※詠み人は明記せず。(ばっちり「お前だろ!」というのもあり)
※誰がどんなシチュエーションで、どんなことを想って詠んだ句か、想像してみてください。
※あとがきに作者なりの解説を記載しています(ちょっとした答え合わせ?)。
※以上を踏まえて、どうぞ。










カルタ取り 去年(こぞ)の並びと取り違え
【テーマ】
 求聞史紀 他


趣味人を待つ帳簿台 閑古鳥
【テーマ】
 香霖堂


数寄人(すきびと)を待つ帳簿台 花見鳥
【テーマ】
 香霖堂


白波にまがふ雲居の“わた”の原
【テーマ】
 星蓮船


滝壺へ飛び込む様は犬のよう
【テーマ】
 風神録


集めても胃は空のまま 赤のまま
【テーマ】
 永夜抄


蟷螂や 構えを競う馬鹿ひとり
【テーマ】
 紅魔郷


澄み渡る天より掛かる月の霜
【テーマ】
 永夜抄


積りゆき ふすま辺に添うこんこんと。
【テーマ】
 妖々夢


木枯らしを遮る垣根 大きな手
【テーマ】
 輝針城


虫食いの書架の酷さぞ 鼠狩り
【テーマ】
 紅魔郷


糸を繰る手や 気がつけば醒める空
【テーマ】
 非想天則 他
以上、12句でした。

さて、以下は解説となります。
ただ、解説とはいえ、ひとつの解釈という位置づけです。
この解説とは異なった解釈を抱いて、さらに「こっちのほうが好きだ」と思ったのならそちらをばんばんご採用下さい。
ではでは。


 * * * *


カルタ取り 去年(こぞ)の並びと取り違え
【季節】
 新年
【解説】
 「妙なお手付きをするもんだ、って言いますけどね。この札、去年はここに置かれていたんですよ。間違えもしますよ」
 そんな説明をされても、共感できないこと請け合い。
 今回のトップバッターは書籍から阿求さんにお越しいただきました。彼女の能力は創作物ではよく目にするけれど、深く考えるとわりと謎です。
 今日も、昨日も、おとついも、そのまた昔も等しく色褪せないのなら、たまに記憶が混線しやしないだろうか、と思ったりします。でも、そんなことないからこその『能力』かもしれませんね。
 季語は『カルタ』と『去年(こぞ)』。四季から飛び出しちゃってるカテゴリ、『新年』の季語です。なぜ四季でなく、四季+新年=五季で季語は成り立っているのか……。俳句の世界は難解です。何となく抵抗があって前回の新年の句では『冬』と書いちゃいましたが、今回はきちんと新年と銘打ちます。うん。
 しかし『カルタ』はともかく、『去年』が季語なのは意外というか、え、それもなの!? って感じですよね。「年が改まったあとで振り返る古い去年のこと。過ぎ去った年を惜しむ季語でもある」とのこと。この句ではあんまりしみじみと振り返ってないので、メイン季語は『カルタ』のほうなのでしょうね。

趣味人を待つ帳簿台 閑古鳥
【季節】
 夏
【解説】
 「あいつどこほっつき歩いてんだよ。趣味にかまけて店空けやがって。……しかし、静かだな。相変わらず人来ないなこの店」
 詠み人は魔理沙でなくとも、いろいろ当てはまりそうですね。名無しの本読み妖怪さんという可能性も。彼女が店番するほど店主と仲が良かったら、魔理沙よりもお行儀よく待ってそうで可愛らしいかも。早く帰ってこないかなぁと思いつつ本を読んでそう。
 『閑古鳥』は慣用句になっているのでちょっと卑怯な感じがしますが、一応解説を。
 俳句で音を詠んでいるとき、音というよりも「静けさ」を表現していることが多々あります。小さな音が聴きとれるということは、静かであるということですからね。例えば、有名な松尾芭蕉の一句「古池や 蛙飛び込む水の音」。普通なら気にも留めないだろうほど微かな蛙の飛び込む音が聴こえるぐらい、あたりは静かだったんですね。
 『閑古鳥』だとやはり慣用句のほうが強いけど、もとはと言えば同じく「物寂しさ」「静けさ」を比喩したものです。『閑古鳥』、すなわちカッコウは物寂しい鳴き声をしているから「閑古鳥が鳴く=人寂しい」という意味になったのだと言われています。静かなところが好きな鳥だから、「閑古鳥が鳴く=静かな場所」という説もあり。
 表現したいのは「静けさ」だから、『閑古鳥』を別の小さな声の鳥や虫に変えるのもありですね。というよりも、そのほうが情緒が増すんじゃないかなぁ。

数寄人(すきびと)を待つ帳簿台 花見鳥
【季節】
 春
【解説】
 ああ、もう春か。そろそろあの物好きが顔を出す頃合いだろうし、心構えでもしておこう。それにしても、綺麗なウグイスの声だね。
 ひとつ前の解説を書いているときに思いついたので急遽追加したという。
 帳簿台にいるのが霖之助本人だとしたら、店を「閑古鳥」なんて表現する殊勝さはなさそうだからと、こんな改変をしてみました。
 上五の『数寄人』は「風流・風雅を解する人。また、物好きな人。すきもの。」という意味で、なんとなく紫が浮かんだので春にしてみました。花見鳥はウグイスの別称。春告鳥という別称もあるので、リリーホワイトのライバルですね。
 さて、前回の解説の通り、『閑古鳥』よりも情緒が増したように思うのですが、どうでしょう。……というか相変わらず人が来ないというのに、暢気になったなあ。

白波にまがふ雲居の“わた”の原
【季節】
 夏
【解説】
 なんて無理矢理な季語……。
 それは置いといて、意味としては単純ですね。雲居さんちの綿々(わたわた)してる雲山さんは、白波に見間違えちゃうね。若干ピンクだけどね。――そんな感じ?
 「あれ? これって……」とお気づきの方もいるでしょうが、百人一首76番歌「わたの原 漕ぎ出でて見れば 久かたの 雲ゐにまがふ 沖つ白波」のパロディです。「大海原に舟を漕ぎ出し、はるか彼方を眺めると、白い雲と見間違うばかりに沖の白波が立っていることよ」なんて意味合いでしょうか。『わたの原』というのは漢字で書くと『海の原』。つまり海原のことなのですが、『綿の原』だったら雲山だねぇ、とか思いついたが最後です。パロディ元の作者様は「法性寺入道前関白太政大臣(ほっしょうじにゅうどうさきのかんぱくだいじょうだいじん)」で登録されており、百人一首で一番長い名前なんだそうですよ。明日から使えない無駄知識。本名は短く藤原忠通だけど。
 元歌にあわせて小難しく書いた『まがふ』は歴史的仮名遣いを使っており、発音は『まごう』となります。『かぜはふり』と書いて『かぜほうり』と読むのと同じですね。『雲居』のほうは、少し解りづらくなりそうだったので『雲ゐ』にするのはやめました。
 ちなみに、パロディ元のイメージをぶん捕って、星蓮船で空の海に漕ぎ出しているシーンである、という補完もできるかもしれません。有名な句や短歌から言葉を借用し、言外に本歌(借用元の句や短歌)の内容を含める技法を『本歌取り』と言い、和歌のほうで馴染みが深い技法です。和歌の本歌取りには藤原定家が定めた原則があるけれど、俳句のほうはどうなのかな?
 さて、置いておいた季語を取り出しまして。何が無理矢理かって、『わたの原』が季語なところですね。『海原』だと夏の季語でばっちりなのですが、これ雲山だもんなぁ……。『雲海』という夏の季語もあるけれど、別に登山してないしなぁ……(『雲海』は登山の際に見下ろした時の雲の様子)。夏真っ盛りな時期に雲山を『海原』に見立てて詠んだ、とかそういう感じでひとつ……。

滝壺へ飛び込む様は犬のよう
【季節】
 夏
【解説】
 いったい何を解説するというのかね(ムスカ調)。やばい、思わず現実逃避したくなるほど解説どころが何もない。
 夏の暑い日に滝壺へ飛び込むなんて最高で、思わずはしゃいじゃうのも仕方がない。と私は思う。
 詠み人の心境は「自分で否定してるのに、やっぱ犬じゃんかよ」みたいなところでしょうか。誰が詠んだんでしょうね。椛との関係性で含んだ感情は変わってきそうです。苦笑してるのか、あきれてるのか、面白がってるのか、馬鹿にしてるのか、愛しく思っているのか。さてはて。
 しかし、普段きりりとしてるだろう椛が尻尾をブンブン振り回して滝壺に飛び込んでたら、それだけでもう幸せです。
 季語は『滝』で、夏の季語です。滝を見て一番季節を実感するのは、清涼を求める夏ですもんね。ただ、季語としての歴史は新しく、『滝』ひと単語できっちり季語になったのは明治以降。それより前は特に季節に縛られてなかったとか。芭蕉もよく滝を題材にした句を残しているのですが、例えば「ほろほろと山吹ちるか滝の音」などは春の句です。もしこれが現代句だったら、「季語がふたつ入った『季違い』だが『滝』が季語として機能しておらず、よって『山吹』から春」といった解釈になるんでしょうか。「『季違い』は歓迎しないよキミぃ」なんて嫌味を言われたりもするのかも。その一方で、この句のような場合は「おいおい、季語が入ってないじゃないか」と言われなくなったわけで。面倒でもあり、ありがたくもあり。

集めても胃は空のまま 赤のまま
【季節】
 秋
【解説】
 空きっ腹を抱えて山菜を集めていると、粒状の花を実らせた『赤のまま』を見つけた。この花は集めると赤飯のようになるので、子供がおままごとに使うやつだ。でもこれを今集めたところで、ごっこ遊びじゃ腹が膨れない。まったく、赤貧のままじゃないか。(表の意味)
 バラバラの肉片を集めて再生しても、結局空しいまま。元の赤い自分のままだ。(裏の意味 / ※妹紅限定)
 謎の植物『赤のまま』。その名前を知ったとき、「すげぇ! 名前だけでオチがついてる!」と大うけし、で、これができました。(ただの悪ノリ)
 正式名を『犬蓼(いぬたで)』といい、ことわざ「蓼食う虫も好き好き」に出てくる『蓼』のご親戚です。このことわざの通り、蓼は独特の香りと辛味があって「旨い」と素直に言い難い植物なのですが、犬蓼のほうは「旨い」どころか食えません。「植物の名前に『犬』がつく=似てるあっちは食えるのにこっちは食えない」という意味があったりするのです。
 そんな食えない犬蓼ですが、とても綺麗な面白い花を咲かせます。稲穂のような風袋で、茎の先に赤い粒状の花が連なって咲くのです。この花の粒をしごき落とし、赤飯に見立ててままごとに使ったことから『赤飯(あかまんま)』という別名がつきました。(この句のように『赤のまま』と呼び換えられることも多々あり)
 腹を空かせて山菜を集めているときに、こんなエピソード持ちの『赤のまま』にお出迎えされたら恨めしく思いそうだな、というのがこの句の起点でした。
 詠み人候補は主にふたり、妹紅か霊夢じゃないかなと思っています。このうち妹紅が詠んだとした場合、上記の裏の意味が発生するので、より良いかもしれません。でも、『赤のまま』の知名度からして表の意味のほうがわかりづらくて、裏の意味がぜんぜん裏になっていないだろう点が悩ましいところ。

蟷螂や 構えを競う馬鹿ひとり
【季節】
 秋
【解説】
 どこの馬鹿だよ。
 しかし、この『馬鹿』には親しみが込められているものと固く信じております。
 こんなことしでかしそうで、かつ「まったく馬鹿なんだから」と呆れてくれそうな友人知人持ちの紅魔郷勢……なんか三人ほど浮かんだのですが、どうでしょう。
 例えば先発は馬鹿の代名詞、チルノ嬢。ちょわわわわ、と彼女なりに真剣にカマキリと対峙してそうです。目線も近いし楽そうだ。呆れる役は魔理沙かな。
 二番手は、『蟷螂』『構え』といえば中国拳法な紅美鈴。ずっと仁王立ちじゃ身体もなまるし、ふと目に入ったカマキリを相手取っての型稽古。本格的な蟷螂拳の型を披露してくれそうです。呆れ役は十中八九で咲夜さん。差し入れを持ってきてみたら、美鈴が馬鹿なことやってたわ……みたいな。
 最後は、カリスマブレイクな彼女がお好きなら、レミリアおぜうさまという搦め手を。カマを持ち上げて威嚇されたのが気に食わないとかの理由でムキになった、なんてね。パチェも溜息をつくというものです。あ、「蟷螂vs蝙蝠」と書くとすごく虫虫してますね。
 季語は『蟷螂』。『とうろう』と読むとちょっと雅。なぜか秋の季語です。(冬以外は年がら年中捕まえてたぞ……?) きっと成虫になる季節だからなんだろうな。個人的に印象深いカマキリといえば春に羽化したばかりの幼体のほうで、あのわらわら群がりつつ広がってる光景には一瞬身体が固まります。カマキリだと気がついたらほっとするけど。じっくり一体だけを観察するのもとても好きで、というのはミニマムサイズでも成虫と同じ姿形をしているところに感動を覚えるから。糸のように細いのも綺麗だし。……あれ、俳句の解説ってこんなだっけ。

澄み渡る天より掛かる月の霜
【季節】
 秋
【解説】
 もとより月がテーマな永夜抄での月を題材にした句であるうえ、風景描写で終わる――こんな不親切極まりない句の真意を読み取れたとしたら、貴方は神様です。仏様です。ありがたや。
 漢字になっちゃってるけど掛詞がキーになっている句でして、『澄み』の部分は『澄み』と『墨』とのダブルミーニング。また、『掛かる』の部分は、霜が『掛かる』という意味と、書くことができるという意味の『書かる』を意図しています。
 下手な掛詞なので、説明した後でも情景が伝わりづらいだろうと思いますが……つまり、慧音が詠んだ句でありました。墨が広く渡るほど大量に書きものをしている彼女の視界は、月明かりで白く照らされている。月光をさえぎる雲もない夜であることだな、と。
 掛詞は俳句よりも和歌でよく使われる技法なのですが、現代俳句ではあまり歓迎されないかもしれません。(今回、和歌和歌してるなぁ。)これは言うなれば言葉を使った『遊び』だから、「真剣さが足りん」ということらしいです。かの正岡子規などは痛烈に批判して、見るに堪えない月並み句と切り捨てていたり。俳句は詠み人の感動を素直に表現すべきだ、と言うわけです。でも私は遊びたいので、気にせず遊び倒していこうと思います!
 上五にも中七にも慧音を暗示する掛詞があるのだから、どうせなら下五にもあれば良かったかな、とちょっと思うのですが、趣味に走りました。静夜思っていい詩ですよね。「牀前月光を看る 疑うらくは是れ地上の霜かと――」 一番好きな漢詩がこれで、「室内で月を見る」というシチュエーションだと真っ先に浮かぶんです。そういや作者の李白さんは、水面に映った月を取ろうとして溺死したなんて逸話もありました。月は昔からルナティック。

積りゆき ふすま辺に添うこんこんと。
【季節】
 冬
【解説】
 冬は心細く、ひとの温もりが恋しい季節。外界から隔離された空間でふたりきりで暮らす紫と藍ですが、紫が冬眠している間、藍は淋しくはないのだろうかと思うことがあります。
 雪が積もるほど深い冬の頃、淋しさが積り、襖(ふすま)の先の寝所(臥す間)で衾(ふすま)に包まれて寝入る主の傍へはべる藍。そうして、ひっそりと感情を零している――そんな感じの一幕でした。
 この句の特徴は、懲りずに遊び倒した掛詞の多さでしょうか。『ゆき』は『行き』と『雪』。『ふすま』は『襖』『衾』『臥す間』。『こんこんと』は雪の降るさまである『こんこんと』、眠り続けているさまである『昏々と』、それから狐の鳴き声の『コンコンと』。『積り』も、雪と淋しさのどちらにも掛かっています。
 掛詞が前の句よりも多いけれど、前の句よりも情景はわかりやすくなった……かなぁ。だといいな。
 しかし、それでも情景はぼんやりしているだろうし、切れが弱いし、表現が曖昧だし、和歌の空気を強く纏っている句だと思います。下の句をつけたほうが似合うかも。
 季語はどれもこれも明言していないのですが、『雪』も『衾(ふすま)』も『襖(ふすま)』も『狐』もすべて冬の季語です。こっそりと、でもこんこんと降り積もる冬の季語。早く春になるといいですね。

木枯らしを遮る垣根 大きな手
【季節】
 冬
【解説】
 (私に木枯らしが直接当たらないように、手で垣根を作って遮ってくれてる。嬉しいなぁ)
 小さな生き物が寒がっていたら、手で覆って温めてあげたくなったりしませんか? その小さな生き物こと針妙丸が詠んだ一句。
 同じちびっこでも、萃香×nが寒がってても「ふーん」で済ませそうな気がするのがちょっと面白いです。あっちは屈強な鬼で、酒呑んで酔いちくれてるのがデフォルトだから同情心が湧かないのかも。あ、というかおしくらまんじゅうできますね! 萃香×nと針妙丸とで。「つのつのの おしくらまんじゅう スリリング」なんてね。しかし、『おしくらまんじゅう』って長くて使いづらいなと思ってたら、『童貞聖マリア無原罪の御孕りの祝日』とかいう想像をはるかに超えた異次元レベルの季語を発見しました。……えー、これどうすりゃいいの。どうていせいまりあむげんざいのおんやどりのいわいび。25音です。俳句は17音です。すでに字余り。「賛美歌の声高らかに 童貞聖マリア無原罪の御孕りの祝日」。寿限無か。ほっしょうじにゅうどうさきのかんぱくだいじょうだいじん様をネタにした報いでしょうか。ちなみに、略せるらしくて、別称『聖胎祭』だそうです。じゃあなぜこっちで統一しないのか。

虫食いの書架の酷さぞ 鼠狩り
【季節】
 無季
【解説】
 「あれもこれもない!? あのドブネズミぃぃぃぃぃぃぃぃいいい!!!」
 さすがのパッチェさんも動き出す酷さ。
 なんと、あろうことか無季俳句という今回一番の大博打。無季俳句と川柳の違いを解説したいなと考えて、解説用での作成です。……かなり長くなったのですが、よろしければどうかお付き合いを。(そしてパッチェさん、句の解説がこれで終わりでごめんね。)
 周知の通り、俳句と川柳はとても良く似ています。というのも、このふたつ、どちらも連歌という貴族の文化が庶民へ広まってできた俳諧(俳諧の連歌)から生まれたからです。連歌・俳諧は複数人で連作する遊戯的な文芸で、五七五→七七→五七五→七七→……→五七五→七七、と続けていく歌遊びです。決まりごとが多く、何番目の句であるかによって異なる縛りがあったりと、さすが暇人教養高い貴族のお遊戯というところですね。
 さて、ここでちょっと俳諧の参加者気分になって、ひとつ考えてみてください。これから歌詠みが始まります。このとき、最初のお題となる上の句(五七五)に求められるものはなんでしょう。
 答えは、解り易く、情景がすっと浮かび、詠んだ誰かさんの感情に浸れることです。「え……つまり何が言いたいんだ……?」という内容だと次の人が困ってしまいますし、「だから?」で終わるようなものだと興ざめで場が盛り上がりません。それに、いきなりネタに走られても楽しいのはその人だけで、残りの人は『出オチ』を拾わなくてはいけなくなるわけだから、非難轟々です。起承転結でいう『起』であり、参加者全員をぐっと引き込むエネルギーがいるわけですね。
 では、最初の句が発表され、参加者は次々と句をつなげていっています。このとき、つなぎの句に求められるものはなんでしょう。
 答えは、前の句をきちんと踏まえて詠っていること。意外な変化や展開がされること。その次の人への配慮があること。「ああ、なるほど」やら「そうか、こうきたか」やら、基本は踏まえながらも意外性を孕んで場を盛り上げることが重要です。起承転結でいうと主に『承』と『転』でしょうか。
 俳句は、この『起』が独立したものです。最初の句、すなわち発句に目をつけて、芸術性を高めたのがかの松尾芭蕉。これを源流にして、俳句として昇華させたのが正岡子規です。
 これに対して川柳は『承』と『転』がベースとなります。え、でも代表的な『次の句』って下の句(七七)じゃない? という疑問が湧いたのならごもっとも。実は『前句付け』という「こんな下の句になりました。さて、上の句は?」という逆パターンのお遊びがありまして、川柳はこの『前句付け』が独立したものです。
 俳句と川柳は、今でもこの『生まれ』の性質を受け継いでいます。俳句のほうがかっちりしていて、川柳がおちゃらけているのはこのためです。
 そして本題の「両者の見分け方」ですが…………人によって判断基準が千差万別で、たぶん答えは「明確に無い」、です。季語の有無で区分けできれば簡単なのですが、こういった無季俳句や季語の入った川柳もあるので一筋縄ではいきません。
 ただ、俳句として認められるものは発句の『起』の性質を受け継いだものだろうと思います。つまり、「解り易く、情景がすっと浮かび、詠んだ誰かさんの感情に浸れること」。川柳のほうも、いい句だと評価されるものは『承』と『転』の性質を受け継いだものじゃないかなと思います。面白おかしく、気が利いた駄洒落や言葉遊びに優れているもの。
 さて、今回は頑張って『起』の性質を満たした無季俳句に挑戦してみましたが、少しは達成できているでしょうか。とはいえやっぱり下手だと思うので、もっとずっと説得力のある無季俳句をご紹介しますね。「亡き母や海見る度に見る度に」 小林一茶作。
 あとついでに白状すると、この俳句集でも「季語の入った川柳」とラベルしたほうがしっくりくるものが多いです。(さすがに「どう見ても川柳」というものは除外してるけど。)俳句集と銘打っておいて、なんで川柳寄りのものを載せているのかと言うと、しっかりした俳句ばかり続くと読むほうも作るほうも疲れるから。それに「これぞ俳句」と悦に入っている作品を見ても面白くないだろうなぁ、と思うので。……まあ、俳句や川柳を通り越して、和歌っぽいものもたまに混じってると思いますが、これは私が和歌のほうが好きであり、気が抜けるとそうなっちゃうからです。……つまり気が抜けてたんですね、今回。

糸を繰る手や 気がつけば醒める空
【季節】
 無季
【解説】
 流れるように動いて糸を操るアリスの手。思わず見入っていたら、いつの間にか転がされて空を見ていた。……ちくしょう。けど綺麗だったな。
 なんかこう、魔理沙が一番しっくりきたので魔理沙っぽく解説してしまいました。しかしやっぱり、魔理沙が一番似合うなぁ。
 なんでまた無季なのか。それは、わかりやすい無季俳句を作ろうと試行錯誤してた時にできた没作だから。折角だし勿体ないので掲載しました。没の理由は、状況把握が少し困難で、なによりも詠み人の感情を読み解くのに俳句の作法が必要になってしまったから。(無季俳句じゃなければ「まあいっか」で済ますんだけど……) こちらのほうが余韻があるので、その点では軍配があがるんですけどね。
 問題となる句の感情というのは、解説でいう『……ちくしょう。けど綺麗だったな。』という部分。ここはアリスの手に絡めたものなら基本的になんでも良いのですが、あくまでも『手』が絡みます。なぜなら、切れ字の『や』がついているのが『手』だからです。
 実は切れ字というのは、音数を調節するためについているものではなく、「感動の中心を表す」ためについているのです。句を切ることで間を作り、「ちょっと想像してみてください」と促す効果もあります。『や』の場合はたいてい詠嘆・感動を表し、「ああ、○○だなぁ」みたいなニュアンスになります。「ああ、糸を操っている手だなぁ」だと少し不自然なので、「凄いなぁ」とか「綺麗だなぁ」とか「驚きだなぁ」とかが隠れています。詠嘆・感動なので、否定的なものは普通含みません。で、「気がつけば醒める空」だから、呆然とした様になる。あれ? さっきまで手を見てたのに、って。
 そういうわけで、切れ字をヒントにすると「手に見入っていたら、いつの間にか転がされて空を見ていた。」となるわけでした。
 ちなみに、別の句「蟷螂や 構えを競う馬鹿ひとり」も切れ字の『や』に注目すると、「あら、カマキリ。もう秋なのね。……で、こっちの馬鹿はなにやってんよの」みたいになります。この馬鹿折角の感動返せ的な。
 ついでに「虫食いの書架の酷さぞ 鼠狩り」の場合。切れ字の『ぞ』を『や』に変えるとえらいことになります。『や』は詠嘆・感動だから「ああ、たくさん本が無くなっている本棚って素敵ねぇ」とかに。パッチェさんご乱心。気が動転したのでしょうか。『ぞ』だと詠嘆・感動は含まれず強調になるので、「ちょっとこれ酷いんだけど!!」みたいな。
 切れ字に注目して俳句を見てみると、また違った発見があるかもですね。


 * * * *


というわけで以上、解説でした。

相変わらず解説が長い……。
(でも閑古鳥のとこなんか、「郭公→ほととぎす」の連想でさらに続きそうだったという。動植物が絡むとやばい)

もう本当、ここまでお付き合いいただいてありがとうございます。
もしも次回があるのなら、もうちょっと変化に富んだ形にしたほうがいいかなぁと思いつつ。


 * * * *

コメント返信

>さとしお様
ありがとうございます!
親切にされると心が温まるし、喜んでくれたら親切をした方も温かくなるし、正のループでいいなぁって思います。

>絶望を司る程度の能力様
なんかもう、勿体無いお言葉に私が身もだえてます。投稿してよかった。たくさんのご感想もいただけて幸せです。
そして風神録の句! 物凄くいい句ですね。楽しそうだし、こっちまでわくわくしてくるし、あと諏訪子様がめちゃくちゃ可愛い!
『蛙』はなんとそれだけで春の季語なので、「蛙の鳴き声に季節を感じる」というのは大正解です! ケロケロケロ。神奈子様は苦笑して、早苗さんは「もういい加減にしてください!」とちょっとプンプンしてそう。ケロちゃんは蛙だからしょうがない。賑やかな守矢一家が想像できてほんわりしますね。

>3様
楽しんでいただいてありがとうございます! もうそれが何よりです。
解説はあんがい趣味なのですけど、読んで面白いと言ってくださる声があるからノリノリで書けている部分がとても大きいです。

>奇声を発する程度の能力様
そう言っていただけて、こちらも本当に「よかった」です!
サバトラ
[email protected]
http://sabatiger.blog119.fc2.com/
コメント



1.さとしお削除
輝針城の俳句がとてもすてきでした
2.絶望を司る程度の能力削除
なんであなたの俳句はこんなに面白いんだ!
水に飛び込む椛を幻視しました。なんか悶えました。雲山そのまんまw雪の静寂が心地よい。いろいろ言いたい感想があるんですがこれにて失敬します。
雨の日に 外と中で 大騒ぎ  【テーマ 風神録】蛙の鳴き声ってなんだか季節を感じませんか?
3.名前が無い程度の能力削除
面白かったです!
俳句って楽しいと思いつつ、解説に助けられた部分が非常に多かったです
国語力不足。
丁寧な解説ありがとうございました
4.奇声を発する程度の能力削除
良かった
5.名前が無い程度の能力削除
俳句と解説、二つ合わせてとても面白かったです
6.名前が無い程度の能力削除
春雨の 夜を明かせし 虹川が