私のパパは、祖国じゃ指折りの資産家だった。鉄鋼業の会社を経営する一族の3代目当主。だけどママが病気で死んで、消沈したパパは会社の経営権を親族に譲ってしまった。そして私を連れて日本へ移り住んだの。日本に到着して船から降りたときにみた景色が、私の2番目に古い記憶。ちなみにいちばん古い記憶は、私を抱き締めるママの笑顔よ。
パパは若い頃から東洋に関心があって、とりわけ日本に大きな興味を持っていた。日本に移り住んだのは、ひょっとしたら輪廻思想にママの死を委ねたかったからかもしれない。
日本に住み着いてからは、パパはずっと研究し通しだった。初めのうちは宗教や神々といった民俗学だけだったのだけど、そのうちに興味の対象は妖怪へと移っていったわ。
そして研究を進めるうち、パパはひとつの結論へ辿り着いた。
妖怪は単なる想像上の産物ではない。科学では解明できない、精神的要素を拠り所にする生命。それは確かに存在する。
もちろん、そんなことを他人に言っても、真面目に取り合ってなんかもらえなかった。人々はもう妖怪の恐怖を忘れ去ろうとしていた。いや、忘れるどころじゃない。その存在を初めからなかったことにしようとすらしていた。遠い国から来た変人だって言われて、それでもパパは構うことなく笑っていた。学者ってわけでもないし、論文を書く必要なんてない。パパはただ自分の好奇心を満足させるために、妖怪の研究を進めていたの。たぶん私は、パパの研究の最大唯一の理解者だったわ。
やがて、パパはひとつの噂の虜になった。どこか山奥に、妖怪とそれに関わる人間たちが住まう場所がある。結界に阻まれて普通には辿り着けない、人ならざる者の楽園がある、って。
パパはそれを見つけ出すことに躍起になった。文献を片っ端から漁ったし、私を連れて日本中色んなところを探し回った。だけど噂以上の手がかりはついに見つからずじまい。諦めかけたその頃に、あの女が現れたの。
八雲紫と名乗った彼女は、あまりにもママにそっくりだった。『あなたの探し物の在処を知っている』訪ねてきてそう言った彼女をパパはぜんぜん疑わなかった。だけど私は恐ろしくて仕方がなかった。ママの格好をした悪魔がやってきたのだとしか思えなかった。八雲紫が笑うと、まるで私の記憶の中のママをそっくり連れ出してきたみたいに感じた。それでもパパはたぶん、そのせいで彼女を信用したのね。彼女がうちにやってくるたび、パパは上機嫌になって、私は部屋に閉じ籠った。
ある日、あの女は唐突にこう言った。求める楽園への道がある、私と一緒に来ればそこへ辿り着ける、って。パパは一も二もなく応じた。そして私に一緒に行こうと言ったの。だけど私は拒否した。あの悪魔は破滅へ誘っているに違いないと信じていたから。『私は絶対に行かない。パパもそこに行っちゃだめ』私は必死に懇願した。
けれどパパはその日の夜、姿を消した。
独りきりで目覚めた私の枕元に、短い置手紙があったわ。『愛しい娘よ、許してほしい。私はどうしても楽園をこの目で見たい。すぐに戻るつもりだ』私はただただ震えながらパパの無事を祈った。夜になるたび、その闇が恐ろしくて仕方なかった。
数日後、ひとりで戻ってきたパパは、もうすっかりやつれ果てていて、別人みたくなっていた。そのまま倒れて病院に担ぎ込まれて、それから起き上がることはなかった。パパは死ぬまで、ベッドの上で譫言のように、『触れてはいけないものに触れてしまった』って呟いていた ――
「 ―― 何があったのか、私には分からない。だから知りたい。何においても八雲紫を探し出して、パパに何をしたのかはっきりさせてやる」
メリーベルの拳は震えていた。私は彼女の顔を見ることができなかった。嘘であってほしい話だった。私に博麗の巫女の力を与えたのは件(くだん)の八雲紫なのだ。私だって勝手に人を変な境遇に巻き込むような奴が善人だとは思わない。けれど彼女は確かに何度か私を助けてくれたのだ。そんな存在がメリーベルの親の仇だなんて、考えたくなかった。
「ではあなたは、その八雲紫を殺すおつもりですか?」
猛烈な勢いでメモを取っていた文が、帳面から顔を上げる。メリーベルはふんと鼻を鳴らしながら答えた。
「当然よ。私はそのために、全てを懸けているの。パパの遺産は私ひとりなら千年間は遊んで暮らせるくらいあったけれど、私はそのお金で様々な分野のエキスパートを集めた。鉄鋼技術者から蒸気機関設計者、はたまた霊能力者から風水師までね。あらゆる技術の粋を集めて、私は自分で妖怪退治ができる力を手に入れた。全ては復讐を果たすために」
「人間の技術を用いて、あくまで真っ向から妖怪と対決する、と。成程成程」
文の声色はなぜだか嬉しそうにも聞こえた。メリーベルからしたら天狗だろうと敵になり得るはずなのだが、何がそんなに面白いのだろう。
「誰にも私の邪魔はさせない。桜子、あなたにもね」
強い瞳で睨まれて、私は肩を竦めた。私としては、メリーベルの敵でも味方でもないつもりなのだけど。
でも、いざ2人が戦うことになったときには、私はどうすればいいのだろうか。
―― ピシャアン!
するとそのとき、空一面の硝子が砕けたような、物凄い音がした。私たちは皆、思わず両耳を掌で塞ぐ。
「何、いまの……?」
言い終わらぬうちに、2発目、3発目の轟音が響いた。
「雷のようですね。しかし何でまた急に」
文が外の様子を見ようと扉を開くと、途端に戸板がぐわんと暴れ、店内へ猛烈な風が吹き込んだ。渦を巻いた暴れ風は花瓶をなぎ倒し、壁にかかる額縁をがたがたと鳴らした。
外を行く人々は大わらわだった。誰もが手近な建物へ避難しようとしているが、風に煽られて真っ直ぐ歩くことすらままならない。さらに間断なき稲妻が真っ黒な空を網の目のように駆け巡る。
春の嵐という言葉はあるが、これはいくらなんでも度を超えている。
黒雲を見上げながら天狗は呟いた。
「この邪気、まさか怨霊? しかし今の世に、祠られもしない亡者など」
「いいから、早くドアを閉めてよ!」
メリーベルが雷鳴に負けないように叫ぶ。
「このままじゃ何もかも粉々よ! 店長が戻ってきたら何て言うか……」
「いや、ちょっと待って!」
文が扉を閉めようとするのを遮って、私はいま見えたものへもう一度目を凝らした。
風に負けぬよう人々がみな身を屈めている中で、ひとつだけマッチ棒のように真っ直ぐな、しかしふらふらと頼りなく歩いてくる人影があった。手を真っ直ぐ前へと持ち上げた、不気味な少女の額には、ばたばたと暴れる1枚の札。
「桜子さん、ちょっと!」
新聞記者の制止を振り切って、私は店を飛び出していた。すぐに暴風の巨大な拳が全身を打ち据えるけれど、最初の一撃を耐えきってしまうと後は何とか前へ進むことができた。
メトロノームのごとくその身体を左右へ大きく振りながら、少女はこちらへと歩いてくる。いつだったか寺の近所で見かけた、人形のような少女に間違いなかった。焦点の合わぬ瞳が黒々と輝いている。稲光による四方八方からの閃光が、彼女の周囲にでたらめな影を投影している。
前へ突き出された死蝋のような手を、強風の中で何とか掴んだ。
「あなた、ここで何を」
何をしてるの、という言葉は最後まで続かなかった。雷がついに至近距離へと落ち、その衝撃で私たちははね飛ばされてしまった。諸共に歩道へと倒れ込む。少女の両腕が私の頬を挟んでいた。氷のようなその冷たさにぞっとした。
「……おまえは」
泥のような彼女の瞳に、意志の光が浮かび上がる。はっきりと、彼女は私を見つめた。
あちこちから雷が空気を切り咲く音が聞こえる。黒雲の底を舐めるばかりだった稲妻が、今や無数の槍となってそこかしこに穴を穿っている。ビルディングへの落雷に煉瓦が砕かれ、危険な破片となって道路へ降り注いでいた。
もう街は滅茶苦茶だ。こんな嵐は経験したことがない。とりあえず彼女を『COIN』へ避難させようと、その硬直した身体を何とか引き起こそうとする。だが、重い。
「早く起きなさい、雷に打たれて丸焦げになりたいの!?」
「ねぇ、これ、とって」
奮闘する私に、人形少女はねだる子供のような無邪気さで言った。
「とれって、何を」
「この札、とって。とってほしいって、良香が言ってる」
彼女が言っているのは、十中八九、その額の札のことだろう。どうやって貼り付いているのか知らないが、この暴風の中でもはためくばかりで剥がれる気配がない。
「分かったわよ、とったらちゃんと起き上がりなさいよ!」
得体の知れない紋様が記された札などあまり触りたくはなかったが、早く屋内へ逃げ込みたい一心で私は彼女の言う通りにした。
札を指でつまんだ瞬間、なんとそれは勝手に溶けてしまった。驚いて手を引っ込めるもすでに遅く、札は無数の繊維と化して風に吹き飛ばされていく。
すると、腕にかかっていた少女の重量が掻き消える。今までのもたついた動きが嘘のように、彼女は素早く起き上がると、逆に私に先行して歩き始めた。
「ちょ、ちょっと」
何が何だか分からない。私の呼び止めに少女は振り向く。少女はもう人形ではなかった。その瞳はもう黒い沼ではなかった。赤く、煌々と輝いている。
「早々に君と会えて良かった。巫女ならば、あの忌々しい札を外せると思ってね」
「何のこと……? いや、それより早く逃げないと」
「いや、もうその必要はないと思うよ」
彼女の言葉が終わらぬうちに、すでに変化は現れていた。この世の終わりとばかりに暴れていた風雷がみるみるうちに弱まっていく。やがて稲妻は雲の隙間に時折煌めくほどにまで弱まり、風はもうほとんど凪(な)いでしまった。
「キョンシーの反応を見失えば、青娥は何においても嵐を止める。私の見込み通りだ。邪仙め、やはり芳香は大切ってわけね」
「あ、あなた、一体」
彼女と視線が交差する。私はその瞳の赤の正体を知った。燃えているのだ。尽きることない怨恨が溶岩のごとく沸き立って、その凍り付いた身体を柔らかく溶かしているのだ。
少女は口を開いた。言葉とともに、暴力的な熱が漏れた。
「私は都良香。かつてはこの身体の持ち主だった女だ。ついに来たぞ、待ちに待った復讐のときだ」
その八雲紫うそくせー
青娥が紫に成りすましていた感がプンプンします
がんばれ良香ちゃん
満身創痍だろうと這いつくばってでも生き足掻くのが娘娘
若しくは「死してなお恐ろしい(ry!」とか言い出すのが娘娘
青娥の悪役っぷりが楽しみ。
再開待ってますので無理せず頑張って下さい