※タイトルは俄雨氏オマージュです。
※俺設定、俺キャラ、俺展開、俺世界あり。注意。注意ですよ^^;
昔。
神社。
何の前ぶれもなく、と、すくなくとも後生は思っていたが、砂子は、一度だけ後生をもとめたことがある。ひっくり返った盆に、畳にしみこんだこぼれた茶。ふたつの茶わんと急須。
「女に恥をかかせないでよ」
なにか。
そのときの砂子は、後生の砂子ではあったがなにかがちがっていた。くちづけのあとで言った言葉、何かをもとめるようにあらぬところへさ迷った瞳、後生の背にまわした手。かぼそいような、それでいておのずと背徳の色がしみこんだような、おぞ気のふるいそうな、染めたほほ。耳たぶ。
たしかにあの瞬間、後生はほんの一瞬、彼がそれまでこの世で一番いとしいと思っていた許嫁の小さな笑みを、ほんの一瞬だけ忘れた。それはのちに傷となってのこった。
誰の心に?
真っ暗な夜。
今。稗田の家のはなれ。そんな考えるべきでないことを考えた自分をわずらわしく思っていると、横で寄りそっていた菊理の肌が身じろぎ、ついで、ほんの小さな声をたてた。
「……。すまん。起こしたか」
「いえ」
菊理は答えながら、まだ先ほどまでの情事のあとの見えるほそい首すじを動かし、後生の胸にほほを寄せた。
「考えごとを?」
「……うん」
「……兄様」
「ん?」
「……。初めてでいらっしゃいましたか?」
「……うん」
「そう」
菊理は、まだ熱を帯びている身体をみじろがせ、ふ、と後生に身体をあずけるように、瞳を閉じた。すこしうすいクマの残る、いつものいとしい横顔。
そんなことを思い、また逃れられぬところで感じていると、身体がまたじんわりと熱を帯び、やてもたまらぬ心地になったが、後生はそっと菊理の手をとり、「あ」という菊理の声に強引なおのれの所作を感じながら、つつみこんだ小さな両手にそっとくちづけた。菊理がほほえむ気配がした。
三日前。
里の道すがら。ひとり。
せまい里であるからその日祝言を挙げた後生のことなどは半日待たず知れているのだろう。顔見知りに会うたび祝福やら何やらで立ち話になり、つくづく菊理を連れてこずよかったと思う。なれない場になれない装束を着こみ、肩がこり気疲れも起こしたのは後生だけではなかろう――最も菊理は満更でもなくよろこんだ顔を見せることもあったが。
(綺麗だったな)
ふるくからの顔馴染みがこれまでより一層ちかしい間になったなど、いまいち実感には欠けていたが、たしかに自分も嬉しいことは確かだった。ただ、友人や父からの賛辞には、素直に喜べない内心もあったが。顔に出してしまったことを済まなく思いながら、挨拶回りの道をあゆみつつ、後生はふとちらりと知己の巫女の顔を浮かべたが、なぜかやめておこう、という気になった。なんとなくだ。
「あら、こんにちは。おめでとう」
「ああ」
と言っているあいだにも出会ってしまった。なぜ里にいるのかとも思ったが、おそらく手伝いのためであろう。いつもの巫女服は替えて、普通の村娘のような格好をしている砂子に、後生はちょっと返事がぶっきらぼうになったのを自覚しつつ、やれやれとどこかうんざりしたような心地をおさえた。
「べつに気にすることないでしょ。里で知ってる人なんていないわよ」
「……」
「なにもなかったのはあんたが一番知ってるでしょ?」
言いおえると、持っていた桶をすこし持ちなおす風にして、手ぬぐい頭をゆらしつつ、そのまま去っていく。
まぁそうだな、とあっさり言えるほど後生も面の皮厚くなく、自覚があるほど若い。
が、彼女の話はそれで済んだようだ。
(いつもどおりのしかめ面でいろってか。女のわりに勝手なやつだよ)
後生はしかし、肩に妙なかるさが浮いているのも自覚しながら、そんな自分へのいやけを払うように肩をゆっくりまわした。
まぁ、どうせこの先も何度も顔をあわせることになるのだ。
現在。昼ごろ。
さっそくその機会がやってきたらしく、こうして後生は社から連れてきた砂子とともに道を歩いていた。
「そういうわけで――最近の妖怪連中の動きは異常でな。村役どのはお前の力を借りたがっている」
「やぁよ。私の領分じゃないもの。歩きながら話すのは会話の礼儀に反するわ。まずご飯」
「お前くだんのことははっきり断ると言っておいて飯はたかるのか……?」
「話を聞いてあげるのも巫女の役目だとは思うわね」
「このあいだ俺にさんざひやひやさせておいてむげにするとはな……」
「何よ、まさか例の鬼女のときの? 男がいつまでも過ぎたことをぐちぐち言って、すこしははずかしいとか思わないの?」
「えぇい、男の顔をそういつもいつもつついたりひっぱったりするな」
ひっぱられていたほほを払いのける仕草をすると、砂子はあっさりとはなし、なにか考える表情になった。そして言う。
「そうね。まぁいいか、そういうことならいいわよ。私の知りあいにちょうどいい人がいるからたのんでみるわ」
「お前の知りあい……?」
「ちゃんと人の形をした何かとかじゃないから安心しなさい。まー最近知りあったばっかりだし、くわしくはわかんないけどね。人格と腕はたしかだから保証するわ。おもに私の勘ですけれども」
言う砂子に「またか」とかえしつつも、ふとその横顔が、奇遇だがめずらしいものを見つけた、と言った表情になっているのを見て、後生はつられてそちらをみた。すると、里のすこしさびれた感じの、いかにも子供らのあそび場となっているな、という場所で、なにやら集まった子供らと、その背中に、見事、というほどに綺麗にまっすぐ、足元近くまでたれさがった白毛の人物がなにやら言いあいをしているようだった。
もっとも相手をしているのは子供らのなかのさかしそうな輩ひとりで、やがて、なにごとか言いおえて、白毛の人物――一瞬、年わかい少年か、と思ったが――が、こちらにむかって歩いてくるのが見えた。
「藤原さん」
藤原、と砂子に呼ばれた娘は、――一瞬性別をたがえそうだが、それはこの藤原が着ている袴と着物をあわせた装束が原因のようだ。派手なはずなのに、それがひかえめに見えてしまうような、炎のような朱色の上下だ――こちらを見ると、なんだ、といったような顔になり、「あら」と、娘らしい言葉のひびきをなげかけてきた。言葉のひびきで確信できたが、やはり娘は娘のようだ。顔や身体の線に、柔和な仕草があわさるとそう見える、といった感じで、普段のふるまいや、しっくりとなじんだ動作自体はどうも男勝りな印象を与えそうだ、と、みる者には思われそうだった。
「博麗。どうしたの、こんなところで?」
「それどっちかというと私の台詞だと思うんだけど?」
「はん? あ、私? 私は野暮用よ。でなかったら人里なんて入らないわよ」
がりがりと長い白毛をがさつそうにかいて、藤原はちら、と後生を見たが、何も言わずに砂子に目をもどした。
(ん?)
後生は――娘の態度にではなく――なにか妙な感じをおぼえ、ちょっと眉をひそめた。
「何よ、あなた、また里の人の厄介事なんか聞くつもりなの? いくら役目だからって、べつに連中なんかほうっときゃいいのに。自分らで何とかするでしょ?」
「私真面目だからね。義理堅いもん」
「あははは。面白いわね、それ」
藤原はちょっと娘じみたよく似合う顔で笑うと、「何話してたの?」という、砂子の言葉に、「いーえ。たいしたこっちゃないわよ」とはぐらかしつつ、会話をつづけた。
どこかで会ったことが、いや、見たことがある。
「ところで藤原さん最近暇よね? 里の周辺の警らとかしてみない? 責任はこいつが負うって」
「あん?」
「おん?」
後生は藤原と同時に声をあげ、やや気まずげに思い見たが、相手はどうでもよさそうに眉をひそめている。
「何それ? まさかあなたの頼まれごとの肩がわりしろってこと? べつにそれであなたに何か言うこともないけど、やぁよ、私は。この里の連中のために働くなんて阿呆たらしい。どいつもこいつも陰気な顔して因習にこだわってますって顔してさ。かかわりたくないんだけど」
「でもこいつにはもう紹介するって約束しちゃったし、やってくれないと私がこまるなぁ」
そこまで言って、砂子はこちらを見た。
「あ。後生。紹介するわ。こちら藤原の妹紅さん。見てのとおり偏屈で頑固で基本的に人のために何かするのとか大嫌いだけどまぁ根はいい人よりだから、よろしく」
「えらくざっくりとした紹介ねぇ……」
「ついでにいうとたぶん人嫌いで口さがないし人に遠ざけられやすい性質だけどたぶんいい人よりだから仲良くするのよ」
砂子は言いつつ、「あ、それで、こっちは」と言いかけたが、
「知ってるよ。名前はしらないが、お節介焼きの助平だな」
「あら、会ったことあるの? ん? 助平?」
「ちがう」
後生は憤まんそうに言ったが、砂子も藤原もたいして自分の言葉を聞いていないようだ。
「何かされたの?」
「やめろって言ってるのに無理やり手をどけられて体を触られてね」
「まぁ」
砂子が言うのにだまりこんでいると、ちょっと考えこんだ顔になった砂子が、「ま、いいか」と、なにかをふっ切るような言い方をして、ぺし、と後生をたたき「痛ぇ!」と言わせた。
「何する?」
「気にしないで。まぁ村役さんには私から言っておくから仲良くね。後生。喧嘩しちゃだめよ」
「おい、まて」
「じゃあね。あ、わすれてた。飯」
「……」
しばしして。
まだ里。
後生の金で飯を食ったあと(砂子の提案により、藤原にもおごらされた)、砂子は本当に二人をおいたまま、帰っていった。あのぶんだと止めても村役のところへ行って言いおいて、そのまま社に帰ってしまいそうだ。無責任極まりない。
「強引なやつ~。まあいいか。どうやら断れそうにないし。あいつの頼みだしなー」
がりがりと白毛をかきながら言い、
「で、てなわけでよろしくね。え~と、後生? だっけ。後生くん」
「上白沢後生だ。まぁ、くん付けはなるべくやめてほしいが」
「あ~そうよね。女房さんいるんだっけ? おめでとう。じゃあ後生でいいわよね。よろしくね、後生」
「よろしく」
「あんたも妻持ちの身で大変なやつと友達してるもんね。私も長いこと生きているけど、あいつは変わり種だわね。付きあう方は苦労するでしょ。――ま、決まったもんは決まったものだし、しかるべき人に挨拶しとかないといけないか。案内して」
「……あぁ」
里。
すこし外れのほう。道ばた。
(変わり種か……)
そりゃ自分のことじゃないのか、と思いつつも、長いこと生きている、と、さらりと言われた言葉を反すうしつつ、後生はさりげに(よく見ればいまさらながら砂子より背が低いようだった)隣を歩いている藤原を見やり、厄体もないことをかんぐった。
(まぁ、適当な言い方をしていたし、あまりまともな人間ではないんだろうな)
自分が聞く機会を逸したというのもあるが、あえて聞かずにすませたことを思い、後生は藤原から目をそらした。
「藤原殿」
「藤原でいいわよ」
「まぁ、それはおいとくにして、どこに住んでいるのだ? わるいが警らの仕事は逢魔が刻よりすこし前からだ。詰所にいてくれてもよいが」
「そうね。ま、あんたよりははるかに年長だけれど、とりあえずさっきみたいにぶっきらぼうな口調でいいわよ、後生。そっちのほうが地に近いんでしょう?」
「あぁ、わかった。そうするが、で、どうするんだ?」
「人が多いところは苦手だわ。警らの順路はあんたが知っているってことなんだし、ちかい場所を指定して待ちあわせでいいんじゃないの?」
で。
決刻。里はずれ。
藤原は気なさげな風だったが、後生がいくと先に来て待っていた。
「やぁ」
「すまん。遅れたな」
「い~わよ。私、今起き――」
藤原がそう呑気そうに言ったとき、一瞬、後生には、同時にいくつものことが起こったように見えた。
そこで起こったことがあまりに突拍子のないことだったこともある。ふと藤原のななめ後ろ、ほんの数歩ばかりはなれた竹やぶのあいだから、普通の里人のような格好をした男、にみえた。その人影が藤原の気のゆるんだような顔を、きっと目覚めさせたのは、うたがいない。しかし、その反応は半歩以上遅れ、つぎの瞬間には、何かしようと上げられた片手をとらえられ、藤原の身体が宙を舞ってどっと地面に押したおされ、その首に突きたてられた刃がばしゅっ!! と、何かがちぎれる音とともに、ばっと血のふん水をふきださせた。
(死――)
と。
あまりのことに獣の目をみはっていた後生が男に飛びかかり、退けようとする幻影をみるあいだ、今度は首をなかばまで断たれたはずの藤原の身体がいきなり火をあげてまたたくまに燃えあがり、うわっ、と、乗り倒していた男に悲鳴をあげさせるほどにはげしく、するどく空気を焼きこがした、かと思うと、その炎のなかから、がっ、とのびた腕が男のえり首をつかみ、――まるで、そう、不死鳥だ。鳳凰のように――足をはねあげた藤原の身体が男を押したおし、逆に馬乗りになりつつ、今度は急速におさまった炎の中から、残滓を照らしつつあらわれいでた。
「――ったく。何よ、あんた、まだあきらめてなかったのか」
炎の中から血のあとを残したまま再生した藤原は言い、地面にたおした男の首をとらえたまま言った。
「でもこれでわかったでしょ? 悪いけどあんたの依頼主のとこに帰ってつたえてくれないかな。それともこのまんま首を焼き焦がされるか――」
ぐぅっ、と、何か吐きだそうとするような男の声が聞こえ、それから、不意に藤原はたちあがって、男を自由にしてやった。男は身のこなしするどく立ちあがると、げっほ、と、のどを押さえ、苦しげにしながら、ざざっと竹の葉をけって、その場をさった。
「……」
「ふぅ。まったく……」
藤原はなにごともなかったかのようにのどをさすり、「うぇ」と、ちょっと舌をだしてみせた。
「……。……」
「面倒くさいもの見せたわね。ごめんね」
「いや、なんというか……。……なんだ? 今の。知りあい、か?」
「いえ。ちょっと長い付きあいのやつがひとりいてね。そいつがしょっちゅう刺客おくってくるんだけど、最近くわわった新顔のやつ」
「……。今のは? 術か何かか?」
「そうねぇ。まぁ、私もよくわかってないんだけど……忍術ってことじゃだめ?」
「忍術……」
「まぁ忍術ってことで」
「長く生きてるとかそういうようなことを言っていたがそれも忍術か?」
後生はうたがわしげな顔で袖手を組んだ。
「説明が苦手なんでそれでいいわ」
「そうか……まぁとりあえず、……そう、仕事だよ。行くぞ。案内する」
「ふーん」
「なんだ?」
「あんまり驚いちゃいないみたいね~」
言いつつ、藤原は、後ろ手に組んだ手をぐぐ、と持ちあげて背のびした。
「ま、あの砂子になつかれてるんだから、あんたもあんまりまともじゃないのかもね」
「あ?」
「歪んでるのねって言ったのよ」
しばし。
(誰が歪んでいるだ)
警らを終えて、家へと帰る道すがら、後生はどこかぶすりとした面もちでいたが、家のとぼしい灯りがみえてくると、それをさっさと捨てさって、できるだけだが平静な表情をつくった。
まだ月ののぼりもさしかかっていない頃だが、妻帯したばかりの後生を気づかってか、同僚たちが早くに帰してくれる。正直ありがたいとまでは言えなかったが、などと思いながら、ふと菊理のことを考え、後生はかぶりをふった。
(女々しいことだな)
「ただ今」
「おかえり」
「……」
戸をあけたところに巫女服姿の砂子を認め、後生はちょっと目をとじ、しばし考え、――なにを、かはわからないが――目を開いた。
「おい」
「菊理。後生帰ってきたわよー」
「おい」
「兄様――後生様。お帰りなさいませ」
「家だと後生って呼ぶのね?」
「ええ……」
菊理はちょっと眉を八の字にさげて、まるめた手の甲の辺りを口に当てた。笑っている。
「あぁ、ただ今。じゃあない。いや、そうだが、何しているんだ? おい!」
「後生様、どうかなさったのですか?」
「菊理。ちょっと待っていてくれ。おい。何してるんだ人の家――じゃ、ないが――あー」
「あんた婿養子だものね。はなれの身はつらいわー」
「やかましいわ」
後生はとりあえず言うのをあきらめ、「夕餉の支度、できていますよ」と言ってくる菊理に「あぁ、今行く」と答え、ぼりぼりと頭をかいた。
「お前、菊理と知ってたか?」
「あんたの式のときに手伝いにきてたじゃないのよ。あのとき泊まりこみだったし、私こっちに馴染んでないからね。周りの世話ついでにすこし話しこんだのよ」
「面の皮の厚い……」
言いつつ、やれやれと言った様子で後生は履き物をぬいで、土間をあがった。
「で、なにしてるんだ」
「飯」
「俺のところまでたかりにくるとかお前虫でも湧いてんのか?」
「あら口の悪いことですね。これでも夕餉の支度が大変そうな菊理をついでに手伝ってあげましたのに、噴飯ですわ」
「へんな喋り方はいいんだが……」
うんざりした顔で言うと、「紫のまねよ、」と、だれだか知らない名前を出して、奥にふたたびはいっていく。(正確には上がりこんでいく、だが)
「ごめんくださいー」
そんなやりとりをしていると――さきほど見た着物をいつのまにか赤っぽい作務衣に着がえている――さきほどわかれたばかりの(はず)の藤原がなぜか玄関に顔をだした。
「ご免」
「ご免じゃねーよ。――何やってんだ、お前っ!?」
「女同士の付きあい」
「なにをわけのわからんことを」
「あら、藤原さん。いらっしゃい」
「ここは人の家だ!」
「はいはい、お邪魔しますよっと」
「お前らーァ!!」
夜半。褥。事を終え、うっすらと額に汗のうかぶ菊理を、さした月光が照らしている。後生は半身をすこし起きあがらせ、かたん、と戸を落とした。音の無い菊理の裸体が熱いぬくもりをつたえ、まだ自身も御しきれない身体を、じん、と熱くさせる。子供(ガキ)だな、と思いつつも、後生は菊理の、あさく乱れた呼吸を気づかうよう、しずかにその横によりそい、そっと額の髪をどけ、くちづけた。菊理がうすく目を開く。
「すまん。大丈夫か?」
「……。……ぃ」
菊理はまだ乱れた呼吸をしながらも言い、す、と、音もなく笑みをかたちづくった。
「……。た……す」
「……無理をするな」
「は……い……」
は、は、と、菊理は目を開いたままぐったりとなげた腕をながめるように、呼吸を、ゆっくりと、徐々に、すこしづつ、ととのえた。
「……。……たのしかったです」
「ん?」
「……。……今日は、楽しかった……です」
「……そうか」
「……兄様は、どのように」
「あぁ……」
後生は応じながら菊理をみつつ、ちょっと鼻をかいた。くす、と、菊理が口に手を当てて、こらえきれず、といった風に笑みをもらす。
「……すみません」
「……ああ」
「……兄様?」
暗闇のなかで声がする。「ああ」と、後生はかえした。
「……続くといいですね。こんな日が、ずっと」
翌朝。いってくる、と言いのこしがらがらとはなれの戸を閉め、本家の人たちなどに挨拶をかわし、門を出ると、
「よぅ。おそいね」
と、藤原が、また昨日の作務衣とちがう、今日はほんのすこし女らしいといった柄のある朱と黄地との着物に、また朱色じみた、統一ものの柄であるらしい袴をはいた格好でたっていた。
「あぁ、おはよう」
「昨夜は悪かったわね。さすがに一言言っとけばよかったわ」
「気にしなくていい……、いや、そんなことより、ずいぶん早いな? そしてまた何でここにいる。べつにけちつけるつもりはないが……」
「ここにいるのはなんとなくで用は無いわよ。けちをつけてもいいけど? 一応たのまれ事はまじめにやらせてもらうたちなものだからね」
「あぁ……。たのまれ事って……警らの件か?」
いうと、肯定しつつ、「ま、歩きましょう」と藤原は言ってきた。
「どうでもいいが、お前、いつもこんなに早いのか? お前の住んでるところ、昨日聞いたが、そういえば昨夜もやたら早かったな? うちに来るのが」
「今、里の中に泊まってるからね」
「何?」
「実は言わなかったけど、あんたの同僚のところに泊めてもらっているのよ。この話がきまってすぐ行って頼んだんだけど、いいって」
「うちの同僚のやつらというと、まだ独り身のやつが多いし、若い娘をいきなり……いや、まて。何も言わなくていい」
「そう? まぁ興味ない話か」
藤原はひょうひょうとした顔で言ってのける。
「……お前、人嫌いって話じゃなかったか?」
「男はべつってね~」
「……そうか」
「まぁ、真面目な話、見ずしらずの里にさっと馴染むには、独り身で身分のたしかな男と寝ちゃうのが一番なのよ。いろいろ話も聞けるし。それに、ふらっとたちよったような娘と仲になっちゃおうと本気で思う人はあんまりいないしね、実際。手切れもあっさりとしてるのもいいし」
「……なるほど」
「ん?」
図太げなものいいに半ばぐったりしていると、藤原が急にそう言ったので、後生はなかば本心らしからぬ様子で、顔をあげ、そして、その前に、藤原がすたすたと歩んでいって、そこで何やらわいわいやっていた子供らのひとりをたたき、言いつのるのが見えた。
(おいおい)
後生は内心でおもいつつも、藤原が腰に手をあてて向かいあっている子供らがなにをしていたのか、と、さりげに近よっていきつつ、ちらりとみた。すると、なんのことはなく、みなでつかまえた妖精の一匹をこらしめでもしているようだった。おおかた、里で狼藉でもはたらこうとした者らのうちの一匹が、逃げる途中で子供らに捕まったのであろう。たしかにか弱い力しかもたないものらを五、六人で囲み、ひとりが馬のりになってなぐるのは感心できた光景ではないが、しょせん相手は妖精である。
(そう目くじらたてることでもあるまい)
「あ。お巡りの兄ちゃん! このねえちゃん何とかしてくれよ。兄ちゃんのとこのひとだろ」
子供らのはしっこそうなのが言い、二、三人がそれに唱和して、後生に非難をむけてくる。
「だれが姐ちゃんよ。目上に対する言葉づかいもしらないのか、お前らは」
「いって! 大人が子供殴んなよなー!」
「うっさいわね。いーからさっさとその子をはなしてやりなさい。かわいそーでしょうが」
「はぁ? なに言ってんだよ、こいつ妖精じゃん! 見てわかるだろー!」
藤原がかなりぴりぴりしているようなのを見るにつけ、後生はどうにか子供らとのあいだに入ろうとし、とにかく目のまえの藤原に声をかけた。
「妖精だとか関係ないでしょ。そーやって弱いものいじめしてるやつ見るといらいら」
「おい。藤原。やめろ。相手は子供だ」
「だから子供だとか関係ないっての。引っこんでてよ」
「あのな、だから待てって、俺の面子もかんがえろ。お前が里の男とどうだろうが、お前の面倒を必然的に考えられているのは俺なんだぞ。いいからいくぞ」
「ちょっと、離しなさいよ!」
「お前たちもあまり度を越したまねはやめてやれ。これですこしはしらけただろ。ほかの遊びをしていろ」
「ちぇ。は~い」
子供らのかわいげのない返事をききながら、後生は、「おい、ちょっと!」とわめく藤原の後ろえりをつかんで(こういうことには後生の腕力はちょっとしたものだ)子供らからひきはなしてひっぱっていく。
しばしして、里。
「何余計なことしてんのよ」
「あぁ?」
まったく、と言いつつ、後生は茶をすすった。あのあとどうにか近くの甘味処にひきこんで座らせたが、藤原の機嫌は今だすこぶるわるい。
「どちらかといえばそれは俺の台詞だと思うんだがな」
「なぁにが。あんた、女と見るとすぐ保護者づらしだす性質?」
「あのな。――まぁいい」
機嫌をそこねた女に対する特有の無駄をさとりつつ、後生はとりあえず言った。
「いい年の女があんなものの分別もつかん子供を相手にするもんじゃない。ましてやいきなりひっぱたいたりするなよ。だいたいお前もこの里にきて日が浅いのかしらんが、あーいう妖精連中らというのは悪さするに際限がない。ああやってこらしめられてもにがされてしまえばけろっとしているものさ」
「そういう問題じゃないし、あーいう子供らには直接言ってやらないとへのつっぱりにもならないでしょうよ。あんたにここでなに説いてもなんにもならないわ。だから余計なことだっつったのよ」
ぶつぶつと言い、切り分けた餅菓子を口にはこぶ藤原にはどうやらやけ食いの体がうかがえた。甘いもので気が鎮まるかとおもったが、そう単純なものでもないらしい。
(面倒くさいやつだな)
もしや子供らの目のまえで猫か何かのようにひきずっていかれたのが気にさわっているのかと思ったが、怒りはもうすこしばかり根の深いところにあるようだ。残りの羊かんをほうばり、むしゃむしゃとやりながら藤原の機嫌とりをあきらめ、「そろそろ時間だ。詰所にいくぞ」とうながした。
藤原はとくに文句を言うこともなく、しかし顔は微妙に不機嫌なままで、席をたった。ちゃりん、と、後生は無言でふたり分の銭を支払った。
と。
からん、かららん、と、よく聞きおぼえのある嫌な音がした。後生はそう思うと、反射的に上を見た。鳴っていたのは、村の各所各所に設けられている、警戒用の鳴子だった。
(なにかあったか)
「おい、急ぐぞ」と、横の藤原をうながし、後生は足を急がせた。
詰所。
後生、とよびかけちかよってきたのは、同僚のなかでも後生と親しくしている多原だった。
「おう、いま来たところか。藤原どのも一緒か」
「ああ。それで、どうした」
「たいしたことじゃあない。村の周りにはってある結界のな、妖怪用の方に反応があった。今人を集めて、反応のあった周辺にも一応守りを固め、避難をうながしている」
多原は言いつつ、ちょっと烏帽子の下の頭を指でかいた。
「とはいえ、動向からしてまた妖獣の類だとはおもう。来て早々で悪いが、お前たちも村の周囲に散ってくれ。逃げ遅れた者がいるとかなわん。相手は妖獣程度だ。対処はまかす」
「わかった」
ほどなく。
竹林。
警戒から程なく、その原因が後生たちのところへも伝わってきた。妖獣の子供、それもまだ変化もろくにできないものが結界をふんだらしい。警らの者らの間ではすでにその姿をとらえており、いま追いたてしているが、妖獣は興奮しているようで、ちかづくのはあやうく、また、もうひとつ悪いことに村の子らがふたりばかり姿が見えなくなっているらしく、そちらの捜さくもいそぎ行われなければならなかった。
(子がおりてきているとなれば、親もおりてこよう)
厄介な、とおもいつつ、後生は今は手分けして散っている藤原と離れ、ひとり神経をとぎすましていた。まだ日の射す時間とはいえ、ただの人間がひとりでうろつくにはここの林は少々危険だ。ほーい、ほーい、と追いたての者らが出す音声をたよりに、後生ら散っている者らは、一定の距離を維持しつつ、ふたり組を基本に行動している。
(さっさと追いはらうのが一番だが、事はわるいほうへ、わるいほうへと進むものだしな)
ほどなく。ほーい、ほーい、と鳴る追いたての音声を耳にひっかけるようにしながら、後生はしげみを走っていた。月が光にかくれる日なかではそう獣の力も出るものではないが、もとより後生の身体をめぐる因子は、昼に夜に常人ならざらない力をもつ。そう、昼に夜に。こんなときに何を、と思いながら、月光のさえぎられたほの暗いくらがりで、額に汗うかべ、ぐったりとした幼――いや、今は妻だ、彼の。その娘のまぼろしを思いうかべながら、俺はどうしてこんなことを思っているのか、と、恥じらいを感じつつ、くん、と前方に嗅いだ臭いに、後生は勢いのまましげみをでた。
「わっ――」
突然の遭ぐうにおどろく多原の顔をみながら、頭には先ほどまで考えていたことの残滓がこびりつく。自分のなかの獣の因子が、夜ごとのおこないごとに、菊理の身体にすえられた、病弱な因子の彼女自身を、がりがりと削り取ってはいまいか? 甘い毒のように。
「……おい、どうした」
「いや。すまん、何でもない」
「そうか? ……まぁいい、で、」
「あぁ。まちがいない、こっちだ。……お前、どうしてこっちにきた?」
「いや、なにか臭いがしたんでな。やな感じの、焦げるような臭いというか」
ふたりそろって後生が先導するかたちで歩きながら、多原が言いつつ顔をしかめる。
「獣は炎をつかわん。お前が世話しているあの女人の仕業かな」
「あぁ……炎の術をつかっているのを見たことがある」
「そうか。しかし……」
そう多原が言いかけてだまるのが聞こえ、後生は目的の場所にたどりついたのをさとった。
「おー、よしよし。なくなー。もう怖いのは終わったからな」
言い、ぎゃぁぁぁん、ぎゃぁぁぁん、と泣いている子供の一方を抱きかかえてあやしてやっているのは間違いなく藤原のようだ。その足もとにもうひとりの子も無事な様子でいる。
(迷子はふたりともまとまっていたか……まったく事はわるいほうへはこぶな。おそらく敵意をまとった我々の体臭をよけて逃げたさきにあの子供らがいたか)
妖獣も興奮していたのだろう。いまは黒こげになって、子供らからすんでの距離で横たわっている。
「殺したのか……」
多原がやや、やれやれといった様子でつぶやくのが聞こえた。それから「おぉい!! こちらだ、こちらだ! 獣は死んだぞ! 子供らも無事だ!」と、大音声で周囲にしらせた。
とはいえ。
後生ら警ら衆の仕事はそれで完全に終わりとできるものではなく、長と副頭をまじえての協議ののち、(もちろんこれは仮のもので、正式なものは、この警らが終わってからになるが)引きつづき里に警戒の目をくばるべく、外と内とに人手がわりふられ、つまり単純に普段よりも増員しての警らになる。何を妖獣の子一匹迷いこんだくらいで、と、日ごろの状況ならばかるくいなすところだが、いまは博麗に助力を請うよう達しがあったように、ここひと月のあいだで四度、五度と短い周期に起きた似たような事案のために、ここで警戒をほどくわけにはいかなかった。助っ人として藤原がまねかれている事情には、そもそもそういったものがある。とはいえ、ああも簡単に村役から許しがでたのは後生も妙に思っていたが、なるほど、村役も老いたりとはいえひとかどの噂のある人物であるし、藤原の事情もおおかた知っていたのではないか。
などと。
くだんの藤原と組んで待機警らにつとめながら、押しだまっていると、そう自覚していたとおりのことを「ちょっと、なに黙ってんのよ?」などと数度聞かれたが、後生は「いや」などと言いはぐらかしていたので、空気は悪かった。
そうして日が暮れたころ、ようやく早番の後生らには帰ってよいとの指示がきた。
伝令を伝えにきた同僚に礼をいい、その背を見おくるか否かくらいで、
「藤原」
と、後生は言い、「うん?」と、藤原が、ずっとかたまっていた身体をぐぐ、とのばしていたのをかまわず、ほほに拳を叩きこみ、ぶっ飛ばした。
かぁ、かぁ、と、山へ帰る鴉どもが頭の上を鳴いてかすめていく。そんな音を意識のはしに引っかけながら、「っつ」とうめいた藤原のむなぐらを、力まかせにひっつかんでひきしぼった。
「な――」
「てめぇ、ふざけてんじゃねぇぞ。何であの妖獣を殺した!? お前の力なら脅して逃がすくらいのこと出来ただろうが!! どうしてあんな状況になってたかは言っておくが聞かないぞ。お前があの時何を考えたのか当ててやろうか!!」
後生はだまり込んだ藤原めがけて怒鳴りつけた。自分でもわからなくなるほどの憤がいが頭を支配していた。
「どういう状況だったか知らないが、あの子供らと妖獣を見たとき、お前にはふたつは考えがあったはずだ、なにを生かすか、それとも殺すか。殺すしかなかったとは言わせないぞ、お前はその上であえてあの妖獣を殺すことを選んだんだよ、迷いもなく! それもあっさりとな! 男と寝るかどうかきめるくらいの尺度でだ!」
「なに言って」
「ふざけんじゃねぇぞ。お前が獣どもの道理を知らなかったのかどうかはしらない、あの妖獣の子は村から遠ざけたところまで追っ払っちまうのが一番だったんだ。そうじゃねぇと、親が子を殺されたことを知って人里の者を襲う。妖獣は、そういう怨みは解するものだからな。だがそんなことじゃないんだよ、俺が怒ってんのは。お前をぶん殴ってやったのは! お前があっさりと妖獣を殺すことを選び「やってのけた」からだ、俺が怒ってんのは!」
ぎぎぎ、と、自然腕に力がこもるのを感じながら、後生は月とくらやみと、こんな自分らにかまわず鳴く虫の音が、逢魔が刻の気配の中を波のように回遊するのを聞いた。こんな自分のおさえきれない怒りなんぞ、この暗闇が孕む凶気にくらぶれば、蛙のふんのようなものだ。
「お前、どこかおかしいんじゃないのか? 自分が死ににくいようだからって手前の自覚しないところで、他のいのちを軽んじてないか? そしてそれをこそとも気にしてないんじゃないか? いいか、はっきり言ってやる。そういうやつはな、迷惑なんだよ。おなじ卓をかこんで飯を食いたくないんだよ。お前はここに来るまで長いこと流浪してきたなんぞと言ったが、あたりまえだ。お前のそういうところが他の連中」
言う途中、後生は顔の正面に衝撃をうけ、それが藤原の拳によるものだとわかった。むりな体勢から無理やり叩きつけられる形で当てられた拳は、明らかに筋か何かをやったようだったが、そんなことは構わずに、後生ははねおきて、藤原の顔に拳を叩きこみ、さらに襟をつかんで、三発、四発、となかば意地になったように拳撃をくり返した。
勿論藤原も黙ってはおらなかった。こちらも意地になったかのように、後生の一撃に退かず怯まず、一歩も譲らずに四発、五発と殴りかえしてくる。林のなかの闇がだんだんと濃くなっていくなか、互いの竹の葉を蹴りしだく音と、するどく動作する音のみをひびかせて、時を日暮らしていく。
やがて。
どちらともなく息切れした肩をあえがせ、後生は動きをとめた。なぜこんなに殴りあったのか、それは殴りあってから気がついた。どうやら自分はこの女がとことん気に食わなかったらしい。
「……、よく知りもせず、ずけずけと、よくも言ってくれるもんだな、半人」
やがて憎々しげな唾を吐く音と、藤原の声が聞こえた。
「そういうお前はどうなのよ、気づいてないとでも思ってんのか? 全く。見ちゃいられないよ、あんたもあの娘も。いや、見ていられないのはあの子だけだ。あの娘は心からお前を思っているからね。ところがそれに応えるお前ときたらどうだ。このひねくれ者の半端もんが。お前に人を非難する資格なんぞないね。心の底でこの世を拗ねてだだこねてる餓鬼なんかに私が非難されてたまるもんかね」
そういう藤原を、後生はまた思い切りぶん殴った。それに、藤原もまた思い切りぶん殴り返してきた。
で。
夜になった。後生はぼこぼこにはれ上がっているであろう顔をかかえ、さてどう言いわけするかと考えた。とりあえず今日は菊理の相手はしてやれそうもない。それともこんな有様でも菊理は自分を受けいれるだろうか。
(おびえた餓鬼め)
自分で自分に言うのは、先ほど藤原に言われたことだ。別れぎわそう言って、というより、きっかけなぞなしにお互い相手を見限るように別れた。
(貴様に言われたくない)
お互い様だ、と、さっきついてきたばかりの悪態をつきながら血の臭いのする空を見る。家路。一人。そう、分かっていたことだ。おびえた餓鬼め。
(怯えた餓鬼め。お前はいつもそうやってきたんだろう? 不安ばかりで人をなぐって当たり散らしてそうやって生きてきたろう? そうせぬようにとしてきたろう? それは怯えているということだ)
だんだんと空がにじむ。痛みで。
(今も怯えている)
「で、なんでお前がここにいる」
家に帰るとお帰りなさいませ、と迎える菊理のやや眉尻のさがった笑顔になにか予感を覚えていると、案の定、奥の座敷で藤原が飯を食っていた。先ほどのぼこぼこに――人のことは言えないが――はれあがった顔に、いつもの作務衣を着て。
「いた。やっぱしみるわね」
「ずいぶん派手にやったのね」
「大丈夫ですか? べつのものを用意しますか?」
「そんな気を遣わなくていいわよ」
「でも、兄様――後生様にやられたのでしょう?」
「おい……」
「あ、後生様。お食事の用意できていますよ。どうぞ」
いつものごとく、(というのか何なのか)風景のように居すわった砂子の横に菊理が座り、その横に設けてある自分の席に菊理がうながした。
「ああ……」
後生が気まずげに言いつつ座ると、ふと、その目に、見慣れぬ赤い包みが目に入った。結構な大きさだ。まるで、人ひとりここに居候してくるかのような。
「おい、それは何だ」
「あぁ。今日から私ここに部屋借りるから」
「あぁ?」
「大丈夫よ。あんたらの寝るときまでここにお邪魔してるほど無粋じゃないから。あっちの広いお屋敷のほうにひと部屋貸してもらったわ」
「お前、人の家――えぇと」
「あんたんちじゃないでしょ、向こうは」
「婿養子の身は大変ね~」
「やかましいわ、っつ」
くそ、と心中で悪態をつきながら、「痛みますか?」と、布をひとつさしだしてくる菊理の気づかいに、なにか不合理なものを感じながら甘える。
ともかくそうして夜は更けた。
翌朝からのまた騒がしくなる食卓の気配をはらんで。
(続く)
※俺設定、俺キャラ、俺展開、俺世界あり。注意。注意ですよ^^;
昔。
神社。
何の前ぶれもなく、と、すくなくとも後生は思っていたが、砂子は、一度だけ後生をもとめたことがある。ひっくり返った盆に、畳にしみこんだこぼれた茶。ふたつの茶わんと急須。
「女に恥をかかせないでよ」
なにか。
そのときの砂子は、後生の砂子ではあったがなにかがちがっていた。くちづけのあとで言った言葉、何かをもとめるようにあらぬところへさ迷った瞳、後生の背にまわした手。かぼそいような、それでいておのずと背徳の色がしみこんだような、おぞ気のふるいそうな、染めたほほ。耳たぶ。
たしかにあの瞬間、後生はほんの一瞬、彼がそれまでこの世で一番いとしいと思っていた許嫁の小さな笑みを、ほんの一瞬だけ忘れた。それはのちに傷となってのこった。
誰の心に?
真っ暗な夜。
今。稗田の家のはなれ。そんな考えるべきでないことを考えた自分をわずらわしく思っていると、横で寄りそっていた菊理の肌が身じろぎ、ついで、ほんの小さな声をたてた。
「……。すまん。起こしたか」
「いえ」
菊理は答えながら、まだ先ほどまでの情事のあとの見えるほそい首すじを動かし、後生の胸にほほを寄せた。
「考えごとを?」
「……うん」
「……兄様」
「ん?」
「……。初めてでいらっしゃいましたか?」
「……うん」
「そう」
菊理は、まだ熱を帯びている身体をみじろがせ、ふ、と後生に身体をあずけるように、瞳を閉じた。すこしうすいクマの残る、いつものいとしい横顔。
そんなことを思い、また逃れられぬところで感じていると、身体がまたじんわりと熱を帯び、やてもたまらぬ心地になったが、後生はそっと菊理の手をとり、「あ」という菊理の声に強引なおのれの所作を感じながら、つつみこんだ小さな両手にそっとくちづけた。菊理がほほえむ気配がした。
三日前。
里の道すがら。ひとり。
せまい里であるからその日祝言を挙げた後生のことなどは半日待たず知れているのだろう。顔見知りに会うたび祝福やら何やらで立ち話になり、つくづく菊理を連れてこずよかったと思う。なれない場になれない装束を着こみ、肩がこり気疲れも起こしたのは後生だけではなかろう――最も菊理は満更でもなくよろこんだ顔を見せることもあったが。
(綺麗だったな)
ふるくからの顔馴染みがこれまでより一層ちかしい間になったなど、いまいち実感には欠けていたが、たしかに自分も嬉しいことは確かだった。ただ、友人や父からの賛辞には、素直に喜べない内心もあったが。顔に出してしまったことを済まなく思いながら、挨拶回りの道をあゆみつつ、後生はふとちらりと知己の巫女の顔を浮かべたが、なぜかやめておこう、という気になった。なんとなくだ。
「あら、こんにちは。おめでとう」
「ああ」
と言っているあいだにも出会ってしまった。なぜ里にいるのかとも思ったが、おそらく手伝いのためであろう。いつもの巫女服は替えて、普通の村娘のような格好をしている砂子に、後生はちょっと返事がぶっきらぼうになったのを自覚しつつ、やれやれとどこかうんざりしたような心地をおさえた。
「べつに気にすることないでしょ。里で知ってる人なんていないわよ」
「……」
「なにもなかったのはあんたが一番知ってるでしょ?」
言いおえると、持っていた桶をすこし持ちなおす風にして、手ぬぐい頭をゆらしつつ、そのまま去っていく。
まぁそうだな、とあっさり言えるほど後生も面の皮厚くなく、自覚があるほど若い。
が、彼女の話はそれで済んだようだ。
(いつもどおりのしかめ面でいろってか。女のわりに勝手なやつだよ)
後生はしかし、肩に妙なかるさが浮いているのも自覚しながら、そんな自分へのいやけを払うように肩をゆっくりまわした。
まぁ、どうせこの先も何度も顔をあわせることになるのだ。
現在。昼ごろ。
さっそくその機会がやってきたらしく、こうして後生は社から連れてきた砂子とともに道を歩いていた。
「そういうわけで――最近の妖怪連中の動きは異常でな。村役どのはお前の力を借りたがっている」
「やぁよ。私の領分じゃないもの。歩きながら話すのは会話の礼儀に反するわ。まずご飯」
「お前くだんのことははっきり断ると言っておいて飯はたかるのか……?」
「話を聞いてあげるのも巫女の役目だとは思うわね」
「このあいだ俺にさんざひやひやさせておいてむげにするとはな……」
「何よ、まさか例の鬼女のときの? 男がいつまでも過ぎたことをぐちぐち言って、すこしははずかしいとか思わないの?」
「えぇい、男の顔をそういつもいつもつついたりひっぱったりするな」
ひっぱられていたほほを払いのける仕草をすると、砂子はあっさりとはなし、なにか考える表情になった。そして言う。
「そうね。まぁいいか、そういうことならいいわよ。私の知りあいにちょうどいい人がいるからたのんでみるわ」
「お前の知りあい……?」
「ちゃんと人の形をした何かとかじゃないから安心しなさい。まー最近知りあったばっかりだし、くわしくはわかんないけどね。人格と腕はたしかだから保証するわ。おもに私の勘ですけれども」
言う砂子に「またか」とかえしつつも、ふとその横顔が、奇遇だがめずらしいものを見つけた、と言った表情になっているのを見て、後生はつられてそちらをみた。すると、里のすこしさびれた感じの、いかにも子供らのあそび場となっているな、という場所で、なにやら集まった子供らと、その背中に、見事、というほどに綺麗にまっすぐ、足元近くまでたれさがった白毛の人物がなにやら言いあいをしているようだった。
もっとも相手をしているのは子供らのなかのさかしそうな輩ひとりで、やがて、なにごとか言いおえて、白毛の人物――一瞬、年わかい少年か、と思ったが――が、こちらにむかって歩いてくるのが見えた。
「藤原さん」
藤原、と砂子に呼ばれた娘は、――一瞬性別をたがえそうだが、それはこの藤原が着ている袴と着物をあわせた装束が原因のようだ。派手なはずなのに、それがひかえめに見えてしまうような、炎のような朱色の上下だ――こちらを見ると、なんだ、といったような顔になり、「あら」と、娘らしい言葉のひびきをなげかけてきた。言葉のひびきで確信できたが、やはり娘は娘のようだ。顔や身体の線に、柔和な仕草があわさるとそう見える、といった感じで、普段のふるまいや、しっくりとなじんだ動作自体はどうも男勝りな印象を与えそうだ、と、みる者には思われそうだった。
「博麗。どうしたの、こんなところで?」
「それどっちかというと私の台詞だと思うんだけど?」
「はん? あ、私? 私は野暮用よ。でなかったら人里なんて入らないわよ」
がりがりと長い白毛をがさつそうにかいて、藤原はちら、と後生を見たが、何も言わずに砂子に目をもどした。
(ん?)
後生は――娘の態度にではなく――なにか妙な感じをおぼえ、ちょっと眉をひそめた。
「何よ、あなた、また里の人の厄介事なんか聞くつもりなの? いくら役目だからって、べつに連中なんかほうっときゃいいのに。自分らで何とかするでしょ?」
「私真面目だからね。義理堅いもん」
「あははは。面白いわね、それ」
藤原はちょっと娘じみたよく似合う顔で笑うと、「何話してたの?」という、砂子の言葉に、「いーえ。たいしたこっちゃないわよ」とはぐらかしつつ、会話をつづけた。
どこかで会ったことが、いや、見たことがある。
「ところで藤原さん最近暇よね? 里の周辺の警らとかしてみない? 責任はこいつが負うって」
「あん?」
「おん?」
後生は藤原と同時に声をあげ、やや気まずげに思い見たが、相手はどうでもよさそうに眉をひそめている。
「何それ? まさかあなたの頼まれごとの肩がわりしろってこと? べつにそれであなたに何か言うこともないけど、やぁよ、私は。この里の連中のために働くなんて阿呆たらしい。どいつもこいつも陰気な顔して因習にこだわってますって顔してさ。かかわりたくないんだけど」
「でもこいつにはもう紹介するって約束しちゃったし、やってくれないと私がこまるなぁ」
そこまで言って、砂子はこちらを見た。
「あ。後生。紹介するわ。こちら藤原の妹紅さん。見てのとおり偏屈で頑固で基本的に人のために何かするのとか大嫌いだけどまぁ根はいい人よりだから、よろしく」
「えらくざっくりとした紹介ねぇ……」
「ついでにいうとたぶん人嫌いで口さがないし人に遠ざけられやすい性質だけどたぶんいい人よりだから仲良くするのよ」
砂子は言いつつ、「あ、それで、こっちは」と言いかけたが、
「知ってるよ。名前はしらないが、お節介焼きの助平だな」
「あら、会ったことあるの? ん? 助平?」
「ちがう」
後生は憤まんそうに言ったが、砂子も藤原もたいして自分の言葉を聞いていないようだ。
「何かされたの?」
「やめろって言ってるのに無理やり手をどけられて体を触られてね」
「まぁ」
砂子が言うのにだまりこんでいると、ちょっと考えこんだ顔になった砂子が、「ま、いいか」と、なにかをふっ切るような言い方をして、ぺし、と後生をたたき「痛ぇ!」と言わせた。
「何する?」
「気にしないで。まぁ村役さんには私から言っておくから仲良くね。後生。喧嘩しちゃだめよ」
「おい、まて」
「じゃあね。あ、わすれてた。飯」
「……」
しばしして。
まだ里。
後生の金で飯を食ったあと(砂子の提案により、藤原にもおごらされた)、砂子は本当に二人をおいたまま、帰っていった。あのぶんだと止めても村役のところへ行って言いおいて、そのまま社に帰ってしまいそうだ。無責任極まりない。
「強引なやつ~。まあいいか。どうやら断れそうにないし。あいつの頼みだしなー」
がりがりと白毛をかきながら言い、
「で、てなわけでよろしくね。え~と、後生? だっけ。後生くん」
「上白沢後生だ。まぁ、くん付けはなるべくやめてほしいが」
「あ~そうよね。女房さんいるんだっけ? おめでとう。じゃあ後生でいいわよね。よろしくね、後生」
「よろしく」
「あんたも妻持ちの身で大変なやつと友達してるもんね。私も長いこと生きているけど、あいつは変わり種だわね。付きあう方は苦労するでしょ。――ま、決まったもんは決まったものだし、しかるべき人に挨拶しとかないといけないか。案内して」
「……あぁ」
里。
すこし外れのほう。道ばた。
(変わり種か……)
そりゃ自分のことじゃないのか、と思いつつも、長いこと生きている、と、さらりと言われた言葉を反すうしつつ、後生はさりげに(よく見ればいまさらながら砂子より背が低いようだった)隣を歩いている藤原を見やり、厄体もないことをかんぐった。
(まぁ、適当な言い方をしていたし、あまりまともな人間ではないんだろうな)
自分が聞く機会を逸したというのもあるが、あえて聞かずにすませたことを思い、後生は藤原から目をそらした。
「藤原殿」
「藤原でいいわよ」
「まぁ、それはおいとくにして、どこに住んでいるのだ? わるいが警らの仕事は逢魔が刻よりすこし前からだ。詰所にいてくれてもよいが」
「そうね。ま、あんたよりははるかに年長だけれど、とりあえずさっきみたいにぶっきらぼうな口調でいいわよ、後生。そっちのほうが地に近いんでしょう?」
「あぁ、わかった。そうするが、で、どうするんだ?」
「人が多いところは苦手だわ。警らの順路はあんたが知っているってことなんだし、ちかい場所を指定して待ちあわせでいいんじゃないの?」
で。
決刻。里はずれ。
藤原は気なさげな風だったが、後生がいくと先に来て待っていた。
「やぁ」
「すまん。遅れたな」
「い~わよ。私、今起き――」
藤原がそう呑気そうに言ったとき、一瞬、後生には、同時にいくつものことが起こったように見えた。
そこで起こったことがあまりに突拍子のないことだったこともある。ふと藤原のななめ後ろ、ほんの数歩ばかりはなれた竹やぶのあいだから、普通の里人のような格好をした男、にみえた。その人影が藤原の気のゆるんだような顔を、きっと目覚めさせたのは、うたがいない。しかし、その反応は半歩以上遅れ、つぎの瞬間には、何かしようと上げられた片手をとらえられ、藤原の身体が宙を舞ってどっと地面に押したおされ、その首に突きたてられた刃がばしゅっ!! と、何かがちぎれる音とともに、ばっと血のふん水をふきださせた。
(死――)
と。
あまりのことに獣の目をみはっていた後生が男に飛びかかり、退けようとする幻影をみるあいだ、今度は首をなかばまで断たれたはずの藤原の身体がいきなり火をあげてまたたくまに燃えあがり、うわっ、と、乗り倒していた男に悲鳴をあげさせるほどにはげしく、するどく空気を焼きこがした、かと思うと、その炎のなかから、がっ、とのびた腕が男のえり首をつかみ、――まるで、そう、不死鳥だ。鳳凰のように――足をはねあげた藤原の身体が男を押したおし、逆に馬乗りになりつつ、今度は急速におさまった炎の中から、残滓を照らしつつあらわれいでた。
「――ったく。何よ、あんた、まだあきらめてなかったのか」
炎の中から血のあとを残したまま再生した藤原は言い、地面にたおした男の首をとらえたまま言った。
「でもこれでわかったでしょ? 悪いけどあんたの依頼主のとこに帰ってつたえてくれないかな。それともこのまんま首を焼き焦がされるか――」
ぐぅっ、と、何か吐きだそうとするような男の声が聞こえ、それから、不意に藤原はたちあがって、男を自由にしてやった。男は身のこなしするどく立ちあがると、げっほ、と、のどを押さえ、苦しげにしながら、ざざっと竹の葉をけって、その場をさった。
「……」
「ふぅ。まったく……」
藤原はなにごともなかったかのようにのどをさすり、「うぇ」と、ちょっと舌をだしてみせた。
「……。……」
「面倒くさいもの見せたわね。ごめんね」
「いや、なんというか……。……なんだ? 今の。知りあい、か?」
「いえ。ちょっと長い付きあいのやつがひとりいてね。そいつがしょっちゅう刺客おくってくるんだけど、最近くわわった新顔のやつ」
「……。今のは? 術か何かか?」
「そうねぇ。まぁ、私もよくわかってないんだけど……忍術ってことじゃだめ?」
「忍術……」
「まぁ忍術ってことで」
「長く生きてるとかそういうようなことを言っていたがそれも忍術か?」
後生はうたがわしげな顔で袖手を組んだ。
「説明が苦手なんでそれでいいわ」
「そうか……まぁとりあえず、……そう、仕事だよ。行くぞ。案内する」
「ふーん」
「なんだ?」
「あんまり驚いちゃいないみたいね~」
言いつつ、藤原は、後ろ手に組んだ手をぐぐ、と持ちあげて背のびした。
「ま、あの砂子になつかれてるんだから、あんたもあんまりまともじゃないのかもね」
「あ?」
「歪んでるのねって言ったのよ」
しばし。
(誰が歪んでいるだ)
警らを終えて、家へと帰る道すがら、後生はどこかぶすりとした面もちでいたが、家のとぼしい灯りがみえてくると、それをさっさと捨てさって、できるだけだが平静な表情をつくった。
まだ月ののぼりもさしかかっていない頃だが、妻帯したばかりの後生を気づかってか、同僚たちが早くに帰してくれる。正直ありがたいとまでは言えなかったが、などと思いながら、ふと菊理のことを考え、後生はかぶりをふった。
(女々しいことだな)
「ただ今」
「おかえり」
「……」
戸をあけたところに巫女服姿の砂子を認め、後生はちょっと目をとじ、しばし考え、――なにを、かはわからないが――目を開いた。
「おい」
「菊理。後生帰ってきたわよー」
「おい」
「兄様――後生様。お帰りなさいませ」
「家だと後生って呼ぶのね?」
「ええ……」
菊理はちょっと眉を八の字にさげて、まるめた手の甲の辺りを口に当てた。笑っている。
「あぁ、ただ今。じゃあない。いや、そうだが、何しているんだ? おい!」
「後生様、どうかなさったのですか?」
「菊理。ちょっと待っていてくれ。おい。何してるんだ人の家――じゃ、ないが――あー」
「あんた婿養子だものね。はなれの身はつらいわー」
「やかましいわ」
後生はとりあえず言うのをあきらめ、「夕餉の支度、できていますよ」と言ってくる菊理に「あぁ、今行く」と答え、ぼりぼりと頭をかいた。
「お前、菊理と知ってたか?」
「あんたの式のときに手伝いにきてたじゃないのよ。あのとき泊まりこみだったし、私こっちに馴染んでないからね。周りの世話ついでにすこし話しこんだのよ」
「面の皮の厚い……」
言いつつ、やれやれと言った様子で後生は履き物をぬいで、土間をあがった。
「で、なにしてるんだ」
「飯」
「俺のところまでたかりにくるとかお前虫でも湧いてんのか?」
「あら口の悪いことですね。これでも夕餉の支度が大変そうな菊理をついでに手伝ってあげましたのに、噴飯ですわ」
「へんな喋り方はいいんだが……」
うんざりした顔で言うと、「紫のまねよ、」と、だれだか知らない名前を出して、奥にふたたびはいっていく。(正確には上がりこんでいく、だが)
「ごめんくださいー」
そんなやりとりをしていると――さきほど見た着物をいつのまにか赤っぽい作務衣に着がえている――さきほどわかれたばかりの(はず)の藤原がなぜか玄関に顔をだした。
「ご免」
「ご免じゃねーよ。――何やってんだ、お前っ!?」
「女同士の付きあい」
「なにをわけのわからんことを」
「あら、藤原さん。いらっしゃい」
「ここは人の家だ!」
「はいはい、お邪魔しますよっと」
「お前らーァ!!」
夜半。褥。事を終え、うっすらと額に汗のうかぶ菊理を、さした月光が照らしている。後生は半身をすこし起きあがらせ、かたん、と戸を落とした。音の無い菊理の裸体が熱いぬくもりをつたえ、まだ自身も御しきれない身体を、じん、と熱くさせる。子供(ガキ)だな、と思いつつも、後生は菊理の、あさく乱れた呼吸を気づかうよう、しずかにその横によりそい、そっと額の髪をどけ、くちづけた。菊理がうすく目を開く。
「すまん。大丈夫か?」
「……。……ぃ」
菊理はまだ乱れた呼吸をしながらも言い、す、と、音もなく笑みをかたちづくった。
「……。た……す」
「……無理をするな」
「は……い……」
は、は、と、菊理は目を開いたままぐったりとなげた腕をながめるように、呼吸を、ゆっくりと、徐々に、すこしづつ、ととのえた。
「……。……たのしかったです」
「ん?」
「……。……今日は、楽しかった……です」
「……そうか」
「……兄様は、どのように」
「あぁ……」
後生は応じながら菊理をみつつ、ちょっと鼻をかいた。くす、と、菊理が口に手を当てて、こらえきれず、といった風に笑みをもらす。
「……すみません」
「……ああ」
「……兄様?」
暗闇のなかで声がする。「ああ」と、後生はかえした。
「……続くといいですね。こんな日が、ずっと」
翌朝。いってくる、と言いのこしがらがらとはなれの戸を閉め、本家の人たちなどに挨拶をかわし、門を出ると、
「よぅ。おそいね」
と、藤原が、また昨日の作務衣とちがう、今日はほんのすこし女らしいといった柄のある朱と黄地との着物に、また朱色じみた、統一ものの柄であるらしい袴をはいた格好でたっていた。
「あぁ、おはよう」
「昨夜は悪かったわね。さすがに一言言っとけばよかったわ」
「気にしなくていい……、いや、そんなことより、ずいぶん早いな? そしてまた何でここにいる。べつにけちつけるつもりはないが……」
「ここにいるのはなんとなくで用は無いわよ。けちをつけてもいいけど? 一応たのまれ事はまじめにやらせてもらうたちなものだからね」
「あぁ……。たのまれ事って……警らの件か?」
いうと、肯定しつつ、「ま、歩きましょう」と藤原は言ってきた。
「どうでもいいが、お前、いつもこんなに早いのか? お前の住んでるところ、昨日聞いたが、そういえば昨夜もやたら早かったな? うちに来るのが」
「今、里の中に泊まってるからね」
「何?」
「実は言わなかったけど、あんたの同僚のところに泊めてもらっているのよ。この話がきまってすぐ行って頼んだんだけど、いいって」
「うちの同僚のやつらというと、まだ独り身のやつが多いし、若い娘をいきなり……いや、まて。何も言わなくていい」
「そう? まぁ興味ない話か」
藤原はひょうひょうとした顔で言ってのける。
「……お前、人嫌いって話じゃなかったか?」
「男はべつってね~」
「……そうか」
「まぁ、真面目な話、見ずしらずの里にさっと馴染むには、独り身で身分のたしかな男と寝ちゃうのが一番なのよ。いろいろ話も聞けるし。それに、ふらっとたちよったような娘と仲になっちゃおうと本気で思う人はあんまりいないしね、実際。手切れもあっさりとしてるのもいいし」
「……なるほど」
「ん?」
図太げなものいいに半ばぐったりしていると、藤原が急にそう言ったので、後生はなかば本心らしからぬ様子で、顔をあげ、そして、その前に、藤原がすたすたと歩んでいって、そこで何やらわいわいやっていた子供らのひとりをたたき、言いつのるのが見えた。
(おいおい)
後生は内心でおもいつつも、藤原が腰に手をあてて向かいあっている子供らがなにをしていたのか、と、さりげに近よっていきつつ、ちらりとみた。すると、なんのことはなく、みなでつかまえた妖精の一匹をこらしめでもしているようだった。おおかた、里で狼藉でもはたらこうとした者らのうちの一匹が、逃げる途中で子供らに捕まったのであろう。たしかにか弱い力しかもたないものらを五、六人で囲み、ひとりが馬のりになってなぐるのは感心できた光景ではないが、しょせん相手は妖精である。
(そう目くじらたてることでもあるまい)
「あ。お巡りの兄ちゃん! このねえちゃん何とかしてくれよ。兄ちゃんのとこのひとだろ」
子供らのはしっこそうなのが言い、二、三人がそれに唱和して、後生に非難をむけてくる。
「だれが姐ちゃんよ。目上に対する言葉づかいもしらないのか、お前らは」
「いって! 大人が子供殴んなよなー!」
「うっさいわね。いーからさっさとその子をはなしてやりなさい。かわいそーでしょうが」
「はぁ? なに言ってんだよ、こいつ妖精じゃん! 見てわかるだろー!」
藤原がかなりぴりぴりしているようなのを見るにつけ、後生はどうにか子供らとのあいだに入ろうとし、とにかく目のまえの藤原に声をかけた。
「妖精だとか関係ないでしょ。そーやって弱いものいじめしてるやつ見るといらいら」
「おい。藤原。やめろ。相手は子供だ」
「だから子供だとか関係ないっての。引っこんでてよ」
「あのな、だから待てって、俺の面子もかんがえろ。お前が里の男とどうだろうが、お前の面倒を必然的に考えられているのは俺なんだぞ。いいからいくぞ」
「ちょっと、離しなさいよ!」
「お前たちもあまり度を越したまねはやめてやれ。これですこしはしらけただろ。ほかの遊びをしていろ」
「ちぇ。は~い」
子供らのかわいげのない返事をききながら、後生は、「おい、ちょっと!」とわめく藤原の後ろえりをつかんで(こういうことには後生の腕力はちょっとしたものだ)子供らからひきはなしてひっぱっていく。
しばしして、里。
「何余計なことしてんのよ」
「あぁ?」
まったく、と言いつつ、後生は茶をすすった。あのあとどうにか近くの甘味処にひきこんで座らせたが、藤原の機嫌は今だすこぶるわるい。
「どちらかといえばそれは俺の台詞だと思うんだがな」
「なぁにが。あんた、女と見るとすぐ保護者づらしだす性質?」
「あのな。――まぁいい」
機嫌をそこねた女に対する特有の無駄をさとりつつ、後生はとりあえず言った。
「いい年の女があんなものの分別もつかん子供を相手にするもんじゃない。ましてやいきなりひっぱたいたりするなよ。だいたいお前もこの里にきて日が浅いのかしらんが、あーいう妖精連中らというのは悪さするに際限がない。ああやってこらしめられてもにがされてしまえばけろっとしているものさ」
「そういう問題じゃないし、あーいう子供らには直接言ってやらないとへのつっぱりにもならないでしょうよ。あんたにここでなに説いてもなんにもならないわ。だから余計なことだっつったのよ」
ぶつぶつと言い、切り分けた餅菓子を口にはこぶ藤原にはどうやらやけ食いの体がうかがえた。甘いもので気が鎮まるかとおもったが、そう単純なものでもないらしい。
(面倒くさいやつだな)
もしや子供らの目のまえで猫か何かのようにひきずっていかれたのが気にさわっているのかと思ったが、怒りはもうすこしばかり根の深いところにあるようだ。残りの羊かんをほうばり、むしゃむしゃとやりながら藤原の機嫌とりをあきらめ、「そろそろ時間だ。詰所にいくぞ」とうながした。
藤原はとくに文句を言うこともなく、しかし顔は微妙に不機嫌なままで、席をたった。ちゃりん、と、後生は無言でふたり分の銭を支払った。
と。
からん、かららん、と、よく聞きおぼえのある嫌な音がした。後生はそう思うと、反射的に上を見た。鳴っていたのは、村の各所各所に設けられている、警戒用の鳴子だった。
(なにかあったか)
「おい、急ぐぞ」と、横の藤原をうながし、後生は足を急がせた。
詰所。
後生、とよびかけちかよってきたのは、同僚のなかでも後生と親しくしている多原だった。
「おう、いま来たところか。藤原どのも一緒か」
「ああ。それで、どうした」
「たいしたことじゃあない。村の周りにはってある結界のな、妖怪用の方に反応があった。今人を集めて、反応のあった周辺にも一応守りを固め、避難をうながしている」
多原は言いつつ、ちょっと烏帽子の下の頭を指でかいた。
「とはいえ、動向からしてまた妖獣の類だとはおもう。来て早々で悪いが、お前たちも村の周囲に散ってくれ。逃げ遅れた者がいるとかなわん。相手は妖獣程度だ。対処はまかす」
「わかった」
ほどなく。
竹林。
警戒から程なく、その原因が後生たちのところへも伝わってきた。妖獣の子供、それもまだ変化もろくにできないものが結界をふんだらしい。警らの者らの間ではすでにその姿をとらえており、いま追いたてしているが、妖獣は興奮しているようで、ちかづくのはあやうく、また、もうひとつ悪いことに村の子らがふたりばかり姿が見えなくなっているらしく、そちらの捜さくもいそぎ行われなければならなかった。
(子がおりてきているとなれば、親もおりてこよう)
厄介な、とおもいつつ、後生は今は手分けして散っている藤原と離れ、ひとり神経をとぎすましていた。まだ日の射す時間とはいえ、ただの人間がひとりでうろつくにはここの林は少々危険だ。ほーい、ほーい、と追いたての者らが出す音声をたよりに、後生ら散っている者らは、一定の距離を維持しつつ、ふたり組を基本に行動している。
(さっさと追いはらうのが一番だが、事はわるいほうへ、わるいほうへと進むものだしな)
ほどなく。ほーい、ほーい、と鳴る追いたての音声を耳にひっかけるようにしながら、後生はしげみを走っていた。月が光にかくれる日なかではそう獣の力も出るものではないが、もとより後生の身体をめぐる因子は、昼に夜に常人ならざらない力をもつ。そう、昼に夜に。こんなときに何を、と思いながら、月光のさえぎられたほの暗いくらがりで、額に汗うかべ、ぐったりとした幼――いや、今は妻だ、彼の。その娘のまぼろしを思いうかべながら、俺はどうしてこんなことを思っているのか、と、恥じらいを感じつつ、くん、と前方に嗅いだ臭いに、後生は勢いのまましげみをでた。
「わっ――」
突然の遭ぐうにおどろく多原の顔をみながら、頭には先ほどまで考えていたことの残滓がこびりつく。自分のなかの獣の因子が、夜ごとのおこないごとに、菊理の身体にすえられた、病弱な因子の彼女自身を、がりがりと削り取ってはいまいか? 甘い毒のように。
「……おい、どうした」
「いや。すまん、何でもない」
「そうか? ……まぁいい、で、」
「あぁ。まちがいない、こっちだ。……お前、どうしてこっちにきた?」
「いや、なにか臭いがしたんでな。やな感じの、焦げるような臭いというか」
ふたりそろって後生が先導するかたちで歩きながら、多原が言いつつ顔をしかめる。
「獣は炎をつかわん。お前が世話しているあの女人の仕業かな」
「あぁ……炎の術をつかっているのを見たことがある」
「そうか。しかし……」
そう多原が言いかけてだまるのが聞こえ、後生は目的の場所にたどりついたのをさとった。
「おー、よしよし。なくなー。もう怖いのは終わったからな」
言い、ぎゃぁぁぁん、ぎゃぁぁぁん、と泣いている子供の一方を抱きかかえてあやしてやっているのは間違いなく藤原のようだ。その足もとにもうひとりの子も無事な様子でいる。
(迷子はふたりともまとまっていたか……まったく事はわるいほうへはこぶな。おそらく敵意をまとった我々の体臭をよけて逃げたさきにあの子供らがいたか)
妖獣も興奮していたのだろう。いまは黒こげになって、子供らからすんでの距離で横たわっている。
「殺したのか……」
多原がやや、やれやれといった様子でつぶやくのが聞こえた。それから「おぉい!! こちらだ、こちらだ! 獣は死んだぞ! 子供らも無事だ!」と、大音声で周囲にしらせた。
とはいえ。
後生ら警ら衆の仕事はそれで完全に終わりとできるものではなく、長と副頭をまじえての協議ののち、(もちろんこれは仮のもので、正式なものは、この警らが終わってからになるが)引きつづき里に警戒の目をくばるべく、外と内とに人手がわりふられ、つまり単純に普段よりも増員しての警らになる。何を妖獣の子一匹迷いこんだくらいで、と、日ごろの状況ならばかるくいなすところだが、いまは博麗に助力を請うよう達しがあったように、ここひと月のあいだで四度、五度と短い周期に起きた似たような事案のために、ここで警戒をほどくわけにはいかなかった。助っ人として藤原がまねかれている事情には、そもそもそういったものがある。とはいえ、ああも簡単に村役から許しがでたのは後生も妙に思っていたが、なるほど、村役も老いたりとはいえひとかどの噂のある人物であるし、藤原の事情もおおかた知っていたのではないか。
などと。
くだんの藤原と組んで待機警らにつとめながら、押しだまっていると、そう自覚していたとおりのことを「ちょっと、なに黙ってんのよ?」などと数度聞かれたが、後生は「いや」などと言いはぐらかしていたので、空気は悪かった。
そうして日が暮れたころ、ようやく早番の後生らには帰ってよいとの指示がきた。
伝令を伝えにきた同僚に礼をいい、その背を見おくるか否かくらいで、
「藤原」
と、後生は言い、「うん?」と、藤原が、ずっとかたまっていた身体をぐぐ、とのばしていたのをかまわず、ほほに拳を叩きこみ、ぶっ飛ばした。
かぁ、かぁ、と、山へ帰る鴉どもが頭の上を鳴いてかすめていく。そんな音を意識のはしに引っかけながら、「っつ」とうめいた藤原のむなぐらを、力まかせにひっつかんでひきしぼった。
「な――」
「てめぇ、ふざけてんじゃねぇぞ。何であの妖獣を殺した!? お前の力なら脅して逃がすくらいのこと出来ただろうが!! どうしてあんな状況になってたかは言っておくが聞かないぞ。お前があの時何を考えたのか当ててやろうか!!」
後生はだまり込んだ藤原めがけて怒鳴りつけた。自分でもわからなくなるほどの憤がいが頭を支配していた。
「どういう状況だったか知らないが、あの子供らと妖獣を見たとき、お前にはふたつは考えがあったはずだ、なにを生かすか、それとも殺すか。殺すしかなかったとは言わせないぞ、お前はその上であえてあの妖獣を殺すことを選んだんだよ、迷いもなく! それもあっさりとな! 男と寝るかどうかきめるくらいの尺度でだ!」
「なに言って」
「ふざけんじゃねぇぞ。お前が獣どもの道理を知らなかったのかどうかはしらない、あの妖獣の子は村から遠ざけたところまで追っ払っちまうのが一番だったんだ。そうじゃねぇと、親が子を殺されたことを知って人里の者を襲う。妖獣は、そういう怨みは解するものだからな。だがそんなことじゃないんだよ、俺が怒ってんのは。お前をぶん殴ってやったのは! お前があっさりと妖獣を殺すことを選び「やってのけた」からだ、俺が怒ってんのは!」
ぎぎぎ、と、自然腕に力がこもるのを感じながら、後生は月とくらやみと、こんな自分らにかまわず鳴く虫の音が、逢魔が刻の気配の中を波のように回遊するのを聞いた。こんな自分のおさえきれない怒りなんぞ、この暗闇が孕む凶気にくらぶれば、蛙のふんのようなものだ。
「お前、どこかおかしいんじゃないのか? 自分が死ににくいようだからって手前の自覚しないところで、他のいのちを軽んじてないか? そしてそれをこそとも気にしてないんじゃないか? いいか、はっきり言ってやる。そういうやつはな、迷惑なんだよ。おなじ卓をかこんで飯を食いたくないんだよ。お前はここに来るまで長いこと流浪してきたなんぞと言ったが、あたりまえだ。お前のそういうところが他の連中」
言う途中、後生は顔の正面に衝撃をうけ、それが藤原の拳によるものだとわかった。むりな体勢から無理やり叩きつけられる形で当てられた拳は、明らかに筋か何かをやったようだったが、そんなことは構わずに、後生ははねおきて、藤原の顔に拳を叩きこみ、さらに襟をつかんで、三発、四発、となかば意地になったように拳撃をくり返した。
勿論藤原も黙ってはおらなかった。こちらも意地になったかのように、後生の一撃に退かず怯まず、一歩も譲らずに四発、五発と殴りかえしてくる。林のなかの闇がだんだんと濃くなっていくなか、互いの竹の葉を蹴りしだく音と、するどく動作する音のみをひびかせて、時を日暮らしていく。
やがて。
どちらともなく息切れした肩をあえがせ、後生は動きをとめた。なぜこんなに殴りあったのか、それは殴りあってから気がついた。どうやら自分はこの女がとことん気に食わなかったらしい。
「……、よく知りもせず、ずけずけと、よくも言ってくれるもんだな、半人」
やがて憎々しげな唾を吐く音と、藤原の声が聞こえた。
「そういうお前はどうなのよ、気づいてないとでも思ってんのか? 全く。見ちゃいられないよ、あんたもあの娘も。いや、見ていられないのはあの子だけだ。あの娘は心からお前を思っているからね。ところがそれに応えるお前ときたらどうだ。このひねくれ者の半端もんが。お前に人を非難する資格なんぞないね。心の底でこの世を拗ねてだだこねてる餓鬼なんかに私が非難されてたまるもんかね」
そういう藤原を、後生はまた思い切りぶん殴った。それに、藤原もまた思い切りぶん殴り返してきた。
で。
夜になった。後生はぼこぼこにはれ上がっているであろう顔をかかえ、さてどう言いわけするかと考えた。とりあえず今日は菊理の相手はしてやれそうもない。それともこんな有様でも菊理は自分を受けいれるだろうか。
(おびえた餓鬼め)
自分で自分に言うのは、先ほど藤原に言われたことだ。別れぎわそう言って、というより、きっかけなぞなしにお互い相手を見限るように別れた。
(貴様に言われたくない)
お互い様だ、と、さっきついてきたばかりの悪態をつきながら血の臭いのする空を見る。家路。一人。そう、分かっていたことだ。おびえた餓鬼め。
(怯えた餓鬼め。お前はいつもそうやってきたんだろう? 不安ばかりで人をなぐって当たり散らしてそうやって生きてきたろう? そうせぬようにとしてきたろう? それは怯えているということだ)
だんだんと空がにじむ。痛みで。
(今も怯えている)
「で、なんでお前がここにいる」
家に帰るとお帰りなさいませ、と迎える菊理のやや眉尻のさがった笑顔になにか予感を覚えていると、案の定、奥の座敷で藤原が飯を食っていた。先ほどのぼこぼこに――人のことは言えないが――はれあがった顔に、いつもの作務衣を着て。
「いた。やっぱしみるわね」
「ずいぶん派手にやったのね」
「大丈夫ですか? べつのものを用意しますか?」
「そんな気を遣わなくていいわよ」
「でも、兄様――後生様にやられたのでしょう?」
「おい……」
「あ、後生様。お食事の用意できていますよ。どうぞ」
いつものごとく、(というのか何なのか)風景のように居すわった砂子の横に菊理が座り、その横に設けてある自分の席に菊理がうながした。
「ああ……」
後生が気まずげに言いつつ座ると、ふと、その目に、見慣れぬ赤い包みが目に入った。結構な大きさだ。まるで、人ひとりここに居候してくるかのような。
「おい、それは何だ」
「あぁ。今日から私ここに部屋借りるから」
「あぁ?」
「大丈夫よ。あんたらの寝るときまでここにお邪魔してるほど無粋じゃないから。あっちの広いお屋敷のほうにひと部屋貸してもらったわ」
「お前、人の家――えぇと」
「あんたんちじゃないでしょ、向こうは」
「婿養子の身は大変ね~」
「やかましいわ、っつ」
くそ、と心中で悪態をつきながら、「痛みますか?」と、布をひとつさしだしてくる菊理の気づかいに、なにか不合理なものを感じながら甘える。
ともかくそうして夜は更けた。
翌朝からのまた騒がしくなる食卓の気配をはらんで。
(続く)