―― 芳香。
「あう?」
―― そろそろ行かないと。もう食事は終わりにするんだ。
「どうして?」
―― 嵐が来るんだ。昨日も教えただろう。この大きな街を、根こそぎ吹き飛ばす嵐だ。
「あらし……。ものすごい雨と、ものすごい風」
―― それに雷も。だからそろそろ行かないと。
「我々はそんなものに負けたりしないぞ!」
―― 芳香は頑丈だからな。でも巫女は違うだろう。彼女にもしものことがあったら大変だ。
「じゃあ、我々は巫女を探すのか」
―― そうだ。だからもう行かないと。ほら、その手に持ってる鳩は放してやるんだ。さっきからもう何羽も食べただろう。
「うん。でも」
―― まだお腹が空いてるのか?
「お腹がいっぱいなら、しあわせなんだ。私はだいじょうぶだけど」
―― なら、行こう。時間はあまりない。
「うん。でも」
―― 一体どうしたんだ。聞き分けのない。
「良香は、しあわせじゃないみたいだから」
―― …………。
「だから、いっぱい食べて、良香もお腹いっぱいにするんだ」
―― 私のことは、構わないでいいんだよ。芳香。
「どうして?」
―― お腹がいっぱいになっただけじゃ、私は幸せにはならないからさ。
「じゃあ、どうすればいいの?」
―― 私が幸せを感じるのは、霍青娥に復讐を果たした、その時だけだ。
◆ ◇ ◆
完全なる闇に包まれたその巨大な回廊は、まるで掘り出されることを待つ化石のように静まり返っていた。空気も水もまったく巡ることのない空間。古代の高貴な者だけが造ることを許された、盛大な墓に特有の気配だ。だがこの場所の持つ力は他の古墳などとは一線を画している。
この聖徳王の大祀廟は、一千年以上の間、人間は誰ひとり立ち入らなかった場所だ。大抵の古墳は、それを守る管理者や財宝目当ての盗賊が立ち入ることで、少しずつ死が漏れていってしまう。だがこの霊廟は入り口が存在しないどころか、この世のどこでもない仙界という世界に位置する。普通の人間には侵入はおろか発見すらできないだろう。
ことり、と石と石がぶつかる音がした。そして回廊に存在しないはずの光がぼんやりと射す。床も壁も柱も天井も全てが石造りの、広大な道が照らし出される。壁には大きく穴があいていた。両腕を広げたくらいの直径のその穴から、霍青娥はするりとその身を抜き出し、音も立てずに着地する。彼女が壁からくり貫かれた石の円盤を穴にあてがうと、それは何事もなかったかのように塞がって壁へと戻った。
辺りを青く照らす淡い光は、青娥自身から発せられていた。宙に浮かぶ羽衣に乗った彼女は、慈母のごとく微笑みながら、迷うことなく回廊を進んでいく。彼女の形成する光の球が、漆黒の空間をゆっくりと泳ぐ。
壁抜けの邪仙を名乗る青娥は、この霊廟に立ち入ることができる唯一の存在だった。入り口がなかろうと、彼女の持つ鑿はどこにでも穴を開けることができる。そもそも、この仙界は彼女が作り出した空間なのであった。
回廊は、時折曲がりながらもだんだんと下へ潜っていく。やがてその突き当たりに、巨大な石の扉が現れた。荘厳な文様で飾られたそれには、青娥の知り得る限りもっとも厳重な封印が施されている。眠る聖人が復活するその時までは、決して破られることのない術だ。
もちろん彼女の鑿を用いれば、この扉の向こうへ入り込むことは容易い。しかしそれはややもすれば尸解術の失敗に繋がると青娥は考えていた。だから扉の前のこの場所が、邪仙の到達できる最奥部であった。
ふわり、と羽衣から舞い降りて、青娥は目を閉じ耳を澄ませた。
幾重もの封の向こうから、微かな唸りが聞こえてくる。それを認めて、彼女は満足げに瞼を薄く開いた。
全てを封じ込めるはずの封をも越えて響くのは、怨霊の叫び声である。それは荒々しい獣の吠える声にも、悲痛な子供の泣きじゃくる声にも聞こえた。
「あぁ、蘇我様。なんと心強きお方なのでしょう。もし尸解なさっていれば、ひとかどの仙人におなりあそばしたでしょうに」
胸に手を当てた芝居がかった仕草とともに青娥は言った。
人間が死して怨霊となる例はままあるが、その原因はほとんどが怨恨によるものである。強い恨みを抱いて死んだ者が、その復讐を果たすために現世へ留まるのだ。
しかし蘇我屠自古はそうではない。無念の内に死んだといえば確かに怨嗟のようだが、彼女の望みは復讐ではない。屠自古が怨霊となったのは、いずれ復活するふたりの尸解仙、豊聡耳神子と物部布都に再び会いたいというその一心のためだけだ。そしてその想いは千年以上の残酷な孤独の中で膨らみ続け、ついには霊廟の封印すら越えて溢れ出したのである。
これは青娥にとっては予想外の事態であった。しかし彼女は悲観しない。
「えぇ、えぇ。よぉく聴こえますわ。あなた様の望み」
舞うように青娥はくるりと回る。彼女の喜悦を現すかのように、その周囲に淡い光の粒が無数に立ち昇った。邪仙にしてみれば、屠自古の覚醒は障害どころか、むしろ好機であった。
青娥にはよく分かっている。屠自古の力が増したのは感情の鬱積によるものだけではない。人間たちの間で広がる、世界終焉の流説。それが怨霊の漠然とした願望に指向性を与えたのだ。
「豊聡耳様は、末法の世、世界の終わりに復活される。民草を救うために。そして蘇我様、あなた様の望みはその豊聡耳様の復活」
実に簡単な方程式が、屠自古へ途方もない解答を与える。そして今や、その途方もない手段を実現できるほどに、怨霊の力は増していた。人々の負の念を吸収し、彼女は巨大な存在へと際限なく昇華しているのだ。
そして屠自古の望みが叶うときは、青娥の悲願が達成されるときでもある。
「私の至高作、完全なる尸解仙が、真の救世主となるのですわ!」
石扉の向こうから漏れる唸り声と、青娥の朗らかな笑い声が重なる。それは胸の悪くなりそうな交響曲だった。
◆ ◇ ◆
白蓮寺の窓硝子を、ちぎれ雲がまた足早に横切っていく。星の写経の筆はいつの間にか止まっていた。彼女が見上げるたびに、窓から見える空はその姿を変えている。何故だか雲から目を逸らすことができなくて、しばらく星はぽかんと空を眺めていたが、ぽたりと墨の垂れた音で我に返った。生まれた染みは字をひとつ塗り潰してしまっていて、もうその紙は諦めざるを得なかった。
半紙をくしゃくしゃに丸める。書にまったく興が乗らない。漠然とした不安が星の集中を妨げていた。くずかごに向けて紙を放ったが、まるで見当違いの方へと飛んでいく。思わずため息が漏れた。
「桜子さん、大丈夫でしょうか」
「そんなに心配なら、今からでも走って追いかけたらどうだい」
那津が算盤をはじきながら言う。大きな木製の椅子に腰掛けた彼女は脚をぶらぶらさせている。その揺れる脚に釣られて、行儀良く並んだ何匹かの鼠が首を振っていた。
「心配はしてませんよ。ただ ―― 」
筆を置いた星は珍しく歯切れが悪い。
「 ―― 嫌な予感がするんです」
「いいことが起こりそうな気がしない、というなら私も同意するよ。ましてや、あなたの予感は良く当たる」
理詰めを好むダウザーも、寅の直感には信頼を置いていた。長年の経験と実績である。
星は立ち上がって水差しから冷水を汲み、あおった。窓の向こうには、また新しい灰色の低い雲が顔を覗かせている。不安定な春の空にはよくある光景。しかしそれが、どうしても胸の内に焦燥を掻き立ててやまない。
「けどまさか、あなたまで『ハレーの尻尾が』とか言わないだろうね」
那津の台詞に首を竦めてみせる。彗星による被害が直接出るとは星にも思えなかったが、しかしこの幻想帝都においては、彗星への恐れ自体が何らかの存在を目覚めさせかねない。魑魅魍魎の跋扈する世界において、人間の感情は容易く新たな脅威を生むからだ。
「新しい妖怪が生まれたりとか、そういったことは十分にあり得ますよ」
「やれやれ。退屈させてくれなくて、実にいい街だよ、ここは」
算盤をはじく音が少しだけ加速する。
すると突然、空気が震えた。巨大な太鼓を打ち鳴らすような音にネズミたちは跳び上がり、物陰へと一目散に駆けていく。
「雷……?」
星は窓際に寄り、雷鳴が轟いてきた方角を見る。地平の果てにどす黒い雲が湧き上がっていた。まるでタールのような雷雲が、上へ上へと育っている。
星の目つきが険しくなった。あの雲は、風に流れる他の雲とはまったく違った動きをしていた。ただの春雷ではない。
「あれは……新橋の方向。まずいですね、桜子さんが向かった方ですよ」
「ほら、言わんこっちゃない」
顔を上げた那津は、雷に驚いたのか少し涙目だった。
「私は思うんだ。どだいあなたがそういうことを口にするから」
「わ、私のせいじゃないですよ。しかし、雷ですか。一層嫌な感じですね」
再びの雷鳴。黒い雲はびかびかと激しく発光していた。絶え間なく稲妻を落としているのだ。
天候を操ることのできる妖怪は多いが、雷となると話は違う。雷神のような強大な存在か、あるいは強力な怨霊かだ。そしてそのどちらも、一筋縄ではいかない存在だった。前者は単純に力の桁が違うし、後者は恨みの根本を断つまで収まることはない。
異変を治めるにしても、動きの指針を定めなければならなかった。単純な妖怪退治とは違い、徒に槍を振るうだけでは解決には至るまい。
黒雲の成長は留まるところを知らなかった。まるで救いの手を伸ばす様にも、星には見えてしまった。
ひょっとして必ず悪役が登場するのかな? 悪役 of 悪役の娘娘がドブかわいい。