街の喧噪は、いろいろなものを埋没させていく。行き交う人々の数が多ければ多いほど街は賑やかになるけれど、それに反比例して見落としてしまうものも増える。花屋の店先に並ぶ花、瓦斯灯にかかった鳥のフン、デパートの壁に掛けられた巨大な広告。大抵の人々は、一瞬だけしかそれらを気に掛けない。次の一歩を踏み出したときにはもう記憶から追い出しているものである。誰もが自分の選んだもの、自分の目指したものだけを見据えて前へ進む。何せ都市というものは情報が多すぎて、たった今すれ違った人間の顔すら覚えていられない。必要ないものは意識から切り落とさなければ、真っ直ぐに歩くことさえも難しい。
「さて」
私は目的地を眼前にして、しかしその扉を開けずに少々思案していた。この店は東京を歩く人々の意識からは切り捨てられてしまう方だろう。両隣を派手なブティックに挟まれた地味な珈琲店にわざわざ目を留める人など、私の他にはひとりもいない。
喫茶店「COIN」を訪れるのは確かこれで3度目である。珈琲の味は認めるけれども、ここにあまりいい思い出はない。この店で遭遇した出来事は、どれもこれも2度目は遠慮願いたいものばかりだ。私がここにいるのは自発的理由ではなく、ある人から呼び出しを受けたためである。その呼び出しというのもかなり妖しい類のものだったので、店自体への警戒心が2倍にも3倍にも膨れ上がっているわけだ。私をここで待ち構えている者は、おそらく人間ではない。そもそも店主からして人外であるこの店で、私は人間に会ったことがなかった。
やはり星さんか那津に同行を頼むべきだったかもしれない、と今更後悔する。踵(きびす)を返すという選択肢までちらりと頭を過ぎる。
しかし、しかしだ。相手は私の素性を理解している人物だ。昨日受け取った手紙には、「博麗の巫女たる貴女にぜひとも取材を申し入れたい」と書いてあった。私でさえよく分かっていない博麗という概念を、こいつは知っているのかもしれないのだ。私が喉から手がでるほど欲している情報を手に入れられる可能性。それは心の中の天秤を揺らすに十分な重みを持っている。
路面電車の鈴が背後でちりんと鳴った。私は覚悟を決めた。ドアノブをしっかりと握り、扉を引く。
するとどこか場違いな明るい声が、私を出迎えた。
「いらっしゃいませー! お客様1名、様、で……」
接客スマイルを貼り付けたウェイトレスが、私を見て凍り付く。見覚えがある顔だった。いや、見覚えていたどころではない。先日のヴワルの一件じゃ相当すったもんだした相手である。もっともそのときは、こんなフリルばかりの派手な給仕服なんて着ていなかったけれど。
「…………何してんの、あんた?」
私の追求に、メリーベル・ハーンは胸に抱えていたお盆を取り落とした。
◆ ◇ ◆
「お冷やになります」
「おぉメリーベル君、お仕事ご苦労様」
「……何しに来たのよ」
グラスが勢い良く机に置かれたせいで、その中身が盛大に飛び散る。もちろんそれを詫びることなく、メリーベルは私に邪険な目を向けた。薄暗い店内でも分かるほど、その顔は羞恥で真っ赤に染まっている。
「いやしかし、いいご趣味じゃない。まるでお伽話にでも出てきそうな可愛いお洋服でございますこと」
「ちょ、やめてって、引っ張らないで」
退魔術師としての彼女の格好は、もはや面影すら残っていない。無骨な印象すら感じさせた戦闘服から打って変わって、フリルとリボンで飾られたメリーベルはまるでお姫様だ。中でも一際目立っているのがスカートである。なんと裾が膝の上にあるのだ。その上それがふわりと広がっているものだから、彼女がちょっと屈むだけでお尻まで丸見えになってしまいそうだ。
「言っておくけど、私の趣味じゃないからね」
見ている方が気になるくらいだから、着ている方も当然意識してしまうのだろう。スカートを何度も脚へ撫で付けながら、メリーベルは弁解した。
妖怪を見つけては退治することを繰り返していた彼女は、ついには幽香さんにまで喧嘩を売ったらしい。そして見事に返り討ちとなった。
事の顛末を話しているうちに、メリーベルはその場でしゃがみ込んでがたがたと震えだしてしまった。相当恐ろしい思い出であるらしい。
「悪夢よ……。仮にも耐妖力鋼の籠手を、片手で……」
「へぇ、あの人、そんなに強かったんだ」
「あぁ、やめて、やめてください……お願いだから、右腕の方は……」
敗北の結果、罰としてウェイトレスにさせられてしまったというわけだ。全くもって自業自得、情状酌量の余地はない。
「誰彼構わず突っかかるからこうなったのよ。私はあんたの教訓を活かして、幽香さんには刃向かわないことにするわ」
「だめよ、あなたも道連れにしてやるわ。ほら、ここに同じデザインの給仕服がもう一着あります」
「ちょ、それどこに隠し持ってたのよ」
「さっさとその学生服を脱ぎなさい。着せたら表に放り出して客引きをさせてやるぅぅぅ」
「目が据わっている……! や、やめなさいって、こら襟を掴むな!」
生気を失ったメリーベルと取っ組み合いに突入する。私も断固として抵抗するけれど、しかし執念に取り憑かれたメリーベルは手強く、呆気なく壁際まで追い詰められてしまった。
「ふふふ、もう逃がさない……」
メリーベルの細くて白い腕がするりと動くと、私の帯があっと言う間に解けた。慌てて袴を押さえ、最悪の事態は回避する。しかしそのせいで、彼女への抵抗を片腕だけでしなければならなくなった。圧倒的有利を得たメリーベルが、私をあの手この手で脱がしにかかる。
「 ―― ふむふむ、これはなかなか通好みな光景。『白昼堂々! 少女が少女を襲う店』、とまぁ、見出しはこんな感じでいいでしょうかね」
突然聞こえた声に、私たちはぎょっとして振り向いた。私たちの他に誰もいなかったはずの店内で、しかしこの貞操を掛けた闘争を眺めている人物がいた。
メリーベルの背後にいつの間にか立っていた彼女は、カッターシャツにベレー帽という出で立ちだった。その風体はいかにも「働く女」といった印象を受ける。しかし見た目だけで言えば、私とひとつかふたつくらいしか年は変わらない。帳面に忙しなく何かを書き付けている彼女こそ、おそらくは。
「あなたが、文々。新聞の、私を呼んだ人?」
「えぇ、宇佐見桜子さん。お会いできて光栄です」
手早く帯を締め直した私は、まだ固まっているメリーベルを押しのけた。
「取材を受けていただいて、感謝します。文々。新聞主筆、射命丸文と申します。どうぞよしなに」
猫のような笑みを顔面に貼り付けて、新聞記者は右手を差し出した。それが握手を求める行為だと気が付くのに、数秒の間を要した。
私の元に取材依頼が届いたのは昨日のことである。白蓮寺のポストに入っていたその手紙には切手も消印もなく、おそらくは直接投函されたものと思われた。そしてその手紙をあらためた那津は、墨から妖気が臭うと言った。
「珈琲をふたつ。あぁ、ご心配なく。ここは私が持ちます。ささやかですが取材料ですよ」
つまりはこの新聞記者も、人間ではない。それが那津の意見だった。
傍らに立つメリーベルへ目線だけ投げる。彼女も疑わしげな目つきで新聞記者を見ていたが、ウェイトレスの格好では戦いようがないと判断したのだろう。素直に注文を受けて厨房へと戻っていった。
私が元の椅子へ戻ると、射命丸文は対面の席へと腰を下ろす。
「ここの店主とは顔見知りでしてね。たまにこういう取材に使わせてもらってるんです。ウェイトレスを雇ったとは知りませんでしたが……。でもまぁ、私としては結構助かってるんですよ。まず邪魔が入りませんからね。東京にはこういう場所が少なくって」
「こういう、妖怪のための場所、ですか?」
「えぇ。それでもここ何週間かは大分マシになりましたけど……。あぁ、御察しの通り、私も妖怪ですよ。鴉天狗と言えばご理解いただけますか」
私としては鎌をかけたつもりだったが、文は狼狽える素振りすら見せず、呆気なく素性を明かしてみせた。真剣な腹の探り合いを覚悟していたのに、すっかり拍子抜けだ。するとそれが顔に出ていたらしく、文はにやにやと笑いながら胸を張った。
「私を退治しますか、博麗の巫女さん?」
「……あなたが東京で暴れるなら」
「うーん実に博麗らしいお答え。人妖の調停者はやはりこうでなくては」
記者は嬉しそうにメモを取り続ける。私は少しだけ今の言葉を反芻していた。文の口振りからするに、博麗の巫女は私の他にもいるようだ。
「東京で暴れる妖怪を退治することが、ご自身の役目。あなたはそうお考えなのですね。だから東京中で妖怪退治をされている」
「役目、というか」
「人間を守るため戦うあなたに、東京中の人々が注目しています。だから私はこうしてあなたに取材している。博麗の巫女の記事には、今やどんなニュースよりも価値があるのです。それの独占ともなれば、もう」
完全に自分の弁に酔っている文だが、そもそも最初に博麗の巫女を新聞記事にしたのは文々。新聞である。私がどれだけ注目されているのかは知らないけれど、その原因の一端を担っているのは間違いなく彼女なのだ。
「一体何なんですか、博麗の巫女って」
私が切り出すと、新聞記者のペンが止まった。
あからさまに怪しい取材依頼に、わざわざやってきたのはこのことを聞きたかったからだ。確かに私は何度も妖怪退治をした。したけれど、それでも私は自分の力について何も知らない。博麗の巫女の正体も、それに私が選ばれた理由も、何ひとつ分からない。
「自分で何も分かってないのに、そんな、取材だなんて」
受けたところで、答えられることなんてない。
新聞記者は目を丸くして私を見ていた。背後の壁に飾られたいくつもの額の中に咲く、色とりどりの花が一斉に視線を私に集めた。ずっと聞きたかったことなのに、いざ聞いてしまうと何だかやたらと気恥ずかしい。
万年筆のキャップを閉め、文はそれを机に置いた。そして組んだ手の上に顎を乗せて、さも愉快そうに目を細める。
「ハクレイとはすなわち白と零。あらゆる事象の中心に立つ者よ。ゆえにあなたが望む限り、あなたが望むとおりに物語は続くわ」
どこからか風が吹き込んで、額縁をかたかたと揺らす。文の瞳から垣間見えた闇色の深淵に、私は気圧されていた。覗いてしまった向こう側の、行き着く底がまるで見えない。背筋が粟立って、悪寒が私の肩をひとつ大きく震わせた。
ぱらぱらぱら。帳面が勢い良くめくれていく。
それを押さえた文は、先程まで自分がメモを取っていたページまで戻る。そしてペンを拾い上げた。
「私が伺いたいのは、そのあなたの望みですよ」
新聞記者が万年筆のキャップを外したときには、先程までの風が嘘のように、喫茶店の空気は生暖かさを取り戻していた。
珈琲を乗せた盆を手にし厨房から出てきたメリーベルが、不穏な空気を感じたのか少し首を傾げる。そのソーサーが机に置かれてかちゃりと音を立てるまで、私の喉は声を失っていた。
「望み、って言われても」
望む限り、望むとおりに続く物語。その中心に立つのが私。そう言われてもいまいちピンと来ない。私は毎日、その日を過ごすだけで手一杯だ。何かを求めて妖怪退治をしているわけでもなく、目指すところがあるわけでもない。
喉と唇がからからに乾いていた。湯気の立つ珈琲を時間を掛けて啜る。
「私には、そんなものは何も。大体、こんなの八雲紫とかいうのが勝手に」
「 ―― 何ですって?」
私の弁解に声を上げたのは、文ではなかった。厨房へ戻りかけていたメリーベルが、つかつかとこちらへ戻ってきて、私の両肩を掴んだ。
「あなた、今何て言った?」
「へ? だから私にはさしあたって望みなんて何もない、って」
「違うわ、その後よ!」
その眼には、紫色の怒りが燃え上がっていた。一体メリーベルに何が起こったのか分からず、私の思考は混乱する。
「えーと……八雲紫が私を勝手に」
「あなた、八雲紫を知ってるのね!?」
凄い剣幕に、もはや私は頷くことしかできない。
炎を湛えた退魔術師の瞳から、熱で溶けた感情が溢れ出ていた。瞼の端がランプの灯りを受けてきらりと輝いた。
「やっと、見つけた……。東京に来たのは間違いじゃなかった」
「ちょっと、一体何だっていうのよ」
何とか肩からメリーベルの手を引き剥がし、私は問う。
「急に興奮して。あの変な女が何だってのよ」
「私はずっと八雲紫を探していたのよ。だって、あいつは ―― 」
ほとんど消え入りそうな声で、メリーベルは応えた。
「 ―― あいつは、私のパパを、殺したのよ」
自分が息を呑む音が、狭い店内に反響したような気がした。何をメリーベルに言うべきか、分からなかった。私はただ、彼女の頬を伝っていく滴だけに目を奪われていた。
だから、気が付けなかった。新聞記者が獲物を見つけた肉食獣の表情をしていたことに。
>パパ
あれだ。仇だと思っていたのは実は・・・後は分かるな?
ラテルナマギカ(Laterna Magica) ラテン語で幻灯機、ドイツ語で魔法のランプ。ドイツ語パねえ!
続きが、すごく楽しみです。
これからも、頑張ってください。