「重っ! あんたちょっとは自分で起き上がろうとしなさいよ」
「無理よ。この鎧、霊力を注がないと動かないもの。どれだけ微弱でも霊力さえあれば、それを増幅して起動できるんだけど、さっきの吸血鬼への一撃でもうすっからかんなのよね」
そう嘯くメリーベルは、書架へもたれかかった格好で座り込んだままだ。めいっぱいの力を籠めて引き起こそうとしているのだが、うんともすんとも動かない。そんなけったいな代物を身に着けているのなら、帰るための力は温存しておいてほしかった。
「仕方ないじゃない、あのときは咄嗟に撃ったんだから。……あぁもう、そんなに言うなら、あなたから霊力を分けてもらうことにするわ」
「分けるって、どうすればいいのよ?」
私の質問に、メリーベルは言葉よりも早く行動で答えた。両腕で私の肩を掴むと、あっという間に鼻が触れ合いそうな距離まで引き寄せられてしまう。
「あらあなた、目は閉じないほう?」
「へ、は、え?」
「まぁ、どっちでもいいんだけど」
何が何だか分からないうちに、私とメリーベルの距離が零になった。唇の上を、絹のように滑らかな感触が這う。目の前にある閉じた瞼から、つんと上向きに金色の睫が立っていて、私の作った影の中で何かの光を反射していた。
現状を理解したその瞬間、私の頭の中で正確に回っていたはずの時計が、止まった。何秒間、あるいは何分間か。どのくらいの間そうしていたのか、全然分からなくなってしまった。状況にようやく感情が追いつき頭が沸き立ったころに、メリーベルはやっと唇を離した。
「……ふう。これで動く分には問題ないかな」
「!?!?!? ……ッ!?!?!?!?」
「何よ、いいじゃない。あなたってば霊力有り余ってるみたいだし」
「そ、そ、そ、そういうことじゃなくって!!」
「キスしたことを言ってるの? 霊力の受け渡しはマウス・トゥ・マウスが一番手っ取り早いの。常識よ」
そんな常識があってたまるか。いや、仮に常識なんだとしても、前もっての一言が欲しかった。骨を抜かれたような感覚に、私はその場でへたり込んでしまう。
反対に、メリーベルは立ち上がった。その手甲には、失われていた霊力光が僅かながら戻ってきている。
「さて、私も本を捜してみようかな、折角だし。霊力工学関連の研究論文って、キワモノ扱いされて破棄されたのが多いのよね。ん、どうしたのよ桜子」
「……よくもまぁ、いけしゃあしゃあと」
頬が燃えるように熱い。唇から着火された炎が頭の中で燃え盛っている。それはあちらこちらに飛び火していて、心臓が機関車のように暴れるわ膝の震えが止まらないわで、もう身体中が大変なことになっている。ヴワルに吹く涼風も、この熱を奪ってはくれない。
私はこんなに恐慌状態にあるというのに、メリーベルはどうして平気なのか。場数の違いか、それとも文化の違いか。いずれにしても不公平だ。どうして私だけがこんな思いをしなけりゃいけないんだ。何だかだんだん腹が立ってくる。夢見る乙女の無垢な唇を強引に奪っておいて、この女には罪の意識が欠片もない。まさか今日初めて会った相手とこんなことになるなんて誰が想像し得るだろうか。しかも同性とだ。不条理とはこのことだ。私の貞操を粉々に砕いておいて、畜生、タダで済むと思うな。
「あれ、桜子さん、どうしました?」
「わひゃっ!!」
星さんの声に、一際大きく胸が跳ねる。いつの間にかメリーベルと入れ替わって、彼女はそこに立っていた。
「そろそろ戻りますよ。那津の捜し物も終わったみたいですし」
「は、はい。……あの、ちょっと聞きたいんですけど、霊力って口移しするんですか」
「妖怪はあまりやりませんが、霊力に乏しい人間はよくやるみたいですね。あれ、もしかして桜子さん、消耗しちゃってます? それなら私のをちょっと分けてあげましょう」
「いやいやいや、けけけ結構です大丈夫ですから!」
星さんに霊力を分けてもらう自分を頭に浮かべてしまった。頭の中の炉がその温度をさらに上げる。
まだ感触の残っている唇を指でなぞった。今夜はまともに眠れないかもしれない。指先にまでも燃え広がった炎を自覚して、私は憂鬱な気分で立ち上がった。
化け物たちがあれだけ暴れた後だというのに、ヴワルの街並みはもうすっかり元通りになっている。パチュリーの発作も落ち着いたようだった。従えた小悪魔をなんと四つん這いにさせ、その上にちょこんと座っていた。
いくら何でも、その扱いは酷いんじゃなかろうか。そう思って声をかけようとしたのだが。
「あひぃん、幼い魔女っ子に道具のごとく扱われるなんて……これはこれで、イイ!」
放っておくことにした。
「さて、そろそろヴワルと東京の接続を切って、ブカレストに繋ぐわ。レミリアを送らなきゃいけないの」
「ならその前に、我々はお暇するとしようか」
那津がひらひらと手を振った。
「けど君の捜し物、本当に手を貸さなくていいのかい?」
「えぇ、大丈夫。自分で捜すから、気持ちだけ受け取っておくわ」
「いやしかし」
「ヴワルの管理者権限は私が持っているんだし、時間だっていくらでもある。問題なし」
パチュリーはすまし顔だ。那津もそれ以上は何も言わなかった。その鼠の傍らで、星さんはいつも通り微笑んでいる。メリーベルは私たちから少し離れたところで、こちらに背を向けて立っていた。
「あらためて、礼を言わせてもらおう。極東の友人よ」
そして魔女の脇にいた吸血鬼が、一歩前へと進み出た。
「この恩は決して忘れない。スカーレット家の誇りにかけて」
「いえいえ。それより、妹さんを待たせていると聞きました。早く帰って安心させてあげなければ」
「手荒な出迎えを受けそうで今から心配よ。五体満足でいられればいいけど」
レミリアは言葉とは裏腹に笑った。そのどこか遠い目には、もうすでに妹の姿が映っているかのようだった。
パチュリーが本を閉じる。すると地面に幾何学模様が描かれて、紫色の光の粒が吹き上がった。
「さて、転移の魔法陣も完成よ。管理者の名において、あなたたちを元の場所へ送り返す。縁があればまた会いましょう」
「えぇ、きっとまた」
円の内側へ、1歩踏み出す。陣の中から見上げたヴワルの書架は、魔法光の粒をまとって幻想的に輝いていた。私に絵心があったなら、印象派風の油絵の1枚でも描けそうな光景だった。
パチュリーに小さく手を振る。するとおすまし魔女が微笑んだように見えたので、私は驚いた。彼女と過ごした時間はほんの数日間だったけれど、その笑顔を初めて見た気がした。
魔法陣が一際強く輝く。ふわり、と身体が浮かび上がるような錯覚に陥った。紫色の薄膜の向こうの景色がかき消えていく。
現実の東京に戻るころには、何時何分になっているだろう。今隣に立っているメリーベルが私の時計を狂わせたせいで、その答えが分からない。生まれてからずっと持っていた感覚を喪失したことが、無性に焦燥と不安感をかき立てている。自分がこんなに臆病だったなんて知らなかった。
異世界が現世へと書き換えられていく。全身を無数の細かい羽毛で撫でられているような感触を、私はずっと感じていた。それが転移魔法のせいなのか、はたまた自分の心のせいなのか、私にはついぞ分からなかった。
◆ ◇ ◆
魔法陣の光の、最後の一片が空中へと溶けて消えた。パチュリーは目を閉じ、薄く長く息を吐いて、そして吸う。何だかばつが悪かった。4人が去ると、静謐なヴワルが寂しい世界に思えたのだ。彼女はそんな感傷とは無縁のはずだった。今までずっと、独りきりで生き抜いてきたのだから。
「ま、騒がしいのも悪くはなかったわ。たまにはね」
少しだけ上ずった声で言葉にしてみると、自分らしくない思考も意外と素直に受け止められた。胸の中で跳び回るひとつだけの小さな球が、それでも猛烈な勢いで拍を刻んでいる。今が幸せで、これからが楽しみで、もう仕方がないのだ。何せパチュリーは今や、ありとあらゆる本へ手を伸ばすことのできる唯一無二の存在となったのだから。
まずはどれから手を付けようか。そう贅沢に悩んでいたパチュリーの思考を、鈍い破砕音が遮った。今や四つ脚の椅子と化した小悪魔の顔を削ぎ落とさんばかりの勢いで、レミリアが紅槍を地面へ突き刺したのだ。
「さぁて、お前をどうしてくれようかねぇ……。とりあえず楽に死ねると思わない方がいい」
「ひぃぃぃぃぃぃぃ!! 調子に乗ってすいませんでしたァ!! お慈悲を!!」
「悪魔が悪魔に命乞いだと? もはや呆れて物も言えん」
嗜虐的な瞳を獰猛に光らせながら、レミリアは槍を小悪魔へと傾けていく。紅槍はもちろん通常の槍とは訳が違う。吸血鬼の膨大な妖力をただ凝縮し固めただけの、極めて単純かつ凶悪な代物なのだ。ゆえに柄といえども、それは仇なすものへと近づけるだけでその皮膚を焼く。このまま放っておけば、小悪魔の顔面がいい具合にグリルされてしまうだろう。
「はいはい、殺しちゃ駄目よ。その辺でストップ」
パチュリーが制止すると、レミリアは目を丸くした。
「なぜ止める。こいつは私を」
「それは分かってる。けどこいつはすでに私に隷属した、私の所有物よ。どうするか決める権利は私にある」
「そうそう、そうなんです! 悪魔の契約上そういうことになってるんです!」
縋り付けるものを見つけた小悪魔は必死であった。その希望を真っ黒に塗り潰すべく、パチュリーはできるだけ重い声で言い放つ。
「だから、死んだ方がマシって思うくらいにこき使うことにしたの。楽に生きられると思わない方がいいわ」
「えっ」
「あ、そうだ。まずはあんパンっていうのがあるらしいから、探して持ってきなさい。東京で流行ってるらしいのよ。接続が切れないうちなら、きっとどこかに転がってるでしょう」
「いやそんな無茶な」
「さっさと行きなさい。持ってこなかったら新作魔術の実験台だからね」
「……ぷっ、くははは!」
その言葉に満足したのか、レミリアは破顔して槍を収めた。慌てふためいて飛んで行った小悪魔を見送ってから、魔女と吸血鬼は向かい合った。パチュリーの背丈は、ほんの拳ひとつ分ほどだけ、レミリアより低かった。
「まずはお前 ―― いや、あなたに詫びたいと思うの」
「何を?」
「『小娘』って呼ばわったこと」
「言ったっけ、そんなこと」
「言ったのよ。でも訂正するわ。あなたは世界で最高の魔女よ」
思わずパチュリーはそっぽを向いてしまった。レミリアの惜しみない賛辞のせいで頬がひくひくと引きつる。胸の中で跳び回る球の大きさが10倍くらいになった。誰かに褒められた経験なんて、彼女にはなかったのだ。
「もしもこのヴワル以外に依るところがないのなら、いつでも私の屋敷に来て頂戴。どうせ部屋は有り余ってるんだし」
「……随分調子のいいことを言うわね」
「あら、私は本気よ。だって視えるもの。いずれ私の右腕になる、あなたの運命が」
ぶっとんだことを吸血鬼が言い出したので、パチュリーの緩んだ頬が引き締まった。半眼のままレミリアへと振り返ると、彼女は得意げに胸を張っていた。
「あ、信じてないのね。私は運命を視るのが得意なのよ」
「未来予知はまだ確立してない分野なんだけど」
「他の連中のことなんて知らないわ。現に視えるんだもの」
そう言うとレミリアは、懐から何やら取り出す。それは1冊の本だった。しっかりした革張りで少し大きめの版だが、厚み自体はそれほどでもない。
「私の運命視の証拠と、あと親愛の印に」
何が何だか分からないまま受け取ったパチュリーだが、中を開いて愕然とした。唇をわなわなと震わせながら、次々と頁をめくっていく。
載っているのは沢山の写真だった。その被写体は全てひと組の若い夫婦であり、撮影されたのだろう日付が付記されている。身なりからして明らかに魔法使いだ。その2人をパチュリーは知らない。知らないはずなのに、彼女は覚えていた。優しい眦(まなじり)、細い指先、耳や鼻のかたち。そのアルバムの写真1枚1枚が、パチュリーの記憶の最も深いところから何かを蘇らせてくる。
そして、頁をめくり続けていた手が、あるところではたと止まった。
ぱたり、とアルバムに滴が落ちる。それが枯れ果てたと思っていた涙だと理解して、頭の中のどこか冷静なところでパチュリーは驚いていた。
―― 我らが最愛の娘、パチュリー
3人目の被写体は、無邪気に笑う赤ん坊であった。
その写真の下に記された日付は、間違いない、自分の生年月日である。
「これがあなたの『捜し物』よね、パチュリー?」
レミリアがどこか得意気に、それでも精一杯の優しさが籠もった声で言う。
どうにか噛み殺していた嗚咽が、そのせいで溢れ出してしまった。パチュリーの喉の奥で、知らない誰かが咽び泣いていた。感情の迸りは止まることなく、その奔流を静謐な異世界がただ受け止める。
自分が物心ついたときから独り暮らしていた「本の巣」の中には、一人前の魔女となるために必要なあらゆる知識が揃っていた。しかしたったひとつだけ、普通の家ならば必ずあるはずものだけが、そこにはなかった。
だからパチュリーは、ずっと捜し求めていた。それが、失われた本までも揃う世界ヴワルを目指した本当の理由だ。
「頑張ったのね」
「…………うん」
パチュリーが落ち着くまで、たっぷり30分はかかった。そして泣き腫らした目を擦る魔女に、レミリアは小さな右手を差し出して言った。
「ねぇ、友達になりましょう、パチュリー」
その手をじっと見つめた魔女は、少しだけ逡巡してから、やがておずおずと握り返した。
パチュリー・ノーレッジの独りきりの旅は、ここに終わりを告げた。彼女がスカーレット家の屋敷 ―― 紅魔館の食客として迎えられるのは、もう少し先の話である。
ああそれと。キマシタワー。
真坂ほんとにチュッチュ(物理)するとは・・・。東方の公式設定としましょう
魔法の為でなく家族の暖か味を探していたのですね。一見クールだけどエキセントリック且つなんやかんやで情に弱いのがパチェさんですよね。お嬢も情の妖怪(ヒト)だし好いコンビや。だが小悪魔は永遠の三下である。
>「あひぃん、幼い魔女っ子に道具のごとく扱われるなんて……これはこれで、イイ!」
うん 分かってた
うるめさん頑張るね。週刊連載大変だろうに。自分も東方ファンで同人作家ですが励みとさせて貰ってます。有難うございます。
続き期待しています。