ヴワルの空はどこまでも真っ白で広い。いや、あれは空にあって空ではない。ここは知識の深淵と魔力の大渦に浮かぶ、浮島のような街なのだ。さざめく乳白色は実体化しきれなかったそれらが揺蕩(たゆた)っている様に過ぎない。
レミリアは地面に磔となったまま、その偽りの空をどこか新鮮に眺めていた。街の輪郭に切り取られた白は、普段自分が眺めている無機質な空間とはまた違って見えた。表情すらあるような気がした。
満月の夜が懐かしい。自分を昂(たか)ぶらせ、全てを包み込んでくれる漆黒の空を、何だか無性に飛びたくなった。いや、何なら、抜けるような真っ青な空でもいい。今にも泣き出しそうな曇り空でも、いっそ土砂降りの中だっていい。太陽も雨も苦手だけれど、何だっていいからとにかく見たくなった。本当の、本物の空を。
「あぁ」
呻きとも喘ぎとも付かぬ声が、少女の口から零れる。仰向けの胸からそびえ立つ槍から流れ込む破魔の力が、彼女の身体の自由のほとんどを奪っていた。
ふと、膨大な魔力が解放される気配を感じる。あの小さな魔女の仕業だろう。レミリアは口の端だけを少し歪めた。敵う筈がない。そんな抵抗が通じるようだったら、自分は今ここにいない。
ヴワルに閉じ込められてからどれくらいの年月が経ったのだろう。あらゆる足掻きを試したけれど、どれもこれもあの管理者には通じなかった。唯一の解放のチャンスだった、侵入者を倒せという命令も達成できなかった。心を壊して閉じ籠もったままの妹を、もう何年も独りぼっちにしてしまっている。あの娘はまだ待っているのだろうか。自分は見捨てられたのだと、絶望してはいないだろうか。
帰りたい。この密室から、一刻も早く抜け出したい。
けれどそれだけの望みすら、少女には叶えられない。
じわり、と視界が揺らぐ。涙、涙だって? まさか。レミリアは強く瞼を閉じた。自分は誇りあるスカーレット家の当主だ。決して泣いてはならぬ。それがただひとつだけの、亡き両親から託された教えだった。眷属(けんぞく)も滅び去り、屋敷も荒れ果て、残るは姉妹2人きりとなってしまった吸血鬼の名家の、それが最後の財産だった。
「 ―― いやぁ、魔術士の闘いは派手ですねぇ」
何だかやたらと暢気な声がして、レミリアは目を開けた。もう視界は滲んではいなかった。
すぐ脇に、この槍で自分を縫い止めた張本人がしゃがみ込んでいた。
「流石に魔法の心得はありませんので、私には見ていることしかできません」
「……お前、何でここに残ってるんだ?」
問いかけると、邪気のない金色の瞳を丸くして、その妖怪は見つめ返してくる。先ほど自分と対峙していたときの、鬼気迫るような迫力は霧散してしまっていた。
鼠妖怪と紅白の少女はどこかへ消えていた。捜し物があるとか言っていたような気がする。てっきりこの寅も一緒に行ったと思っていたのだが。
「だって、あの娘を独りにしてはおけないでしょう」
あの娘、と笑いながら彼女が指さす先は、レミリアが吹き飛ばしたもうひとり、退魔術師のいる場所だ。死んではいないが、動けないということらしい。
全く、よく分からない奴だ。寅の顔を薄目で品定めしながら、レミリアは思った。こいつが自分を迎え討つために魔弾の雨の中へ跳び出してきたとき、レミリアは感心していた。そして弾を避けながらも、こちらの初撃を正確に受け止めたのだ。数多のヴァンパイアハンターを返り討ちにしてきた経験と照らし合わせても、その中で五指に入る実力を持つ相手であると認めざるを得なかった。だから早急に無力化すべく、全力で槍を振ったのだ。胴を両断するはずの一撃を、しかし寅は再び受け切った。彼女が吹き飛んだのはレミリアの紅槍のせいではない。勢いを受け流すために寅が自ら跳んだからだ。そしてすぐに復帰するや否や、こちらの弱点を的確に突いてきたのである。
並の使い手ではない。ないはずなのだが、翻って今の寅はどうだ。ひょっとしたら、そこらの人間の娘よりも無防備なのではなかろうか。
「どうして私を殺さない?」
レミリアは思わず問うていた。力のある化物同士の戦いは、普通どちらかが死ぬまで続く。死んだ方が負けなのだ。
それに、いっそこのまま死んでしまった方がいいのかもしれない、とすら彼女は思っていた。永遠に抜け出せない世界から逃れる方法はもはや死しかない。強者と戦って死ねるのなら、誇りある吸血鬼にとっては最高の最期だ。
零れ落ちた悲痛な心の叫びに、しかしこの寅は、やはり微笑むばかりだった。
「私は仏教徒ですので」
「敬虔な宗教人ほど、化け物に向ける殺意は高いんだがな、経験上」
「あはは……そうかもしれません。でもそれなら、私もあなたに聞いてみたいことがあるんです」
すでに寅は尻を地に着けて、完全に座り込んだ格好である。
「どうして私を殺さなかったのですか?」
「はぁ?」
いっそう訳が分からなくなった。レミリアにしてみれば、この寅に放ったのは必殺の意志を籠めた一撃である。それで仕留めきれなかったということは。
「単に、お前の腕が良かっただけだ」
「あなたの槍にあったものは殺気ではなかった。それは、あなたに私を殺す理由がなかったからだ。違いますか?」
その言葉にレミリアは怒りを燃え上がらせる。由緒ある悪魔に対して、その発言は侮辱以外の何者でもない。殺すつもりで戦った相手から、殺意の無さを指摘されるなど。
「……私を愚弄しているのか?」
「いいえ、あなたと槍を交わして、私が感じたことを率直に述べたまで」
「貴様……!」
「それならば」
剣呑なレミリアの視線を意に介することなく、寅は微笑み続ける。そして、思いも付かなかった行動に出た。
地に深く刺さっていた槍を、彼女は引き抜いてみせたのだ。聖なる力の流入が止まり、レミリアの身体に少しずつ自由が戻っていく。
「これであなたを縛るものはなくなりました。私との再戦をお望みならば、どうぞ」
「……ッ!」
上半身を起こしレミリアは身構える。寅は相変わらず、ふにゃりと笑ったままだ。
「貴様を殺す理由は ―― 」
言いかけて、レミリアはそこで考える。こいつを殺す理由とは何だ? それは管理者がそれを解放の条件として持ち出したからだ。ヴワルへやってきた一行を打ち倒せば自分をここから出してやると、奴がそう言ったからだ。もちろんそれは嘘なのかもしれない。そんなことは百も承知だ。だがそれ以外にレミリアが縋ることのできる糸はなかった。欺瞞を寄り合わせて作られた、蜘蛛の糸よりも脆く儚い1本だとしても、彼女に掴むことができるものはそれしかなかったのだ。
再び心の中に怒りの炎が噴き上がる。だが今度のそれは、寅に侮辱されたことに対するものではなかった。自分のことなど何も理解していないくせに、軽々しい言葉を吐く畜生への憤りだ。
「貴様を……理由……貴様は……貴様はッ!」
「あなた自身は、私と戦うことを望んではいない」
寅は立ち上がって、槍の底を地に着けた。対するレミリアは、しかし何故だか紅槍を手にすることができない。胸の内は怒りで爆発しそうだというのに。
目の前の女の顔からはまだ笑顔が消えない。しかしいつの間にか、その表情からは弛緩が抜け落ちていた。
「いや、あなた自身はずっと戦い続けていたのでしょう。囚われた境遇から抜け出すために、あの悪魔と、そして自分自身と。あなたが私たちに向けた槍先はその過程でしかない。あなたが私と戦う理由は、あくまで副次的なものに過ぎない。そして、そんな理由で戦う者に、私の正義を折ることはできない」
「正義だと?」
「えぇ。私はいつだって、私の正義に依って戦っています。しかしあなたが私と戦うことに、あなたの正義はない。あなたの依るべき正義は、あなたがずっと戦ってきた理由は、まだ他にある筈」
寅の視線に宿る光は、呆れるくらいに真っ直ぐだった。こいつは狂っているのかもしれないと、いっそそう思わせるほどにまで真っ直ぐに輝いていた。
少しだけ怯んだレミリアの耳へ、雷鳴のような轟音が飛び込む。
そびえ立つ書架の摩天楼、その中程に、書の竜が喰らい付いていた。その大顎の中から、微かに誰かが咳込む声が聞こえた。魔女が掻き回していたはずの、魔力の波が引いていく。
「ざまぁ見やがれ、ですねぇ!」
管理者が高らかに、勝利を確信した声を上げる。そうだ、奴は勝利しか知らない。ヴワルにいる限り、あの悪魔が敗北することなんて ―― 。
「マズいですね、加勢しなくては」
しかし寅は槍を構え、巨大な竜へ向き直った。その横顔に再び闘志が宿る瞬間を、レミリアは見た。
「おい、待て。お前も分かっているんだろう。あいつを倒すことなんて絶対に」
「絶対など、この世に在りはしません。それに『勝算はある』と彼女は言いました。ならば私はその言葉を信じます。そして、私の正義を信じます」
そう言うと、寅は駆け出した。その後ろ姿を、レミリアは不覚にも美しいと思った。
◆ ◇ ◆
魔法の具現に必要なものは、全ての源泉である魔力と、それを紡ぎ上げて意味を与える呪文である。その内、パチュリーにとっての懸念事項は後者だった。彼女の呼吸器を侵す喘息は、体調が悪いときには基本的な詠唱すら困難にする。自分の唯一にして最大の欠点を自覚するからこそ、彼女は喘息の調子を第一に考慮して、ヴワルへ赴くときを選んだのだ。
ここまでは順調だった。記憶にある限り最大限のポテンシャルを、パチュリーは発揮できていた。
「ゲホッ……!」
しかし、ここにきて発作がぶり返してしまった。それというのもあの書竜が巨体を震わせるだけで、多量の埃が辺りに充満するからである。紅髪の管理者は知ってか知らずか、パチュリー・ノーレッジという魔女に対して最も効果的な方法で、彼女を蹂躙することに成功していた。
「ほらほらほら、逃げてばかりじゃ終わりませんよ?」
「五月蝿い……ゲホッ」
迫る咢(あぎと)を何とか躱すものの、巻き上がった埃を再びパチュリーは吸い込んでしまう。そして咳き込んだことで詠唱が中断され、またもや構築が中途半端な術式が発現した。風が小さく渦巻いて細長い柱となるが、書竜が首をひと振りするだけでそれは掻き消されてしまう。
その上、身体の動きまで制限され始めていた。竜の体当たりを避けるのが、だんだんと際どくなってきている。
那津に捜すよう言った本が見つかるまで、果たして保つだろうか。あれさえ発見できるなら、この悪魔に対する勝利は確実なものなのに。ここから少しでも近いところで見つかることを祈るしかない。パチュリーは一瞬だけ、図書館都市の中心部へ目をやった。そしてその一瞬が、致命的な隙となった。
「貰ったぁッ!」
竜の尾が跳ね上がり、小さな魔女を跳ね飛ばす。そのまま書架へ叩き付けられたパチュリーへと、巨大な顎が喰らい付いた。
「ざまぁ見やがれ、ですねぇ!」
耳障りな嘲笑に、しかしパチュリーは怒りを覚えることすらままならなかった。その喉はもうまともに呼吸することすら覚束ないほどに傷んでいる。今や彼女を守るものは、事前に掛けてあった最低限の衝撃緩和障壁のみだ。そしてそれすらも、書竜の無数の牙により軋んでいる。魔法防御すら破られてしまえば、肉体の強度自体は人間とさほど変わらない魔女のこと、あっさり潰されてしまうだろう。
「早いところ諦めた方が身のためですよ。ヴワルにおける管理者とはすなわち唯一神、私に不可能はない! あなたがいくら策を弄しようとも、私を打ち倒すことはできない!」
みしり、と魔法障壁に罅が入る音がした。万事休すか、パチュリーは堅く目を瞑った。
「 ―― なら、試してみましょうか」
「ほえ? ……ぎゃああああ!」
突如、悪魔の悲鳴が聞こえたかと思うと、竜の大顎がばらばらと崩れ落ちていった。止まらない咳を押して、パチュリーは何とか書架へしがみ着く。
書竜へ強烈な一撃を叩き込んだのは星だった。黄金の闘気を纏った彼女の突進が、竜の顎を両断したのだ。
残った頭へ辛うじてしがみつきながら、管理者の悪魔は竜の尾を星へと叩き付けようとする。
しかし、その尾までもが崩れ落ちた。
「何ですって!?」
悪魔の困惑の視線は、3人目の反逆者へと向けられる。書竜の尾を断ち切ったのは、吸血鬼の投擲した紅い槍だった。
「れ、レミリアちゃんまで……この期に及んで往生際の悪いッ!」
紅髪の悪魔が怒りに震える。それに呼応するように、崩れ落ちた無数の本が再び寄り集まって、ぶつ切りにされた竜の身体が元通りになっていく。
「無駄な足掻きだと、何度も教えてあげた筈なんですけどねぇ!」
「無駄なものも滅せぬものも、この世にはありません。ここは私が ―― いえ、私たちがお相手しましょう」
竜を挟むようにして、2人の妖怪が槍を構えた。緊迫の空気に、顎を取り戻した書竜が雷鳴のような吠え声を上げる。
パチュリーは静かに着地した。何だか久しぶりに地面を踏んだ気がした。
魔法回線を通して、那津から合図が入ったのはそのときだった。
―― 見つけた。
『グッド・ジョブ。ちょっと視界を借りるわ』
那津の目で見ている光景が、パチュリーの頭へ飛び込んでくる。そこにあるのは禍々しい装丁の本だ。魔界にて発行された、悪魔の名鑑である。この世界に実在するありとあらゆる悪魔が、家系図に沿って詳細に記されているのだ。それだけではない。この本は内容が自動で書き換わっていく魔法が掛けられている。掲載されている悪魔の現況が変わったり、新しく生まれた悪魔がいたりすれば、どんどん頁が増えていくのだ。
『那津、「ヴワル」の単語を検索して。早く!』
ヴワルにいる悪魔は、現在2人だけ。そのうち倒すべきは、吸血鬼ではない方。
那津の視界で揺れるペンデュラムが、やがて目的の頁を見つけだした。そこに記された、どんな悪魔でも打ち倒すことのできる、起死回生の一手。
「 ―― イザベラ・ルゲイエ」
「……何ですって?」
今にも2人の妖怪に挑みかかろうとしていた竜の頭上で、紅髪の悪魔は初めて怯えた声で問い返した。
喉を刺激しないよう、パチュリーはゆっくりと息を吸う。
「名前よ。イザベラ・ルゲイエ、他でもない、あなたの名前よね」
「そ、そんな。どうして、どこでそれを」
「そんなこと、今更あなたに説明しなきゃならないの? 嫌よ」
そして魔女は、はっきりと呪文を唱える。魔力を注ぎ込む必要はない。言葉そのものが魔法となるのだ。
「汝が真名、『イザベラ・ルゲイエ』を剥奪する。汝が真名は今、我が手の内にあり。ひれ伏せ!」
それは隷従の契約である。誰かに真の名前を奪われた悪魔は、その者に魂を握られたも同然だ。生かすも殺すも、名を握る主人の指先ひとつで決まる。
書竜の威容が、ばらばらと崩れ落ちていく。無数の本たちは、落下しながら空中へと溶けていく。実体化が解けて魔力へと戻っているのだ。またこの街のどこかの書架に、平然と収まっていることだろう。
「へぶぅっ!」
パチュリーの足元へ、管理者は無様に顔面から落下した。イザベラは ―― いや、もはや彼女に名は無く、単なる一匹の小悪魔である ―― 恐る恐る、小さな魔女を見上げる。今や自分を所有するに至った幼い魔女は、静かな怒りをその瞳に宿していた。
「えぇと、あの、そのですね」
「その喧しい口を閉じなさい」
その命令に小悪魔は従わざるを得ない。たとえ相手が子供であろうとだ。悪魔が名前を奪われるというのはそういうことなのだ。
どうしてこうなったのか、彼女は考える。確かにヴワルにはあらゆる本が収められており、魔界の悪魔名鑑だって例外ではない。だが何億冊もある本からそれを見つけ出すだなんて、誰が予想するだろう。
「これで、げほっ、やっと落ち着いて本を捜せるかしら。げほっ……あぁ、そうだ。『管理者』の権限、私が貰うわよ」
平伏する小悪魔からその全てを奪い取って、パチュリーはようやく一息を吐いた。先程までの喧騒が嘘だったかのように辺りは平穏を取り戻している。壊れた筈の書架も、すでにヴワルの無尽蔵の魔力が修復を終えていた。ミルクの海のような空は、ただ平然と街の上を揺蕩っていた。
一話で終わってしまった。短い天下だったなぁ、小悪魔。