吸血鬼。人間の血を好み、不死身の肉体と無尽蔵の妖力を持つ怪物。生まれは東欧州であり、根源は致死性の伝染病だとかキリスト教が追いやった他教の神々の成れの果てだとか諸説ある、らしいけれど。少なくとも、日本じゃこんな妖怪に出くわすなんて有り得ないことだけは確かだ。
「さぁさぁさぁレミリアちゃん! こいつらをギッタギタにしちゃいなさい!」
紅い髪の悪魔が命じると、吸血鬼の周囲にいくつかの赤黒い歪みが生じた。
そしてそれらの渦から散弾が撃ち出され、雨霰のごとく降り注ぐ。
「ちょっと時間を頂戴」
パチュリーはそう言って、呪文を唱え始める。
急いで陰陽玉を手元へ引き寄せる。防護陣だ。しかし星さんや那津、パチュリーまで少し間合いがある。地面へ叩き込んだ霊力を何とか押し広げ ――
「くっ!」
そこで何故か星さんが前へ跳んだ。当然、陣の範囲からは外れてしまう!
一体何を、と思った次の瞬間、私は信じられないものを見た。
ガキィン! 鋼同士が打ち合わされたような轟音。星さんが槍の柄で辛うじて受け止めていたのは、いつの間にかそこにいた吸血鬼の振るった爪だ。
「……えっ」
何が起こったのかを理解する時間はなかった。防護陣が完成、光の壁が周囲に生み出され、紅い魔弾を阻む。もちろん星さんは陣の外だ。弾幕のカーテンの向こうへ、組み合う二人の姿が消える。
「ご主人!」
那津の悲痛な声。安否が気に掛かるのは私も同じだが、声を上げることはできなかった。陣の維持でいっぱいいっぱいだったのだ。伝わる衝撃と消耗する霊力は、先ほどメリーベルの霊力矢を防いだときとは比べものにならない。
「何て疾さなの……」
傍らでメリーベルが呟く。私も吸血鬼のデタラメぶりを改めて思い知った。
あいつは自分の撃った弾を追い越して、直接先手を取ろうとしたのだ! 星さんが飛び出していなかったら、奴はこの陣の内側へと到達していたかもしれない。
赤黒い、禍々しい雨が上がる。
上がった幕の向こうでは、吸血鬼が右手に紅槍を握ったところだった。星さんは立てた槍でそれを受ける体勢に入る。
陣が消え失せた。詠唱開始から14秒、パチュリーの呪文はまだ完成しない。メリーベルが吸血鬼に向け跳び出す。
轟、と空気が震えた。吸血鬼の横薙ぎの一閃だ。
赤黒い妖気の迸りが消えると、そこにいたはずの星さんの姿がない!
「はァッ!」
槍が振り抜かれた一瞬の隙に、メリーベルは吸血鬼の懐へ入り込む。そのまま即座に至近距離での打ち合いへ入った。
その様を、傍観する紅髪の悪魔が嘲笑った。
「吸血鬼に正面から挑むとか、お馬鹿ちゃんですかぁ? 一瞬でも気を抜くとぉ ―― 」
どぉん、と微かな衝突音。咄嗟に音のした方を見る。
「 ―― ああなっちゃいますよ?」
数十歩も向こうの本棚の、地表から1メートルほどの場所に、星さんは背中から叩き付けられていた。槍で防いだ一撃で、あそこまで吹き飛ばされたのだ。そのまま彼女の身体は、木屑や破れた頁とともに地面へ崩れ落ちる。
「ぐ……」
那津は何かを噛み潰すように唸った。那津は妖力や腕力に長けた妖獣ではない。強力な妖怪相手に立ち回ることなどできないと、自分でも分かっているのだろう。吸血鬼へ向かっていったところで犬死にだ。
私もその場から動けない。呪文を唱える間は無防備なパチュリーを守れるのは、今この場では私しかいない。……いや、それは言い訳だ。余りに強大な吸血鬼の妖力を目の前にして、私の足は竦んでしまっていた。
「やッ! はッ!」
そしてメリーベルは独り果敢に挑みかかる。双つの手甲の上で青白い霊力光が目映く輝き、両腕が振るわれるたびに淡い残光の軌跡が描かれる。
大木をも薙ぎ倒す彼女の一撃。しかしそれを、吸血鬼は容易くいなし続ける。
心臓がばくばくと鳴っている。一秒間が限りなく長い。
振るわれた槍の柄を、メリーベルは手で掴んだ。そしてもう片方の手でも紅槍を握り、吸血鬼の動きを止める。
歯を食い縛って力を籠めるメリーベルに対し、ドラキュラ少女は涼しい顔だ。
「まだなの!?」
叫んだメリーベルの両手からは、妖力に灼かれているのだろうか、どす黒い煙が湧き上がる。
「そろそろ限界よ!!」
「 ―― いま終わった。お疲れ様」
詠唱開始から37秒、魔力の震えによる不可思議な響きを残した声で、ついにパチュリーは言った。
そして、強烈な魔力が真上へと打ち上げられていく。
「吸血鬼にはこれと、相場は決まっているわよね」
それは数瞬の後に花を開き、荒れ狂った。
純粋なる光。どこにいても夜が明ければもたらされる、しかしこのヴワルには存在しないであろう熱。
「ちょ、ちょっと! 吸血鬼にそれはいくら何でも卑怯でしょ!」
紅髪の悪魔が地団太を踏んだ。
パチュリーが魔法で作り上げたのは、太陽だ。
「そうか。吸血鬼は太陽に弱いんだった。夜明けの光を浴びると灰になってしまうんだ」
那津の喜色を浮かべた声。なるほど、あのデタラメな強さを持つ妖怪にも弱点はあるというわけだ。そこを的確に突いたパチュリーの作戦勝ち、と言いたいところだったが、肝心の魔女の表情がまだ晴れない。
一方、至近距離で吸血鬼と対峙するメリーベルは高らかに笑った。
「様を見なさい! これであなたもボロボロに溶けて……え?」
しかし次の瞬間、メリーベルは大きく吹き飛ばされる。
「 ―― 何かを企んでいたようだったから、一発撃たせてやったんだけどね」
幼い、しかしそれでいて凛と威厳に満ちた声。退魔術師を蹴り飛ばした脚を、吸血鬼はゆっくりと降ろす。
「舐められたもんだ。紛い物の陽光で、この私を殺せると?」
「や、やった! 凄いわレミリアちゃん、それでこそ我が下僕!」
紅髪の悪魔が叫んだ。吸血鬼の無事を認めるや否や途端に威勢を取り戻した彼女こそ、実は一番驚いていたのかもしれない。
その主を一瞬だけ横目で睨んだ後、吸血鬼レミリアは私たちへと向き直った。弱点であるはずの太陽光の中、平然と彼女はそこに立っている。
「……とはいえ、不快であることに変わりはないな。おい、そこの魔女の小娘」
「それ、私のことかしら」
「他に誰がいるんだよ。今すぐそれを止めろ」
「その台詞で本当に止められると思ってる?」
「態度で示してほしいのか。ならすぐにでもその首から上を粉砕してあげるけど」
「んー、それは嫌ねぇ。それなら沈めたげようかしら」
パチュリーが腕を振る。すると静止していた太陽が傾き始めた。
しかし、その向かう先は当然、地平線の向こうではなく。
「 ―― あなたの親玉の上にね」
「え……ひょええええぇぇぇぇ!?」
紅髪の悪魔が絶叫した。燃え盛る火の玉は、腰を抜かしたのか逃げることを忘れた少女を逃すことなく、あっと言う間に飲み込む。
「どうもあっちが親玉のようだし、先に潰しておくに越したことはないわ」
こんな時でも冷静に言ってのけるのだから、魔女というやつは心底恐ろしい。たった今、悪魔をひとり灼き尽くしたところだというのに。
対する吸血鬼の声音には苛立ちが混じる。
「私を差し置いてあいつを? どれだけ私を舐めれば気が済むんだ」
「あら、舐めてなんかいないわ。ただあなたへの対処はもう済んでるみたいだったから」
パチュリーがふるふると首を振った。直後、轟音。
青白い滅光の奔流は、的確にレミリアを捉えていた。吹き飛ばされたメリーベルが、体勢を立て直し放った一撃だ。
しかし吸血鬼は、持ち前の俊敏さをもって即座に回避へ移る。彼女は光柱を飛び越えるように跳び上がり ――
そして、上空から高速で放たれた何かによって地面へと縫い付けられた。
「ご主人……」
那津の顔が僅かに晴れる。ビルディングの屋根より高く跳躍した星さんが、レミリア目掛け槍を投擲したのだ。その一発は、正確無比に心臓を貫いている。
「白木の杭ではないですが、これでも聖別された槍ですし、動きを封じることくらいはできるでしょう」
「あーもう駄目。今日は打ち止めだわ、これ」
煤だらけの背広で星さんは笑い、傷だらけの外套でメリーベルは天を仰いだ。
ほっと胸を撫で下ろす。と同時に舌を巻いた。あれだけ派手に吹き飛ばされたというのに、この2人どれだけ頑丈なんだ。
パチュリーは、大の字に磔となったレミリアへと近づいていく。人間であれば確実に即死するだろう傷を受けながら、しかし吸血鬼は平気で動いていた。槍を胸から抜こうともがいているが、その柄は少しも動かない。
「それで、あなたのボスは倒した訳だけど、あなたにまだ私たちと戦う理由があるかしら?」
「倒した?」
レミリアが視線だけを動かして、パチュリーを睨む。
「魔女の小娘。あれくらいで奴を殺せるのなら、私は今こんなところにいない」
「え、それって、どういう」
パチュリーの言葉は、地鳴りのような音によってかき消された。
小さな太陽が落下した地点にて、燃え盛っていた炎が凍り付き、砕ける。その欠片を飲み込むようにして、周囲の地面がうねった。都市が波打つ。
「 ―― あははははははは!!」
響く哄笑は、あの悪魔の声だ。
そして波紋の中心から、巨大な何かが首をもたげる。大きく裂けた口で唸り声を上げるのは。
「竜、ですか。いやはや」
星さんが腰を落とし身構えながら言った。
「もう何が来ても驚きませんよ」
竜の身体は目に痛い極彩色に彩られていた。雑多な色がモザイク模様のように重なっている。その頭が私たちを威嚇的に見下ろし、吠えた。
―― グオオオオォォォォ!!
大顎から、大量の紙片が舞う。あの竜は、無数の本が寄り集まってできているのだ!
「よくも私をあんな火の玉で……! 流石に今のはムカッと来ました」
紅髪の悪魔は、竜の頭の上にいた。頭蓋の天辺、そこに腰から上が生えているような格好だ。
「御礼と言っちゃあ何ですが、この私直々に、ありったけのヴワルの魔力で叩き潰してあげますよぉ!」
悪魔に応じて、本の竜も吠える。
一難去ってまた一難だ。新たな敵が現れたというのに、こちらは御世辞にも万全の体勢とは言えない。星さんの手にもはや槍はなく、メリーベルに至っては向こうで座り込んでしまっている。その手甲の光は完全に消えてしまっていた。打ち止めと言っていたのは本当のようだ。
とはいえ打てる手も思いつかず、とりあえず上から陰陽玉をぶつけてみるか、などと思っていると。
「『ヴワルの魔力で』、ねぇ。成程、あなたがここの魔法術式を握っているわけね」
魔導書を開いたパチュリーが、ふわふわと浮遊してやってきた。
「ここは魔力がそのまま凝縮された世界。それを制御する存在が常にひとり必要となる。ヴワルはそれにあらゆる権限を与えると同時に、自身を厳密に管理させる。あなたは今、ヴワルという巨大な魔法を操り、またそれに操られている」
「えぇと、それってつまり、どういうことです?」
こんなときだというのに、星さんはきょとんとした顔で首を傾げた。
パチュリーは前進を止めない。
「つまりあいつは、ここにいる限り全能で無敵の存在でいられるわけ」
「そうそう、よぉく分かりましたね。褒めて差し上げましょう」
竜の上、悪魔はもはや勝ち誇った笑みを隠そうとすらしない。
「あなた方はもう、ヴワルから逃げられない! そして私を倒すこともできないのですよ! 何故ならこの私が、ここの支配者なのだから。ここを訪れる者は皆、私の思うがままの下僕!」
「調子に乗るんじゃないわ、低級悪魔の分際で。あなたは私を怒らせた。本をそんなにして乱暴に扱うあなたに、この世界は相応しくない」
そして竜の正面、誰よりも近い位置で、魔女は毅然として支配者を見上げた。
「……こいつは私が相手をするから、あなた達はこの場から離れて」
「いや、それはいくら何でも」
反論しかけて、しかし星さんは言葉を繋げられなかった。この中で最も幼いはずなのに、パチュリーの声には有無を言わさない何かがあった。
「いいから、あのメリーベルって娘を連れて、早く」
星さんと那津と、3人で目配せし合ってしまう。本当に、大丈夫なのだろうか。
『大丈夫、勝算はあるから』
続くパチュリーの声は、遠い霞の向こうから響いてくるような不思議なものだった。日本橋でヴワルへ転移する前に聞こえた声と同じものだ。
『驚かせちゃって悪いわね。今朝出発する前に、あなたたちに通信用の簡易魔法を掛けておいたの。万が一を考えてね。私の思考を選択送信することができる術よ』
背中越しにも分かるほどに、魔女は闘志と怒気に満ちて見える。しかし頭の中に聞こえてくるこの声は、やはり冷静だった。
『私がこいつを引き付けている間に、那津、あなたに探してほしい本がある。一度退がったフリをして、なるべく早く見つけ出してほしい』
それにしてもコンビネーション良いよね!
メリーベルも仲間になってちゅっちゅだ! ちゅっちゅ!