太陽がもうひとつ生まれたかのような眩しい光と、トタンで混凝土(コンクリート)を引っかくような轟音。
極限まで圧縮された霊力の奔流が、質量を伴った光の帯となって放たれる。
まともに当たればどうなる? 考えるまでもない!
陰陽玉を私の前方へと固定、そのまま独楽のように高速で回転させる。生じる結界が即席の盾だ。
そして光の帯と陰陽玉が、衝突する。
鳴り止まない稲妻、正しく晴天の霹靂が、境内の静寂を打ち砕いた。
「く……」
凄まじい圧力である。陰陽玉にありったけの力を込め続けなければ、この防御はすぐさま崩壊するだろう。いや、実のところ結界は崩壊している。割れても割れても、陰陽玉から次の結界をすぐさま発生させるのだ。脆い盾を無限に掲げ続けることで、無敵の盾に限りなく近い防御力を得る。これも星さんから教わった。
負けるわけにはいかない。皆を退治させるわけにはいかない。
やがて、光の圧力が消失する。攻撃が止んだことを確認し、陰陽玉を周回軌道へ乗せた。
「どうなってるのよ、それ」
重ねた掌を解きながら、屋根の上の退魔術師が零した。その声音には驚きと、若干の呆れ。
「コレを真正面から受け止めた奴は久しぶりだわ。ひょっとすると、人間では初めてかも」
「得体が知れないでしょ、私ってば」
とりあえず凄んでおく。嘘は言っていない。得体なんて自分ですらよく分かってないくらいだし。
「さっさと諦めて帰ってくれる?」
「まさか、冗談でしょ」
しかし少女は、軽く言い返して両の腕をだらりと下げた。
「あなたをさっさと倒して、さっき逃げた連中を追う。計画に変更は無しよ」
そしてその場所から彼女は掻き消えた。ぱき、と屋根瓦の砕けた音が、一瞬だけ遅れて耳へ届く。
咄嗟に上を見た。青い空に小さな小さな点。その豆粒のような影は、ぐんぐんと大きくなって ――
「はッ!!」
一秒前まで私が立っていた石畳が粉々に破壊された。重力加速度を完全に乗せ切った踵落としだ。
空中で逆様になった私は、跳ね上がった石礫の向こう、地面に一瞬で刻まれた巨大な亀裂を見た。
「どうなってるのよ、あんた」
今度は私が言う番だ。莫迦みたいな威力である。まともに食らえば痛いでは済むまい。
ならば、次の一撃が来る、その前に仕留める。
公転する陰陽玉を、目一杯の遠心力とともに突撃させる。石の雨をかき分けながら、相手の胴を狙って進む球体は、しかし。
「 ―― 攻撃手段、それだけ?」
少女が振り抜いた腕に容易く跳ね返される。唇の端を不敵に吊り上げながら、彼女は言葉を続けた。
「守りだけ堅くたってダメよ」
陰陽玉を弾いた勢いをそのままに、彼女は一歩こちらへ踏み込む。マズい。頭の中で誰かが警鐘を五月蠅く鳴らす。先に地に着いた右足だけで、思いっ切り後ろへと飛び退いた。
対する退魔術師も、さらに一歩の間合いを詰める。
しゅうしゅうという耳慣れない音に気づいたのはそのときだった。向こうの一挙手一投足に伴って聞こえる、空気が漏れるような音。
何かある、と思い当たったその一瞬がこちらの隙となってしまった。一足で詰められた間合いに、私はさらに後方へ下がろうとして。
「がっ!」
背中を強く打ち付けた。いつの間にか境内の森へと行き当たっていたのだ。背後を大きな樹に塞がれ、私は行き場を失くす。
そして、その好機を逃す相手ではない。目の前に迫った彼女はにぃと笑うと、次の瞬間には視界から消えた。上、ではない。今度は下だ!
「貰ったぁ!」
這いつくばるほどに身体を沈めた彼女は、その右脚をぐるりと繰り出した。極限まで緩慢な世界の中にあって、残像が生じるほどに速い一撃。
私が回避に跳んだのは、ほとんど本能だ。そのまま空中へ逃れようと樹の幹を蹴る。蹴ろうとして、それなのに足の裏が何も捉えない。
めきめき、という音を、事ここに至ってようやく認識する。
「……え?」
彼女の蹴りが巨大な鎌となって、すでに樹の根本を刈り取っていた。足が宙を掻いたのは、幹がすでに倒壊を始めていたからだ。
急加速の当てが外れた。急いで重力から逃れなければ。このままでは良い的だ。
しかしその思惑を、向こうももちろん先読みしている。
「逃がすと思う?」
彼女の両手が目映く輝く。瞬時に霊力充填を終えた両手の手甲が、私目掛けて突き出される。そして無数の光弾が、散弾として至近距離で炸裂した。
それが私の身体に届くまでの、ゼロ秒に等しい時間。私は確かに聞いた。
勝利を確信した相手の顔や、刈られ弾けた樹の真っ白い断面、冬風が奪っていく体温。
危機に陥って暴走した五感のうち、聴覚だけが誰かに上塗りされ、その言葉が頭を埋める。世界のあらゆるものがほぼ静止し、私はそこからすぅっと遠ざかっていく。
―― 博麗の巫女は、どこにも存在しないがゆえに自由。
―― そして、どこにでも存在するがゆえに自由。
「何よ、それ」
どういうことなの? そう問おうとした瞬間、視界が暗転した。
「……は、え?」
先程までの激しく眩しい応酬とは正反対の、静謐(せいひつ)な暗黒空間に私はいた。
あ、これは死んだんだな、私。あれだけの危機に陥っていたのだ。私は負けて討ち死にし、死後の世界へとやってきたに違いない。
などと考えていると、目の前の闇が突然人の顔を象った。いや、黒いヴェールを被った誰かが顔を突き出してきたのだ。
「残念、不正解ですわ」
それは聞き覚えのある声。一度だけの邂逅にも関わらず、耳の奥にこびり付いて離れない声だった。
八雲紫。私にこんな力を与えた張本人。
「ここは私の領域。あらゆる場所、全ての精神に通じる場所。そして、あなたの道」
こいつに会ったら、言おうと思っていたことは幾らでもあった。
幾らでもあったはずなのに、私は金魚のように口をぱくぱくさせることしかできない。ヴェールの奥から漏れてくる言葉が、胸の奥の奥を擽(くすぐ)りつづける。
「後ろに退いてはいけない。たとえ何があろうとも、あなたは常に前へ進みなさい。危機からの退避、道なりの進路、急がば回れ。そういった概念は、もうあなたには不要なの」
さぁ、と八雲は両腕を広げた。子を抱き迎えようとする母のように。
一歩、前へ。前へと進みなさい。
どうしてその言葉へ素直に従ったのか、思い返してみても分からない。闇に沈む喪服の胸へと倒れ込むように、私は一歩を踏み出して、そして ――
光が暴れ出して、私は思わず目を瞑った。
「捉えたわ! あの変な玉で、今のを防御できたのかしら?」
勝利を確信する少女を、私は後ろから見下ろしていた。先程の至近距離からの攻撃も、掠(かす)ってすらいない。
―― 博麗の巫女は、どこにでもいて、どこにもいない。
考えるより早く、身体は動いた。
呼び戻した陰陽玉へ、ありったけの力を注ぐ。
―― ただ前に進むだけで、あなたの次の一歩は常に最善手となる。
そして、射出!
死角からの一撃、しかし金色の退魔術師は気配を察知したか、素早くこちらを振り向いた。
咄嗟に交差された彼女の両の手甲と、私の陰陽玉が激突、バチバチと火花が散った。せめぎ合う陰陽玉に向けて、更なる力を振り絞る。
「く……何、なのよ、あなた」
光の飛沫(しぶき)の向こうから投げられた視線を真っ向から受け止める。彼女の瞳に滲むのは闘志と驚愕。
「厄介、極まり、ないわ!」
彼女の両腕が陰陽玉を跳ね返した。私はすぐさま陰陽玉を引き戻す。次の一撃へ、万全に備えるために。
「あなた、本当に人間?」
しかし向こうは、構えを解いてしまった。
「瞬間移動まで使うとか、上等な妖怪でもそうそうないのに」
「あれをやったあんたに言われたくない」
倒れた樹を指さしながら返す。私の両腕では抱えきれないほどの太さがある幹だ。それを刈り取る蹴撃を繰り出すのだって、十分に人間業ではない。
腰に手を当てて、少女は溜息を吐いた。
「私のは燃費も悪いし、消耗も激しいからなぁ……。うーん、計画の変更が必要かも」
「あら、諦めてくれる?」
「そうね。あなたを倒すことが目的だったわけじゃないし」
張り詰めていた心の線がふっと緩んだ。退いてくれるのなら、それに越したことはない。
「本来の目的を果たしに行くとするわ。それじゃあね」
彼女は本殿の屋根へと跳躍し、そこからさらに高く跳んだ。
はて。あの娘の本来の目的って、何だったっけ。
「……あ」
そうだ、あいつは妖怪を退治しに襲ってきたのだ。
つまり、彼女が向かったのは。
「待ちなさい!」
地面を蹴って浮かび上がる。自分の詰めの甘さが恨めしい。あいつは、と跳んで行った方向を見ると、真っ直ぐ日本橋方面へ向かっていた。強靱な脚力でもって、一歩で何十メートルも跳んでいる。かなりの速度だ。追いつけるだろうか。いや、追いつかなければならない。
全速力で飛行するのは、全速力で走るときとはまた違う力が必要になる。心の内で石炭をくべ続けるような感覚だ。手足を動かすわけではないので、肉体の疲労はあまりなく、息が上がってしまうようなこともない。しかしそれでも思念の石炭は尽きてしまうので、速度や距離に限界はある。それをちゃんと自覚できなければ、燃料切れに気づかぬまま墜落だ。
胸の炉へ燃料を目一杯放り込みながら、必死にあいつを追う。追い縋(すが)ろうとするのだけれど、距離が縮まる気配が全くない。
さっきの回避で起こった瞬間移動が使えれば。そう思って念じてはみるのだが、そちらも一向に発動しない。「桜吹雪」と同じように、土壇場に追い込まれたときにしか使えない能力なのだろうか。あるいは訓練が必要なのか。
すると、屋根すれすれを跳び続けていたあいつが、突然ぽーんと高く跳ねた。そしてこちらを振り向いて、得意げに笑った、ような気がした。
―― 見つけたっ!
弾んだ声までが届いたような、錯覚。
私の視界にも日本橋が映る。ちょうど路面電車が橋を渡っていくところだ。人通りもかなり多い。
この辺りのどこかで、パチュリーは術式を行っているはず。けれどまだ距離がありすぎて、場所までは分からない。何としてもあいつより先に発見し、合流しなければ。探し出す時間が必要なのは両者同じなのだから。
そう考えていると、あいつは何故か一際高いビルディングの上で立ち止まった。そしてその周囲に光が淡く浮かび上がる。あの矢と同じ、青白い光。だが形状は小さな粒だ。
まさか、こんな人の多いところで攻撃を? 警戒するが、光はふわりと漂い始めた。そしてその方向を見定めると、奴はそちらへと駆け出していく。
その視線の先には……。
「星さん!」
瓦斯灯の脇に立っているシャッポ姿、そして傍らには那津の小さな人影。間違いない。
奴はあの光の粒で探知したのだ。星さんたちの妖気か、それともパチュリーの魔力なのかは分からないけれど。とにかくこれで、私は完全に出遅れた!
「逃げて!」
飛びながら叫ぶものの、まだ星さんも、那津さえも敵に気づいていない。
金色の退魔術師が目映い光を両腕に纏う。今度こそ撃つ気だ。橋の上、3人の周囲を通る人は多い。しかしそれを意に介することなく、先んじて仕掛けるつもりなのだ。
光の輝きに那津が、そして星さんもあいつに気がつき、迎撃の体勢を取る。私も陰陽玉を可能な限り速く繰り出した。しかし間に合うだろうか?
『そいつに触れて、早く』
そのとき耳に飛び込んだのは、極めて冷静なパチュリーの声だった。
『もうすぐ陣は完成する。あなたがあいつに触れていれば、まとめて転送できる。それを撃たれる前に、早く』
一体どうして、と理由を考えている暇はない。私はさらに加速した。逆光に沈むあいつの背中がぐんと近づく。
けれど、このままでは ――。
「間に、合えぇぇぇぇっ!!」
陰陽玉が、あいつの顔の真横を掠る。驚きとともに彼女は振り返った。
そして一瞬の暗転。
「……間に合った!」
そう、今度の転移は一瞬で完了した。私は容易く彼女の懐へと入り込む。
そして、今にも光を放とうとしていたその両腕の狙いを、力の限り上へと逸らした。
『グッド・ジョブ』
あまり喜色の感じられない、魔女の賞賛の言葉。
それが聞こえたのと、街全体が鳴動し始めたのは、ほとんど同時だった。
「あ、あなた、一体……」
困惑に満ちた少女の台詞は、けれど最後まで続かない。世界が裏返っていく。光が陰へ、陰が光へと変換される。
膨大な霊力の奔流が空へと撃ち上げられたのは、そのときだった。間に合った、のだと思う。とりあえず最悪の事態だけは回避できた。
空も街も地面も、まるで無数の稲光が走っているかのごとく、激しい明滅を繰り返す。世界全体がびりびりと震えている。2人して縺れ合って落下していることに気がついたときには、もう地面は目の前だった。必死に制動を掛けて墜落の勢いを殺す。しかし鳴動する地面へ投げ出されると、すぐに右も左も分からなくなってしまう。
揺れが治まるまで私は蹲(うずくま)っていた。身体を動かそうにも動けなかった。変転する世界に、私はただただ圧倒されていた。