彼女は怒っているのか、泣いているのか。
逆光になって細かい表情は見えないけれど、彼女は荒い息をついて忙しなく肩を上下させていた。
両手で構えた剣が揺れ動く感情にふらふらと煽られて、でも私の心臓を向いていた。
「良いよ。殺せよ」
私は咥えていた安煙草にゆっくりと火をつけた。
最初の煙を深々と吸って、吐き、それから彼女の方に一歩足を踏み出してやりさえした。
肺が破れたら煙が吸えないな、とぼんやり考えた。
「ほら。黙って突っ立っていてもしょうがないだろ。さっさと殺せよ」
彼女は動かなかった。
押し殺した荒い息だけが聞こえてきた。
ある瞬間からそれにすすり泣く声が混じった。
私は苛立ちを覚え始めていた。
↑ ↓ ↑ ↓
城の中には図書館があった。
それほど大きくはない。
設計を命じた者の趣味よりも、義務感によって作られたことはまずもって間違いない。
埃を被った、古めかしく豪華な革装丁の本を何冊か棚から取り出して、ページを繰ってみればすぐに分かる。
それぞれの本には碌に読まれた形跡がなく、そのコレクションからは指向性や思想といったものが一切感じられなかった。
いかにも見栄えだけを考えて、業者に適当に揃えさせたという感じだ。
物質としても内容にしても、時の流れの中で本たちは完全に風化していた。
それでもこの建物の中の唯一の娯楽施設であることには変わりがなくて、ある程度の諦めと寛容さをもって接すればなかなか効果的に私の時間を潰してくれはした。
読み終わった三文小説を閉じて机の端に押しやり、机を上下に挟んで両手両足を水平に伸ばした。
欠伸をする。
肩の後ろの骨が鳴った。
机の隅では本を枕にして針妙丸が居眠りをしていた。
退屈が澱の様に空気に溶けていた。
その毒を吸ったら身体中が退屈に侵されてしまうのだ。
なるべく息をしないようにして椅子から立ち上がり、本を取って棚に戻した。
……くだらない。
詰めていた息を一度に吐き出して、机の方に戻った。
一気に老け込んだような気がした。
引くときに力を入れすぎて、椅子の足が地面を打って音を立てた。
びくりと針妙丸は肩を震わせて、それから顔を上げた。
「おはよう」と私は言った。
「寝ていた？」
「うん」
「今、何時？」
「さあね」
針妙丸は机の上で立ち上がって背中を大きく反らして伸びをした。
後ろに転ばないかと私はひやひやした。
「飯にしようか」と私は言った。
掠れた声で、自分の声じゃないみたいだった。
かび臭くて固いパンをシチューで少しずつふやかして口に入れる。
普通よりも小さく切った人参と芋とたまねぎ。
大して美味くはないけれど、とりたてて文句もない。
もっとひどい生活をしていたことなんて幾らでもある。
野草を煮て啜ったり、虫を焼いて齧ったり、そういう非文明的食生活に比べたら天国のようなものだ。
針妙丸は小さな容器に盛られた同じシチューを、幼児用のスプーンで実に美味そうに食べている。
こんなごく普通の食事をそんな風にありがたがって食べるというのが、私にはちょっと信じがたかった。
で、初めはからかったりもしたのだが、もうお互い慣れっこになってしまった。
小文化的食事を済ませると、私は棚から飲みかけのラム酒のビンを引っ張り出してきた。
コップに注ぎ、針妙丸がひっくり返して置いた碗の裏側の溜まりになっているところにも注ぐ。
彼女は碗に覆いかぶさるようにして酒に口をつけ、飲み始めた。
「ねえ」と彼女は言った。
「なに？」と私は言った。
「いつ始まるの？」
酒に弱い彼女の顔はもう赤らんでいた。
私は右手に持っていたビンの蓋に興味を持った振りをして俯いた。
針妙丸はぼんやりと私を見ていた。
「いつか、そのうちね」と私は言った。
引き延ばしにしている。
そのことは私が誰よりも分かっていた。
針妙丸はとりあえず頷いて酒に戻ったが、私にはあまり自分の言葉が信用できなかった。
城の中にはたくさんの部屋がある。
当たり前だ。居間と台所と便所だけ、というわけにもいかない。
長い間人の手が入っていなくてどれも埃まみれだったが、暇だったので咳き込みながらも私は一つずつドアを開けていった。
大概は、多少装飾に金を惜しまなかったというだけの普通の部屋だった。
拷問部屋とか、そういうものがないかと探していたのだが、そんなに突飛なものはなかった。
ただ、一つだけやや奇妙なものはあった。
鏡ばりの部屋。
灯りを持って最初に入ったとき、随分広い部屋だなと思った。
それはただ鏡が部屋を映して何倍にも広く見えているだけで、大きさは他の部屋と変わりがないのだということには、正面の鏡に映っている灯りと自分の姿を見つけてようやく気がついた。
……そうだ、自分の姿だ。
それを見つけた時にはそれが自分だとはとても思えなかった。
服にしても、痩せた身体にしても、顔のパーツ一つ一つにしても、私が知っているはずの自分のものなのだが、それが全部合わさった印象は私の記憶の中にあるものと決定的に異なっていた。
誰か他の者がいるのかと、思わず一瞬身構えたくらいだ。
鏡に映った姿は同じようにびくりと震え、そのお陰でこれが間違いなく自分なのだと認めさせられることになった。
私は床に灯りを置いて、鏡の中の自分の姿を正面から睨んだ。
鏡の中から自分が睨み返して来た。
合わせ鏡の向こうに、自分を睨んでいる自分の姿が幾つも映っていた。
私は力なく後ずさり、背面の鏡にもたれかかった。
それもまた私の背中を至近距離で映していた。
廊下から針妙丸が私を呼ぶ声が聞こえてきた。
その声を聞いた瞬間、ふっと胸のつかえが取れて、安堵した自分がいた。
自分でそれに気付くと、そんなはずはない、と私は慌てて鏡をもう一度見た。
鏡には、案の定、すっかり安堵した自分が映っていた。
私はますます強く鏡を睨みつけた。
針妙丸はもう一度私を呼んだ。
私はしばらく黙って目を瞑り、鏡にもたれかかっていた。
私は毎晩のようにうなされた。
目を覚まして、心配そうに私の顔を覗き込む針妙丸の顔を見て私は余計に怯えた。
彼女は私が来るべき戦いに怯えているのだと考え、色々な言葉をかけて私を宥めようとした。
私があなたを守ると彼女は言った。
ありがとうと私は言った。
だが彼女は間違っている。
図書館の本はすべて読んでしまった。
私はこの陳腐なコレクションの中では幾分ましな本を取り出して、もう一度読んでみることにした。
針妙丸は机の上で本を椅子のようにして座って、黙って私を見ていた。
コップの水で時々喉を潤しながら、私は見知った血なまぐさい話を拾い読みしていた。
その途中にも何か奇妙な違和感はあった。
ところどころの文章表現が、私の記憶にあったものと異なっている、そんな気がした。
私は首を捻ったが、まさかそんな馬鹿なことはないだろうと、結局は自分の記憶力を疑う方を選んで、深く考えずに読み進めていった。
終盤に差し掛かって、私は息を飲んだ。
これはおかしい。
こんなことが……。
小説には以前読んだときには存在しなかった続きが現れていた。
最後のシーンで撃ち殺されたはずの革命家は、何事もなかったかのように立ち上がり、血まみれの上着を脱ぎ捨てて、再び首都を目指した。
私は何度もそのページの角を指の腹で撫ぜて、存在を確かめた。
本を閉じて机の上に置きなおし、表紙を右手でゆっくりと撫ぜた。
本が脈打っているような気がした。
それから目を瞑って、ゆっくりと息を吸い、吐いた。
針妙丸は私の動揺に気付いたのか、机の上で私の方に向き直って心配そうな顔をした。
「どうしたの？大丈夫？」と彼女は言った。
「大丈夫」と私は言った。「なんでもないよ」
始まる、と私は思った。
↑ ↓ ↑ ↓
煙草は味がしなかった。
私は剣が私の心臓を貫いてくれる瞬間を待っていた。
彼女の手元はふらついている。
すすり泣きの声はますます大きくなった。
「殺せよ」と私はもう一度言った。
彼女に聞こえるように。
自分に聞こえるように。
逆光になって細かい表情は見えないけれど、彼女は荒い息をついて忙しなく肩を上下させていた。
両手で構えた剣が揺れ動く感情にふらふらと煽られて、でも私の心臓を向いていた。
「良いよ。殺せよ」
私は咥えていた安煙草にゆっくりと火をつけた。
最初の煙を深々と吸って、吐き、それから彼女の方に一歩足を踏み出してやりさえした。
肺が破れたら煙が吸えないな、とぼんやり考えた。
「ほら。黙って突っ立っていてもしょうがないだろ。さっさと殺せよ」
彼女は動かなかった。
押し殺した荒い息だけが聞こえてきた。
ある瞬間からそれにすすり泣く声が混じった。
私は苛立ちを覚え始めていた。
↑ ↓ ↑ ↓
城の中には図書館があった。
それほど大きくはない。
設計を命じた者の趣味よりも、義務感によって作られたことはまずもって間違いない。
埃を被った、古めかしく豪華な革装丁の本を何冊か棚から取り出して、ページを繰ってみればすぐに分かる。
それぞれの本には碌に読まれた形跡がなく、そのコレクションからは指向性や思想といったものが一切感じられなかった。
いかにも見栄えだけを考えて、業者に適当に揃えさせたという感じだ。
物質としても内容にしても、時の流れの中で本たちは完全に風化していた。
それでもこの建物の中の唯一の娯楽施設であることには変わりがなくて、ある程度の諦めと寛容さをもって接すればなかなか効果的に私の時間を潰してくれはした。
読み終わった三文小説を閉じて机の端に押しやり、机を上下に挟んで両手両足を水平に伸ばした。
欠伸をする。
肩の後ろの骨が鳴った。
机の隅では本を枕にして針妙丸が居眠りをしていた。
退屈が澱の様に空気に溶けていた。
その毒を吸ったら身体中が退屈に侵されてしまうのだ。
なるべく息をしないようにして椅子から立ち上がり、本を取って棚に戻した。
……くだらない。
詰めていた息を一度に吐き出して、机の方に戻った。
一気に老け込んだような気がした。
引くときに力を入れすぎて、椅子の足が地面を打って音を立てた。
びくりと針妙丸は肩を震わせて、それから顔を上げた。
「おはよう」と私は言った。
「寝ていた？」
「うん」
「今、何時？」
「さあね」
針妙丸は机の上で立ち上がって背中を大きく反らして伸びをした。
後ろに転ばないかと私はひやひやした。
「飯にしようか」と私は言った。
掠れた声で、自分の声じゃないみたいだった。
かび臭くて固いパンをシチューで少しずつふやかして口に入れる。
普通よりも小さく切った人参と芋とたまねぎ。
大して美味くはないけれど、とりたてて文句もない。
もっとひどい生活をしていたことなんて幾らでもある。
野草を煮て啜ったり、虫を焼いて齧ったり、そういう非文明的食生活に比べたら天国のようなものだ。
針妙丸は小さな容器に盛られた同じシチューを、幼児用のスプーンで実に美味そうに食べている。
こんなごく普通の食事をそんな風にありがたがって食べるというのが、私にはちょっと信じがたかった。
で、初めはからかったりもしたのだが、もうお互い慣れっこになってしまった。
小文化的食事を済ませると、私は棚から飲みかけのラム酒のビンを引っ張り出してきた。
コップに注ぎ、針妙丸がひっくり返して置いた碗の裏側の溜まりになっているところにも注ぐ。
彼女は碗に覆いかぶさるようにして酒に口をつけ、飲み始めた。
「ねえ」と彼女は言った。
「なに？」と私は言った。
「いつ始まるの？」
酒に弱い彼女の顔はもう赤らんでいた。
私は右手に持っていたビンの蓋に興味を持った振りをして俯いた。
針妙丸はぼんやりと私を見ていた。
「いつか、そのうちね」と私は言った。
引き延ばしにしている。
そのことは私が誰よりも分かっていた。
針妙丸はとりあえず頷いて酒に戻ったが、私にはあまり自分の言葉が信用できなかった。
城の中にはたくさんの部屋がある。
当たり前だ。居間と台所と便所だけ、というわけにもいかない。
長い間人の手が入っていなくてどれも埃まみれだったが、暇だったので咳き込みながらも私は一つずつドアを開けていった。
大概は、多少装飾に金を惜しまなかったというだけの普通の部屋だった。
拷問部屋とか、そういうものがないかと探していたのだが、そんなに突飛なものはなかった。
ただ、一つだけやや奇妙なものはあった。
鏡ばりの部屋。
灯りを持って最初に入ったとき、随分広い部屋だなと思った。
それはただ鏡が部屋を映して何倍にも広く見えているだけで、大きさは他の部屋と変わりがないのだということには、正面の鏡に映っている灯りと自分の姿を見つけてようやく気がついた。
……そうだ、自分の姿だ。
それを見つけた時にはそれが自分だとはとても思えなかった。
服にしても、痩せた身体にしても、顔のパーツ一つ一つにしても、私が知っているはずの自分のものなのだが、それが全部合わさった印象は私の記憶の中にあるものと決定的に異なっていた。
誰か他の者がいるのかと、思わず一瞬身構えたくらいだ。
鏡に映った姿は同じようにびくりと震え、そのお陰でこれが間違いなく自分なのだと認めさせられることになった。
私は床に灯りを置いて、鏡の中の自分の姿を正面から睨んだ。
鏡の中から自分が睨み返して来た。
合わせ鏡の向こうに、自分を睨んでいる自分の姿が幾つも映っていた。
私は力なく後ずさり、背面の鏡にもたれかかった。
それもまた私の背中を至近距離で映していた。
廊下から針妙丸が私を呼ぶ声が聞こえてきた。
その声を聞いた瞬間、ふっと胸のつかえが取れて、安堵した自分がいた。
自分でそれに気付くと、そんなはずはない、と私は慌てて鏡をもう一度見た。
鏡には、案の定、すっかり安堵した自分が映っていた。
私はますます強く鏡を睨みつけた。
針妙丸はもう一度私を呼んだ。
私はしばらく黙って目を瞑り、鏡にもたれかかっていた。
私は毎晩のようにうなされた。
目を覚まして、心配そうに私の顔を覗き込む針妙丸の顔を見て私は余計に怯えた。
彼女は私が来るべき戦いに怯えているのだと考え、色々な言葉をかけて私を宥めようとした。
私があなたを守ると彼女は言った。
ありがとうと私は言った。
だが彼女は間違っている。
図書館の本はすべて読んでしまった。
私はこの陳腐なコレクションの中では幾分ましな本を取り出して、もう一度読んでみることにした。
針妙丸は机の上で本を椅子のようにして座って、黙って私を見ていた。
コップの水で時々喉を潤しながら、私は見知った血なまぐさい話を拾い読みしていた。
その途中にも何か奇妙な違和感はあった。
ところどころの文章表現が、私の記憶にあったものと異なっている、そんな気がした。
私は首を捻ったが、まさかそんな馬鹿なことはないだろうと、結局は自分の記憶力を疑う方を選んで、深く考えずに読み進めていった。
終盤に差し掛かって、私は息を飲んだ。
これはおかしい。
こんなことが……。
小説には以前読んだときには存在しなかった続きが現れていた。
最後のシーンで撃ち殺されたはずの革命家は、何事もなかったかのように立ち上がり、血まみれの上着を脱ぎ捨てて、再び首都を目指した。
私は何度もそのページの角を指の腹で撫ぜて、存在を確かめた。
本を閉じて机の上に置きなおし、表紙を右手でゆっくりと撫ぜた。
本が脈打っているような気がした。
それから目を瞑って、ゆっくりと息を吸い、吐いた。
針妙丸は私の動揺に気付いたのか、机の上で私の方に向き直って心配そうな顔をした。
「どうしたの？大丈夫？」と彼女は言った。
「大丈夫」と私は言った。「なんでもないよ」
始まる、と私は思った。
↑ ↓ ↑ ↓
煙草は味がしなかった。
私は剣が私の心臓を貫いてくれる瞬間を待っていた。
彼女の手元はふらついている。
すすり泣きの声はますます大きくなった。
「殺せよ」と私はもう一度言った。
彼女に聞こえるように。
自分に聞こえるように。