東京の冬については、最近寒くなったという人と、いや暖かくなったのだという人がいる。寒冷化を唱える人は「土は暖かいが石は冷たい。石のビルディングばかりになってしまった街は寒い」と唱え、温暖化論者は「人が多く集まっているのだから暖かくなるのが道理だ」と主張する。
どちらが正しいかなど知らないけれど、少なくとも今日に限っては、私は寒冷化説を支持したい。
「うぅ、寒……」
肩掛けの合わせを、私はしっかりと首に巻き付けた。東京を丸ごと氷室(ひむろ)へ放り込んだような寒さである。しきりに肩や腕を擦ってみるものの、激しい底冷えは容赦なく体温を奪っていく。
すでに陽はかなり高い。それなのに、陽光は街を暖めてはくれない。
「うん、この辺りでいい」
パチュリーは手頃な樹を見繕っていた。術式の跡が目立たないよう、建物などの陰にて呪文を唱える必要があるとのことだ。
「今なら大丈夫だろう。人の気配もないし」
「勝手に人払いの結界なんて貼っちゃって、怒られないといいのですが……」
この中じゃ一番頼りがいのある星さんが一番びくびくしている。バレるかどうかよりも、私はその点を不安に感じてしまう。
パチュリーが地図上に描いた五角形は、頂点のひとつが真南を向いていた。私たちが今来ているのはその南端、芝区の増上寺である。皇居を中心とした五芒星の残りの頂点は、ここから時計回りに、青山練兵場、赤城神社、順天堂医院、そして日本橋に位置していた。
術式を完了していないのは、この増上寺と日本橋の二カ所である。
「こうやってこそこそ魔法を仕掛けるなんて、ここはまだいいけどさ、日本橋は難しいんじゃない? 人通りはここの比じゃないでしょう」
「だから最後にしたのよ。今作っているタイプの転移魔法陣は、完成すれば即座に効力を発揮する。たとえ追っ手がこちらを見つけようと、捕まる前に施術を終えてしまえばヴワルへ逃げられるもの」
樹の根本へしゃがみ込みながら、魔女は応えた。適当な樹を見つけたらしい。そして揃えた膝の上で本を開き、何とも知れない言語で呪文の詠唱を始めた。まるで見えない帳(とばり)の向こうから響いてくるかのような不思議な声色だ。
「あれが西洋魔術ですか。私もこの目で見るのは初めてです」
星さんが興味津々といった顔で呟いた。状況を完全に脇に置いて楽しんでいるようだ。
「目で見るのは、ってことは聞いたことはあるんですか?」
「南蛮から入ってきた……いや、今はヨーロッパと呼んだ方がいいですね。輸入された文献で少しだけ」
「二人して様々な怪異を相手にしたからね。まぁ勉強がてらさ。私も実物は初めて見る」
「どうやって発音してるんでしょうね、あれ」
「声というものは空気を媒体として震わせますが、その媒体に当たるものを様々に置換することで、力ある術にしているのですよ。同じような術は世界中にあるそうです。退魔の巫女もかつてはそういった言霊術を用いたそうですし、桜子さんも練習してみては?」
「いやぁ……」
ふるふると首を横に振る。今ある力を使いこなすことだけで精一杯なのだ。ここで新しい術に手を着けられる気がしない。
やがて、パチュリーが両掌を肩の高さへ掲げた。するとその中心、何もない宙空に青い光が灯り、みるみるうちに輝きを増す。魔女の詠唱が昂(たか)まっていく。すると今度は逆に光が衰えていき、その跡に透明な結晶が残された。
こぉん、と音叉(おんさ)を叩いた様な音が響き続けている。
「凄まじい魔力だ」
那津が自分のペンダントを指しながら言った。共鳴しているのか、その胸元の宝石も微かに光っている。
「あの年齢でこれほどの魔力を扱える者など、そうそういないだろうね」
そんなに凄い魔女ならば、護衛などなくても自分の身は護れそうなものだけれど。喘息のせいで魔法が使えないということだろうか。
「それもあるでしょうけど」
星さんは槍の入った包みを背負い直した。
「魔法使いというものは、魔法道具を作る技術者ですから、闘うにはそのための武器が必要なのです」
「へぇ。魔女っていうと、むにゃむにゃ呪文を呟いて魔法を唱えるって印象がありますけど」
「そういう者もいないわけではないでしょうが、発動に時間のかかる術なんて、敵と相対してから唱え出すのでは遅すぎますからね。あらかじめそういった呪文を仕込んだ道具 ―― 例えば杖とか、箒とか、人形とか ―― を作っておいて、武器にするわけです」
「パチュリーの場合、そのアイテムが本というわけだ」
ペンダントトップを指先でいじりながら、那津が説明を引ったくる。
「見たところ彼女は、初歩的な属性魔法を自動発動できる魔法書しか持っていないようだし。まさかこのご時世に、本格的な退魔師に出くわすとは思っていなかったんだろうね。お子様らしい危機管理能力だ」
那津の揶揄(やゆ)が終わると同時に、響いていた透明な音が止まった。今や完全に輝きの失せた結晶が、その場でゆっくりと回転している。そしてそれがそのままゆっくりと降下していき、やがて樹の根本の草影へ隠れて見えなくなった。
「終わったわ。次へ行きましょう」
パチュリーが立ち上がる。声はもう普通のものに戻っていた。
「この調子で、最後の一カ所も済ませたいものだけど」
「……残念ですが、そうも行かないようです」
はらり、と星さんの手から布が舞う。彼女は既に包みを解いて槍を出し、組み立て式のそれを展開し終えている。
自分の首筋に、ちりちりとした感覚が走る。直感で理解した。これは敵意だ。
「今、何者かが結界を破りました」
「真っ直ぐこちらへ近づいて来ているな。やれやれ」
那津は敵の位置を素早く探ってから、そして武器である一対の棒を構えた。鉤型に曲がったそれはダウジングロッドというのだと聞いた。その名の通り本来は探索用のものだが、彼女はそれを鼠の指揮や近接戦闘にも応用している。
3人でパチュリーを取り囲むように立ち、周囲を警戒する。辺りを巡る風が、境内の樹々をざわざわと揺らした。
ピィィ、と鳥の鋭く鳴く声。
「……来ました! 速い!」
星さんが叫ぶのと、光の筋が天高く打ち上げられたのはほぼ同時だった。
私の正面、樹々の向こうからの遠距離攻撃だ。続けて、別の場所から2射目、そして3射目が打ち上がる。私たち視界の及ばない距離を、敵はかなりの高速で動いている。
青白く輝く3本の光矢は、放物線軌道の頂点で無数に分裂した。
それらは雨霰(あめあられ)のごとく、こちらを目掛けて降り注ぐ!
「伏せてッ!」
誰が叫んだのかは分からない。その声が耳に飛び込んだときにはもう、私の認識能力は暴走し、時間感覚が引き延ばされていた。
緩慢に動く世界の中、私は右手で印を切る。
巫女の力を使うには『変身』が必要だ。集中と意識変換が必須である所作を、素早く確実に行う方法。それが変身時に印を切ることだと、星さんが教えてくれた。巫女の力を引き出すのと同時にそれを行うように訓練しておけば、いざというときにその逆も可能となるわけだ。
そしてその策は上手くいった。都会の寒気を切り裂くように、桜薫る春の風が渦巻いた。私は一瞬、この世の全てから切り離され、光に閉じ籠められる。伸ばした手が、堅くて温かい球に触れる。まるで吸い着くように、陰陽玉は私の掌へと収まった。桜色の光が胸元へ収束し、ふわりと靡(なび)いてタイとなる。
光の奥から陰陽玉を引き出し、『変身』の完了を自覚したそのときには、すでに手の届きそうな距離まで矢の雨が迫ってきていた。
考える時間はない。私は手にした陰陽玉にありったけの力を注いで、それで地面を殴り付けた。
「間に合えぇぇぇぇ!」
害するものから身を護るためにと、星さんが考案した術だ。
4人を囲むように、私は光の壁を作り上げる。
ガガガ、と鉄を強く打ったような音。防護の陣は間一髪で間に合った。撃ち落とした矢が地面にばらばらと散らばる。どうやら霊力を固めたもののようだが、それはかなり高等な技だと聞いた覚えがある。
「あ、危なかったぁ……」
「よくやった、桜子。さて、敵は」
那津は再びダウジングをしようとしたが、すぐにその必要はなくなった。星さんは既にただ一点を真っ直ぐ見上げている。私も視線をそちらへと向けた。本殿の上だ。
びょう、と風が鳴る。少女の蜂蜜色の髪がそれに靡いた。あの少女が、パチュリーが言っていた退魔術師だろうか。
「 ―― 妖獣が2匹、かぁ。あら、この前のおチビちゃんもいるじゃない。そして……あら?」
少しだけ高めの声は、高い所から発せられているせいかよく響いた。
品定めするように順番にこちらを眺めていた彼女の目が、私の視線とかち合った瞬間に丸くなる。
「あなた、人間じゃない。それなのにどうして、妖怪の味方をするのかしら」
「どうして、って」
言葉に詰まる。だが理由は単純だ。私は二人に世話になった恩がある。
だが彼女は、私の返答を待つことなく言葉を続けた。
「妖怪は一匹残らず駆逐しなきゃダメよ。そいつらは自分勝手に暴れるしか能の無い害悪。良い顔をしてたら、いつかあなたも殺されるわ」
「何ですって?」
カッと頭に血が昇る。大した挑発じゃないか。
胸に灯った炎がどんどん燃え上っていく。反対に、思考回路は冷静だった。襲撃されたこの状況で何が最善手かを、私の頭は必死に導き出そうとしていた。
「星さん、那津。その子を連れて先に行って」
「おい、それは余りにも」
「あいつが善悪の見境なく妖怪を退治するというなら、私は人間としてそれを止める」
皆を傷つけることなんて、許しちゃいけない。
私の言葉に、那津はまだ何か言いたげな顔をしたけれど、星さんが黙って頷いたのを見てそれに倣った。
「そう、あなたは飽く迄も妖怪の味方をするのね」
屋根の上の少女はそう言うと、両掌を重ねてこちらへと突き出した。
その先に、先程の矢と同じ青白い光が生じる。瞬く間にそれは球となり、どんどん膨らんでいった。
「なら仕方ないわ。一緒に退治してあげる」
そして。
極限まで膨張した光球から一直線に光線が放たれるのと、パチュリーを抱えた星さんと那津が逃走のために地面を蹴ったのと、私が宙へと躍り上ったのは、ほとんど同時だった。
◆ ◇ ◆
「おや……?」
黴臭いその空間で、紅い悪魔は本から顔を上げた。久々の感覚に、彼女の黒い羽根が愉快そうに揺れた。
「誰かがここへの転移陣を完成させようとしてやがりますね。お客様ですか……うふふ」
跳ねた声でそう言うと、彼女は読んでいた本を無造作に放り投げて、ぱんぱんと手を打ち鳴らす。するとそれに喚び出された小さな人影が、彼女のすぐ傍へと背中から落下した。
「ぎゃふん!」
「さぁさぁさぁ、お客様ですよ、私の可愛い下僕(げぼく)ちゃん」
「……呼ぶときはもうちょっと丁重にだな」
主であるはずの紅い悪魔へ吐いた言葉は、しかしどこか尊大である。やがて立ち上がった少女は、悪魔より一回りは幼く見えるものの、その視線に籠められた殺意は相当に上質だった。
並の悪魔なら即座に平伏する睨みを、しかし紅い悪魔は平気で見下す。
「下僕の癖に生意気ですねぇ。あなたに発言権はありませんよ」
「貴様……」
「あれぇ、刃向います? 刃向ってみます? ヴワルの神にも等しい、この私に」
下僕の腕は怒りに震えるも、やがて力なくぶらりと垂れ下がった。背中にはやはり黒い羽根が一対。彼女もまた悪魔であった。それも本来なら、こんな低級悪魔に支配されることなど有り得ない、膨大な魔力を持った悪鬼だ。
「うふふ。抵抗なんて無駄だってことは、もう十分に分かってますよね」
「…………」
せめてもの意地か、少女はそっぽを向く。その様子をにやにやと紅い悪魔は眺めていた。
「さてさて、じきに誰かがこのヴワルへとやって来る様です。こんな娯楽もクソもない退屈な世界ですが、ようやくお楽しみも増えようというもの。来訪者なんて、あなたがここへ来て以来ですから……えぇと」
「御託はいい。私に何をしろって言うんだ?」
「何でもいいから、私を愉しませてくださいよ。うーん、でも、そうですね。せっかくなので、奴隷を増やす方向で行きましょうか」
長身の悪魔がその姿を空中に溶かしたかと思うと、次の瞬間には下僕を背後から抱き締めていた。その両腕が幼く小さい肩を艶(なま)めかしく撫でる。
「ちゃあんと上手くできたら、あなたをここから解放してあげてもいいわ」
「……本当に?」
「契約に嘘は持ち込みませんよぉ」
髪色と同じ紅い舌を、少女の耳朶(じだ)へと這わせる。下僕の表情に嫌悪が混じるが、もちろん主は気にも留めない。
「さぁ、ヴワルの管理者として命じます」
不吉な黒い風が渦巻いて、空間のそこら中に散らばった本の頁を乱暴に進めていく。紙が捲(めく)れる音がどんどん重なっていき、ついには小蠅の羽音のようにぶぅんと鳴り始める。
「侵入者を思いっきりいたぶりなさい。我が僕(しもべ)、レミリア・スカーレット」
桜子のはアレですか、世に言う変身バンk