Coolier - 新生・東方創想話ジェネリック

ハルジオン

2014/01/15 14:35:15
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 ※このSSには(ry


 「救いのない魂は 流されて 消えゆく」
メリッサ/ポルノグラフィティ


 「名前があったなぁ 白くて背の高い花」
ハルジオン/バンプオブチキン


是非曲直庁。
四季映姫の机。



「……」

映姫が、目を閉じて、何やら考え事をしているところへ、その前を、ふと、死神の一人、小野塚が通りかかり、そのまま通り過ぎていった。

「……」

かと思いきや、ふとどこで足を止めたのか、ひた、ひた、ひた、かこ、と、映姫の机まで、器用に後ろ歩きをして、来た道を戻ってくる。映姫は、気づいているのかいないのか、何かを想った姿のまま、ぴたりとして動かない。

「……。お疲れですか?」

小野塚が、ちょっと背の高い体を傾けると、映姫は、あっさりと目を開いて、目だけ動かして、部下の姿をじろっと見た。

「……。なにかそう見える様子でもあるの?」
「いえ。まあ」
「残念ながら、それほどお疲れではないわよ。貴方に小言を言うくらいの余地ならたっぷりと余ってるわ」
「そりゃご健勝そうです、はい」
「貴方は元気そうで何よりね、こまっちゃん」
「……。は?」
「こまっちゃん」
「こまっちゃん?」
「こまっちゃん」
「……」

真顔でうなずく(ちょっと半眼ぎみではあるが)上司の顔を、どうしたものかというじっとりとした目つきで見てから、小野塚はいっぺん口を開きかけ、閉じてから、あらためて開くと、言った。

「えーと。なんです、それは――あたいが映姫ちゃんと、四季様のことをお呼びしてもいい、とそういう感じのことなんですか?」
「マイナス1」
「は?」
「いえ。別に呼んでもいいけどなぜかそのたびに、貴方の最低賃金ラインが降下していくことでしょうね。具体的に言うと」
「いえ、はい。いえ、わかりました。小野塚小町、仕事に戻ります」
「あら。何だかいつになくまじめなのね。まあ、いいことだわ」

映姫はふ、とちょっと吐息をもらすと、机の前から歩きだす小野塚のあとを追うように席を立った。

「おや? ああ、かわやですか」
「いえ。午後から休暇をとってあるのでね。引き継ぎの準備をしてくるのよ」
「さいですか」

言いつつ、とことこと歩く小野塚を追いこして、映姫は、庁の廊下をわたって、自分の執務所へと足を向けた。


午後。

ところで。


冥界。
白玉楼。

妖夢は、ちかごろ、妙な話を彼女の同居人たちから聞いていた。
いわく、彼女の主である西行寺幽々子の世話人の一人である幽霊から聞いたところでは、ちかごろ、幽々子から変なことを聞かれるようになった、ということである。

「一昨日のことでございますけど」

とは、幽々子の身の回りの世話役の中でも古い、年かさの老女の姿をした、ウメ、という者から聞いたことである。前記したとおり、その日より一昨日前のこと、いつものように台所に立っているウメの後ろへ幽々子がふらりとやってきて、――そのときの様子をみるに、どうもなにか物探しをなさっているご様子で、「なにか?」とウメが問うたところ、「ああ、いえ」と笑ったあとで、ちょっと怪訝な顔になって、「ここの棚に餅菓子がはいっていたと思うのだけど」と、もの問いたげに聞いてきたということだ。

「その餅菓子ですけど、どうも、お話をお聞きしましたところ、幽々子様にその日から三日も前にお出しした餅菓子のことであったようでして……」

ウメがそのことを告げると、幽々子はぱちくりとまばたきして、しかしウメの言うことを疑う様子ではなく、「あら、そうだったかしら?」と言って、ごめんなさいね、と言ってふよふよとどこかへ行ってしまったそうだ。
別に妖夢にとっては幽々子がちょっとボケているようなのは不思議に思うところではなかったので、「気にすることではないと思います」と言ってその場を切りあげて立ち去った。
それからまた数日もしないうちに、これまた似たような話を、今度は、幽々子の着付けなどで、わりと仲のいい、お千という、妖夢とよく似た服を着た若い白髪の娘から聞いた。

「三日前、だったと思いますけど」

と、千が言うには、彼女がいつものように、これまた幽々子の部屋で着がえを手伝っていたときのことである。無論、なにか気質があうのだか、幽々子の身の回りの世話をするあいだ、自然と話が進むことが多く、幽々子もこの年若い(といっても見かけだけだ。妖夢が聞いたところ、少なくとももう300年ちかく西行寺の家というか、幽々子の家に仕えて働いているらしい)幽霊が可愛く、かつ親しみがあるのだか、千は遠慮(形だけだ)するのだが、綺麗な帯や可愛い着物を見つけると、千で着せ替えして遊んだり、時には買ってあげることさえしている。まぁ、それは横にしておいて、それに関係のあることが本題なのだが、千が言うように今より三日前のこと、前記したとおり、歓談しながら着がえをしていたところ、幽々子が変なことを言ったらしい。
それは千がその日していた和服の帯を見てのことらしいが、

「あら、綺麗な帯ね。どこで見つけたの?」

と、言ってきたという。千はそれを聞き、困惑したという。それはそのときより三日ほど前に、いつものごとく、幽々子にすすめられて、ありがたくも頂戴した帯であったからだ。
賢明にも千は聡い子であったから、適当に話題をぶってその場をそらしたが、なぜか妙に気にかかり、今まで覚えていたということらしい。
が、これも妖夢にはあまり感ずるところのない話で、別に幽々子ならそういう他人を惑わすボケやもの忘れくらい平座でやるだろうと思い、「そう気にすることもないと思いますけど」と、その場は話を切りあげておいた。
とにかくそういう経緯で、今日の今日まで委細気にせず庭の手入れや屋敷の仕事に精を出していたのである。あの幽々子主導で起こした騒ぎからすでに60年余、人間の友人知り合いも遠くなる時期にあり、幽々子も少々気が呆けてきたのだろう、と自分の呆けも感じながら考えていたときのことだ。久方ぶりに、あの世の怖いお方が来訪なされたのは。


白玉楼。
桜の林。


「……む」

妖夢は門のあたりに来客の気配を感じ掃いていた箒を立てかけた。すたすたと落ちついた足どりで佩いた太刀の居心地をいつでも切れるようにただし、気を抑えて歩く。さすがに多少の成長も見られた背たけや乳の張り具合と同様に、剣士としても振る舞いが身についてきている。
この気配は、と近づくにつれ気をゆるめ、ちょうど気配の主に会うところで、妖夢は刀から手をはなし、非礼のないよう取り繕った。ひとすじの乱れなしに敷かれた玉砂利と敷石の上を渡ってくる人影を見て、音もなく頭を下げる。

「いらっしゃいませ。失礼いたしました」
「いえ」

四季映姫はいつもの調子で言い、何の用かといぶかしむこちらの視線を察しながらも気にしない口調で口を開いた。

「少し様子を見に来ました。幽々子はいるわね?」
「はい。ご案内いたします。こちらへ」

昔のように案内をこばんで勝手に行くことなく、映姫はいつものように、素直に妖夢の案内にしたがって、西行寺家の敷地を歩いた。
ちょうど春を迎えて久しい西行寺家の敷地は、白玉楼の桜の海ならずとも花の生気に満ちている。花好きが唯一の嗜みというだけあって、今では映姫はここの庭に来て、妖夢のうしろを歩く間、それを密かな楽しみとしているようだ。もちろん、食べ物と酒の味が好きという人外にしては俗っぽい趣味を持つことも、妖夢はすでに知っていることだが。
……昔のような少女の姿から少し成長してからというもの、周囲の目や対応は、言葉にせず変わったように思うのを、妖夢は密かに感じていた。まぁ、半人前扱いはまだ変わらずのようだが、それがそうと分かるくらいには、それは少しの変化をとげていた。

「幽々子の様子はどう?」
「はぁ、あいかわらずですけれど」
「まぁ、相変わらずか」

分かっていたというように言いながら、「お客様です」と、妖夢が言い、中からぱたぱたと出てきた若い娘の幽霊が、かしこまりました、と言いながら、奥に引っこんでいく。映姫の訪問は唐突で急なものに違いないが、もともとこの西行寺家に来客するものなど、一時期盛んになる以外は映姫ぐらいしかいない(もう一人の気まぐれな妖怪は、わりと勝手に上がりこんでいつのまにか主人と酒盛りをしているので、けっこう除外していい)といえるので、急、とはいえ、だいたい映姫の好みにあわせたものはほぼ把握されていた。
妖夢に連れられ、客間に通されると、「では、お待ちを」と言って部屋を辞しようとする妖夢を、「待ちなさい」と、映姫の声が引きとめた。

「はい」
「たまには話をしましょう。そこへ」

はぁ、と映姫の言うことでは逆らうわけにもいかず、妖夢はお茶を運んできた顔見知りの幽霊に、自分がやっておく、と、簡単に説明して、ちょっと渋めに、気を苦くして、しかたなく、大人しく茶を並べ、とぽとぽと急須から湯のみへ注ぎ、映姫のぶん、自分のぶん、と、わざわざ立っていって、丁寧にさしだした。

「淹れ方がうまくなったわね」
「はぁ、恐れ入ります」

あまり嬉しくもない世辞(昔とは違った意味で苦手なのだ)を聞きつつ、主人が来るべき座布団の横で畳に座っていると、映姫がまた口を開いた。

「最近はどうです?」
「は? いえ、さきほど申し上げたとおり、いつもどおりと」
「いえ。あなたのことですよ」
「はぁ。まぁ……、委細変わりありません」
「そうですか」

妖夢がちょっと困惑ぎみに相手をしていると、ぱたぱたと廊下を歩く足音がして、なんだろう、と映姫の思考を勘ぐっていた妖夢のつぶやきを遮った。

(何か……何だろう)

心中でもやもやしているうちに、西行寺家の主が、いつものほわほわした様子で姿を現した。

「どうも遅れまして。ご壮健そうで何よりですわ」
「わざわざそういう言葉を使ってのけるあたり、いつもどおりあいかわらずの様ですね。まぁお座りなさい」
「あら、お怖いですわ。今日のご用事はいったいなんでしょうか?」
「もちろん貴方への用事は説教と説教とあるいは説教しかありませんよ。私の趣味ですから」
「敵いませんわ」

幽々子がちょっと眉尻をさげて気弱げな表情をつくるがこれはおどけだ。もちろん虚勢というわけではなく、わざとらしく、というのが見え見えの様子で恩赦をもとめている。それがまたいっそう映姫の気を逆なでするのだが、わかっていてもやるあたりが幽々子が幽々子たるゆえんである。
とつとつと説教だか教壇だかわからないような長話を幽々子の横で聞き流していると、ふと、幽々子の様子を見て妖夢はふと違和感を感じた、……ように、その横顔を見て思った。何だろう、と違和感の正体を探ろうとすると、頭のすみにこびりつくようにしてひっかかる記憶の残り香がある。それは、なぜか、妖夢がここ最近聞いたばかりの与太話、と当人は思っていた、使用人仲間たちの顔につながった。人に言ったらある人は笑うだろうが、それは既視感、というより、もっと明確な感覚、すなわち、第六感、と、そう呼べるものだっただろうか。

(顔……が……?)

やはり、いつかどこかで、いや、自分だけではない、映姫も、あるいは他の使用人仲間もどこかで見覚えのある。しかし、それはどこか不気味な、何かがすっぽりと、あるべきものが抜け落ちた感覚。それは、ほかならぬ、幽々子の横顔から漂ってきており、妖夢は思わず目をまたたいて、首をふった。(小さく、だが。自分が今どこにいるか。これをしてはいけない、あれをしてはいけない、という感じだけが、やけにはっきりと意識にこびりついて、委細違和感を、気のせいではない、拭いがたいものにしていた。だが、それは? と考えると、目の前に書かれたぼやけて見えない文字絵のように、手をのばすとすっと消え、また手を縮めると、ぼやりと浮かんだ)

(これは……何だ)
「妖夢。どうかした?」

ふと傍らから問うてきた、主のやはりぼんやりと何かが呆けて見える顔に、うすら寒さにも似た、心のスキマから来る、心もとなさを見つつ、妖夢はいえ、とか、ええ、いえ、とか、とにかく(何と答えたものかわからないし、実際になにを答えていたのか分からない。ただ間違いなく言えるのは、そのときに自分の薄い唇からもれだした声は、相当聞いている者からすれば不審だったろうということだ)幽々子のぷくりとふくらんだ薄くみずみずしい唇を見ながら、なぜかその顔をまともに見ることができずに答えているあいだに、なにか向かいの映姫からちらりとした視線のようなものを感じて妖夢は顔を上げ恐る恐るそちらを見たが、

「どうかしたのはあなたでしょう、幽々子。今日の様子には悪いがほとほとまじめに聞く気が感じられませんよ」

映姫は、幽々子のほうを見ていて、こちらをこそとも気にしていない。幻覚? そうも思ったが、何にせよそんな疑問は、主と映姫の会話のあいだに押しながされ、押しこめられるように消えていった。映姫が妙に自分を気にしていた不可思議さも。

「さて。まぁ、貴重な休暇の時間、悪いが仕事のことにばかり構っていられません。今日のところはこれでお暇するわ。そろそろあの寝坊助の妖怪もひょっこりとやってきそうだしね」
「ご休息のお日にお手間をとらせましてまっこと歯がゆいですわ、四季様。またいつでもいらしてくださいませ」

その言葉を聞くと、やはりぴくりと眉をひそめて映姫は――気を悪くしたのでなく――何かを気がかる素振りを見せたが、結局はズズ、と、残りの、すっかりと冷めたお茶をすすり、茶菓子を二個ほど食べ(まぁ、実を言えば話の最中にも茶菓子を食べるのだけは、やめていなかった)、それから、なぜか急にじっとした視線になりながら妖夢を見、それから幽々子を見て、映姫は、手にした悔悟の棒をそっ口元にあてる仕草をした。この仕草をすると、何故か向かいあった相手はなにか後ろめたいような、いてもたってもやむにもやまれず、とことん追い詰められた者のような気持ちになる。場に似合わないが、なにか得体のしれない女傑が相手の心をすがめて見る、こう扇子に口元を当ててのぞき見る仕草というのか。
それをしたあと、映姫はちょっとぼそぼそとした口調になった。よく聞き取れなかったのか、「はい?」と思わず、といった様子で、妖夢は問いかえし、それから映姫の目を見て、自然いすくんだ。

「……そう。気づいていないのね」
「え?」
「まぁ、結界の管理はあなたがたがしてるわけじゃないし仕方ないか……。はぁっ。まったく、度し難いわ」

映姫は言いつつ席を立ち、すたすたとふすまの方へ行き、慌てて立った妖夢をともなって、廊下へと出た。

「妖夢」

廊下を歩くあいだ、ふっとした口調で問われ、妖夢は少し背中を固くした。映姫は立ちどまらず、そのまま歩きながら続けた。またぼそぼそとした、ちょっと聞きとりにくい口調で。

「……に気を配りなさい。……いいわね」

妖夢がえ、ともは? とも言えずにいるあいだ、映姫はその案内を追いこして、なお早足で西行寺家を出、早々と幽冥の境へと通ずる階段を、現世のほうに向けて歩いていってしまった。
残された妖夢はぽかんとしながら、今映姫が何を言ったのか、よく聞きとれないところは、本当は何を言っていたのか、それらを類推し、土間の前で途方に暮れた。

(幽々子様の様子に気を配りなさい、だなんて……、なに言うのかしら、あの方も、う~ん)

何かごよごよと、またもよもよとした何か、こうすっきりとしないものを頭に抱えて、どうにかしてそれをふりほどこうとむにゅむにゅと、この頭の中身には似ずに熱心に考えこんだが、もともとがそういう向きではない構造の頭なため、これを打破しようとした当人の意思にかかわらず、納得のいく答えは出なかった。ふっ、と、
風が吹いたように、妖夢は思った。思わず刀の柄に手をかけてあたりを見やる。

「……、……何……、?」

だが、そこには何もなかった。はるか家の奥、襖の幾重にも張りめぐらされた、その、その、奥、その奥から「感じた」、腐った人の足のような、むせ返るような死の臭い以外は。間。

(幽々子さま……!?)



幻想郷。

某所。というかどこでもないどこか。

映姫はそこへ踏み入れるとズンズンと奥に(途中、出くわした狐頭の式妖怪がびっくりしきった顔で「あ」と声をあげたがそれを無視して進み、)足を踏みいれ「ちょっちょ」と制止する狐っ子が、後ろから追いすがってくるのを、あたかもまるでその存在自体そこに無きかのようにガラッ! ガラッ! そしてまたまたガラッ! ガラッ! ガラリッ! と、ガラガラとあらゆる戸を開けて進み、映姫がその主目的とするあのこにくたらしくひくついた顔で自分の前にいつも現われてくる年食い妖怪の姿を一片のスキマもなく探して、どこにもやがてその姿形、影ひとつも見あたらないと知ると、いきなり、後ろから追いすがってくる狐が「な、なんのよ」としぶとく言いつのる(あきらめるまで待っていたのだが、実のところ)のにぐるっとそちらを向いて、その尻尾を粟立たせてボシャッと一瞬その広大な面積を、さらにボワリと広げさせてから、ああ、もふもふしたいわね、と、頭の片隅で考えつつ、どうにかこうにかその誘惑(たまにどこか、かにか、何か、なんだろうか、自分のどこか自分ではないところからくる種の、そういう感じの誘惑だ、これは)が背すじをぞわりと這うのをふりはらって、まじめかつ厳しめな声を、目の前の狐に投げかけた。「紫は?」
は? と狐は答えたが、すぐにどうにか頭を回転させて立ちなおり、しかしまだまとまりきってなかったのか、ちょっと弱気げに「は?」と言ってきた。

「紫は。どこに。いますか?」

映姫が、一言ずつを区切ってぐんぐん、と詰めよってくるのに、ちょっと眉を困りぎみに八の字に(映姫の好みな顔である、その性情的嗜好的に)しながら、だんだんとちょっとずつ、ぐん、ぐん、と大きく後ずさっていきながら、狐っ子は、なんとかそれでも気弱げ、苦手げにだが「は? はい? は、はあ!」と声を上げつつも何とかかんとか答えを発した。

「ゆ、紫様なら、今、寝て、て、ちょ、ちょっと、お、御休みに……」
「そんなことは知っています、私が知りたいのは、どうやったら紫に会えるかということであって、あなたが。今。言った、ような、事は、答えとして不適格! です。ね?」
「わ、わかりましたから! ちょ、わ、ちょっとおちついて!」
「で。どうやったらあのババアに会えますか?」
「ババアは、いえ、御休み中のバ、紫様は、ご自分で起きないかぎりは、どうやってもこちらからはお話しいただけません。冬のあいだ、御休みになるといったっきり、一切合切のことは、私に任せるか、もしくは私たちの知らないところでどうにかこうにかされています。その行動」
「まぁ、そんなことだと思ってましたが……まったく。あ、あなた。ちょっとお願いがあるのだけど」
「は? 私にですか?」
「ええ、ちょっときゃん、ていってみてちょうだい」
「きゃん?」
「はい、ありがとう。それでは次はふぇっ!? と言ってみてちょうだい」
「ふぇ?」
「はいありがとう。癒されたわ」
「あの、ここは怒っていいところですね?」
「まぁ、仕方ない。あの妖怪ババアが起きないとなると話にならないわね。あなたに話してもいいんだけど……ほらあなたってどことなくうっかりしそうなところがあるというか」
「あの、ここは怒っていいところですね?」
「あ、そうだ。ちょっとちぇぇぇぇんって言ってみて」
「ちぇぇぇぇん?」
「はい、ありがとう。それじゃ、あなたの主人が目覚めるかそこらにまた来ます。どうも失礼」

言いつつ、映姫は狐に背を向けて、境界の狭間に建つ、このなんともうさん臭げな屋敷をおさらばして帰路についた。


冥界。
三日後。

あれは……。いったい、あれは、いったい、あれは、なんだったのか。今も妖夢はその光景を思い出して、怖気とふるえに身をさいなまれ、一瞬、庭の箒で、散った花びらがひらひらと、まるで死んだ虫かなにかのように地に落ちていくのを見送った。その瞳は、あれは、と、その日、いったい、あれは、と、その日、あの襖の奥から感じた怖気のなかに、一体、と、奥へと走り、そうして見つけた光景のことを思い、また、そのときのことを思い出すように、カッと、大きく見開かれ、(現実にはうつつにないほどにふけっている様子で)すでに過ぎ去ってしまったその光景を見、あのときのように止まっていた。
死体。血のたまり。

「……。……何……?」

呟いた、そう、自分のものでない、そう、幽々子の唇。

(笑っておられた……)

そう。幽々子の唇。
その様子を思い出しながらも、妖夢は、つとめてそれを考えないようにしながら、枝を取りはらい終え、刀を納め、そして、はっとしつつ、にぎっていた箒を握りしめる手を強くし、冥界に生じた気配の主のことを思いうかべて、うかつにもその鍛えられたほそい身体。外からはとてもそうは見えないほど、細やかでなめらかな肌の下、ほそい手首、白い顔のしたに隠された、はがねか鉄のような筋肉をこわばらせた。

「ごきげんよう」

そう映姫に声をかけられて、そのとき、妖夢はまるでなまりでも呑むかのような心地で指をきつくにぎりしめそうになり、すぐに、あの日、あのあとのことを思いかえした。
結局、幽々子の部屋で死んでいた男は、外のどこかから連れてこられた男のひとりだったらしく、(どうやってかすめとってきたのかも謎だが)屋敷の使用人たちにどう伝えようかと思う妖夢に、しかし周囲の家人たちの反応はおどろくほど淡々としていて、まるで、昔もこんなことを何度もくりかえしてきたかのようで、(もちろん、新しい者には強いとまどいや怖れの色があらわれていたが)あっというまに男の死体をどこかへ片づけ、血で汚れた(男が吐いた血だった)畳も、すぐに取りかえられ、また、血の臭いがべったりと染みついた幽々子の服はてばやく召しかえがなされた。
そして、その一連のことが、まるで自分に無関係のことのように、淡々と、あるいは粛々と、そんなふうに進められていくあいだ、幽々子はその少女じみた白い肌
、また唇を、生き生きとさせ、もちろんそれを表には出さない程度で、(ただし、妖夢には、なぜかそれが分かった。きっと他の者も同じなのだろう。妖夢が感じとれるほどのことだ)そう、……。
そんなのだから、このひと(人、ではないだろうが)に、自分の態度から露見してしまうのは、容易いことだ。

「妖夢」
「ふぇっ!?」
「グッドよ。まぁ、それはいいのだけれど、私が声をかけているのにボーッとしているとは、まるでどこかのぎゃるげの主人公のようですね」
「ぎゃるげ?」
「あなたは知らなくてもいいことです。それで、幽々子のようすは? なにかあったのでしょう?」
「い、いえ、べつに……いたっ!」
「私に隠しとおせないとわかっててかくそうとするその態度はなかなかグッドですが、こっちも急ぎなのでね。さぁ、キリキリ話しなさいな」

妖夢の頭をかるくこづいた悔悟の棒をおろして、映姫はあいかわらずの公正明大だと自分を信じきっている(あくまで自分でだが)目で妖夢をじっと見つめてきた。どうする、と、ほんのわずかに迷いながらも、妖夢はなにかに操られるような、そんな感覚を感じながら、映姫にすべて打ちあけることにした。幽々子の変化と、それから、手がかりになるかもわからない、その前からの、おかしな(といって妖夢にはとくだん幽々子がおかしいことは、平和でいいことだと思っていたのだが、一応)言動についてもすべて知っているかぎりで話した。
そのうえで、こうも思った。なぜ自分がこんな重要なことの口渡しを引きうけているのだろうかと。漠然とした違和感といってもいいが。
だいたい話せるだけのすべてを話し終えると、それらを聞き終えた映姫は、とくべつどうともない様子で、しかし、これだけは重たげに、ため息をついた。

「妖夢。よくお聞きなさい」

映姫は言うと、いつものクセか、横顔をこちらへ向けたまま、重いものをてろん、と舌で転がすようにして、「貴方に言っておくことではありませんが」、と、やや硬い声で前おきして、

「西行妖の寿命が近づいています。それに応じて幽冥の結界にもゆらぎが生じている。いまは、ほんの小さなものに過ぎませんが、やがては揺らぎはその大きさを広げ、結界全面自体に浸透するでしょう。それ即ち、西行妖の死、そして、西行寺幽々子の消失です」

映姫は言い終えると、妖夢の肩に手を置いた。つめたい手だ。とはいえ、それを他人事に感じるほどには、いまの妖夢には余裕が無かった。

「また、それにともなって、幽々子の身にも変化が起きている。魂の逆行。いえ、記憶の消失と逆行。おそらくいまの幽々子には、あなたが誰なのかわかっていない。ここ最近、幽々子はあなたのことをなんと呼んでいますか?」

妖夢はぐるぐると思考を回転させた。「妖夢? どうしたの?」映姫がここをおとずれたあの日、(幽々子が人を殺したのを見たあの日)そのとき以来、幽々子の様子はたしかに変わった。そう感じていたのは。

(幽々子様に話しかけられることが、あれから一度も無いから……)
「幽々子の様子に気を配りなさいと言ったのはそのためです。近年のあなたは冥界に籠もり、本来の魂の在り方を取り戻している。しかし以前ならば幽々子はあなたの命も気まぐれに奪おうとしたかもしれない。だから気をつけろと言ったのです。そして、ここからがわたしの話すべきこと」

映姫は体のどこにも力をいれない、自然な様子で続きを口にした。

「幽々子が消えたあとの冥界の管理者に、私達はあなたを据えたいと思っている。幽冥の結界をあらたに張りなおし、幽々子という強かな支配者のいない、新しく、また、私達にとって都合の良い冥界の存続が、私達の為したいことです。その為には、この消失はすみやかに、また、あなたは自身の身を大事に思わなければならない。――もし可能ならば、あなたが西行妖と西行寺幽々子をその手で斬りなさい。いいですね」

映姫は言うと、手をはなし、門のほうへ歩いていった。
間。

しばしして、また結界の狭間。
とん、と降りたった映姫は、またか、とこちらを見た狐っ子にはかまわず、「ちょ、ちょっと!! 待った! お待ちを!!」

「なんです。わたしは急いでるのよ」
「いえ、紫様でしょう!? そんなちょくちょく来たって起きていませんよ! あとあんまり屋敷のなかを」
「いえ、今日はあなたを探していたのよ」
「は?」

言うや、映姫は、悔悟の棒をびっと突きつけ、びくっと帽子のなかの耳を伏せる藍にむかって、「オンキリキリバサラチッタ~ム、オンキリキリバサラチッタ~ム、テクマクマヤコ~ン」とかあやしげな呪文をとなえた。
すると、なんのことかと硬直していた狐っ子は、急にぐるぐると目をまわすと、ばたん、とまえのめりにたおれた。
映姫はそれを確認すると、狐っ子の背中をじっと見つつ、ついでに手の届くところにあった尻尾をモフモフモフモフモフと淡々としかしうっとりと触りつつ、やはりか、と、狐の背中に、それがあると気がつき、また、確信して見なければ、そこにあることがまったくわからないほど、違和感なく、かつ巧妙に隠されているなにか、かなり大きな、なんというか、チャックのようなものを見つけ、それをたどってそっと狐の金色の頭髪をかき分け、やがて丁寧に取りつけられている、チャックの開け口のようなものを見つけ、じぃ~と下げていく。チャックが開いた中からは、うぞうぞとうねる目と全体が狂気じみた紫色をした空間が顔をのぞかせた。その中をみていると、おもわず、中からただよってくるなにかがしめったような、それでいて、はげしくあらゆる刺激物にほんろうされ、この世という世のありとあらゆる汚泥がたまってよどんだ池をどこかにつくり、それが波立って、ついでにみずからうねり泡立っているようなのも、人外の身の映姫にはひしひしとした寒気となって感じられたが、かまわずに片足をつっこんで、よっと中にはいっていく。
中にはいって、どこが足場かもわからないところにとんと降り立つと、その気狂いじみた空間の中ですやすやと眠る主の顔が、いきなり目の前にあり、(それはなんとも珍妙で、スキマの中にうねるように浮かんだ大きな枕にたるんだような紫の服を着たままの手足がぶらんと力無くぶらさがっているという様子で、まるで変死体のように逆さまになった紫の顔から、豊かな金色の髪が、天日にほしそこねた洗たく物のように、だらしなくひっかかっている)これは寝心地がいいのだろうか、とふと疑問に思う心を取り払って、そのあまりにも安らかな冬眠中のクマの顔面にむかって、びし、とかるくでこぴんを喰らわせると、まるで死んだようになんの反応もないのを見て取ってから、えい、と映姫は構わず悔悟の棒でひっぱたき、大きな枕から冬眠中のクマをはたきおとした。「う~ん……」と、ごろんと足もとに転がりながら、それでも紫は紫らしく、あまりにも無防備に寝るのをやめない。
しかたなく映姫はその襟首をつかみあげると、両手で首の骨がどうかなりそうなくらい手加減なく揺さぶった。
紫はそれでも起きそうにない。

「紫。八雲紫!!! さっさと起きなさい! もうとっくに冬は終わってるわよ!!」

しばらくがくがくとゆさぶっていると、「むん? ……」と目を覚ました紫が、ゆさぶられているのも構わずにくわ、と大きくあくびをした。

「……。……。……。……。あら……。えーと? ああ。どうもご機嫌うるわしゅうございますわ、ヤマ様。ほんにいいお日柄で、ついついうとうとと、こう……。すー。……」
「寝るな。こんな劣悪な環境で寝られるのはあなただけよ、八雲紫。はい、おはよう。さっさと起きなさいね?」
「……なにも寝起きにたたくことないじゃありませんか。やぼなお人ですねぇ……」

紫は悔悟の棒でぶたれた鼻をさすりつつ、またふわぁ、と生あくびをした。放っておくとこのまま二度寝にはいりそうなので、映姫はできるだけとげとげしい声でそれをさまたげた。

「どうも久しいわね。十七年ぐらいぶりばかりかしら?」
「ええ? ええと……なんの話でしたかしら」
「シャキッとしなさい、シャキッと!!」
「……」
「……」
「痛っ!」

構わず、映姫の眼前で二度寝に(正座したまま)入ろうとして、紫はまたも頭をぶたれた。拳で。

「そうそう、映姫さま……いえ、ヤマ様とお会いするのはいくらぶりかという話でしたわね。それならまるで昨日のことのようですが、たぶん去年あたりに一度会っていますよ?」
「まだなんの話もしてないんだけどね」
「そういえば昨日の晩御飯はなんだったかしら」
「ええいこのボケ妖怪は。まずはひとの話を聞きなさい。いいかしら、今日わざわざここへ来たのはあなたの怠慢を叱りにきたのでもなければ、世間話をしにきたのでもない」
「そうですか、それはわざわざご足労を。今藍にお茶を」
「ここはあなたのスキマの中でしょ。くつろぎたいとは思いません。今日来たのは、もう回りくどいのはやめにしましょう。西行寺幽々子のことについてです」
「幽々子?」
「ええ」
「幽々子がまたなにかしでかしたので?」
「そのセリフ、あなたにだけは言われたくないと思いますが、そうではないわ」
「え?」
「また寝ていましたね」
「寝ていませんよ。それで、なんの……」
「だから幽冥の結界のことよ」
「え?」
「ええい、もういい、ちょっと来なさい。外の空気を吸って目を覚ましなさい」
「乱暴でございますわねぇ」


再び冥界。
西行寺の庭、白玉楼の前。

「で」

映姫は言いつつ、なにやら居づらそうにしながら、ちらちらと落ちつきなく視線を動かす紫を見咎めると、びし、と悔悟の棒で叩いた。

「で」
「はいはい。私、この妖怪が苦手ですのよ」
「そんなことはじめて聞いたわよ」
「言ってませんから」
「……」
「ふむ……。これは……」

紫は、嫌々ながらといった体で、妖怪桜の幹をなでさすり、ちょっと焦らすようにほそい指をつつ、と這わせた。

「……。そうですね。これは、だいぶ寿命がきていますね。生命力が小さくなっている。それにともなって幽冥の結界にも何かしらの影響が出ているようですわね。もしかすると、そのことで幽々子にも、なんらかの影響が出ている……」

紫は言いつつ、今度はいくらかしゃきっとした目で西行妖から、嫌な物を遠ざけるような仕草で指を離した。

「なるほど、まぁ、多少は私の領分かもしれませんわね。そもそもこちらの管理は私の枠外ですけれど」
「で?」
「まずは幽々子に話を聞いてみるとしましょう。まぁ、悠長に」

言いつつ、ふと、鼻先をピクリと動かして、紫は、あらぬ右の後方へと目をむけた。

「……紫様」

チャキ、と、尺の長い刀を手にした妖夢が、我に返ったかのような目で、紫に目を向けていた。その顔を目にして、映姫が横ざまに思ったのは、どうやら数日前よりもずいぶん疲労したような顔だ、と(実はさっき会ったときにも思ったことだ)、手にした刀は、いま本気で目の前にいる紫を、あるいは映姫をも斬ろうとして手にしているのであろう、ということだった。本人は気づいていないだろうが。
そのうちに、刀を取り落とした妖夢が、急に顔を両手でおおい、膝を折って泣き崩れた。

「……ひっ……すぐっ……ぐぅっ……すみ、ませ、ん……」

映姫は「妖夢――」とその様子を見て声をかけようとしたが、意外なことに、その前に紫が近寄って顔を上げさせ、そしていきなり、その頬をパン、と張った。

「あっ……」
「妖夢」

紫は言いつつ、その手をとって立ちあがらせると、すぐに、安心させるように、妖夢のほそい身体を抱きすくめ、頭を撫でた。

「妖夢。なにかあったのね」
「あ……。……」

言われると、妖夢はまた涙をこぼしかけたが、紫がその涙をすくってやり、ほほに指を滑らせると、不思議と泣くのをやめた。映姫はその仕草に、背がややむずがゆくなったが、そのほうがスムーズに話が聞きだせるようなので、黙っていた。

「幽々子様が……幽々子様が、また、人を……」


西行寺家の屋敷。

妖夢から話を聞きだした後、映姫はなぜかそのまま背を向け、冥界を抜けてどこかへ行き、紫だけがその代理のように、妖夢をともなって屋敷の中へと招かれていた。主人の親しい友人の前とはいえ、泣き崩れなどしてしまったことをひそかに恥じながら、珍しく神妙に後ろからついてくる妖怪を、奥へと案内した。屋敷の中は今だ幽々子が先程死に誘う能力をつかった影響か、蛆と雷の湧いた臭い、死の臭いが漂い、鼻をつんと刺激している。
紫も、当然それに気づいているだろうが、なにも言わず、そのうち、ふと妖夢の案内に従っていた足を、つ、と、それとは別の方向に向け、「あ」と、妖夢が声を立てる間もなく、屋敷の奥へ、奥へと、客間の方向とは全く見当違いに進んでいこうとする。
止めなくては、と反射的に自分が思ったことを感じながら、そのことをどうかしているとも思う。紫を止める? なぜ。

(わたしは冷静じゃない)

さっきも西行妖の前に立っていた紫と映姫を見て、ただ曲者を斬らんとすることしか思い立たなかった。

(もしもの時は、西行寺幽々子と西行妖、あなたがその手で斬りなさい)

映姫の言葉が頭に浮かぶ。なぜあんなことを言ったのだろう。

「妖夢」

紫の声が聞こえた。妖夢はうつつな心地でそれを聞いていた。

「私を案内するならこっちでしょう?」
(わたしはなぜこんなにも、心を失っているのだろう)
「……はい」

妖夢は答え、幽々子がいまだ着替えをしているだろう、そして血と呪の臭いが色濃く立ちこめる方へと、紫とともに足を向けた。


はたして一方。

是非曲直庁内。映姫の机。

「……」

口をほんの少し、人にはわからないほどに開いて息をもらした映姫の前、それからちょっとの間をおいて、にょき、と突然赤い髪の頭が、いつもの髪をまとめる二本のかんざしとともに、ひょっこりと生えた。
かと思うと、映姫の反応のないのを感じとってか、そのままにょきにょきと生えてきて、小町の背の高い身体が姿を現した。

「……」
「……。お疲れで?」

聞かれると、映姫はちらっと目を開いて、

「あなたは元気そうね、こまっちゃん」
「その呼び方やめてください」
「あ~肩こったな~一日中座りっぱなしだからな~」
「はいはい……別にそんなまわりくどい言い方しなくても言ってくれれば肩ぐらい揉みますよ」
「あら、ありがとう」
「おっ……ほんっとにこってますねぇっ……」

ぐぐぐ、と体重をかけて映姫の肩を揉みながら言う小町に、映姫は涼しげな顔で応じた。

「なにかお悩みごとでもありますんで?」
「いいえ? まさか。私達閻魔の身に、考え事や悩み事などあるはずないでしょう? 私達閻魔の判断は絶対のもので間違いなど無いし、口にする言葉も絶対だもの。悩むことや考えることなどあるはずがない」
「はあ。そうなんですか?」
「そーなのよー」
「……それは?」
「ものまねです。気にしないように」
「まあ気にしませんが……よ。……」

小町は言いながらぐぐ、と力をかけて、映姫のほそい肩を揉み、

「……。でも、これだけ肩がこってるということは、お悩みごとがあるってことなんじゃないですか? 考え事も」

体重をかけるついでのようにささやいてくる。その髪からするわずかな桔梗の香りに鼻をくすぐられつつも、映姫は問いに答えず、はぐらかすこともせず、ただ悪戯っぽい笑みを浮かべて、気持ちよさげに目を閉じていた。

「小町。あなた、祭りは好き?」
「ええ、好きです」

たん、とん、たん、とん、と、肩揉みから、小休止して肩叩きに切り替える部下をちょっと笑いつつ、「私もよ、そう、私達神々というのはね、仏法に身を捧げど、みな総じて祭りを好むものです」と返し、部下の手が心地よい揺れを生み出してくる肩に、映姫は心を委ねつつ、語った。

「そうしてあの郷は、その存在そのものが、一夜の夢のごと、祭りのごと場所であり、私達神々は、それゆえにあの郷に恋をする。かたちを変えず、いつまでも続き、終わりなく、退屈も知らない、祭りそのもののあの郷に恋をする。この世に亡き夢幻に、もう二度ともどらぬ人の愛しい姿を、愛すべき背を思い返している」

小気味のよいリズムでくりかえされる部下の様子に、なにを言っているのだろう、という疑問の気配を感じつつ、映姫は口元を緩めたまま、話を続けた。
そう、きっと部下にはわからないだろう。そう思いつつも、歯がゆい想いを心地よく受け流し、口を紡ぐ。そのうち、後ろで肩を叩く部下の手は、どことなく場を読んだのか、映姫の肩を静かなリズムで揉むようになった。

「でもこの世の条理とは、あるいは道理とは、道義とは、あるいはものの流れていく、あるべき姿、あるべきしるべとは、そうではない。世はあるがままに移りゆき、我々、人たらぬと、人ではあらぬとする者も、その移ろいゆくものにあるいは身を委ね、あるいはそこに留まり、消えゆく者は消え、変わりゆく者は変わり、去りゆく者は去る。これに反し、そして居残り、あるいは流れゆく者を押し留めあるがままの姿をはきちがえて覚え、そのあやまったままの姿を、あやまったまま留めおこうとする。それがあの里の真実。移ろわざるもの。哀しみのこごり、憎しみやうらみつらみが原初のままに残ることを許され、生のままにふるまう幼子の姿が美しいと、ただ目を背け、恋い焦がれ、執着する者達の、寄る辺。……。それが、神々が恋するあの郷の繕いようのない、偽りなき姿」
「あ、ここらへんですか?」
「ええ、……それは、その姿は、その有り様は、それは、結局、遅かれ早かれ、多くの哀しみだけを広げ、やがては、流れるものを押し留めることも耐えきらず、流れ込むものと、内にあるものと、その両方の、今も既に軋みを上げ続ける、自身の張り裂け、潰れていく音で、この世界という名の小さな郷を、その重みで押し潰してしまうことでしょう」
「はぁ……よっ……と……」
「ならば、この郷はいずれその原初のままの憎しみに、うらみつらみに、哀しみに彷徨い、地獄さえも消し去って広がる自身の罪を自身の手で裁き、押しこめ、押しつぶしてきた世界の流れに対し、贖罪をしなければならない。その罪を背負って彷徨い、裁きすら受けられぬ亡霊ばかりが漂い生者の姿を夢や現に打ち消していく自身の有り様を黄泉比良坂の先、千引きの岩の先にある世界に充て重ね、自身がそうであるようにと、許しを乞いながら、咽び泣き、狂い叫びしなければならない。……いずれ消え失せる地獄の火を絶やした罪を背負い、神も、人も、霊も無く、化生も無く、千々に乱れてもやい無き世界を、孤独の闇に押し潰されながら、永劫に、そう永久にこの果てなき世界の果ての果てを、心身を焦がす心の雪に身を焦がし、歩いていかなければならない」
「ははぁ……うんっ……よっ……」
「どれにせよ、いずれ西行寺幽々子という強かで強権な支配者を排することは、我々に課せられたその命題にとって都合のいいこと。危険な管理者が消えたその後には傀儡となる半霊の管理者を仕立て上げ、我々が罪を裁き終え、地獄がこの世から消えるその日に備え、しかるべき準備を整えていかなければならない。あの忌々しきお祭り騒ぎの夢を見る郷が己の姿に気が付かぬまま忘れ去るもの、消え行くものを受け入れ、肥大し、醜悪に、こらえがたい腐臭と肉の焦げる臭いを放つ、己の姿が真実とは気付かないまま受け入れるまでひっそりと、だがはっきりと区分けをしていかなければならない。死者と亡者の。生者と亡霊の。産屋と廃屋の。そう。千引きを」

映姫は言いながら、うん、と肩を身じろがせ、「ありがとう、もういいわ」、と、後ろの部下に告げ、肩揉みをやめさせた。すこし冷たい部下の指先が離れ、残った感触が、さらに冷たい映姫の肌をじんわりと満たしていく。ぐるりと肩をかるく回し、それから映姫は、椅子を鳴らして伸びをした。

「上手ね。なにか御礼でもしようかしら」
「いりませんよ、恐れ多い」

小町は、ぱたぱたと手をふって、ひょうきんに答えた。それから、真面目な顔になって、ふと思いついたように言う。

「映姫様は、あの郷がお嫌いなので?」
「いえ? 好きよ」
「でも、嫌いなんですか」

小町が言うのに、映姫はき、と椅子を鳴らして、「ええ、嫌いよ」と、口をゆるめて答えた。


一方、時はさかのぼって、冥界。
西行寺家。

幽々子は何ら変わらない様子で喋っていたが、その背後に座る妖夢には、その背にのしかかる重圧と寒気が同時に感じられて、自分が生きてここにいる心地がしなかった。
できることならば、目の前で話す紫の、まるで何でもないような顔、その紫の前で笑う幽々子の何ともない顔、この縁側に面して見える幾本もの芸術的に、そして、典雅に美しく、風靡に保たれた砂庭と池と庭木、あらゆる全てを切り捨てて排除してしまいたい。
チキ、と、そんな千々に乱れる心が剣の鞘を鳴らさせ、ふと、和やかに続いていた紫と幽々子の会話を、ふとしたように途切れさせた。

「お茶をかえてきます」

しまった、と、何の気なしに思いながら、妖夢は多少強引に取り繕い、急須をもって立ちあがった。
幽々子の視線を感じつつも、その目に見えるこれまでとは明らかに違う色に、妖夢は得体の知れないうすら寒さを覚えていた。


「なんだかあの子、わたしを殺したがっているみたいねぇ」

妖夢の足音が遠ざかるのを聞いてか聞かずか、それも構わないように幽々子が言った。紫はちょっと笑って「そう?」と言って、扇子を口元に持っていった。

「なんだか刀なんかいつも携えていてちょっと物騒だし、それに、あの子、半分は生きているようね」
「そうね?」
「あんな子、うちの屋敷にいたかしら……ひょっとしてあなたが連れてきたの?」
「あら、どうして?」
「あなたそういうことするからねぇ。どこかで変わった子を見つけたので拾ってきたのかと」
「犬猫じゃあるまいし、人間なんか拾ってきやしませんよ」

紫は言いつつ、外に目をやった。いつもどおり、美しく掃き清められた砂庭には、幽々子がたわむれに誘った雀が一羽死んでいた。それにひらひらと飛んできた青白い蝶の群れが、鴉のように群がっている。

「またかわいそうなことを。死に誘うなら人間だけにしておきなさいな」

紫が言うと、幽々子はちょっぴり悪戯っぽく笑った。その笑顔を見て、なんとなく紫は怖気のようなものを見て取った。もちろん、妖怪の自分には、なんの感慨もないものだが、もし自分があえてこの友人に魅かれたところがあったとしたら、こういう怯えの底にあるような、吐き気のするような、醜い残酷さだろう。

「人間以外はダメなの?」
「ええ、この世のためにならないからね」

紫は適当に言いつつも、幽々子の腹の具合を探るように見つつ、また、その目に移る色に、かすかな落胆の色も浮かばせた。

「……そう、やっぱりね」
「ん? 何?」
「いいえ? こっちの話よ、幽々子。そう、西行寺幽々子。それがあなたの名前」
「あら、なに? いきなり」
「私は八雲紫。妖怪。あなたのお友達。それが私」
「本当にどうしたの?」
「あの子の名前を言ってあげようか? あの子は魂魄妖夢。あなたの剣術指南役で警護役という建前の単なる庭師。最近ちょっとだけマシになったみたいね」
「あら、そうなの」
「そしてあの子は昔あなたに仕えていた魂魄妖忌の孫。頼りない白痴をかました自分の祖父殿の跡を継がされてあなたに仕えているちょっと気の毒な子。それがあの子」
「……。紫? 何を言ってるの?」
「私とあなたが友達になってもう千年くらい経つけれど、今のあなたはたぶん私と友達になったばかり、ちょっと変わり者のこの妖怪にどう接したらいいか考え中といったところかしら」
「紫――」
「私は誰? そして、あなたは誰?」
「紫、何を」
「今はいつ?」
「今は――」

幽々子は言いながら、何かに引っかけたように動くはずの舌を止め、「今は――、いえ、私は、誰?」と、紫の言葉を復唱し、そして不意にがたん、と自分で何をしているのかわからないような、うろたえてぶつけたような音を立て、台に置いてあった湯のみを大きく波打たせた。

「幽々子」
「紫」

紫がいつのまにかそばに寄って支えた手にすがりつくように腕をふるわせ、また戸惑いの浮かんだ目を紫に向けながら、幽々子は言った。押し殺すように、はっきりと、弱く。

「今は、今は、いつ?」


私は、長い長い階段を下りていた。
視界に見えるのは、蒼い空。そこにひらひらと舞い落ちる、雪のような花びら。
綺麗。
私は、その様に見とれて危うく段を外しそうな足の踏み方で、ゆっくり、ゆっくりと下りていた。このどこまでもぐるぐると続いていく、まるで花びらの風に舞うように続く階段を。


暗い。

「では、私にイザナミになれと?」

それはどこだっただろう。妖夢は思った。夢だろうか、現だろうか。
確かに見たことのある一幕。

「可能性、素養、在りうること。それらのことを、私達は、十分な決定付けであると考えます。そういう点で、この里とあなたと、そのそれらのものがもつ、可能性とは、現在、他に類を見ないものなのですよ。八雲紫」

自分はそう呼ばれた人、いや、昔から人、と思って自分が心を許している妖怪の、ちょうど後ろにいて、その妖怪と話をする閻魔、自分が子供の頃から知っているその人と、自分がこの場に置き去りにされているのを確信しながら聞いている。

(幽々子様はどこへ行ったのだろう)
「ずいぶんとひどい話ですね。人々がいずれ忘れ去る地獄の道添に、この郷を連れてゆくのと変わりないではないですか、それでは」
「それは違います。この道連れは、決定づけられた道連れ。世界という名の修正する力に」
「納得をしろ、と」
「あなたがどう考えるかはどうでもいい、八雲紫。しかし、一つだけはっきりしていることは、私達地獄の者達も、そしてあなたも、この業からは逃れられない、それが自然な流れ、あるべき方向。……人の間では、このような考えもあります。人が手をつけず保たれた自然の、そう「自然」の世界。それこそが自然。つまり生きとし生ける者が、いずれは回帰するべき、あるいは、回帰するという姿だと」

閻魔は目元も見せず、暗い部屋の中、言う。そういえばここには不自然なほどに、灯りという灯りが無かった。

(いや)

この闇に、こんな空間があることこそが不自然なのか。そう思う間にも、閻魔は言う。

「しかし、それは間違いです。本当は、回帰するべきところなど、この世のありとしあらゆる者にはない。あるのは今だけ。今進化を続け、後戻りの道など無いこの今だけ。そして、その方向と進んでいく者達、進んでいく風景、汚れすさんでいく風景、黒い煙に覆われ涙し、笑い、さえずる今こそが、あるべき自然。その行き着く先がどうであれ、それこそが自然の流れなのです。進化に異を唱えるなど、ただのあやまちでしかない。いえ、それも含めてやはり、進むべき道なのでしょうが」

言う閻魔に、こちらも顔のよく見えないまま、妖怪が返して言う。

「やはり閻魔様はひどいことを仰る方ですわ。それではまるで、遠回しに私をいじめているようなものですよ」
「黙りなさい。あなたのたわ言で話をそらすべきときではない。そう、今は」

閻魔は言いつつも、声音は穏やかだった。

「そのように言いつつも、閻魔様はこの里がここに留まることだけは許されぬことだと仰る。まるで死刑宣告を受けているようなものですわ。そのような言いがかりをつけ、結局はこの里を生贄にするのでしょう?」
「人はいずれ仏道を捨てる。忘れるのではなく。それはやはり流れなのですよ」
「仏道は捨てられる。そして地獄もその存在を認められず消え去ることになる」
「人は裁きを失い罪も失う。それもまたやはり流れなのです」
「だからこの里を、神話に準え冥界とする」
「可逆性ですよ。一度変わったものはどんなに同じものに戻ろうとしても、戻らない」
「それは死者の考え方では?」
「しかし、正しい物の見方です。人は流れに乗ればいい。だからあえて、私はあなたに死ねと命じる」
「やはり横暴ですわ」
「話が逸れただけですよ。要は、あなたは何もしなくていい。この里の管理者となりて、その行く末を見届け、見送ればいい。死者の国、亡者の国、既に消え去りし者達が裁きも受けられぬ黄泉の国へと変わる様を」
「私は誰よりもこの幻想郷を愛している。それもたわ言と?」
「だからあなたはこの里を抱いて死になさい」

映姫が言うと暗闇が濃さを増し、妖夢の意識も拠り所を失ったようにさまよった。

(ああ、きっとこれは未来だ。私がいずれ見る風景だ。この人たちと同じところに座り見る風景だ)

幽々子はどこに行ったのだろう。


私は階段を下りていた。どこまでも続く長い螺旋階段を。
気分は良かった。足は鉛のように軽かった。軽やかに下りる白い階段は、一歩下りるごとに何かをこぼし、肩の荷を落とし、身体の芯を軽くする。
同時に自分が何者なのかも思い出し、この段を下りるのは、私の望みなんだと分かる。
私の望みなんだと分かる。
そのうちに、段の途中、何かが立っているのが見えた。

「お久しぶりでございます」


是非曲直庁内。

映姫の机。映姫はいずこともなく来てから腰かけ、ただじっと机を見つめた。

「……。お喜びください、閻魔大王様。全ては順調に進んでいます」

映姫は一人で目を伏せて、自分に言い聞かせるように呟いた。
その表情は、諦念を含みながら笑みをこぼし、まるで何かを嘲笑っているようでもあり、自身を嘲笑っているようでもある。

「まもなく西行妖は倒れ、幽冥の結界の張り直しは我々の手を主導で行われるでしょう。私達がこの世のカリ・ユガの終わりまでに果たすべき使命、最後に背負う重荷は今や船積みを待つばかり。きっと私自身もこれを喜ぶべきなのでしょう。この世に余る穢れを流し、黄泉の国路の先行となって生まれたこの国に帰ることこそ我ら神々、仏の道を選んだ者達の最期の悦び。しかしながらひとつお聞きしたい。大王様よ。この喜びの門出に際して私が持つ悲しみ、痛み、戸惑い、そして煩悶は、これは一体、何なのでしょう? 我ら仏の道に帰依した者に、ものを感じることがあるのでしょうか」
「なに一人でブツブツ言ってらっしゃるんです」
「あらこまっちゃん」
「その呼び方やめてくださいってば」
「んじゃこまちちゃんで」
「ああもう話通じねえなぁこの人は」

机の前から例のごとくにょきにょきと頭を出した小町は、行儀悪く、頭だけでこちらを見あげてきた。

「どうかなさったんで? かなりなんというかその」
「かなりなんというか何? こんな処でさぼってないでさっさと魂渡してきなさい、説教するわよ」
「なんだか取りつくしまもないようですなぁ。何か不機嫌ですか?」
「不機嫌なように見えるのならそれはあなたにやましいことがあるからではないですか? 私に感情はありませんよ、それともあなたはそういうものがあるの?」
「え、まあ。そりゃあるでしょう。ほら切なかったりさみしかったり、へこんだり落ち込んだりくよくよしたり、ぶん殴りたいほどムカついたり。なにニヤニヤしていらっしゃるんです?」
「いえ、小町。それは間違いですよ。私達にはそういった感情はありません。確かに人の形が外形ですからそういったものがあるように見えるのはムリもないことですが、私達は仏の道に帰依し、御仏に権利と役割と機能を与えられました。それらはそういう感情だのをもたないただの構成要素と成り果てるのを代償に得たものなのですよ」
「はあ」
「まぁ、我々が観測者達からどう思われているかはわかりません。それは私達に限らず、この一定の世界全てに言えることですがね」
「観測者? なんですかそれ」
「いるのですよ、そういう者達が。この世界をずっと見続け、ときに私達が苦しみ、もがき、もだえ、惨めに落ちぶれ、あらゆる不幸と不運と絶望を味わい、そしてその内に死にゆくことを望む者達です。そして彼らには容易くもその気になればその世界を顕現することができる」
「そりゃ映姫様が裁いた罪人のことですか?」
「違います。彼らもまた、観測者の手に委ねられる取っ掛かり、要素、あるいは可能性にすぎない。もっと言えば言いがかりや難癖のはけ口、「彼ら」がにたにた笑いながら私達を貶めるときに使う一つの要因、道具、そういった者にすぎません。ある時空、いえ、あるところ、ある時では、今この瞬間、私達はその言いがかりに過ぎないほんの小さな取っ掛かりから見るに耐えない辱めをうけ、ただの「玩具」としてそこに存在している。あるいはチープな安芝居によって貶められたこの世界の中で、それを正当化して鼻を膨らましている連中の心の渇きの犠牲として小芝居をやらされている」
「はぁ」
「彼らの多くはこれです」
「?」

映姫は自らのこめかみを、とんとんと指で叩き、可笑しそうに言った。

「ここですよ。彼らの多くはここの内側が耐えがたいほど醜悪で、臭い匂いを放っています」
「はぁ」
「彼らはときに、その醜悪で臭い断面をちぎって投げつけ、それを塗りたくったようなものを世にさらして、それはときに多くの賛辞を受け、歓呼をもって迎えられることでしょう。ある人はそれを偽物と呼ばわるかもしれない。しかしそれは偽物ではない。ある人はそれを面白いと呼ぶかもしれない。ならばそれは面白いのです」

映姫は指を下ろし、顔の前で指を組んで、つまらなそうな顔をした。

「そういった彼らは、実はこの世に生きる者たちのごくごく半分だか一部だか、どちらにしろ選別する者などいません。彼らは生まれながらにそうであり、小市民であろうと英雄であろうと、浮浪者であろうと、なにも変わりがありません。一生害悪なのです」
「……生きている人間の話をなさってたんで?」
「そうですよ? 話を続ければ、彼らは自らで自らをそうであると、一生気づくことはありません。なぜなら彼らは悪でもなく善でもなく、そうであることは安っぽいヒロイズムやエセシストの用いるナルチシズムなどでは測れることではないし、ましてやそうであって問題であることはない。ここが一番重要ですね。ま、一言で言って邪魔なのですよ。それだけです」
「はぁ……やっぱりお疲れですか?」
「まぁ頭を疑われるのは不本意だけど、そういう意味では感情のようなものが私にもあるのかもね。今ぶん殴りたいほどムカつきます」
「仕事に戻りまーす」


白玉楼。

桜の花びら舞い散る庭。
ここは祖父が残していった庭だ。妖夢は思い、ふとある日あの時、姿をくらました祖父のことを思い、あらぬことを少し考えた。
愚にもつかないもの想いだ。祖父はもう帰ってこないことが、妖夢にはあたりまえで、自然なことだった。
箒をすこし強く握る。

(……風……?)

確かに、そう感じた。
思い当たることはあった。
以前にも感じた臭い。感じた音。
音は自分にの鼓動の音だ。
いや、違う。

(違う)

違う、と感じた。そう思う間に、妖夢は自然、頼りない足取りで、その風が吹くほうへ歩いた。
林の中。
幽々子。

(どくん)

妖夢は、頭の中が激しく脈動するのを感じ、そして、一瞬でそれを収めた。

(違う)

自分に言い聞かせる。
そこにいたのは幽々子だった。
そう。確かに幽々子だ。自分の知っている。幽々子は木の根元に座り、手を差し伸べて、指の先に蝶々をひらひらとまとわせて遊んでいた。肩には雀や蝶々が止まり、まるでそこが宿り木であるかのように、チチ、ひらひら、と、気心地おだやかにそれぞれの羽を休め、中空に伸びた幽々子の視線と裾を少しの気にすることもなく、幾羽も群れと集まっていた。

「あら」

幽々子はそのまま、こちらに声だけを向けてきた。妖夢が知らぬ間に近づいたのを悟ったのだろう。蝶々の一羽が幽々子の肩を離れ、ひらひらと妖夢の周りを飛んでから、その肩に止まった。

「妖夢。御苦労さま」
「あ……」
(妖夢?)
「ふふ。おかしな顔ね」
「幽々子様」
「全部ね。思い出したわ。記憶」
「幽々」
「思いだしたのよ。ふふ。そう、なにもかも。自分が今どこにいて、どうしてこうなったのか、どうしてこうなろうとしたのか、そして、私が今までしてきたこと」

幽々子は、淡い笑みを浮かべて語った。

「あの長い階段を下りる中で、自然と余計なものがこぼれおち、同時に今までのこと、その前のことが、驚くほど鮮明に浮かんだわ」
(あ……)
「そう、鮮明に」

幽々子はふらりと立ちあがり、かるい足取りで妖夢の前にやってきた。

「鮮明に」

幽々子の肩から逃げた鳥たちはいったん引き返してくると、今度は妖夢の肩や、あるいは幽々子の頭や肩に止まった。
幽々子はなにをするのかと思えば、蝶が止まったままの指先を伸ばし、妖夢の頭に、ちょうど髪飾りのように止まった蝶々を、そっとあやして、くすくすと笑った。
やがて、鳥たちや虫たちは、ひとしきり歓談するようにチッチッと鳴いたりなどして、それから一斉に羽音も立てずに二人の周りを飛び立っていった。

「私はね。妖夢、一度死んだの。自分の意思で死を選んだの」

幽々子はちょっと目を伏せ、いつもの笑ったような顔で語った。

「自分が可哀想でね。自分のことが愛しくてね。それで死んだのよ。自分が生きている間、手を汚すのが嫌で。怖くて」

幽々子の顔はいつもの笑ったような顔、に、見えた。だが、何かが違っていたのだと思う。そう、深い同情。憐憫を誘う目。そして、底の無い――。

「絶望。あるいは、諦め。諦観。私が命を手放したのは、そういう安い感情だったのかしら、それとも言葉にならない、感情ともいえない、ただの惰性だったのかしら? それはね、私にもわからないのよ」

絶望。

「妖夢、そう、あなたのことも私は知っている。あなたの祖父のことも知っている。私をずっと見続けてきた。あなた達は。私がこの姿になってからのことを」

諦め。

「もっと前から紫は見ていた。可哀想な私の姿を。生まれたのが可哀想な姿を。そう、私は可哀想だわ。生きているのが可哀想。ここにいるのが可哀想。その姿を見届けさせるのが可哀想」

底の無い暗闇に立つ者の目。

「あなただって嫌でしょう? 可哀想な私の姿を見るのは嫌でしょう? だからね、妖夢」

底の無い光の灯った目。言葉にしたら途端に霧散する感情の目。
幽々子が手を伸ばし、ちょっと頬に触れて、それから優しく撫でながら笑うのを、妖夢はにじんだ目で見ていた。なぜ泣くのか。

「大きくなったわね、妖夢」

なぜ。そんな疑問も、涙も、幽々子の視線を引きとめることはできなかった。
行ってしまう。斬る。そう思った。今がそのときだと。

「ほら」

幽々子が妖夢の肩を指す。見れば一羽の揚羽蝶が、震えるようにそこにうずくまっていた。

「蝶々」

ゆっくりと羽を瞬かせる。妖夢はその様子を見て、幽々子に視線を戻した。
幽々子の姿は無かった。
どこにも。


(どくん)

そのとき。

(どくん)

何かが大きく。

(どくん)

脈打った。


白玉楼。
西行妖。その前。

(どくん)

その前に立っていた映姫、紫、そして小町は、そんな奇妙な音を聞いた。そして、それぞれが面食らったような顔をした。

(どくん。どくん)
「……、何?」

映姫が言うと、しばらく西行妖を見あげていた紫が「ふむ」と、ぽつりと呟いた。


暗闇。
間。

「イザナギは、必ずしも必要ではない。『愛しき我が汝夫の命かくせば汝の国の人草一日に千頭口絞り殺さむといひき』。この幻想の郷に閉じこもり、現世に姿あらわせること切望し、境界の空を血まみれの爪で引っ掻き笑み浮かべるあなたは、外の世界を切望し、出られぬことを妄執する」
「私さえも充て重ねると」
「これは充てつけではない、事実よ」


白玉楼。

西行妖の前。

「なるほど……」
「?」

紫の呟いた言葉にそちらを見やると、ぱたぱたと顔の前で扇子を弄びつつ、紫は続けた。

「狸寝入りですわね」


お久しぶりでございます、と言われても、私には、この人が誰なのか分からなかった。
そう言うと、その人は、白い身体、身体といっても、それはただの大きな魂の形をした塊だった。幽霊というやつだろう、を、すこし寂しげに笑わせた。
私の脳裏にはそんな仕草を見ても何も浮かばない。でも、気分は良かったので、笑ってあげた。

「覚えてはおりませぬか。そこまで忘れておしまいになったのですな。全くのあなた様は、今は純粋にして無垢なりて、天真爛漫、されどその真の姿は黄泉に囚われし滅びの意識。孫やあなたのご友人が見たらさぞかし悲しむことでしょう」

この人の言っていることはよくわからない。私はだんだんと興味を失っていった。

「あなたはどなた?」

気まぐれに聞いてみる。

「私を知ってるの? でも、ごめんなさい、私はあなたを知らないし、この先に早く行きたいの」


西行妖。

「狸寝入り?」
「ええ」

映姫が聞き返すのを、妖夢はそれがまるで意味のないことのように、頭の隅で何とはなしに聞いていた。
幽々子が……消えて、から、西行妖の方へ向けた足の先には、紫達がいた。小町や見慣れぬ、人外と思しき者もいる。旧地獄、だったか。例の温泉だの怨霊だの騒いでいたとうの昔のころ、地上に這い出てきた輩たちだ。

(西行妖)
「よくも……」

妖夢はぽつりと呟いた。

(獲ったな)

「つまり西行妖の寿命が切れれば、この封印も用を為さなくなる。もうすぐ自分の命が尽きる……といっても、このまま何もないまま放っておいてもあと何千年かは保ったでしょうが。生かさず殺さず、この結界はそういう役割を果たしていました」

紫は言いながら、忌々しそうに笑った。

「だから一度死んだのですよ、この妖怪桜は」
「仮死状態?」
「似たようなものです。自らをわざとおとしめて生命力を弱くさせ、一度、ほんの一瞬ですが完全に死んだように見せかける状態を作りだす。ほんの十秒、二十秒か」
「そのあいだに結界が解除されるのを狙ったと?」
「確証はなかったのでしょうが、それに、この桜は、ここに封じられている人物が一体何を願っていたのか知っていた」
「自らの死」
「自らの絶望」
「もやいをほどかれし孤独」
「そう、だから成功する確率は高いと知っていた。何せ千年も意識の深層を共有してきたのですもの。この者は、幽々子の最大の理解者、というわけですわ」


私がそう言うと、白い人は、やはり笑ったように揺れて、「ご免」と、急にするりと優しく私の下にもぐりこむと、ぽふんという、まるでふかふかのお布団のような感触を残して、私の足をすくって抱っこした。
私が「何?」と目をぱちくりさせている間にも、白い人は私を抱えて、するり、するり、と、滑るように段を登りはじめる。
私はあわてて叩いた。

「ちょっと、何をするの?」
「あなた様が何をお望みかは、知っておるつもりです。しかし、私はあなたの望むようにはできず、またしてあげられない。どうかお許しを」
「待ちなさいよ。待って。やめて。下ろして! どこへ連れていく気よ! やめて! やめてよ! 私、そっちには行きたくない! 下ろして!!」

喚いても、その人は聞いてくれやしない。

「止めてよ!! やめて……!! 下ろして! もう、もう、いいじゃない、全部終わったことなんだから、だって私は、私は、千年も、そう千年よ、そんな長い間、何も知らないで、呑気に――下ろして! いやよ、あそこには戻りたくない! やめてよ! やめて――妖忌!!」


「獲ったな、よくも、よくも……」
(よくも)


西行妖の鼓動。

その音は、そうとしか聞こえなかった。ぱきぱきという音とともに伸びる枝。茂る蕾。禍々しく、死の臭気に満ちあふれた鼓動を鳴らしながら、千年以上の封印を消し去り、妖怪桜は咲こうとしていた。

「とにかく退避を。それと、先程決めたとおりに亡霊たちを結界内に誘導してくださいませ。あれには決して近づかず、一度取り込まれた者にはけして手を差し伸べないように」
(よくも、よくも、よくも)

妖夢は呟きながら立ちすくんでいたが、その手が後ろから引かれた。なぜか映姫だと分かった。妖夢はそれでも佇んでいた。

「妖夢」

映姫は叱るように言って、腕を強く引いた。妖夢は、一旦は大人しく従い、映姫の隣に並んだ。

「妖夢。幽々子は消えたのね」
「……」

妖夢はうなずくだけで答えた。

(よくも)


白玉楼上空。

一見、何もない空。
しかし、紫には見えていた。ぎゅうぎゅうと幽冥の結界の前に詰めかける、満席の亡霊、有象、はたは悪霊たちの姿が。
水は高いところから低いところへ流れる。
いくら幻想の郷と名しても、生きている者達と死んだ者達の世界の高低差は、誤魔化せない。

「卑しさ、矮小さ、成仏にすがる愚かさ。あなた達がどんなに望んでも、あなた達がこちらへ来ることは許されないのです」

紫は言いながら、みし、みし、と音を立てる結界に向け、不意にばっと両腕を掲げ、不可思議な呪言とともに、次々と印を切った。
紫の指の動きに合わせて、ぽっぽっ、ぽっ! ぽっ! と、次々に灯りが点り、まるで蜘蛛の巣か、あや取りの糸のように複雑で面妖かつ高速でほとばしる炎がそのあとを追い、やがて、バン!! という紫が両手を打ちつける音にあわせて、モギュ……!! と、形容しがたい音、いや、悲鳴がした。バツン!! と、結界に殺到していたあらゆる霊達、魑魅魍魎の類が、新たに生じた壁に消し飛ばされ、散り散りになっていく。
新たな壁ができたのはほんの一瞬だった。紫は、ふ、と小さく息をつくと、ふとぼろぼろに折れ曲がりひしゃげた自分の指を見下ろし、さささ、と無言で手をぶらつかせて、たちどころにそれを治した。
それから扇子と日傘をどこからともなく持ちだすと、まだ未練がましく押し寄せる悪霊どもを余裕のある目つきで見やりながら、スキマにでんと座ってそれを眺めた。


一方その下。

「おおぉっ!! さすが紫様! なんと美しき力の波よ!! それでこそ我が主!」
「ちょいと狐のお姉さんたら! ひたってないで手ェ貸してよ! こっちゃいっぱいいっぱいなんだから!」
「フシャーッ!! こっち来るんじゃないわよ!!」
「ひぇー! おぞましい! 鳥肌が立つわ!」

うぞうぞと混乱してうごめく亡霊の群れに揉まれ、狐頭と猫耳頭二匹と、片腕を物騒な棒にした長い黒髪の少女が右往左往していた。
その有様を眺めながらふと小町は気づいた顔になった。

「あれ!? 映姫様は!?」
「死神のお姉さん! こいつらどうすりゃいいんだい!」
「さてはこの大事なときにサボりかね? あれ? 妖夢もいないよ。っかしいな、ああ! すまないね。向こう向こう。屋敷が見えるだろ。そっちに結界が張ってあるから一列に並ばせて。あたいはちょっと離れるからよろしく!」


「ヤマ様、手を放してください」
「それはできません」
「何故」
「今のあなたには手を引く者が必要だからです」
「では、もういいです」

妖夢は言うと、――そのとき映姫は振り向きかけ、飛び上がって視界に消える自分の肩から先と、それを放り捨ててすたすたと西行妖に向かって、あるいは、その方へと向かってゆっくり歩きだす妖夢の背中を一瞬遅れて見て――とっさに血が湯水のように吹きだす右腕の付け根を押さえた。

「ヤマ様、あなたはひどいお人です。だって何も信じていないのですから」

妖夢は、言いながらも、先程自分が斬った映姫の様子など、こそとも気にすることなく、西行妖の方へ向かって、白玉楼を進んでいく。

(鬼気……)
「おいっ何してんだい! あっ映姫――四季様!?」

後ろから間の抜けた部下の声を聞きつつ、いけない、と危機感を感じながらも、迂闊にも、映姫はぐらりとよろめき、舌打ちしつつ、肩ひざをついた。

(馬鹿)

案の定、あわてた部下が「ちょっと……大丈夫で――あっ! ちょっと、あんた! そっちに行くな! 四季様、ちょっと待って――」

「待ちなさい、小町!」

映姫は言いつつも、ちょっと考えてハッとしつつ、

「いや、ちょっと待って、コレもしかして私の手を労せずして無駄な部下を削除できるチャンスじゃ――小町、ゴー」
「うわぁ」
「まぁ今のは聞き流しなさい。それより妖夢を追ってはいけません。それよかさっさとこの西行妖の影響下から離れるのです」
「しかし――」
「いいから。ほら、ちょっと肩を貸して下さい」

映姫は無理やり部下を引き寄せて、肩に寄りかかると、自分の片袖を口で器用に裂いて、ぐるぐると乱暴に出血を処理した。

「よし」
「大丈夫で?」
「閻魔がこの程度でどうこうなることはありませんよ。いいから、向こうへ。ここにいると私達もあの妖怪の毒に充てられてしまう。……あの子のことは放っておきなさい。おそらくは――」
(閻魔様、あなたはひどいお人です。だって何も信じていないのですから。私に幽々子様や、西行妖を斬れと言っておきながら、その実、そんなことはできないと思っている。でも、今の私にはあなたを斬ることも紫様を、幽々子様を斬ることもできる。だから、そこで指を咥えて見ていてください)
「あらあら、大丈夫ですか?」
(あなたにはたしかにそれが出来る。出来るのですよ、妖夢。ただし、人ではなくなる)

心の中に響いた声に答えつつ、声のしたほうを見ると、紫が立っていた。

「ちょっと、あなた下りてきて大丈夫なの? 余裕ぶっこいてたけど、実はいっぱいいっぱいだったんでしょう」
「あらあら。よくお分かりで」

紫はぱたぱたと扇子を仰いで、しかし呑気に言った。

「向こうに手を回して、異変として取り扱うよう計らいましたから大丈夫ですよ。あとは暇な里の住人達が勝手に寄ってきてどうこうしてくれるでしょう。私達は結界を維持しながら――」

紫は途中で言葉を止めて、「おや、妖夢は?」と眉をひそめた。

「奥に行きました」

映姫はそれだけ答えると、よたよたと、部下に肩を担がれて、歩きだした。


桜。

美しい。
妖夢はそう感じ、そしてそれ以外を感じなかった。美しい、美しい、美しい、美しい。長きに渡る封印を解き、今美しい妖桜は、まるで全身で愛撫を求める豊満にして清楚な女体のようにうねり、その滑らかにして、初な乙女のような、繊細な表皮を、まるでその脈拍を、目に見えて浮き立たせるかのように昂り、喘ぎ、死という死に四方から蹂躙されることを妖艶かつ退廃的なだらしのなさで、愉しんでいる。

(愉しんでいる?)

妖夢は長い髪をかきあげる風に身を任せ、嘲弄した。
愉しむ?

(愉しむ? 愉しむだと?)

笑いながら、妖夢は心の中で反芻した。愉しむだと?

(貴様にそんなことが許されると思っているのか、妖怪)

妖夢は薄く唇を動かし、不敵な笑みを作った。目を閉じたまま、あの方なら何と言うだろうか、とふと思う。

(あの方なら、許す。あの閻魔様なら、貴方を許す。幽々子様も、巫女も、魔法使いも、メイドも、あなたを許す)

今はもう名前も忘れかけた顔達を思い起こしながら言う。そこには、何もない。

(何もない)

死者は何も語らない。この佇む妖怪桜のように、ただ沈黙してそこにある。人の心の中に。

(貴方は誰の心の中にもいた。貴方は死、そのものだからだ)

だが、
だが。

(私は? そう、私は許さない)

言いつつ、妖夢は二刀を抜き、構える手も見せず歩み寄った。
その身体をめがけて、目の前をおおった桜の花が盛り上がる。
妖夢は笑ってこれを振り払った。花が散る。その下から伸びてきた枝が、妖夢の肢体をめがけて伸びたと思うと、たちまちその身体を、繭のように飲み込んでいく。
しかし、妖夢は騒がなかった。

「今の私に」

言葉が、次々と覆い来る枝の波に潰される。消えた、と思ったその時には、妖夢の身体は、枝の塊そのものと化し、その口元が枝と枝の間に見えた。

「切れぬ(斬れぬ)ものなど」

声だけがはっきり聞こえた。

「紙の一重もない――」

言うや。
視界が開け、妖夢の身体をおおっていた枝は元より、その周囲、前方、数歩に渡ってズンバラに斬られた枝が、細い木屑となって落下した。キン、と鍔を鳴らして、妖夢はさらに疾い速度で今度は、波のようにのしかかってくる枝の束を、その姿を空に投げると同時すれ違いにズンバラにし、その奥からわきあがってくる亡者どもの手を断ち、まるで紙のようにバラバラと斬り裂くと、勢いに任せてすさまじい速度を上げながら、飛んだ。耳元で、それにギリギリ追いつかない枝がひゅお、とやもしれない風切り音を立てるのをついでに斬り捨て、目の前の舞い狂う花びらを次々と、と言う間もなく真っ二つにし、襲い来る枝の増殖が追い付かないほどに、速度を増して切り結ぶ。

(やめて――)
「――」

妖夢は脳内に直接割り込むような声を聞きながら、目の前に現れた影を見て、ふ、と唇を歪ませた。
自分よりも、今は背の低くなった人影。幽々子。その名を口にすると同時に、なんの躊躇いもなく、妖夢は手首を切り返して一閃した。


「やめて!! 妖忌!!」


『やめて!!』

心の中に痛みが走るのを無視して、妖夢は一条の閃光となり、憎き妖怪桜の根元へと走った。その視界を塞ぐものはまるでその風に後れをとったかのように、かすかに揺れ動き、やがて間をおかずに十重二重と切り刻まれ、それが西行妖の根元まで達した瞬間に、妖夢は

「言ったはずだ、今の私に」

動きを、

「斬れないものなどない」

止めた。

ピシ。

西行妖の、太い幹に、音を立てて一条の閃光が走った。
それが、ズレる。
あっさりと。
横倒しに。
その巨体を揺るがせて。

(やめて――)

妖夢は、自分の意思ではない言葉を聞いて、ふと、それが幻ではない、と、なぜかそう思った。

(幽々子、さ、ま?)

ズ、
ズ、

「未来」

妖夢はぽつりと呟いた。
ズ、ズン、ン……。

「永劫、斬」

妖夢はそう呟き、倒れた。

ひらり、と一片、花びらがその上を飛んだ。


間。


青空。

深く晴れた空。
冥界が平穏を取り戻した証拠だった。

(……呆れたわね)
「呆れたわね」

映姫は、思ったことをそのまま呟いた。先ほどから膝を枕に寝ている妖夢の髪が、さらりと素肌を撫でる。
風が出てきた。そう思いながら、向かいに座り、これも幽々子に膝を貸して寝かしている紫の姿と、その脇に立つ、何とも言えない表情の部下の顔を見る。気づいていないのだか、赤い髪に、数枚の桜の花びらがくっついている。

「彼女たちの生態は、長らく不明だったけれど、それは未知数ということでもあったのね。本当にあの妖木を調伏してしまうとは」

述べつつ、妖夢の髪を撫でて、映姫は吐息をもらした。

「それで? この姿は、一体?」

問うと、紫はこちらを見ずに、ぼんやりとした様子で答えてきた。

「彼女はまだ未成長だったのでしょう。あの桜を斬り倒すには、まだ器として不十分だったのです。そのため、自分の中の霊的要素の一部を削って、無茶を押しとおす力に変えた。そのため、器が中身に合わせて、縮んだのですよ。……これは、また、彼女がもはや完全な「ここ」の住人になり、向こう側へは渡れなくなったことも意味していますが」

紫が語るのを聞きながら、映姫は、昔のまま、そう、恐らくは彼女がもっとも精神的に充実していた(本人に、恐らく自覚はない)時間に戻った彼女、妖夢の幼い横顔にかかった髪を指先で払った。
ため息が出る。

「それで、そちらはどういうことで?」
「さぁ」
「分からないの?」
「幽々子が、いえ、そう、この「西行寺幽々子」であった魂がここにあり、結界も自力で回復したのであれば、機構が正常に保たれているということだと思いますが。即ち、西行妖が死んでいない、ということですね。まぁ、その方が都合が良かったのですけれどね」

語る紫を見つつ、その目をちらりとのぞきこむようにしつつ、映姫は、やがて、あきらめたような仕草で目を伏せた。妖夢の顔が視界に映る。

「そう、あなたはそれでも幽々子の友人でいるつもりなのね」
「ええ。それが友達というものでしょう?」
「そうですね」

吐き気がする、と言いかけるのを飲み込んで、やがて、映姫は、膝の上に乗せていた安らかな妖夢の寝顔を静かに地面に下ろさせ、その身じろぐのを見ながら、その場から消えた。


桜。

階段。
祖父。

「おじぃ……、ちゃ、ん……?」

祖父の影が、どこかから射す日に、階段を垂れていた。その目がよく見えずに、妖夢は意識を身じろがせ、そこで目が覚めた。
空。
自分が目を覚ましていることに気づくのに、ほんのちょっと間があった。妖夢は重い頭を働かせ、やがて事態を少しづつ把握していくのを感じつつ、それから、自分の身体に染みついたどうしようもない違和感に気づき、身体を見下ろし、えっ、として、ぺたぺたと触った。

(な……。え……?)
「……ぅ、……」

自分の身体が縮んでいることに驚きを覚える間もなく、「えっ」と、妖夢は、小さく声のしたほうを見て、一瞬跳びあがるかのような驚きを覚えた。

(え!?)

そこに横たわっているのが幽々子だと、最初信じられないかに思われたが、妖夢は驚くほど早く幽々子に駆け寄って、その身体に、まるですがりつくような勢いで肩を抱きあげようとしたが、すぐに気づいて、そっと壊れものに触るように、静かに触れた。
血色のいい唇、いつものように赤みのさした白い肌。

(そんな……。でも……)
「……。……」

ぼんやりしている間も、幽々子は呼吸こそしていたが、目を覚ますことはなかった。そんな。

(でも、そんな……)

妖夢は、どうするべきか決めかねて、今は切り倒されて、(確かに自分が、斬った、という記憶はあったが、まるで実感は無かった)無残な様をさらしている、枯れた老木を見やった。そう、最期に聞こえた断末魔の叫び。幾千もの男と女と老人と子供がいっせいに泣き叫んだかのような叫び。
いつまでも耳に残り、そして、意識が思いだすことを拒んでいた。

(……。……あれは……)

幽々子と、祖父の声も、今は遠い昔となった人たちの声も。映姫や紫の声も。

「ぅ……ぁ……ん……」

はっとして、妖夢は、幽々子の顔を見た。
長いまつ毛が震え、閉じていた目がうっすらと開き、そして、妖夢を見た。

「……幽々子様」

妖夢は、上ずりそうになる声を抑えて言った。しかし。

「……。……。……あなた、は?」

次の瞬間、なにかが自分の中にキィッと、音にならない音を立てて、消えにくい傷をつけるのを、確かに感じた。足もとがふっと消える、その感じ、と言ってもいい。

(……。……。……なぜ?)
「ねぇ、……、えっ……と? 何……だったかしら、」

幽々子は今だ、ぼんやりしつつも、はっと、突如、急にはっきりした瞳で、妖夢を見、それから、辺りを見回した。

「幽々……、」
「……何? これ、あなたは……え? ……そんな……」

口を開きかけた妖夢を遮るように、幽々子は起き上がろうとして、ふとよろめきかけるところを、妖夢に(今の状態では、妖夢の身体で受け止めるのが精一杯という感じだったが)支えられ、そしてまた、呆然としつつ、同じように、驚きを隠せない様子の妖夢に構わず、頭を抱えて、黙りこんだ。

「……なにも、……何も、思いだせない……? 私、私は……?」
「幽々子様……?」
「ユユ、……何?」

幽々子は鈍い反応を返し、妖夢を見た。そして、怯えるかのように、妖夢の肩をつかむ。強いが、か弱い力だ、と、妖夢は思った。

「何? あなたは私を知っているの?」
(震えている)

妖夢は思いつつ、ゆっくりと視界を巡らせた。ふと、西行妖が目に入る。そして、その下の根元に生えた――、

「!!」

妖夢は幽々子の手を振りほどき、「あっ」と幽々子がよろめくのも構わずに、走り、西行妖に駆け寄った。その根元に生えた、若木を目がけて。

『止めなさい、妖夢』

どこからかそう聞こえた。妖夢はそれで初めて、自分が若木を踏みにじりに行こうとしているのに気がついたが、それに構わず足を進めようとして、今度は身体が動かないのに気がついた。
だが、うろたえなかった。

「やめてください、紫様。映姫様。私がすることが理に外れているというのですか」

姿の見えない二人の女傑に向かって話しかける。声は頭の中に直接入ってきた。

『無論ですとも。こちらにいらっしゃるヤマ様の有難いご意思によるものです』
『八雲紫。少し黙っていなさい』
「お二人の痴話喧嘩に付き合う暇は御座いません。縛りを解いて下さい」
『なりません、妖夢』
「あれを踏みにじり、この世から絶やしてやることが、どう理に外れるというのですか!」

たまらず妖夢は叫ぶが、頭の向こう側で話す映姫は、それを少しも気に留めなかった。

『あなたが今その足で踏みにじろうとしているのは生まれたばかりの何も知らない小さな芽です。罪なき命を無碍に踏みにじろうと言うのなら――』
「罪なき命ですって!! この妖怪桜が存在していること自体が罪ではないですか、こいつがここにあることを、誰が望んでいるというのですか!!」

妖夢は言いながら、かぶりを振って見上げようとしたが、魂の縛りはきつく、それすらも許さない。しかたなくそのまま叫ぶ。

「紫様!! あなたは幽々子様のご友人でしょう、だのにこいつを見逃せっていうの!? 私がいくら頭の働かない女だからって、あなた方のやりたいことくらい、今になればわかります!! 絶対に許せない!! 台無しにしてやる!!」
『妖夢。落ちつきなさい、今の身の程をわきまえない説教については聞き逃しましょう。ですが、私達が望んでいるのは、あなたの言うようなことではないと言っておきます。そう、それが私の意見。先に述べたことが閻魔としての裁断。私の言葉がどれだけ正しいのか、あなたには分かりますね、妖夢』
「そこまでして結界を維持し、安定にすがりつくのですか!! どこまで幽々子様の魂を、御霊をもてあそぶつもりか!!」
『あら、それは結果に過ぎませんわよ、妖夢。閻魔様はただ裁定を下すのみ、あなたが罪なき命を踏みにじろうとするからいけないのよ。ねえ、ヤマ様?』
『左様』

妖夢はぎり、と歯を噛んで、さらに怒鳴り立てようとしたが、今度はその反駁さえ力でねじ伏せられた。

『もういい加減にしなさいな、あなたは今、その場に残った西行妖の念に囚われて、興奮しているのよ。落ち着いて、冷静に、いつも通りに考えれば、どうするべきか分かるはず』
『妖夢。そこにいる幽々子は、すでに西行寺幽々子としての魂の核を持たぬ、名もなき亡霊です。もはや、自分が囚われている理由すらも忘れてなお縛られつづける哀れな想念の塊です。その魂にはもはや行き場もない、何故自分自身がその姿をとっているかすら思い出せず、今度こそ永劫の時間をさまよい続けるでしょう。どうかそばについて見守っておやりなさい。それが西行妖を斬り倒したあなたの背負う罪であり、業とします。なに、救いは無いわけでもない。この冥界が仏教のかどを放たれ、神話のへきに戻るとき、あなたもその幽々子の姿をしたあなたの主も消え失せ、ただのよりひもとなることでしょう。その日まで、待ちなさい。苦しみながら』
「紫様、あなたは、あなたは、それでいいのですか、あなたは……」
『宜しくね、妖夢』

紫の声がした。気配は去った。
きり、と妖夢は自分の歯が鳴る音を聞いた。しかし、憎しみはすでに去っていた。

「ねえ……! あなた、大丈夫!?」

ふと耳元で声がしているのに気づき、妖夢はぼんやりと目を向け、幽々子を見た。幽々子はいつの間にかこちらへ近づいてきていた。必死な顔で肩をゆすぶっている。

「ねぇ……」
(あぁ)

妖夢は思わず、その幽々子を斬ってしまいたい衝動に駆られたが、それは何の意味も無いことだと理解していた。
分かっている。
何故か分かっていた。そう、さっきの紫達との会話とも呼べない会話の後から、急に頭の中の霧が晴れ、色々なことが理解できるようになっていた。

(そうだ)

そして、ぼんやり思う。思うのは、幽々子のこと、そして、頭の隅に引っかかっている誰かの白い影だった。この冥界へと続く、白玉楼への長い階段にたたずむ、白い袴をはいた老年の男。
ただし、それが誰なのか、もう分からなかった。ふよふよと近寄ってくる半霊を見ながら、しかし、それはもうどうでもいいことだ、とも妖夢は思った。

(この方は、……何も知らない)

私が守ってあげないといけないのだ。
それはなぜか、まるで取り返しのつかない、危うい何かをはらんで妖夢の耳に届いたが、今はもうどうでもよかった。今は、もう。

(そうですね。そういうことなんですね。紫様。分かりました。あなたはそういうことを私に望んでいるのですね)

妖夢はほほ笑んだ。今までに笑ったことのない、そういう笑い方で。ええ、そうよ、と、頭の中で誰かが言った。それは紫の声にも聞こえた。

(幻想だ)

そう切り捨てて、やがて、妖夢は、目の前の幽々子の肩を抱き、その身体を抱きすくめた。幽々子の戸惑いが伝わった。繊細な童子のそれのようだった。

(守ってあげなくちゃ)
「……。失礼を致しました。ゆゆこ様。私、魂魄妖夢と申します。これからこの冥界で、あなたをお守りするものです」

桜の花びらがちらちらと落ちてきた。それは、誰に触れられることもなくはらりと割れて、どこかへ散った。闇。










コメント



1.名前が無い程度の能力削除
新作面白かったです。
独特な世界観と語り口いつも堪能させていただいてます。
ヤマ様かわいい。